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鹿兒島縣史 第四巻/序説

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序  説

 明治十年丁丑の役は啻に蓋國の一大事變であつたのみならず、本縣爾後の發達にとつて眞に至大の關係を有した。即ち或る意味に於て、本縣々政の第一歩は十年兵燹の灰燼の中より踏出されたのであつた。 而もその道程は艱難を極め、爾後數年の間、縣當局にとつては根本的施設方針の檢討、中央政府との調整、或は地租改正等未解決の諸問題の處理等、再起復舊の難事業が課せられたのであつた。一方百萬の縣民にとつては、荒廢した鹿兒島始め諸郷の復興、教育・産業・交通等の再建に對する不撓の努力が要請されたのである。 斯くて明治十六年七月に至るや、宮崎縣の分割再置により本縣は諸縣郡の南半を除く日向國大半を失ふことゝなつたが、こゝに現管轄地域は定つた。恰もこの後二三年にして、縣政漸く軌道に乗りて整備し、且つ全國的にも地方制度の確立に嚮ふの機運は熟した。 故に、こゝに明治一〇年以降同二十三年迄を以て更生鹿兒島縣の第一期となすのである。

 明治二十二年に於ける帝國憲法の渙發、二十三年の國會の開設は眞に曠古の盛儀で、之に依つて不磨の國典は明示せられ、不易の宏謨は確立せられたのである。同時に之が經畫に際しては、地方制度の確立が須要の前提條件であり、明治二十一年先づ市町村制成り、町村の大合併斷行せられ、次いで二十三年郡制、府縣制の公布を見た。 爾來地方自治制萬般の施設は逐次整備し、國運の伸張、民福の増進に寄與した所極めて大であつた。 更に日新・日露戦役に於ては、擧國一致國難に處してよく之を克服し、國威を海外に光被せしめて世界に比類なき國運の隆昌を齎した。 之と共に縣政の第一期を經て徐ろに縣治の基礎を確立し、時運の趨勢に處するの實力を涵養し來つた本縣では、爰に至つて一段の更張を見、産業・教育・土木・交通・衛生等庶般の施政は先進諸縣を凌駕するの充實を加へたのである。 加之、縣出身の海陸名将の偉功は克く維新の鴻業を繼承し、併せて郷黨の眞價を一世に宣傳せしめた時でもあつた。 この間市町村制は既に明治二十二年四月實施せられたが、その後多年にも渉り審議檢討せられた郡制は、二十九年四月其區劃を改め、従来の一市二十六郡を廢して、新たに薩摩國一市七郡、大隅國五郡、合せて一市十二郡とし、本縣現在の郡區劃ここに成り、就中日向國南諸縣郡を廢して大隅國囎唹郡に合したことに依り、縣の地域は薩隅兩國を以て成ることゝなつた。 斯くの如くして明治三十一年四月郡制を實施し、次いで同年九月より遂に縣制を實施し、爰に三大自治制全部の施行が結了した。日露戦争役後縣勢の伸展は愈揚つたが、殊にこの期に於ける産業經済上の發達は目覺しく、明治四十二年肥薩鐵道全通による交通上の劃期的飛躍と相俟つて、次代に對する縣政の雄飛は約束せられた。 數年ならずして明治四十五年七月、明治天皇神去り給うて、蒼生は哀悼慟哭の底に沈んだ、實に大帝こそは近代日本發展の象徴であらせられ、其盛德大業は古今に比稀なるものであらせられた。 本縣々政の第二期を明治二十三年以降明治の末年迄となす所以のものも亦こゝに存する。

 明治天皇崩御の後、大正天皇即位し給ふや、間もなく歐州大戦勃發して、我が國また其禍亂の中に活躍する所があつた。 而も戦後の世界的變動は我が國社會の萬般に渉り甚大なる影響を及した。 即ち一般縣治の上に於ても、自治制の極盛、殖産産業の躍進と共に、新なる社會問題、思想問題の發生につれて、縣政の様相亦一變せざるを得なかつた。 この状態は昭和の聖代に及び、社會各般の機構漸く進化し、地方自治の運營に於ても、世界的不況の試練を超えて一段の充實改善が要求せられたのである。既にして昭和六年滿洲事變を契機として、國運の進展は東亞新秩序の建設に向つて新なる段階を劃すべき時期に際會し、縣民の自覺はこの輝かしき國家的要請の下に振起しつゝあるのである。 明治五年初めて明治天皇の聖駕を奉迎した本縣に於ては、次いで神代三山陵御治定なり、又皇太子殿下の行啓を始め奉り、皇族宮諸殿下の御成屢次に及んだ。

 然るに今期に入るや、昭和二年及び六年に相次いで聖上陛下の行幸を辱くし、更に昭和十年三たび大纛を薩隅の天地に迎へ奉つた。之に依り縣民等しく聖恩に光被し、愈皇室の御稜威を仰ぐに至つたことは固より、更に彝訓を體揚して時運に處するの覺悟を新にし、縣政一新の聲は澎湃として上下に揚つたのである。即ち縣政第三期を大正元年に起して昭和十年に及び、大演習御統監並に地方行幸を紀念し奉る所以またこゝに存するのである。

(掲載写真省略、大元帥陛下<昭和十年一月十日隼人野外統監部ニ進マセ給ふ>)

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