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香の木所に就て

 
オープンアクセスNDLJP:179 
 
香の木所に就て
 
 我邦で香に関した著述は随分古くからあつて、香字抄又は香薬抄といふ書は続群書類従にも載つてゐる。尤もこれらの書には種々異本もあるが、私の見たのは香字抄は平家時代かと思はれる古写本(猪熊信男氏蔵)、香薬抄は私の所蔵する元和の奥書のある写本と、それに続群書類従本とであるが、この香薬抄は有名な醍醐の勝賢、成賢両僧正の奥書があつて、しかも勝賢の奥書には永万元年に写したと記してあるから、これ以前に出来たらしく、その書中には支那の宋初の開宝年間に重定した本草、ならびに大中祥符元年に出来た重修広韻なども引用してあるので、恐らく院政時代を上ることはなからうと思ふ。続類従本には惟宗俊通の撰としてあるやうである。俊通は白河天皇の承暦中高麗へ遣されようかといふ議のあつた名医である。ともかく香に関しては余程良い記録である。その頃の香に関する考へは、仏事あるひは衣類に焚きしめる必要などから出て来てゐるから、その種類も沈香とか白檀とかには限らないで、蘭その他の香草、麝香などのやうな動物性の種類をも含んでゐる。その時分にはまだ聞香即ち香道といふやうなことが起らなかつたので、――聞香の法が起つてからは、専ら南洋の香木に限つて、それを研究もし、又賞翫もするやうになつて来たが、――香字抄、香薬抄時代の香に関する智識は随分広汎で、漢籍仏書などにも渉つてゐるけれども、直接に香の産地のことに就て注意し、産地によつて香の種類を鑑別することなどは、まだ起つてゐなかつたと思ふ。

 聞香のことが行はれるやうになつたのは、何時の頃からであるか。徳川の中世に香に関する多くの著述をした大枝流芳の記すところでは、南北朝時代の佐々木道誉を以て元祖とするやうに云ひ、降つて東山将軍義政も之を好んだ。志野流の香道の祖宗信は足利将軍義澄時代の人といはれるが、この宗信の頃から香道が本式に定まつたらしいのである。志野宗信の筆記といふものに拠ると、その以前に既に支那へ渡つた僧侶によつて香を取寄せたことが書いてあるが、その頃香の産地について明確な智識を有つてゐたか否かはよく解らない。然るに、その後信長時代に建部隆勝といふ人の天正初年の筆記があつて、それに拠ると香の産地のことを明に記してある。即ち香の産地として、伽羅キヤラ新伽羅シンキヤラ羅国ラコク真那班マナバン真那賀マナカ、以上を名香の木所というてゐる。その後徳川の初期に米川常伯といふ人があり、その頃から六国の香といふことが云ひ出されて来た。それは今挙げた伽羅、羅国、真那班、真那賀の外にオープンアクセスNDLJP:180 佐尊羅サソラ寸門多羅スモタラを加へて六国としたのである。この時分から漸次香の産地に就て注意が向けられて来て、大体は右の六国からして各々特殊の香が産する者といふことに極めて居たらしい。しかしそれに就ては多少議論があつたらしく、大枝流芳の云ふところでは、米川氏以前は六国の香とは云はなかつた、さうして前に挙げた四国の他に赤栴檀シヤクセンダンがあることは見えてゐるけれども、六国といふことは頗る不確だ、実際その香を聞いて見るに佐尊羅と寸門多羅とは一種の香である、六種共に別箇の香ならば六国と称しても可いけれども、六国の内に同じ木が出た処があるといふことでは、六国の名によつて確には弁じがたいとある。

 それに就て、この六国の地名が果して何ういふ地方であるかといふことまで大枝氏は考へたが、同氏の著香道千代の秋といふ書には、

羅国ラコク満剌加マナカ〈[#ルビの「ナ」は底本ママ]〉蘇門答剌スモタラ伽羅キヤラの四国はもろこしの書に侍る。さそら、まなばんの二国いまだ考ず。万国図中にある仙労冷祖をさそらとし、馬拿莫大巴をまなばんと梵語にては通ずるよし云ども、未だたしかなる書におひて考ず。追て考しるすべし。云々

とある。この書は享保十七年に書かれたものらしいが、更に享保十九年の著述香道奥のしをりには、また

新伽羅は後に渡りし伽羅なるべし。別に新伽羅と云ものありといふ説は大に悪しゝ。伽羅、羅斛ラコク満剌加マナカ〈[#ルビの「ナ」は底本ママ]〉真蛮マナバンはともに南方海外の国の名也。後世蘇門答剌スモタラ差咀羅サソラの二種の香をまして六国と名付、その余又太泥ダニといふ香あり。むかしは六国の名目なき事千代の秋に考のせり。もろこしの書に出る考証は増補の香志にのせ侍る。千代の秋にも載る如く、仙労冷祖をサソラなりといふ人あれども誤なるべし。長崎西川氏の書(華夷通商考を云)にも蘇門答剌国を仙労冷祖島と云とあれば、スモダラと同国なり。サソラは南蛮の中迦摩縷波国の南方、室利差咀羅国あり。是やサソラなるべし。太泥も国の名なるべく、六国と云名目は当流にはなし。木所と云なり。木所を聞わくる事、香道の専要なり。云々

 この大枝氏は斯ういふ風に香の産地について種々研究的に考へるやうになつて来たのであるが、その云ふところには多少の誤がある。それは先づ第一に伽羅を国名のやうにいふのは謬であつて、伽羅は全く香木の名である。大枝氏は、その著述の附録として香志を出版してゐる。同書は漢学の造詣ある人に依頼して書いてもらつたものらしく、巌信といふ編者の名まで記してあるが、この香志は享保頃の人の著述としては、よく支那の諸書を渉猟したものであつて、その引用した書目を一覧するに、香木のことに関してだけでも、明の倪朱謨の本オープンアクセスNDLJP:181 艸彙言、田芸衛の留青日札、陳継儒の偃曝談余、費信の星槎勝覧、馬歓の瀛涯勝覧、屠隆の考槃余事、陳懋仁の泉南雑志、黄衷の海語、方以智の通雅及び物理小識、張変の東西洋考、李時珍の本艸綱目、黄一正の事物紺珠、それから更に溯つて、唐の馮贄の南部煙花記、宋の洪芻の香譜等にも及んでゐる。殊に明代に南洋地方を実際に見聞した正確な記事の書、たとへば星槎勝覧、瀛涯勝覧、海語等に注意した点に於ては、支那で香に関する著述中最も有名である明の周嘉冑の香乗や、清の王訴の青煙録などに比べても、寧ろ勝つてゐると思はれるが、それにかゝはらず大枝氏の香の智識には充分に香志の記事を咀嚼し得なかつた点もあるやうに考へられる。香志には伽羅は即ち棋楠香又は加藍香又は奇楠香と同じことであるとして、畢竟香木の名に漢字の宛て方が異なるだけのものであるのに、これを国名と考へたのは大なる謬りである。また西川求林斎の説に従つて蘇門答剌を仙労冷祖と考へたり、又はサソラを室利差咀羅国とし、マナバンを馬拿莫大巴としたのは皆誤である。

 大体この香の木所の地名の中で明かに知れてゐるものは羅斛、満剌加の二つである。羅斛は今日の暹羅国の一部分であつて、支那の元代に出来た島夷志略には羅斛を載せて、その記事の中に「此地産羅解香、香味極清遠、亜於沈香」とある。藤田剣峰博士の島夷志略校注に依れば、ゲリニー氏并にヒルト氏ロツクヒル氏等は、この地を今の湄南メナン河流域のロフリの地だとして、それが西暦一三四九年に暹国と合併して暹羅国となつたのだと云つてゐる。満剌加は今のマラツカの港のあるところで、これは説明を要しないが、蘇門答剌も現今のスマトラの島である。伽羅の産地は安南地方の占城を主としてゐることは既に香志にも見えてゐる通りである。それから六国の中ではないけれども大枝氏は太泥のことも云つてゐるが、これもゲリニー氏に依れば北スマトラのバタニ河の海口にある地方を指すのであることは明に解つてゐる。たゞ大枝氏も明瞭にはわからず、今日猶は疑問とすべきは差咀羅、真那班の両地である。差咀羅については仙労冷祖が即ちその地だとしてあるが、この仙労冷祖といふのは利瑪竇(マテオ、リツチ)の万国図に拠れば今日のマタガスカル島であつて、艾儒略(ジユリウス・アレニ)の職方外紀には聖老楊佐セントローレンゾと記してあるのである。勿論サソラとは別の地であるらしいが、西川求林斎がスモタラを仙労冷祖と云つたのも亦誤である。大枝氏は差咀羅を迦摩縷波国の南方室利差咀羅であらうと云つたが、この地名は玄弉三蔵の西域記にあるので、カンニンガム氏に依れば、これはガンジス河の流域地方にある国らしいけれども、真の名は室利差羅(Sri-kshatra or Srikshetra)であつて室利差羅ではない。

オープンアクセスNDLJP:182  余はそれらについて考へてみたのであるが、印度のデカン州のプーナ地方にサスバル(Sas- var)サスバード(Sasvad)サツサル(Sassar)サツソール(Sassoor)などゝ云はれてゐる土地があつて、ビマ河の盆地であるといふことが、ビヾアン・ド・サンマルタンの世界新地名辞書 に出てゐる。この地はボンベイに近い印度西部にあるらしいので、或ひはそれかとも考へられる。しかし又一方から考へると南洋地方で香木の産地として最も有名である栴檀の島、即ちサンダルウツド、アイランドと称せられる地方のことが、この木所の中に記されてゐないのは不思議に思はれる。この栴檀の島は今日では香木を久しい間濫伐した結果、海岸には殆ど樹木がなくなつて、その地名にも当らない状態にあると、同じ地名辞書に出て居るけれども、三四百年前までは豊富な香木の産地であつたのである。それで、サソラは或は同島のことではないかと思はれるけれども、サソラに似た地名としては、その島の西北に突出してゐる岬角がサツサ(Sassa)と呼ばれるだけで、他に確にそれらしい地名が見えないから何とも確定しがたいのである。兎も角この二つの土地はサソラとして考へ得られるものである。

 今一つの未解決の地名である真那班については、これも或はそれかと考へられる土地が二つある。一つは印度のマラバールであつて、ブワレの歴史地理辞書によればマラバールは土語ではマラヤバとも云ひ、葡萄牙のヴアスコ・ダ・ガマが世界一周の航海をした時、最初に征服した印度の地方が即ちその地である。此処は昔から胡椒を産する国といふ意味でマレといふ言葉が出来たのであるが、ともかく紀元六世紀の頃から希臘人の著述にも知られて居る。或は又中世に専ら東西洋の交通に従つた阿拉比亜人の言語からマラバルといふ言葉が発生してゐるとも云はれ、阿拉比亜人のイブン、バツータの地理書にもムレーバル(Mouleibar)いふ名で記され、又マルコ・ポロの紀行にもメリバルと書かれてゐる土地であるから、多分この地が真那班であらうと思はれる。然しまた一方から考へると、スマトラの島中に旧港といふところがあつて、その本名はパレムバン(Palembang)と呼ぶことは島夷志略や瀛涯勝覧(この書には浡淋邦とあり、即ち諸蕃志の巴林馮である)その他の古い地誌にも見えてゐるのであるから、或はそれではないかとも考へられる。大枝氏が馬拿莫大巴を真那班と云たゞらうといふ説を挙げたのは甚だ不確なことであつて、モノンタバといふのは前の利瑪竇の万国図并に職方外紀などによると、阿弗利加の南部地方であるが、香木の産地だといふことも聞えてゐない処である。

オープンアクセスNDLJP:183  さてこれらの地方が香木を産したことは、前にのべた羅斛の外に、星槎勝覧の占城の条に

棋楠香在一山所産。曽長差人禁民不得採取。犯者断其手

とあり、島夷志略にも占城の産物に茄藍木あり、瀛涯勝覧には伽南香とある。星槎勝覧の暹羅の条には、島夷志略の羅斛香の文をそのまゝ引いて居る。満剌加には瀛涯勝覧に

厥産黄連香、烏木、打魔香。此香乃樹脂堕地成。遇火即然。国人以当灯及塗舟。水不入。云々

といひ、星槎勝覧には満剌加の条に香の記事はないが、其の接境の九洲山に沈香、黄熟香を産すとあり、明の

永楽七年正使大監鄭和等差官兵入山採香。得径有八九尺。長八九丈者六株。香味清遠。黒花細紋。山人張目吐舌。言我天朝之兵威如神。

とあり。満剌加は海口なれば其附近の産物を輸出したものであらう。マラバル地方では星槎勝覧に古里国の事を載せて居る。イブン、バツータの書にもマラバルの要口は加里屈であるといつて居ることを、藤田博士は島夷志略の下里、即ち明代の古里の条に注して居る。

其有珊瑚、珍珠、乳香、木香、金箔之類。皆由別国而来。

と星槎勝覧にかいてあるから、此地は貿易港として香木の輸出をもしたのであらう。又パレンバン即ち旧港、又は三仏斉に就ては、島夷志略には

地産黄熟香、金顔香。

といひ、藤田博士は諸蕃志を引て、

金顔香正出真臘。大食次之。所謂三仏斉有此香者。特自大食販運至三仏斉。而商人又自三仏斉転販入中国耳。瀛涯勝覧作金銀香

といひ、金顔、金銀はともにカマヤン又はカマナンといふスマトラ、ボルネオ地方の産物の対音であるといつて居る。瀛涯勝覧には又黄連、降真、沈水香をも産すると書いてあり、星槎勝覧にはその外に黄熟香、速香を産すると書いてある。蘇門答剌は島夷志略に須文答剌と書いて、降真香を産することをいつて居る。

 又西川求林斎の華夷通商考には、奇楠キヤラ沈香等を交阯カウチ占城チヤンパの土産として挙げ、奇楠には注して

深山ニテ、枯木自然ニ朽テ、洪水ニ流レテ谷水ノ辺ニアルヲ山民拾ヒ取ル者ヲ上好トス。其余ハ生木ヲ伐テ、土中ニ埋ンテ数年ヲ経テ取テ朽腐ノ所ヲ去テ心ヲ用ユ。木ノ葉ハ日本オープンアクセスNDLJP:184 ノネスミモチト云木ニ似タリトゾ。

といひ、沈香には

奇楠ニ同キ木ナリ。

と注して居る。暹羅の土産には白檀を挙げ、ソモンダラ〈蘇門塔剌、或はスマダラ、サマダラ〉の土産には沈香を挙げ、母羅伽〈満剌加とも或は麻六甲とも云〉マルバアルは国名を挙げて居るが、其土産に香の事が載つて居ない。尤も西川氏の書は宝永年間の著であるから、此頃長崎では已に海外の地名物産に就て、前よりはその智識が精確になつた為に、反つて前の如く四国又は六国で概括した南洋智識はあてはまりにくゝなつたのかも知れない。

 以上の如く香の産地については大体今日では推定は出来るが、香道を起した人達が果して何時頃からこの産地の地名を知つたかといふことが、今日吾々にとつて興味ある問題である。大枝氏は六国といふことは米川氏以後のことであると云つてゐるが、果してさうだとして、蘇門答剌、サソラは南蛮船の盛に往来した織豊時代から徳川の初期までに初めて聞き知つた地名であるとしても、それ以前からある羅斛や真那賀、真那班などの地名は建部隆勝が天正元年の筆記に既に見えてゐるのであるから、少くともそれより数十年前から知れてゐたものに相違ない。何故ならば、その三国から出る香木及び伽羅の四種については、既に香道の人々は充分な経験を持ち、それを基礎として種々な名称で現れて来る香の原料を聞き別るまで進歩してゐたのであるから、決して一朝一夕の経験ではないことが知られる。殊に面白いのは昔から伝来の香の名目は、今日から考へると極めて難解のものであつて、例へば法隆寺に伝来したからと云ふので太子といふ名をつけるとか、有名な東大寺の黄熟香を蘭奢待と名づけ、その文字の中に東大寺の三字を隠したり、また九州の法華寺から大内氏がたづね出したといふので法華といふ名がついたりしてゐるやうな風で、その来歴を聞かなければ、如何なる種類の香木かといふことは殆ど弁別することが出来ない。しかも逍遥院三条実隆の伝来といふ御家の香といふものが六十余種もあり、佐々木道誉が所持した香が百七十七種もあつて、非常に繁雑を極めたものであるが、それらの香を皆聞き別けて、前に述べた伽羅、羅国、真那賀、真那班の四種に分類することまで経験を有つてゐた。このことは建部氏の筆記に詳しく書いてゐるが、建部氏の頃は勿論南蛮人が頻繁に渡来した時でもあるけれども、それより以前二百年前から伝来の香を、その産地の地名で分類するといふことは、その時代に新に来た香によつて、逆に伝来の香を鑑別したとばかりは考へられない。或は足利時代に於オープンアクセスNDLJP:185 ける直接の交通は、足利将軍を始め大内、天龍寺などの船、その他倭寇などの密貿易等の結果から齎し来たとしても、間接にはそれらの渡航者が南洋地方の香木の産地の名を聞き知つて之を伝へたのが、香道の人々に正確な智識を与へた基礎になつたかも知れないと思ふ。それで支那では元・明の交代の頃即ち我が南北朝時代、香道に於ては佐々木道誉の頃からして、支那で島夷志略などの著述によつて得た智識を、既に間接に我国に於て之を得てゐたかも知れない。

 かやうに考へると我国に於て、南洋に関する智識を最も早く輸入したのが、即ち香道の関係からであるといふことになり、かゝる産物の関係を以て遠方の外国を知るといふことは古来東西共に別に珍らしいことでなく、例へば絹の産地として古代希臘人は夙く支那を知り、印度も亦支那の蜀の地方との間に早くから貿易を行つてゐたもので、漢の武帝が張騫を中央亜細亜に遣はした際、同地に於て蜀の産物が印度に行つてゐることを知つた例もある。況や我邦のやうに間接にしても海路の交通が夙くから開けてゐる国は、香木の如き貿易品から遠方の国を知ることはあり得べきことで、また最も興味あることゝ云はねばならぬ。それで前にも述べたやうに、香字抄に現れた時代の香料は、正倉院の黄熟香、全浅香、その他南洋の産物とは解つてゐたが、重にそれらは仏教に関する交通から伝来したので、産地鑑別の詮索もなかつた処が、更に第二の時代として聞香の行はれる頃になつては、宗教的でなく、文化生活の上から香木によつて海外の地名を知つたといふことは、そこに時代の変化も現れ、また我国民の文化生活の材料に関する欲求も表はれてゐて、殊に面白いと思ふのである。

〈附記 余が右の小篇を起草しつゝある際、偶々大阪商船会社の高橋悌之助君の来訪ありたれば、同君が余の航欧旅行に際し、新嘉坡に在りて、余の為に沈香の購求に助力せられたる関係上、この小篇の企図を語りたるに、同君も大に興味を感ぜられ、数日の後余に左の手簡を寄せられたり。因て附記して以て参考に供ふることゝせり。 〉

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拝復昨今低気圧相亜いて現はれ誠に欝陶敷御座候。

 偖而例のサソラの件に関し、乍延引左に愚見(文字通りの)申述候条、若し幾分にても御参考ともならば幸甚に御座侯。小生の考にては、サソラセシユル群島(Seychelles islands)より転訛したるものと存候。然らばサソラは果してセシユルより転訛したるものと断定を下しオープンアクセスNDLJP:186 得るや、其点新村博士等の御研究に譲るも、小生職業上の智識より按ずるに

 十五、六、七世紀の頃の支那人がアラビヤ人の航海者を水先案内として南洋を経て蘭貢古倫母を訪れ、ソマリ沿岸Magadoxo一帯より更に南下してZangibar. Mombasa モサンビク 等東阿沿海に到りし驚くべき事績は先日御教示に預りたる所なるが、今日東阿一帯に住居する商人は白人以外にはアラビア系の回教徒と孟買回教徒の子孫(例へばザンジバルサルタンの如き)にして、彼等は経済的には勿論、政治的にも相当勢力を有し、彼等の祖先はアラビア人の方は紅海を横断してソマリ沿岸に出で、南下してケニヤウガンダ地方に植民せしものにして、孟買地方の商人はマルデープ群島よりミニユイソコトラ而てセシユルを経て東阿沿岸に赴きたるものと解すべく、古くより印度東阿間はセシユル群島を経由するRoute あり、現に英印汽船のメールも孟買・東阿間に於てセシユルに定期寄港する事になり居り、先年大阪商船が東阿定期線を開航する迄は、東阿行の日本綿布・雑貨の如きも、全部一旦孟買に仕向られ、同地商人の手により、更に前記英印汽船のメール便により、東阿に再輸出せられ居りし有様に御座候。斯くの如く帆船時代より寄港され居りしと想像せらるゝセシユル 島、しかも古倫母より東阿への水路さへ明記し居りし当時の支那人乃至アラビアの航船者が、セシユルの存在を知らざりしものとせば、却て不思議の感あるべく候。従て邦人一部有識者間に、セシユルサソラと転訛して伝はりたりしに非ずやと想像を下すも、亦小生としては理由のある点に御座候。

 仍てSeychellesに関する何か文献をと探し候へども、(実は御返事の遅延せしもそれが為なるが)相憎小生の満足し得る程度のものを手にする能はず、僅に一九二八年のSeychelles 政庁発行に係るLisSeychellesHandbook冊のみにして、之とても白人の来往、開拓、植民、占領等に関する記事のみにして、印度人、アラビア人等の航海に関するものは後に記すが如き粗雑なるものよりなく、失望仕候。

 該書籍によれば、セシユル島は一五〇五年即ちVasco da Gamaの喜望峰迂廻に先つ事七年、葡萄牙の航海者Pedro de Mascaregnasの発見に係り、Viscomte. Herault de Seychelles を記念するため、Seychelles島と命名するとあり。然れどもセシユル子爵と此群島との間に、何等統治上其他の関聯ありし事を聞かず。或は同島は古来よりセシユル或は之に近き発音を有する名称を附せられ居りしを、欧人一流のコジツケにてSeychelles子爵云々と称するに非ざるか、一考を要する所なりと考へらる。猶該Handbookによれば、欧人の住む以オープンアクセスNDLJP:187 前は印度洋海賊の根拠地にして彼等の子孫今猶島内に在住すとあり。然れども海賊云々の記事は、印度人アラビヤ人の航海者・貿易業者を指したるものにあらざるか。蓋し御承知の通り、昔時航海者と海賊とは実に一歩の違ひのみ、或は海賊と良民との二重生活を送りしもの甚だ多かりしは、歴史に徴して明かなり。産物としてはPhosphate Guanoを特に挙げ得る外、熱帯地共通の産物なるコヽア・肉桂・其他の香味料なり。

 前記乏しき材料により考察するに、セシユル島は欧人来航以前より近似の名称を有し、当時の航海者・貿易業者が、印度東阿通商の仲継港として、東阿より香料香味(特にザンジバル は丁子の主産地として名高く、世界産額の約九七%を供給する由)を此のセシユル島を経由又は積換地として、印度、更に支那方面に輸出し、遂に我国の一部人士の間にサソラとして伝へられたるに非ざるかと考へらるゝ所に御座候(下略)昭和四年九月二十九日

(昭和四年十一月徳雲創刊号)


続記

 香の品名に関して北畠玄慧法印の作と称する遊学往来(続群書類従本)に

抑所承名香折節随見来候伽羅木妬茄藍忠春容宇治鳥羽山陰奥山初時雨葉山深山松風富士峰忉利羅漢木橋花梯擲花伊勢海疎竹寒草老梅梅花梯薫遠水蓼蓼花山蓼糸薄野菊山菊朝霞薄霞薄雲武蔵野異波茶菀合香龍涎白檀薫陸香八煎紫雲等乏少之至随不少其憚候献之将又新渡名香者未聞其名相尋故実之仁従是委可申候

とあり、又同人作とも虎関禅師作とも称せらるゝ異制庭訓往来(群書類従本)にも

本朝天平年中従百済国始貢献之自厥已降代〻御門翫之家〻豪奢賞之其名雖多伽藍木妬伽羅宇治鳥羽山陰以之為甲科也此外葉山深山奥山富士峰武蔵野梅花菊花橘花野菊水蔘偷春格薄雲薄霧薄霞薄露女郎花及胃皮茶烟龍涎白檀薫陸八精等各争其美馳其誉云々

とあり。此の二書は大体に於て同時代の作であるらしく、其中に含まれて居る香の名も、大かたは同じことである。即ち伽羅木、〈即ち伽藍木〉妬茄藍、〈即ち妬伽羅〉宇治、鳥羽、山陰、奥山、葉山、深山、富士峰、橘花、花橘か梅花、水蓼、薄霞、薄雲、武蔵野、龍涎、白檀、薫陸等は全く一致し、又遊学往来の忠春容〈客か〉は異制庭訓の偷春格なるべく、遊学の異波は異制庭訓の胃皮なるべく、遊学の茶苑は異制庭訓の茶烟なるべく、遊学の八煎は異制庭訓の八精なるべしと思はれる。こゝに注意すべきは伽羅木、妬茄藍〈これは宋の洪芻の香譜に釈氏会要を引て出して居る多伽羅香此云根香とあるのであらう〉龍涎、白檀、オープンアクセスNDLJP:188 薫陸等は香の原料の名であつて、其他の我邦でつけた雅名と異なることであるが、中にも龍涎以下の三種は、香字抄、香薬抄以来、已に載せられてあるもので、恐らく異波又は胃皮とあるのも、香字抄、香薬抄の裏衣香俗云衣比とあるのであらう。そこで香料名としては、此の遊学往来、異制庭訓の時代に、始めて伽羅類が従来の香料外に頭を出して来たのであるといふことを最も注意せねばならぬ。然るに一条禅閣兼良の撰せる尺素往来(羣書類従本)には、香に関して

名香之品々者宇治薬殿山陰沼水無名名越林鐘初秋神楽逍遥手枕中白端黒早梅疎柳岸桃江桂苅萱菖蒲艾忍富士根香粉風蘭麝袋伽羅木等縦雖兜楼婆畢力伽及海岸之六銖淮仙之百和不可勝於此候御所持之分不論新旧可頒賜之候合香者起従仏在世而三国一同用之候殊好色之家是号熏物深秘其方歟沈香丁子貝香薫陸白檀麝香以上六種者毎方擣従和合加詹唐而名梅花加欝金而名花橘加甘松而名荷葉加藿香而名菊花加零陵而名侍従加乳香而名黒方皆是発栴檀沈水之気吐麝臍龍涎之熏者也

とあるが、これは新札往来(続羣書類従本)に見えて居る所の

新渡名香可拝領候庭梅岸松香粉風初秋神楽新無名蓬菖蒲林鐘鴨鳴夏箕川河淀此等者既不珍候近頃三吉野逍遥沼水等賞翫之由聞候可申請候中比山陰疎柳六月名越清水一二三禰文字五文字蘭奢待伽羅木薬殿御枕端黒思〈忍カ〉手枕桂紅阿之船等宇治方香者当世之嫌物候歟

とあるのと香名大方は一致し、即ち宇治、薬殿、山陰、沼水、無名、〈新札の方は新無名〉名越、林鐘、初秋、神楽、逍遥、手枕、端黒、疎柳、江桂、菖蒲、忍、艾(蓬)、香粉風、蘭奢待、伽羅木等は両方に共通に出て居るが、之を遊学往来、異制庭訓往来に対比すると、僅かに宇治、山陰、富士峯、花橘、伽羅木の五種が一致するのみである。合香の方で沈香、丁子、薫陸、白檀麝香、詹唐、欝金、甘松、藿香、零陵、乳香は香字抄、香薬抄以来の名目であるが、其の貝香といふのは恐らくは香字抄、香薬抄の甲香のことであらう。〈甲香は即ち流螺又蠡のことで螺属なりとあるからである〉こゝで注目を惹くのは、香の原料として伽羅木の外に蘭奢待があらはれて来たことである。此は東山義政が勅許を得て、正倉院の黄熟香を截つたことから、其の名が世にひろまつたのであらうと思はれる。

 以上の資料から結論されることは、香料特に合香の材料としては、香字抄、香薬抄の時代から知られて居る沈香、丁字、薫陸、白檀、麝香、詹糖、欝金、甘松、藿香、零陵、乳香等は後醍醐朝より室町中葉以後までも、猶ほ用ひられて居るが、こゝに新たに重要な位置を占オープンアクセスNDLJP:189 めて来たのが、伽羅木であることで、その後醍醐朝、即ち北畠玄慧、虎関禅師の頃は支那では元の中世に当り、恰かも島夷志略に始めて茄藍木の記述が現はれた時である。明の周嘉冑も香乗に

奇藍香上古無聞。近入中国

といへる如く、其の世にもてはやさるゝは元の中世からであるのに、其時已に我邦にても賞翫して居る。大枝流芳は京極道誉について左の如く述べて居る。

道誉姓佐々木、名高氏、号京極佐渡判官、応安年中に卒す。乱世に生れながら風雅を楽しみ香を嗜む、往古は薫物を用ひしに、此入道専一木の沈水奇南を用ひ賞翫しさま名をもて命ぜしは此人より起れり、香道の開祖とも云べし。

即ち香道の起源は、香字抄、香薬抄時代の薫物合香としての応用的賞翫より、道誉によりて聞香時代に転入し、こゝに香の本質賞翫となつたのであるが、これは実に新たに発見された最上の香料、伽羅木の出現によるのである。此の如く伽羅木の出現は、支那にも日本にも同時に香の賞翫に関して変化を与へたのは、面白い共通現象であると共に、日本人の香木に関する智識が支那の再輸出に頼つたものでなくして、原産地から直接に得たものであらうといふ想定も下されるのは、支那に於て一も用ひられなかつた伽羅木の字面の上からも著しい。一条禅閣の時代は即ち東山義政が香道に執心した時で、黄熟香が其の珍奇の故を以て、香としての最上品伽羅木と並称せられた時であるが、続いて新札往来は其の奥書に天文十五年とあるので、天文六年に卒した逍遥院三条実隆や、志野宗信の時代を代表すべき、香の記録といつてもよい。此時に香道は其の開け始めてから已に二百余年を閱したので、香品の盛衰の沿革が回顧されて居る。香道の確立したのも此頃で、前の遊学往来にも、後の新札往来にも、新渡名香といつてある処から、又已に其の原産地をいくらか聞知つて居つたかとも考へられる。

 そこで上の四書に出て居る香名を、大枝氏が道遥院三条実隆伝来の古書と称する雪月花集の香名に対照するに、其御家の香と称する六十六種、並に名香目録〈これも御家にある所といふ〉百三十種の中には、遊学往来、異制庭訓往来に出て居る者、僅かに山陰、薄雲、水蓼、松風の四種で、しかも山陰は後の尺素往来にも出て居るが、尺素往来、新札往来に出て居る者は、神楽、山陰、早梅、疎柳、林鐘、刈萱、名越、端黒、蘭奢待、逍遥、三吉野、花橘、荷葉、庭梅、初秋、オープンアクセスNDLJP:190 手枕の十六種に及んで居る。これは兼良より実隆に至る時代の間の香名の記録として、往来物に出て居る者と香道家の所伝とほゞ一致して居ることを示すもので、その玄慧、虎関の時代の香名がだん滅びつゝあるのを看取される。但し雪月花集に京極道誉所持と題せる百七十七種の内、遊学往来、異制庭訓往来に出て居る者が寒草、老梅、深山、鳥羽、松風、女郎花、伽藍木、宇治の八種に過ぎないのに、尺素、新札二往来に出て居る者が、名越、忍、無名、河淀、六月、早梅、夏箕川、岸松、伽藍木、三吉野、蘭奢待、一文字の十二種に及んで居るのは、解し難いことである。思ふにこの道誉所持香目といふものは後人の竄入が多く、道誉の原目のまゝでないのであらうといふことは、その中に東山義政が寛正六年に截り取る以前には世に出づる筈のない蘭奢待まで入つて居ることによつても知られる。

更に四種の往来に出たる香の木所を建部隆勝がいかに聞き分けたるかを検するに

  伽羅之分

老梅〈遊学〉  薄雲〈異制庭訓〉  山陰〈遊学異制庭訓〉  東大寺(蘭奢待)〈尺素新札〉 逍遥〈尺素新札〉

三吉野〈新札〉

  新伽羅之分

富士〈異制庭訓〉  武蔵野〈異制庭訓〉

  羅国らこく之分

菖蒲〈尺素〉

  真那班まなばん之分

松風〈遊学〉  早梅〈尺素〉

  真那賀まなか之分

盧橘はなたちばな〈異制庭訓尺素〉

となつて居る。比較的距離の近い占城の産たる伽羅が、他の産木よりも多種輸入されて居るといふことから、原産地に関する智識を後醍醐朝頃から天文年間に南蛮の交通始まる以前に於て、已に多少有して居つたかも知れぬと考へてよくはあるまいか。

 
 

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