電車唱歌/地理教育外濠電車唱歌

地理教育外濠電車唱歌
作者：中川柳涯　深谷白川
1905年

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表記は歴史的仮名遣とし、漢字制限はJIS X 0208に文字が収録されていれば元の漢字をそのまま使った。
註: この文書ではルビが使用されています。ここでは「単語（ルビ）」の形で再現しています。一部の古いブラウザでは、ルビが正しく見えない場合があります。

君（きみ）の御稜威（みゐつ）は千代八千代（ちよやちよ）　環（たまき）の如（ごと）くはてしなく　榮（さか）ゆる御代（みよ）を外濠（そとぼり）の　線（せん）は祝（いは）ふて廻（めぐ）るなる
濠（ほり）の彼岸（あなた）に建並（たちなら）ぶ　西洋建（せいようだて）や破風造（はふつく）り　右手（みぎて）の町（まち）は尾張町（をはりちょう）　銀座通（ぎんざどお）りと知（しら）れける
行手（ゆくて）をよぎる靑色（あをいろ）の　電車（でんしゃ）はこれぞ街鉄（がいてつ）の　日比谷（ひゞや）を指（さし）て急（いそ）ぎゆく　交叉（こうさ）の点（てん）の數寄屋橋（すきやばし）
左（ひだり）に見（み）ゆる鍜治橋（かぢばし）を　渡（わた）りて行（ゆ）けば馬場先（ばゞさき）の　御門（ごもん）の中（うち）に二重橋（にじゅうばし）　雲井（くもゐ）の空（そら）に打懸（うちかゝ）る
門（もん）をば入（い）りて左（ひだり）なる　廣場（ひろば）に立（たて）る銅像（どうぞう）は　國（くに）を守（まも）りの忠臣（ちゅうしん）と　今名（いまな）を残（のこ）す正成公（まさしげこう）
思（をも）へば建武（けんぶ）のその昔（むかし）　逆臣高時横暴（ぎゃくしんたかときをうぼう）の　振舞（ふるまひ）いとゞ多（をほ）かるに　醍醐（だいご）の帝召（みかどめ）し給（たま）ふ
召（めし）に應（をう）じて正成（まさしげ）は　心（こゝろ）の誠現（まことあら）はして　君（きみ）の御爲（みため）と西南（にしみなみ）　賊徒（ぞくと）を打（う）ちて夷（たひら）げぬ
されど再（ふたゝ）び尊氏（たかうじ）の　叛（はん）に我策容（わがさくいれ）られず　忠義（ちゅうぎ）の鑑後（かゞみのち）の世（よ）に　残（のこ）して逝（ゆ）きし湊川（みなとがは）
七重八重洲（なゝえやえす）の橋過（はしすぎ）て　轟（とゞろ）と渡（わた）る呉服橋（ごふくばし）　傍（かなへ）に高（たか）く雲凌（くもしの）ぐ　日本銀行（にほんぎんこう）嚴（いかめ）し
千歲変（ちとせかは）らぬ常盤橋（ときはばし）　其名床（そのなゆか）しき鎌倉（かまくら）の　河岸（かし）に漣（さゞなみ）打（うち）よせて　岸（きし）の石垣苔深（いしがきこけふか）し
印刷局（いんさつきょく）の煙突（えんとつ）に　淡（あは）く懸（かゝ）れる晝（ひる）の月（つき）　近衛騎兵（このえきへい）の營所（えいしょ）にも　程遠（ほどとほ）からぬ神田橋（かんだばし）
君（きみ）の御爲（みため）と武夫（ますらを）が　命捧（いのちさゝ）げて戰場（いくさば）に　擧（あ）げし勲功（いさほ）の數々（かず〴〵）を　擔（にな）ひて歸（かへ）る錦町（にしきちょう）
譽（ほまれ）は末（すへ）の世々迄（よゝまで）も　流（なが）れて盡（つき）ぬ小川町（をがはまち）　招（まね）く柳（やなぎ）の下影（したかげ）を　往來（ゆきこ）ふ人（ひと）のいと多（をほ）し
秩父甲斐（ちゝぶかひ）が根遥（ねはる）かにも　見（み）えて名（な）に負（を）ふ駿河臺（するがだい）　登（のぼ）りつめたる今此處（いまこゝ）は　音（をと）に聞（きこ）えしお茶（ちゃ）の水（みづ）
數丈（すじょう）も高（たか）き橋（はし）の上（へ）に　立（たち）て東（ひが）しを眺（なが）むれば　神田（かんだ）淺草（あさくさ）日本橋（にほんばし）　下谷（したや）本所（ほんじょ）も唯一目（たゞひとめ）
下逝（したゆ）く水（みづ）に早舟（はやふね）の　聲面白（こえおもしろ）き櫓拍子（ろびょうし）は　都（みやこ）をよその眺（ながめ）にて　歸（かえ）さの程（ほど）の忘（わす）らるゝ
左（ひだり）の森（もり）は教育（きょういく）の　爲（ため）にと開（ひら）く圖書館（づしょかん）や　博物館（はくぶつかん）の建（たて）るあり　續（つゞ）くは高等師範校（こうとうしはんこう）
近（ちか）きわたりに鎭座（いっき）ます　神田明神伏（かんだみょうじんふ）し拝（おが）み　名殘盡（なごりつき）せぬ名所（めいしょ）をば　あとに殘（のこ）して進（すゝ）み行（ゆ）く
川（かは）の彼方（あなた）の甲武線（こうぶせん）　電車（でんしゃ）の態（さま）は變（かは）れども　景色損（けしきそこ）ねぬ爲（ため）にとて　煙吐（けぶりは）かぬぞ賴（たの）もしゝ
湯島五丁目元町（ゆしまごちょうめもとまち）を　過（す）ぐる彼方（あなた）に黒煙（くろけぶり）　空（そら）を掩（おほ）ひて立昇（たちのぼ）り　汽笛（きてき）の聲（こえ）の喧（かしま）しゝ
此處（こゝ）ぞ世界（せかい）に名（な）を得（え）たる　日本武士（やまとおのこ）が腰（こし）に佩（は）く　太刀（たち）や劍（つるぎ）を打鍛（うちきた）ふ　砲兵工廠（ほうへいこうしょう）それなれや
空（そら）に掩（おほ）ふの黒煙（こくえん）は　軈（やが）て世界（せかい）に我々（われ〳〵）が　勢力（ちから）遍（あま）ねく延布（のべし）かん　幸先祝（さいさきいは）ふ兆（きざし）ぞや
絶（たえ）ぬ汽笛（きてき）の其聲（そのこえ）は　軈（やが）て世界（せかい）に我々（われ〳〵）が　さとしを示（しめ）し皆人（みなひと）を　導（みちび）く聲（こえ）と聞（きこ）ゆなる
松（まつ）の梢（こずへ）に鶴巣（つるすく）ひ　池（いけ）の巖（いはほ）に龜遊（かめあそ）ぶ　長閑（のどか）はいとゞ桃源（とうげん）の　さまにも似（に）たる後楽園（こうらくえん）
昔（むかし）の名（な）をば其儘（そのまゝ）に　今猶殘（いまなほのこ）す江戸川（えどがは）の　流（なが）れは盡（つき）ず岸（きし）の邊（べ）に　柳櫻（やなぎさくら）のこきまぜる
紺靑（こんじょう）のべし如（ごと）くなる　濠（ほり）の彼方（あなた）の提（どて）の上（うへ）　千歲（ちとせ）を經（へ）たる老松（をひまつ）の　枝（えだ）を交（まじ）へて雲凌（くもしの）ぐ
国（くに）の榮（さか）えはつぎつぎに　彌増（いやま）しゆきて限（かぎ）りなく　榮（さか）ゆる御代（みよ）を神（かみ）かけて　祈（いの）りて囃（はや）す神楽坂（かぐらざか）
斯（かゝ）る芽出度（めでたき）大御代（おほみよ）に　生（うま）れて深（ふか）き御惠（みめぐ）みに　逢坂下（おうさかした）の濠（ほり）の水（みづ）　盡（つき）ぬ我身（わがみ）の楽（たの）しけれ
新（あらた）に出來（でき）し見付（みつけ）をば　入（はい）りて此處（こゝ）は國（くに）の爲（ため）　君（きみ）に命（いのち）を捧（さゝ）げてし　英魂祀（えいこんまつ）る靖國社（やすくにしゃ）
命（いのち）はよしや櫻木（さくらぎ）の　花（はな）と散（ちり）ても後（のち）の世（よ）に　殘（のこ）す名譽（めいよ）は千代八千代（ちよやちよ）　萬代迄（よろづよまで）も燿（かがや）かん
譽（ほまれ）のあとを殘（のこ）すなる　遊就舘（ゆうしゅうかん）の品々（しな〴〵）は　誠（まこと）の武士（ぶし）が面影（をもかげ）を　留（とゞ）めて坐（そゞ）ろ氣（き）も勇（いさ）む
我日（わがひ）の本（もと）の武夫（ますらを）が　武運（ぶうん）の程（ほど）を祈（いの）るなる　此處（こゝ）よ市ヶ谷八幡宮（いちがやはちまんぐう）　階段（さぎはし）古（ふ）りて苔深（こけふか）し
近（ちか）き邉（ほとり）の岡（おか）の上（へ）に　國（くに）を守（まも）りの武夫（ものゝふ）が　二（ふた）つの道（みち）を朝夕（あさゆう）に　勵（はげ）む陸軍士官校（りくぐんしかんこう）
本村町（ほんむらちょう）も早過（はやす）ぎて　四谷見附（よつやみつけ）に來（き）て見（み）れば　街鉄電車（がいてつでんしゃ）と共用（きょうよう）の　線路（せんろ）はいとゞ煩（わずら）はし
漸（やうや）く此處（こゝ）を乗切（のりきり）て　進（すゝ）む右手（みぎて）は畏（かしこ）くも　天皇（すめらみこと）が離宮（りきゅう）なる　赤坂御殿（あかさかごてん）と知（しら）れける
左（ひだり）の方（かた）を眺（なが）むれば　碧（みどり）も深（ふか）き濠（ほり）の面（も）に　漣（さゞなみ）寄（よ）せて老松（をひまつ）の　梢（こずゑ）に楽（がく）の音（ね）を絶（たゝ）ず
靑山御所（あをやまごしょ）を遙拝（ようはい）し　下（くだ）る紀井國坂（きのくにさか）の下（した）　雲（くも）かあらぬか白栲（しろたへ）に　咲（さき）も揃（そろ）はぬ櫻花（さくらばな）
散（ち）りて惜（をし）まぬ武士（ものゝふ）が　營所（えいしょ）を近（ちか）く高臺（こうだい）に　眺（なが）めて又（また）も街鉄（がいてつ）の　線路（せんろ）を過（よぎ）り進（すゝ）みゆく
左（ひだり）に茂（しげ）る木立（こだち）こそ　月雪花（つきゆきはな）の眺（なが）めをば　併（あは）せ具（そな）ふる星（ほし）が岡（おか）　袖（そで）ふりはへて人（ひと）ぞ訪（と）ふ
鎭座（いっき）まします日枝神社（ひえじんじゃ）　神（かみ）の靈驗（ちから）も顯著（あらたか）に　打振（うちふ）る鈴（すゞ）の音絶（おとた）えず　朱塗（しゅぬり）の樓（ろう）の神（かん）さびる
氷川神社（ひかはじんじゃ）に參拝（さんぱい）し　演伎座前（えんぎざまえ）を過（す）ぎ行（ゆ）けば　右（みぎ）に左（ひだり）に國々（くに〴〵）の　國旗（こくき）は風（かぜ）に翻（ひるが）へる
學（まなび）の業（わざ）をいそしみて　深（ふか）く心（こゝろ）に溜池（ためいけ）の　何時（いつ）かは國（くに）や人（ひと）の爲（た）め　盡（つく）さん時（とき）に葵橋（あふひばし）
琴平神社（ことひらじんじゃ）の御護（みまも）りを　祈（いの）りて此處（こゝ）は虎（とら）の門（もん）　右（みぎ）に議事堂左（ぎじどうひだり）には　諸國（しょこく）の公使舘（こうしかん）のあり
海軍省（かいぐんしょう）や外務省（がいむしょう）　次（つぎ）に並（なら）びて司法省（しほうしょう）　陸軍省（りくぐんしょう）も程近（ほどちか）く　雲（くも）を凌（しの）ぎて建並（たちなら）ぶ
大路（をほぢ）の彼方濠（あなたほり）のべに　建（た）てる櫻田御門（さくらだごもん）こそ　昔万延元年（むかしまんえいがんねん）に　井伊（いゐ）の斬（き）られし所（ところ）なれ
思（をも）へば今（いま）や我國（わがくに）も　世界（せかい）の國（くに）と肩並（かたなら）べ　劣（をと）りなき迄進（まですゝ）みしが　あれは當時（そのかみ）如使（いか）なりし
浦賀（うらが）の沖（おき）に黒船（くろふね）の　入（い）りしと聞（きゝ）て今更（いまさら）に　上（うえ）を下（した）への物騒（ものさわ）ぎ　三百諸公色（さんびゃくしょこういろ）もなし
時（とき）の大老直弼（たいろうなをすけ）は　文武（ぶんぶ）の道（みち）に暗（くら）からず　到底（とても）開（ひら）かで止（やま）ぬべき　諸國（しょこく）の狀（さま）を見極（みきわ）めぬ
開（ひら）かで止（やま）ぬものならば　なまじ躊躇（たゆたひ）爲（せ）んものと　英斷此（えいだんこゝ）に定（さだ）まりて　五港（ごこう）を終（つひ）に開（ひら）きけり
斯（かく）て集（あつま）る衆怨（しゅうえん）に　上巳（じょうみ）の節會（せちえ）降（ふ）る雪（ゆき）の　消（き）ゆるも待（ま）たで有村（ありむら）が　刃（やいば）の下（もと）に散（ち）る命（いのち）
散（ち）りし命（いのち）は返（かへ）らねど　汝（な）が英斷（えいだん）に開（ひら）けゆく　御國（みくに）の花（はな）の櫻花（さくらはな）　散（ちり）りて甲斐（かひ）ある命（いのち）かな
海軍省（かいぐんしょう）を横（よこ）に見（み）て　進（すゝ）む左（ひだり）に春（はる）は花（はな）　夏（なつ）は涼（すゞみ）に秋（あき）は月（つき）　冬（ふゆ）は雪觀（ゆきみ）の日比谷（ひゞや）あり
都（みやこ）の塵（ちり）を打拂（うちはら）ふ　心字（しんじ）の池（いけ）に大鶴（おほつる）が　噴出（ふきだ）す水（みず）に虹映（にじうつ）り　木間（このま）に蟬（せみ）の友（とも）を呼（よ）ぶ
見（み）よや中央（まなか）のコートには　テニスする人走（ひとはし）る人（ひと）　或（ある）は花園（かえん）を巡（めぐ）る人（ひと）　野球（ベースボール）にいさむ人（ひと）
ひとさま〴〵に思（おも）ふ儘（まゝ）　いと楽（たのし）げに群遊（むれあそ）ぶ　實（げ）にや冥途（あのよ）に有（あり）といふ　極楽世界（ごくらくせかい）もかくなれや
折（お）りから起（おこ）る嚠喨（りゅうりょう）の　響（ひゞ）きはこれぞ天楽（てんがく）か　月（つき）は無心（むしん）に天（てん）に澄（す）み　虫（むし）は千草（ちぐさ）に鈴（すゞ）を振（ふ）る
斯（か）くて電車（でんしゃ）は外濠（そとぼり）を　巡（めぐ）り終（をは）りて又元（またもと）の　乗（の）りにし土地（とち）に歸（かへ）り來（き）ぬ　乗（の）りにし土地（とち）に歸（かえ）り來（き）ぬ