電車唱歌/伊予鉄道唱歌
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< 電車唱歌
名 も常磐 なる松山 の市街 を中 に取 り卷 きて葛 の如 く縱横 に蔓 さし延 す伊豫鐵道 先 づ乘 り出 だす高濱 の港 の海 の朝 げしき艪 を押 し連 れて出 でて行 く船 は落 ち葉 か笹 の葉 か波 なき水 に影 ひたす伊豫 の小富士 の興居島 は桃 の産地 の名 も高 く こなたにあるは四十島 夏 は賑 はふ潮 あみの客 もて埋 む梅津寺 過 ぐればここぞ朝毎 に魚市開 く三津 が濱 濱 の松原 はや跡 に なりて迎 ふる古町驛 まぢかく仰 ぐ勝山 の城 に昔 ぞ忍 ばるゝ- ※
伊豫鐵道 の本社 ある松山驛 の近 くには役所 兵營 女學校 出 で入 る列車 の數繁 し 間 もなく渡 る石手川 左右 の廣 き堤 には枝 さしかはす木々高 く さながら自然 の公園地 立花出 でて久米 の驛 名高 き神社佛閣 は日尾 の八幡三藏院 四国靈場西林寺 送 り迎 ふる程 もなく平井 田窪打過 ぎて片手 の藥師浮島 の社 も後 になりにけり津吉上村松茸 の産地 とかねて音 に聞 く處 はあれぞあの山 ぞ秋 は來 て見 む打 ち連 れて終點驛 の横河原 おりて進 めば讚岐道 夏白糸 を繰 り出 だす白猪唐岬滝近 し立花驛 に立 ち戻 り森松線 に乘 り換 えて南 に向 へば星 の岡 勤王義士 の古戰場 椿 の森 に神 さびて祀 られ給 ふ伊豫豆比古 立 つや石井 の大鳥居 居 ながらそれと拜 み行 く森松下 るれば土佐街道 伊豫名産 の一 つなる雪 より白 き砥部燒 の産地南 に約一里 郡中線 は松山 を出 でて餘戸驛 出合驛 餘戸 には履脱天神 と日招八幡名 も高 し出合 は石手重信 の二流出 で合 ふ處 にて河原 は白 く水清 く青 きは岸 の松林 夏 は涼 みに秋 は月 柳 の花 の散 る頃 は鮎釣 る人 の影見 えて景色 ぞあかぬ四 つの時 松前 の港賑 はひて妻 も乙女 も朝毎 に いたゞき出 づる御用櫃 賈 り行 く魚 は何魚 ぞ松前 の城 は田 の中 に埋 れて跡 は知 らねども しるきは義農作兵衛 の譽 れを殘 す墓所 砂糖 の出 づる地藏町 過 ぎて下車 する郡中 の濱 は五色 の名 も高 く一望 はてなきわたの原 名殘 は殘 れど松山 に歸 りて城 の西北 を古町 木屋町打過 ぎて行 けば道後 の温泉場 代々 の帝 の大行幸 ありし歴史 をいたゞきて浴室清 く町廣 く天下 に知 らるゝ湯 の驗 浴後 の散歩試 むる道後公園 あたゝかに春風木々 を吹 く時 は滿山 さくら滿地雪 花 の木 の間 に見渡 せば ただ一幅 の圖 となりて ながめやらるゝ松山市 あれ見 よ三津 も興居島 も湯 の神社 にも詣 でたり いざ又汽車 に打 ち乘 りて一番町 に疾 く行 かむ約 せし友 も待 つべきに
※6番はJR松山駅の開業により松山市駅と改称した際に「伊豫鉄道の本社ある 松山市駅は昼も夜も 出で入る列車の数繁く 行き交うバスの絶え間なし」と歌詞も変更されている。
この著作物は、1920年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)70年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。