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雪之丞変化/翳る微笑

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翳(かげ)る微笑

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浪路の、亡きがらが、闇太郎の手で、思いもよらず屋敷へはこび込まれた、その翌日、三斎も、当主の駿河守も、さすがに驚き呆れてどのような形式で、喪(も)を発したらいいかと、その方法に悩み尽しているところへ、急に先ぶれがあって、大目付添田飛彈守(そえだひだのかみ)の出ばりが告げられる。
大目付の出張――三斎、駿河守相顧みて顔いろを変えざるを得ない。
取りあえず、駿河守、衣類をあらためて待つところへ、馬上で乗りつけて来た、添田大目付――清廉剛直な性(たち)で、まだ三十を幾つも越さず、この大役をうけたまわっている人物、出迎えの土部父子に軽く会釈をすると、
「役儀なれば、上席御免、且、言葉をあらためますぞ」
と、むずと、上座に押し直ると、白扇を膝に、父子を見下して、
「土部駿河守、父三斎、隠居の身を以てお政治向に口入(くにゅう)、よろず我儘のふるまいなきに非ざる趣、上聞(じょうぶん)に達し、屹度、おとがめもあるべきところ、永年御懇旨の思召しもあり、駿河守の役儀召上げ、甲府勤番仰せつけらるることと相成った。右申し達しましたぞ」
――さては、浪路が大奥を出て失踪の身となっている間に、政敵が手をのばして、営中の勢力を根こそぎにしてしまったものだな。
と、察した父子――しかし、今更、何と言いわけをするすべもない。
「恐れ入り奉る」
と、お受けをして、立ち戻ろうとする大目付の袖をひかえて、
「お役儀、おすみなされたのちは、別間にておくつろぎを――」
と、馳走した上、音物(いんもつ)を贈って、さまざま君前を申しなだめて貰いもし、また、営中の形勢をも問い訊(ただ)そうとしたのだが、飛彈守は、袂を払って、
「いや、なお、御用多繁――それに、何かお館うちにも取り込みがある容子、これにて御免を蒙る」
と、立ち戻ってしまう。
三斎父子は、そこで、茫然(ぼうぜん)たるばかりだ。異常な裏面的関係で、勢威を張り、利得をむさぼっていただけに、一朝、土台がゆるげば、もはやそれまで、積み重ねた瓦が崩れるように、ガラガラと滅亡してゆく外はないのだ。
土部家を、助けようためには、たった一ツ、法がのこっていぬではない――それは、三斎が、ふくみ状に、一切の罪をわびて自殺し、公方の哀憐(あいれん)を求めれば、或は、倅だけは、不名誉からすくわれるかも知れぬが、それが出来る三斎ではない。狡智で、一生を、楽々と送ることばかり考えて来た人間だ。
「伜、まだ、狽(あわ)てるには及ばぬぞ――老中、若年寄、わしと、親類同然にまじわったこともある人々じゃ――何とか、手立が残っておらぬでもあるまい」
冬の日が、わびしく夕ざれて、夜になって、仏間の方では、枕経のこえが、うら淋しく断続している。
今は、父子、死んだ浪路より、わが身の上と、いそいそと談合にふけっているうちに、宵もすぎたが、すると、家来が来て、中村座の雪之丞が、久々にて、機嫌うかがいのために、参館したことを知らせるのだった。
「ナニ、雪之丞が――」
と、三斎は眉をよせたが、さすが、娘が死ぬほど恋した相手と思えば、すげなくも出来なかったか、
「通せ」


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いつも通される奥まった離れにしずかに坐って、三斎隠居の出現を待つ雪之丞の心は、水のように澄みかえっている。
ここまで押しつけて来て、彼は、何を、何を思い悩み、案じ煩(わずら)う必要があるのだろう――天意が、力を貸してくれたというか、神仏が見そなわしたというか、いのちがけで抱いて来た復讐の大望は、彼が、こうしたいと思う以上に、先方(むこう)から動いて来て、父母が呪った悪人たち五人のうち四人は、もはや生の断崖のかなたに蹴落されてしまったのだ。
しかも、その死に方の、どれもこれもが、雪之丞自身で手を下したより、百倍も浅間しくみじめな、けだものじみた最後を遂げねばならなかった。
そして、残っているのは、この土部三斎一人。
――今夜だ。
と、雪之丞は、喪(も)の家の、不思議な沈黙と、侘しい香の匂いとを、かすかに感じながら、こころに呟く。
――この家のあるじは、わたしというものが、どんな人間かそれを知らねばならぬ。それを知ったなら、あるじは生きてはいまい。人間の怨念、執着というものが、どれほど激しく勁(つよ)いものかを知ったなら、恐ろしさに生きつづける気はしなくなるであろう。それとも、さすがは、悪の統領だったお人、わたしに刃向ってみようとするであろうか?
雪之丞は好みの、雪役の寒牡丹の衣裳に、女よりもなよやかな身をつつんで、つつましく坐ったまま、不敵な微笑を、美しい紅の口元にうかべた。
すると、気配がして、振袖小姓がはいって来て、あるじのために褥(しとね)なぞととのえた。
かすかなしわぶき。三斎隠居の姿があらわれた。
隠居は、めっきり窶(やつ)れている。が、彼は、相変らず、不敵なほほえみを絶たなかった。
ひれ伏す雪之丞をながめて、
「ようこそ太夫――初下りの顔見世興行も、首尾よう大入つづきであったよしで、目出たいな」
それには、雪之丞は、答えなかった。平伏したまま、なかなか面をあげぬ。
「雪之丞、おもてをあげなさい。何も、そううやうやしゅう致すにも及ばぬことじゃ」
雪之丞は、顔をあげたが、その頰が涙にぬれているように見える。
三斎は、その涙を見つけて、
「お、太夫、泣いているな?」
「は、御無礼、おゆるし下さりませ――つい、さまざま、思い出しまして――」
「思い出したとは?何を?」
「わたくしめが、顔見世狂言にまねかれて御当地にまいり、中村座を出ましたはじめ、御一門さまの御見物をいただき、天にも昇る気がいたしましたが、あのおり、おさじきにお並びなされました方々が、御隠居さまをのぞきまいらせ、ことごとく、もはやこの世においであそばさぬことを思いますると、つい、泣けてまいりまして――」
「なんと、雪之丞、しからば、その方、浪路の不幸をも存じておるとな!」
と、三斎、屹ッとする。
「それを知らずに何といたしましょう――あまりの恐れ多さに、おぼし召しには背きましたなれど――あれまで、お情をたまわりましたお方のことでござりますもの――」
雪之丞は、もはや、三斎の視線を恐れずに答えた。


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雪之丞は、言葉をつづける。
「それにいたしましても、御息女さまをはじめ、浜川、横山おふた方、広海屋、長崎屋のお二人――引きつづいての御最期は、何ということで厶りましょう。わたくしには、因縁ごとのように思われまして、空怖ろしゅうてなりませぬ」
三斎は、フッと、何か気がついたように眉をひそめた。
「ふん、浪路のことは別として、世に秘められた、浜川、横山の非業の最期、さては、このわしへさえ、たったさっき、知らせがあったばかりの、広海屋、長崎屋の不思議な死に様――それを、そなたは何ゆえに知ったぞ?」
と、いかつい目つきになったも無理はない。
雪之丞は、容(かたち)をあらためた。もはや、彼の目には涙は無かった。
「はい、実は、このわたくし、浜川、横山おふた方をはじめ、広海屋どの、長崎屋どのにも、昔より深いえにしがある身でござります。それゆえ、あの方々のお身の上は、いつも、何から何まで響いてまいりますので――」
「ふうむ」
と、三斎はうなった。
「最初から、そなたの身には、いぶかしいことが、まつわっているようわしには思われていた。その﨟(ろう)たけたずがたに似もやらぬ、武芸のたしなみといい、何とはなしに感じられる、身のまわりの妖気――浪路が、一目見て、いのちもと思い込んだにも、奇(あや)しさがある――さては、切支丹(きりしたん)ばてれんの術をも学んだものか!」
雪之丞の紅唇が、冷たくほころびた。
「わたくしは、天下の御法を守るということでは、自分でもたぐいないものと存じます。とうに手を下して恨みを晴らすべき人々をさえ、刃にもかけず、じっとながめているわたくし、何で、切支丹の御禁制なぞ破りましょう!」
「ナニ、奇怪(きっかい)な言葉のはしばし――手を下して恨みを晴らすべきものをも、討たずに忍んでいると言うのか?そなたは敵持ちか?これ、雪之丞」
と、三斎隠居は、相手の冷殺とした鬼気に打たれたように、身震いをするようにしてみつめたが、
「逢うたはじめより、何とはなしに、誰ぞに、おもかげが似寄ったように思われる太夫――一たい、そなたはどこの生れぞや?」
「御隠居さま――いいえ、そのかみの長崎奉行、土部駿河守さま――わたくしのおもばせに、それではお見覚えがおありあそばすのでござりますか?」
雪之丞、少し、身を斜めにするようにじっと相手の面体に、冴えた目を据えた。
「うむ――たしかに、誰ぞ、似た顔を見たような――」
三斎、まずまず魅入られたもののように瞳を凝らす。
しかも、だんだん、その表情に恐怖と不安とが添わって来て、やがて、
「おお、そうじゃ!たしかに、かの者に!」
と、叫んだが、自分を押えはげますように、
「いやいや、そのようなことがあるはずがない――馬鹿らしい妄想だ。雪之丞、何でもないのだ。わしは少し頭(つむり)が疲れていると見えるぞ」


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雪之丞は、三斎を勁(つよ)い目でみつめたまま、しかし口元の冷たい笑いを絶たなかった。
「長いようで、短い一生――短いようで、長い一生――いろいろなことが、この世では、あるものでござります。わたくしも、こうして、御身分高い、あなたさま方に、お目通りが叶うことが、この世であろうなぞとは――」
「う、うむ」
と、三斎隠居は、だんだん青ざめながらうなりつづけるのだった。
「う、うむ――わしの目に狂いのあることはない――わしの目が、どんな珠玉、錦繡(きんしゅう)の、まがい、本物を間違えたことはない――たしかに、見覚えのある顔だ――目だ――脣だ――すがただ」
「ほ、ほ、ほ、そんなにお見つめあそばして、お恥かしゅうござります」
と、雪之丞は、紅い口に銀扇をあてて笑ったが、
「一たい、どこのどなたさまに、わたくしが、お似申しているのでござりましょう?」
「それが、思い出せぬ――いまいましいほど、どっこかにこだわりがあって、思い出せぬ」
と、三斎隠居は、物に憑かれたように、みつめつづけるのだった。
「では、わたくしが、ほんの心あたりを申し上げて見ましょうか――」
雪之丞は、いよいよ冷たく笑って、
「わたくしの方も、思いだせるようで思いだせませぬが、この身もおさないこと、長崎に生い立ったこともござりますゆえ――」
「えッ!そこが、太夫が、長崎で!」
と、三斎、叫んだと同時に、顔いろが、青葉のように化(かわ)った。
「はい、長崎で、育ったものでござりますが、これ、土部の御隠居――」
雪之丞は、そう凄然(せいぜん)たるこえで呼びかけると、深くうつむいて、しばし荒い息をしたが、サッと振り上げた顔――
「土部の御隠居――この面かげ、今はハッキリと、お思い当りましょう!」
「わあッ!」
と、いうように、悲鳴に似たものを揚げて、三斎、のけぞるばかり――
「や、や!そなたは、長崎松浦屋の――」
「はい、わたくしのこの顔に、母親のおもざしが、いくらかのこっておりましょうか――」
と、突きつけたその顔には、恒より老け窶(やつ)れた衰えがすわり、目隈が青く、唇が歪んで世にもすさまじい、三十おんなの恨みの表情が、一めんに漲(みなぎ)っている。
「な、これなら、お思い出しになりましたろうがな――」
土部三斎、駿河守の昔から、剛腹一方、怖れも懸念も知らずに押し上って来た人物だが、それが何たること――片手を畳に、片手を前に突き出して、腰さえ畳に落ちつかない。
「そ、そのようなことが、あるはずがあるものか――」
と、わなないて、
「決してない――そのようなことは断じてない――」
「どのような、不思議なことも、この世にないことはござりませぬぞ、御隠居さま――」
と、ぐうっと、乗り出して、
「御隠居さま、さ、ハッキリと、思い出しなされませ――わたくしの母のおもかげを――どうぞ、御隠居さま!」


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「じゃと、いうて、わしは、何もそなたの亡き母を、責め殺したわけではない――」
と、三斎老人は、もがいた。
「わしは、そなたの母親が、好きであったのだ――どうにもして、わがものにしたかったのだ――それは、いいことではなかった――わるいことであった――が、わしが、そなたの母御を、忘れかねたのは、ほんとのことじゃ――いつわりではない――」
「母は、父親の女房だったのでござります――それを、言うことを聴きさえずれば、松浦屋を、つなぎとめるの、つぶすのと、くるしめ、いじめ――とうとう、あわれな母は、舌を嚙んで、こう舌を嚙んで亡(う)せたのでござりますぞ――」
「ゆ、ゆるしてくれ、雪之丞――ゆるしてくれ!ああ、今ぞ思い当ったぞ――この一ヵ月に、思いもよらず、長崎以来の一党の滅亡――さては、そなたの呪いであったのだな――」
三斎隠居は、部屋の隅に、追いつめられたようになって、目を両手でふさごうとする。
「ま!ごらんなさりませ――母は、こうして、われとわが舌を嚙んで、果てたのでござりますぞ」
雪之丞、紅い美しい舌の先を歯の間に、ぐっと嚙みしめるようにする。
三斎は、狂おしげに、
「やめてくれ!やめぬか!う、う、う、息苦しい!息づまる!」
と、胸のあたりを、かきむしるように、
「苦しい!胸が!や、やぶけそうだ!」
激しい、心身の動揺のあとで、この夜更け、人無き一間で、雪之丞から、まざまざと、昔の罪科を並べられた三斎、恐怖の牲(にえ)となって、ために、心臓に強烈な衝撃をうけて、もはや、生き直る力もない。
「むうむ!」
と、一こえ、物すごくうめくと、そのまま、居すくみに、絶息してしまった。
雪之丞は、片膝を立てて、ぐっと、睨めつづけていたが、やがて、立ち上って、
「土部どの、これにて、この世の怨みは消えましたぞ!」
と、手を合わせる。
と、同時に、老人のからだは、ばたりと前へつくばってしまったのだった。
雪之丞、何気なく、廊下に出ようとしたのは、もはや用なき館、今夜の混雑にまぎれて、忍び出てしまおうとしたのであろう。
すると、この三斎常住のはなれと、例の宝ぐらをつなぐ、暗い、冷たい渡りで、女のこえ――
「すごいねえ、太夫!」
ハッとして見返ると、なんと、そこに、紫いろの、お高祖頭巾、滝じまの小袖、小腋(こわき)に何やら角い包をかかえるようにして、佇(たたず)んでいたのが、軽わざのお初だ。
「ほんとうに、おどろいた事ばかりだよ。なるほど、こうした大望を持っていた、おまえを、あり来りの役者のようにあつかおうとしたあたしは、けちだったねえ――へまをやったねえ――江戸の女泥棒は、わからねえと、おかしかったろうねえ――」
と、いって、淋しげになって、
「こんなところを見せてしまっちゃあ、なおさら、この上いろ恋でもあるまい。さっぱりあきらめますから、これからさきは仕合せに――」
雪之丞は、小膝をかがめて、そのまま、廊下へ出てしまった。


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土部三斎を、密室の中で自滅させてしまった雪之丞、これで、思いのこすこともない――まず、第一に、師匠菊之丞に――それから、脇田一松斎、孤軒老師をもたずねて、永年の、かげになりひなたになっての恩顧(おんこ)を謝し、sともかくにも、今後の身のふり方を定(き)めようと、松枝町の屋敷から、わが宿にかごをいそがせようとしたが、途中まで来て、フッと、胸に来たのが、昨夜の闇太郎のわびしげな述懐や、うしろすがた――
――そうじゃ、三人の恩人は恩人、わたしのために、いのちを的にしてくれた闇さん、今夜の首尾を、あの人に、お話しせねば、心がすまぬ――
恰度(ちょうど)、奥山に近いところまで、かごが来ていたので、
「かごの衆――」
「へえ」
「途上、ブラブラ歩きたいゆえ、ここで下して貰いたい。これで一口――」
と、酒手を渡して、下りて、さし行く裏田圃――
もはや、闇太郎の隠れ家は、かしこと、指さされるあたりまで来て、雪之丞の足はハタと止り、目は見すえられた!
「おッ、あれは!」
まごうかたなき、闇太郎住居(すみか)とおぼしき小家を、星ぞらの下、提灯の火が幾つかちらばるように囲んで、黒い人影が、右往左往している。
雪之丞の胸は、早鐘を打ッた。
「あれは、たしかに捕方!さては闇さんを捕りに向うたか――」
と、口に出して、叫んだが、
「あのように、改心した――もはや盗みはする気がないと、あれまで決心した今日の日になって!」
雪之丞、ぐっと、唇を嚙むと、小褄をかかげて、息をととのえて、闇の中を、ひた走りに駆け出した。
捕方勢に、気づかれぬ間に、近づいて、耳をすますと、捕頭が、部下を環にあつめて、
「さて、いよいよかかるぞ!江戸ではじめての、神出鬼没といわれた闇太郎、かく、隠れ家をたしかめ、たしかに潜みおるを知った上は、捕りにがしたら、お上の御威光に傷がつく――よいか、しっかりやれ!どじを踏むと、八丁堀の息のかかる、御朱引内で、十手を持たせねえぞ!いいか!」
「わかりやした」
と、目明しの親分らしいのが、うなずく。
「それ!」
と、同心が振った十手、バラバラと、捕手たちが、小家をかこんで、表にまわったのが、トントンと、雨戸をたたいて、
「もし!そこの休亭から、使いにめえりやしたが、御懇意のお人が、ぜひ、このふみを届けてくれとのことでござんすが――」
「ナニ、休亭のお客からふみだと!よる夜中ごくろうだな――その戸の隙から、ほうり込んで行ってくれ」
闇太郎の、落ちつき払ったこえ――その語韻を聴きすまして、身を忍ばせた雪之丞、いくらか、ホッとする。
――おお、あれなら、もう知っている、さすがは闇さん、立派なものだねえ。
すると、突然、裏手の水口にまわっていた五人ばかりの捕方、肩をそろえて、やくざな戸に、どんと打ッつかると、バタリとはずれた引戸――それをふみこえて、
「闇太郎、御用だ!」
「御用だ!」
と、飛び込んでゆく。


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ダーッと、踏み込んで行った、捕方たち――、それを、肩すかしで、かわしたように、家内から飛び出して来た、黒い人影――
――あ?闇の親分だ、
雪之丞、じっとみつめて、立木の蔭でつぶやいたが、
――あれ、また、まつわる捕手――いっそ、一思いに、匕首で、斬っぱらってしまったら、よさそうなものなのに――
雪之丞が、間遠に見て、歯を嚙んでいるうちに、又もや、斬り抜けた闇太郎、結句、またも、多勢にかこまれて、身じろぎに、不自由を覚えて来た容子――
――相手は多い!早う、親分お逃れになって――
が、見る見る、ひしひしと取り巻いて来る同心、捕り方――
――なぜ、いつまでも、抜かないのだろう。親分は――若し、つかまってしまったら、どうなさるおつもりなのだろう。
見るに見かねて、雪之丞、歯を嚙むと、帯の間の懐剣を、ギラリと引き抜いて、立木の蔭を飛び出すと、タ、タ、タと、近づいて、
「御免!」
と、一声、額にかざした紫電のひらめき――
「親分、お逃げなさい!」
と、呼びかけるなり、突くと見せて斬る。斬ると見せて突く。
バラバラと、一どきに散ってゆく捕り手ども――
「助勢が出たぞう!気をつけろう!」
「親分、おのがれなさい!あとは、わたしが引きうけますほどに――」
「それよりも、おまはんの仕事、しすましたか?」
と、闇太郎が、だしぬけの雪之丞の出現にもかかわらず、驚きもせずに叫んだ。
雪之丞はうなずいて、
「かたじけのうござんす――こよいで、みんな、すみました」
「それはいい――では、このおれにも、心のこりは何もない、さあ来い!目明しども!」
「親分、悪い!早く消えて下さらねば――」
「逃げるなら一緒に逃げよう。雪さんどこまでも――」
「あい。そうしましょうか!」
闇太郎、雪之丞、匕首を高くかざしたから、近づく相手が、たやすくかかろうはずがない。
浅草田圃から、いつか、吉原土手を、南につたわって、二人ちりぢりに、見えなくなってしまった。
朝になると、雪之丞は、もう、昨夜(ゆうべ)のことは、忘れ果てたように、何のこだわりもなく、師匠、菊之丞の前にすわっていた。
菊之丞はしみじみと、愛弟子の顔をながめて、
「して、そなたは、まだ、舞台をつとめる気かや?」
「はい、いつまでも、お側にいて舞台の芸でも、御満足を得たいものと思っておりますが――」
「それなれば、師走狂言の、顔世、勘平、見ごとつとめて見なされよ」
「はい。出来ますかぎりは、つとめさせていただきましょう」
雪之丞が、このときほど、心たのしげに、役の話をするのを見たことはなかった。


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さて、それから、幾日か経って今日は、中村座、師走狂言、忠臣蔵通し芝居の初日だ。
――初日ながら総幕出揃い、仕落しなう演じ申すべく候えば、何とぞにぎにぎしく云々(うんぬん)。
と、かねて撒(ま)かれた散らしで、吸い寄せられた江戸の好劇家たち、滝夜叉であれほど売った雪之丞が、初役、色事師として勘平というのを、どんな風に仕こなすだろうと、暗いうちから、いやもう、はち切れるほどの大入りだ。
その見物の中には、向う正面の、例のつんぼ桟敷というのに頑張った、五十左右の立派な武芸者と見える人物と、白髪白髯の瓢亭(ひょうてい)たる老人が、一しんに、舞台に見入っているのが見られたが、これが脇田一松斎と、孤軒老人――
雪之丞の技芸(わざ)に、すっかり魂を吸われた男女が、道行ぶりの華やかさに、うっとりと見とれているとき、
「今度の、あの者の仕事は、わしどもが力を添えねば、仕遂げえぬかと思いましたが、案外スラスラと――」
と、孤軒老人が、
「あれも、なかなか人間も出来て来ましたの」
「はい、拙者も、何かの折は、一肩入れねばと、思い設けていましたが、さすが、おさない折より老師の御教訓――やはり、ほんとうの修行が出来ておりますと、どんな大事も、一人立ちで仕上げますが。まずは感心しました」
「それに何よりなのは、かの者、どこまでも、役者で生き抜こうとすることじゃな。何を致しても一生――芸道も、奥が知れぬものであろうゆえ、やりかけたわざを、つとめて行くが一ばん――」
「あれは、内気で、しおらしいところがありますからな」
二人は、小さな猪口(ちょこ)を、さしつおさえつ、さも楽しげに献酬(けんしゅう)しながら、演技に身惚れるのだった。
道行が、にぎやかなとったりがからんで、幕になって、当の雪之丞、楽屋にもどると、そこに待っている男衆の中に、何と、闇太郎がすっかり芝居者になって、にこにこしていた。
「親方、気ていますぜ」
「どなた?お二人の方たち?」
と、床山に鬘(かつら)をはずさせながらたずねると、
「いんえ、あれでさ――あの軽業がさ――あの女も、大そうすまして、ちんとして、淋しそうでしたよ」
「ほう、それは気がつかなかったが――」
雪之丞とて、お初の、うら淋しさがわからぬではない――が、いつまでも、盗みの道から抜け出ることの出来ない彼女は、その道を行くほかしかたがないであろう。けれども、闇太郎は別だ。彼は、この興行がすめば、名残を惜しみつつも、この大江戸から、ふたたび、阪地(はんち)へと戻るであろう雪之丞の供をして、西へと上って行く男だ。
――あッしも江戸ッ子だ。故郷を捨てにくいが、おまえさんのいなさるところなら、どこへでも行く気になりましたよ。
と、あの危急の晩、雪之丞にうすめられて、しおらしく手を突いた彼だったのである。
この物語は茲(ここ)に了る。が、悲しい後話をつたえて置かねばならぬのは、かほど秀(すぐ)れた性格の持主雪之丞は、麗質を天にそねまれてか、後五年、京阪贔屓の熱涙を浴びながら、芳魂を天に帰したことである。あまりに一心に望んだ仕事を果したあとでは、人間は長く生き難いものと見えるのだ。

(おわり)

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。