雪之丞変化/滝夜叉譚

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滝夜叉譚[編集]

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猿若町三座の中でも、結城(ゆうき)孫三郎あやつりの常小屋の真向うの中村座は、江戸随一、撰(え)りすぐりの名優を座付にして、不断の大入りを誇っていたのが、物の盛衰は理外の理、この春ごろから狂言の立て方が時好と妙にちぐはぐになって、ともすれば、軒並のほかの小屋から圧され勝ちに見えて来た。ことさら、気負った盆興行が、大の不入り、そこで座元も策戦の秘術をつくして、この大切な顔見世月には、当時大阪でめきめきと売り出している、門閥外の中村菊之丞一座を招き、これに、座付の若手を加えただけで、思い切った興行ぶりを見せようと試みたわけであった。
菊之丞一座といっても、見込んでいるのは、艶名を謳(うた)われている女形雪之丞の舞台で、それゆえ、出し物も、もっぱらこの青年俳優の芯に出来るような台本が選ばれた。阪地の作者、春水堂がかねて雪之丞に嵌(は)めて書き下した「逢治世滝夜叉譚(ときにおうたきやしゃばなし)」で、将門(まさかど)の息女(むすめ)滝夜叉が、亡父の怨念(うらみ)を晴そうため、女賊となり、遊女となり、肝胆を砕いて、軍兵を集め、妖術を駆使して、時の御門を悩まし奉ろうとするとき、公達(きんだち)藤原治世(ふじわらはるよ)の征討を受け、敵と恋に落ちて、非望をなげうつという筋の、通し狂言――
どこまでも、荒唐の美をほしいままにして、当時江戸前の意気な舞台に対抗させようというのであった。
この、一座の江戸下りが、ぱあっと府内の噂󠄀に上ると、贔屓(ひいき)贔屓で、
「――何だって、上方役者を芯にして、中村座を開けるッて!馬鹿くせえ話もあるもんだ――おいらあ、もう、あの子やのめえも通らねえつもりだ」
「そうともよ!江戸に役者がねえわけじゃあなしさ。今度連中を作る奴があったら、一生仲間づきあいをしてやらねえぞ!」
なぞと、気負な啖呵を切る人達もあるが、
「何でも、中村菊之丞一座というのは、上方で、遠国すじの田舎まわりをしていた緞帳(どんちょう)だったのが、腕一本で大阪を八丁荒しした奴等だということだ。おいらあ、一てえに、役者、芸人が家柄の、門地のと、血すじ、芸すじばかり威張り合って、一家一門でねえことには、どんな腕があっても、てんから馬鹿にするのが、癪にさわってならなかったんだ。それを、埒も塀もぶち破って、芸で来いと、天下に見得を切ったというんだから、すばらしいものじゃあねえか――おいらあ、ひとつ、うんと、肩入れをしてやるつもりだぜ」
「おんとうに、そうですとも。江戸っ子は、強きをくじき、弱きを助けるが身上ですわ。あたしたちも、及ばずながら、一生懸命駆けてあるきますから、うんと賑やかに蓋をあけさせるようにしてやって下さいましよ」
そんな風に、たのまれもせぬのに、血通を上げる男女もあるのであった。
座の前には、二丁目の通りに、華やかに幟(のぼり)が立ちならび、積樽は、新川すじから、あとからあとから積み立てられ、時節の花の黄菊白菊が植込まれて、美々しげな看板が、人目をそばだてさせる。
暁方(あけがた)から今日の観劇をたのしみに、重詰を持たせて家を出るのは山の手の芝居ずきだ。かごで、舟で、徒歩(かち)で、江戸中から群れて来た老若、男女で、だんまりの場が開くころには、広大な中村座の土間桟敷、もはや一ぱいにみたされているのであった。


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初日早々、父親の仇敵(かたき)どもの、最上位に坐して、あらゆる便宜をはからってやった上、市顎に、松浦屋欠所、追放の裁断(さいだん)を下した長崎奉行、土部駿河守の後身、三斎隠居一門の、華々しい見物があるということを知った雪之丞、いかに心を静めようとしても、さすがに、その朝の楽屋入りは、気軽く出来ないのだった。
宿を出る前に、師匠が、顔をじっと見て、
「少し、顔いろが悪いようだが――」
と、いったとき、日ごろの教訓を忘れたかと思われる恥かしさに、
「いえ、さすがに、江戸の舞台が、怖いような、気がいたしまして――」
と、微笑んで見せようとしたが、その口元は、われながらに硬ばるのだった。
「重ねて言うにも及ぶまいが、今日は、ことさら、胸を静めて舞台を踏まねばなりませぬぞ」
師匠は、それだけ言って、例の端然としたすがたで、膝の上にひろげた書き抜きに、目を落してしまった。
雪之丞は、やがて、菊之丞と一緒に、中村座を指して出かけた。初下りの上方役者の、楽屋入りを見ようとする、若女房や、娘たちが、狭い道の両側に立ち並んで、目ひき袖ひき、かまびすしくしゃべり立てている。
そして、彼等の視線は、あからめもせず、半開きにした銀扇で、横がおを蔽(かく)すようにした雪之丞の、白く匂う芙蓉(ふよう)の花のようなおもばせにそそがれているのだ。
食入るようにみつめながら、彼女等は囁(ささや)き合う。
「まあ、ゾーッと、寒気がするほど、美い男だわ」
「江戸で並べて、はまむら家、紀の国家――いいえ、それほどの人は、くやしいけど、いやしない」
「あれで、芸が、そりゃ、すばらしいんだと、言うのだもの!」
こうした言葉は、いくら低く語り合われているとしても、雪之丞の耳には、はっきり響くはずだ。いつもの彼であれば、芸人冥利(みょうり)、賛嘆のささやきを呟いてくれる、そうした人たちの方へ、礼ごころの一瞥(いちべつ)はあたえたかも知れない。
が、彼の胸は、土部三斎で、一ぱいだ。
――あしに、今日、満足に、舞台がつとまろうか?その三斎という人間を、同じ屋根の下に、見ながら、落ちついて、技が進められようか?
彼は魂の底に、日ごろ信心の、神仏をさえ念じる。
――そうぞ、神さま、仏さま、舞台の上にいる間は、このわしを、役に生きさせて下さりませ。さもなくて、心が散り、とんでもないことをしだしますと、第一、師匠にすみませぬ。
彼は楽屋入りをすました。師匠と並んだ部屋の、鏡の前にすわって、二羽重を貼り、牡丹刷毛(ぼたんばけ)をとり上げる。
いくらか、心が澄んで来た。
将門の遺した姫ぎみ滝夜叉が、序幕のだんまりには、女賊お滝の、金銀繍(ぬ)い分けの、よてん姿、あらゆる幻怪美をつくした扮装で現われるだけであった。
開幕を知らせる拍子木は、廊下をすぎ、舞台の方では、にぎわしい囃子(はやし)の響が、華やかに波立ちはじめていた。
雪之丞は、心で、手を合わせた。江戸下りの初舞台、初日の日に、早くも怨敵の一人を引き合せて呉れようとする運命に対して……。


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幻惑的な舞台は、二度開いて、二度幕が下りた。
雪之丞は、生れてはじめてといってもいい程、激烈、熱心な喝采を浴びることが出来た。これまで観なれ、聴き慣れた、科目(せりふ)、仕ぐさとは、全く類を異ににした、異色ある演技に魅惑された江戸の観客たちは、最初から好奇心や、愛情を抱いて迎えたものは勿論、何を、上方の緞帳役者(どんちょうやくしゃ)がと、高をくくっていた人達までも迫力ある魔術のために陶酔境に引き込まれて、われを忘れて、手を拍ち、声を揚げずにはいられなかった。
「花むら屋!」
と、いう、聴きつけぬ屋号は、江戸ッ子たちの、歯切れのいい口調で、嵐のように投げかけられるのであった。
楽屋に戻ると、あたりの者は、目を輝かして、菊之丞と、その愛弟子とに、心からの祝辞を述べずにはいられなかった。
「親方、これで、いよいよ日本一の折紙がついたわけで厶(ござ)います」
「負けず嫌いの江戸の人達が、あんなに夢中になっての讃め言葉、わたし達は、只、もう涙がこぼれました」
と、弟子どもの中には、ほんとうに、涙ぐんでいるものさえあった。
雪之丞も、勿論ホッとした。
これで、長年育ててくれた恩師に対する、報恩の万分の一を果したと思うと、肩の重荷が、だんだん下りてゆく気がするのだった。
しかし、彼は言い難く、不安に、一方では襲われている。
胸をとどろかせ、心をおどらして、今日こそ、その生面(いきづら)が見られると、待ちこがれている土部三斎の一行が、二幕目が下りることにも、場内にあらわれて来ないのだ。
東の桟敷に、五間、ぶっとおして、桔梗(ききょう)の紋を白く出した、紫の幕を吊ったのが、土部家の席にきまっていたが、もうびっしりと、一ぱいに詰まった見物席の中で、そこだけが、ガラ空きだ。
いうまでもなく、大身の、大家の一行、出かけるにも手間が取れようとは、思っても、万一、模様変えになって、今日、その顔を見ることが、出来ないようなことになると、何となく、大望遂行の、辻占が悪くなるような気がされて、雪之丞、胸が欝(うつ)してならないのだった。――
――あまり、とんとん拍子に、前兆がよすぎるような気がしたが、この辺から何か、ケチがつくのではあるまいか――
雪之丞は、そんな予感に、心を暗くしながら、滝夜叉の変身、清滝という遊女すがたになって、何本となく差した笄(こがい)も重たげに、華麗な裲襠(うちかけ)をまとい、三幕目の出をまっていた。
出場が、知らされて、遊里歓会をかたどった、舞台に出る。
師匠菊之丞が扮する、身を商売買(しょうこ)にやつした藤原治世との色模様となる場面であった。
にぎわしい下座の管弦(いとたけ)のひいきの中に、雪之丞は、しっとりと坐りながら、なまめいた台詞を口にしつつ目をちらりと、例の東桟敷の方へと送った。
雪之丞は、受けた朱杯が傾くのを、その瞬間、禁じ得ぬ――見よ!その紫幔幕(むらさきまんまく)がしぼられたあたりに、十人あまりの男女がしずかに控えて、熱心な注視をそそいでいるのだ。
彼は、その人達の瞳と、自分のそれとが、はっきりと、真直に衝突しているのを感じた。そして意識的に、一種媚びを含んだ微笑をすら口元にほのめかして、見せるのだった。


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雪之丞の、ほのかな微笑で飾られた、呪いの目は、その桟敷に、とりわけ、一人の宗匠頭巾の、でっぷりした、黒い十徳すがたの老人と、それに並んで、いくらか、身を退(しざ)らせている、限りなく艶麗な、文金島田の紫勝ちないでたちの女性とを見る。
一目で、雪之丞に、それが、曽て長崎で威を張った土部三斎と、当時、柳営の大奥で、公方の枕席(ちんせき)に侍って寵をほしいままにしているという、三斎の末むすめであるのをさとった。女性が、さも一個の処女らしく、髪のゆいぶり、着付の着方をしているのは、公衆の前に、大奥風のすがたを現すのをはばかってであろう。
その、左右に、直参髷(じきさんまげ)の武家、いずれも中年なのが二人、うしろには、富裕なしかし商略に鋭そうな目付をした、觀骨(かんこつ)の張った痩身(そうしん)の男が控えていた。その外は、供の者であろう――
と、雪之丞はその後方の男女の中に、ふと、自分に向けて注がれている、激しい憎悪の視線が、まじっているのを感じた。すべての目が、賛美と、いつくしみを漲(みなぎ)らしているのに、たった二つの瞳だけが、嘲(あざけ)りとも、怒りとも、いいようのない、きらめきを宿しているのに気がついた。
不思議だ!あの目は、わしを憎んでいるらしいが――
さり気なく、じっと見たとき、雪之丞は了解した。
――さようか?それなら、いぶかしゅうも無い。
彼は、そう心にいって、もうその方に注意しなかった。
こないだ、脇田一松斎を久々でおとずれた晩、旧師の口から、あのようないきさつで、師門に後あしで砂を掛けた、例の門倉平馬が、最近、三斎の子土部駿河守家中のために、剣をおしえているということを、聴かされたのを思い出したのだ。
が、雪之丞は、それを余り問題にする必要はない。平馬の技倆と心構えについては、もう知り抜いているし、また、この昔の兄弟子が、一松斎、孤軒、それに菊之丞をのぞいては、天下の何人も知らぬであろう、彼自身の一代の大望を知覚しているはずもないのだった。
つづまるところ、油断をしてはならぬだけの力のある、一人の敵が、自分がつけ狙う仇敵の味方に立った――と、いうことを、覚悟すれば、それでいいわけなのだ。
雪之丞は、これだけ見届けると、もう、ことさら、三斎隠居一行の桟敷に、特別気をくばりはしないのだった。師匠から、重々言われている通り、たとい、先方から、名乗りかけたとて、舞台の上で一芸をつとめる身が、この場で、相手になることは出来なかった。
況して、当の三斎隠居をはじめ、感に堪えたように、うっとりとした様子で、こちらの容姿と技芸とに酔っているのである。
――まず今日は、大切なお客さま、それから、ゆっくりと、御覧(ごろう)じて下さりませ。
雪之丞は、冷たく心に笑って、やがて、専念に、役の性根に渾身(こんしん)を預け出すことが出来た。
その幕が下りて、顔を拭くか、拭かぬかに、隣の師匠の部屋から、男衆が迎えに来た。
すぐに、出向くと、あらかじめ人を払っていた菊之丞が、
「案じることもいらなんだな」
と、まず、讃めてくれるのだった。


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雪之丞は、言難い涙が、こぼれ落ちそうになるのを抑えながら、師匠の言葉を、うなだれて聴いていた。
菊之丞は、撫でさするような目つきで、
「しかも、舞台が、寸分の隙なくつとまったのは、あっぱら日ごろの心掛けが、しのばれましたぞ――あれでのうてはならぬ。万人と変った、大きな望みを成し遂げるは一通りの難儀でないのが、当り前だ」
と、いって、口調をあらためて、
「実は、そなたが今日、心みだれるようなことがあると見れば、知らすまいと思うたことじゃが、――世にもたのもしゅう、大事の幕を済ましたがゆえ、申し聴かせようと考えますが、雪之丞、そなたは、今日の桟敷の、顔ぶれ、すべてしかと見覚えましたか?」
雪之丞の目は、涙の奥で、きららかに、きらめいた。
「は」
と、唾を呑むようにして、
「僧形(そうぎょう)は、土部三斎どの……それに並んだは、大奥にすがっておるとうけたまわる、息女でいられると存じましたが……」
「その外は?」
「その外は、うしろの方に、脇田先生に背きました、例の門倉平馬と申すが、控えておるのが見えました」
と、答えると、師匠は、取るに足りぬと、いうように、頭を振って、
「そのような者は兎に角、そなたに取っての怨敵、一人を除く外はことごとく、あの東桟敷におりますぞ」
心を動かすまいと、あらゆる折に気を引きしめている雪之丞、そう聴くと、思わず、
「おッ!」
と、叫んで、膝を乗り出して、
「して、それは誰々でござりまする?」
「さ、すぐに、そのように、血相を変えるようでは――」
「ああ、あしゅう厶りました」
と、雪之丞は、両手をぴたりと突いて、
「お師匠さま、お前をもはばからず、取りみだし、申しわけもござりませぬ。心を平らに伺いますゆえ、なにとぞ、仰しゃって――」
雪之丞は、愛弟子の、思い入った容子を、あわれと見たように、やさしくうなずいて、
「そのように、しとやかに訊(たず)ねるなら、いかにも申してつかわそうが、実は、今日、土部一門の見物があると知ってから、何となく、そなたのための仇敵の一人一人、同座することもないではあるまいと、一行の名前を、茶屋の者よりうけたまわって見たところ、案にたがわず、当節、病気にてひきこもり中の、広海屋主人をのぞく外は、江戸に集って、昔の不義不正を知らぬ顔に、栄華をきわめておるやから、ことごとく、あの紫幕ばりの下に、大きな顔をして見物というわけ――」
――う――む――
と、いう、激しい心のうめきを、強いて、抑えるように、雪之丞は、白い前歯で紅い下唇を噛みしめたまま、瞳をこらして、師匠をみつめつづけている。
菊之丞は、いよいよ、声をひそめて、
「土部三斎、隠居して、ますます栄耀(えいよう)の身となったゆえ、もはや、旧悪が暴露するうれいもないと考えているのであろう、一味の奴原(やつばら)が、われとわれから、そなたの面前に、みにくい顔をさらして見せたも、こりゃ、亡き父御の引き合せに相違ない。心をしずめて、めいめいの面体見おぼえるがよろしかろうよ」
「は、して、まそっと詳しゅう、居並ぶ人々の、順、なりふりをお聴かせ下さりませ」
雪之丞は、乾いた舌で嘆願するのだった。


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菊之丞は、あたりを見まわすようにして、ぐっと、身を乗り出して、
「忘れまいぞ、雪之丞、向って右のはしが、あの頃の長崎代官浜川平之進、左のが横山五助、そして、息女浪路のうしろに控えた、富裕らしい町人が、そなたの父御が、世にも信用出来る若い手代と頼んでいたに、その恩を忘れて広海屋と心を合せ、松浦屋を破滅へみちびいた三郎兵衛――今は、長崎屋と名乗って、越前堀とやらの近所に、立派な海産問屋をいとなんでいるそうな――いわば、一ばん、悪だくみの深い奴――よう、見覚えて置きなさるがいいぞ」
「では、右のが、代官浜川、左が、横山――」
と、雪之丞は喘ぐように、繰り返して、
「――あの町人体が、三郎兵衛手代――」
「そうじゃそうじゃ、今度の幕に、卒のう見て置いたがよいぞ」
その時、もう、二人とも、次の中幕、所作ごとの支度をいそがねばならなかったので、めいめい鏡に向う外はなかった。
雪之丞は、夢の場での、優雅な官女の顔を作りながら、ともすれば、心のけんが、外にあらわれるのを、いかに隠すべきかに骨を折るのだった。
――わしは、舞台に出るまえに、何も思うてはならぬのだ。心を平らに、狂言の人に、なりおおせねばならぬのじゃ。それを忘れるがゆえに、こうも、顔が怖くなる――
と、そう自分を叱りながら、にもかかわらず、つい、そのあとから、胸の中にくりかえさぬわけに行かぬのが、父親の、あの、奇怪凄惨(せいさん)な、遺書(かきおき)だった。
口惜しや、口惜しや、焦熱地獄の苦しみ、生きていがたい。呪わしや、土部、浜川、横山――憎らしや、三郎兵衛、憎らしや、広海屋――生き果てて、早う見たい冥路(よみじ)の花の山。なれど、死ねぬ。いつまでもつづくこの世の艱難、焦熱地獄。
その遺書に、書き呪われた人々の中、広海屋をのぞいては、すべて、あの東桟敷、ほこりかな、紫幔幕の、特別な場所で、雪之丞の演技を眺めていると、いうのである。
――もし、憎らしやと、父御(ててご)の呪った広海屋さえ、同じところに居合せているなら、たとい師匠の言葉に、そむこうと、斬り入って、あますまいものを――
雪之丞は、紅い脣に、べにを塗りながら、じっと鏡をみつめて、顔の凄さを消そうと、強いて微笑して見ようとするのだったが、その笑いには、却て言いがたいすさまじさが添って見えるのだった。
舞台の方では、山台の、笛、太鼓、歌ごえが、美しい朗らかさで鳴りひびきはじめていた。
雪之丞は、山ぐみが、さも重畳(ちょうじょう)として見える、所作舞台へと、間もなく現れた。
中幕は、滝夜叉の夢の場――官女すがたの彼と、公卿若ぎみの、藤原治世との、色もようで観客を、恍惚(こうこつ9たらしめるに十分はなずであった。
「ほんに雨夜の品定め、かまびすしいは女のさが――」
と、いうところが、きっかけで官女たちが大勢つどっている場に、出現するわけなのだ。
場幕が上って、彼は、かけごえに迎えられて、花道をふんで行った、


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雪之丞の官女が、花道の七三にかかって、檜おうぎをかざしたとき、東桟敷の紫幔幕の下に、そッとつつましく坐った、高島田の美女のひとみに、ありありと、賛嘆のかがやきが漲(みなぎ)った。
「ふうむ、見事じゃ」
と、吐息にも似たつぶやきが、三斎老人の脣から洩れた。
「何と、所作ぶりも、達者だの」
と、横山が、扇で、手の平を打つようにした。
息女浪路は、横山の方を、満足げにかえりみた。
横山が、その目を捉えて、
「な、浪路どの、あでやかなものでござりますな」
「ほんに、わたくしもゾーッと背すじが冷たくなりました」
浪路は、美しい口脣(くちびる)を、いくらか引き曲げるようにして告白した。
雪之丞が、あらわれて、鳴り物も、うた声も一そう際立って聴えて来た。
観客席には、今や、ささやきさえ聴えなくなってしまった。人々は固唾(かたず)をのみ、瞳を見据えるようにして、見入りつづけるのだった。
その幕がしまると、人々の咽喉から、喝采のかわりに、深い嘆息が出た。
「いいなあ」
「よかったわねえ」
そうした言葉が、土間でも、廊下でも、いつまでも語りかわされるのだった。
ところが、不思議な現象が浪路の上に起った。
彼女はかなり朗らかな気性で、絶えず微笑を消さないような娘であったが、急にぱったりと黙り込んで、杯にも手を出さなくなってしまった。
「御気分が、お悪くなったのでは?」
と、老女が、気がついたように訊ねた。
「いいえ、何でもないのだけれど――」
小さい絵扇で、顔をかくすようにして目をそむけるのだった。
浪路が、勿論中心をなす一行のことだ。茶屋で中休みをしている間も、どうかして気を引き立たせようとこころみるのだったが、しかし、さっぱりその反応は見られなかった。
彼女は、じっとうつむいて、白い手先を、膝の上にみつめたり、ぽうっと遠くを見るような目をしたりしたまま、はかばかしく受け答えをしないのだった。
「気先きあしければ、立ち戻ろうか?」
三斎がいった。
「いいえ、いいえ」
と急に熱心に、浪路は、かぶりを振った。
「みんな見てもどりましょう――折角たのしみにしてまいったのでござりますもの――」
浪路のこの言葉は、つき添の女中たちをよろこばせるに十分だった。
だが、浪路の、こうした心の変化の奥底の秘密を、いつかすっかり見抜いていたのが、長崎屋三郎兵衛であった。
――ふうむ、悧巧なようでも、やっぱり娘ッ子だなあ。上方役者にぞっこんまいッてしまったらしいぞ。ふ、ふ、ふ、もっとも公方のしなび切った肌ばかりじゃあ、物足りないだろうでなあ。
冷たく、独り笑って、やがて真面目な目つきになって、何か考えてみはじめるのだった。


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三郎兵衛はもう舞台には、注意を払わなくなった。
――この娘に、思うようなことをさせてやって置けば、わしの日頃の望みは、千日かかるのが、十日で成就するわけだ。こんな折がなかなか二度とあるものではないぞ。
この猛悪な貪欲漢(どんよくかん)は、主家を陥れて、現在の暴富を積んだにもかかわらず、なおこの上の希望として物産用達の御用を、柳営から受けたいのだった。
この大望は、三斎父子を背景としている彼にも、なかなかむずかしいものに思われた。幕府にも手堅い組織があって、私情、自愛では、突破し難い鉄柵が存在していた。
だが、そのような非望者に取っての大障害も、道を以てすればたやすく破壊し得るであろう――三郎兵衛は、日ごろから、浪路を、その材料としいてえらんではいた。とはいえ、普通ではさすがに、この娘にむかって、そこまで頼み込むことも出来なかった。現に、たびたび、三斎から、「長崎屋、お互に、昔は昔、慾を張ることもいいが、そなたも、そこまでなって見れば、この上は、万事、良いほどに、我意をつつしむ方、身のためだろうぞ」
などと、忠言をうけているのだった。
――三斎隠居が、何といったところが、娘が一あし踏みそこなって見れば、もう何の口出しも出来なくなるわけだ。どうなっても、この娘に、あの役者をおしつけてしまわなければ――なあに、おとなしぶって、白い顔をしているが、あのむっちりした胸の中は、淫らな気持で一ぱいなんだ。片一方の役者の方は、これは高が、陰間あがりの女形。なんでもありはしないさ。
三郎兵衛のたぐいに取っては、彼自身の慾を遂げるために、どんな毒気を吐き散らして、他人を蠧毒(とどく)しようとも意にしないのだ。只、どこまでも、我慾を果してゆけばよかった。たとい来世は、地獄の黒炎に魂を焼きこがされようとも……。
彼は、幕が下りると、わざと浪路をわきにして、横山にいいかけた。
「どうでござります。横山さま、雪之丞とやらいう役者――広い日本にもまず二人とは珍しく思われますが、聴けば、今日の、三斎さまの御見物を、大そうありがとう思うて、舞台を懸命に踏んでいるとの、幕内からのうわさ――殊勝なことに存じますで、はねましてからどこぞで、お杯を取らせつかわしたらと考えますが――」
「それそれ、拙者もそのことを、思わぬでもなかったが――」
と、横山は、うなずいて、
「御隠居の御都合さえおよろしければ、そういたしておつかわしになったら、ことさら上方からの、いわば頼りすくない彼、なんぼうかよろこぶでござろうが――」
この問答は、三郎兵衛によって、とりわけ浪路に、聴えよがしにはじめられたのだ。
彼の視線は冷たく、鋭く、彼女にちらちらと投げつづけられる。
――それ、見るがいい。あの娘、まるで相好がかわってしまった。屈託らしい顔が、急に生き生きとかがやき出した。ふ、ふ、この三郎兵衛さまの眼光におそれ入ったか?
勿論、三郎兵衛のこの発議を、しりぞける三斎ではない。彼は異(ちが)った世界の人間に接触するのが、一ばんたのしみでもあった。
「おもしろいな。どこぞで、招いてやろうよ。浪路、そちにもいい保養であろう」
彼はそうのんびりした調子でいった。


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父親から、雪之丞を、どこぞ会席にでも招いて、贔屓の言葉をかけてやろうではないか――と言いかけられて、浪路は、ときめく胸を隠すことが困難なように見えた。
見る見る、瞳は新しい望みでかがやき、頰には熱い血のいろが上って来た。
「よろしいように――」
と、彼女は、やっと、心の昂奮を抑えて、かすかに、さりげなく答えた。
三郎兵衛は、その横がおを、冷たい微笑で眺めて、
「ですが、浪路さまが、もし御気分がお冴えにならねば、又の日にいたしましても――」
「いいえいいえ」
と、彼女は、美しくかぶりを振るようにして、
「久しぶりで、人中に出ましたので、さっきまで、どうやら気持が重うござりましたが、もうすっかり晴れ晴れといたしました」
「それは何よりでござりました」
と、言って、三郎兵衛は、立ち上りながら、
「それでは、ひとつ、その旨を、茶屋の者に申しつたえ、雪之丞の耳に入れ、よろこばせてつかわしましょう」
雪之丞を酒席に招くということが決定すると、よろこびの色を蔽い得なんだのは、浪路ばかりではなかった。つき添いの女中たちも急に、今から、衣紋を直し合ったり、囁きを交したりして、一座はもう落ちつきを失って来たようにさえ見えるのだった。
やがて、狂言もすすんで、もう大喜利(おおぎり)という幕間――今日の演技に魅惑しつくされて、新しい喝仰(かつぎょう)の熱を上げた男女が、雪之丞の楽屋に、山ほど使物をかつぎ込み、めいめい一ことでも、やさしい挨拶をうけたそうに、どかどかと押し寄せて来るのだったが、そこへ、茶屋の若い者が、顔を出して、男衆に、何かささやく。
男衆が、雪之丞に、
「今夜、さじきにお見えになっている土部さまから、はねてから、柳ばしの川長で、一献さし上げたいというおはなしだそうですが――」
「え!土部さまから――」
雪之丞は、刷毛を持っていた手を止めて、相手をじろりとみつめた。
「へえ、例の三斎の御隠居さまが、大そうお賛めになっていらっしゃるそうで――何分、お客さますじがお客さますじですから、ほんのちょいとでもお伺いになった方が、よろしかろうと思いますので――へえ」
この瞬間ほど、美しい女がたの面上に、複雑な表情がうかんだことはなかったであろう――
彼は、自分を取りまいて、まるで酔ったように化粧ぶりを眺めている贔屓の客たちを忘れてしまったように、じっと脣を嚙み締めて、空をみつめるようにしたが、やがて、決心がついたように――
「ようございます。かたじけなく、お言葉にしたがいましょう――と、土部さま御一同に申し上げて下さるよう――」
「かしこまりました。さぞ、さきさまもおよろこびなさるでございましょう」
雪之丞は、しずかにふたたび鏡にむかった。
彼はだが、もう、さき程のように殺気をあらわしてはいなかった。心は澄み切り、魂はしずもっていた。
――じっと落ち着けよ!雪太郎――じっと落ちつけ、大事のときじゃ。
彼は呪文(じゅもん)のように胸の底で繰り返していた。


一〇[編集]

大喜利がにぎやかに幕が引かれると、潮汲みの、仇ッぽい扮装のままで、師匠の部屋に行った。
「お目出とうござります」
「お目出とう、御苦労だったの」
とてお互に、初日をことほぎ合ったあとで、雪之丞、手を突いて、
「さて、わたくしはこれから、お客衆にまねかれまして、柳ばし、川長とやらへまで、顔出しをいたしてまいるつもりでございます。おゆるし願わしゅう――」
「ほほう、それはありがたい御贔屓(ごひいき)だの。して、どのような筋のお客さまだな」
菊之丞は、わが愛弟子が、江戸人から歓迎されるのを聴くのが、一ばんうれしいというように目顔に微笑をみなぎらした。
雪之丞は、きわめて落ちつき払った、さりげない調子で――
「土部さま御一行からでござりますとのこと――」
「ええ、土部から?」
かえって、師匠の瞳に、不安と恐怖とがきらめいた。
「して、そなた一人、よばれましたのか?」
「はい、わたくし一人、お名ざしでござります――が、かまえて、悪(あし)ゅうはふるまわぬつもりでござりますゆえ、御懸念には及びませぬ」
菊之丞は、じっと愛弟子をみつめたが、
「何となく心もとないが、しかし、そなたの身性を、あの人々が、気がついているはずは、万に一つも、あるはずがないと思われる。大方、そなたの芸が気に入っての招きであろう。先方が、そう申すのを断わろうともせう、ふみ入って見ようという、そなたの了見は結構だ。が、決して、今夜、その場で、暴(あ)ら暴(あ)らしゅうしてはなりませぬぞ」
「申すまでもござりませぬ。雪之丞、必死にて、みずからを、おさえて見るつもりでござります」
雪之丞が、きっぱりそう言うと、
「それそれ、その覚悟が、大事の前には是非とも入用だ。今夜は、相手が、どのように出ようとも――百万に一つ、そなたの身にうたがいをかけているような気ぶりが見えようとも、必ずいいまぎらして、手荒くしてはなりませぬ」
と菊之丞はいって、
「あまり、気にしすぎるようだが、そなたの、肌身はなさぬ懐剣、今夜だけは、わしにあずけて置いて貰いたい」
ニッコリした雪之丞――
「はい、かしこまりました。お預けいたすでござりましょう。では、御免こうむって、支度を――」
雪之丞は、ざっと、舞台化粧を拭き落すと、かつら下地に紫の野郎帽子、例のこのみの、雪持南天の衣裳、短い羽織をはおって、あらためて師匠に挨拶した。
「では、脇田先生よりたまわりましたまもり刀、今宵一夜、おあずかり下さりませ」
「たしかにあずかりました。行って来なさい」
師弟は別れた。
楽屋口から、男衆を供に、役者の出入りに、好奇な目をかがやかして立ちならんでいる女たちの間を抜けて、茶屋の前から駕籠に乗るのは遠慮して、しばし、夜風が幟をあためかしているあたりをあるく。
そして、雪之丞、やがて、駕籠に揺られて、大川端をさしていそぐのだった。


一一[編集]

料亭の、白く、明るい障子は、黒く冷たい大川の夜かぜを防いでいた。大広間には、朱塗の燭台が立て並べられて、百目蠟燭(ろうそく)の光が昼をあざむくようだ。
床前に、三斎父娘が控えて、左右には浜川、横川、それに三郎兵衛、芸者、末社も、もうおいおい集まりはじめていた。
幇間遊孝(ほうかんゆうこう)が、額を叩くようにして、
「おれは、とのさま方、結構なことでございますな。実は、この土地でも、かりにも猿若町の三座の随一、中村座とあろうものが、上方役者を芯にして、顔見世月の蓋をあけるなんざああんまりなやり方――見下げ果てた仕打だ――今度だけは見物も、見合せた方がなんぞという人もありましたが、相手は、遠い旅をかけて来た芸人、まして、あの人達のおかげで、くさりかけた中村座が立ち直れば、これに越したことはないという論も出まして、まあ、幟、そのほか、飾りものもいたしましたが、実は、わたくしも、今日の舞台をのぞきますと、何が、けれん芸、立派な舞台で、あれでは、ちっと、当地の役者も、顔まけをいたすかも知れませぬ。それで早速、手配をしまして、三日目の見物は、土地をすぐって押し出すことにいたしました。そこへ、とのさま方が、あの雪之丞を、柳ばしにお招きくださって、言わば、この土地のものにも、おひき合せ下さろうと言うのは、われわれども、芸人仲間としても、うれしいことでございます」
なぞと、これは、男同士から、心からよろこぶように言うのだった。
芸者たちも、雪之丞と一座が出来るというので、何となく浮き立って、
「そんなにいい役者なら、もう上方へ帰してやり度くないねえ」
「ほんとうに、芸も、位も、江戸が一ばんですのに――みなさんで可愛がって上げたら、屹度(きっと)こっちに居着いてしまうでしょうよ」
三斎隠居が、ニヤニヤしながら、
「と、申して、あまりその方たちが愛しすぎると、折角の、彼の芸がどんなことになるかも知れぬぞ」
「ふ、ふ、素手で蝿を追うようになるより、いっそ、一日も早う、西へ帰してやるが、雪之丞のためになろうも知れぬ」
と、浜川が、尾についてざれ口を叩く。
浪路は、明らかに眉をひそめた。彼女の、白魚のような右の指先が、美しい顔をおさえる。
――ふ、ふ、ふ、まだ雪之丞を手に入れもしないのに、もう自分の情人(いいひと)のことをかれこれ言われてでもいるように、やきもちを焼いている。まあ、待っていなさいよ。きっと、このわしの力で、何とかまとめて上げようからね――そのかわり、わしが頼むことがあったら、お前さんも、よろしく肩入れをしてくれるのだね――
と、顔には追従笑いをうかべて、心にはさげすむ長崎屋三郎兵衛
「浪路さま、お一つ、お盃をいただきたいものでござりますが――」
「わたくしは、まだ頭(つむり)が痛んでまいるといけませぬゆえ――」
と、いうのを、
「いいえ、召し上りなされませ。何でもにぎわしゅう、陽気にあそばせば、お風邪気なんぞは、飛んで行ってしまいます」
「では、差し上げましょうか――」
と、いくらか微笑して、盃をさしたのも、彼女にすれば、雪之丞に今夜逢えるのも、心利いた三郎兵衛のはからいだと思えばこそであったろう――
ところへ、女中が、
「中村座から、お着きになりましたが――」
と、顔を出す。


一二[編集]

「ほ!待ち人がまいられたそうな――お出迎え――お出迎え!」
と、遊孝が、元気よく立つと、芸者、女中が、雪之丞のために席を設ける。
一座の目は、ことごとく、はいって来ようとする珍客の方をみつめる。いかなる事にも、物驚きをしないような、生(き)ッ粋(すい)の柳ばし連の、美しい瞳さえ、一度にきらめき輝くのだった。
三郎兵衛は、相変らず、必要な方へだけ視線を走らせる。
――大丈夫、、安心しておいでなさいよ。どんな美形連が、こがれ、あこがれて近よりたがっても、お前さんにはかなわないのだからね。何しろ、公方さまの、お側女なんだ。大した御身分うしろには、お父上ばかりじゃあない、この三郎兵衛という軍師がひかえているんだ。
見つめられて当の浪路は、顔色さえサーッと青ざめて見えるほど、明らかに昂奮して来た。膝に置いた、白い手先が、小さな金扇を、ぎゅっとつかみしめて、息ざしが喘(あえ)ぐようだ。
「さあ、こちらへ――」
と、いう、遊孝の、案内のこえ――
「みなさま、おまち兼ねで――」
閾外(しきいそと)の畳廊下に、ほっそりとしなやかな手を突いて、艶やかな鬘下地(かつらしたじ)の白く匂う頸(くび)すじを見せた雪之丞、真赤な下着の襟がのぞくのが、限りもなくなまめしかった。
「わざわざおまねきにあずかりまして、何とも辱(かた)じけない儀にござります。わたくしは大阪よりはるばると、御当地を頼りまいらせて下りました、中村雪之丞、いく久しく御贔屓、おん引き立てのほど願わしゅう」
「さあさあ、遠慮のう、前へ進め、これへまいれ」
と、三斎老人の、例の気作な調子で、じかに声をかける。
「御前は、悪固いことが一ばんおきらい。さあ、そこの席までおいでなさい」
三郎兵衛が、身を乗り出すようにして迎えた。
頭をもたげた雪之丞、珠玉のかんばせに、恒ならず血を上らせているのは、心中にむらむらと燃え立ち渦巻く憤怒のほむらを、やっとのことでおさえつけているためなのだろうが、しかしよそめには、舞台で眺める濃い化粧の面かげとはちがった、いうにいえぬ媚びさえ感じられるのだった。
――ま、うつくしい!
――何という、おとなしやかで、品のいい人なのだろう!
一座にいあわせる女たちのみか、浪路の供をして来て、控えの間につつしんでいた女中たちさえ、廊下までのぞきに来て、お互に手を〆め合って、といきを洩らしている。
三斎の言葉と、杯とが皮切りで、一同から、賛嘆が、雨のように雪之丞の上に降りかかって来る。
雪之丞、つつましやかにうつむいて、
「左様な言葉をうけたまわるも、何と申しあげてよろしいやら――只、もう嬉し涙が、とめどもござりませぬ」
事実、彼のまつげには、熱い珠がまつわっているのだ。何の涙か――真実うれし涙であろうはずもない――いうまでもなく、この世でもっとも憎悪すべき、親のかたきから、うけねばならぬ杯から呑む酒は、沸き立つ鉛の熱湯にもまさったものに感じられたのであろう。


一三[編集]

一座の酒は、はずんでいた。三郎兵衛は、どんな太鼓持よりも気軽な、調子のいい態度で、出来るだけ、雪之丞を浪路に近づけようと、試みるのだった。
雪之丞が、浪路から差された盃を、ゆすいで返そうとするのを、わざと、その儘、もとに納めさせたのも、彼だった。
「この頃、江戸の流行(はやり)で、そなたのような秀れた芸道の人が、口にあてた盃は、お客が持ち帰るのが、慣わしとなっている。そなたも、御息女さまに、お願いして、そのお盃を、お持ち帰りを願うがよい」
なぞといったのは、何事も心の中を、口に出せぬ浪路の、胸のうちを、代っていってやったまでなのだ。
浪路は、嬉しさを強いてかくすようにして、懐紙を出して、小さな猪口(ちょこ)を包み、大事そうに帯の間にしまった。
太鼓持は、芸者の歌三味線で、持芸を並べたてていた。雪之丞はつつましやかに、江戸前の遊芸を眺めるふりをしていたが、その胸のうちは、まるで、烈風に煽8あお)られる火炎のように渦まき乱れていた。呪いのほむらは、魂を灼き焦し、あおりたてた。
――たとい、懐剣は、お師匠さまのお手にお預けして来ても、この手刀が身についている限りは、ここに並んだ四人、五人、瞬く間に打ち倒して、父御の恨みをお晴し申すは、わけはない。この場に、広海屋さえ加わって居れば――
そして、再び彼は、無理矢理己れを抑える。
――いいえ、駄目だ。早まってはならぬ。今度の江戸下りは、お師匠さまや、一座のためには大事の場合。わたくしの恨みを晴らすために、ともかくも花形なぞと、数えられるこのわたしが、血なまぐさい事をしてのけたら、何も彼も、滅茶滅茶だ。折角、向いて来ている江戸の人たちの人気が、そのために一座をすっかり離れるだろう。わしは、胸を撫で、さすろう。わたくし事は、人に気づかれぬよう、そっとそっと、ひとり暗闇で、なし遂げる外はない。
雪之丞は、やっとのことで、自制して、心を落ちつけて、居並ぶ仇敵たちの様子を探ろうとするのだった。
誰は、どんな癖があるか、どのような性格だが、それを知れば知る程、彼の目的は、安全に的確に達せられるであろう。
幇間の芸がすむと、三郎兵衛が、雪之丞にいいかけるのだった。
「太夫、そなたの舞台の芸は芸として、お歴々様に、日頃のたしなみを、何かお目にかけたらよかろうが――」
雪之丞は、とりわけ、この三郎兵衛から、ものをいいかけられると、憤りに全身が、こわばって来るのだた。しかし、彼は殊更、しおらしく頭を下げた。
「未熟者で、何も覚えて居りませぬが、折角のお言葉ゆえ――」
と、そう答えて、一人の芸者から、三味線を借りると、かすめた調子で、爪弾きで、低く粋な加賀節を歌いだした。
つとめものうき
ひとすじならば
とくも消えなん
露の身の
日かげしのぶの
夜な夜なひとに
遇(あ)うをつとめの
いのちかや
紅い脣が、静かに動くのを、吸いつけられたように、浪路は、見つめて、手にしていた金扇を思わず、畳にとり落すのだった。


一四[編集]

娓々(びび)、切々たる、哀調は、かすかに弾きすまされた爪びきの絃の音にからみ合いながら、人々の心を、はかない、やる瀬ない境に引き込んでゆくのであった。
芸者たちは、雪之丞がうたいおわって、頭を下げ、三味線をさし措いた時、深い溜息をついた。
「加賀ぶしも、ああうたわれると胸を刺されるようだの」
と、通人の三斎がつぶやいた。
それは一座の気持を、代っていいあらわしたものといってもよかった。
雪之丞に対する人々の態度は、ますますいとおしみと、なつかしさに満たされて来た。あるものはひそかな恋ごころを、またあるものは尊敬の念をすら抱くのであった。
三郎兵衛は、ふと、浪路が、うつむいて、白い細い指先で、こめかみを押えるのを見ると、隙(すか)さず言いかけた。
「浪路さま、また、お頭(つむり)がお病みんされてまいりましたか?」
「いえ――少し上気(のぼせ)たようですけれど、別に左(さ)までは――」
と、答えるのを、大仰に眉をひそめて受けて、
「それはいけませぬ。大方、芝居小屋から、この席と、つづいてやかましい所に御心抱なされたので、御気持があしゅうなられたのでしょうゆえ、しばし、あちらで御休息なられては――」
と、言って、三郎兵衛の胸の寸法を、十分にのみ込めぬ浪路が、拒もうとするのを、しいるようにして、
「それ、女中ども、御息女さまをしずかなお部屋にご案内いたしてくれ。少し横にお成りあそばすとじきにおなおりであろうから――」
浪路は、みんなから強いられて、いつまでもいたい、雪之丞の前を立たねばならなかった。そして、連れてゆかれたのは、奥深い、丸窓を持った一間だった。軽い褥(しとね)に、枕もなまめかしく、ほのかな灯かげが、ろうたく映えている。
女中たちは、供の小間使の一人だけを、枕元に残して、去ってしまった。
そこへ、三郎兵衛が、顔を出して、
「実はな、あなたさまがおいでになると、これから御酒をすごそうとするわれわれに、ちと、遠慮がちになりますので――へ、へ、御休息を願ったような次第でござりますが、そのかわり、只今、もうじき、よいお話相手を必ず連れてまいります。たのしみにおまち下さりますよう――」
――よい、話相手!
浪路は、いっぶかしく、小くびをかしげて、そして、やがて、白梅(うめ)の花びらのように、ふくらかな頰に、パアッと、紅葉を散らして、三郎兵衛の後すがたの方を、見送るようにするのだった。
――では、長崎屋どのは、何もかも、わたくしの胸の中を知ってしまっていたのだ――雪之丞を、この席に招こうといい出したときから、もう知ってしまっていられたのだ。
毒々しい野心に燃えている三郎兵衛を、深く知らぬ、この美女は、ただ、はずかしさと感謝とに一ぱいになるばかりだ。
――でも、雪之丞は、ほんとうに、この場に来てくれるであろうか?まいったら、うれしいけれど――まあ、どんなことをいい出したらよろしいやら――
わくわくと、少女の胸はとどろき躍る。
彼女は、小間使に、朱塗りの鏡台をはこばせて、髪かたちを直させながら、躍る血潮をしずめようと、両手でそっと、乳房のあたりをおさえるのであった。


一五[編集]

こちらは、雪之丞、あとからあとから降って来る杯の雨を、しずかにうけながら、心の中に仇敵の一人一人を観察しているのだったが、なるほど、どれを見ても、一ぱしすさまじい面がまえと、胆の太さを持った、なかなかたやすくな行かぬ人々だ。
三斎老人はやはり、芸道の話をしきりにしかけて来るが、その和らかい言葉がふくむ鋭い機鋒(きほう)は驚くばかりで、浜川旧代官は、邪智(じゃち)深さで随一、横山というのは、狡猾無比(こうかつむび)、これに、広海屋、長崎屋の毒々しい下品な智慧を加えたら、なるほど、どのような悪事をも、天下の耳目をくらまっして、押し切って行えるだると思われた。
こうした連中が心を合せて、正直、まっとうに暮して来ていた、父親を陥穽(わな)に陥れ、一家を離散させ、母親を自害させ、限りない苦悩のどん底に投げ入れたのだと思うと、雪之丞は、只、すぐに一刀に斬り殺したのでは、復讐心が満足出来なくなて来るような気がする。なぶり殺し――それも、ある場合は、刀で行(や)るもよいが、それは最後で、もっともっと、別の手段で、心も魂も、生きながら地獄の苦しみを味わせてやらねば、辛抱ならぬものに思われはじめた。
――いそぐでないぞ!心を引きしめて、わし自身が身に覚えた、長い長い間の苦悩をも、父御の恨みに加えて、こやつ等に思い知らせてつかわそう。
そう考えて、奥歯を嚙み〆たとき、ふと三斎の声が、彼の心を引いた。
「おお、そう申せば、門倉は――平馬は、どこへ行っているのじゃ――席に見えぬが――」
雪之丞は、さっき桟敷に見た、あの、憎悪に充ちた門倉平馬の顔が、ここに見当らぬのが不思議だったのだ。
「おお、なるほど、門倉――つい、さっきまでそこにおりましたが――」
と、横山が、末座に目を走らせる。
「あ、そこにおいでのお方さまは只今、少し酔いすぎたと申されまして、風に吹かれておいででございます」
と、女中が言った。
「ナニ、平馬が、酔うた――珍しいこともあるものだな?」
と、老人はいったが、急にあけっぱなしに笑って、
「いやそうでもあるまい――大方お客がお客ゆえ、わざと、この座をはずしたのであろう――胸の小さな男だな」
そう呟くと、雪之丞に、鋭い視線をちらと送って、
「のう、太夫、うけたまわれば、そなたは舞台の芸ばかりではないそうじゃの?――と、いうことを漏(も)れ聴いたが――」
雪之丞は、さては平馬が、すでに何か耳に入れたな――と、悟ったが、さあらぬ体で、
「と、おおせられますと?」
と、ほほえましく、
「舞台の芸さえ未熟もの――そのほかに何の道を、習い覚えるひまとて、あるはずがござりませぬ」
「いやいや、そなた、武士の表芸にも、練達のものと聴いた。三斎、実は、ひそかに感心いたしおったのだ」
老人がそういうと、座中の人々は、一そう感嘆の囁(ささや)きがかわされる。
「脇田門では、一二を争うものとうけたまわった。いずれ日を期して、その方面の技も見せて貰いたいな。それにしても、門倉を呼べ。あれによういうて、何かわけありげな太夫と和(やわ)らぎを合せたいと、わしは思う――門倉を呼べ」
と、三斎は、あたりにいった。


一六[編集]

女中たちが、二人ばかりで、平馬を探しに出かけたが、間もなくいくらかこめかみのあたりを青くした剣客が、広間にはいって来て、末座に手を突いて、
「中座をいたし、はなはだ失礼つかまつりました。ちといただき過ぎたよう存じまして――」
「よい、よい」
と、三斎は、明るくうなずいて、
「ちと、そちに訊ねたいことがあってな、わざと呼びにつかわしたが――」
と、いって、雪之丞に目をうつして、
「雪之丞、そなた、これなる者を見覚えているであろうな?」
雪之丞の、美しく優しい瞳が、まともに門倉平馬の上にそそがれた。と、彼のいくらか酔いを帯びて、まるで桜の花びらのように思える面上に、さもなつかしげに笑みが漲った。
「ま、これは、門倉さま、思いがけないとことで、お目通りいたしますな」
と、しずかに挨拶する。
平馬は、苦が苦がしさを、あらわにして、
「これは、雪之丞、舞台を見たが、なるほど、男ながらに、女そのまま――生身の変性女子を眺めて、何とも驚き入りましたぞ」
そういう言葉には、ありありと、役者を身分ちがいと見、女がたを片輪ものとさげずむ侮辱(ぶじょく)がふくめられていた。
しかし、雪之丞は、別にいかりの気色も見せぬ。ほがからに笑って、
「あなたほどのお方から、女そのままとの仰せを伺えば、わたくし、これ以上のうれしさはござりませぬ」
あっさり受けるその容子を、三斎はゆたかな目つきで眺めて、
「平馬、その方、ふだんからどうも気性が固苦しゅうていかん――もっとも、武芸者は、そうあるべいだが、雪之丞とも、年来の馴染とあれば、双方とも、芸術の達人、今後、したしゅういたしたがよろしいぞ」
隠居は、雪之丞を、闇討に掛ようとしたほどの、心肝に徹する平馬の憎悪を知らないのだ。
「お言葉でござりますが、年来のなじみと申しましても、拙者と雪之丞とは、道がことなりますので、さまで親しゅうもいたしてはおりませなんだ」
「これさ、そう申すのが、その方のいつもの癖だ。さ、杯をつかわせ」
平馬は、よんどころなげに、杯を干す。芸者が、雪之丞に取りついで、
「あちらさまから――」
「辱(かたじけ)のうござりまする」
うけて、清めて返したが、それで、ひとまず、一座の話題は、別の方角へ反れてゆくのだった。
やっと、みんなの注目からのがれることが出来た雪之丞、座を立って、手洗場の方へゆこうとすると、あとから、呼びかけたものがあった、
「太夫」
ふりかえると、昔の松浦屋の手代、今は一ばん恨みの深い長崎屋三郎兵衛だ。
「御用でござりますか?」
胸をさすって、小腰をかがめると、狡そうな目つきに、妙な微笑を見せて、
「折り入って、話があるのだが――」
と、あたりを見まわすようにして、
「御隠居の御息女が、あちらで、酔(よい)をさましていらっしゃる。話相手に行って見てはくれまいか?」


一七[編集]

三郎兵衛から、息女浪路が、別間で休息しているゆえ、話相手にその部屋を訪れてはくれまいかと、突然、思いがけないことを聞かされた雪之丞、その刹那、かぁーと、全身の血が逆流するのを覚えるのだった。
――さては、ひとを河原者、色子あがり同然とあなどって、婦女子の、弄びもの、つれづれの伽として、淫らなことを、させようとしむけるのだな。しかも、相手は恨み重なる土部三斎の娘――
と、顔色さえ変えて、すぐに、はげしい言葉を酬いようとしたのであったが、
――いや、いや、ここが堪忍のしどころ、胸の、さすりどころじゃ。今夜は、どのような仕儀に臨んでも、怺(こら)えに怺え、ただ敵方の懐に食い入り、のちのちの準備に備えようというのが、覚悟なのだ――
と、自分を叱ったものの、しかし、三郎兵衛の求めには、どうしても、応じられない気がした。
彼は、顔に、慇懃(いんぎん)な笑みを作って、
「それは有がたいお言葉ではござりますが、わたくしは、女形、たださえ世上の口がうるそうござります。御女性がたばかりの後席へは、かねがねから、お招きをお断りして居りますので、何分ともに、御前態よろしゅうお詫びを申し上げておいて下さりませ」
三郎兵衛は、うなずいて、
「なる程、そなたの申し分には、道理がある。そこまで、身を慎んでこそ、日本一の芸人と、名を謳(うた)われることも出来よう」
と、さもさも感に堪えたように、いって見せて、一段と声を低くし、
「だが、のう、雪之丞殿。それは十分、理窟だが、ものにはすべて、裏がある。相手が普通(かいなで)の娘だとか、後家だとか、いうような者どもなら、それは、そなたの、名のため、断りをいうもいいであろうなれど、土部三斎様といえば、何分、当時、大江戸で、飛ぶ鳥を落す勢い。その威勢の半分は、当の、あの、浪路さまを、大奥にさし出しているからだとさえ、いわれているのじゃ。そこを、よう考えたら、そなたも、日頃の心がけを、今夜だけは忘れても、損はないように思われるが――」
雪之丞は、三郎兵衛が、例の悪狡(わるこす)い目を細めるようにして、こんな事を、くどくどと述べたてるのを聞いているうちに、だんだん気持が変って来た。
――なる程、ものは考えようじゃ。相手が土部三斎の娘の、浪路であればこそ、却て、ここは、いつもの気持を捨て、側に近づく用があるかも知れぬ。わしは、今まで、恨みを晴らすに、太刀、刀を使おうとばかり思うていた。だが、それでは存分の、念ばらしが出来る筈がない。世間で、女子にもまさるとか、ただえてくれる姿、形に産みつけて下されたも御両親――その御両親の御無念を、おはらし申すに、縹緻(きりょう)を使ったとて、何が悪かろう。世の中の、噂󠄀なぞは、わしには少しも苦にならぬ。よし、よし、向うから、しかけて来たのを倖、公方の随一の、寵愛とかいう、あの浪路とやらを、巧言をもって、たぶらかし、思い切った仕方で、かの三斎めに、先ず第一の、歎きを見せて遣わそう。何事も大望への道だ。ためらう事はならぬのじゃ――
雪之丞は、自分に、そういい聞かせて、じっと、思案に暮れる様子を作って、
「如何にも、これは、わたくしの考え違い。相手のお方が、御息女さまとあるからは、うっかりお断りなぞ申し上げたら、飛んだ失礼になるところでござりました。お言葉に、何もかも、お委(まか)せ致すでござりましょう」
と低く、低く、腰をかがめるのだった。


一八[編集]

雪之丞が、手の裏を返すように、折れて出たのを見ると、三郎兵衛は、ニヤリと猫族(びょうぞく)に似た白い歯を現して、
「そうじゃ、そうじゃ、そのように物わかりがよう無うては、芸人はなかなか出世がなりませぬ。いかに名人上手というても、やはり上つ方の、ひいきが無いと、人気は持ちつづけられぬもの――そなたのようにおとなしい気持でいれば、一生、現在の評判をもちこたえること疑いなしじゃ。ことさら、浪路さまは、今夜こそお微行(しのび)なれ、大奥の御覚第一、このお方の御機嫌さえ取って置こうなら、どんな貴いあたりにも、お召しを受けることも出来よう。そうなって御覧じろ、役者としては、日本開闢(にほんかいびゃく)以来(いらい)の名誉ではあるまいか――」
と、べらべらと、しゃべり立てたが、
「そういう中にも、何か邪魔がはいるとならぬ。さあ、こう来なさい。御息女のお小やすみの部屋に、わしが案内をして取らせましょう」
江戸で、物産問屋としては、兎に角、指を折られるまでに、立身している身で、自分から淫(いた)ずら事の手引きをしようとする、この三郎兵衛の態度に、雪之丞は堪(た)えがたいいまわしさを覚えて、ほとんど吐き気すら感じて来るのだった。
けれども、どこまでも頭を下げて、
「何もかも、あなたさまの御恩でござりまする――わたくし風情が御息女さまのお側に出していただけるのは、思いがけないことで、どうぞあなたさまよりも、よろしゅうお口添を願い上げまする」
「よいとも、よいとも、この三郎兵衛が、呑み込んだ上は、大丈夫。まあ、何事もまかせて置きなされ」
一歩、一歩、拭き込んだ廊下を、まるで汚物でも撒かれている道を歩かせられるような、いとわしい、やり切れない気持で、雪之丞は、奥まった茶室風の小部屋の方に導かれて行くのだった。
三郎兵衛は、しいんとした小部屋の前まで来ると、軽い咳ばらいをして、襖をあける。控えの三畳に、つつましく坐った小間使に、笑がおを見せて、
「御息女さまに、三郎兵衛、まいった由、申し上げて下され」
と、礼儀だけに言って、かまわず、雪之丞の手を引くようにして、小間使のあとからはいって行った。
休息用の、ふさ飾りのついた朱塗蒔絵(しゅぬりまきえ)の枕は、さずがに、隅の方へ押しやって、やや居くずれて、ほのかな灯影(ほかげ)に、草双紙の絵をながめていた浪路、三郎兵衛が来たというので、目を上げると、パアッと、白い頰に血を上らせた。
「ま!」
彼女の、紅い唇から、驚喜のつぶやきが、思わず漏(も)れざるを得ない。閾(しきい)うちに膝を突いた三郎兵衛と並んで、そこにしずかにひれ伏しているのは、今日偶然舞台でその姿を一目見てから、ゾーッと身ぶるいの出る程の恋ごころをおぼえてしまった、上方下りの雪之丞その人ではないか!
三郎兵衛は、さも、内輪な、したしげな調子で、親密なまなざしを送りつつ、
「浪路さま、雪之丞が、おつれづれを、おなぐさめいたしたいと申してまかり出ました。上方のめずらしいお話もござりましょう。お相手おおせつけ下されまし。さ、雪之丞どの、まそっと、お進みなさるがいい」


一九[編集]

雪之丞が目をあげると、その瞳は、熱い、燃えるような視線を感じるのだった。
愛の、悶えの、執着の熱線だった。
そして、それは、浪路の魂と肉との哀訴(うったえ)だった。
浪路は、片手を脇息(きょうそく)にかけて、紅唇にほほえみをうかべようとするのだったが、その微笑は口ばたに硬ばりついて、かえって、神経的な痙攣(けいれん)をあらわすにすぎなかった。
三郎兵衛は、二人の目が、ピタリと合ったまま、うごかぬのを見ると、チラリと冷たい笑みを見せて、
「では、わしは彼方(むこう)のお座敷でまだお相手をせねばなりませぬゆえ、ゆかせて頂きます。雪之丞どの、御息女さまは、ようくおたのみいたしましたぞ」
そう、いい捨てると、そのまま姿を消してしまった。
浪路の、白い咽喉(のど)から、いくらかかすれたような声が、はじめて洩れる。
「さ、これに、進みや」
雪之丞は、しおらしげに膝をすすめた。
「いそがしいところを、今宵は、とんだ目に逢わせましたな」
浪路は、相手に遠慮を忘れさせようとするだけの、心の余裕を持つことが出来はじめた。
彼女は、かねがね、大奥の、口さがない女たちが、宿下りの折々に、贔屓(ひいき)の役者と、ひそかに出逢いをして、日ごろの胸のむすぼれを晴らす、その時のたのしさ、うれしさを聴かされてもいた。
――何も、こわがることも、うじうじすることもない、だれもがすることだ。この男だとて多分、多くの女たちの、もてあそびになって来た身であろう――
時分をはげますように、そんな風に思って見たが、すると、又、激しい愛慾の悩みが、白くむっちりと膨(ふく)れた胸を、嚙(か)む。
――でも、わたしには、辛抱できない。一度、この人をわが物とすることが出来たら、他人の手には渡せない――
彼女は、雪之丞が、あまりにつつましすぎるのを、怨じがおに、
「その上、又、わたしのようなものの、つれづれの伽までたのまれて、さぞ、心苦しゅうありましょうな」
「いいえ、御息女さま」
雪之丞の、澄んだ、しかし、ねばっこさのある声が遮った。
「何でそのようなことが、ござりましょう。わたくしのようなものが、貴いお身ちかく出ますのが、あまりに勿体もうて――」
「まあ!何ということを!」
浪路は、媚びられて、うれしさに沸きたつ胸を、しいて、つんとして見せて、
「そなたは、どこまでも、他人行儀にして、わたしを近づけまいとするそうな」
そのとき、しずかに、小間使が、蒔絵の膳に、酒肴(しゅこう)をのせて運んで来て、また、音もなく立ち去るのだった。
浪路は、まだ遠い二人の仲を近よせる、いい仲立を得て
「もういつか、秋も深うなって、夜寒が、沁(し)みる――さ、酌(しゃく)をしますほどに、ゆるりとすごすがようござります」
と、ほっそりした手に、杯を取って、雪之丞にすすめる。雪之丞は、
「いえ、わたくしが、お酌をさせていただきまする」
と、いなむのを、
「ま!いつまで、そんな堅苦しい――」
そして、二人の杯は美酒に充たされた。


二〇[編集]

雪之丞は、出来るだけすなおに、浪路と、さかずきを、さしつ押えつするのであった。
しかし、彼に取っては、いかなる美酒の香味も、まるで鉛の熱湯を呑みおろすような気持をあたえるに相違なかった。
――辛抱だ――これが、男の辛抱だ!
と、彼は魂に叫ぶ。
――この人の肺腑(はいふ)に食い入って、身も心も迷わせてやれば、お城づとめがおろそかになるに相違ない。
この人が、お上をしくじった暁には、三斎の、いまの勢力は地を払うであろう――
――それが、一ばんいたい心の手傷となるわけじゃ。どこまでも、美しい胸の奥をとろかさねばならぬ――
「ほんに、何という冥加(みょうが)なわたくしにござりましょうな」
と、彼は、片手を襟(えり)にさし込むように、いくらか流し目さえ使って、浪路をながめる。
「やんごとないお方さまの、お身ちかく、この世でならびない、御栄華にお生きなされているあなたさまのお側で、たとえ、たったしばしの間でも、こうして御贔屓をおうけいたせるなぞとは、上方をはなれますとき、思いも及ばぬことでござりました」
「何をいやるぞ――そなたは?」
と、浪路は、恨みをふくめた目で見返して、
「わたしが、上さまのお側にはべる身ゆえ、それが仕合せでもあるように、そなたは思うていやるそうな――」
「それが、仕合せでのうて何が仕合せでござりましょう?この日ッ本国中の、女性という女性、それをうらやまぬものが、あろうはずがござりませぬ」
雪之丞はべったりと、居くずれるようにして、横がおを見せるのだった。
浪路は、この﨟(ろう)たく、しとやかな優人と、世情にうとく、色黒な貴人とを思い比べて見ることさえ、苦しく、やるせなく、心恥かしかった。
「もうそのようなこと、いわずに置いてたも。さも、わたしが、好んで大奥にあがったものであるように――」
雪之丞は、それが耳にはいらぬもののように、ホーッと、深い吐息をして、
「わたくし、おいとまをいただきとうござりますが――」
急に、サッと、浪路の顔いろがかわって、
「なぜ――にわかに、そのような!」
「でも、考えて見ますと、あまりに空おそろしく――」
「何が、おそろしいと、いやるのか――事ごとに、わたしのこころに、針を刺さいでも――」
浪路は、べったりと、雪之丞の方へもたれかかるようにして、
「そなたには、わたしのこのこころが、わからぬと見えますな――舞台の上では、あのようにやさしく、しおらしゅうお見えであるのに、あんまりおもいやりが無さすぎます」
「御息女さま」
と、雪之丞は、かたちをあらためて、膝を正して、
「あなたさまは、わたくしを、おなぶりあそばすのでござりますか?いやしい稼業(かぎょう)はいたしておりましても、男のはしくれ、あまりのおたわむれは、罪ぶこうござりましょうに――」
「わたしが、そなたをなぶるといやるかえ?」
重ねた杯に、ぼうと染ったまなじりに、限りない媚(こ)びを見せて浪路は、一そう若きわざおぎにもたれかかるようにするのだった。


二一[編集]

雪之丞は、だんだんに酔い染って来るような、浪路を眺めていると、胸苦しさが募(つの)ってゆくばかりだ。
――この人は、たしかにもう、わしの手の中に落ちてしまった。この人はわたしからはなれることは出来ぬ。
そう思うと、自足のおもいにおのずから、冷たい微笑が、唇を軽くうごかさずには置かぬ。
「御息女さまに、こうしてたた一夜でもお目にかかって、このまま一生、お召しもうけなかったら、わたくしは一たいどうしたらよろしいのでござりましょう」
「何といやる――このまま、もうあわずなる――そのようなことがありましたら、このわたしこそ、とても生きてはおられませぬ。そのようなことを、いいだして下さるな」
少女の、熱い熱い吐息は、みじんいつわりをまじえていない。蔑(さげ)すみと呪いとに充たされた雪之丞の、目にも魂にも、それはよく感じられるのだった。
すると、彼も亦、多恨の青春に生きる身ではある。思わず、美しい浪路から瞳をそむけないではいられない。
――かあいそうに、この人は、何も知らないのだ。この人には、罪も恨みもあるはずがないのだ。それなのに、わしは、ひたすら、いつわりで心をとろかそうとばかりしている――空おそろしいわざではあるまいか――
胸の奥底を、その瞬間、いうにいえぬ痛みが突き刺す。
――あわれな、罪深いわざは止したがよくはあるまいか?
「わたしは、癪(しゃく)さえとり詰めるような気がしてなりませぬ」
と、浪路は訴えた。
「もうじき、こよい、お別れせねばならぬと思うと――」
雪之丞は、咄嗟(とっさ)に答えることが出来なかった――彼の舌は硬(こわ)ばった。
――わしには、これ以上のことは言われぬ――この人は、ほんとうにわしのことを思いつめておいでなのだ。こんなに、こんなに、手先がふるえていられる。
けれども、やがて、彼の激しい熱情がよみがえった。
――いいえ。わしは、こんな気弱いことでどうするのだろう!この人は三斎の娘なのだ!三斎の分身なのだ。この人を苦しめるのは、憎い三斎を苦しめることなのだ。わしはどこまでも、土部一家に祟(たた)らねばならぬ。この人の身も、魂も、かき裂いてやらねばならぬ。この人を公方さまの側から引き離して、にがいにがい味を、三斎にまず味わせねばならない――わしは、気を弱らしてどうするのだ。
雪之丞は、父親の、あの悲しみと憎みとに燃えた、みじめな最後のすがたを思い出す。
彼は、カーッと、全身が地獄の炎で焼き焦されるような気がした。父親の、まぼろしの顔が物すさまじく痙(ひ)き攣(つ)るのが、まざまざと見られる。
彼は、呵責(かしゃく)の毒煙にまかれながらわが子を呪(のろ)う――怒る――責める――
――不幸者め!心弱い、愚か者め!誓いを忘れたか!この父親の冥府(めいふ)の苦しみを忘れたか!浮かばれぬのだ。浮かばれぬのだ!早く、早く修羅(しゅら)のうらみを晴らしてくれぬことには、いつまでも成仏出来ぬこの身なのだ――雪太郎よ!雪太郎よ!この怖ろしのさまが見えぬか!


二二[編集]

相手が女性、しかも、父にこそ恨みはあれ、何の罪科(つみとが)もない人を思うと、自分のもくろみがあまりに悪辣(あくらつ)な気がして、やや、心が屈しかけた雪之丞、ふと、不幸薄命に狂死した親のまぼろしを目にうかべ、冥府からの責め言葉さえ耳にして、ハッと我に返った。
――そうじゃ、わしは父御の子じゃ、父御所のうらみをむくいるために、この一生を賭けた身じゃ。今更、何をためらうのか!どこまでもどっこまでも、鬼になり、悪魔とならねばならぬ――
そう、胸の中に、おのれを叱って、
「御息女さま、それならば、これからのわたくしは、いつもいつも、あなたさまが、見守ってくだされているつもりで暮しまする。舞台に立つときも、ほかのお客さまに見せようと思わずただ毎日あなたさまが、あの桟敷(さじき)においでなされると考えて、懸命につとめまする」
「ほんに、何というやさしいことを――」
と、浪路は、ゆめましげに、
「わたしも、御殿にいるうちも、いつもそなたが忘られるはずはありませぬ――上さまお側にはべるときとて、屹度(きっと)屹度そなたのことのみ思い暮しましょう――」
「この雪之丞、上方にても、ただたださまざまなまどわしに逢いかけましたこともござりますが、ただ一すじに芸道第一、ほかのことには心をひかれずくらしてまいりました。しかし、今日からはさぞや変った心となりましょう――恋とやらはせぬがましときいてはおりましたが、たやすくお目にかかれぬ、とうといお身の上のお方さまをお慕いまいらせては、いのちさえ細るに相違ござりませぬ」
浪路も、ホーッと熱い息をして、雪之丞の女にもまごう手先をじと引きしめると、
「こよい、一夜でも、ゆるりと話が出来たらばのう――」
二人は、目と目を見合わせて、しばし言葉もなかった。
すると、そのとき、廊下の方で、軽い足音がして、例の三郎兵衛のしわぶきの音――
のこり惜しげに、若い二人の手がはなれる。
三郎兵衛がさも生真面目な様子で現れて、
「浪路さま、御気分がなおりましたら、御かえりの時刻も迫りましたゆえ、お支度をとの、お父上さまからのお言葉でござります」
「あい。すぐに支度をいたしましょう」
と、つややかな、鬢(びん)のあたりに、そっと手をふれて、浪路が答える。
三郎兵衛は、雪之丞に、
「御隠居さま、仰せには、折角、なじみになったそなた、このまま別れるのも心のこりがするゆえ、お屋敷まで、見送ってはくれまいか――とのお話、――明日、楽屋入りも早いこと、迷惑ではあろうが、どうであろう、御一緒に帰ってほしいと思うが――」
浪路の、しおれた風情に、サーッと活気がよみがえる。
雪之丞は、元より渡りに船――一度は、三斎住居の模様をも、十分に見きわめて置き度いのだ。
「お言葉までもござりませぬ、お門までは是非お送りさせていただきまする」
「門までといわず、ゆるりとお邪魔いたして、かさねて上方の話でも申上げるがよい。御隠居さま、そなたが、大そう気に入られたようじゃ」
浪路の挙動は、急に生き生きしくなるのだった。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。