雪之丞変化/歎ける美女

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歎ける美女[編集]

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――わたしは嫌われてしまった!わたしはあざむかれていた!いのち懸けの恋――燃えつきる恋――万人の女が、夢みながら、思い切ってそこまでは誰もつきつめぬ恋――親も、家も、わが身をすべて捧げた恋――恥かしい恋――苦しい恋――、わたしの恋は、蹂(ふ)み躙(にじ)られてしまった!あのお方に取って、魂を焼き焦すほどのわたしの想いは、何でもなかったのだ。あのお方の、舞台の芸と姿とを見て、気まぐれに、どこかの後家どのや、浮気なうかれ女や、はしたない町のむすめが、ほんの一夜、ふた夜、ねられぬ枕の上で描いて見る、まぼろしの恋よりも、もっともっと儚ない、つまらない、いやしい恋としか、あのお方は思っては下さらなかったのだ――わたしはいきる甲斐がない――わたしは、明日のお日さまを仰ぐ力がない――
わが乳で育てた、家柄の貴い一少婦の、世にも激しく、世にも哀れな思いつめた望みを果させる為には、いかなる難儀をも忍ぼうおとする、忠実は乳母と、乳兄弟に当る、正直で素直な倅(せがれ)とで、あらゆる困難を凌いで、見つけてくれた、繁昌な音羽護国寺門通りのにぎわいから、あまり離れていぬ癖に、ここは、又、常緑の森と、枯茅(かれかや)の草場にかこまれた、目白台のかたほとりの隠れ家に、人目をしのび、世を忍ぶ、公方の寵姫(ちょうき)、権門土部三斎のむすめ浪路に、冬の長夜を、せめては、小間に風情を添えようと、乳母がととのえてくれた、朱塗行燈の、ほのかな灯かげをみつめながら、夜毎に小袖の袖袂(そでたもと)を、湿(ぬ)らさずにはいられない。
が、彼女には一生一期(ご)のおもいをして、恋のためには、柳営の権利を冒し、生死の禁断を破り、父兄の死命を制するほどの大事になるに相違ないという予覚も物かは、その人ゆえに、御殿もわが家も捨てて、身を隠したということを、はっきりと知りながら、そっと忍んで、訪ねてくれることは愚かなつかしい文一つ、ことづけてよこそうともせぬ雪之丞を、うらみごとも、責めることも出来ないのだった。
――わたしは忘れられた、捨てられた。あのお方は、やっぱし世の常の芸の人で、いのちがけの女の恋なぞは、おわかりにならないのだ。いいえ、女の一人、百人、自分のためにこがれ死に死んだとて、わが身の罪と、嘆くことなぞはしていられないお人なのだ。芸ばかりがいのちの、氷よりも冷たい胸のお人だったのだ――
と、そう、思いあきらめようとしながら、しかし、どこか、胸の底の方では、
――いいえ、わたしは、わが儘だから、あの方の、深い深い、わたしたちには解らない、おこころづかいをお察しすることが出来ないのかも知れない。何か、それには仔細(しさい)があって、今当分は、わざと遠お遠おとなされた方が、のちのちのためによいとおもわれての事かも知れない――あのお方には世間がある、芸がある――それを、一途(ず)に、女気で、おうらみしたら、何というわけのわからない女を、おさげすみをうけるかも知れない――いかに何だと言うて、これほどまでに、かたくかたく言葉を契ってくだされた雪之丞どの、これほどのわたしの想いを、草鞋(わらじ)とやらを穿(は)き捨てるように、投げ捨てておしまいに道理がない――じッとじッと忍んでいましょう――そのうちに、この月の芝居もすんだなら、世間を忍んで、必ず、おたずね下さるに相違ない――わたしは待ちます!じっとじっと、しずかにして――
と、そんな方に、自ら慰めて見ずにはいられない彼女でもあった。


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こうも呪い、ああも、自ら撫(なだ)め、日を、夜を、垂れ籠めて、たった一人小むすめを相手に、せめてもの慰みは、新版芝居錦絵、中村座当り狂言の雪之丞の姿絵、三枚つづきの「滝夜叉」に、その人をしのぶ事だけの浪路だった。
ある晩、吹きつづけた凩(こがらし)が、しいんと、吹きやんで、天地が、寒夜の静もりに沈んでゆくような晩だったが、相変らず、錦絵をならべて、小むすめに、絵ときをしてやったあとで、菓子簞笥から、紅い干菓子を、紙に分けてやって、
「千世、おあがり」
と、すすめてやって、どこか、若衆がおの愛らしい横がおをみつめて、何を思ったか、ぼうと、いくらか、頰をうすく染めた浪路――
「ねえ、千世、たのみがあるのだけれど――」
八丈柄の着物に、紅い帯をした小むすめは、女あるじをみつめた。
「何でござります?」
「いいえね、格別、六かしいことではないのだよ――わたしと二人、夫婦(めおと)ごっこをしてあそんでおくれな――いいでしょう?」
「めおとごッこ?」
めおと――と、いう言葉が、十五の少女にも、ある恥かしさと、感じさせたと見えて、これも、顔を紅くした。
「ほ、ほ、何でもないの――只、わたしの言うことに、あいあいと、返事をしてくれれば、それでいいのだから――してくれるわねえ――あそんでくれるわねえ――何でも好きな御褒美(ごほうび)をそなたの――ほしいものを上げるから」
こむすめはうなずいた――千世は、いつもいつも淋しげな、はかなげな浪路を、どうにかして、慰めてやりたいと、若いこことにも、思っていたのだった。
「でも、うまく出来ますかしら?」
「出来ますとも――」
頼りない身には、主も、家来もなかった。浪路は、まるで、親友に対するように、千世に頼んだ。
「出来るから、今、いうとおり、わたしの言葉に、あいあいと、そういってくれるのですよ」
「はい」
「では、はじめます――いいこと?何でも、出来るだけ、男らしく、だけど、やさしく返事をしてくれるのですよ――お前が、旦那さまなのだから――」
そう言って、浪路は、小むすめの肩に、藤いろの小袖の袂をかけて、抱き寄せるようにして、
「まあ、そなたは、こんなに長う、お目にかからなんだわたしを、可哀そうとは、お思いになりませなんだのかえ?雪どの、さ、何とか、返事をしてたも――」
と、熱くささやいて、そして、そして、自分の言葉に、酔い溺(し)れるかのように、もたれかかったが、千世は身をすすめたまま、答えられぬ。
「駄目ではないの、千世!」
と、浪路は夢をさまされたように、おこりっぽくいったが、また、機嫌をとるように、
「さ、何とか、返事をして――」
「あいあい」
「あれ、あきれた千世――わたしが恨んでいるのに、あいあいでは――」
「でも、あいあいと、いえとおっしゃいましたから」


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「さあ、言ってくれるのですよ――千世、ね、こう言ってくれるのですよ――いいえ、決して、あのときのことを、忘れはしませぬ――と、そう言っておくれなさいな。ね、千世」
千世は、女あるじの、柔かな腕の中に抱きしめられて、ますます紅くなりながら、それでも、
「はい、では、申します――いいえ、決して、あのときのことを、忘れはいたしませぬ」
「それなのに、なぜ、いつまでも、お顔を見せてはくれなかったの?わたしは、うらみつづけに、うらんでいました」
又しても、千世が、口ごもってしまったとき、外で、
「御免下さりませ」
千世がホッとしたように女主の、脇をすり抜けて、入口の方へゆく。小家なので、音ずれて来た人のこえは、よく判ったが、それは、乳母の倅の、甚太郎――正直、まっとう、主すじの人のためにはいのちまでも、いつでも投げ出そうとしているような気立だ。
通されると、閾(しきい)の外に、小さくなって、節くれ立った手を突いて、オドオドと、辞儀を申し述べる。
「もう、わたくしも、おふくろも、毎日、毎晩、御機嫌をうかがわなければならないのでござりまするが、何分とも、松枝町のお屋敷の方が、絶えず、目をつけて、おいでなされますので、うっかり、こちらへ足を向けましたら、一大事と、つつしまねばなりませぬので――」
「では、まだ、松枝町では、おまえたち母子(おやこ)を、うたがっているのかえ?」
「はい、お行方をかくされましてから、何度も何度も、お呼びだし、おどしつ、すかしつのお尋ねでござりましたが、口を割りませなんだで、どうやら、御嫌疑も晴れたようでござりますが、それでもまだ、油断がならず、ときどき、不思議な風体のものが、ちの近所を、うろうろいたしておりますので――」
「それは、さぞ、気色のわるいことであろう――みんな、わたしの罪、お気の毒でなりませぬ」
「いいえ、左様なことはござりませぬが――実は、今晩、人目を忍んで、上りましたのは――」
と、いいかけて、甚太郎は口ごもる。
「え!何か、特別な、用事ばし出来まして?」
と、浪路がみつめる。
「はい、おふくろが申しますには、お屋敷の方は、あなた様が、お家出をあそばしてから、それはもう、言語道断の、御難儀、お城からは、毎日のように、御使者で、行方を責め問――御隠居さまも、とんと、御当惑――一日のばしに、お申しわけをなされていたのでござりますが、娘の我儘をそのまま上意をないがしろに致すは不届至極と――これは、うけたまわったまま、失礼をかえりみず申し上げるのでございまするが、いやもうことごとく御立腹――御隠居さまの御不首尾は勿論、殿さま――駿河守さままで、御遠慮申さねばならぬおん仕儀――この分にては、折角の上さまお覚えも、あるいは、さんざんに相成るのではあるまいか――と、御一統、御心痛の御容子――出来ますことなら、あなたさまに、おかんがえ直しが願えたなら、八方、よろしかろう――と、おふくろも、泣いて申しますので――」
「で、わたしにそれをいいに来てくれたといやるのか?」
と、浪路が、鋭く遮(さえぎ)るようにいった。


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「まあ、では、乳母も、そなたも、この浪路に、どうあってももう一度、うちへ戻れと、こういうのだね?」
と、浪路は、甚太郎の、朴実(ぼくじつ)な顔を、憤(おこ)りッぽくみつめていった。
率直な男は、あわてた。
「いいえ、どうつかまつりまして、あなたさまに、戻れ帰れのと、そのような、失礼なことを、どうして申し上げられましょう。ただ、いかにも、お屋敷の、お父ぎみさま、お兄ぎみさまの、御当惑がお気の毒でなさりませぬゆえ、お城をおさがりあそばすにいたせ、一応は、お顔をお見せなされまして大日晴れて、お暇を願うことにいたしたら、八方、美しくおおさまりになるであろう――と、そのように、母親も、母親も、いい暮しているものでござりますから――」
「まあ、その乳母までが、それでは、わたしのあのような頼みをも、打明けばなしをも、裏切って、お城や、お父上の、味方についてしまったものと見える――それも、道理といえば道理――わたしは今日、世をしのび、お前方の情でかくまって貰っている身、何の権威もなくなってしまっているし、その上、わたしのいうままにしていたら、あとで、きびしいお咎(とが)めもあろうかと、案じるにも、無理もない。今更、お前たちがわたしを、この家に置くのを、迷惑とお言いなら、いかにも、尤もゆえ、早速、ここを立ち去りましょう――」
浪路は、美しい顔を、青ざめさせて、唇を、血の出るほど、嚙みしめるのであった。
甚太郎を、ますます弱り切って、
「めッそうな!われわれ親子が、あなたさまを、おかくまい申すのを、迷惑の何のと、何でそのような罰あたりなことを思いましょう。あなたさまのお為めなれば、いのちも何もいりはせぬと、とうから言いくらしているおふくろが、それではあんまり可哀そうでござります。どうぞ、もう、そのようなことを、フッと、おっしゃらずと下さいませ」
「でも、お前がたは、どうでも、わたしに松枝町に戻れと申すではないか?」
「いやいや、もし、そうなされたら、御一家さまもさぞおよろこび――と、存じ上げたまでの、差し出口でござりましょう」
「それにしても、あんまり思いやりのない言葉――一たい乳母は、このわたしが、二度と、生きて、あのいやないやな、公方さまのお顔を見る気があると思うているのであろうか?わたしは、そのような破目になったら、いつでも、いのちを捨ててしまう。この咽喉に、懐剣の切ッ先きをつき刺してしまう。いやいや、舌を嚙み切っても死んでしまう――もう、お父上、お兄上のおためには、浪路は、若い若い、清らかな清らかな一身を、すっかり牲(にえ)にささげて、あのいとわしい貴いお方のお側に、あまりに長う辛抱をしすぎました。これからは、たとえ殺されようと、八ッ裂きにされようと、火あぶりに、しばり首、はりつけの刑に処せられようと、もはや、自分のためにばかり生きて行く決心――このあたしの、激しい、悲しい、たった一つの望みを、甚太郎、そなたすらもわかってはくれぬのか?」
怨じて、じっと注いで来る、美しき人の目を、相手は、どうそらしていいか、わからぬもののように――
「そうおっしゃられますると、わたくしめは、申しわけなさに、それこそ、首でも吊る外はござりませぬ。そこまでのお言葉なれば、おふくろにいたせ、わたくしは勿論、今後とも、もうくどう御諫言(ごかんげん)めかしいことは申し上げますまい――」
と、いい切る外はないのであった。


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浪路は、詫び入る甚太郎の言葉が、耳にはいらぬように、
「いかに、おな子の身は弱いというたとて、どこまでもどこまでも一家、一門のために、牲に生き、牲に死ぬほかはないと言やるのか?乳母や、そなたまで、わたしを公方のもとに追い戻そうとたくもうとは、何という、頼み甲斐のない――」
と、言いかけて、哀しみの涙か、くやし泣きか、ハラハラと、青白い頰を、湿らすのだった。
甚太郎は、ますます恐縮して、
「なかなかもちまして、そのような、悪気から申し上げましたでは、さらさらござりませぬ。一一、ごもっとものお言葉、おふくろにも、立ち戻りまして、申し聴け、おわびに向わせましょうほどに、お気持を、お直し下されまして――わたくしどもは、くりかえし申し上げますとおり、あなたさまのお為めのみを、はばかりながらお案じ申しているばかりでござります――」
すると、それを、聴きすましていた浪路、急に、フッと、涙の顔をあげたが、
「ほんとうに、甚太郎、そなたは、わたしを、あわれと思うていてくりゃるか?」
目を反(そ)らさずに、甚太郎、
「申すまでも厶りませぬ――たとえば、松枝町さまが、御恩人とは申せ、そなたさまには、恐れ入ったおはなしなれど、乳をさし上げた母親(おふくろ)――わたしはその倅――おん家よりも、そなたさまこそ、くらべようなく大切と、存じ上げておりますので――」
「それならば、わたしの、生き死にの望み――生れて、たった一つの望みを、どうともして、叶わせてくりょうと、日ごろから、念じていてたもっても、よさそうなものと思いますが――」
浪路は、いくらか、怨じ顔に、
「実はたった今も、叶わぬ想いに、胸を嚙まれて、うら若い千世を相手に、くりごとを言うていたところ――のう、甚太郎、おもはゆい願いなれど、かくまでの、わたしの苦労を察してくれたなら、どうにもして、此の世で、今一度、かのお人に、逢わせてくれるよう、はからっては貰われぬか?」
ほんに、いかに、主従同然な仲とはいえ、女性(にょしょう)の口から、このことをいい出すのは、さぞ苦しいことであったであろう。甚太郎にもそれはよくわかるのだった。
「はい」
と、切なそうに、彼はうなずいて、
「それはもう、わたくしも、あの後、何度となく、人目にかくれて、かのお人のお宿まで、出向きましたなれど、いつも、あいにくお留守のあとばかり――」
「いいえ、大方、わたしよりの使と察し、間のものが、取りつがぬものでもあろう――あのお人は、なかなかに心のゆき渡った方でありますゆえ、なまじ逢うては、わたしにあきらめの心がつくまいとわざとさけておいでのことと思えど、このままでは、わたしに、もう、生きつづけてゆけぬ気がします――いのちの火が、燃えつきてしまうような気がします。ねえ、わたしをあわれと思って、乳母と二人力をあわせ、何ともして、逢瀬をつくってはたもるまいか?」
浪路は思い入った調子で、
「もし、そなたが、いとわねば、わたしみずから、身をやつしてなりと、かのお人の宿元まで、忍んでゆきたいと思うのだけれど――」
と、いっているうちに、狂恋の情が抑えられなくなったように、
「甚太郎、明日といわず、今夜これから、案内してはくれぬであろうか?」


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浪路の狂熱は、逃げられぬおのが願望について、くり言をしているうちに、ますます煽られて来るのであった。
彼女は、もう、どうにもおのれを抑えることが出来なくなったように見えた。
「ねえ、わたしを、宿屋の入口まで、案内してたも――わあしはどうあッても、雪どのに逢いたい。逢わねば、もはや、生きる気もない。のう、甚太郎、あわれと思わば、何とかしてたもれ――のう、甚太郎――そなたと、わたしとは、言わば、乳兄妹(ちきょうだい)ではないか――そして、わたしのためなら、どんなことでもしてくれると、たった今、言ってくれたではないか――」
甚太郎は、とんだ破目になったというように、うつむいて、膝に載せた、わが手の指をみつめるようにしたまま、頓(とみ)には答えることも出来ない。
浪路は、あせりにあせって、
「それとも厭と、お言いか?厭とおいやるなら、強(し)いては頼まぬ――広いとて、江戸の中、わたし一人でも、よも、尋ねあたらぬことはあるまい」
きッと、睨めすえるようにして、言い放つ、浪路の目つきに触れると、甚太郎は、竦然(しょうぜん)と、肌(はだえ)が、粟立つのをすらおぼえるのだ――
――おお、何という恐ろしい、女子(おなご)の執念であるのだろう?まことや、むかし、清姫は、蛇ともなり、口から炎を吐いて、日高川の荒波を渡ったとか――このお方を、このまま、すげなく突き放したならば、あられもなく、夜ふけの道を、さまよい出すに相違ない――お美しい目に、あの奇(あや)しい光、これは、尋常のことではない。
「のう、甚太郎、どうしてくりゃるつもりじゃ?厭なら、厭と言や――頼みはせぬぞえ」
柳眉は引き釣り、紅唇はゆがんで、生え際の毛が、ざわざわと逆立つようにさえおもわれるのだった。
――詮方ないことだ。では、今夜これから、せめて、もう一度、雪之丞どのをたずね、かくまで焦れあがいておいでの、ありさまなぞ打ち明け、足をはこんで貰うことにしよう。万一、雪之丞どのが拒みもしなば、そのときこそ、たとえ、腕ずくにてでも、ここまで連れてまいる外はない。
甚太郎は、雪之丞の、秘剣秘術を知る由もないゆえ、力立てをしても、浪路との逢瀬をつくってやらずばなるまいと思うのだった。
そこで、決心して――
「わかりました。では、今宵こそ、この甚太郎、雪之丞どのに、どうしてもお目にかかり、是非ともお供をしてまいるでござりましょう――どうぞ、あてにして、おまちなされて下さりませ」
が、浪路が、荒々しく頭を振った。
「いえいえ、それは、無駄なこと!」
と、彼女はいきどおろしげに、
「雪どのは、もはや、決して、わたしに逢うまいと、思い定(き)めておいでに相違ない。それゆえ、そなたが、口を酸(す)くして、すすめてくれようと、よも、ここまで、足を向けようといたすはずがない――わたしには、よくわかる――そなたが、心をつくしてくれようとの気持はかたじけないが、おなじことであれば、わたしを、案内してたも――わたしが、是非に逢う。逢うて、訊きたいことを、きっぱり聴かねばならぬ。さ、夜があまり更けぬうち、道しるべをしてたも」
彼女はそう言うと、千世を呼んで、鏡台を運ばせなぞをするのであった。


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この隠れ家に住むようになってから、勿論、髪も、衣類も、町家風俗、されば、夜あるきをしようとも、さらさら、だれの怪しみをも買わないであろう。
浪路は、上臈(じょうろう)に似げない性急さで、髪をかきわけ、顔を直すと、立ち上って、
「さ、甚太郎、案内しやーー大方山ノ宿と聴いた。そこまで出て、かごをやとわば、更けぬうちに着くであろう――千世、留守居を、ようしていやれ」
甚太郎もはや、思い止まらせることも出来ず、力なく
「さらば、お供をば致しましょう」
ところが、隠れ家の、さびしい灯の下で、かかる場景が展開されつつあったとき、この、町並みからかけはなれた、隠宅むきの小家の、生け垣の外を、さきほどから、黒頭巾、黒羽織、茶じまの袴に雪駄穿(ば)きの、中年をすぎたようなからだつきの武家が一人、さっきから、足音をしのんで、ゆきつもどりつ、家内(なか)の容子を聴きすまそうとしていたのであった。
もとより暗い森かげ、人通りもないから、この武家のすがたに目をつけるものもなく、何の邪魔もなく、うかがいつづける事が出来たわけだ。
この黒衣の人物は何物だろう?
土部三斎と、長崎以来、これも深い慾得ずくの関係を結んでしまった、こないだ、広海屋火事の晩非業に倒れた浜川平之進と、相役をつとめて、賄賂(わいろ)不浄財を取り蓄(た)め、今は隠居を願って、楽々と世を送っている、横山五助その人なのだった。
横山五助は、今でも土部家の言わば、相談役のようなことをつとめていたが、浪路の失踪以来、彼女の行方不明が公になったなら、単に、三斎、駿河守の一身上の大問題となるばかりでなく、それがきっかけになって、昔の悪業が、天日の下に、曝し出されることになろうも知れぬと、懸念から、どうあっても、彼女を探ね出し、穏便にすむうちに、大奥へ送りかえさねばならぬと、いみじくも決心している一人であった。
何分、この男、長崎代官所で幅を利かせていたころから、目から鼻へ抜ける才智と、ころんでも只は起きぬ狡獪(こうかつ)さとで鳴らした人間だけあって、現在は、浮世ばなれた、暢気らしい日を送っていてもなかなかどうして、油断も隙もある男ではない。
これが、浪路の失踪の裏には、何としても、乳母一族が存在して力になっているに相違ない――さもなくば、世間知らずの彼女に、世にかくれつづけていられるはずがないと見て取ってしまっていたのだ。
一たん、そう思い込めば、たやすく、その考えを捨てる五助ではなかった。
――どうでも、乳母一家があやしい、三斎どのは、すっかり信じ切っておられる乳母や倅だが、その悪堅いところが、却て、わざをする。浪路どのに頼まれて、一たん、うけあった以上、死のうと生きようと、便宜をはかろうとするに相違ない。拙者は、あくまで、あの一家を、怪しく思う。拙者は、目を放すことではないぞ。じっとじっと、辛抱して、目をつけているうちには、彼等は、何かしッぽを出すに相違ない。そのときには、この拙者が、ぎゅッとその尾をつかんでやる。そして、浪路どのの行方をつき止めてやる。
そうした横山五助が、黒覆面に顔をかくして、乳母の家のまわりを警戒していた折も折、今夜、甚太郎が、さも人の目をはばかるように出かけたのだからたまらない――彼の尾行は、とうとう成功してしまったのだった。


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その横山五助、どうにかして、浪路の行方を突き止め、土部家へ戻そうとして、たった今まで、心を砕き、この小家をとうとう発見したのであったが、人間の欲念というものは、奇(あや)しいものだ。日ごろ、ずッと眠りとおしているのが、どんなきッかけから、呼びさまされて、急にムクムクと、頭をもたげて来るかわからない。
小家のまわりを、警戒しながら、ちらちらと、かすかに漏れて来る美しいこえを聴いているうちに――そして、甚太郎との物語りが、なかなか尽きそうもないので、いらだたしい気持を押えかねているうちに、ふッと、
――浪路どの、どんな暮しをしているのか?大奥で過していた身が、こんな乏(まず)しげな家で――
と、思って、裏手にまわって、閉め忘れたらしい小窓に、灯火(あかり)がほんのりさしているのを見つけ、はしたなく、隙見をしたのが、因果だった。
怨じやつれた、美女が、丁度そのとき、おくれ毛もそのままに、雪之丞に対する熱い恋を、甚太郎に、掻きくどいているところだったのである。
その風情が、何とも言われず、艶で、仇めいて、横山五郎、生れてはじめて接する魅惑的な光景であった。
彼の中年すぎの、汚らわしい情熱が、彼自身、思いも設けず掻き立てられた。
――なるほど、美しい!なまめかしい!今までは、これほどの娘とは思わなかった。
ゾーッと、身ぶるいが通りすぎた。
そして、その刹那から、どうにかして、浪路に、ぐッと密接したい欲望が、ムラムラと湧き上ったのだ。
彼は、隙見しながら、急に、口じゅうに、唾がたまるのを感じた。五体が、燃え上って来た。
――なあに、こうなって見りゃあ、彼は、心につぶやいたが、当の浪路の瞳が、こちらに、ちらりと、送られたような気がしたので、ハッとして、窓をはなれた。
彼は、たった今、もりもりと盛り上って来て、胸一ぱいに蔓(はびこ)りはじめた理念を、もっとハッキリ追ってみようとして、ふたたび、暗い小路に戻って、ゆきつもどりつしはじめた。
妻に死なれて、まる三年、異性からすっかり遠ざかっていた彼の煩悩は、暗がりの中で、ますます燃え上るばかりだった。
――あの娘は、案の定、あの女がたに迷って、そのために、公方の威光も、親の慈悲も、毛ほどに思わず、家出をしたのだ。あの娘は、あの女がたに死ぬほど焦れているのだが、それが、何だ?拙者が、一睨(にら)みすれば、鷲につかまれた小雀ではないか?おどしに掛けさえすれば、どんな言葉でも、拙者のいうことなら、受け容れる外にあるまい――さもなくば、恋も、夢もそれまで、公方の許に帰ってゆく外にないのだから――
五助は、一度、胸の底にふすぶり立った。欲情の火を、大きくならぬうちに消してしまおうとは試みなかった。只、ひたむきに、その炎が、全身を焼くにまかせた。
――よし、どうしても、拙者、あの娘をあのままに置けぬ。これまでの浪路ではない。世の中に自分から投げ出しているあの娘だ。
そう独り言(ご)ちたとき、彼は立ちすくんだ。浪路のかくれ家の入口の戸が開く音がして、二ツの人影が、黒く、闇の中にあらわれたのだった。


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隠れ家を出た二ツの人影は、いうまでもなく、浪路、甚太郎だ。
「この辺は何分、町すじからはなれておりますので、かごは、音羽の通りへ出ませんでは――」
と、甚太郎、
「ええ、何でもありませぬ。一里か二里、思い立ったら、歩けぬことはありますまい」
浪路は答える。
二人の足が向くのは、護国寺前通り――参詣の善男善女、僧房の大衆を目あてに、にぎわしく立ち並んだ町家が、今は、盛り場の観をさえなして、会席、茶屋なぞが、軒を接しているのみではなく、小さいながら定小屋もあって、軽業、奇芸の見世物まで、夜も人足を吸い寄せているのであった。
横山五助、二人の会話を、小耳にはさむと、
――うむ、あの通りに出られてしまっては!
と、呟(つぶや)いて、瞳に、暗いほのおをふすぼらせる。
と、同時に、狂おしい昂奮が、この中年武士の追蹤(ついしょう)の足を早めさせた。
チャラチャラと、雪駄の裏金が、鳴るのをすら、ききはばからせない。
その足音に、ふりかえったのは甚太郎だ。まさか、五助が、ここまで跟(つ)けて来ているとは、思いもかけなかったろうが、闇の夜道なり、人家は途切れた野中なり、ハッと思った風で、道案内に、先へ立っていたのが、浪路を囲うように、うしろへまわって、
「おいそぎ下すって――」
と、低く、不安気に囁く。
少しゆくと、まだ、腰高障子に灯かげが映っている、居酒屋のような小店があるのだ。
浪路も、小走りになる。
が、横山五助、もはや、情欲に前後の思慮を失しているのだから、殆んど、駆けるように近づいて、
「待ちなさい!これ、お待ちなさい!」
と、迫った調子で、喘(あえ)ぐ。
甚太郎、聴き覚えのある声なので、足がすくんだ。
浪路失踪以来、何度か、母親と彼とを威迫すべく訪れた、横山五助だということは、次の刹那に、すぐに思い出せたのであろう。
浪路は、かまわず、走ろうとしたが、無駄だ――はっきりと、彼女の名を、呼びかけられてしまった。
「浪路どの!拙者だ!おまちなさい!」
――おお、横山どのだ!
悪い人に、悪いところでと、くやまれたが、しかし、立ち止まらぬわけにはいかない。
チャラチャラと、近づいた横山五助、闇をすかして、二人を、睨め据えるようにしたが、
「甚太郎、貴さま、不届きな奴だな!よくも、拙者ども、また、お屋敷をあざむいたな!」
皺枯れた語韻で、まず、嚇しが来た。
「は――」
何とか、言いのがれようとして、甚太郎はどもった。
「お屋敷御高恩を忘れ、何たることだ!浪路どのお留守のための御迷惑が、わからぬか!」
五助は、いかめしく言って、いつか、二人の行手をふさいでしまっていた。
甚太郎は、口をもがもがとやるだけだった。


一〇[編集]

だが、恐怖と困惑とに、茫然自失してしまった甚太郎に、横山五助はいつまでもかかり合ってはいなかった。
彼の、闇にきらめく、狂奮の瞳は、浪路に向けて、食い入るように注がれるのだ。
夜の深みにうなだれた、白い、萎(しお)れかかった花のような立ちすがたの――頸(えり)あしの、横がおの、何という悩ましさ、艶めかしさ――五助の魂は、おののかずにはいられぬ。
――めっきり美しさが増したわい。公方のおもいものであったときには、言わば、ただ綺麗な作り花にすぎなんだようにしか思われなかったが、今夜の、この仇っぽさ!恋が、この女の美しさを、百倍にもしたのだ――それにしても、浅間しい、河原者風情のために、身を焦し、心を焼くとは!
浪路の胸が、五体が、雪之丞を慕う想いに、燃え立っているのだと思い知ると、五助は、嫉ましさを感じるよりも先に、激しい望みに渾身(こんしん)、この真冬に、熱汗に濡れただようばかりだ。
――河原者を慕う不所存な女子を、拙者がわが物にしたとて、何が不都合であろう!どうせ、汚れてしまっているか、遠からず汚れてしまうか、いずれかにきまっているのだ。
「浪路どの!」
と、いくらかもつれた舌で、五助が呼びかけて、
「が、そなたの気持が、まん更、わからぬ拙者でも厶りませぬぞ、それにしても、なぜ、子供のときから、いわば伯父姪のようにも親しんで来た、拙者どもに、心の中を打ちあけては下さらなんだ――残念だ」
――何を、この方は、おいやるやら!
と、浪路は、今は魂が据って来て、心につぶやく。
――この方々こそ、父上にすすめて、自分達の栄華を遂げるために、ひとを、公方への、人身御供(ごくう)に上げたのではないか!
「いずれにせよ、そなたの御決心が、どのようなものか、密々、拙者うけたまわりたい、その上にて御相談に乗りたく――」
五助は、そんなことを、出鱈目(でたらめ)に言いながら、心の中では、さまざまな妄想を描いている。
――どうしたものか?今宵、この女子を、これから、どこへ連れて行ったものか?思いを果すに便利な家に、ともなって行かねばならない――その場所を、心の中で、探して見る。
――そうだ!丸木の寮なら――あそこなら、どんなに、この女がわめこうと大丈夫――
連れて行く方法は、いくらでもあった。彼は、太刀を横たえているのだ、切っ先を突きつけたら、何でもない――その寮というのは、廻船問屋丸木屋の別荘で、大川端、浜町河岸の淋しいあたり――一方は川浪、三方は広やかな庭――丸木屋とは、長崎以来のこれも、深い因縁(いんねん)の仲だ。いかなる秘事も、洩れっこなし――
邪魔なのは、この伴れの甚太郎、ただ一人――何と、言いこしらえて、この者を突っぱなそうか、なんとか、よい思案は――
――待て、この場から追い払おうとも、この者、浪路がこよい限り又行方を失うたら、持って生れた正直一途から、どのようなことを、土部家へ訴え出ぬとも限らぬ――かまえて、融通の利く男ではない。はしッこい奴なら、利得で、手なずけることも出来るが――
五助は、こんな風に考えて、急に闇の中で恐ろしい表情になった。


一一[編集]

ギラギラと、すさまじく、瞳をきらめかした、横山五助、にわかに棒立ちに突っ立って、唇を嚙むと、上目を使うようにして、甚太郎をみつめたが、皺枯れた調子で、
「甚太郎、ちと話があるが、あの物蔭まで――」
顎で、指したあたりに、茅萱(かや)が小径の方へ、枯れながらなびいていた。
甚太郎は、
「へい」
と、腰をかがめる。
びくびくと、只、恐縮し切っていた彼、賴むようにいわれて、ホッとしたらしい。
「甚太郎に、ちと、命じることがあって、あれにて、談合いたしますが、お逃げになろうとしても無駄で厶るぞ」
ジロリと、一瞥(べつ)を、浪路に呉れて、先に立つ五助。しおしおと、甚太郎が、ついて行く。
浪路は、何を、横山は、甚太郎に話し込もうとするのであろう?――が、事実、逃げても駄目だ。男の足には、すぐに追いつかれる――それよりも、言うままに、待っていて、あとで、泣きついて見よう。あの男に、腹立たせてしまって、あ大変だ――そんな風に思って、よんどころなしに、寒々と、肩をせばめてたたずむのだ。
こちらは、五助、どんより曇って、月もない、杜下径(もりしたみち)、茅萱(かや)のなびいた、蔭につれ込むと、小声になって、
「甚太郎――話と申すはな――」
正直な男、
「は、何でござりまするで――」
と、前屈みに、身を寄せた瞬間!
――シュッ!
と、いうような、かすかな音がしたのは、抜き討の一刀が、鞘ばしった響――
――ピュゥッ!
と、刃風が立って、ズーンと、この無辜(むこ)の庶民の、肩さきから、大袈裟(おおげさ)に、斬り裂いた。
「うーむ!」
と、いうような、定かならぬうめきが、聴えたようであったが、闇を摑むかの如く、犠牲者の両手が、伸びて、痙(ひ)き攣(つ)って、やがて、全身が突っ張ったまま、ドタリと斜うしろに仆れた。
血を浴びぬように、五助が、切ッ先の加減をして、突き仆したのだ。
「あーッ!」
浪路は、物蔭の、異様な気配に、ハッとして、つぎの刹那、思い当って、思わず叫んだ。
そして、逃げようとして、膝がしらの力が失われて、よろよろと、その場に跪ずいてしまいそうになったとき、まだ、血刀を、提げたままの五助が、駆け寄って、左手(ゆんで)で、抱き止めるようにした。
「おはなしなされて、お、は、なし――」
と、叫ぼうとするのを、
「お騒ぎでない。かの者、不忠、不所存きわまるによって、誅戮(ちゅうりく)いたしたまでで厶る。そなたを、どういたそう?何で、危害を加えまよう?ま、落ちつきなさい」
「お、は、な、し――」
浪路は、無宙に、身をもがいた。
無宙ではあったが、女性の本能が、彼女にある切羽つまったものを感じさせたのだ。彼女は、血刀を提げた男性の、腕の中に抱かれて、何もかも、奥深い秘密を察知したのだ。
「お、は、な、し――」
「これほど申すに――」
と、五助の声が、荒っぽく喘いだ。


一二[編集]

横山五助があ、心の中の暗い願望を、それと口に出さぬうち、早くも、感づいた浪路は、放して――放して――と、腕の中にもがいたが、相手は、いつかな放さぬ。
ますます、却て、抱き擁(し)める手に、力がはいるばかり――
「なにも、そのように、怖ろしがるには及ばぬ――かやつを、斬って退けたのは、むしろ、浪路どのそなたのためじゃ。そなたがこころを持ち直し、貴い格式にもどられたとき、うるそう噂󠄀をいたそうはこの輩(やから)、それゆえ、斬ってゆかわしたばかり――何で、拙者、そなたに危害を加えよう――それよりも――」
と、いいかけて、乾(ひっ)ついた咽喉を、咳ばらいをして、
「な、この五助、是非とも、そなたと、たった二人、人知れず、相談することがある――そなたの胸の中も、よううけたまわって、悪しいようにははからぬわ。拙者の行くところまで、これから、同道してたもるであろうな?」
「は、はなして――」
と、浪路は、抱き締められながら、骨太(ほねぶと)な腕(かいな)の圧迫や、毒々しい体熱のぬくもりに、言うばかりない嫌悪を感じて、相手の言葉が、耳にも入らず、悶えた。
「お放しなされて――わたしは、行かねばならぬところが――」
「は、は、は――例の、雪之丞とか申す、女がたの許へであろう――それもよかろう――親も、家も栄華も捨てて、それほどに思い込んだ男の許へ、決して、まいッてならぬとは申さぬ――が、まず、拙者の話を聴いてからになされたい。決して悪い話ではない。お為めになることだ」
「いいえ、わたくしは、是非とも、まいらなければ――」
「なりませぬと申すに!」
と、五助が、やわらかな肉体との接触に、毒血が沸き立ったように、
「浪路どの、子供だ子供だと思ううちいつか、恋にも狂うようになられたを見ては、拙者、これまでのそなたと、考えられなくなった。――浪路どの、悪しゅうはせぬほどに――」
ああ、いとわしい、顎ひげが、少し伸びた顔が、寠(やつ)れた頰に触れるのだ。
浪路は、わめこうとする――もはや、わが身の上を考えて、じつとしてはいられないのだ。
その口に、かかえた手の、手先を押し当てた五助――
「ええ!おしずまりなさい――どうしても、拙者の望みを叶えてもうらわねばならぬ。ど、どうせ、河原者風情に、汚(けが)されてしまうみさおだ!浪路どの、拙者、洒落(しゃれ)に、物をいっているのでは厶らぬぞ」
――わ、う、う、う!
と、出ぬ声をだそうと、あせり切った浪路――
――おのれ、不所存な!子供のころから、さも小父のようにも物をいいおりながら、畜生道に、堕(お)ちたか、おのれ――
いつか帯の間をワナワナとふるえる手がさぐる。
帯の間には、肌身はなさぬまもり刀――その体温を宿した柄を、ぎゅっとつかみ締めると、もう一度、身をもだえて、
「う、う、う、おはなし――なさらぬと――」
「は、は、は、悪あがきは止めになされ。横山五助、やさしゅうして貰えば、あとでかならず恩がえしはいたしますぞ」


一三[編集]

白く、やさしく、しかし、憤怒と嫌悪とにワナワサと震える手に、われを忘れて、短刀の柄を、つかみしめた浪路とも知らず、横山五助、なおもしつッこく、顎ひげののびた頰を、擦りつけるようにしながら、
「のう、悪(あ)しゅうはせぬ――悪しゅうはせぬに依って、拙者にも、やさしい言葉をかけて下され――わるく、おあがきなら、止むを得ぬ――このまま、この場より、松枝町のお屋敷にお供するまでじゃ――な、お屋敷に戻られてしまえば、今度こそ、座敷牢。さもなくば、大奥へ、ふたたび、追いやられねばならぬおからだで厶るぞ――な、そこを、ようわきまえて――拙者、くだくだしゅうは言わぬ。そなたが、これまで大人(ひと)になったとは、知らなんだ――」
抱きしめてはなさず、かきくどくのを、浪路は、振り放そうと、なおも身をもんで、やっと、口から押えた手から自由になると、
「横山さま!わたくし、どうしても、いそいでゆかねばならぬところが――いずれ、また、後の日に――」
「ふ、ふ、の、後の日に――とは、あまりな言葉――そなたは、その役者のもとへゆかば、今度こそもろ共に、かけ落ちもいたしてしまわれよう――いつかな、放せぬ!さあ、拙者とともに――騒がば、お屋敷へお供する外、ござらぬぞ!」
「では、どうあっても、おはなし下さらぬのでござりますか!」
浪路は、声まで、青ざめているようであった。
が、相手は、せせら笑って、
「放さぬとも!放しませぬとも!さ、こうまいられ!」
引きずって行こうとした、その刹那、どう浪路の片手が動いたか、匕首の、鍔(つば)まで、心元(むなもと)を、ぐうッと突ッこまれた五助――
「わああ!」
と、わめいて、女を突きはなし、よろよろと、よろめいて、しばし怺(こら)えたが、急に、ガクリと膝を突いてしまった。
「う、う、う」
と、血刀を捨てた手で、胸を抱いて、
「わ、ああ!よくも――おのれ――」
どうにかして、立ち上がって、飛びかかろうとするらしかったが、それが出来ない。
片手を、土に、もがき苦しんで、つづいて、ぐたりとつんのめッてしまった。
浪路は、血に染んだ懐剣をにぎりしめたまま、棒立ちに、見下していた。
もはや、うめきも、ブツブツと、血が湧く音にまぎれてしまった。
闇は、血のいろを見せない。が、生ぐさい匂いが、プーンと、ただよいはじめた。
――わたしは、人を殺してしまった。
と、考えたが、悔いも起らぬ。
――けだもののような人――何という浅間しい――
当然だ――と、いう気持になっていたが、歯の根も合わず、ガチガチと、上下の顎が、打ッつかって、立っていられぬように、脚部が力を失った。
彼女は、血まみれの守り刀を、投げ捨てたかったけれど、指が、柄を食いついてしまってはなれない。
それを、指を一本一本折るようにして、やっと放して、藪の中に、投げ込んだが、突然、おそわれるような気持になって、バラバラと駆け出した。
いつか灯が消え、戸も閉った居酒屋の前を駆け抜けるころ、彼女の息ざしは、絶え絶えに喘いでいた。


一四[編集]

横山五助の、最後のうめきが、まだ耳に残っている浪路、気も上釣って、闇の小径をそれぞ音羽の通りと思われる方角を指して、ひた駆けに駆けつづけたが、息ははずむ、動悸(どうき)は高ぶる、脚のすじは、痙き攣ッて、今はもう、一あしも進めなくなるのを、やッとのことで、町家の並んだ、夜更けの巷路まで出ると、
――ウ、ウ、ウ、ワン、ワン!
と、突然、吠えついた犬――
人こそ殺したれ、かよわい女気の、小犬が怖さに、また、やぶけそうな心臓を、袂で押えて急いだが、小犬はどこまでもと、吠え慕って、やがて、それが、二匹になり、三匹になる。いずれも、寝しずまった、小家の軒下に眠っていたのが、仲間の小犬が――
――血くさいぞ!怪しい奴だぞ!
と、わめくので、目をさまして、
――おお、いかにも血が匂う!奇怪な女めだ!
――のがしてはならぬぞ!吼えろ!吼えろ!人間の役人とやらが、見つけるまで、吼えろ!吼えろ。
とでも、いい合って、うるさく、まつわって来るものであろう。
浪路は、今は、髷(まげ)の根も抜けた――後れ毛は、ほつれかかった。褄先(つまさき)が乱れて、穿いてたものも失くしてしまった。
犬どもならずとも、行き合うほどのもの、怪しみの目を睜(みは)らずにはいないであろう。
果して、かなたから、空かごをさし合って、どこぞで、一ぱいきこしめして、一ぱい機嫌らしいかごかきどもが、来かかったのが、
「おッ!美女(たぼ)が、犬に追われているらしいぜ――」
と、先棒が、いって、脚を止めると、
「なに、美女が犬に――おッ、なるほど――犬だって、美女は好きだあな」
と、答えて、
「おい、ねえさん、駆けちゃあ駄目だ、逃げちゃあ駄目だ!どこまでも追っかける。先棒、犬を散らしてやろうぜ」
空かごを投げ出して、後棒が、息杖をふりかざして、飛んで来て、
「しッ!しッ!畜生!なぐるぞ!ぶち殺すぞ!」
と、三、四匹の、野良犬を追ッぱらって、立ちすくんだ浪路に目をつけて、
「ところで、ねえさん、この夜更けに、おひろいじゃあ、犬も跟(つ)きやすぜ――どこまでか知れねえが、おやすくめえりやしょう、おのんなせえな」
と、言うところを、先棒も近づいて、
「犬を散らして上げた御礼というのじゃねえが、どうだ、安く、御乗んなすって――」
「まあ、穿(はき)ものもなにもねえじゃあありませんか――」
と、後棒。
「へ、へ、へ、この夜更けに、夫婦喧嘩と出なすって、飛び出して来やしたのかい?犬も食わねえというに、あいつ等、馬鹿に食い意地の張った犬どもと見える――へ、へ、へ、どっちみち、お里へなり、いろ男のところへなり、おいでになるところでげしょう――へ、へ、へ、そのなりで、夜みちを歩いたら、自身番が、只はとおしやせんぜ――へ、へ、へ――おのんなすって」
浪路も、いくらが気がしずまると、どうせ指してゆく、浅草山ノ宿とかまで、歩いて行けるものでもないと思った。
「はい、のせて、貰いましょう」


一五[編集]

「おい、ねえさんが、乗ってくださるとよ」
と、先棒、
「どちらまででござんすね?」
垂れを下そうとしながら訊く。
「浅草、山ノ宿とやらまで――」
「へえ――」
先棒が、にやりと笑ったが、
「とやらまで――だとよ、さあ、いそごうぜ」
顎をしゃくったが、その顎の長さ――この寒気に、尻ッ切れ半纏(はんてん)一枚、二の腕から、胸から、太股一めん、青黒い渦のようなものが見えるのは、定めて雲竜の文身(がまん)でもしているらしく、白目がきょろついている男だ。
うなずいて、
「どれ、その、とやらまで――一ッ走りか?」
肩を入れた後棒は、ほり物はないが、頰ッぺたに、傷のあとのある、異様な面相。
二人は、もう二度と目と目を見かわす必要なく、お互に、これから先の行動を、以心伝心、のみこみ合ってしまったのだ。
まさか、たった今、人を殺して来た娘と知れば盗んで逃げようともしなかったであろうが、何分にも、人も寝しずまった真夜中、夜目にも、白い花が咲き出したような、しかも、それが、取りみだし切ッているうつくしいすがたを見たので、持って生れた棒組根性、このままには、見のがせぬと思ったらしい。
何分にも、浪路も、重なる不仕合せ、このかごが、町かごで、提灯にちゃんと店の名でもはいっていたのならよかったが、仕事がえりに、一ぱいやった上りの、内藤新宿の雲助ども、街道すじでも、相当に悪い名を売った奴等につかまったのが因果だ。
この一挺のかご、走りは走り出したものの、先棒の趾先(つまさきは、いつまでも、浅草の方角を指してはいないのだ。東南に、急ぐべきを、あべこべに、西北へ、
――ホラショ!
――ホイヨ!
と、走りつづける。
ごこをどう駆け抜けたか、淋しい組屋敷がつづいている、牛込のとッぱずれのだらだら坂を、とうにすぎて、ここは、星かげも鄙(ひな)びている抜弁天に近い田圃(たんぼ)中――一軒家があって、不思議にも、赤茶けたあんどんに、お泊り宿――
お泊り宿は名ばかり、小ばくちの宿をやったり、凶状持、お尋ね者なぞの、隠れ家になったりしている、お目こぼれの悪の巣で、お三婆あという、新宿の、やり手上りの侘住居(わびずまい)だ。
そのいぶせき軒下に、かごが、とんと下りて、
「おまちどおさん」
後棒、先棒、ぎょろりとした目を見交(みかわ)して、冷たく笑った。
バラリと、上げた垂れ――のぞき見た浪路が――
「ここは?」
「ここは、山ノ宿――」
「では、この辺に、大阪下り雪どのの――中村座の雪之丞どのの宿があらばと――たずねてたも――」
浪路が、一生懸命な調子でいう。
「ナニ、雪之丞の?へえ、あの名うての艶事師(つやごとし)の?いえ、なに、これが恰度(ちょうど)、その、雪之丞さんの、宿屋でごぜえますよ。へ、へ、へ」
先棒が、つかんだ手拭で、ちょいと、額を吹くようにして答えた。


一六[編集]

「出なせえよ、ねえさん、さあ、ここが山ノ宿、たずねるお人の宿――」
と、一人がいって、垂れの中の、白い顔をのぞき込んでいるうちに、後棒が、どんどんと、お三が宿の、入口の雨戸を叩いて、
「ばあさん、お客さまだ――早いとこ、あけてくれ」
ドン、ドン、ドン――と、手ひどいひびきに、中から、まだ、寝ついてはいなかったらしく、
「おい、今あけるッたら、荒っぽくされちゃあ、曝(さ)れた戸に、ひびがはいってしまわあな!」
と、皺枯れた調子。
ゴトリとあいて、
「おや、丑(うし)さんだね?」
「うむ、それから、為だ」
「おそいね?」
と、のぞき出した半白半黒、それをおばこに結ったのが、ばらばらに乱れて、細長く萎びた、疎(まば)ら歯の婆さん――その顔が提灯(かんばん)の灯に、おぼろに照されて、ばけ物じみている。
「して、お客ッてえのは?」
「さあ、ねえさん、出なせえったら――」
と、後棒――さては、悪い雲助に、かどわかされた――と今更、思い知った浪路、逃れるにも逃れるすべもなく、かごの中に、小さく身をそばめ、しっかと、細い手で、枠につかまっている。
その白い手を、つかもうとして、
「さあ、こんな寒いところにいねえで、うちの中へおはいんなせえよ――な、わるいようにはしねえんだ――ねえさん――出なせえよ」
「後棒、何を、やにッこいことをいっているんだ!」
と、先棒が、これに手荒く、ズカズカと寄って来て、
「これ、娘、出ろッたら出るんだ!夜よ中、町中を、気ちげえ見てえななりで、ほっつりあるいているから、折角、ここまで連れて来てやったんじゃあねえか?あッたけえ、火の側に寄せてやろうというんじゃあねか?出ろ!山ノ宿も、糞(くそ)もあるものか?」
後棒が、猫撫で声で、
「さあ、兄貴が、あんなにおこるじゃあねえか――騒いで見たってここは、こんな田ん圃中、どうなるもんだ。痛え目を見るだけよ――な、出なせえ――さあ、出してやるぜ」
「あれ――」
と、かじかまるのを、肩から襟へ、ゴツゴツした手で、抱きすくめて、引きずり出して、
「これ、あばれるな!脛(はぎ)が出らあな!白いもの、赤いもの、ちらちらするなあ、おれ達にゃあ目の毒だ」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
と、婆さん、竦らな歯を、剝(む)き出して笑って、
「丑さん、為さんと来ちゃあ、すごいね。おお、おお、いいお子だこと――美しいこと――婆は、六十何年生きたけれど、こんな美しいむすめの子を、見たことがござんせんよ。ひひ、ひ、さあ、どうぞ、お娘御、おはいり――火も熾(おこ)っている――お茶もある――こんなあばらやえ、ようこそ――ひ、ひ、ひ」
浪路は、もだえ狂ったが、何分にも、さっき、あれ程の惑乱のあとで、身も萎(な)え萎(な)えと、今は、抵抗の力もない。
引きずりこまれてしまった、赤茶けた畳の、見るもいぶせき一軒家の中。


一七[編集]

ことによったら、返り血さえ浴びたまままだ干(かわ)かず、血しおの匂いも移っていよう、殺人の美女を行燈の灯かげに近く眺めながら、髪の艶やかさ、頰の白さ、まつげの長さ、居くずれたすがたのしおらしさに、目を奪われ、魂を盗まれた、二人の破落戸(ならずもの)、一人の慾婆(よくば)、そうした秘密を嗅ぎ分けることも、見わけることも出来ず、ただ、めいめいの煩悩、慾念に、涎(よだれ)も流さんばかりの浅間しさだ。
「何だかねえ、丑さんも、為さんも、こんなおうつくしい女(ひと)をさっきのような、野太い声で、おどかしたりしてさ」
と、お三婆は、妙にねばっこい調子で、気褄を取るようにいって、
「なあに、お前さん、この人達は、見かけこそ荒っぽいが、気立はなかなかやさしい方でね――ひ、ひ、ひ、やさしいというよりのろい方でね、ひ、ひ、ひ」
「のろいッて――人を!」
と、丑が、苦ッぽく笑って、
「婆さん、べらべらしゃべっていずと、一本つけな」
「あいよ、わかったよ、ねえさんだって、寒いわな。熱いところを、早速つけるがね。それにしても、まあ、こんなお子を、どこから拾って来たのだね」
「なあに、犬に吼えられていたのさ」
と、為が、
「「はだしで、髷をくずして、夜みちで、犬に吼えられているのを見ちゃあ、日ごろの俠気(おとこぎ)で捨てちゃあ置けねえ」
「ひ、ひ、ひ、いつものおとこ気でね――結構な性分、さぞ、後生がいいこったろうね――まあ、何と言っても、ここへつれて来てくれたのは、結構なことだね。ねえさんも安心だし、あたしもうれしいし――どっこいさ。早速、熱いお銚子をね――」
立ち上って、台どころで、ガタガタはじめる婆。
乳母が、かくれて棲むにいいように、町家風俗をさせた浪路、ちょいと見には、町むすめとしか思われないが、丑が、顔をかくした袂(たもと)をつかんで、
「これ、おむす、いい加減に観念しねえか!」
と、引っぱりよせようとするのを振り切って、
「放しや!下郎!」
と、いったその調子は、たしかに、彼等をおどろかせたに相違なかった。
「ナニ、放しや!下郎――だって!」
と、わが耳をうたがうように、丑は叫んだが、あッ気にとられたような顔をした為と、思わず顔を見合せて、
「こいつ、何をいやがるんだ!」
「兄貴」
と、為の目には、絶望のいろがうかんで、がっかりしたように、
「こいつぁ、見そこなったぜ、気ちげえだぜ!え、兄貴!」
「なるほど、さっき、役者の名をしきりに言っていゃがったが、芝居ぐるいから、ほんものの、気ちげえになっているのか――」
と、丑も、思いちがえて、そんなことをつぶやいて、うなずいたが、妙な笑いで、すさまじく顔を歪めて、
「気ちげえだって、為、いいじゃあねえか――てめえ、気ちげえを色にでももって、手を焼いたことでもあるのか?」
「馬鹿いえ」
「そんなら、おたげえには、七十五日生きのびるって初物だぜ。けえって、おもしれえや」


一八[編集]

「そりゃあ、そうだとも、気ちげだって、普通(ただ)の女だって、恋に狂えば紙一重――どうせ、おら達だって、食い酔(よい)や、気ちげえだでなあ――へ、へ、へ」
と、相棒も、いやしく笑って、
「気ちげえの、普賢菩薩(ふけんぼさつ)なら、正気のすべたと、比べものにゃあならねえ。ふ、ふ、ふ。こいつぁ馬鹿におもしろくなったぞ。ねえさん、さあ、炉の榾火(ほだび)に、おあたんなせえと言ったら――」
と、しつッこく手を取るのを、又も、引ッぱずして、浪路は、
「無礼もの!退(さが)れと言うたら!」
つと、立ち上がるのを、引きすえるあらくれ男たち、
「へ、へ、へ、おひいさま、まあ、そう、お腹を立てねえで――」
「ええ、かしましい!わが身を何と思う――」
ぐっと、二人を睨めすえた瞳は、呪いといかりに、どす赤くいぶる。
が、もし、この目の光が語る真の意味を、読み取るものがあったとすれば、慄然(りつぜん)として、肌えに粟を生ぜずにはいられなかったであろう。
二人の雲助は、最初から、狂女と思いあやまってしまっているのだが、今、この刹那、浪路は確かに正気を失ってしまっているのだ。正気の女性(にょしょう)が、かくもすさまじく、かくも乱らがわしい瞳の色を見せるはずがないのである。
「そちたちも、わが身の手にかけて貰いたいかや?あの、憎らしい横山のように――」
彼女のうめきの怖ろしさ!
だが、あぶれものたちは、世にもまれな美女の色香に、酔い悶えて、言葉をはっきり聴きとることもしない。
「ひ、ひ、ひ――手にかけてくれるとおっしゃるのかね!こいつぁたまらねえ――早く、手にかけて貰れえてえ――ひ、ひ、ひ、こいつぁたまらねえ――」
と、為がしなだれかかろうとしたとき、婆さんが、燗酒を、自分も傾けながら、
「まあ、そんなに荒っぽくしなさんな――ねえさんは、上ずっているだけだあね――落ち着けば、正気になるかもしれねえ――」
と、制して、
「それよりも、もっと、ぐんぐんお飲(あが)りよ、楽しみは、ゆっくりあとにした方がたのしみだ。どうせあとで売物、壊しちゃあ駄目だ」
「いいや、そんなにしちゃあいられねえ――なあ、為」
と、丑――こやつ、欲情に目が据って来ている。
「そうともそうとも。婆さん、おめえ、只、飲んでいりゃあいいんだ。さあねえさん、あっちへいこう」
為と丑、相手がもがけばとて、叫ぼうとて、ためろう奴ではない――二人、左右から取りついて、腕をつかみ、胸を抱き、
「放せ!無礼もの!」
と、叶わぬ身に、身悶える浪路を、奥の方へ、引きずって行こうとするその折だった。
二人が、浪路をかついで潜ろうとする、汚れ切ったのれんのかなたで、
「やかましい!蛆(うじ)むしめら!」
と、ドス太い声。
「何だ、わりゃあ!」
と、丑が、目を剝く。
婆さんが、立ひざで、
「坊さん、わるいところで、目を醒したね」


一九[編集]

否もうと、叫ぼうと、手どり足どり、木賃宿の奥の一間の暗がりに、美しき浪路をかつぎ入れようと、荒立って、のれん口へかかった、丑、為の雲助、突如として、鼻の先で、野太い声が、そうきめつけたので、少なからずたじろいたが、利かぬ気の丑、
「おッ!どいつだ!どいつが、ひとの咎め立てなんぞしやがるんだ!」
「わしじゃ!わしが訊いているのだ」
と、ぬッと突き出された、いが栗あたま――眉太く、どんぐり目、口大きく、肩幅は、為、丑二人合せても適うまい――六尺ゆたかの大坊主――素布子(すぬのこ)の、襟はだかったところから、胸毛がザワザワと伸びたの迄が見える。
「う、うぬたあ、何だ!」
と、為が、たじろいで叫んだとき、気早の拳固(げんこ)を突き出して、
「どけ!糞坊主、この界隈で、知らねえもののねえ、おれ達のすることに、ケチをつけやがると、腰ッ骨を叩き折るぞ!おれさまたちのなさること、九拝三拝、数珠(ずず)をつまぐって、拝見していろ」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
と、坊主は、大きな鼻の孔から、暴しのような息を吐き出したが、それが微笑なのだ。
「大した勢だの?だが、兄いたち、まあ、夜よ中の、じたばたさわぎだけは止めて貰おうかい。何をしてもおらあ知らねえ――が、野ッ原もねえじゃなし、おれの寝ている部屋へ連れこまれちゃあこまるんだ。わかったか」
「何を!」
どんなものにも、したいこおを妨げられるのが、一世一代の誇りを傷つけられるかのように思い込んで、いのち懸けになるのが、雲助、がえんの根性だ。
「この野郎――」
浪路を、為にあずけて、撲(ぶ)ってかかったが、振り上げたこぶしがとどかぬうちに、手首を逆につかまれて、
「あ、い、て、て、て!」
「どうだ――かかるか――こう、雲助、この腕は、こうやりゃあ、おッぺしょれてしまうぞ!」
「い、て、て、て!」
と、丑はおめいたが、あやまりはせず、
「為、助(す)けねえか――この坊主、叩き斬ッてしめえ――」
「よし!承知の助だ!」
ぐったりと、気を失ってしまっている浪路を、投げ出すように下に置くと、為、きょろきょろ見まわしたが、台所にはしり込んで、何か光るものをつかんで飛んでかえって、
「坊主!」
と、振りかぶったのが、出刃庖丁(でばぼうちょう)――だが、駄目だ。
大坊主は、丑のからだを楯にして、為の方へ突きつけるように、
「ふ、ふ、ふ、この友だちが斬りてえか――さあ、斬って見せろ!これ、斬って見せねえか!おい、雲!斬れッたら、こいつを斬れ!斬らねえと、貴さまの素ッ首を引き抜くぞ!」
あべこべに、為は脅かされて、振り上げた出刃庖丁の下しようもない。
そのありさまを、冷たく笑って、欠け歯をむき出して、茶碗ざけを、ぐびりぐびりやっていたお三婆――ニヤリとして、
「これ、島抜けの!許しておやりよ、そいつらは、それでなかなか気のいいやっこさん達なんだよ――丑さん、為さん、あやまっておしまいよ。不向きな相手だ」


二〇[編集]

――島抜けの――
と、お三婆は、呼びかけた。
では、今、のれん口からあらわれて、雲助二人を突きのけ、ひねり仆(たお)した、この巨大漢、いがぐり坊主――鉄心庵の、淋しい夜ふけ、闇太郎から預かった、女賊お初にたぶらかされ、盛りつぶされて取りにがした、かの、法印であるに相違ないのだ。
そうだ――まぎれもなく、これぞ、島抜け法印だった。いまさらおのが愚かさ、淫らさのために打ち負かされたことを恥じ、もがいて、どうしても屹度(きっと)、おのが手に、お初を生きながら取りもどし、闇太郎の前に引きずってゆかねばと、誓いの手紙をのこし、姿をかくした彼の、その後の成行こそ、あわれと言えば哀れだった。
お初どもの巣という巣、立ちまわり先きという立ちまわり先き、あまさず、姿をやつして探ね廻って見ているが、彼女の消息は絶えて聴えぬ。
何でも、川向うの荒れ寺で、何かたくらんでいるところを、役向きに乗りこまれ、すでに危うかったとは聴き知ったが、勿論素早いお初、まんまと捕ものの網の目を潜って、行方知れず――
これだけのことを探り出したのが、あれから今日までの、やっと、収穫だ。
闇太郎は、相変らず、浅草田圃に、象牙を彫っているようだ。一、二度、そっとのぞいて見たが、さすがに声もかけそびれて、戻ってしまった。
して、今夜、さまよいの果てが、お三婆の宿の近くまで来たので、一夜のやどりを求めて、はからず、寝耳をさまされたこの始末なのだ。
「ねえ、法印、そッとして置いてやっておくれよ。折角二人して、いい玉を、わたしのところへ連れて来てくれたのだからさ」
お三婆に、重ねていわれて、法印、ちょいと、仕置きの手をためらったところを、さては、この坊主、婆さんに、何か弱い尻でもあって、手出しが出来ないものと見まちがったか、丑――
「何の、この坊主、邪魔立てひろげやがって――」
と、わめくと、振りはらって、歯をかんで、又も、打ちかかってゆく。
為も、しがみついた。
「あれさ!家の中であばれちゃあ、戸障子が、こわれるじゃあないか!」
と、お三婆は、立ちさわぎかけたが、その心配には及ばなかった。
「は、は、虫けらめ!」
と、法印、ニヤリとしたと思うと、左右から、撲りかかる二人の雲助の、耳たぶを両手で、ぐっとつかんだと思うと、
――ガツン!
と、思い切った、鉢合せ――
目から火が出たような気がしたが、脳髄がジーンと、打(ぶ)ち割れでもしたように覚えて、そのまま、二人とも、グタリと、つぶれてしまった。
「死んだかい?」
と、眉をひそめるお三婆。
「なあに、死にあしねえよ――が、どこまでも、性懲(しょうこ)りのねえ奴等だ――」
島抜け法印は、そう呟くと、面倒そうに、二人の雲助の帯際をつかんで、左右にひッさげて、のッしのッしと、出口まで歩いて、
「婆さん、戸をあけてくれ」
お三が、おずおずあけた戸のあわいから、――ズーン!
と、ほうり出して、唾を吐きとばした。
「おととい、来い」


二一[編集]

美しい娘を、折角連れ込んで来てくれた、言わば、福の神のようにも思われる、丑、為、二人を、島抜け法印、襟髪をつかんでほうり出すのを見たとき、お三婆は、物すごい目つきをした。
彼女はみずから膂力(ちから)があれば、法印のうしろからむしゃぶりついて肩先きにも嚙みつきたいと思ったようであったが、案外、雲助どもが、手足が利(き)かず、たちまち敗亡して、
「い、てて!畜生!くそ坊主!覚えていろ!」
「やい!今度あったら、生かしちゃあ、置かねえぞ」
と、わめきながら、軒下に捨ててあったかごを拾って、いのちからがら逃げ去ったのを見ると、急に、阿諛追従(あゆついしょう)のわらいで、薄気味わるく、歯の抜けた口ばたをゆがめるのだった。
「え、へ、へ、へ――まあ、法印さん、おまはんの強さというもなあ、うわさに聴いていたようなものじゃあないね――何とも、おどろき入りましたよ。あの丑、為ときちゃあ、内藤新宿でも、狂犬(やまいぬ)のようにいやがられている連中、それを、何とまあ、二人一度に征討して、外へほッぽり出してしまったのだから、おまはんの、底ぢからは、程が知れないね――ところで、法印さん――」
と、茶碗をつきつけて、
「ま、息つぎに、一ぱいいかが?」
こやつ昔はいずれ、宿場でお叩いた上りか、年にも似合わぬ色ッぽい声でいって、銚子を取り上げる。
法印は突ッ立ったまま、手を振った。
「おらあ、避けはのまねえよ」
「えッ!おまえさんが、お酒を呑まぬ?まあ、ほ、ほ、ほ――法印、桝(ます)からでなくては、呑まぬのかい?」
「いや、やめたんだ?」
と、モゾリと答える。
「おまえが、お酒をやめたッて!」
と、心から、びっくりした顔。
「ほんとうだよ、正真とも!」
と、法印は、いくらか力無げに、
「おらあ、酒を呑みやぁ、きッと、やりそくなう――いや、もう、大した間違えをやらかしたんだ。それで、般若湯(はんにゃとう)はおことわりにしたよの。だから、呑まねえ」
「へえ、そりゃあ又――」
と、お三婆は、持った銚子で、自分の杯に充(みた)して、
「じゃあ、あたしは手酌でいただくがね――それはそれとして、法印さん、この三婆のことは、あの奴等をあつかうようにはなさるまいね?」
「あの奴等をあつかうようにとは?」
「丑や、為は、屋外(そと)へ、うっちゃられたが?」
「だって、あいつ等あ、雲助じゃあねえか?おめえは、この宿屋の主人だ――どうして、おれが、あんなことをするはずがあるものか?」
「まあ、うれしい!」
と、お三は、とん狂な調子で、叫んで、
「それでこそ、さすが立派なお人というものだよ。悪党も、大きくなりゃあ、仁義を知らなけりゃあね――」
「悪党?」
「わるかったかね?」
と、婆は、ますます、薄気味わるく笑って、
「なあ、いろいろ相談がある――すわっておくんなさいよ。ねえ、法印さん――あたしだって、こんなときには、なかなかいい智慧が出るのだよ」


二二[編集]

「お酒を、やめておしまいになったというなら、法印さん――何か甘いもので、お茶でもいれましょうね――まあ、お坐んなさいったらさ」
婆さんは、くりかえした。
「うむ、だが、あの娘御を、あのまま、ころがして置いたのでは――」
と、島抜け法印、ぐったりと、のれん口にうつぶしのままに仆れている、砕かれた花のような浪路の方をかえりみた。
「いいえ、大丈夫でございますよ、この婆あが、おあずかりした以上はね――」
と、お三は、また、疎らな歯を剝き出して、ニタリとしたが、手早く、火鉢の熾火(おき)をかき立てて、
「さあ、お湯も沸(た)ちますから、坐っておくんなさいよ――御相談があるんだからさ」
坊主は、坐った。
お三婆は、ぐっと、顔を突き出すようにして、
「ねえ、法印さん、この婆さんを、忘れちゃあいけませんよ――なるほど、あの雲助たちが、かつぎ込んで来て、おッぱらわれたには、相違ないが、この宿の家の中での出来ごとなのだからね――それだけは、忘れずにおくんなさいよ」
「何をいっておるのやら、わしには、よくわからぬが――」
と、モゾリと、法印がいう。
「まあ、莨(たばこ)でも上って――ソラ、お茶もはいりました」
婆さん、皺(しな)びた両手で、茶と、煙管(きせる)をすすめて、じっと、みつめて、
「おまえさん、とぼけたり、はぐらかしたり、しッこなしにしておくれよ」
「別に、はぐらかしも、とぼけもしやあしねえ――」
法印、煙草はことわって、ガブリと茶を呑んで、
「何を考えているのだね?婆さんは?」
「ひ、ひ、ひ、ひ」
と、例の笑いを、笑った老婆、
「いかにおまえさんが、御法体(ごほったい)の、上人さまでも、こんな宝を、折角手にいれて、そのままになさるはずがないと思うのですがね――お前さんだって、島抜けの何のとまで綽名を持った、お人じゃものな――ひ、ひ、ひ、ひ」
「ふうむ、この女子(おなご)のことを、いっていなさるのかな?」
と、法印、浪路に目を送る。
「そうともさ、あの女子のことさ――」
と、婆さんは、酒くさい息を吐いて、
「あれほどの宝を、見す見す、手もふれず置く法もあるまいがね」
「なあに、わしは、あの女子から、家ところを訊(き)きただして、連れ戻ってやるつもりなだけよ」
と、法印が手短に答える。
「何ですって!坊さん!あの女(ひと)を、連れ戻してしまうんですって?」
婆さんは、嚙みつくように、
「へえ、そりゃあ、おまはんの気持も読めないわけではないさ。見たところ、豪家の一人むすめッて風俗さ――連れて行ってやりゃあ、まあ、包み金にはありつくだろうが、それでこのあたしはどうなるんですえ?」
濁った目を見すえて、
「このお三は、どうなるんですよう?」
「いや、わしは、礼物を、あてにしているわけではない――ゆきがかりゆえ、面倒を見てやろうと思うばかり――」


二三[編集]

お三婆は、どうしても、法印の本心がわからぬというように、
「ねえ、島抜けの――まさか、おまは、、本気で、うちへ連れもどすの何のといっているのではあるまいね――若し、そんな後生気を出したのなら、大馬鹿ものだ」
「どうしてな?」
「どうしてといって、おまはんは、自分が、ソレ、天下のお訊ね者ではないか――娘がいなくなったどこへ行った、大変だ――と、わめき立てているところへ、この女(ひと)を連れて、のっそりと、あらわれて見なさいよ。町内の岡ッ引き、目明し、待っていた――で、お礼を頂戴するどころか、お縄を頂戴してしまいますよ。それよりもサ、まあ、今夜は、落ちついて、あたしと二人で、前祝いを一ぱいやッて、明日(あす)になったら、この婆さんにおまかせなさい――屹度、うまく、この玉の始末をして、しばらくぶりで、光ったものの山わけが出来るようにしますから――さあ、断ったお酒でもあろうが、約束かために一ぱい――」
「いいや、婆さん、おれは、本んきでこの娘をとどけてやる気なんだよ。雲助の手から奪い上げて、自分のふところをぬくめようとするような、そんな半ちくな悪事は、これまでして来たことのねえおれなのだ」
「おや、大そう、意気なことをおっしゃるねえ」
と、婆さんは、唇を食いそらした。
「それじゃあ、おまえさんは、どうあっても、この娘を、この家から攫(さら)っていこうというのかい?」
「攫うも攫わねえもねえ、大たい、婆さんと何のかかわりもねえこった」
「ふうん、えらそうに――ようし、覚えておいで――」
どっこまで、図太いお三婆が、そういうと、つと、立ち上ったが、裏戸へ行って、水口の雨戸を開けようとする。
ガタガタやっているうしろから、法印が、
「婆さん、なにをはじめたのだ?」
「勝手にさせておくれ。あたしはつい、そこまで行って、島抜け法印さんというえらいお方が泊っているということを、知らせたい人があるのだから――」
「ほう、岡ッ引きへな!は、は、じゃあ、何だな、婆さん、このおれが後生気が出ているようだから、おどしにかけても、いのちを取るようなことはねえ――と、高をくくったのだな!ふ、ふ、ふ、いうまでもなく、いのちも取らねえ、なぐりもしねえ――だが、おれは、思い立ったことは何でも行(や)るのだ。そして、邪魔になるものがありゃあ、それを取ッぱらうんだ!」
と、言いさま、ぐっと、婆さんの肩をつかむ。
「あれ!何をするのさ!手を出すかい!」
「手も足も出しゃあしねえ――ちょいとの間、じっとしていて貰えばいいのだ」
「およしよ!あれ!どろぼうだよう!」
と、叫び立てるのも、一さいかまわず、ぐっと引き寄せると、腰の手拭を取って荒々しく猿ぐつわ。
「手荒くしたくはねえが、婆さんがさわぐから――あとで、自由になれたら、訴えるもよし、訴人もよしだ。まあ、しばらく、じっとしていて貰えてえ」
両手両足を、くくし上げて、大戸棚の中にころがし込んで、両手を塵を払うように叩いて、
「わからねえ婆さんだ。息が苦しいだろうによ」


二四[編集]

お三婆を、ぐるぐる巻きの猿ぐつわ、押入れに、突き込んでしまった島抜け法印、耳をかたむけるようにしたが、
「まず、これで、ねずみの外には人の邪魔立てをするものもない」
と、つぶやいて、のれん口の、赤茶けた畳の上に、ぐったりと、手足を伸べ、裾を乱して、気絶している浪路に近づくと、行燈を引き寄せて、じっとのぞき込んで、口に出して、
「ほうほう、これは、うつくしい――あでやかだ、落ちのこった髪飾り、途方もない上ものだ。こんな女の子がよる夜中、江戸の裏町をあるいていれば、今の雲助ならずとも、そのまま黙って通そうとは思われぬ。不用心、不用心――とかく、つつしむべきは、色の道――南無阿弥陀仏――」
と、殊勝げに言って見て、
「それにしても、早う呼び生(い)け、また、あぶれ者が、取って返さぬうち、無事に家まで送り届けてやらねばならぬ」
近づいて、抱きおこそうとするが、その手つきは、まるで、砕けやすい陶物(すえもの)か、散りかけた花をでも取り上げようとするかのように、あぶなげだ。
――これ、うっかり触って、細い骨でも折るまいぞ。
と、自分にいいきかせているように、何度かためらったが、やっとのことで、抱き上げて、膝の上に、ぐたりともたれかかる、仰向きの美女の、鳩尾(みぞおち)に、荒くれた太い指を、ソッと当てたようだった。
その、ソッと当てたと思った手の力が、相手に、どれほどひびいたか、
「う、うッ!」
と、うめいて、身をもだえるようにして、目が、薄く開く。
「お女中!気がついたかな?」
すぐ、鼻の先に、突き出されている、大きな大きな鬚(ひげ)ッ面――
娘は、何と見たであろう!見る視る大きく睜(みひら)いたが、二度目のおどろきに、又しても、気を失ってしまいそうだ。
「これ!びっくりしちゃあいけねえよ、おれが、たすけてやったのだ。雲すけも、お三婆も、おれが征討してやったのだ。これ、お女中、水なぞ飲むか?安心しなせえ、おらあ、こんな荒くれ坊主だが、悪いこたあしねえよ――」
島抜け法印、一生懸命だ。
「おらあ、おめえさんを呼び生けてやったのだ。安心しねえよ――決して、わるいようにはしねえのだ――さあ、けえるうちはどこだ?また悪者が来ねえうち、届けてやる――行(い)きてえところはどこなのだ?早ういわッし!お女中!」
この法印の、一心の深切、やっとのことで通じたか、浪路は、いくらかわれに返った風で、相手の抱きしめから自由になろうとする。
「おお、坐りてえか・坐んなせえ、大丈夫かな」
浪路を、畳に下して、のぞき込んで、
「さあ、出かけよう――歩けねえなら、おれがしょって行ってやる――どこへ行きてえのか?ここにいちゃあ、ためにならねえ――」
「あの方のところへ――雪どののところへ――山ノ宿――」
と、かすかに浪路が、いったがまだ、気が乱れていると見えて、フラフラと立ち上って、
「あれ、放しや!汚らわしい!」
「仕方がねえな――」
と、法印、困(こう)じ果ててつぶやいて、
「兎に角、その山ノ宿へ送ってやろう」

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。