雪之丞変化/敵杯

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敵杯[編集]

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中村座の菊之丞の一座の人気は、日ましに高まるばかりだった。飾り布団、引幕飾り、茶屋の店さきはどの家も、所せまいまでに送り込まれて、下ッぱの役者までが、毎晩新しい贔屓から、宴席にまぬかれぬこととてなく、江戸中の評判を、すっかり攫(さら)った形であった。
雪之丞は、三斎一党から贈られた、黄金(こがね)、呉服のたぐいを、目にすることさえいとわしく、片はしから一座の者にバラ撒(ま)いてしまうので、その無慾さに一同驚きあきれ、
「大師匠も、あの通り、芸道一図のお方で、神さまとまでいわれているが、若い太夫のあの気前は、おそれ入ったものだ」
「あれで、もう四吾年たって、尾鰭(おひれ)がついたら、芸人としては、日本一の男になろう」
「それに今度の狂言で見ても、女形ばかりか、立役をしても、立派なものであろうとの、見巧者連の噂󠄀――大師匠も運がよい。すばらしいものを見出されたものだ」
そうしたささやきが、上方から来た一座一行の間ばかりか、江戸の芸界にもさかんにいいかわされ、このところ、どのようは大立物たちも、まるで他国者のために光を蔽(おお)われてしまったのである。
菊之丞師匠は、雪之丞の好評を、耳にするたびに、おりおりは溜息をつかずにはいられない――
――ああ、これで、あの人が、芸道のみがいのちの男なら、どんなにわしもうれしいことか――腕一本、、熱心一途で仕上げて来た、この中村菊之丞の名跡、あれでなければ継がせたいものもなく、あれが襲名してくれさえすれば、わしの名は、未来永劫、芝居道の語りつたえにものころうもの――だが、それは出来ぬ望みだ。かなわぬ夢だ。かれには、人並みはずれた大望がある。あれは、それを成就するためっばかりに生きている男だ。ほんに、この世は、ままならぬことばかりだなあ。
師匠の、そういう気持は、雪之丞にもよくわかるのだ。
――お師匠さまも、わしのようなものが、この大江戸で、分外の人気を得たのを御覧になるにつけても、いつまでも手元に引きつけて、面倒を見てやりたいおお思いになっていように――わしのこの一身を、お師匠さまと、芸術と――この二つのためだけに、ささげることが出来ぬというのは、何とかなしいことであろう――すまないことであろう――お師匠さまの、寝られぬ床のためいきが、耳につくたび、申しわけがない気がしてなりませぬ。
雪之丞は済まぬと思う――申しわけないと思う。が、どのような私情も、恩義も、彼の一徹な復讐心を磨滅させてしまうことは出来ない。
――いいえ、お師匠さまは何もかもゆるしていて下さるのだ。万一、世間の評判なぞに巻き込まれて、一生一願のこの気持をにぶらせもしたら、それこそ、今日が日までの恩厚を忘れたというのも、却て肉を裂きたい程のお腹立ちになるであろう。
と、つぶやいて、かろうじてわれを慰めるときもあった。
七日目の大喜利の前に、鏡台に向っていると、楽屋にぬっとすがたを現した男――
「おや、長崎屋の旦那さま。この程から、かずかずの御恩――さあ、どうぞ、お敷きあそばしまして――」
と、雪之丞、客のために手ずから座布団を押しやった。


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相変らず、はしッこそうな、キラキラした目付きをした長崎屋、結城縞(ゆうきじま)に、鉄錆(てつさび)いろの短羽織という、がっちりしたなりで、雪之丞の鏡台近くにすわると
「いや、こないだは、いろいろ我儘を申して相すみませなんだ。その後、すぐ見物ながら楽屋をたずねようと思うていたに、さまざま多用、失礼をいたしました。ますます人気絶頂お目出たい」
雪之丞は、そらさずに、
「何(いずれ)もさまのお蔭でござります。あなた様のお力にて、江戸一ばん、心強い御贔屓さまがたのお近づきになれまして、一生の面ばれ、御恩は決して忘れませぬ」
「そのように申してくれると、わしも何ぼうかうれしいのだ。あちらさま御一統も、お目にかかるたび、そなたの噂󠄀が出ぬことはない。それにつき、今一人、是非、そなたに逢いたいという者があるので今夜、また、そこまでつき合ってもらいたいのだ。都合はどうであろうな」
「申すまでもなく、旦那さま、おっしゃりつけとあれば、いずれへもお供いたしますが、そのお方さまは?」
長崎屋の目つきに、複雑な、神経的なものがただよった。
「実は、わしと似寄りの渡世をしているもの――わけあって、何事につけ、共に事をしようと、約束のあるお人だ。と、いって、いうまでもなく、お互に、商売がたきでないともいわれぬのだが、まず、今のところ、ある仕事を、一緒に進めてゆかねばならぬのでな――そなたは上方のお人。かなたにも出典もある、広海屋という海産商人なのじゃ」
「おお、広海屋さま――お噂󠄀は、とうから伺っております」
雪之丞、何で忘れてよい名であろうだろう。長崎奉行、代官をあやつって、松浦屋を陰謀の牲(にえ)にした頭人ともいうべき奸商ではないか!
「御存知か?なかなか大きゅう店をしていられる方じゃ。わしなぞは、まだ足下にも及ばぬ」
長崎屋の表情に、あらわに嫉視(しっし)のようなものがうかぶのを、雪之丞は見のがさなかった。
「実はな、わしと、広海屋、心を合せて、戸中の大商人と張り合い、お城の御用達をうけたまわろうともくろんでいるのでな――」
と、悪ごすい商人は声を落して、
「そこで、そなたを見込んで、一ツ力が借りたいと考えているわけ――お城のことは、浪路どのの口入(くにゅう)をうけるが便宜――その辺のことを、今夜二人で、くわしゅうそなたに頼み込みたい仕儀なのじゃ。もっとも、そなたとしても、わしが、どれほどそなた贔屓かを知っていてくれるはずだ。平たくいえば、広海屋さんより、わしの方へ、そなたも肩入れはしてくれるであろうと、それはもう安心し切っているのだ」
楽屋内をもはばからず、ひそひそと、こんなことをいい出す長崎屋の心の中は、今迄のゆきがかりで、広海屋とどこまでも同体せねばならず、また二人心を合せた方が、望みを果すに便利だとは思うものの、この場合、何とかして、この先輩同業を乗り越してやりたい野心を捨てることも出来ぬ。つまり、雪之丞によって、浪路をうごかし、広海よりも一あし先に御用允可(ごよういんか)のはこびをうけたいのである。
雪之丞は、万事、のみこんだというように、
「それはもう、あなたさまのためには、叶いますだけはいかなりことなりと――」


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長崎屋は、言葉せわしく、胸の一物を、概略ながら、雪之丞に囁いてしまうと、
「そなたは、こころの聡(さと)い方、大ていのみ込んでくれたであろ。不思議な縁で、したしくなったからは、わしが良ければそなたもよし、そなたがよければ、わしもよいというようにやって行って貰いたい。な、頼みますぞや」
「ようくわかりましてござります」
と、雪之丞は、うわべは、どこまでもやさしく、
「あなたさまも、幾久しく御贔屓を――」
「いうにや及ぶじゃ」
と、相手は、トンと胸を打って、
「では、今夜は、根岸の鶯春亭(おうしゅんてい)でまっていますほどに、閉(は)ねたらすぐにまいッてくれ。乗りものを待たせて置きますぞ」
言葉をつがえて、長崎屋、楽屋を出て行く。
――あの人は、骨の髄まで慾念で固まった、この世ながらの獄卒だ。とはいうものの、あの人みずから、わしの望みの手引きをしながら、好んでだんだん死地に近づいてゆこうとするのも、みんな因縁というものであろう。今夜、広海屋というのに逢えば、それで仇敵という仇敵の顔が、すっかり見られるというわけ。その上で、きっぱり仇討の手立を立てねばならぬ。
そんな風に、心につぶやいた雪之丞は、大喜利をつとめてしまうと、ふじいろのお高僧頭巾もしっとりと、迎えのかごに身を揺られて、長崎屋から示された、根岸の料亭をさして急ぐのだった。
その当時、大江戸に、粋で鳴った鶯春亭の、奥まった離れには、もう、主人役の長崎屋、古代杉の手焙(てあぶ)りを控えて坐っている。
「おお、滅法早う見えられましたな。さあ、これへ」
と、ちこぢこと、笑がおを作って、
「広海屋は、どうしたことか、まだ見えぬ。もうおッつけまいられるであろう。それまで、この家自慢の薄茶(おうす)でも服(まい)って、おくつろぎなさるがよい」
雪之丞がよいほどに、長崎屋と世間ばなしをつづけていると、その中に、廊下でしとやかな足音がして、
「お連れさま、お見えなされました」
と、知らせる、女中のあとから、
「やあ、おまたせしましたな。お屋敷の御用で、急に顔出しをしなければならなかったので――」
と、その場にすがたを現したのが、もう六十路(むそじ)を越したらしい、鬢(びん)が薄れて、目の下や、頰が弛んだ、えびす顔の老人、福々と、市楽柄(いちらくがら)の着つけ、うす鼠の縮緬(ちりめん)の襟巻を巻いた、いかにも大商人と思われる男だ。
「いや、待ち兼ねました。太夫もさき程から来ていられましてな――あ、これが、初下りの雪之丞丈、こちらが、お噂󠄀した広海屋の御主人じゃ。このお方も、そなたの舞台をつい、昨日のぞかれて、いやもう、大そう讃めておられましたぞ」
雪之丞、広海屋を一目見て、その福々しさがのろわしい。貧しく乏しく裏長屋に蹴落され、狂い死に、この世を呪って死んだ、父親の、あの窶(やつ)れ削(こ)けたすがたが、今更のように思い合される。
――おのれ、見ておれ、間もなく、おのれも八寒地獄に落ちる身だぞ。
憎みを、満腔(まんこう)に忍んで、彼はやがて仇敵どもがすすめる杯を、今夜も重ねねばならぬのだった。


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「ところで、長崎屋さん」
と、富裕な大商人は、仲間の方を向いていいだした。
「今夜、松枝町のお屋敷から、ちょいと御用で呼ばれたと伺いますと、思いも寄らぬ話が厶りましたぞ」
「思いも寄らぬ話とは?」
と、長崎屋は、広海屋の赭(あか)ら顔を見返した。
松枝町といえば、三斎屋敷を意味するので、この連中に取っては重大な関係がいつもあるのだ。三斎一家に関する情報は、従って聴きのがすことが出来ない――ぐっと、向きかわる。
「何でも、お城のお嬢さまが、おからだがいけないとかで、当分お屋敷の方へお戻りになるというのだ」
「えッ、何だって!浪路さまが、お戻りになるッて――」
長崎屋の顔に、ありありと驚愕(きょうがく)のいろが漲(みなぎ)った。
その浪路が、大奥にいればこそ、その手一すじをたよりに、城内に深刻な発展を試みようと努力しているのではないか――その手つきを失ったら――
「まさか、ずっとお城をおさがりになるわけではあるまいな!」
「それはそうであろうとも――」
と、広海屋はうなずいて、
「わたしも、実は、それが懸念で、さぐりを入れて見ると、こないだの芝居見物以来、何とないブラブラ病い、それで、御本人が、のびのびと、おうちで保養したら、すぐによくなろうと、いい出されたとかでな。だから、大したこともなく、すぐに快うなられて、大奥へお帰りになるに相違あるまい――また、上つ方でも、浪路さまを、お手ばなしになるはずはなしさ」
「なある――読めた!」
と、長崎屋、ずるい笑いに、目顔をゆがめるようにして、手を打った。
「浪路さまの、御病気の原因(もと)は、結局、この座敷にいるのじゃよ」
「うむ、わたしもな――」
と、広海屋が、これも意味ありげな微笑を雪之丞の方へ送るようにして、
「そなたから、こないだの事を聴いていたので、大方そんなことではあるまいかと思うているのだ」
「いやもう、てっきり、それにきまっている」
と、長崎屋が、あからさまに、雪之丞を見て、
「太夫、そなた、お嬢さまが、帰り保養ときまったら、すぐにお見舞にゆかねばなりませぬぞ――御病気のもとは、そなたにきまっていることゆえ――」
「何とおっしゃります!」
と、雪之丞、さも仰山に驚いて見せるのだった。
「御贔屓にあずかりました身、それはもう御病気とうけたまわれば、すぐにお見舞に伺うはずで厶りますが――わたくしが御病気のもととは?一たいどういうわけでござりましょうか!」
長崎屋は、笑いつづけて、
「何も不思議がることはない、御息女は、恋の病(やまい)にかかられたのじゃ。のう、広海屋さん――」
「いかにもそれに違いない。わたしもそう思いますよ。太夫」
と、広海屋主人も、大きく合点合点をして見せて、真顔になって、
「何しても、すばらしいこと、そなたのためにも運開きじゃ」


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「そりゃもう、このお人に取っては、これ以上の運開きはないが――」
と、長崎屋も、合槌を打って、
「この際、うんと本気に腰を入れてもらわぬことには、われわれの方のもくろみも、うまくゆかぬことになろうも知れぬで――」
雪之丞は、全身を汚穢(おあい)なへどろで塗りこくられでもするような、言い難い悪感をじっと堪えしのびながら、二人の言葉に耳をかたむけるふりをしていた。
「のう、雪之丞どの」
と、広海屋が、
「長崎屋から、くわしゅう聴いているらしいが、そなたが思いの儘に腕を振ってくれさえすれば、未来永劫、この二人で、そなたの一生のうしろ身は必ずして上げますぞ。何分、人気渡世は、一時の栄えは見せようが、行末長く々繁昌がつづくとも限らぬ――いや、そなたは格別であろうが、用心にしくはないのが、人の生涯じゃからな」
――この手で、父親のことを、汚らわしい深みに引き入れたのであろう――
雪之丞は、胸の中でそんな風に呪いながらも、
「全く以てお言葉通りでござります。ことさら以て、わたくしなぞは、たよりすくないみなし児の身、お二人さまがそう仰せられますと、夢のように嬉しくて、天へも上る気持でござります」
「うむ、のみ込みの早いお人で、わたしたちも大助りだ。人間はそう無うてはならぬ」
と、広海屋は、ますます膝を乗り出して、
「今も、冗談のように言ったことだが、あの御息女が、一目そなたを見て恋い焦れ、一身一命さえ忘れかけていることは、この長崎屋さんが、見抜いた通りに相違ない。あのお方を、そなたがたとえいとわしゅう思うていても、そこを辛抱して、皮肉に食い入り、魂にまといつき、心をとろかしてしまったら、そなた一人の幸福ばかりではない。われわれ一生の大願も、それに依って定まるのじゃ。ここのところ、十分に、打ち込んで貰いたいが――」
「大凡のことは、もう胸にはいっております。位高い御女性を、たぶらかすの何のとは、怖れ多いはなしでござりますけれど、一生懸命御機嫌を取りむすぶだけのことはいたして見るつもりでおります」
雪之丞は、はっきりと、二人の前に誓うようにいい切った。
「うれしいな、広海屋さん」
と、長崎屋は、そそるようにいって、
「これだから――このわかりのよさゆえ、浪路どのばかりではなく、男のわたし達も惚れ込まずにはいられぬのじゃ。では、御息女が、帰り保養ときまった上は、すぐに見舞に行って上げるようなすってな――」
「かしこまりました」
「と、きまれば、芸者を呼んで、一つさわやかに騒ごうか」
と、長崎屋が、手を鳴らす。
もうとうに、柳ばしから呼び寄せてあった男女の芸者達が、すぐに現れて、一座が、だしぬけのにぎわしさに変った。
「さあ、お互のための、前祝いの、盃、太夫も、心置きなく飲んだり、飲んだり」
広海屋は、粋な老人らしく、ほがらかな笑いを見せて、
「太夫ほどのものを、江戸を見限らせては土地ッ子の恥だ。さあ、女たち、しっかりつかまえて、上方を思い出させぬようにせねばなりませぬぞ」


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広海屋、長崎屋、二人とも、雪之丞をすつかり与し易いものと考えて、只、おだて上げ、唆(そそ)り立てて置けば、好餌にさそわれて、どのような犬馬の労をも取るであろうと、すっかり信じ込んでしまったように見えた。
芸者、末社のにぎわしい騒々しさの中に、長崎屋は、雪之丞に、杯をまわしながら囁く。
「そなたは、今、こうして、このせち辛い世の中に、贅沢な杯盤を並べ立てて、うまい酒を飲んでいるわれわれが、はじめから、いい月日の下に生れて来たものと思うていられるかの?大違いだ。のう、広海屋さん、お前とても、一時は、店の大戸を下さねばならないような羽目になったこともありましたな?」
「そうそう」
と、広海屋は、昔の零落を語るのさえ、今の身の上になった以上は、それも誇りの一つであるように――
「店の大戸を下すはおろか、借財に追いつめられて、首をくくろうとしたこともありましたがな――それも、これも、みんな夢物語になってくれましたで――ハ、ハ、ハ」
「今だから、何もかもいえるのだが、その頃このわしが、広海屋さんと同業の、手がたい見世(みせ)の奉公人でありましたのさ。ところが、この広海屋さんと、不思議に話のうまが合うので、主人を捨ててこの方と合体し、あらゆる智謀をしぼり合うた甲斐があって、広海屋さんの見世も持ち直し、以前より十倍もの勢いとなり、わしもわしで、まずどうやら一人前の町人になれました。この世の中は、いいも悪いもない――ただ、お互に出世しようと目的(めど)を立てたら、心を合せて、他人をかきわけ、踏み落して、ぐんぐん進んでゆく外はありませぬ――そなたなぞも、雪之丞どの、よいうしろ立てをつかんだなら、それを力に、遠慮のう威勢を張ってゆかねばならぬ。と、まず、わしどもは思っています」
「それじゃ、それじゃ、それにかぎるで――」
と、広海屋は、てかてかした顔を、酔いに染めて、しきりにうなずいて見せるのだ。
雪之丞は、冷たく、心にあざわらう――大きな声で嗤(わら)いたい――嗤って、嗤って、嗤い、嗤い抜いてやりたい!
――ようも自分の口から、旧悪をさらけ出しおったな!これ三郎兵衛、おぬしが恩を売ったという主人は、松浦屋――この雪之丞の父親なのじゃ。広海屋、おぬしが三郎兵衛と心を合せて、深味につき落したのも、わしの父親なのじゃ――その一子、雪太郎、いのち懸(が)けでおぬしたちの、首を狙っているとは知らぬか!
雪之丞は、出来るだけ気を平らかにしていようと、沸き立つ腕をさすっているのに、先方から、あまりに浅間しい泥を吐いて見せるので、
――いっそ、今夜のかえりに、この二人を、まとめて成敗してのけてつかわそうか?高の知れた素町人、当て殺そうも心のままじゃ。
そう思うと、殺気が、サーッとわれとわが背(そび)らに流れて来て、ブルブルと手足がわななくのだ。
もう彼の目には、江戸生っ粋の美妓たちも映らぬ――耳にいかなる歓語もひびかぬ。
――わしは、手を下そう――今夜、のっぴきさせず手を下そう。
雪之丞は、ジーッと伏目に、二人を見上げた。


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雪之丞、一たん、意を決してしまうと、もうじッとしていられない。
――早うこの場を退散して、この二人の帰りを待ち受け、こよいの中に冥府(めいふ)に送りつかわそう。どれ、その支度にかかろうか?
わざと、しなを作って、長崎屋の方へ身を擦りよせるように、
「旦那さま、実は今夜に、宿元にて、役者の寄り合いがあるはずのところ、外ならぬあなたさまのお言葉にて、この場に伺わせていただきましたので、お名残惜しゅうござりますが、中座いたさせていただきます。あなたさまより、広海屋の旦那さまへも、よろしゅうおわびをなされて下さりませ」
「なに、中座したいといわれるのか。それは残念な――酒宴もまだはじまったばかり、今しばらく待たれたら――わしも、広海屋さんも、更けたなら、よいところまで、そなたとかごを連らねられると楽しみにしていたに――」
と、三郎兵衛がいうのを、
「お言葉に従いとうはござりますが、役目も大事にいたさねば、舞台に何かと障りも出来、御贔屓様に、相すまぬようなことにならぬとも限りませぬゆえ――」
と、辞退すると広海屋も聴きつけて、
「太夫が、かえられますとか――のこり惜しいな」
――の頃惜しがりなさるには及ばない。ついじき、そこに待ち合せておりますぞ。
いい程に、言いこしらえながら、店中の形勢を眺めると、ことに依れば、この一座、これから吉原仲の町へでも、繰込もうという気配も見える。幇間(ほうかん)、末社が、しきりとはしゃぎ立てている折を見て、席をはずした雪之丞、そのまま、見世口へ出て来ると、
「おかえりなら、乗ものを――」
「かごを――」
と、ひしめく家人を制して、
「どうぞ、それには及びませぬ。はじめての御当地、お店前から乗りものに乗るなぞとは、旦那衆と御一緒なら、兎に角、勿体ない。実のところついそこに、迎えのかごを待たせてありますゆえ、御容赦――」
そう、いい捨てて、雪之丞は、小走りに外へ出てしまった。
「感心なお方――」
「ほんとうに程のよい――」
見送りに出た芸者、女中が、そんな風に囁き合うのを聴き流し巷路の闇にまぎれ込むと、闇の夜風が、鋭く頰を撫でる。
あたりは、杜と、茶畑、市(まち)の灯りからはるかに遠い根岸の里だ。人ッ子一人に出逢いはせぬ。木下蔭の暗がりで、長裾(すそ)をぐっと引き上げ、小褄(こづま)をからげ、お高僧頭巾をまぶかにして帯の間に手をやると、師匠が返してくれた一松斎譲りの銘刀が、体熱に熱くなって、一刻も早く血が吸いたいというように渇している。
――おまちよ、もうすこしすると、渇きを止めてやりますぞ。
身支度をすませて、細道に出ると、向うに、遠火事の炎が映っているように見えるのは、まぎれもなく、たった一度客すじから招かれて行った、新吉原の灯のいろに相違ない。
彼等が、そこを指さして押し出す下ごころを知り抜いている雪之丞、とある杜(もり)かげにじっとたたずんで、時のうつるのを待とうとするのだった。
すると、ふと、その中に、むこうからトボトボと近づいて来た、細長い人影――雪之丞が身をひそめた、つい側まで来て、ピタリと草履(ぞうり)の音を止めた。
「ほー人くさいぞ!」


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雪之丞、だしぬけに、不思議な嗄(しわが)れごえのつぶやきを耳にして、暗々たる杜(もり)の中に、ハッと立ちすくんでしまた。
老い、掠れた声がなおつづく。
「人臭いぞ――路上にすがたがないのに、人臭いとは、いぶかしいな?ふうむ、さては物とり追剝(おいはぎ)のたぐいでも、この杜中に隠れておるかな?」
そして、杖で、大地を、トンと突くような響がして、
「これ、物蔭にうごめいているのは、何物じゃ?姿を見せい!この界隈に、魑魅魍魎(ちみもうりょう)に住まわせぬことにしている、このじじいに、貴さまの、異形をあらわすがよい。さも無いとことに於いては、この破邪(はじゃ)の杖が、ずうんと、飛んでゆくぞよ」
――おのれ!貴さまこそいぶかしい奴――他人の大事の瀬戸際に、邪魔を入れようとしおって!猛然として、圧迫をはじき返そうと、心で叫んだが、相手は、まるで、こちらの心中を読み取ったように、
「突いて来るか、斬ってくるか?ハ、ハ、面白い。早う出い。出ればよいのだ」
雪之丞は、殺気を削がれた。
――何者だろう?ひどく、年を取っている奴のように思われるが――
「出ぬか!」
と、突如として、雷霆(らいてい)のように、一喝されて、こちらは、身を隠して、隠密と事を成そうとしつつある。いわば、後暗い夜――
「出ます」
と、思わず、受けて、そのまま差しかわす下枝(しずえ)をかき分け、道に出る。
闇空の下に、細長く、白髯長き老人が、長い杖を突いてすらりと立った立ち姿を、彼は見る――
と、咄嗟に、
――あ、老師だ!
と、瞠目した。
意外にも、それは、こないだ、蔵前八幡の境内で邂逅した、雪之丞に取っては、かけがえのない文学の師、孤軒先生にまぎれもなかったのだ。
逃げることもならず、その場に膝をついて、
「これは老師でござりましたか?」
とうなだれただけで、口がどもる。
「ふうむ、これはこれは、また、思わぬところで、そなたに逢うたものだな?」
孤軒老人も、いくらかびっくりした調子で呟いたが、
「今宵、ちと風流のこころを起して夜の上野山内から、不忍池(しのばずいけ)を見渡してまいった戻り道、ここまで差しかかると、妙な気合を感じたで、いたずらをやって見たが、そなたに逢えるとは思わなんだ。ハ、ハ、ハ、これも尽きせぬえにしというものだな」
雪之丞、孤軒老師が、この付近根岸御行の松の近くに住んでいるといっていたのを思い出した。
「恐れ入りまする――かかる痴(おろ)かしきすがたを御覧に入れまして――」
と、詫び入るように言うと、
「まず、立ちなさい。さ、立ちなさい」
と、手を取るようにして、老師は、じっと見下したが、
「さるにても、そなたは、今宵は、恒ならず事を急いているように思われるな。水、到って渠(きょ)なる――の象には遠い遠い。悪しゅうはせぬ。わしのかくれ家までまいるがよい」


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雪之丞は、老師のそうした言葉にも拘らず、すぐに後方(しりえ)に従うことがためらわれた。もうしばし、こも杜かげに待ち受けていさえすれば、仇敵(かたき)二人をまとめて始末することが出来るのに――と、思うとこの場を去るのが、のこり惜しくてならぬのだ。
しかし、孤軒老師は、恒になくいかめしく言った。
「これ、わしと一緒にまいれと申すに――」
「は、はい」
今はやむなく、雪之丞は、星の高い闇空の下を、導かれるままに跟いて行った。
孤軒は、、ひと言も、口を利かなかった。雪之丞も黙ったままだ。二人は枯葉が踏むたびに乾いた音を立てる森下路をしばしば歩いた。
やがて、大きな松が、ひと本、、黒く枝をひろげたのが見えるあたりの、生け垣の、小家の前まで来ると、老人は、枝折戸(しおりど)を外からあけてはいる。狭い前庭――
「戻ったぞ」
「あ――い」
と、少年の声が、奥で返事をして、入口の戸があく。
「お客だ。香ばしゅう茶をいれるのじゃよ」
と、目つきの可愛い、クリクリ坊主の小僧に命じて、
「これが、わしの侘住居(わびすまい)じゃ。上りなさい」
と、雪之丞にはじめていった。
雪之丞は、ホッとした。老師が、あまり黙り込んでいるので、何となく尤(とが)められているようでならなかったのだ。
老師と、彼とは、炭火が、赤々と熾(おこ)っている炉ばたに向い合った。
「さて、雪、そなた、あそこで、どのような狂言の、幕を開けようと思っていたのじゃな?」
雪之丞は、キラリと底光りのする孤軒の目から、わが目をそむけた。
「しかし、わしは、よいところに通り合せたと思っておる――」
と、老人は、刺すような調子で、
「敵を仆(たお)すには、その根幹を切らねばならぬ――ああした場所では、とても大物を仕止められようとは思われぬでな――いたずらに、枝葉にこだわって、大立物を逃すようなことはせぬものだ――雪、そなたは、折角、松枝町に近づいたであろうに――」
「えッ」
と、雪之丞は、おどろかされて、
「三斎と知り合いましたを、どうして御存知でいられます?」
「わしの八卦(け)、観相は、天地を見とおす――と、言いたいが、実はな、この老人も、中村座の初日が、気になって、のぞきにまいった――すると、あの一行の幕張があって、大分、sなたに執心しているように見えたゆえ――」
老人は、いくらか微笑して言って、
「いま俄かに、そなたが動き出したら、抜目のない三斎、何となく危さを感じて、他国者なぞ、身近くに寄せるようなことはせなくなるぞ。まず、じっと怺(こら)えて、存分に彼等を艱(なや)ます策を立てねばならぬ」
「それは、わたくしも考えておりますものの、今宵、かの広海屋、長崎屋、二人を目の前に並べて見ましたゆえ、怺えかねて怺えかねて」
「ふうむ、それで、待ち伏せをしようといたしたか?が、一思いに仕止められたら、彼等はこよない幸福者――なぜ、今しばし浮世に生じ置いて、心の苦痛を嘗めさせてやろうとはしないのじゃ?」


一〇[編集]

雪之丞が、うわべでは、うなずきながらも、心にはなお不承らしいのを、老いたる孤軒はなだめるように見て、
「わしはいつぞや、八幡境内で、油断のう進めとはいうたが、しかし暴虎馮河(ぼうこひょうが)こそつつしむべきだ。第一、今も言う通り、今夜この二人を合せて討ったなら、物盗とも見られまいし、誰かの目に、そなたの姿が映らぬとも限らぬ――十に八九は、一座していたそなたに疑いが、かかるであろう。ジロリと、土部一味の目が光ったら、明日はそなたの舞台はもう江戸の人は見られなくなる。それよりも、広海屋、長崎屋、お互に同業、胸の内に、修羅のほむらを燃しているに相違あるまいが、それを用(つこ)うて一狂言、そなたにも書けそうなものだが――」
「左様、それにつきましては、実は――」
と、雪之丞が、長崎屋の、広海屋に対する反抗心を、あけすけ聴かされた旨を逐一打ち明けると、孤軒は、にこにこして、
「それが、この浮世で利慾に生きるものの、浅間しい望みなのだ。我慾に熱して、友も主も売る――そあたの父親を売った二人は、今度はお互にお互を喰らおうとしてもがき焦せる――そなたとしては、今の場合、その二人をどこまでも争わせ、魂をも肉をも、現世で食い散らさせるのを眺めるのも一興じゃと思うがな。そこでわしに一案がある」
孤軒は童子が、運んで来た茶を、うまそうに啜って、
「わしは、夜目ではわかるまいが、この小家の入口に、これでも堂々と易の看板をかけておるで、金、銀、米、そのほか、相場の高低を争う、はしッこい町人たちが、慾に瞳が暗んだ折に、よりよりわしの筮竹(ぜいちく)をたのみにして駆けつけてまいるが、その者どもに聴けば、かの長崎屋、一度に資財(たから)を数倍させようと、今年北国すじの不作を見込んで、米を買っておるそうな。ところが、広海屋一派の商人たちの方では、西国に手持ちの米が多分にあるで、利害が反対になっている――が、今のところ、広海屋も、目前の利に欺かれて、却々売り叩こうともせず、もっともっと値の出るのを待っているらしい。が、ここで、そなたが、普留那(ふるな)の弁口を揮(ふる)うで、西の米をどしどし売らせたなら、米価は、一どきに低落し、長崎屋方は総くずれになるは必定だ。しかも、江戸の人気は、一時、広海屋方に集まって、あれこそ、廉(やす)い米を入れてくれた恩人と持て囃(はや)されるであろうよ。一人は泣き、一人はよろこぶ――」
「お言葉では厶(ござ)りますが、それでは、長崎屋をくるしめることは出来ても、広海屋は、旭の勢いとなって、さぞよろこぶことで厶りましょうが――」
と、雪之丞が、進まぬげに言うと、
「そこが、若いと申すのだ」
と、孤軒がおさえて、
「落ち目に蹴落された長崎屋は、牙(は)を剝(む)いて嚙みつくに相違ないのだ。あれたちはこれまで、あらゆる慾の世界で、合体して働いて来た、狼同士、二人とも泥の腸について知り抜いているのだ。それがいがみ合いはじめたら、そなたはまず、側で手を拍いていてもよいということになるであろう――そなたが、最後の刺止(とどめ)だけ刺してやればいい」
雪之丞は、了解した。
「いたして見ましょう――広海屋さんとも、いつでも御懇意に出来ますようにご存じますから――」


一一[編集]

その場の胸中の憤懣に、日頃のつつしみを忘れ、軽はずみに事をいそいで、大事をあやまろうとした雪之丞、測らず邂逅した孤軒老師から、新しく智恵をつけられ、翌日、翌々日、無事に艶冶(あでや)かなすがたを、舞台に見せつづけていた。
すると、三日目に、こちらから手を伸ばす必要もなく、広海屋の方から、禮の鶯春亭まで、出向くようにとの迎えがある。
早速行って見ると、奥座敷に、長崎屋の姿はなく福相な広海屋が幇間を相手に世間ばなしをしていたらしかったが、かねて打合せてあったものと見えて、雪之丞の姿が現れると、居合せた男女が、席をはずす。
辞儀が済んで、
「今晩は、長崎屋さまは、お見えあそばさぬのでござりますか?」
と、さり気なく、尋ねると、
「おお、あの男は、昨日今日、商用で大そういそがしがっておるのでな――それはそうと、例の松枝町の御息女、たった今日、向う半ヵ月のお暇を頂き、自宅保養のあめ、大奥から、お屋敷に戻ってまいられたで、この事を、是非、耳に入れて置こうと思うてな――わしは、お屋敷には伺ったが、御当人には、お目にかからぬ。御隠居さまは、別にこれという病気(いたつき)も無いらしに、気先だけがすぐれぬというているが、おつとめが急に厭わしゅうなったのではあるまいか――なぞと、しきりに心配していられました。あれほどの鋭いお方にも、娘御のお胸の中は、図星を差すことはならぬと見える。長崎屋もいうとおり、そなたが、その美しい顔を見せたなら、忽ちほがらかになるに相違ないに――」
「わたくしに、それだけの力がござりますかどうか――でも、折角のお言葉も厶りますし、明日にでもすぐにお見舞に上って見るでござりましょう」
と、雪之丞は、しおらしく受けて、ふと、思いついたように、孤軒入智恵の問題に、探りを入れて見る――
「それとは、お話が違いますが、昨晩、去る御城内のお役向の御一座から、お招きをうけました節、あなたさまの御評判を洩れうけたまわって、かずならぬ身も大そう嬉しゅうござりました」
「ほう、役向の衆から、わしの評判を聴いたとな?」
と、人気渡世の役者以上に、世評が気になってならぬような、大商人が膝を乗り出して来た。
「それは、また、どんな評判を?」
「わたくしに、江戸では、主にどのような方々の御贔屓になっているか――なぞ、お尋ねでありますゆえ、ここぞとばかり、口幅ったくも、お名前を申し上げました。すると、うむ、それは、よき人々に贔屓(ひか)れておるな――広海屋と申せば、名うての大町人、やがて江戸一にもなるべき人だ――」
「うむ、左様なことを、お城重役が申されていたか――」
広海屋の、栄達を望んでもがきつつある心は、すぐに激しく動揺して、喜色満面。
「ええ、もう、大したお讃めで――」
と、雪之丞は、唆り立てて、
「その上、わたくしにはわかりませぬが、何か、よほどむずかしげなお噂󠄀もありましたようで、あなたさまについてのお話ゆえ、一生懸命理解いたそうといたしましたが、くわしゅうはのみ込めませず、残念に存じました」
「わが身についての、むずかしい噂󠄀――」
広海屋は緊張して、
「気にかかるな?何事か聴かしてくれ」


一二[編集]

雪之丞は、広海屋が、こちらの口車に乗せられて、ぐんと乗り出して来るのを、浅間しいものに眺めながら、
「只今も申しますとおり、わたくしなぞには、良く、呑み込みのいかないお話でござりましたが、何でも、貴方さまが、一決心なされました、お持米とやらを、東(あずま)におまわしになりませば、大したことになるであろう――と、いうようなことを、しきりに仰有ってござりました」
「何と?持米を東に廻す!」
広海屋はするどい目つきになって、
「それは、どんなわけなのか?」
「わたくしが伺いましたところでは、あなたさまは、海産物とやらばかりではなく、上方、西国で、沢山にお米を買い蓄(た)めておいでなそうで――」
雪之丞が、相手をみつめると、
「ウム、いかにも――」
と、広海屋は、いくらか得意そうにうなずいて、
「何百万石という米を、実は妙なゆきがかりから、去年この方手に入れたところ、去年の東の凶作――もうしばし持ちこたえていたら、莫大な利得が生れようとまずたのしみにしている次第だ」
「お武家さまたちの仰せでは、そのお米を、あなたさまが、男なら、一度に江戸へお呼びになり、こちらの米価とやらを、一朝に引き下げておしまいになると、お名前が上下にぱッと輝くばかりか、関東米相場の神さまにもお成りになり、一挙に、江戸一の勢いをお示しになれるに相違ないに、何をためらっているのであろう――やはり、町人と申すものは、目前のことにのみ、心を引かれて、大きな企(もくろ)みが出来ぬと見える――と、まあ、あの方々でござりますから、そんな無遠慮なことも仰せられておりました」
「ふうむ――その方々が、そのように仰せられていたか?ふうむ」
と、広海屋は、腕を組んで、伏目をつかって、
「この広海屋が、男なら、上方西国の手持の米を、思い切って東に呼び、江戸市中の米価を引き下げ一時の損をして、未来の得を取るべきだ――と、つまりはそんなことをいわれていたのだな?」
「いかにも左様で――その暁には、上つ方のお覚えもよくなるは勿論、江戸の町人で、あなたさまに頭のあがるものもなくなるであろうに――と、まで仰せになりましたが――」
「ううむ、成るほどなあ、御もっともなお言葉だ。太夫、ほんにいいことを、耳に入れてくれましたな。だが、ここに、さりとて、その言葉を、すぐにお受けするわけにならぬ義理もあるので――」
と、広海屋は、考え込みながら、
「そなたも知る、長崎屋、あれが、中々、目から鼻へ抜ける儲け師、東の不作と見て、これからもますます騰貴(とうき)すると見込みをつけ、今になって、買入れ、仕込みをいそいでいるのじゃ。そのために、まず、全力を集めていると言ってもよいので、ここへ、西から廉い米が、大水のように押して来たら、あの人の見込みは、ずんとはずれ、飛んだことになるであろう――そんなわけで、実はわしも手持の米を、あの人達の方へ少しずつまわして、利を刎(は)ねて行こうと考えているわけなのだが――しかし、損して得をとれ――との、そのお武家方のお考えは、あっぱれな名案だ」


一三[編集]

商利を、一生の目的として、そのためには、一切の恩愛義理をも犠牲にしようとするような人間に対しては、利害一途で、相い争わせ、相い喰(は)ませ、骨髄まで傷つけ合せるのこそ、最大苦痛をあたえることだと、孤軒老師の訓(お)しえからして思い到った雪之丞、広海屋の顔いろが、すさまじく変って来るのを見きわめると、一そう煽りを掛けてやらずにはいられない気がして来た。
「わたくしどもには解りませぬが、芸道の方なぞでは、どのように日頃親しくしていましても、舞台の上で蹴落し合わずにおりませぬが、お話をうかがっておりますと、さすが、あなたさま方は、お立派なものでござりますな。長崎屋さまに御不便だとお思いあそばしますと、あなたさま、見す見す莫大は御利分があると御存じでありながら、お手をおゆるめになるとは、全く以て、恐る入る外はござりませぬ」
すると、広海屋が、組んでいた腕を、ぎっと引きしめるようにしながら、じろりと、雪之丞を見て、
「太夫、そなたは、長崎屋にも、贔屓にされている身、だが、そこまで申してくれる故、打あけるが、商人道というものも、そなたが、今、言われる通り、どんな恩人、友達の仲でも、いざという場合は、武士の戦場、かけ引きがのうては叶わぬ。わしと長崎屋の間柄とて、今日まで味方、いつ、明日の敵とならぬとも限らぬのだ。その上、当の長崎屋とて、つねづね、わしを出し抜こうとはかっているすじが、見えぬでもないのじゃ」
雪之丞は、やはり、蛇の道は、へびだ――と、思わずにはいられなかった。
長崎屋が、広海屋に対して、どんな修羅をもやしているかは、雪之丞がよく知っている――それに負けぬ妄念を、広海屋の方でも抱いているのは当然だと思われた。
彼は、目の前に、餌食に餓えた、二匹の野獣をみつめているような気がして、いつもであれば、浅間しさに目を反けずにはいられないのだが、今の場合、二人の姿がみぐるしく映れば映るほど、頼み甲斐のある世の中でもあるような気がするのだった。
そう仰せられるのを伺いますと何とのう、この世が侘しゅうもなりますが、しかし浮世と申せば、よろず、止むを得ぬ義とも思われますな」
と、雪之丞、しんみりいて、相手を見上げると、
「心弱うては、此の世界では、乞じきに、身を落すほかはない――それにしても、太夫、よいことを耳に入れてくれましたな、このことは、長崎屋には、当分のあいだ、耳に入れぬよう頼みますぞ」
「あなたさまが、そう仰せあそばせば、決して、どなたの前でも、歯から外に洩らすことではござりませぬ」
「折角、そなたの話もあったゆえ、わしも性根を据えて、ここらで、ずんとひとつ考えて見ねばならぬ」
と、広海屋は、思い入ったようにいったが、ふと、気がついたように、腕組をほどいて、
「さて、では、心置きおう、杯をすごして貰おうか――わしも久しぶりで、何かこう大きな山にさしかかった気がして、心がいさんでまいったようだ。は、は、は、幾つになっても、商人は商いの戦いをしたがっていてな」
彼は、パンパンと、手を拍って、座をはずしていた取り巻きを呼ぶのだった。

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。