阪神夜店歩き


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阪神〈[#「阪神」は底本では「阪神の」]〉夜店歩き


神戸


 心斎橋を行くと呉服屋と下駄屋と時計屋と小間物屋との重複連続だという印象が残る。そこでわれわれ男たちにとっては、その両側の飾窓ははなはだ無興味である。その点では神戸の方が男たちをよろこばすべき商家が多い。洋食器屋、ハム、ソーセージのうまい家、ユハイム〈[#「ユハイム」は底本では「ユーハイム」]〉やフロインドリーブの菓子屋、洋家具屋、支那街の焼豚屋、カラー、ネクタイ屋、西洋雑貨屋、バー、チャブ屋など限りがない。なお私の蘆屋からは大阪よりも手近である関係上、つい神戸を多く訪問する。そして例えば私の好きな古道具などを素見しながら山手の三角帳場から両側の店を覗きつつ生田前へ出ることに近頃ではおおよそコースがきまってしまった。
 それが夜ででもあれば明るい店頭は生田神社の前からなお連綿として踏切を越え大丸の前から三宮神社の境内に及ぶ。そしてこの境内は毎夜の夜店である。金魚を掬う屋台店から、二銭のカツレツ、関東煮、活動、征露丸〈[#「征露丸」は底本では「正露丸」]〉、コーヒー、ケーキの立ち飲み屋、人絹の支那どんす、五〇銭、二〇銭のネクタイ屋等の中を女給、ダンサー、アメリカ水兵、フランス人、インド人、西洋人の夫婦が腕を組める、支那の女が氷水を飲んでいる等は船場、島の内〈[#「島の内」は底本では「島野内」]〉の夜店では発見出来ない情景である。
 それからじきに元町は明るい商家が軒を並べている。その元町を行き過ぎてしまうと三越のところから楠公前は目前に迫っているという有様だ。さてこの辺から少々街の品格が下がってくる上に往来の人物も何か尻をまくり上げた男連れが多くなる。楠公神社は今は三の宮の賑わいに及ばないけれども、その淋しい境内に暗い夜店がポツンポツンと散在せる光景もまた何か夜店の憂愁を感ぜしめる。
 それからなお両側の明るい商家はいよいよ明るさを加え、混雑を増し、何となく遊廓の香気さえ高くなって行くのだが、それから湊川の新開地の昼店〈[#「昼店」は底本では「画店」]〉と夜店と光と雑沓が控えている。とにかく三角帳場から新開地までのコースにおいて、われわれは暗がりの町を発見することがない。そしてその東西の長さにおいてはまったくくたびれるだけの距離がある。要するに神戸の商家はことごとく夜店の代用も勤めているといっていいかも知れない。それでむしろ神戸の夜店は場末に近いところに多く暗い街を明るく照らしている。電車やバスの窓から、神戸を離れたと思われるころ思いがけないところに電灯の輝く長い一筋を発見することである。夜店の賑わううしろの暗に青い麦畑を見ることもまた場末の情景である。近ごろは芦屋でさえも夜店は相当の賑わいを呈して来た。子供はその三と八の日を忘れない。
 
 
大阪


 さて大阪は昔から商業の中心地であり、大体において中心地帯は大問屋が軒を並べているためか夜になると各戸ともに戸を締め切って街路はまったく暗やみとなって静まり返ってしまう傾向がある。晩に店を開くものは小商人としてむしろ軽蔑されがちだった。まず大阪の町は暗いのが特長だといっていいかも知れない。ずっと以前は梅田から堺筋を経て恵比須町にいたる間において、ただ日本橋のあたりが夜の灯に輝いたに過ぎなかった。そして日本橋三丁目あたりのある暗い夜店では私は幾度か兄さん兄さんと見知らぬ女に捉えられたくらいの淋しさだった。驚いてよく見ると、五人のうす汚れした女が立っていた。
 現代〈[#「現代」は底本では「現在」]〉では街の明るさは街灯によって増したけれども、でも堺筋の大部分の家は昔と同じく夜は戸を締めた暗い街路に過ぎない。第一流の散歩道といわれる心斎橋でさえも、この現代において、北は久太郎町から難波駅にいたるただ十町ばかりが心ブラ地帯であるに過ぎない。若き暇な芸術家は一夜に心斎橋を幾往復するか知れないという。さても辛抱の強さよ。
 したがって大阪の夜店は暗黒の街路を一、六、三、八、といった日に氏神を中心としてその付近を急激に明るくして楽しもうとする傾向がある。私の子供時代の大阪の夜の暗さは徳川時代の暗さをそのままに備えていた。だから夜は寝るよりほかに途はなかったものだ。したがってまだ宵の一〇時ごろに火事の半鐘がじゃんと鳴ってさえも、丁稚や番頭は悦びに昂奮して飛び上がったものだ。縁もなきよその火事でさえも一応は火事半纒を着用して、えらいこっちゃ、近い近いと走り出した。そして彼らは火事が終わりを告げ、火の気がなくなるまでかえっては来なかった。それくらい若い男たちは退屈だったのだ。丁稚や私の幸福は、すなわち火事と夜店の八の日だった。それは八日、一八日、二八日に出るところの大宝寺町の夜店だった。母はその日がくると今夜はよのよだといった。すなわち横町の夜店の略称だ。すなわちよのよの日は女中も番頭も丁稚もめかしこんでぞろりぞろりと繰り出すのだ。暗い町が急に明るくなり、淋しい町が急激に賑わうことは何といってもわれわれを昂奮させた。まったく夜店は夏は夏で西瓜と飴湯に暑さを忘れ、冬は冷たい風を衿まきで防ぎつつカンテラの油煙を慕って人々は流れて行く。ことに年末の松竹梅と三宝荒神様のための玉の灯明台、しめ縄餅箱を買うことは、われわれの心へいとなつかしき正月の情趣を準備させることだった。春になって風の温かい日がくると夜店の灯火は誘惑をことのほか発揚する。そして何といっても夜店の誘惑は夏である。
 人間が不思議な温気と体臭を扇子や団扇で撒き散らしながら、風鈴屋、氷屋、金魚屋、西瓜屋の前を流れて行くのである。その大宝寺町の夜店は今なお盛んに行われている。私はなつかしみつつ今も時に歩いてみることがある。それから四、五年間私が住んでいた八幡筋へも八幡社を中心とする夜店が出た。自分の家の前が雑踏することは子供でもない私を何か妙にそそるところがあった。私は夜店の人の流れがおおよそ引去った一二時ごろひっそりと夜店の末路を歩いてみるのが好きだった。そして古屋敷の徳川期の絵草紙類や娘節用、女大学の揷絵に見惚れて仏壇の引出しを掃除しているごとき気になって時を忘れたものである。
 さて、近代の堺筋はどれだけ明るさを増したかを見るに、もちろん街路に電灯は輝いたけれども、多くの家はなお夜は戸を締めている。その暗いトンネルをタクシーのヘッドライトが猛烈に流れている。クラクソン〈[#「クラクソン」は底本では「クラクション」]〉は叫ぶ。自分の話す声さえ聞こえない電車の車輪の鉄の響である。タクシーの助手は乾燥したいびつな顔を歪めつつわれわれの前を通る時、一本の指を一休禅師の如く私に示しつつ睨んで行く。その一本の指にこそ現代〈[#「現代」は底本では「現在」]〉の複雑な心が潜んでいることを私は感じる。
 タクシーの示す指の相貌と同じ相貌を私は近ごろ試みられつつある堺筋の新しき夜店を訪ねて発見した。夜店は指を示してはいなかったが、堺筋の夜店では旧夜店の相貌を見ることは出来なかった。平均された貧しく白い屋台の連続と手薄い品物と何か余情〈[#「余情」は底本では「予情」]〉のない乾燥とが、かの桃色の小型タクシーを思い起こさせた。そして堺筋の歩道の狭さは殆ど二メートルと見えた。その中を往と復との群衆が衝突しているのだった。あまりの苦しさから車道へはみ出した時、たちまち交通巡査は人道へ帰れと叫んだ。この窮屈な人道を行く五分間のうちにおいて女は二回まえを擽ぐられたという。次の五分間において二人の女性がある店頭に立った時洋服の中老紳士がその真中に現れ、気を付けの姿勢を保ちながら左右の女性を同時に驚かせた。しかるのち気をつけの姿勢のまま悠々と立ち去ったということだ。
 だがしかしこれを警察官も一つ一つ検束せず、女も本心から怒らないところに夜店のなごやかな雰囲気を見ることが出来るかも知れない。そして夜店の不良少年はそれらの汚名をことごとく引き受けている。だがしかし若い女性は中老の紳士をもっともおそれているそうだ。
 堺筋では例の画家達のやっているというミス・サカイスジの相貌が見たいので私は苦しい流れを行進した。そしてミスの横文字を発見した。ある父はマリオネットの人形を指して、「それお化けや、買うたろか」といったら子供は「いや! こわい」といって悲鳴をあげた。あるいは若い亭主が妻に向かって「これが芸術というもんや、どや」といったりした。それらの言葉を聞いているだけでも相当の興味が持てたが、何しろ五分間と停滞することを許されないので私達はそのまま揉まれつつ押し流されてしまった。
 偶然にも平野町へ来ると六の日とみえて、ここも夜店で賑わっていた。平野町は御霊神社をめぐる古来有名な夜店である。新旧二つの夜店が十文字に交叉するということははなはだ面白い現象だった。私はほっとしてこの古い顔の夜店へ吸いよせられてしまった。
 ここは道もゆるやかだし、電車も巡査もいない。危険と苦痛がないことは何よりだった。そして第一に屋台の様子がその店の個性を出して思い思いの意匠を凝らしているところは歩行者によき慰めを与えるのである。そして香具師と和本屋と古道具屋と狐まんじゅう、どびん焼、くらま煮屋が昔そのままの顔で並んでいた。私が十幾年以前に初めてガラス絵を買ったのもこの平野町だった。末期的な役者の似顔絵と、人形を抱く娘の像の二つを発見して妙に執着を持った。私は多分一枚五〇銭で買ったと記憶する。それが病みつきでとうとうガラス絵とは妙な仲となってしまった。
 私は香具師がする演説に感心してしばらく立ち止まって聴く。大根の皮をむく機械など使う手練の鮮やかさは、ついその役にも立たぬものを買ってみたくさせるだけの才能がある。あるいは猿股の紐通し機械を売る婆さんは猿股へ紐を通しては引き出し、また通しては引き出している。私は時に猿股の紐がぬけた時、あれを買っとけばよかったと思うことがある。さてその前へ立った時、どうも買う勇気は出ない。あるいは暗い片隅でさくらが役にとられた顔つきで珍しくもない万年ペンを感嘆して眺めている。その姿を見ると私はそこに夜店そのものの憐れにも親しむべき心を発見する。その他、悪資本家退治の熱弁のお隣で木星の観測だといって遠眼鏡を覗いている。それらの浮世雑景の中をまたその点景の一つとなってうろついていることが私自身の浮世でもある。

(「大阪朝日新聞」昭和五年七月)

 
 

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