銀行の名
- 金融商業部
銀行の名
[編集]武藤長蔵氏の詮鑿によれば、支那広東に康熙五十三年(本朝正徳四年)の記識ある銀行会館の鐘銘存在すといへば、支那には、銭荘金銀舗などと同類の営業に、銀行の名称ありしことは、やや古きことなり。
明治四年十二月、東京会議所会員が、七百万円を資本とし、東京銀行を設立し、紙幣発行権を得んことを出願したれども政府はこれを許可せざりし。当時の東京会議所は、江戸時代の町会所の後身にて、現今の商工会議所に似たる機能を有せる団体なり。当時すでに、銀行の名称ありしを知る。
本邦今日通用するところの銀行の名は、むろん洋語バンクの翻訳なり。されども、バンクの営業種目およびその性質は、本邦古来の営業名目に恰当するものなく、銀行の訳さへ、適切妥当ならざるはもちろんなり。
慶応二年版『事情』に、バンクを訳して「両替問屋」といひ「両替屋」といひ、「銀座」といひ、セイヴヰングスバンクを「積金預所」といへり。また二年版『聞見録』に、「党銀舗」と訳し、リヨウガヘバの傍訓を下せり。
バンクの訳字に、銀行を当てたるは、明治四年中、渋沢栄一が、米国の銀行条例を翻訳するとき、支那にて何々洋行といふより思ひ付きしに始まるとは世上一般の通説となりをれり。されども、この説は、容易に信じがたし。明治四年大蔵省官版福地源一郎訳『会社弁』は渋沢栄一の序を冠して発行せり。その小引中に、「会社とは、総て百般の商工会同結社せし者の通称にて、常例英語〈コンペニー〉〈コルポレーシヨン〉の適訳に用ひ来り、特に銀行に限るの義に非ずといへども、今此書暫く<バンク〉の訳字として銀行の字に代用す」と、「バンク」を銀行と訳し、本文すべてこれに従へり。同年官版渋沢氏の『立会略則』は、「バンク」を為替会社と記し、通篇銀行の新字を用ひざるを見れば、渋沢氏を「銀行」の命名者とすることいかがやと思はる。
『智環啓蒙』(元治元年香港印刷、慶応二年江戸翻刻)百四十九条に、Banknotesを銀行銭票と訳せり。わが明治の銀行の新名は、むろんこの辺より出でしなるべきも、邦人のこれを使用し始めしはいつなるべきかいまだ考へ窮めず。
明治五年春『雑誌』三十六号に、府下の大火災に、横浜東洋銀行ロツセルが、墨金《メキシコドル》千弗を義捐せる記事あり。その他、銀行にカハセザと傍訓し、銀行会社にカハセコンパニヒと傍訓せる、いつれも銀行の二字の目新しかりしを知るに足れり。
慶応二年版『事情』に、「銀座手形」を説明せり。「銀座手形」は、今日の「兌換券」に命じたる名なり。いはく、「西洋諸国大抵皆紙幣を用ゆ、但し其価五十両或は百両以上なるものは、之を銀座手形と名け、紙幣と唱ふるものは、僅一二両許にして、市中日常の売買に用ゆるもの也、仏英蘭等には、紙幣なくして唯銀座手形のみを用ゆ、総て紙幣及手形は、政府の銀座より出す、此銀座には、固より紙幣手形だけの現金を備置くべき理なれども……商人にても、銀座を設けて、手形を出すを免す」と、これ当時本邦に行はれたる銀座をもつて、バンクの訳に当てしなり。
関連項目
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