白井道也 （ しらいどうや ）
八年前 （ まえ ） 田舎 （ いなか ） 箇所 （ かしょ ） 飄然 （ ひょうぜん ） 流す とは門附 （ かどづけ ） 飄然 とは徂徠 （ そらい ） 拘 （ かか ） 縺 （ もつ ） 片端 （ かたはし ） 着 （ ちゃく ） 出処 （ しゅっしょ ） 十重二十重 （ とえはたえ ） 因縁 （ いんねん ） 絡 （ から ） 鴻雁 （ こうがん ） 乙鳥 （ いっちょう ） 来 （ きた ）
始めて赴任 （ ふにん ） 越後 （ えちご ） 在 （ あ ） 分 （ ぶ ） 御蔭 （ おかげ ） 遥 （ はる ） 紳士 （ しんし ） 勝敗 （ しょうはい ） 明 （ あきら ） 金力 （ きんりょく ） 品性 （ ひんせい ） 云 （ い ） 暗 （ あん ） 黄白万能主義 （ こうはくばんのうしゅぎ ） 弊 （ へい ） 戒 （ いまし ）
役員らは生意気 （ なまいき ） 奴 （ やつ ） 吐 （ は ） 愚 （ ぐ ） 漫 （ みだり ） 属 （ しょく ） 飄然 （ ひょうぜん ）
次に渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白紙となる。炭礦 （ たんこう ） 呼吸 （ いき ） 垢光 （ あかびか ） 蒼 （ あお ） 弄 （ ろう ） 御慈悲 （ おじひ ） 叩 （ たた ） 幾片 （ いくへん ） 湧 （ わ ） 掌 （ ひら ） 叩 （ たた ） 自 （ おのず ） 塵 （ ちり ） 舐 （ な ）
金 （ かね ） 活 （ い ） 誹 （ そし ） 悪体 （ あくたい ） 試 （ た ） 抛 （ ほう ）
第三に出現したのは中国辺 （ へん ） 田舎 （ いなか ） 利 （ き ） 廻 （ ま ） 厭味 （ いやみ ） 懸 （ かか ） 仏蘭西 （ フランス ） 功徳 （ くどく ） 一分 （ いちぶん ）
ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入 （ はい ） 挨拶 （ あいさつ ） 六 （ む ） 侍 （ さむらい ） 物 （ もの ） 具 （ ぐ ） 飄然 （ ひょうぜん ） 目 （ もく ） 頑愚 （ がんぐ ） 嘲罵 （ ちょうば ）
三 （ み ） 景色 （ けしき ） 世地辛 （ せちがら ） 抛 （ なげう ） 袂 （ たもと ） 遣 （ や ） 切 （ き ） みいら となる工夫 （ くふう ） 賞 （ ほ ）
道也には妻 （ さい ） 自 （ みず ） みいら となるのを甘んじても妻を干乾 （ ひぼし ） 訳 （ わけ ）
始めて越後 （ えちご ） 一部始終 （ いちぶしじゅう ） 甲斐甲斐 （ かいがい ） 手拵 （ てごしらえ ） 顛末 （ てんまつ ） 頑固 （ がんこ ） 挨拶 （ あいさつ ） 遠退 （ とおの ）
妻君が自分の傍を遠退くのは漂泊のためであろうか、俸禄 （ ほうろく ） 棄 （ す ） 洩 （ も ） 了簡 （ りょうけん ）
博士になり、教授になり、空 （ むな ） 謳 （ うた ） 轟 （ とどろ ） 夫 （ おっと ） 知己 （ ちき ） 朝夕 （ ちょうせき ） 世間並 （ せけんなみ ） 嫁 （ とつ ） 己 （ おの ） 後 （ のち ） 妻 （ さい ） 容 （ い ）
世の中はかかる細君をもって充満していると云った。かかる細君をもって充満しておりながら、皆円満にくらしている。順境にある者が細君の心事をここまでに解剖する必要がない。皮膚病に罹 （ かか ） 顕微鏡 （ けんびきょう ） 眺 （ なが ） 肥柄杓 （ こえびしゃく ） 逆落 （ さかおと ） 淵 （ ふち ） 覊絆 （ きずな ） 蔽 （ おお ）
道也の三たび去ったのは、好んで自から窮地に陥 （ おちい ） 己 （ おの ） 刹那 （ せつな ） 奇麗 （ きれい ） 流俗 （ りゅうぞく ） 床下 （ ゆかした ） 埋 （ うず ） 蓄 （ たくわ ） 軽重 （ けいちょう ） 好悪 （ こうお ） 呑 （ の ） 謬 （ あや ）
道也はこう考えている。だから芸を售 （ う ） 糊 （ こ ） 陋劣 （ ろうれつ ） 去就 （ きょしゅう ） 顧 （ かえり ） 疚 （ やま ） 頑愚 （ がんぐ ） 嘲罵 （ ちょうば ） 掌 （ てのひら ） 載 （ の ） 南軒 （ なんけん ） 虫眼鏡 （ むしめがね ）
三度 （ みたび ） 手柄 （ てがら ） 従五位 （ じゅごい ） 貴 （ たっと ）
わからねばこそ餓 （ う ） 死 （ じ ） 妻 （ さい ） 吾 （ わ ） 娶 （ めと ） 交 （ まじ ） 到 （ いた ） 酔興 （ すいきょう ）
酔興を三たび重ねて、東京へ出て来た道也は、もう田舎 （ いなか ） 矯正 （ きょうせい ） 果 （ はて ） 己 （ おの ） 苧殻 （ おがら ） 眼 （ まなこ ） 取捨分別 （ しゅしゃふんべつ ） 理窟 （ りくつ ） 聚 （ あつ ） 早合点 （ はやがてん ） 年月 （ としつき ） 吾身 （ わがみ ） 生涯 （ しょうがい ） 随 （ したが ）
ここまで進んでおらぬ世を買い被 （ かぶ ） 一足飛 （ いっそくと ） 曲者 （ くせもの ） 壊 （ こわ ） 雨風 （ あめかぜ ） 退治 （ たいじ ）
金 （ かね ） 勢 （ いきおい ） 援 （ たすけ ） 藉 （ か ） 脳味噌 （ のうみそ ） 圧搾 （ あっさく ） 利他 （ りた ） 智慧 （ ちえ ） 絞 （ しぼ ） 涸 （ か ） 爛 （ ただ ）
しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは食わんで済むとしても、妻は食わずに辛抱 （ しんぼう ） 気遣 （ きづかい ） 芝琴平町 （ しばことひらちょう ）
「教師をおやめなさるって、これから何をなさるおつもりですか」
「別にこれと云うつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう」
「その内 （ うち ） 攫 （ つか ）
「そうさな。あんまり判然 （ はんぜん ）
「そう呑気 （ のんき ）
「だからさ、もう田舎へは行かない、教師にもならない事にきめたんだよ」
「きめるのは御勝手ですけれども、きめたって月給が取れなけりゃ仕方がないじゃありませんか」
「月給がとれなくっても金がとれれば、よかろう」
「金がとれれば……そりゃようござんすとも」
「そんなら、いいさ」
「いいさって、御金がとれるんですか、あなた」
「そうさ、まあ取れるだろうと思うのさ」
「どうして？」
「そこは今考え中だ。そう着 （ ちゃく ） 早々 （ そうそう ）
「だから心配になるんですわ。いくら東京にいるときめたって、きめただけの思案 （ しあん ）
「どうも御前 （ おまえ ）
「心配もしますわ、どこへいらしっても折合 （ おりあい ） 癇癪持 （ かんしゃくも ）
「そうかも知れない。しかしおれの癇癪は……まあ、いいや。どうにか東京で食えるようにするから」
「御兄 （ おあにい ）
「うん、それも好いがね。兄はいったい人の世話なんかする男じゃないよ」
「あら、そう何でも一人できめて御 （ お ） 昨日 （ きのう ）
「昨日か。昨日はいろいろ世話を焼くような事を言った。言ったがね……」
「言ってもいけないんですか」
「いけなかないよ。言うのは結構だが……あんまり当 （ あて ）
「なぜ？」
「なぜって、その内だんだんわかるさ」
「じゃ御友達の方にでも願って、あしたからでも運動をなすったらいいでしょう」
「友達って別に友達なんかありゃしない。同級生はみんな散ってしまった」
「だって毎年年始状を御寄 （ およ ） 足立 （ あだち ）
「足立か、うん、大学教授だね」
「そう、あなたのように高くばかり構えていらっしゃるから人に嫌 （ きら ）
「そうかね。じゃ足立の所へでも行って頼んで見ようよ。しかし金さえ取れれば必ず足立の所へ行く必要はなかろう」
「あら、まだあんな事を云っていらっしゃる。あなたはよっぽど強情ね」
「うん、おれはよっぽど強情だよ」
午 （ ご ） 逼 （ せま ） 頂 （ いただ ） 透 （ とお ） 頭蓋骨 （ ずがいこつ ） 朗 （ ほがら ） 故 （ ゆえ ） 高柳君 （ たかやなぎくん ） 空 （ あ ） 這入 （ はい ）
「やあ」と高柳君も同じような挨拶 （ あいさつ ）
「どこへ行ったんだい」と青年が聞く。
「今ぐるぐる巡 （ まわ ） 空 （ あ ） 駄目 （ だめ ） 抜目 （ ぬけめ ）
「天気がいいせいだよ。なるほど随分人が出ているね。――おい、あの孟宗藪 （ もうそうやぶ ）
「どれ。あの女か。君の知ってる人かね」
「知るものか」
「それじゃ何で見る必要があるのだい」
「あの着物の色さ」
「何だか立派なものを着ているじゃないか」
「あの色を竹藪の傍へ持って行くと非常にあざやかに見える。あれは、こう云う透明な秋の日に照らして見ないと引き立たないんだ」
「そうかな」
「そうかなって、君そう感じないか」
「別に感じない。しかし奇麗 （ きれい ）
「ただ奇麗だけじゃ可哀想 （ かわいそう ）
「そうさ」
「それじゃもう少し感じが鋭敏でなくっちゃ駄目だぜ」
「なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから」
「ハハハハそう自信があれば結構だ。時に君せっかく逢 （ あ ）
「あるくのは、真平 （ まっぴら ） 午食 （ ひるめし ） 損 （ そく ）
「その午食を奢 （ おご ）
「うん、また今度にしよう」
「なぜ？ いやかい」
「厭 （ いや ） 御馳走 （ ごちそう ）
「ハハハ遠慮か。まあ来たまえ」と青年は否応 （ いやおう ） 眺望 （ ちょうぼう ）
注文の来る間、高柳君は蒼 （ あお ） 突 （ つ ） 棒 （ ぼう ） 独 （ ひと ） 繁昌 （ はんじょう ） 洋袴 （ ズボン ） 隠袋 （ かくし ） 煙草 （ たばこ ）
「煙草なら、ここにあるよ」と高柳君は「敷島」の袋を白い卓布 （ たくふ ） 抛 （ ほう ）
ところへ下女が御誂 （ おあつらえ ） 点 （ つ ） 間 （ ま ）
「これは樽麦酒 （ たるビール ） 挙 （ あ ） 琥珀色 （ こはくいろ ） 湧 （ わ ） 泡 （ あわ ）
「何の祝杯を挙げるのだい」と高柳君は一口飲みながら青年に聞いた。
「卒業祝いさ」
「今頃卒業祝いか」と高柳君は手のついた洋盃 （ コップ ）
「卒業は生涯 （ しょうがい ）
「たった一度しかないんだから祝わないでもいいくらいだ」
「僕とまるで反対だね。――姉さん、このフライは何だい。え？ 鮭 （ さけ ） 所 （ とこ ） 人指指 （ ひとさしゆび ） 衣 （ ころも ） 面 （ おもて ） 時雨 （ しぐれ ）
「なるほどそうして食うものか。僕は装飾についてるのかと思った」
姿見の札幌麦酒 （ さっぽろビール ） 本 （ もと ） 破 （ わ ）
「いや行くよ。いつでも行くよ。エヘヘヘヘ。今夜行こう。あんまり気が早い。ハハハハハ」
「エヘヘヘヘ。いえね、実はね、今夜あたり君を誘って繰り出そうと思っていたんだ。え？ ハハハハ。なにそれほどでもない。ハハハハ。そら例のが、あれでしょう。だから、どうにもこうにもやり切れないのさ。エヘヘヘヘ、アハハハハハハ」
土鍋 （ どなべ ） 赭 （ あか ） 崩 （ くず ） 傍若無人 （ ぼうじゃくぶじん ）
「商人だよ」と青年が小声に云う。
「実業家かな」と高柳君も小声に答えながら、とうとうオレンジを絞 （ しぼ ）
土鍋の底は、やがて勘定を払って、ついでに下女にからかって、二階を買い切ったような大きな声を出して、そうして出て行った。
「おい中野君」
「むむ？」と青年は鳥の肉を口いっぱい頬張 （ ほおば ）
「あの連中 （ れんじゅう ）
「何とも思うものかね。ただああやって暮らしているのさ」
「羨 （ うら ）
「あんなものが羨しくっちゃ大変だ。そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。さあもう一杯景気よく飲んだ」
「あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔命 （ ほんめい ）
「そうかなあ、僕なんざ嬉 （ うれ ）
「我々の生命はこれからだのに、これから先が覚束 （ おぼつか ） 厭 （ いや ）
「なぜ？ 何もそう悲観する必要はないじゃないか、大 （ おおい ） 生焼 （ なまやき ） 洋刀 （ ナイフ ） 揮 （ ふる ） 厚切 （ あつぎ ） 一片 （ いっぺん ） 中央 （ まんなか ）
「なあるほど、赤い。赤いよ君、見たまえ。血が出るよ」
高柳君は何にも答えずにむしゃむしゃ赤いビステキを食い始めた。いくら赤くてもけっして消化がよさそうには思えなかった。
人にわが不平を訴えんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把 （ ちゅうとはんぱ ） 慰藉 （ いしゃ ） 快 （ こころ ） 御世辞 （ おせじ ） 眺 （ なが ） 粗大 （ そだい ） 矢先 （ やさき ） 懸 （ か ） 気遣 （ きづかい ） 口惜 （ くや ） 中野輝一 （ なかのきいち ） 弁 （ わきま ） 解 （ かい ）
彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。
高柳君は口数をきかぬ、人交 （ ひとまじわ ） 厭世家 （ えんせいか ） 鷹揚 （ おうよう ） 両人 （ ふたり ） 交 （ まじわり ） 訂 （ てい ） 傍目 （ はため ） 昵懇 （ じっこん ） 間柄 （ あいだがら ） 大島 （ おおしま ） 秩父 （ ちちぶ ）
天下に親しきものがただ一人 （ ひとり ） 朋友 （ ほうゆう ） 目 （ もく ） 呑気 （ のんき ） 慰藉 （ いしゃ ） 膿 （ うみ ） 腫物 （ しゅもつ ） 真綿 （ まわた ） 撫 （ な ） 痒 （ がゆ ）
しかしこう思うのは高柳君の無理である。御雛様 （ おひなさま ） 立 （ た ） 引 （ ひ ） 解 （ かい ） 言草 （ いいぐさ ） 富裕 （ ふゆう ） 炬燵 （ こたつ ） 椽側 （ えんがわ ） 硝子戸越 （ ガラスどごし ） 眺 （ なが ） 友禅 （ ゆうぜん ） 金屏 （ きんびょう ） 冴 （ さ ） 銀燭 （ ぎんしょく ） 耀 （ かがや ） 木強漢 （ ぼっきょうかん ） 沁 （ し ） 覚束 （ おぼつか ） 繋 （ つな ） 御蔭 （ おかげ ） 山河 （ さんが ） 横 （ よこた ） 病 （ や ） 馳 （ か ）
「君などは悲観する必要がないから結構だ」と、ビステキを半分で断念した高柳君は敷島をふかしながら、相手の顔を眺めた。相手は口をもがもがさせながら、右の手を首と共に左右に振ったのは、高柳君に同意を表しないのと見える。
「僕が悲観する必要がない？ 悲観する必要がないとすると、つまりおめでたい人間と云う意味になるね」
高柳君は覚えず、薄い唇 （ くちびる ） 微 （ かす ） 漣 （ さざなみ ） 頬 （ ほお ）
「僕だって三年も大学にいて多少の哲学書や文学書を読んでるじゃないか。こう見えても世の中が、どれほど悲観すべきものであるかぐらいは知ってるつもりだ」
「書物の上でだろう」と高柳君は高い山から谷底を見下ろしたように云う。
「書物の上――書物の上では無論だが、実際だって、これでなかなか苦痛もあり煩悶 （ はんもん ）
「だって、生活には困らないし、時間は充分あるし、勉強はしたいだけ出来るし、述作は思う通りにやれるし。僕に較 （ くら ） 羨 （ うらや ）
「ところが裏面はなかなかそんな気楽なんじゃないさ。これでもいろいろ心配があって、いやになるのだよ」と中野君は強 （ し ）
「そうかなあ」と相手は、なかなか信じない。
「そう君まで茶かしちゃ、いよいよつまらなくなる。実は今日あたり、君の所へでも出掛けて、大 （ おおい ）
「訳 （ わけ ）
「訳はだんだん話すよ。あんまり、くさくさするから、こうやって散歩に来たくらいなものさ。ちっとは察しるがいい」
高柳君は今度は公然とにやにやと笑った。ちっとは察しるつもりでも、察しようがないのである。
「そうして、君はまたなんで今頃公園なんか散歩しているんだね」と中野君は正面から高柳君の顔を見たが、
「や、君の顔は妙だ。日の射 （ さ ） 色沢 （ いろつや ） 矛盾 （ むじゅん ） 睨 （ にら ） 仮面 （ めん ）
この無心の評を聞いた、高柳君は心の秘密を顔の上で読まれたように、はっと思うと、右の手で額の方から顋 （ あご ） 撫 （ な ） 混 （ ま ）
「いくら天気がよくっても、散歩なんかする暇 （ ひま ） 探 （ さ ） 攪 （ か ） 顎 （ あご ） 面 （ めん ）
「遺失品て、何を落したんだい」
「昨日 （ きのう ） 草稿 （ そうこう ）
「草稿？ そりゃ大変だ。僕は書き上げた原稿が雑誌へ出るまでは心配でたまらない。実際草稿なんてものは、吾々 （ われわれ ）
「なに、そんな大切な草稿でも書ける暇があるようだといいんだけれども――駄目だ」と自分を軽蔑 （ けいべつ ） 口調 （ くちょう ）
「じゃ何の草稿だい」
「地理教授法の訳 （ やく ） 厭 （ いや ）
「それで、探 （ さ ） 来 （ こ ）
「来ない」
「どうしたんだろう」
「おおかた車掌が、うちへ持って行って、はたき でも拵 （ こしら ）
「まさか、しかし出なくっちゃ困るね」
「困るなあ自分の不注意と我慢するが、その遺失品係りの厭 （ いや ） 奴 （ やつ ） 版行 （ はんこう ） 違 （ ちがい ）
「ひどく癪 （ しゃく ） 障 （ さわ ）
「もう少し人間らしいのがいるかい」
「皮肉な事を云う」
「なに世の中が皮肉なのさ。今の世のなかは冷酷の競進会 （ きょうしんかい ） 欄干 （ てすり ） 抛 （ な ） 途端 （ とたん ） 門口 （ かどぐち ） 二人連 （ ふたりづれ ） 燃殻 （ もえがら ）
「おい、ひどい事をするぜ」と中野君が云う。
「なに過 （ あやま ） 抛 （ ほう ）
「なるほどさっきの男だ。何で今までぐずぐずしていたんだろう。下で球 （ たま ）
「どうせ遺失品係りの同類だから何でもするだろう」
「そら気がついた――帽子を取ってはたいている」
「ハハハハ滑稽 （ こっけい ）
「随分人が悪いなあ」と中野君が云う。
「なるほど善くないね。偶然とは申しながら、あんな事で仇 （ かたき ） 価値 （ ねうち ） 元 （ もと ）
「そうさ」と中野君は非難するような賛成するような返事をする。
「しかし文学士は名前だけで、その実は筆耕 （ ひっこう ） 下働 （ したばたら ） 訳 （ わけ ）
「まだ卒業したばかりだから、そう急に有名にはなれないさ。そのうち立派な作物 （ さくぶつ ） 大 （ おおい ）
「いつの事やら」
「そう急 （ せ ） 据 （ す ） 始終 （ しじゅう ）
「君はいいさ。自分の好きな事を書く余裕があるんだから。僕なんか書きたい事はいくらでもあるんだけれども落ちついて述作なぞをする暇はとてもない。実に残念でたまらない。保護者でもあって、気楽に勉強が出来ると名作も出して見せるがな。せめて、何でもいいから、月々きまって六十円ばかり取れる口があるといいのだけれども、卒業前から自活はしていたのだが、卒業してもやっぱりこんなに困難するだろうとは思わなかった」
「そう困難じゃ仕方がない。僕のうちの財産が僕の自由になると、保護者になってやるんだがな」
「どうか願います。――実に厭 （ いや ）
「そうだろうな」
「僕の友人の哲学科を出たものなんか、卒業してから三年になるが、まだ遊 （ あす ）
「そうかな」
「それを考えると、子供の時なんか、訳もわからずに悪い事をしたもんだね。もっとも今とその頃とは時勢が違うから、教師の口も今ほど払底 （ ふってい ）
「何をしたんだい」
「僕の国の中学校に白井道也 （ しらいどうや ）
「道也た妙な名だね。釜 （ かま ） 銘 （ めい ）
「道也 （ どうや ）
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良 （ い ）
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪るい奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動 （ せんどう ） 夜 （ よ ） 家 （ うち ） 吶喊 （ とっかん ）
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似 （ まね ）
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動 （ せんどう ） 生意気 （ なまいき ）
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想 （ かわいそう ）
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活計 （ かっけい ） 大 （ おおい ）
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊 （ たっと ） 理窟 （ りくつ ）
「へえ」
「僕らは不相変 （ あいかわらず ）
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」
「時にだいぶ長話しをした。どうだ君。これから品川の妙花園 （ みょうかえん ）
「何しに」
「花を見にさ」
「これから帰って地理教授法を訳さなくっちゃならない」
「一日 （ いちんち ）
「そうかな。君は遊びに行くのかい」
「遊 （ あそび ）
「何の材料に」
「出来たら見せるよ。小説をかいているんだ。そのうちの一章に女が花園 （ はなぞの ） 余念 （ よねん ） 見詰 （ みつ ）
「空想小説かい」
「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。まあ出来たら読んでくれたまえ」
「妙花園なんざ、そんな参考にゃならないよ。それよりかうちへ帰ってホルマン・ハントの画 （ え ）
「君は全体自然がきらいだから、いけない」
「自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇麗 （ きれい ） 身体 （ からだ ） 呑気 （ のんき ） 一言 （ いちごん ）
「しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。――そりゃ御随意だが、どうだい妙花園 （ みょうかえん ）
「妙花園へ行くひまがあれば一頁 （ ページ ） 呑気 （ のんき ） 生焼 （ なまやき ）
「ハハハハまたあせる。いいじゃないか、さっきの商人見たような連中 （ れんじゅう ）
「あんなのがいるから、こっちはなお仕事がしたくなる。せめて、あの連中の十分 （ ぶ ）
「じゃ、どうしても妙花園は不賛成かね」
「遅くなるもの。君は冬服を着ているが、僕はいまだに夏服だから帰りに寒くなって風でも引くといけない」
「ハハハハ妙な逃げ路を発見したね。もう冬服の時節だあね。着換えればいい事を。君は万事無精 （ ぶしょう ）
「無精で着換えないんじゃない。ないから着換えないんだ。この夏服だって、まだ一文も払っていやしない」
「そうなのか」と中野君は気の毒な顔をした。
午飯 （ ひるめし ） 椅子 （ いす ） 卓布 （ たくふ ） 麺麭屑 （ パンくず ） 賑 （ にぎや ） 何某 （ なにがし ） 赫 （ かっ ）
檜 （ ひのき ） 扉 （ とびら ） 瓦 （ かわら ） 載 （ の ） 這入 （ はい ） 御影 （ みかげ ） 斜 （ なな ） 歩 （ あゆ ） 擦 （ す ） 硝子 （ ガラス ） 寂然 （ じゃくねん ） 鎖 （ とざ ） 更 （ ふ ）
磨 （ みが ） 柾 （ まさ ） 象牙 （ ぞうげ ） 臍 （ へそ ） 鍵 （ かぎ ） 周囲 （ まわり ） 尺余 （ しゃくよ ） 朱泥 （ しゅでい ） 鉢 （ はち ） 棕梠竹 （ しゅろちく ） 靡 （ なび ） 金屏 （ きんびょう ） 三条 （ さんじょう ） 小鍛冶 （ こかじ ） 異形 （ いぎょう ） 相槌 （ あいづち ） 霊夢 （ れいむ ） 叶 （ かな ） 御門 （ みかど ） 太刀 （ たち ） 丁 （ ちょう ）
取次に出たのは十八九のしとやかな下女である。白井道也 （ しらいどうや ） 云 （ い ） 傾 （ かたむ ） 計 （ はか ） 生涯 （ しょうがい ） 出懸 （ でか ） 跛 （ ちんば ） 還 （ かえ ） 逼 （ せま ） 賢者 （ けんじゃ ） 愚物 （ ぐぶつ ）
「大学を御卒業になった方 （ ほう ）
「あの文学をおやりになる」と訂正した。下女は何とも云わずに御辞儀 （ おじぎ ） 白足袋 （ しろたび ） 鋳抜 （ いぬ ） 灯籠 （ どうろう ） 灯 （ ひ ） 仰向 （ あおむ ） 鎖 （ くさ ） 眺 （ なが ）
下女がまた出てくる。どうぞこちらへと云う。道也先生は親指の凹 （ くぼ ） 前緒 （ まえお ） 沓脱 （ くつぬぎ ） 糸瓜 （ へちま ）
応接間は西洋式に出来ている。丸い卓 （ テーブル ） 薔薇 （ ばら ） 崩 （ くず ） 掛 （ かけ ） 雑作 （ ぞうさ ） 被 （ かぶ ） 絨毯 （ じゅうたん ） 続 （ つ ） 描 （ えが ） 床 （ ゆか ） 暖炉 （ だんろ ） 塞 （ ふさ ） 二枚折 （ にまいおり ） 小屏風 （ こびょうぶ ） 緞子 （ どんす ） 海老茶色 （ えびちゃいろ ） 入 （ い ） 奇麗 （ きれい ） 室 （ へや ） 這入 （ はい ）
先生は仰いで壁間 （ へきかん ） 友禅 （ ゆうぜん ） 振袖 （ ふりそで ） 鼓 （ つづみ ） 弾 （ はじ ） 画 （ え ） 向 （ むこう ） 隅 （ すみ ） 隙間 （ すきま ） 洩 （ も ） 射 （ さ ） 甲羅 （ こうら ） 干 （ ほ ） 毫 （ ごう ） 辟易 （ へきえき ）
ところへ中野君が出てくる。紬 （ つむぎ ） 縮緬 （ ちりめん ） 兵子帯 （ へこおび ） 金縁 （ きんぶち ） 眼鏡越 （ めがねごし ）
道也先生は、あやしげな、銘仙 （ めいせん ） 蔽 （ おお ） 黒木綿 （ くろもめん ） 嘉平次平 （ かへいじひら ）
「どうも御邪魔をします」と挨拶 （ あいさつ ） 泰然 （ たいぜん ）
中野君は挨拶が済んでからも、依然としてまぼしそうにしていたが、やがて思い切った調子で
「あなたが、白井道也とおっしゃるんで」と大 （ おおい ） 世馴 （ よな ）
「はい」と道也先生は落ちついている。中野君のあては外 （ はず ） 可哀想 （ かわいそう ） 尾羽 （ おは ） 糺 （ ただ ） 無駄死 （ むだじに ） 初心 （ しょしん ） 作略 （ さりゃく ） 向 （ むこう ） 一角 （ いっかく ） 透 （ とお ） 思 （ おもい ） 遂 （ と ）
「実は今日御邪魔に上がったのは、少々御願があって参ったのですが」と今度は道也先生の方から打って出る。御願は同情の好敵手である。御願を持たない人には同情する張り合がない。
「はあ、何でも出来ます事なら」と中野君は快く承知した。
「実は今度江湖雑誌 （ こうこざっし ） 煩悶 （ はんもん ） 御差支 （ おさしつかえ ）
道也先生は静かに懐 （ ふところ ） 強 （ し ） 景色 （ けしき ） 愚 （ ぐ ）
「なるほど」と青年は、耀 （ かが ） 挙 （ あ ） 宵越 （ よいごし ） 麦酒 （ ビール ）
「どうでしょう、何か御説はありますまいか」と催促を義理ずくめにする。ありませんと云ったら、すぐ帰る気かも知れない。
「そうですね。あったって、僕のようなものの云う事は雑誌へ載 （ の ）
「いえ結構です」
「全体どこから、聞いていらしったんです。あまり突然じゃ纏 （ まとま ）
「御名前は社主が折々雑誌の上で拝見するそうで」
「いえ、どうしまして」と中野君は横を向いた。
「何でもよいですから、少し御話し下さい」
「そうですね」と青年は窓の外を見て躊躇 （ ちゅうちょ ）
「せっかく来たものですから」
「じゃ何か話しましょう」
「はあ、どうぞ」と道也先生鉛筆を取り上げた。
「いったい煩悶と云う言葉は近頃だいぶはやるようだが、大抵は当座のもので、いわゆる三日坊主 （ みっかぼうず ）
「ふん」と道也先生は下を向いたなり、鉛筆を動かしている。紙の上を滑 （ すべ ）
「しかし多くの青年が一度は必ず陥 （ おちい ）
鉛筆の音がする。
「それは何だと云うと――恋である……」
道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。中野君は、今さら気がついたようにちょっとしょげ返ったが、すぐ気を取り直して、あとをつづけた。
「ただ恋と云うと妙に御聞きになるかも知れない。また近頃はあまり恋愛呼ばりをするのを人が遠慮するようであるが、この種の煩悶 （ はんもん ） 大 （ おおい ）
道也先生はまた顔をあげた。しかし彼の長い蒼白 （ あおじろ ） 相貌 （ そうぼう ） 一微塵 （ いちみじん ）
「我々が生涯 （ しょうがい ） 煩悶 （ はんもん ） 一度 （ ひとた ） 炎火 （ えんか ）
「変形？ ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭 （ めいりょう ）
「自分が明瞭とは？」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟 （ さと ） 苦 （ くるし ） 甞 （ な ） 吾人 （ ごじん ） 解脱 （ げだつ ）
「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔を挙 （ あ ）
「まだ少しあるんですが……」
「承 （ うけたまわ ） 削除 （ さくじょ ）
「そうですか、それじゃそのくらいにして置きましょう。何だかこんな話をするのは始めてですから、さぞ筆記しにくかったでしょう」
「いいえ」と道也先生は手帳を懐 （ ふところ ）
青年は筆記者が自分の説を聴いて、感心の余り少しは賛辞でも呈するかと思ったが、相手は例のごとく泰然としてただいいえと云ったのみである。
「いやこれは御邪魔をしました」と客は立ちかける。
「まあいいでしょう」と中野君はとめた。せめて自分の説を少々でも批評して行って貰いたいのである。それでなくても、せんだって日比谷で聞いた高柳君の事をちょっと好奇心から、あたって見たいのである。一言 （ いちごん ）
「いえ、せっかくですが少々急ぎますから」と客はもう椅子 （ いす ） 退 （ しりぞ ） 御辞儀 （ おじぎ ）
「あなたは、もしや高柳周作 （ たかやなぎしゅうさく ） 念晴 （ ねんば ）
「高柳？ どうも知らんようです」と沓脱 （ くつぬぎ ） 捩 （ ね ）
「ことし大学を卒業した……」
「それじゃ知らん訳だ」と両足ともタタキの上へ運んだ。
中野君はまだ何か云おうとした時、敷石をがらがらと車の軋 （ きし ） 梶棒 （ かじぼう ） 硝子 （ ガラス ） 扉 （ とびら ） 途端 （ とたん ） 雪駄 （ せった ） 御影 （ みかげ ） 掠 （ かす ）
時計はもう四時過ぎである。深い碧 （ みど ） 鳶 （ とび ） 雁 （ かり ） 向 （ むこう ） 袴 （ はかま ） 股立 （ ももだ ） 謡 （ うた ） 担 （ かつ ） 笹 （ ささ ） 梟 （ ふくろう ） 雑子 （ ぞうし ） ヶ谷 （ や ） 菓物屋 （ くだものや ）
薬王寺前 （ やくおうじまえ ） 庇 （ ひさし ） 往来 （ ゆきき ） 所 （ じょ ） 彫 （ ほ ） 石標 （ せきひょう ） 紺屋 （ こんや ） 這入 （ はい ） 家 （ や ） 門口 （ かどぐち ） 家 （ いえ ）
「おや御帰り」と細君が台所で云う。台所も玄関も大した相違のないほど小さな家である。
「下女はどっかへ行ったのか」と二畳の玄関から、六畳の座敷へ通る。
「ちょっと、柳町まで使に行きました」と細君はまた台所へ引き返す。
道也先生は正面の床 （ とこ ） 洋灯 （ ランプ ） 椽側 （ えんがわ ） 掃除 （ そうじ ） 油壺 （ あぶらつぼ ） 拭 （ ふ ） 心 （ しん ） 棄 （ す ） 頓 （ とん ）
机の前へ坐った先生は燐寸 （ マッチ ） 擦 （ す ） 間 （ ま ） 室 （ へや ） 明 （ あきら ） 言訳 （ いいわけ ） 現 （ げん ） 幅 （ ふく ） 懸 （ かか ） 累々 （ るいるい ） 白木 （ しらき ） 三宝 （ さんぼう ） 単簡 （ たんかん ） 壺 （ つぼ ） 筆硯 （ ひっけん ） 載 （ の ） 耽 （ ふけ ） 温気 （ おんき ） 陋室 （ ろうしつ ） 晏如 （ あんじょ ） 呵 （ か ） 憚 （ はば ） 否 （ いな ） 目 （ もく ） 観 （ かん ） 纏綿 （ てんめん ） 叶 （ かな ） 生息 （ せいそく ）
道也先生はやがて懐 （ ふところ ） 袴 （ はかま ） 中野輝一 （ なかのきいち ） 室 （ へや ） 金縁 （ きんぶち ） 眼鏡 （ めがね ） 床 （ とこ ） 後 （ うし ） 蛼 （ こおろぎ ）
細君が襖 （ ふすま ）
下女は帰ったようである。煮豆 （ にまめ ） 味噌 （ みそ ） 豆腐 （ とうふ ） 夕 （ ゆうべ ） 御務 （ おつと ）
細君の顔がまた襖の後ろから出た。
「あなた」
道也先生は、いつの間にやら、筆記帳を閉じて、今度はまた別の紙へ、何か熱心に認 （ したた ）
「あなた」と妻君は二度呼んだ。
「何だい」
「御飯です」
「そうか、今行くよ」
道也先生はちょっと細君と顔を合せたぎり、すぐ机へ向った。細君の顔もすぐ消えた。台所の方でくすくす笑う声がする。道也先生はこの一節をかき終るまでは飯も食いたくないのだろう。やがて句切りのよい所へ来たと見えて、ちょっと筆を擱 （ お ） 傍 （ そば ） 頁 （ ページ ）
立って次の間へ這入 （ はい ） 長火鉢 （ ながひばち ） 平鍋 （ ひらなべ ） 吐 （ は ） 顫 （ ふる ）
「湯豆腐かい」
「はあ、何にもなくて、御気の毒ですが……」
「何、なんでもいい。食ってさえいれば何でも構わない」と、膳 （ ぜん ） 重箱 （ じゅうばこ ） 箸 （ はし ） 執 （ と ）
「あら、まだ袴 （ はかま ）
「忙 （ いそ ）
「求めて、忙がしい思 （ おもい ） 鍋 （ なべ ） 鉄瓶 （ てつびん ） 懸 （ か ） 換 （ か ）
「そう見えるかい」と道也先生は存外平気である。
「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興 （ すいきょう ）
「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかし私 （ わたくし ）
「御前は主義が嫌 （ きらい ）
「嫌も好 （ すき ）
「食えさえすればいいじゃないか、贅沢 （ ぜいたく ） 云 （ い ）
「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構 （ おかま ）
「このてっか味噌は非常に辛 （ から ）
「どこですか」
道也先生は頭をあげて向 （ むこう ） 鼠色 （ ねずみいろ ）
影の隣りに糸織 （ いとおり ） 晴衣 （ はれぎ ） 衣紋竹 （ えもんだけ ） 派出 （ はで ） 田舎 （ いなか ） 己 （ おの ） 卒先 （ そっせん ） 警醒 （ けいせい ）
今はまるで反対だ。世は名門を謳歌 （ おうか ） 上皮 （ うわかわ ） 雷同 （ らいどう ） 蹂躙 （ じゅうりん ） 一人 （ いちにん ） 紳商 （ しんしょう ） 償 （ つぐな ） 貴 （ たっと ） 寒 （ かん ） 衣 （ い ） 餓 （ うえ ） 食 （ しょく ） 呵 （ か ） 硯 （ すずり ） 磨 （ ま ） 抱 （ いだ ） 御機嫌 （ ごきげん ）
壁に掛けてあった小袖 （ こそで ） 夕飯 （ ゆうめし ）
「どこぞへ行ったのかい」と聞く。
「ええ」と細君は二字の返事を与えた。道也は黙って、茶を飲んでいる。末枯 （ うらが ）
「そう、べんべんと真田 （ さなだ ） 訳 （ わけ ） 米薪 （ こめまき ） 払 （ はらい ） 算段 （ さんだん ） 出掛 （ でか ）
「そうか、質屋へでも行ったのかい」
「質に入れるようなものは、もうありゃしませんわ」と細君は恨 （ うら ）
「じゃ、どこへ行ったんだい」
「どこって、別に行く所もありませんから、御兄 （ おあにい ）
「兄の所 （ とこ ） 駄目 （ だめ ） 所 （ ところ ）
「そう、あなたは、何でも始から、けなしておしまいなさるから、よくないんです。いくら教育が違うからって、気性 （ きしょう ）
「兄弟は兄弟さ。兄弟でないとは云わん」
「だからさ、膝 （ ひざ ）
「おれは、行かんよ」
「それが痩我慢 （ やせがまん ） 嫌 （ きら ）
道也先生は空然 （ くうぜん ）
「それで才覚が出来たのかい」
「あなたは何でも一足飛 （ いっそくとび ）
「なにが」
「だって、才覚が出来る前にはそれぞれ魂胆 （ こんたん ） 工面 （ くめん ）
「そうか、それじゃ最初から聞き直そう。で、御前が兄のうちへ行ったんだね。おれに内所 （ ないしょ ）
「内所だって、あなたのためじゃありませんか」
「いいよ、ためでいいよ。それから」
「で御兄 （ おあにい ） 懸 （ かか ） 御無沙汰 （ ごぶさた ） 御詫 （ おわび ） 一部始終 （ いちぶしじゅう ）
「それから」
「すると御兄 （ おあにい ） 私 （ わたくし ）
「御前に同情した。ふうん。――ちょっとその炭取を取れ。炭をつがないと火種 （ ひだね ）
「で、そりゃ早く整理しなくっちゃ駄目だ。全体なぜ今まで抛 （ ほう ）
「旨 （ うま ）
「まだ、あなたは御兄 （ おあにい ）
「それで、金でも貸したのかい」
「ほらまた一足飛 （ いっそくと ）
道也先生は少々おかしくなったと見えて、にやりと下を向きながら、黒く積んだ炭を吹き出した。
「まあどのくらいあれば、これまでの穴が奇麗 （ きれい ） 埋 （ うま ） 悪 （ にく ）
「ねえ、あなた。とうとう思い切ってね――あなた。聞いていらっしゃらないの」
「聞いてるよ」と赫気 （ かっき ）
「思い切って百円ばかりと云ったの」
「そうか。兄は驚ろいたろう」
「そうしたらね。ふうんて考えて、百円と云う金は、なかなか容易に都合がつく訳のものじゃない……」
「兄の云いそうな事だ」
「まあ聞いていらっしゃい。まだ、あとが有るんです。――しかし、ほかの事とは違うから、是非なければ困ると云うならおれが保証人になって、人から借りてやってもいいって仰しゃるんです」
「あやしいものだ」
「まあさ、しまいまで御聞きなさい。――それで、ともかくも本人に逢って篤 （ とく ） 了簡 （ りょうけん ） 漕 （ こ ）
細君は大功名をしたように頬骨 （ ほおぼね ） 夫 （ おっと ） 覗 （ のぞ ） 意気地 （ いくじ ） 兀々 （ こつこつ ） 出精 （ しゅっせい ） 妻 （ さい ）
「そうか」と道也は云ったぎり、この手腕に対して、別段に感謝の意を表しようともせぬ。
「そうかじゃ困りますわ。私がここまで拵 （ こしら ） 為 （ な ） 楫 （ かじ ）
「いいさ、そう心配するな。もう一ヵ月もすれば百や弐百の金は手に這入 （ はい ） 退 （ の ）
江湖雑誌 （ こうこざっし ） 編輯 （ へんしゅう ） 編纂 （ へんさん ） 但 （ ただ ） 懐 （ ふところ ）
この物質的に何らの功能もない述作的労力の裡 （ うち ） 気魄 （ きはく ） 滴々 （ てきてき ） 墨汁 （ ぼくじゅう ） 満腔 （ まんこう ） 瞳裏 （ とうり ） 刹那 （ せつな ） 震 （ ふる ） 執 （ と ） 載 （ の ） 遮 （ さえ ） 指頭 （ しとう ） 迸 （ ほとばし ） 尖 （ とが ） 毛穎 （ もうえい ） 端 （ たん ） 綴 （ つづ ） 淋漓 （ りんり ） 飛騰 （ ひとう ） 潰 （ つぶ ） 意気地 （ いくじ ）
道也の言葉を聞いた妻君は、火箸 （ ひばし ）
「今でも、そんな御金が這入 （ はい ）
「今は昔より下落したと云うのかい。ハハハハハ」と道也先生は大きな声を出して笑った。妻君は毒気 （ どっき ）
「どうりゃ一勉強 （ ひとべんきょう ）
「どこへ行く」と中野君が高柳君をつらまえた。所は動物園の前である。太い桜の幹 （ みき ） 梢 （ こずえ ） 病葉 （ わくらば ） 折々行人 （ こうじん ） 奴 （ やつ ）
色は様々である。鮮血を日に曝 （ さら ） 七日 （ なぬか ） 日 （ ひ ） 眺 （ なが ） 腋 （ わき ） 襯衣 （ シャツ ） 咳 （ せき ）
形も様々である。火にあぶったかき餅 （ もち ） 状 （ なり ） 反 （ そ ） 返 （ かえ ） 反 （ そ ） 水気 （ みずけ ） 飄々 （ ひょうひょう ） 覚束 （ おぼつか ） 後 （ あと ） 了簡 （ りょうけん ） 攫 （ さら ） 屑 （ くず ） 気狂 （ きちがい ） 点綴 （ てんてつ ） 瘠 （ や ） 聳 （ そび ） 咳 （ せき ）
高柳君はこの瞬間に中野君からつらまえられたのである。ふと気がついて見ると世は太平である。空は朗らかである。美しい着物をきた人が続々行く。相手は薄羅紗 （ うすらしゃ ） 外套 （ がいとう ） 恰好 （ かっこう ） 顋 （ あご ） 留針 （ とめばり ）
「どこへ行く」と青年は再び問うた。
「今図書館へ行った帰りだ」と相手はようやく答えた。
「また地理学教授法じゃないか。ハハハハ。何だか不景気な顔をしているね。どうかしたかい」
「近頃は喜劇の面 （ めん ） 遺失 （ おと ）
「また新橋の先まで探 （ さ ） 拳突 （ けんつく ）
「新橋どころか、世界中探がしてあるいても落ちていそうもない。もう、御やめだ」
「何を」
「何でも御やめだ」
「万事御やめか。当分御やめがよかろう。万事御やめにして僕といっしょに来たまえ」
「どこへ」
「今日はそこに慈善音楽会があるんで、切符を二枚買わされたんだが、ほかに誰も行 （ い ） 手 （ て ）
「いらない切符などを買うのかい。もったいない事をするんだな」
「なに義理だから仕方がない。おやじが買ったんだが、おやじは西洋音楽なんかわからないからね」
「それじゃ余った方を送ってやればいいのに」
「実は君の所へ送ろうと思ったんだが……」
「いいえ。あすこへさ」
「あすことは。――うん。あすこか。何、ありゃ、いいんだ。自分でも買ったんだ」
高柳君は何とも返事をしないで、相手を真正面から見ている。中野君は少々恐縮の微笑を洩 （ も ） 山羊 （ やぎ ） 外套 （ がいとう ） 敲 （ たた ）
「穿 （ は ）
「なに、今ちょっと隠袋 （ ポッケット ） 裏 （ うち ） 癇癪 （ かんしゃく ） 少々治 （ おさ ）
ところへ後ろからエーイと云う掛声がして蹄 （ ひづめ ） 両人 （ ふたり ） 道傍 （ みちばた ） 退 （ の ） 黒塗 （ くろぬり ） 蓋 （ おおい ） 絹帽 （ シルクハット ） 紅 （ くれな ） 日傘 （ ひがさ ）
「ああ云う連中が行くのかい」と高柳君が顋 （ あご ） 指 （ さ ）
「あれは徳川侯爵だよ」と中野君は教えた。
「よく、知ってるね。君はあの人の家来かい」
「家来じゃない」と中野君は真面目 （ まじめ ）
「どうだい行こうじゃないか。時間がおくれるよ」
「おくれると逢えないと云うのかね」
中野君は、すこし赤くなった。怒ったのか、弱点をつかれたためか、恥ずかしかったのか、わかるのは高柳君だけである。
「とにかく行こう。君はなんでも人の集まる所やなにかを嫌ってばかりいるから、一人坊 （ ひとりぼ ）
打つものは打たれる。参るのは今度こそ高柳君の番である。一人坊っちと云う言葉を聞いた彼は、耳がしいんと鳴って、非常に淋しい気持がした。
「いやかい。いやなら仕方がない。僕は失敬する」
相手は同情の笑を湛 （ たた ） 踵 （ くびす ）
「いこう」と単簡 （ たんかん ）
玄関にかかった時は受付が右へ左りへの案内で忙殺 （ ぼうさつ ） 物馴 （ ものな ） 這入 （ はい ） 聴 （ き ） 己 （ おの ） 上 （ のぼ ） 拍 （ う ） 策略 （ さくりゃく ） 緑 （ みど ） 滴 （ した ） 束髪 （ そくはつ ） 脳巓 （ のうてん ） 奇麗 （ きれい ） 錬 （ ね ） 頭蓋骨 （ ずがいこつ ）
楽堂の入口を這入 （ はい ） 霞 （ かすみ ） 頂 （ いただき ） 攀 （ よ ） 眺 （ なが ） 遥 （ はる ） 逼 （ せま ） 擂鉢 （ すりばち ） 擂鉢 （ すりばち ） 塀 （ へい ） 天井 （ てんじょう ） 蔽 （ おお ） 駝鳥 （ だちょう ） 脳巓 （ のうてん ） 禿 （ は ） 絹帽 （ シルクハット ） 擦 （ す ）
「おい、あすこに椅子が二つ空 （ あ ） 物馴 （ ものな ）
「大変な人だね」と椅子に腰をおろしながら中野君は満場を見廻わす。やがて相手の服装に気がついた時、急に小声になって、
「おい、帽子をとらなくっちゃ、いけないよ」と云う。
高柳君は卒然として帽子を取って、左右をちょっと見た。三四人の眼が自分の頭の上に注 （ そそ ） 被 （ かぶ ）
「外套 （ がいとう ）
「外套は構わないんだ。しかしあつ過ぎるから脱ごうか」と中野君はちょっと立ち上がって、外套の襟 （ えり ） 颯 （ さ ） 袖 （ そで ） 領 （ えり ） 表 （ おも ） 椅子 （ いす ） 背中 （ せなか ） 仕立 （ した ） 流行 （ はや ） 胴衣 （ チョッキ ） 胸開 （ むねあき ） 奇麗 （ きれい ） 手際 （ てぎわ ） 羨 （ うらや ） 云 （ いう ） 凭 （ も ） 羨 （ うらや ）
しばらくすると、中野君は千以上陳列せられたる顔のなかで、ようやくあるものを物色し得たごとく、豊かなる双頬 （ そうきょう ） 愛嬌 （ あいきょう ） 渦 （ うず ） 軽 （ かろ ） 何人 （ なんびと ） 会釈 （ えしゃく ） 挨拶 （ あいさつ ） 辺 （ へん ） 捩 （ ね ） 斜 （ なな ） 蝶 （ ちょう ） 颯 （ さっ ） 頸筋 （ くびすじ ） 紅 （ くれな ） 縁 （ ふち ） 潤 （ うるお ） 眼睫 （ まつげ ）
わが穿 （ は ） 袴 （ はかま ） 小倉 （ こくら ） 剥 （ は ） 垢 （ あか ） 容赦 （ ようしゃ ） 這入 （ はい ） 襯衣 （ シャツ ） 裡 （ うち ） 綺羅 （ きら ） 香 （ かお ） 嗅 （ か ） 温 （ あたた ） 溶 （ と ） 箏 （ こと ） 線 （ いと ） 双手 （ そうしゅ ） 挙 （ あ ） 指 （ し ） 弾 （ はじ ）
「もう時間だ、始まるよ」と活版に刷った曲目を見ながら云う。
「そうか」と高柳君は器械的に眼を活版の上に落した。
一、バイオリン、セロ、ピヤノ合奏とある。高柳君はセロの何物たるを知らぬ。二、ソナタ……ベートーベン作とある。名前だけは心得ている。三、アダジョ……パァージャル作とある。これも知らぬ。四、と読みかけた時拍手 （ はくしゅ ） 梁 （ はり ）
やがて三部合奏曲は始まった。満場は化石したかのごとく静かである。右手の窓の外に、高い樅 （ もみ ） 遐 （ はる ） 碧 （ みど ） 洩 （ も ） 斜 （ なな ）
曲は静かなる自然と、静かなる人間のうちに、快よく進行する。中野は絢爛 （ けんらん ） 鼓膜 （ こまく ） 嬉 （ うれ ） 鳶 （ とび ） 様 （ さま ）
拍手がまた盛 （ さかん ） 一人坊 （ ひとりぼ ） 敲 （ たた ） 己 （ おの ） 窮屈 （ きゅうくつ ）
演奏は第二に移る。千余人の呼吸は一度にやむ。高柳君の心はまた豊かになった。窓の外を見ると鳶はもう舞っておらぬ。眼を移して天井 （ てんじょう ） 削 （ けず ） 竪 （ たて ） 貫 （ つら ） 頭 （ かしら ） 回 （ めぐ ） 崩 （ くず ） 蔓 （ つる ） 絡 （ から ） 仰向 （ あおむ ） 這入 （ はい ） 纏 （ まと ） 唐草 （ からくさ ） 縺 （ もつ ） 降 （ ふ ） 無人 （ むにん ） 境 （ きょう ） 佇 （ たたず ）
三度目の拍手が、断わりもなくまた起る。隣りの友達は人一倍けたたましい敲き方をする。無人の境におった一人坊っちが急に、霰 （ あられ ） 已 （ や ） 闥 （ たつ ） 排 （ はい ） 室 （ しつ ） 間際 （ まぎわ ） 烈 （ はげ ） 腋下 （ えきか ） 護 （ まも ） 戸側 （ とぎわ ） 体 （ たい ） 回 （ めぐ ） 薄紅葉 （ うすもみじ ） 裾模様 （ すそもよう ） 飄 （ ひるが ） 袖 （ そで ） 上躯 （ じょうく ） 聴 （ き ） 偸 （ ぬす ）
演奏は喝采 （ かっさい ） 遥 （ はる ） 熟柿 （ じゅくし ） 上 （ のぼ ） 擯斥 （ ひんせき ） 肝心 （ かんじん ） 無残 （ むざん ） 敲 （ たた ） 古 （ ふ ） 佗 （ わ ） 餓 （ う ） 湧 （ わ ）
「今のは面白かった。今までのうち一番よく出来た。非常に感じをよく出す人だ。――どうだい君」と中野君が聞く。
「うん」
「君面白くないか」
「そうさな」
「そうさなじゃ困ったな。――おいあすこの西洋人の隣りにいる、細 （ こま ） 友禅 （ ゆうぜん ） 流行 （ はやる ） 派出 （ はで ）
「そうかなあ」
「君はカラー・センスのない男だね。ああ云う派出な着物は、集会の時や何かにはごくいいのだね。遠くから見て、見醒 （ みざ ）
「君のあれも、同じようなのを着ているね」
「え、そうかしら、何、ありゃ、いい加減 （ かげん ）
「いい加減に着ていれば弁解になるのかい」
中野君はちょっと会話をやめた。左の方に鼻眼鏡 （ はなめがね ） 揉上 （ もみあげ ） 容赦 （ ようしゃ ） 剃 （ そ ）
「ありゃ、音楽の批評でもする男かな」と今度は高柳君が聞いた。
「どれ、――あの男か、あの黒服を着た。なあに、あれはね。画工 （ えかき ）
「断わりなしにか」
「まあ、そうだろう」
「泥棒だね。顔泥棒だ」
中野君は小さい声でくくと笑った。休憩時間は十分 （ ぷん ） 足 （ た ） 豊国 （ とよくに ） 田舎源氏 （ いなかげんじ ） 芳年 （ よしとし ） 胡蝶 （ こちょう ） 戯 （ たわ ） 浮藻 （ うきも ） 漣 （ さざなみ ） 靡 （ なび ）
自分の活動は食うか食わぬかの活動である。和煦 （ わく ） 粛殺 （ しゅくさつ ） 儼 （ げん ） 享 （ う ） 罪業 （ ざいごう ） 償 （ つぐな ） 翩々 （ へんぺん ） 捕 （ とら ） 来 （ きた ） 恥 （ はず ） 点頭 （ うなず ） 尊 （ たっと ） 捧 （ ささ ） 吾 （ われ ） 縛 （ ばく ） 箝 （ かん ） 昔 （ むか ） 能 （ あた ） 命 （ めい ） 逆 （ さか ） 詛 （ のろ ） 呪 （ のろ ） 咽喉 （ のど ） 塞 （ ふさ ） 咳 （ せ ） 入 （ い ） 袂 （ たもと ） 痰 （ たん ） 挙 （ あ ） 観世 （ かんぜ ） 金鎖 （ きんぐさ ） 懸 （ か ） 交 （ まじ ） 挨拶 （ あいさつ ）
「よう、いらっしゃいました」と可愛らしい二重瞼 （ ふたえまぶた ）
「いや、だいぶ盛会ですね。冬田さんは非常な出来でしたな」と中野君は半身を、女の方へ向けながら云う。
「ええ、大喜びで……」と云い捨てて下りて行く。
「あの女を知ってるかい」
「知るものかね」と高柳君は拳突 （ けんつく ）
相手は驚ろいて黙ってしまった。途端 （ とたん ） 四葉 （ よつば ） 苜蓿花 （ うまごやし ） 醒 （ さ ） 喚 （ よ ） 銅鑼 （ どら ） 敲 （ たた ） 大喇叭 （ おおらっぱ ）
やがて、千余人の影は一度に動き出した。二人の青年は揉 （ も ）
日はようやく暮れかかる。図書館の横手に聳 （ そび ） 微 （ かす ）
「寒くなったね」
高柳君の答は力の抜けた咳 （ せき ）
「君さっきから、咳をするね。妙な咳だぜ。医者にでも見て貰ったら、どうだい」
「何、大丈夫だ」と云いながら高柳君は尖 （ とが ） 銀杏 （ いちょう ） 墨汁 （ ぼくじゅう ） 点 （ てん ） 滴々 （ てきてき ） 烏 （ からす ）
「君二三日前 （ にさんちまえ ） 白井道也 （ しらいどうや ）
「道也先生？」
「だろうと思うのさ。余り沢山ある名じゃないから」
「聞いて見たかい」
「聞こうと思ったが、何だかきまりが悪るかったからやめた」
「なぜ」
「だって、あなたは中学校で生徒から追い出された事はありませんかとも聞けまいじゃないか」
「追い出されましたかと聞かなくってもいいさ」
「しかし容易に聞きにくい男だよ。ありゃ、困る人だ。用事よりほかに云わない人だ」
「そんなになったかも知れない。元来何の用で君の所へなんぞ来たのだい」
「なあに、江湖雑誌 （ こうこざっし ）
「君の談話をかい。――世の中も妙な事になるものだ。やっぱり金が勝つんだね」
「なぜ」
「なぜって。――可哀想 （ かわいそう ） 零落 （ れいらく ） 服装 （ なり ）
「そうさ、あんまり立派じゃないね」
「立派でなくっても、まあどのくらいな服装をしていた」
「そうさ。どのくらいとも云い悪 （ にく ）
「え、このくらいか、この羽織ぐらいなところか」
「羽織はもう少し色が好 （ い ）
「袴 （ はかま ）
「袴は木綿 （ もめん ） 皺苦茶 （ しわくちゃ ）
「要するに僕と伯仲 （ はくちゅう ）
「要するに君と伯仲の間だ」
「そうかなあ。――君、背 （ せい ）
「背の高い、顔の細長い人だ」
「じゃ道也先生に違ない。――世の中は随分無慈悲 （ むじひ ）
「番地は聞かなかった」
「聞かなかった？」
「うん。しかし江湖雑誌 （ こうこざっし ）
音楽会の帰りの馬車や車は最前 （ さいぜん ） 絡繹 （ らくえき ） 吾家 （ わがや ） 馳 （ か ） 梃 （ ちょう ） 人力 （ じんりき ） 黄昏 （ たそがれ ） 靄 （ もや ） 逼 （ せま ） 弾 （ はじ ） 目覚 （ めざま ） 衣 （ きぬ ） 由 （ よし ）
「僕はこれで失敬する。少し待ち合せている人があるから」
「西洋軒で会食すると云う約束か」
「うんまあ、そうさ。じゃ失敬」と中野君は向 （ むこう ）
淋しい世の中を池 （ いけ ） 端 （ はた ） 下 （ くだ ）
見上げたら西洋軒の二階に奇麗 （ きれい ） 花瓦斯 （ はなガス ）
ミルクホールに這入 （ はい ） 上下 （ うえした ） 擦 （ す ） 硝子 （ ガラス ） 透 （ す ） 通 （ とお ） 腰障子 （ こししょうじ ） 据 （ す ） 椅子 （ いす ） 焼麺麭 （ やきパン ） 噛 （ かじ ） 換 （ か ） 超 （ こ ）
これで今月はどうか、こうか食える。ほかからくれる十円近くの金は故里 （ ふるさと ） 故里 （ ふるさと ） 落鮎 （ おちあゆ ） 崩 （ くず ） 藁屋根 （ わらやね ） 初霜 （ はつしも ） 鶏 （ にわとり ） 暴 （ あ ）
向うの机を占領している学生が二人、西洋菓子を食いながら、団子坂 （ だんござか ） 大 （ おおい ） 蜜柑 （ みかん ） 汁 （ しる ） 一房 （ ひとふさ ） 絞 （ しぼ ） 文芸倶楽部 （ ぶんげいくらぶ ） 絞 （ しぼ ） 匙 （ さじ ） 攪 （ か ） 酸 （ さん ）
高柳君はそこに重ねてある新聞の下から雑誌を引きずり出して、あれこれと見る。目的の江湖雑誌 （ こうこざっし ） 圏点 （ けんてん ） 中野春台 （ なかのしゅんたい ） 輝一 （ きいち ） 焼麺麭 （ やきパン ） 〈［＃感嘆符三つ、320-13］〉 と書いてある。高柳君は頁をはぐった。六号活字はだいぶ長い。もっともいろいろの人の名前が出ている。一番始めには現代青年の煩悶 （ はんもん ） 静心 （ せいしん ） 工夫 （ くふう ） 冷水摩擦 （ れいすいまさつ ） 煩悶 （ はんもん ） 厭 （ いや ） 颯 （ さっ ） 解脱 （ げだつ ） 拘泥 （ こうでい ） 憂世子 （ ゆうせいし ）
「身体 （ からだ ） コダワ って来る。ところが非常に健康な人は行住坐臥 （ ぎょうじゅうざが ） 患所 （ かんしょ ） 胖 （ ゆた ） 瘠 （ や ） 蒼 （ あお ） 後 （ あと ） 大 （ おおい ） 悟 （ さと ） 拘泥 （ こうでい ） 自在飲 （ じざいいん ） 自在食 （ じざいしょく ） 悟 （ さとり ）
高柳君はこれは少し妙だよと口のなかで云った。胃の悟りは妙だと云った。
「胃について道 （ い ） 惣身 （ そうしん ） 道 （ い ） 拘泥 （ こうでい ） 免 （ まぬ ） 身体 （ からだ ） 煩 （ わずら ）
「一能 （ いちのう ） 士 （ し ） 拘泥 （ こうでい ） 一芸 （ いちげい ） 己 （ おの ） 解脱 （ げだつ ）
「百円や二百円もする帯をしめて女が音楽会へ行くとこの帯が妙に気になって音楽が耳に入らぬ事がある。これは帯に拘泥 （ こうでい ） 祟 （ たた ） 易 （ やす ） 不面目 （ ふめんぼく ） 祟 （ たた ） 頭 （ かしら ） 靴足袋 （ くつたび ） 片々 （ かたかた ） 破 （ や ） 足袋 （ たび ）
おれも拘泥している。おれのからだは穴だらけだと高柳君は思いながら先へ進む。
「拘泥は苦痛である。避けなければならぬ。苦痛そのものは避けがたい世であろう。しかし拘泥の苦痛は一日で済む苦痛を五日 （ いつか ） 七日 （ なぬか ）
「自己が拘泥するのは他人が自己に注意を集注すると思うからで、つまりは他人が拘泥するからである。……」
高柳君は音楽会の事を思いだした。
「したがって拘泥を解脱するには二つの方法がある。他人がいくら拘泥しても自分は拘泥せぬのが一つの解脱法である。人が目を峙 （ そばだ ） 聳 （ そび ） 罵詈 （ ばり ） 大久保彦左衛門 （ おおくぼひこざえもん ） 盥 （ たらい ） 登城 （ とじょう ）
高柳君は彦左衛門が羨 （ うらや ）
「立派な衣装 （ いしょう ） 馬士 （ まご ） 腹掛 （ はらがけ ） 釈迦 （ しゃか ） 孔子 （ こうし ） 重 （ おもき ）
高柳君は冷 （ さ ）
「第二の解脱法は常人 （ じょうじん ） 免 （ まぬ ） 惹 （ ひ ） 流俗 （ りゅうぞく ） 媚 （ こ ） 附和 （ ふわ ） 心底 （ しんてい ） 芸妓通客 （ げいぎつうかく ） 紳士 （ ゼントルマン ）
芸者と紳士 （ ゼントルマン ） 焼麺麭 （ やきパン ） 片 （ ぺん ） 牛酪 （ バタ ） 袴 （ はかま ） 膝 （ ひざ ）
「芸妓、紳士、通人 （ つうじん ） 耶蘇 （ ヤソ ） 孔子 （ こうし ） 釈迦 （ しゃか ） 拘泥 （ こうでい ） 解脱 （ げだつ ）
高柳君は今まで解脱の二字においてかつて考えた事はなかった。ただ文界に立って、ある物になりたい、なりたいがなれない、なれんのではない、金がない、時がない、世間が寄ってたかって己 （ おの ）
「解脱は便法 （ べんぽう ） 下 （ くだ ） 標榜 （ ひょうぼう ） 拖泥帯水 （ たでいたいすい ） 弊 （ へい ） 勇猛精進 （ ゆうもうしょうじん ） 志 （ こころざし ） 下根 （ げこん ） 衆生 （ しゅじょう ） 委却 （ いきゃく ） 証得 （ しょうとく ） 俊児 （ しゅんじ ） 鬼窟裏 （ きくつり ） 堕在 （ だざい ） 較 （ こう ） 愚 （ ぐ ） 憚 （ はば ）
「解脱は便法である。この方便門 （ ほうべんもん ） 出頭 （ しゅっとう ） 正鵠 （ せいこく ） 塗抹 （ とまつ ） 挙 （ あ ） 故紙堆裏 （ こしたいり ） 兀々 （ こつこつ ） 名聞 （ みょうもん ） 爵禄財宝 （ しゃくろくざいほう ） 微 （ かす ） 墨痕 （ ぼっこん ） 炬 （ きょ ） 道火 （ どうか ） 担 （ にな ） 出 （ いだ ） 遍照 （ へんじょう ）
「このゆえに真に自家証得底 （ じかしょうとくてい ） 見解 （ けんげ ） 煩 （ はん ） 有道 （ ゆうどう ） 異名 （ いみょう ）
「天下の多数は俗人である。わが位に着 （ ちゃく ） 下 （ くだ ）
「光明は趣味の先駆である。趣味は社会の油である。油なき社会は成立せぬ。汚 （ けが ） 堕落 （ だらく ） 徒 （ と ） 滑 （ すべ ） 貴顕 （ きけん ） 門閥 （ もんばつ ） 権勢 （ けんせい ） 黄白 （ こうはく ） 逆 （ さか ）
「真正 （ しんせい ） 工夫 （ くふう ） 群 （ むれ ）
「三味線 （ しゃみせん ） 巧拙 （ こうせつ ） 三味 （ しゃみ ） 稽古 （ けいこ ） 易 （ やす ） 六 （ む ） 謙徳 （ けんとく ） 本家 （ ほんけ ）
「趣味は人間に大切なものである。楽器を壊 （ こぼ ） 崩 （ くず ） 覆 （ くつが ） 渉 （ わた ）
「ここに一人 （ いちにん ） 多勢 （ たぜい ） 後 （ のち ） 後患 （ こうかん ） 遺 （ のこ ）
「趣味の世界にペストを製造して罰せられんのは人殺しをして罰せられんのと同様である。位地の高いものはもっともこの罪を犯 （ おか ） 便宜 （ べんぎ ） 弁 （ わきま ）
「彼らは趣味において専門の学徒に及ばぬ。しかも学徒以上他に働きかけるの能力を有している。能力は権利ではない。彼らのあるものはこの区別さえ心得ておらん。彼らの趣味を教育すべくこの世に出現せる文学者を捕えてすらこれを逆 （ さか ） 恬然 （ てんぜん ）
「彼らの意のごとくなる学徒があれば、自己の天職を自覚せざる学徒である。彼らを教育する事の出来ぬ学徒があれば腰の抜けたる学徒である。学徒は光明を体せん事を要す。光明より流れ出ずる趣味を現実せん事を要す。しかしてこれを現実 （ げんじつ ） 拘泥 （ こうでい ） 解脱 （ げだつ ）
高柳君は雑誌を開いたまま、茫然 （ ぼうぜん ） 挙 （ あ ） 椅子 （ いす ） 然 （ ねん ） 小女郎 （ こじょろう ） 京焼 （ きょうやき ） 花活 （ はないけ ） 花活 （ はないけ ） 傍 （ かたわら ） 羨 （ うらや ）
菊人形の収入についての議論は片づいたと見えて、二人の学生は煙草 （ たばこ ）
「おや、富田 （ とみた ）
「どこに」と一人が聞く。富田君は三寸ばかり開いていた硝子戸 （ ガラスど ）
「あれは、よく食う奴 （ やつ ）
「食う、食う」と答えたところによるとよほど食うと見える。
「人間は食う割 （ わり ） 肥 （ ふと ） 肥 （ こ ）
「書物は沢山読むが、ちっとも、えろうならんのがおると同じ事じゃ」
「そうよ。御互に勉強はなるべくせん方がいいの」
「ハハハハ。そんなつもりで云ったんじゃない」
「僕はそう云うつもりにしたのさ」
「富田は肥 （ ふと ） 敏捷 （ びんしょう ）
「敏捷な事があるものか」
「いや、この間四丁目を通ったら、後ろから出し抜けに呼ぶものがあるから、振り反ると富田だ。頭を半分刈 （ か ） 纏 （ まと ）
「元来どうしたのか」
「床屋から飛び出して来たのだ」
「どうして」
「髪を刈っておったら、僕の影が鏡に写ったものだから、すぐ馳 （ か ）
「ハハハハそいつは驚ろいた」
「おれも驚ろいた。そうして尚志会 （ しょうしかい ）
「ハハハハなるほど敏捷 （ びんしょう ）
「そうよ。文学士のように二十円くらいで下宿に屏息 （ へいそく ） 甲斐 （ かい ）
高柳君は勘定をして立ち上った。ありがとうと云う下女の声に、文芸倶楽部の上につっ伏していた書生が、赤い眼をとろつかせて、睨 （ にら ）
「私は高柳周作 （ たかやなぎしゅうさく ） 睥睨 （ へいげい ） 頓首 （ とんしゅ ） 道也 （ どうや ） 趣 （ おもむき ） 伯仲 （ はくちゅう ） 室 （ へや ） 蒼 （ あお ） 瘠 （ や ） 弟 （ てい ） 兄 （ けい ） 間柄 （ あいだがら ） 逼 （ せ ） 愛憐 （ あいれん ） 御辞儀 （ おじぎ ） 極 （ きわ ） 虚偽 （ きょぎ ） 覚 （ さと ）
「ああ、そうですか、私 （ わたし ） 景色 （ けしき ） 挨拶振 （ あいさつぶ ） 開 （ あ ） 相憐 （ あいあわれ ） 一昔 （ ひとむか ） 零落 （ れいらく ） 乏 （ とぼ ） 少々怖 （ こわ ） 罪滅 （ つみほろぼ ）
「だんだん寒くなりますね」と道也先生は、こっちの了簡 （ りょうけん ）
「ええ、だいぶ寒くなったようで……」
高柳君の脳中の冒頭はこれでまるで打ち壊されてしまった。いっその事自白はこの次にしようという気になる。しかし何だか話して行きたい気がする。
「先生御忙 （ おいそ ）
「ええ、なかなか忙がしいんで弱ります。貧乏閑 （ ひま ）
高柳君はやり損 （ そく ）
「少し御話を承 （ うけたまわ ）
「はあ、何か雑誌へでも御載 （ おの ）
あてはまたはずれる。おれの態度がどうしても向 （ むこう ） 酌 （ く ）
「いえ、そうじゃないので――ただ――ただっちゃ失礼ですが。――御邪魔ならまた上がってもよろしゅうございますが……」
「いえ邪魔じゃありません。談話と云うからちょっと聞いて見たのです。――わたしのうちへ話なんか聞きにくるものはありませんよ」
「いいえ」と青年は妙な言葉をもって先生の辞 （ ことば ）
「あなたは何の学問をなさるですか」
「文学の方を――今年大学を出たばかりです」
「はあそうですか。ではこれから何かおやりになるんですね」
「やれれば、やりたいのですが、暇 （ ひま ）
「暇はないですね。わたしなども暇がなくって困っています。しかし暇はかえってない方がいいかも知れない。何ですね。暇のあるものはだいぶいるようだが、余り誰も何もやっていないようじゃありませんか」
「それは人に依 （ よ ） 暗 （ あん ）
「人にも依るでしょう。しかし今の金持ちと云うものは……」と道也は句を半分で切って、机の上を見た。机の上には二寸ほどの厚さの原稿がのっている。障子には洗濯した足袋 （ たび ）
「金持ちは駄目です。金がなくって困ってるものが……」
「金がなくって困ってるものは、困りなりにやればいいのです」と道也先生困ってる癖に太平な事を云う。高柳君は少々不満である。
「しかし衣食のために勢力をとられてしまって……」
「それでいいのですよ。勢力をとられてしまったら、ほかに何にもしないで構わないのです」
青年は唖然 （ あぜん ） 真面目 （ まじめ ）
「先生ならいいかも知れません」とつるつると口を滑 （ すべ ）
「わたしは無論いい。あなただって好いですよ」と相手までも平気に捲 （ ま ）
「なぜですか」と二三歩逃げて、振り向きながら佇 （ たたず ） 探 （ さぐ ）
「だって、あなたは文学をやったと云われたじゃありませんか。そうですか」
「ええやりました」と力を入れる。すべて他の点に関しては断乎 （ だんこ ） 何人 （ なんびと ）
「それならいい訳だ。それならそれでいい訳だ」と道也先生は繰り返して云った。高柳君には何の事か少しも分らない。また、なぜです と突き込むのも、何だか伏兵 （ ふくへい ） 罹 （ かか ） 厭 （ いや ） 暗 （ あん ） 籠 （ こ ）
「分りましたか」と道也先生が云う。顔を見たのはやっぱり何の役にも立たなかった。
「どうも」と折れざるを得ない。
「だってそうじゃありませんか。――文学はほかの学問とは違うのです」と道也先生は凜然 （ りんぜん ）
「はあ」と高柳君は覚えず応答をした。
「ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害 （ そがい ） 貧 （ ひん ） 悲酸 （ ひさん ） 喧嘩 （ けんか ） 了簡 （ りょうけん ） 呑気 （ のんき ） 閑日月 （ かんじつげつ ） 窮愁 （ きゅうしゅう ） 凡 （ およ ） 甞 （ な ） 閑人 （ ひまじん ） 臆面 （ おくめん ） 捌 （ さば ） 指 （ さ ） 遠 （ とおざ ） 易 （ か ）
「なるほど」と高柳君は妙な顔をして云った。
「あなたは、そうは考えませんか」
そう考えるにも、考えぬにも生れて始めて聞いた説である。批評的の返事が出るときは大抵用意のある場合に限る。不意撃 （ ふいうち ）
「ふうん」と云って高柳君は首を低 （ た ） 吐 （ は ） 鞏固 （ きょうこ ）
「先生はだいぶ御忙 （ おいそが ）
「ええ。進んで忙しい中へ飛び込んで、人から見ると酔興 （ すいきょう ）
「失礼ながら今はどんな事をやっておいでで……」
「今ですか、ええいろいろな事をやりますよ。飯を食う方と本領の方と両方やろうとするからなかなか骨が折れます。近頃は頼まれてよく方々へ談話の筆記に行きますがね」
「随分御面倒でしょう」
「面倒と云いや、面倒ですがね。そう面倒と云うよりむしろ馬鹿気 （ ばかげ ）
「なかなか面白い事を云うのがおりましょう」と暗 （ あん ） 中野春台 （ なかのしゅんたい ）
「面白いの何のって、この間はうま 、うま の講釈を聞かされました」
「うま 、うま ですか？」
「ええ、あの小供 （ こども ） 食物 （ たべもの ） うまうま だそうです。それでその時分は何を見てもうまうま、何を見なくってもうまうまだからつまりは何 （ なに ） 大人 （ おとな ） うまい と云うようになった。だから人生の煩悶 （ はんもん ） 還 （ かえ ） うまうま の二字に帰着すると云うのです。何だか寄席 （ よせ ）
「馬鹿にしていますね」
「ええ、大抵は馬鹿にされに行くんですよ」
「しかしそんなつまらない事を云うって失敬ですね」
「なに、失敬だっていいでさあ、どうせ、分らないんだから。そうかと思うとね。非常に真面目 （ まじめ ） 突飛 （ とっぴ ）
「中野じゃありませんか」
「君、知ってますか。ありゃ熱心なものだった」
「私の同級生です」
「ああ、そうですか。中野春台とか云う人ですね。よっぽど暇があるんでしょう。あんな事を真面目に考えているくらいだから」
「金持ちです」
「うん立派な家 （ うち ）
「ええ、もとはごく親密でした。しかしどうもいかんです。近頃は――何だか――未来の細君か何か出来たんで、あんまり交際してくれないのです」
「いいでしょう。交際しなくっても。損にもなりそうもない。ハハハハハ」
「何だかしかし、こう、一人坊 （ ひとりぼ ）
「一人坊っちで、いいでさあ」と道也先生またいいでさあ を担 （ かつ ）
「昔から何かしようと思えば大概は一人坊っちになるものです。そんな一人の友達をたよりにするようじゃ何も出来ません。ことによると親類とも仲違 （ なかたがい ） 妻 （ さい ）
「私はそんなになったら、不愉快で生きていられないだろうと思います」
「それじゃ、文学者にはなれないです」
高柳君はだまって下を向いた。
「わたしも、あなたぐらいの時には、ここまでとは考えていなかった。しかし世の中の事実は実際ここまでやって来るんです。うそじゃない。苦しんだのは耶蘇 （ ヤソ ） 孔子 （ こうし ） 呑気 （ のんき ） 偽文学者 （ にせぶんがくしゃ ）
高柳君は今こそ苦しいが、もう少し立てば喬木 （ きょうぼく ） 繋 （ つな ）
「高柳さん」
「はい」
「世の中は苦しいものですよ」
「苦しいです」
「知ってますか」と道也先生は淋 （ さび ） 気 （ げ ）
「知ってるつもりですけれど、いつまでもこう苦しくっちゃ……」
「やり切れませんか。あなたは御両親が御在 （ おあ ）
「母だけ田舎 （ いなか ）
「おっかさんだけ？」
「ええ」
「御母 （ おっか ）
「なかなか結構でないです。――早くどうかしてやらないと、もう年を取っていますから。私が卒業したら、どうか出来るだろうと思ってたのですが……」
「さよう、近頃のように卒業生が殖 （ ふ ） 得 （ う ）
「時々は田舎へ行こうとも思うんですが……」
「またいやになるかね。――そうさ、あまり勧められもしない。私も田舎の学校はだいぶ経験があるが」
「先生は……」と言いかけたが、また昔の事を云い出しにくくなった。
「ええ？」と道也は何も知らぬ気 （ げ ）
「先生は――あの――江湖雑誌 （ こうこざっし ） 御編輯 （ ごへんしゅう ）
「ええ、この間から引き受けてやっています」
「今月の論説に解脱 （ げだつ ） 拘泥 （ こうでい ） 憂世子 （ ゆうせいし ）
「あれは、わたしです。読みましたか」
「ええ、大変面白く拝見しました。そう申しちゃ失礼ですが、あれは私の云いたい事を五六段高くして、表出 （ ひょうしゅつ ） 享 （ う ）
「それはありがたい。それじゃ君は僕の知己ですね。恐らく天下唯一 （ ゆいいつ ）
「そんな事はないでしょう」と高柳君はやや真面目 （ まじめ ）
「そうですか、それじゃなお結構だ。しかし今まで僕の文章を見てほめてくれたものは一人もない。君だけですよ」
「これから皆んな賞 （ ほ ）
「ハハハハそう云う人がせめて百人もいてくれると、わたしも本望 （ ほんもう ） 頓珍漢 （ とんちんかん ）
「何ですか」
「なあに商人ですがね。どこから聞いて来たか、わたしに、あなたは雑誌をやっておいでだそうだが文章を御書きなさるだろうと云うのです」
「へえ」
「書く事は書くとまあ云ったんです。するとねその男がどうぞ一つ、眼薬の広告をかいてもらいたいと云うんです」
「馬鹿な奴 （ やつ ）
「その代り雑誌へ眼薬の広告を出すから是非一つ願いたいって――何でも点明水 （ てんめいすい ）
「妙な名をつけて――。御書きになったんですか」
「いえ、とうとう断わりましたがね。それでまだおかしい事があるのですよ。その薬屋で売出しの日に大きな風船を揚げるんだと云うのです」
「御祝いのためですか」
「いえ、やはり広告のために。ところが風船は声も出さずに高い空を飛んでいるのだから、仰向 （ あおむ ）
「へえ、なるほど」
「それでわたしにその、仰向かせの役をやってくれって云うのです」
「どうするのです」
「何、往来をあるいていても、電車へ乗っていてもいいから、風船を見たら、おや風船だ風船だ、何でもありゃ点明水の広告に違いないって何遍も何遍も云うのだそうです」
「ハハハ随分思い切って人を馬鹿にした依頼ですね」
「おかしくもあり馬鹿馬鹿しくもあるが、何もそれだけの事をするにはわたしでなくてもよかろう。車引でも雇えば訳ないじゃないかと聞いて見たのです。するとその男がね。いえ、車引なんぞばかりでは信用がなくっていけません。やっぱり髭 （ ひげ ） 生 （ は ）
「実に失敬な奴ですね。全体何物 （ なにもの ）
「何物ってやはり普通の人間ですよ。世の中をだますために人を雇いに来たのです。呑気 （ のんき ）
「どうも驚ろいちまう。私なら撲 （ な ）
「そんなのを撲った日にゃ片 （ かた ） 端 （ ぱし ）
高柳君はまさかと思った。障子にさした足袋 （ たび ） 開 （ あ ） 放 （ はな ） 靴刷毛 （ くつはけ ） 端 （ はじ ） 椽 （ えん ） 手 （ て ） 平 （ ひら ） 貧 （ ひん ） 杉垣 （ すぎがき ） 遥 （ はる ） 向 （ むこう ） 五分珠 （ ごぶだま ） 珊瑚 （ さんご ） 嵌 （ は ） 鳴子 （ なるこ ） 烏 （ からす ）
「閑静な御住居 （ おすまい ）
「ええ。蛸寺 （ たこでら ） 和尚 （ おしょう ） 生涯 （ しょうがい ）
「大変たくさん柿が生 （ な ）
「渋柿ですよ。あの和尚は何が惜しくて、ああ渋柿の番ばかりするのかな。――君妙な咳 （ せき ） 身体 （ からだ ） 瘠 （ や ）
「しかし先生だって随分瘠せていらっしゃるじゃありませんか」
「わたし？ わたしは瘠せている。瘠せてはいるが大丈夫」
白き蝶 （ ちょう ）
小 （ ちさ ）
みだるるよ、みだるるよ。
長き憂 （ うれい ）
暗き憂は、暗き髪に、
みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分 （ のわき ）
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
みだるるよ、みだるるよ。
と女はうたい了 （ おわ ） 銀椀 （ ぎんわん ） 珠 （ たま ） 白魚 （ しらうお ） 揺 （ うご ） 聴 （ き ）
「うまく、唱 （ うた ） 稽古 （ けいこ ）
「厭 （ いや ）
「それじゃ本式に」
「本式にゃなおできませんわ」
「それじゃ、つまりおやめと云う訳 （ わけ ）
「だってたくさん人のいる前なんかで、――恥ずかしくって、声なんか出やしませんわ」
「その新体詩はいいでしょう」
「ええ、わたし大好き」
「あなたが、そうやって、唱ってるところを写真に一つ取りましょうか」
「写真に？」
「ええ、厭ですか」
「厭じゃないわ。だけれども、取って人に御見せなさるでしょう」
「見せてわるければ、わたし一人で見ています」
女は何 （ な ） 半襟 （ はんえり ） 表 （ おもて ） 真中 （ まんなか ） 明星 （ みょうじょう ） 留針 （ とめばり ） 的皪 （ てきれき ） 耀 （ かがや ）
女の振り向いた方には三尺の台を二段に仕切って、下には長方形の交趾 （ こうち ） 鉢 （ はち ） 蘭 （ らん ） 揺 （ ゆ ） 香 （ こう ） 愛神 （ ヴィーナス ） 室 （ へや ） 据 （ す ） 端 （ はし ）
「あの像は」と聞く。
「無論模造です。本物は巴理 （ パリ ）
「本物も欠けてるんですか」
「ええ、本物が欠けてるから模造もかけてるんです」
「何の像でしょう」
「ヴィーナス。愛の神です」と男はことさらに愛と云う字を強く云った。
「ヴィーナス！」
深い眼睫 （ まつげ ） 溶 （ と ） 冷 （ ひや ） 石膏 （ せっこう ） 丸 （ まろ ） 乳首 （ ちくび ） 疑 （ あや ） 瞳 （ ひとみ ） 凝 （ こ ） 艶 （ えん ）
「そう」と女はやがて、かすかな声で云う。
「あんまり見ているとヴィーナスが動き出しますよ」
「これで愛の神でしょうか」と女はようやく頭 （ かしら ） 回 （ めぐ ）
あなたの方が愛の神らしいと云おうとしたが、女と顔を見合した時、男は急に躊躇 （ ちゅうちょ ） 崩 （ くず ） 訝 （ いぶか ） 打 （ う ） 壊 （ こわ ） 腕 （ かいな ） 大 （ おおい ） 罪科 （ ざいか ）
「気高 （ けだか ） 援 （ たす ）
「そう、すこし堅過ぎます。愛と云う感じがあまり現われていない」
「何だか冷 （ つ ）
「その通りだ。冷めたいと云うのが適評だ。何だか妙だと思っていたが、どうも、いい言葉が出て来なかったんです。冷めたい――冷めたい、と云うのが一番いい」
「なぜこんなに、拵 （ こし ）
「やっぱりフㇶジアス式だから厳格なんでしょう」
「あなたは、こう云うのが御好き」
女は石像をさえ、自分と比較して愛人の心を窺 （ うかが ） 掛念 （ けねん ）
「好きって、いいじゃありませんか、古今 （ ここん ）
女の批判は直覚的である。男の好尚 （ こうしょう ） 半 （ なか ） 因果 （ いんが ） 己 （ おの ） 欺 （ あざむ ）
「古今の傑作ですよ」と再び繰り返したのは、半ば女の趣味を教育するためであった。
「そう」と女は云ったばかりである。石火 （ せっか ） 交 （ まじ ） 刹那 （ せつな ）
「元来ヴィーナスは、どう云うものか僕にはいやな聯想 （ れんそう ）
「どんな聯想なの」と女はおとなしく聞きつつ、双 （ そう ） 膝 （ ひざ ） 手頸 （ てくび ） 衣 （ きぬ ） 薄紅 （ うすくれない ） 縞柄 （ しまがら ）
上になった手の甲の、五つに岐 （ わか ） 蔽 （ おお ） 好 （ い ） 崩 （ くず ） 調 （ ととの ） 纏 （ まと ） 貴 （ たっと ）
女は燦 （ さん ） 戴 （ いただ ）
「その指輪は見馴 （ みな ）
「これ？」と重ねた手は解 （ と ） 耀 （ かがや ）
「この間父様に買っていただいたの」
「金剛石 （ ダイヤモンド ）
「そうでしょう。天賞堂から取ったんですから」
「あんまり御父さんを苛 （ いじ ）
「あら、そうじゃないのよ。父様の方から買って下さったのよ」
「そりゃ珍らしい現象ですね」
「ホホホホ本当ね。あなたその訳 （ わけ ）
「知るものですか、探偵 （ たんてい ）
「だから御存じないでしょうと云うのですよ」
「だから知りませんよ」
「教えて上げましょうか」
「ええ教えて下さい」
「教えて上げるから笑っちゃいけませんよ」
「笑やしません。この通り真面目 （ まじめ ）
「この間ね、池上 （ いけがみ ）
「そうして、どうしたんです。――拾って来たんですか」
「あら、いやだ。あなたは失敬ね」
「だって、待っててもあとをおっしゃらないですもの」
「今云うところなのよ。そうして賭 （ かけ ）
「こいつは驚ろいた。あなたの御父さんもやるんですか」
「いえ、やらないんだけれども、試 （ ため ）
「やっぱりやったんじゃありませんか」
「やった事はやったの。それで御金を五百円ばかり御取りになったんだって」
「へえ。それで買って頂いたのですか」
「まあ、そうよ」
「ちょっと拝見」と手を出す。男は耀 （ かがや ） 軽 （ かろ ） 抑 （ おさ ）
指輪は魔物である。沙翁 （ さおう ） 波瀾 （ はらん ） 空裏 （ くうり ） 繋 （ つな ）
三重 （ みえ ） 環 （ わ ） 膨 （ ふく ） 穿 （ うが ） 据 （ す ） 眩 （ まば ） 天 （ あめ ） 下 （ した ） 毀 （ こぼ ） 妾 （ われ ） 妾故 （ われゆえ ）
「こんな指輪だったのか知らん」と男が云う。女は寄り添うて同じ長椅子 （ ソーファ ） 分 （ わか ）
「昔しさる好事家 （ こうずか ） 吾 （ わ ） 眺 （ なが ） 橄欖 （ かんらん ） 香 （ か ） 据 （ す ）
「それは御話？ 突然なのね」
「それから或 （ ある ）
「あら、ちっとも分らないわ。誰がテニスをするの。銅像を掘り出した人なの？」
「銅像を掘り出したのは人足 （ にんそく ）
「どっちだって同じじゃありませんか」
「主人と人足と同じじゃ少し困る」
「いいえさ、やっぱり掘り出した人がテニスをしたんでしょう」
「そう強情を御張りになるなら、それでよろしい。――では掘り出した人がテニスをする……」
「強情じゃない事よ。じゃ銅像を掘り出さした方 （ ほう ）
「どっちでも同じでさあ」
「あら、あなた、御怒 （ おおこ ）
「ハハハハあやまらなくってもいいです。それでテニスをしているとね。指輪が邪魔になって、ラケットが思うように使えないんです。そこで、それをはずしてね、どこかへ置こうと思ったが小さいものだから置きなくすといけない。――大事な指輪ですよ。結納 （ ゆいのう ）
「誰と結婚をなさるの？」
「誰とって、そいつは少し――やっぱりさる令嬢とです」
「あら、お話しになってもいじゃありませんか」
「隠す訳じゃないが……」
「じゃ話してちょうだい。ね、いいでしょう。相手はどなたなの？」
「そいつは弱りましたね。実は忘れちまった」
「それじゃ、ずるいわ」
「だって、メリメの本を貸しちまってちょっと調べられないですもの」
「どうせ、御貸しになったんでしょうよ。ようございます」
「困ったな。せっかくのところで名前を忘れたもんだから進行する事が出来なくなった。――じゃ今日は御やめにして今度その令嬢の名を調べてから御話をしましょう」
「いやだわ。せっかくのところでよしたり、なんかして」
「だって名前を知らないんですもの」
「だからその先を話してちょうだいな」
「名前はなくってもいいのですか」
「ええ」
「そうか、そんなら早くすればよかった。――それでいろいろ考えた末、ようやく考えついて、ヴィーナスの小指へちょっとはめたんです」
「うまいところへ気がついたのね。詩的じゃありませんか」
「ところがテニスが済んでから、すっかりそれを忘れてしまって、しかも例の令嬢を連れに田舎 （ いなか ） 合 （ あい ） 指環 （ ゆびわ ） 結納 （ ゆいのう ）
「厭 （ いや ）
「だって忘れたんだから仕方がない」
「忘れるなんて、不人情だわ」
「僕なら忘れないんだが、異人 （ いじん ）
「ホホホホ異人だって」
「そこで結納も滞 （ とどこお ）
「結婚の晩にどうしたの」
「結婚の晩にね。庭のヴィーナスがどたりどたりと玄関を上がって……」
「おおいやだ」
「どたりどたりと二階を上がって」
「怖 （ こわ ）
「寝室の戸をあけて」
「気味がわるいわ」
「気味がわるければ、そこいらで、やめて置きましょう」
「だけれど、しまいにどうなるの」
「だから、どたり、どたりと寝室の戸をあけて」
「そこは、よしてちょうだい。ただしまいにどうなるの」
「では間を抜きましょう。――あした見たら男は冷 （ つ ）
「おお、厭 （ いや ） 眉 （ まゆ ） 艶 （ えん ） 愛嬌 （ あいきょう ） 醋 （ す ） 酔 （ え ） 酸味 （ さんみ ）
濃くひける新月の寄り合いて、互に頭 （ かしら ） 擡 （ もた ） 朧 （ おぼろ ）
「奥さんはどうしたでしょう」女を憐むものは女である。
「奥さんは病気になって、病院に這入 （ はい ）
「癒 （ なお ）
「そうさ。そこまでは覚えていない。どうしたっけかな」
「癒らない法はないでしょう。罪も何もないのに」
薄きにもかかわらず豊 （ ゆたか ） 下唇 （ したくちびる ） 真面目 （ まじめ ） 戯 （ たわ ）
愛は真面目である。真面目であるから深い。同時に愛は遊戯である。遊戯であるから浮いている。深くして浮いているものは水底の藻 （ も ）
「ハハハハ心配なさらんでもいいです。奥さんはきっと癒ります」と男はメリメに相談もせず受合った。
愛は迷 （ まよい ） 悟 （ さと ） 万有 （ ばんゆう ） 中 （ うち ） 刻下 （ こっか ） 故 （ ゆえ ） 眼 （ まなこ ） 大千世界 （ だいせんせかい ） 黄金 （ おうごん ） 情 （ なさ ） 忌 （ い ） 孤立 （ こりつ ） 嫌 （ きら ）
「わたし、本当に御気の毒だと思いますわ。わたしが、そんなになったら、どうしようと思うと」
愛は己 （ おの ） 貫 （ つらぬ ） 怨恨 （ えんこん ） 成敗 （ せいばい ） 馬車馬 （ ばしゃうま ） 馬車馬 （ ばしゃうま ）
もっともわがままなる善人が二人、美くしく飾りたる室 （ しつ ） 蕭寥 （ しょうりょう ） 道也 （ どうや ）
「この間の音楽会には高柳さんとごいっしょでしたね」
「ええ、別に約束した訳 （ わけ ） 眺 （ なが ）
「よく誘 （ さそ ） 御上 （ おあ ）
「少し咳 （ せき ）
「顔の色が大変御 （ お ）
「あの男はあんまり神経質だもんだから、自分で病気をこしらえるんです。そうして慰めてやると、かえって皮肉を云うのです。何だか近来はますます変になるようです」
「御気の毒ね。どうなすったんでしょう」
「どうしたって、好 （ この ） 一人坊 （ ひとりぼ ） 敵 （ かたき ）
「失恋なの」
「そんな話もきいた事もないですがね。いっそ細君でも世話をしたらいいかも知れない」
「御世話をして上げたらいいでしょう」
「世話をするって、ああ気六 （ きむ ） 可哀想 （ かわいそう ）
「でも。御持ちになったら癒 （ なお ）
「少しは癒るかも知れないが、元来 （ がんらい ） 性分 （ しょうぶん ） 罹 （ かか ）
「ホホホホどうして、そんな病気が出たんでしょう」
「どうしてですかね。遺伝かも知れません。それでなければ小供のうち何かあったんでしょう」
「何か御聞 （ おきき ）
「いいえ、僕ああまりそんな事を聞くのが嫌 （ きらい ） 何 （ なん ） 淡泊 （ たんぱく ）
「困っていらっしゃるんじゃなくって」
「生活にですか、ええ、そりゃ困ってるんです。しかし無暗 （ むやみ ） 擲 （ たた ）
「だって御自分で御金がとれそうなものじゃありませんか、文学士だから」
「取れるですとも。だからもう少し待ってるといいですが、どうも性急 （ せっかち ） 六 （ む ）
「御国は一体どこなの」
「国は新潟県です」
「遠い所なのね。新潟県は御米の出来る所でしょう。やっぱり御百姓なの」
「農 （ のう ） 御出 （ おいで ） 行 （ ゆ ） 違 （ ちがい ）
「ええ、あの長い顔の髭 （ ひげ ） 生 （ は ） 吃驚 （ びっくり ） 草履 （ ぞうり ）
「あれで泰然たるものですよ。そうしてちっとも愛嬌 （ あいきょう ） 何 （ なん ）
「それで何しに来たの」
「江湖雑誌 （ こうこざっし ）
「あなたの？ 何か話しておやりになって？」
「ええ、あの雑誌を送って来ているからあとで見せましょう。――それであの男について妙な話しがあるんです。高柳が国の中学にいた時分あの人に習ったんです――あれで文学士ですよ」
「あれで？ まあ」
「ところが高柳なんぞが、いろいろな、いたずらをして、苛 （ いじ ）
「あの人を？ ひどい事をするのね」
「それで高柳は今となって自分が生活に困難しているものだから、後悔して、さぞ先生も追い出されたために難義をしたろう、逢 （ あ ）
「全く追い出されたために、あんなに零落 （ れいらく ）
「それからせんだって江湖雑誌の記者と云う事が分ったでしょう。だから音楽会の帰りに教えてやったんです」
「高柳さんはいらしったでしょうか」
「行ったかも知れませんよ」
「追い出したんなら、本当に早く御詫 （ おわび ）
善人の会話はこれで一段落を告げる。
「どうです、あっちへ行って、少しみんなと遊 （ あす ）
「写真は御やめなの」
「あ、すっかり忘れていた。写真は是非取らして下さい。僕はこれでなかなか美術的な奴を取るんです。うん、商売人の取るのは下等ですよ。――写真も五六年この方 （ かた ） 和 （ やわら ） 際 （ きわ ） 景色 （ けいしょく ）
「あなたは人物の専門家なの」
「僕？ 僕は――そうさ、――あなただけの専門家になろうと思うのです」
「厭 （ いや ）
金剛石 （ ダイヤモンド ） 薄紅 （ うすくれない ） 袖 （ そで ） 腕 （ かいな ） 膝 （ ひざ ） 軽 （ かろ ）
善人の会話は写真撮影に終る。
秋は次第に行く。虫の音 （ ね ） 細 （ ほそ ）
筆硯 （ ひっけん ） 籠 （ こ ） 道也 （ どうや ） 一大事 （ いちだいじ ） 因縁 （ いんねん ） 着 （ ちゃく ） 他 （ た ） 顧 （ かえり ） 暇 （ いとま ） 故 （ ゆえ ） 垢 （ あか ） 蛸寺 （ たこでら ） 偉 （ おお ） 公 （ おおや ） 方 （ かた ）
高柳君はそうは行 （ ゆ ） 肌寒 （ はださむ ） 雁 （ かり ） 黄金 （ おうごん ） 貴 （ たっと ） 木屑 （ きくず ） 吾身 （ わがみ ） 夕々 （ ゆうべゆうべ ） 菜 （ さい ） 芋 （ いも ） 癒 （ なお ） 一人坊 （ ひとりぼ ） 己 （ おの ） 呑気 （ のんき ） 餓 （ う ） 渇 （ かつ ） 危篤 （ きとく ） 嘯 （ うそぶ ） 呪 （ のろ ）
道也先生から見た天地は人のためにする天地である。高柳君から見た天地は己れのためにする天地である。人のためにする天地であるから、世話をしてくれ手がなくても恨 （ うらみ ）
世話をするために生れた人と、世話をされに生れた人とはこれほど違う。人を指導するものと、人にたよるものとはこれほど違う。同じく一人坊っちでありながらこれほど違う。高柳君にはこの違いがわからぬ。
垢染 （ あかじ ） 布団 （ ふとん ） 冷 （ ひや ） 五分刈 （ ごぶが ） 横 （ よこた ） 挙 （ あ ） 庭前 （ ていぜん ） 梧桐 （ ごとう ） 荒庭 （ あれにわ ）
ことにこの間から、気分がわるくて、仕事をする元気がないので、あやしげな机に頬杖 （ ほおづえ ） 梧桐 （ ごとう ） 眺 （ なが ）
一葉 （ いちよう ） 下 （ くだ ） 袷 （ あわせ ） 縁 （ よすが ） 翌朝 （ よくあさ ）
青いものがしだいに衰える裏から、浮き上がるのは薄く流した脂 （ やに ） 旦夕 （ たんせき ） 逼 （ せま ）
風が吹く。どこから来るか知らぬ風がすうと吹く。黄ばんだ梢 （ こずえ ） 動 （ ゆる ） 一葉 （ ひとは ） 二葉 （ ふたは ）
脂は夜ごとの秋の霜 （ しも ） 濃 （ こ ） 箒 （ ほうき ） 敲 （ たた ） 煎餅 （ せんべい ）
風がくる。垣の隙 （ すき ） 椽 （ えん ） 梢 （ こずえ ）
わずかに残る葉を虫が食う。渋色 （ しぶいろ ）
高柳君がふと眼を挙げた時、梧桐はすべてこれらの径路 （ けいろ ） 坊主 （ ぼうず ） 斜 （ なな ） 虫食葉 （ むしくいば ）
「一人坊 （ ひとりぼ ）
高柳君は先月あたりから、妙な咳 （ せき ）
医者に行って見てもらおうかと思ったが、見てもらうと決心すれば、自分で自分を病気だと認定した事になる。自分で自分の病気を認定するのは、自分で自分の罪悪を認定するようなものである。自分の罪悪は判決を受けるまでは腹のなかで弁護するのが人情である。高柳君は自分の身体 （ からだ ）
夜になると時々寝汗 （ ねあせ ） 真暗 （ まっくら ）
暗いなかをなお暗くするために眼を眠 （ ねむ ） 夜着 （ よぎ ） 醒 （ さ ） 間 （ ま ） 赫奕 （ かくえき ）
時計を出しては一日に脈 （ みゃく ） 験 （ けん ） 平脈 （ へいみゃく ） 痰 （ たん ） 吐 （ は ） 眺 （ なが ）
痰 （ たん ） 交 （ まじ ） 厭 （ いと ） 冒 （ おか ） 享受 （ きょうじゅ ） 享 （ う ） 必須条件 （ ひっすじょうけん ） 冒 （ おか ） 塵界 （ じんかい ） 流転 （ るてん ） 能 （ あた ） 償 （ つぐな ） 悲酸 （ ひさん ） 煩悶 （ はんもん ）
高柳君は床 （ とこ ） 這 （ は ） 瓦斯糸 （ ガスいと ） 蚊絣 （ かがすり ） 黒木綿 （ くろもめん ） 了簡 （ りょうけん ） 四五日 （ しごんち ） 軽 （ かろ ） 硯 （ すずり ） 塵 （ ちり ） 水入 （ みずいれ ） 在 （ あ ） 豆菊 （ まめぎく ） 挿 （ さ ） 硝子 （ ガラス ） 小瓶 （ こびん ） 磨 （ す ） 古梅園 （ こばいえん ） 眉 （ まゆ ） 唇 （ くちびる ） 噛 （ か ） 自棄 （ じき ）
机上に原稿紙を展 （ の ） 呻吟 （ しんぎん ） 擱 （ お ） 損 （ そく ） 桐 （ きり ）
「一人坊 （ ひとりぼ ）
見るうちに、葉は少しく上に揺れてまた下に揺れた。いよいよ落ちる。と思う間に風ははたとやんだ。
高柳君は巻紙を出して、今度は故里 （ ふるさと ） 御母 （ おっか ） 寒気 （ かんき ） 候処 （ そろところ ） 如何 （ いかが ） 被遊候 （ あそばされそろ ） 不相変 （ あいかわらず ） 奉遥察候 （ ようさつたてまつりそろ ） 反古 （ ほご ） 噛 （ か ）
一人坊っちの葉がまた揺れる。今度は右へ左へ二三度首を振る。その振りがようやく収 （ おさま ） 颯 （ さっ ） 病葉 （ わくらば ）
「落ちた。落ちた」と高柳君はさも落ちたらしく云った。
やがて三尺の押入を開 （ あ ） 中折 （ なかおれ ） 門口 （ かどぐち ）
「御婆さん、御婆さん」
はいと婆さんが雑巾 （ ぞうきん ）
「傘 （ かさ ） 室 （ へや ） 椽側 （ えんがわ ）
降れば傘をさすまでも歩く考である。どこと云う目的 （ あて ） 敵 （ かたき ） 発頭人 （ ほっとうにん ） 一人坊 （ ひとりぼ ）
ぽつりぽつりと折々降ってくる。初時雨 （ はつしぐれ ） 豆腐屋 （ とうふや ） 絞 （ しぼ ） 桶 （ おけ ） 頂 （ いただき ） 靡 （ なび ） 塩物屋 （ しおものや ） 鮭 （ さけ ） 渋 （ さ ） しらす干 がかたまって白く反 （ そ ） 鰹節屋 （ かつぶしや ） 土佐節 （ とさぶし ） 磨 （ みが ） 真青 （ まっさお ） 葉茶屋 （ はぢゃや ） 丁稚 （ でっち ） 抹茶 （ まっちゃ ） 臼 （ うす ） 挽 （ ひ ） 睨 （ にら ）
黒紋付の羽織に山高帽を被 （ かぶ ） 綱曳 （ つなひき ） 勢 （ いきおい ） 拳突 （ けんつく ） 喰 （ く ）
青銅 （ からかね ） 時雨 （ しぐれ ） 遠近 （ おちこち ） 唐人髷 （ とうじんまげ ） 結 （ い ） 半玉 （ はんぎょく ） 渋蛇 （ しぶじゃ ） 目 （ め ） 八丈 （ はちじょう ） 素足 （ すあし ） 爪皮 （ つまかわ ） 柏手 （ かしわで ） 御賽銭 （ おさいせん ） 間 （ ま ） 逆戻 （ ぎゃくもどり ） 黒縮緬 （ くろちりめん ） 三 （ み ） 柏 （ がしわ ） 一瞥 （ いちべつ ） 秋波 （ しゅうは ） 背負 （ しょ ）
石段を三十六おりる。電車がごうっごうっと通る。岩崎 （ いわさき ） 塀 （ へい ） 聳 （ そび ） 壊 （ こわ ） 時雨 （ しぐれ ） 休 （ や ） 背 （ せ ） 蝙蝠傘 （ こうもり ）
「先生」と一人坊 （ ひとりぼ ）
「やあ妙な所で逢 （ あ ）
「ええ」と高柳君は答えた。
「天気のわるいのによく散歩するですね。――岩崎の塀を三度周 （ まわ ）
高柳君はちょっといい心持ちになった。
「先生は？」
「僕ですか、僕はなかなか散歩する暇なんかないです。不相変 （ あいかわらず ）
高柳君は道也先生に逢 （ あ ）
「先生もう少し散歩をなさいませんか」
「そう、少しなら、してもいい。どっちの方へ。上野はもうよそう。今通って来たばかりだから」
「私はどっちでもいいのです」
「じゃ坂を上 （ あが ）
二人は電車の路を沿うてあるき出した。高柳君は一人坊っちが急に二人坊っちになったような気がする。そう思うと空も広く見える。もう綱曳 （ つなひき ） 気遣 （ きづかい ）
「先生」
「何ですか」
「さっき、車屋から突き飛ばされました」
「そりゃ、あぶなかった。怪我 （ けが ）
「いいえ、怪我はしませんが、腹は立ちました」
「そう。しかし腹を立てても仕方がないでしょう。――しかし腹も立てようによるですな。昔し渡辺崋山 （ わたなべかざん ） 供先 （ ともさき ） 粗忽 （ そこつ ） 逢 （ あ ） 御横行 の三字が非常に面白いじゃないですか。尊 （ たっと ） 御 （ おん ）
「松平侯って、だれですか」
「だれだか知れやしない。それが知れるくらいなら御横行はしないですよ。その時発憤した崋山はいまだに生きてるが、松平某なるものは誰も知りゃしない」
「そう思うと愉快ですが、岩崎の塀 （ へい ） 壊 （ こわ ）
「頭をぶつけて、壊せりゃ、君より先に壊してるものがあるかも知れない。そんな愚 （ ぐ ）
「その創作をさせてくれないのです」
「誰が」
「誰がって訳じゃないですが、出来ないのです」
「からだでも悪いですか」と道也先生横から覗 （ のぞ ） 頬 （ ほお ） 蒼 （ あお ）
「君 （ きみ ） 呼吸 （ いき ）
強 （ し ） 落胆 （ がっかり ） 憚 （ はば ）
「先生」と高柳君は往来に立 （ た ） 留 （ ど ）
「何ですか」
「私は病人に見えるでしょうか」
「ええ、まあ、――少し顔色は悪いです」
「どうしても肺病でしょうか」
「肺病？ そんな事はないです」
「いいえ、遠慮なく云って下さい」
「肺の気 （ け ）
「遺伝です。おやじは肺病で死にました」
「それは……」と云ったが先生返答に窮した。
膀胱 （ ぼうこう ） 洩 （ も ）
「先生、私の歴史を聞いて下さいますか」
「ええ、聞きますとも」
「おやじは町で郵便局の役人でした。私が七つの年に拘引 （ こういん ）
道也先生は、だまったまま、話し手といっしょにゆるく歩 （ ほ ）
「あとで聞くと官金を消費したんだそうで――その時はなんにも知りませんでした。母にきくと、おとっさんは今に帰る、今に帰ると云ってました。――しかしとうとう帰って来ません。帰らないはずです。肺病になって、牢屋 （ ろうや ）
向 （ むこう ） 二梃束髪 （ にちょうそくはつ ）
「先生」
「何ですか」
「だから私には肺病の遺伝があるんです。駄目です」
「医者に見せたですか」
「医者には――見せません。見せたって見せなくったって同じ事です」
「そりゃ、いけない。肺病だって癒 （ なお ）
高柳君は気味の悪い笑いを洩 （ も ） 時雨 （ しぐれ ） 寺 （ でら ） 碧巌録提唱 （ へきがんろくていしょう ） 貼 （ は ） 際立 （ きわだ ） 海老茶 （ えびちゃ ）
「先生、罪悪も遺伝するものでしょうか」と女学生の間を縫いながら歩 （ ほ ）
「そんな事があるものですか」
「遺伝はしないでも、私は罪人の子です。切 （ せつ ）
「それは切ないに違いない。しかし忘れなくっちゃいけない」
警察署から手錠 （ てじょう ） 時雨 （ しぐれ ）
「忘れても、すぐ思い出します」
道也先生は少し大きな声を出した。
「しかしあなたの生涯 （ しょうがい ）
「花が咲く前に枯れるんです」
「枯れる前に仕事をするんです」
高柳君はだまっている。過去を顧 （ かえり ） 麺麭 （ パン ）
道也先生は高柳君の耳の傍 （ そば ）
「君は自分だけが一人坊 （ ひとりぼ ）
高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。
「わかったですか」と道也先生がきく。
「崇高――なぜ……」
「それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上 （ あが ） 車引 （ くるまひき ） 煩悶 （ はんもん ） 作物 （ さくぶつ ）
「芸者や車引はどうでもいいですが……」
「例はだれだって同じ事です。同じ学校を同じに卒業した者だって変りはありません。同じ卒業生だから似たものだろうと思うのは教育の形式が似ているのを教育の実体が似ているものと考え違 （ ちがい ） 力 （ りき ） 他 （ ひと ）
「それで先生は後世に名を残すおつもりでやっていらっしゃるんですか」
「わたしのは少し、違います。今の議論はあなたを本位にして立てた議論です。立派な作物を出して後世に伝えたいと云うのが、あなたの御希望のようだから御話しをしたのです」
「先生のが承 （ うけたまわ ）
「わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得 （ う ） 臭名 （ しゅうめい ） 気狂 （ きちがい ） 貴 （ たっと ） 塀 （ へい ）
剥 （ は ） 阿弥陀 （ あみだ ） 被 （ かぶ ） 毛繻子張 （ けじゅすば ） 蝙蝠傘 （ こうもり ） 一人坊 （ ひとりぼ ） 後光 （ ごこう ）
往来のものは右へ左へ行く。往来の店は客を迎え客を送る。電車は出来るだけ人を載 （ の ） 街 （ ちまた ） 喪家 （ そうか ）
小春の日に温 （ ぬく ） 披露 （ ひろう ）
愛は偏狭 （ へんきょう ） 嫌 （ きら ） 情 （ じょう ） 挙 （ あ ） 博 （ ひろ ） 衆生 （ しゅじょう ） 潤 （ うる ） 抛 （ なげう ） 賓格 （ ひんかく ） 会 （ かい ） 和楽 （ わらく ） 麾 （ さしまね ） 厭 （ いと ） 赴 （ おもむ ） 鳧雁 （ ふがん ） 類 （ るい ）
円満なる愛は触るるところのすべてを円満にす。二人の愛は曇り勝ちなる時雨 （ しぐれ ） 翳 （ かざ ） 明 （ あきら ）
杉の葉の青きを択 （ えら ） 装 （ よそお ） 頭 （ かしら ） 平 （ たいら ） 続 （ つ ） 厳 （ おごそか ） 潜 （ くぐ ） 和 （ やわら ）
裂けば煙 （ けぶ ） 蜜柑 （ みかん ） 小春 （ こはる ） 珠 （ たま ） 綴 （ つづ ） 旭日 （ あさひ ） 岡 （ おか ） 射 （ い ） 万顆 （ ばんか ） 黄玉 （ こうぎょく ） 耀 （ かがや ） 偸 （ ぬす ） 香 （ かお ） 掟 （ おきて ）
緑門 （ アーチ ） 一分 （ いちぶ ） 朋友 （ ほうゆう ） 共白髪 （ ともしらが ） 耽 （ ふけ ）
男は黒き上着に縞 （ しま ） 洋袴 （ ズボン ） 穿 （ は ） 欺 （ あざむ ） 手拭 （ ハンケチ ） 漂 （ ただよ ） 裾 （ すそ ） 華 （ はな ） 浪 （ なみ ）
日は明かに女の頸筋 （ くびすじ ） 角 （ かど ） 咽喉 （ のど ） 判然 （ はっき ） 輪廓 （ りんかく ） 紫 （ むらさき ） 一朶 （ いちだ ） 束 （ つか ） 額際 （ ひたいぎわ ） 深紅 （ しんく ） 七宝 （ しっぽう ） 鏤 （ ちりば ） 簪 （ かんざし ）
愛は堅きものを忌 （ い ） 溶化 （ ようか ） 耀 （ かがや ） 自 （ みず ） 溶 （ と ） 双眸 （ そうぼう ） 漂 （ ただよ ） 恍惚 （ こうこつ ） 逍遥 （ しょうよう ） 陶然 （ とうぜん ）
「高柳さんはいらっしゃるでしょうか」と女が小さな声で聞く。
「え？」と男は耳を持ってくる。園内では楽隊が越後獅子 （ えちごじし ） 這入 （ はい ）
「そうさね。忘れていた」と男が云う。
「もうだいぶ御客さまがいらしったから、向 （ むこう ）
「そうさね。もう行く方がいいだろう。しかし高柳がくると可哀想 （ かわいそう ）
「ここにいらっしゃらないとですか」
「うん。あの男は、わたしが、ここに見えないと門まで来て引き返すよ」
「なぜ？」
「なぜって、こんな所へ来た事はないんだから――一人で一人坊 （ ひとりぼ ） 潜 （ くぐ ）
「いらっしゃるんでしょうね」
「来るよ、わざわざ行って頼んだんだから、いやでも来ると約束すると来ずにいられない男だからきっとくるよ」
「御厭 （ おいや ）
「厭って、なに別に厭な事もないんだが、つまりきまりがわるいのさ」
「ホホホホ妙ですわね」
きまりのわるいのは自信がないからである。自信がないのは、人が馬鹿にすると思うからである。中野君はただきまりが悪いからだと云う。細君はただ妙ですわねと思う。この夫婦は自分達のきまりを悪 （ わ ） 境界 （ きょうがい ） 性分 （ しょうぶん ） 生涯 （ しょうがい ）
「いらっしゃるなら、ここにいて上げる方がいいでしょう」
「来る事は受け合うよ。――いいさ、奥はおやじや何かだいぶいるから」
愛は善人である。善人はその友のために自家の不都合を犠牲にするを憚 （ はば ）
馬車の客、車の客の間に、ただ一人高柳君は蹌踉 （ そうろう ） 漲 （ みなぎ ） 面 （ おもて ） 湛 （ たた ） 享 （ う ） 窮陰 （ きゅういん ） 面 （ ま ）
富と勢 （ いきおい ） 跋扈 （ ばっこ ） 球 （ きゅう ） 極 （ きわ ） 甲斐 （ がい ） 友誼 （ ゆうぎ ） 分 （ ぶ ） 憐 （ あわ ） 贅沢 （ ぜいたく ）
夫婦が高柳君と顔を見合せた時、夫婦共「これは」と思った。高柳君が夫婦と顔を見合せた時、同じく「これは」と思った。
世の中は「これは」と思った時、引き返せぬものである。高柳君は蹌踉 （ そうろう ）
「やあ、よく来てくれた。あまり遅いから、どうしたかと思って心配していたところだった」偽 （ いつわ ）
「早く来 （ こ ） 喧嘩 （ けんか ） 朋友 （ ほうゆう ） 崩 （ くず ） 愛想 （ あいそ ）
「これが妻 （ さい ） 一人坊 （ ひとりぼ ） 嬉 （ うれ ） 頓着 （ とんじゃく ）
何にも云わぬ細君はただしとやかに頭を下げた。高柳君はぼんやりしている。
「さあ、あちらへ――僕もいっしょに行こう」と歩を運 （ めぐ ） 胡麻塩 （ ごましお ）
「や、どうもみごとな御庭ですね。こう広くはあるまいと思ってたが――いえ始めてで。おとっさんから時々御招きはあったが、いつでも折悪しく用事があって――どうも、よく御手入れが届いて、実に結構ですね……」
と胡麻塩はのべつに述べたてて容易に動かない。ところへまた二三人がやってくる。
「結構だ」「何坪ですかな」「私も年来この辺 （ へん ） 捲 （ ま ） 憮然 （ ぶぜん ）
すると向うから、襷 （ たすき ） 塩瀬 （ しおぜ ） 五 （ いつ ） 紋 （ もん ）
「さあ、いらっしゃい」
「いらっしゃいたって、もうほかで御馳走 （ ごちそう ）
「ずるいわ、あなたは、他 （ ひと ） 馳 （ か ）
「旨 （ うま ）
「あるわよ、あなた。まあいいからいらっしゃいてえのに」とぐいぐい引っ張る。塩瀬 （ しおぜ ） 途端 （ とたん ） 粗忽 （ そこつ ） 面相 （ めんそう ）
「やあ、こりゃ」と上からさげすむように云って、しかも立って見ている。
「いらっしゃいよ。いいからいらっしゃいよ。構わないでも、いいからいらっしゃいよ」と女は高柳君を後目 （ しりめ ）
高柳君はぽつぽつ歩き出した。若夫婦は遥 （ はる ） 遮 （ さえぎ ） 芝生 （ しばふ ） 天幕 （ テント ） 覗 （ のぞ ） 鉢 （ はち ） 端 （ はじ ） 反 （ そ ） 背筋 （ せすじ ） 片 （ ひら ） 玻璃盤 （ はりばん ） 堆 （ うずた ） 林檎 （ りんご ） 卓布 （ たくふ ） 鮮 （ あざ ） 傍 （ そば ） 被 （ かぶ ） 相好 （ そうごう ） 崩 （ くず ）
「妙だよ。実に」と一人が云う。
「珍だね。全く田舎者 （ いなかもの ）
高柳君はじっと二人を見た。一人は胸開 （ むねあき ） 胴衣 （ チョッキ ） 肘 （ ひじ ） 杖 （ つえ ） 言訳 （ いいわけ ） 護謨 （ ゴム ） 爪先 （ つまさき ） 竪 （ たて ） 支 （ ささ ）
「まるで給仕人 （ ウェーター ）
高柳君は自分の事を云うのかと思った。すると色胴衣が
「本当にさ。園遊会に燕尾服 （ えんびふく ） 相鎚 （ あいづち ）
芝生の行き当りに葭簀掛 （ よしずが ） 踊舞台 （ おどりぶたい ） 庇 （ ひさし ） 毛氈 （ もうせん ） 弾 （ ひ ） 唄 （ うた ） 金紙 （ きんがみ ） 烏帽子 （ えぼし ） 被 （ かぶ ） 棹 （ さお ） 舞扇 （ まいおうぎ ） 袖 （ そで ） 翳 （ かざ ） 身振 （ しな ） 朝妻船 （ あさづまぶね ） 貼 （ は ） 後 （ うし ） 眺 （ なが ）
舞台を左へ切れると、御影 （ みかげ ） 向 （ むこう ） 築山 （ つきやま ） 傍手 （ わきて ） 暖簾 （ のれん ）
そろそろと天幕 （ テント ） 覗 （ のぞ ） 埋 （ うずま ）
しばらく様子を窺 （ うかが ） 迷子 （ まいご ） 疳違 （ かんちがい ） 這入 （ はい ）
皿だけ高く差し上げて人と人の間を抜けて来たものがある。
「さあ、御上 （ おあが ） 後 （ うし ） 桃色縮緬 （ ももいろちりめん ）
傍にいた紳士が、天幕の隅 （ すみ ） 椅子 （ いす ）
「さあこの上へ御乗せなさい」と令嬢の前に据 （ す ） 倚 （ よ ） 煙草 （ たばこ ）
「葉巻はやめたのかい」
「うん、頭にわるいそうだから――しかしあれを呑 （ の ） 好 （ い ） 奴 （ やつ ）
「そりゃ、価段 （ ねだん ）
「君は何を呑むのだい」
「これを一つやって見たまえ」と洋服が鰐皮 （ わにがわ ）
「なるほどエジプシアンか。これは百本五六円するだろう」
「安い割にはうまく呑めるよ」
「そうか――僕も紙巻でも始めようか。これなら日に二十本ずつにしても二十円ぐらいであがるからね」
二十円は高柳君の全収入である。この紳士は高柳君の全収入を煙 （ けむ ）
高柳君はまた左へ四尺ほど進んだ。二三人話をしている。
「この間ね、野添 （ のぞえ ） 禿 （ は ）
「うん。ありゃ当ったね。旨 （ うま ）
「君も賛成者のうちに名が見えたじゃないか」と胡麻塩頭 （ ごましおあたま ） 最前 （ さいぜん ） 強奪 （ ごうだつ ）
「それさ」と今度は禿げの番である。「野添が、どうです少し持ってくれませんかと云うから、さようさ、わたしは今回はまあよしましょうと断わったのさ。ところが、まあ、そう云わずと、せめて五百株でも、実はもう貴所 （ あなた ） 挨拶 （ あいさつ ） 上 （ あが ）
「そりゃ豪勢だ、実は僕も少し持とうと思ってたんだが」と四角が云うと
「ありゃ実際意外だった。あんなに、とんとん拍子 （ びょうし ） 胡麻塩 （ ごましお ） 掻 （ か ）
「もう少し踏み込んで沢山僕の名にして置けばよかった」と禿 （ はげ ）
高柳君は恐る恐る三人の傍 （ そば ） 逢 （ あ ） 袖 （ そで ）
「近頃は出掛けるかね」と云う声がする。仙台平 （ せんだいひら ） 白足袋 （ しろたび ） 鼠緒 （ ねずお ） 雪駄 （ せった ） 恰好 （ がっこう ）
「昨日須崎 （ すさき ） 種田家 （ たねだけ ） 鴨猟 （ かもりょう ） 五分刈 （ ごぶがり ）
「鴨にはまだ早いだろう」
「もういいね。十羽ばかり取ったがね。僕が十羽、大谷 （ おおたに ） 加瀬 （ かせ ） 山内 （ やまのうち ）
「じゃ君が一番か」
「いいや、斎藤は十五羽だ」
「へえ」と仙台平は感心している。
同期の卒業生は多いなかに、たった五六人しか見えん。しかもあまり親しくないものばかりである。高柳君は挨拶だけして別段話もしなかったが、今となって見ると何だか恋しい心持ちがする。どこぞにおりはせぬかと見廻したが影も見えぬ。ことによると帰ったかも知れぬ。自分も帰ろう。
主客 （ しゅかく ） 主 （ しゅ ） 客 （ かく ） 物我 （ ぶつが ） 境 （ きょう ） 分劃 （ ぶんかく ） 便宜 （ べんぎ ） 強 （ し ） 立 （ りっ ） 吾人 （ ごじん ） 故 （ ゆえ ） 独 （ ひと ） 擺脱 （ はいだつ ） 迷 （ まよい ） 刹那 （ せつな ） 膠着 （ こうちゃく ） 太刀 （ たち ） 揮 （ ふる ）
蹌踉 （ そうろう ） 潜 （ くぐ ） 出 （ いで ） 環 （ わ ） 天幕 （ テント ） 奇麗 （ きれい ）
夫婦の方では高柳をさがしている。
「時に高柳はどうしたろう。御前 （ おまえ ） 逢 （ あ ）
「いいえ。あなたは」
「おれは逢わない」
「もう御帰りになったんでしょうか」
「そうさ、――しかし帰るなら、ちっとは帰る前に傍 （ そば ）
「なぜ皆さんのいらっしゃる所へ出ていらっしゃらないのでしょう」
「損だね、ああ云う人は。あれで一人じゃやっぱり不愉快なんだ。不愉快なら出てくればいいのになおなお引き込んでしまう。気の毒な男だ」
「せっかく愉快にしてあげようと思って、御招きするのにね」
「今日は格別色がわるかったようだ」
「きっと御病気ですよ」
「やっぱり一人坊 （ ひとりぼ ）
高柳君は往来をあるきながら、ぞっと悪寒 （ おかん ） 催 （ もよお ）
道也 （ どうや ） 煤竹 （ すすだけ ） 丸火桶 （ まるひおけ ） 擁 （ よう ） 木枯 （ こがらし ）
「あなた」と次の間 （ ま ） 紬 （ つむぎ ） 襟 （ えり ）
「何だ」とこっちを向く。机の前におりながら、終日 （ しゅうじつ ） 木枯 （ こがらし ） 吹 （ ふ ） 曝 （ さら ）
「本は売れたのですか」
「まだ売れないよ」
「もう一ヵ月も立てば百や弐百の金は這入 （ はい ）
「うん言った。言ったには相違ないが、売れない」
「困るじゃござんせんか」
「困るよ。御前 （ おまえ ）
「だって、あんなに骨を折って、三百枚も出来てるものを――」
「三百枚どころか四百三十五頁ある」
「それで、どうして売れないんでしょう」
「やっぱり不景気なんだろうよ」
「だろうよじゃ困りますわ。どうか出来ないでしょうか」
「南溟堂 （ なんめいどう ） 足立 （ あだち ）
「借金は借りるんだから保証人もいるでしょうが――」と妻君頭のなかへ人指 （ ひとさし ） 掻 （ か ） 束髪 （ そくはつ ）
「近頃の本は借金同様だ。信用のないものは連帯責任でないと出版が出来ない」
「本当につまらないわね。あんなに夜遅くまでかかって」
「そんな事は本屋の知らん事だ」
「本屋は知らないでしょうさ。しかしあなたは御存じでしょう」
「ハハハハ当人は知ってるよ。御前も知ってるだろう」
「知ってるから云うのでさあね」
「言ってくれても信用がないんだから仕方がない」
「それでどうなさるの」
「だから足立の所へ持って行ったんだよ」
「足立さんが書いてやるとおっしゃって」
「うん、書くような事を云うから置いて来たら、またあとから書けないって断わって来た」
「なぜでしょう」
「なぜだか知らない。厭 （ いや ）
「それであなたはそのままにして御置きになるんですか」
「うん、書かんのを無理に頼む必要はないさ」
「でもそれじゃ、うちの方が困りますわ。この間御兄 （ おあにい ）
「おれもその方を埋 （ う ）
「馬鹿馬鹿しいのね。何のために骨を折ったんだか、分りゃしない」
道也先生は火桶 （ ひおけ ） 炭団 （ たどん ） 火箸 （ ひばし ） 突 （ つっ ） 木枯 （ こがらし ） 障子 （ しょうじ ） 紙鳶 （ たこ ）
「あなた、いつまでこうしていらっしゃるの」と細君は術 （ じゅつ ）
「いつまでとも考はない。食えればいつまでこうしていたっていいじゃないか」
「二言目 （ ふたことめ ）
「そんなに心配するのかい」
細君はむっとした様子である。
「だって、あなたも、あんまり無考 （ むかんがえ ） 断 （ ことわ ） 頑固 （ がんこ ）
「その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい」
「食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「だって食べられないんですもの」
「たべられるよ」
「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性 （ しょう ）
「よくそんな事がわかるな」
細君は俯向 （ うつむ ） 袂 （ たもと ）
「私ばかりじゃ、ありませんわ。御兄 （ おあにい ）
「御前は兄の云う事をそう信用しているのか」
「信用したっていいじゃありませんか、御兄さんですもの、そうして、あんなに立派にしていらっしゃるんですもの」
「そうか」と云ったなり道也先生は火鉢 （ ひばち ） 掻 （ か ） 釘 （ くぎ ） 真鍮 （ しんちゅう ） 火箸 （ ひばし ） 抛 （ ほう ）
庭には何にもない。芭蕉 （ ばしょう ） 剥 （ む ） 蓆 （ むしろ ） 捲 （ ま ） 反 （ そ ） 面 （ おもて ） 眺 （ なが ）
「だいぶ吹いてるな」と独語 （ ひとりごと ）
「もう一遍足立さんに願って御覧になったらどうでしょう」
「厭 （ いや ）
「あなたは、それだから困るのね。どうせ、あんな、豪 （ えら ） 方 （ かた ）
「あんな豪い方って――足立がかい」
「そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――しかし向 （ むこう ）
「そうか、それじゃおおせに従って、もう一返 （ いっぺん ） 袴 （ はかま ）
道也先生は例のごとく茶の千筋 （ せんすじ ） 嘉平治 （ かへいじ ） 木枯 （ こがらし ） 飄然 （ ひょうぜん ）
思う事積んでは崩 （ くず ） 炭火 （ すみび ） 丸火桶 （ まるひおけ ） 至善 （ しぜん ）
立ってもおらぬ、坐ってもおらぬ、細君の腰は宙に浮いて、膝頭 （ ひざがしら ） 縁 （ ふち ） 坐 （ す ） 中途半把 （ ちゅうとはんぱ ）
考えると嫁に来たのは間違っている。娘のうちの方が、いくら気楽で面白かったか知れぬ。人の女房はこんなものと、誰か教えてくれたら、来ぬ前によすはずであった。親でさえ、あれほどに親切を尽してくれたのだから、二世 （ にせ ） 契 （ ちぎ ） 掟 （ おきて ） 家 （ いえ ） 家 （ うち ） 母 （ っか ） 目的 （ あて ）
細君は赤い炭団 （ たどん ） 剥 （ む ） 火箸 （ ひばし ） 突 （ つ ） 崩 （ くず ） 突 （ つっ ） 壊 （ こわ ）
今から考えて見ると嫁に来た時の覚悟が間違っている。自分が嫁に来たのは自分のために来たのである。夫のためと云う考はすこしも持たなかった。吾 （ わ ） 祝言 （ しゅうげん ） 盃 （ さかずき ） 高砂 （ たかさご ） 怒 （ おこ ）
道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それはこっちで云いたい事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、したがって夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。だから夫に自分の云う通りになれと云う。夫はけっして聞き入れた事がない。家庭の生涯 （ しょうがい ） 治 （ おさ ） 思 （ おもい ） 訳 （ わけ ） 甲斐 （ かい ） 枯芭蕉 （ かればしょう ）
表に案内がある。寒そうな顔を玄関の障子から出すと、道也の兄が立っている。細君は「おや」と云った。
道也の兄は会社の役員である。その会社の社長は中野君のおやじである。長い二重廻しを玄関へ脱いで座敷へ這入 （ はい ）
「だいぶ吹きますね」と薄い更紗 （ さらさ ） 額 （ ひたい ） 逆 （ さか ） 撫 （ な ）
「御寒いのによく」
「ええ、今日は社の方が早く引けたものだから……」
「今御帰り掛けですか」
「いえ、いったんうちへ帰ってね。それから出直して来ました。どうも洋服だと坐ってるのが窮屈で……」
兄は糸織の小袖 （ こそで ） 鉄御納戸 （ てつおなんど ） 博多 （ はかた ）
「今日は――留守ですか」
「はあ、たった今しがた出ました。おっつけ帰りましょう。どうぞ御緩 （ ごゆっ ）
「もう御構 （ おかまい ） 翳 （ かざ ）
「だんだん押し詰りましてさぞ御忙 （ おいそ ）
「へ、ありがとう。毎年暮になると大頭痛、ハハハハ」と笑った。世の中の人はおかしい時ばかり笑うものではない。
「でも御忙がしいのは結構で……」
「え、まあ、どうか、こうかやってるんです。――時に道也はやはり不相変 （ あいかわらず ）
「ありがとう。この方はただ忙がしいばかりで……」
「結構でないかね。ハハハハ。どうも困った男ですねえ、御政 （ おまさ ） 訳 （ わけ ）
「どうも御心配ばかり懸 （ か ）
「そうでしょう、私 （ わたし ） 傍 （ そば ）
「ごもっともでございますとも。みんな当人のためにおっしゃって下さる事ですから……」
「田舎 （ いなか ）
「あれが全く心配で、私もあのためには、どんなに苦労したか分りません」
「そうでしょうとも。わたしも、そりゃよく御察し申しているんです」
「ありがとうございます。いろいろ御厄介 （ ごやっかい ）
「東京へ来てからでも、こんなくだらん事をしないでも、どうにでも成るんでさあ。それをせっかく云ってやると、まるで取り合わない。取り合わないでもいいから、自分だけ立派にやって行けばいい」
「それを私も申すのでござんすけれども」
「いざとなると、やっぱりどうかしてくれと云うんでしょう」
「まことに御気の毒さまで……」
「いえ、あなたに何も云うつもりはない。当人がさ。まるで無鉄砲ですからね。大学を卒業して七八年にもなって筆耕 （ ひっこう ） 真似 （ まね ）
「自分だけはあれでなかなかえらいつもりでおりますから」
「ハハハハえらいつもりだって。いくら一人でえらがったって、人が相手にしなくっちゃしようがない」
「近頃は少しどうかしているんじゃないかと思います」
「何とも云えませんね。――何でもしきりに金持やなにかを攻撃するそうじゃありませんか。馬鹿ですねえ。そんな事をしたってどこが面白い。一文にゃならず、人からは擯斥 （ ひんせき ） 錆 （ さび ）
「少しは人の云う事でも聞いてくれるといいんですけれども」
「しまいにゃ人にまで迷惑をかける。――実はね、きょう社でもって赤面しちまったんですがね。課長が私 （ わたし ） 無暗 （ むやみ ）
「まあどうも。どうしてそんな事が知れましたんでしょう」
「そりゃ、会社なんてものは、それぞれ探偵が届きますからね」
「へえ」
「なに道也なんぞが、何をかいたって、あんな地位のないものに世間が取り合う気遣 （ きづかい ） 放 （ ほう ）
「ごもっともで」
「それで実は今日は相談に来たんですがね」
「生憎 （ あいにく ）
「なに当人はいない方がかえっていい。あなたと相談さえすればいい。――で、わたしも今途中でだんだん考えて来たんだが、どうしたものでしょう」
「あなたから、とくと異見 （ いけん ）
「そうなればいいですとも。あなたも仕合 （ しあわ ） 異見 （ いけん ）
「そうでござんすね。あの様子じゃ、とても駄目でございましょうか」
「わたしの鑑定じゃ、とうてい駄目だ。――それでここに一つの策があるんだが、どうでしょう当人の方から雑誌や新聞をやめて、教師になりたいと云う気を起させるようにするのは」
「そうなれば私は実にありがたいのですが、どうしたら、そう旨 （ うま ）
「あのこの間中 （ あいだじゅう ）
「まだそのままになっております」
「まだ売れないですか」
「売れるどころじゃございません。どの本屋もみんな断わりますそうで」
「そう。それが売れなけりゃかえって結構だ」
「え？」
「売れない方がいいんですよ。――で、せんだってわたしが周旋した百円の期限はもうじきでしょう」
「たしかこの月の十五日だと思います」
「今日が十一日だから。十二、十三、十四、十五、ともう四日 （ よっか ）
「ええ」
「あの方を手厳 （ てきび ） 体 （ たい ） 工面 （ くめん ）
「いいえ、ちっともございません」
「じゃ大丈夫、その方でだんだん責めて行く。――いえ、わたしは黙って見ている。証文の上の貸手が催促に来るのです。あなたも済 （ すま ） 一言 （ ひとこと ） 頑固 （ がんこ ） 抑 （ おさ ） 向 （ むこう ） 否 （ いや ） 御政 （ おまさ ） 法螺 （ ほら ） 性根 （ しょうね ） 入 （ い ） 奔走 （ ほんそう ） 持 （ も ） 懸 （ か ）
「そうなれば私はどんなに安心が出来るか知れません」
「やって見ましょうか」
「何分宜 （ なにぶんよろ ）
「じゃ、それはきまったと。そこでもう一つあるんですがね。今日社の帰りがけに、神田を通ったら清輝館 （ せいきかん ） 吃驚 （ びっくり ）
「何の広告でござんす」
「演説の広告なんです。――演説の広告はいいが道也が演説をやるんですぜ」
「へえ、ちっとも存じませんでした」
「それで題が大きいから面白い、現代の青年に告ぐと云うんです。まあ何の事やら、あんなものの云う事を聞きにくる青年もなさそうじゃありませんか。しかし剣呑 （ けんのん ） 好 （ い ）
「何の演説をやるつもりでござんしょう。そんな事をやるとまた人様 （ ひとさま ）
「どうせまた過激な事でも云うのですよ。無事に済めばいいが、つまらない事を云おうものなら取って返しがつかないからね。――どうしてもやめさせなくっちゃ、いけないね」
「どうしたらやめるでござんしょう」
「これもよせったって、頑固 （ がんこ ） 気遣 （ きづかい ） 欺 （ だま ）
「どうして欺したらいいでしょう」
「そうさ。あした時刻にわたしが急用で逢 （ あ ）
「そうでござんすね。それで、あなたの方へ参るようだと宜 （ よろ ）
「聞かないかも知れませんね。聞かなければそれまでさ」
初冬 （ はつふゆ ）
今日もまた風が吹く。汁気 （ しるけ ） 乾鮭 （ からさけ ）
「御兄 （ おあにい ） 体 （ たい ）
「待ってるかい」
「ええ」
道也は封を切って手紙を読み下す。やがて、終りから巻き返して、再び状袋のなかへ収めた。何にも云わない。
「何か急用ででもござんすか」
道也は「うん」と云いながら、墨を磨 （ す ） 認 （ したた ）
「何の御用ですか」
「ええ？ ちょっと待った。書いてしまうから」
返事はわずか五六行である。宛名 （ あてな ）
「何の御用なんですか」
「何の用かわからない。ただ、用があるから、すぐ来てくれとかいてある」
「いらっしゃるでしょう」
「おれは行かれない。なんならお前行って見てくれ」
「私が？ 私は駄目ですわ」
「なぜ」
「だって女ですもの」
「女でも行かないよりいいだろう」
「だって。あなたに来いと書いてあるんでしょう」
「おれは行かれないもの」
「どうして？」
「これから出掛けなくっちゃならん」
「雑誌の方なら、一日ぐらい御休みになってもいいでしょう」
「編輯 （ へんしゅう ）
「演説を？ あなたがですか？」
「そうよ、おれがやるのさ。そんなに驚ろく事はなかろう」
「こんなに風が吹くのに、よしになさればいいのに」
「ハハハハ風が吹いてやめるような演説なら始めからやりゃしない」
「ですけれども滅多 （ めった ）
「滅多な事とは。何がさ」
「いいえね。あんまり演説なんかなさらない方が、あなたの得 （ とく ）
「なに得な事があるものか」
「あとが困るかも知れないと申すのです」
「妙な事を云うね御前は。――演説をしちゃいけないと誰か云ったのかね」
「誰がそんな事を云うものですか。――云いやしませんが、御兄 （ おあにい ）
「それじゃ演説をやめなくっちゃならない」
「急に差支 （ さしつかえ ）
「今さらそんな不義理が出来るものか」
「では御兄さんの方へは不義理をなすっても、いいとおっしゃるんですか」
「いいとは云わない。しかし演説会の方は前からの約束で――それに今日の演説はただの演説ではない。人を救うための演説だよ」
「人を救うって、誰を救うのです」
「社のもので、この間の電車事件を煽動 （ せんどう ） 嫌疑 （ けんぎ ） 陥 （ おちい ）
「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから……」
「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ」
「だって、もしあなたが、その人のようになったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、ちっとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」
道也先生はしばらく沈吟 （ ちんぎん ）
例の袴 （ はかま ） 支度 （ したく ）
清輝館 （ せいきかん ）
講演者は四名、聴衆は三百名足らずである。書生が多い。その中に文学士高柳周作がいる。彼はこの風の中を襟巻 （ えりまき ） 咳 （ せき ） 上 （ あが ） 寂寞 （ せきばく ）
「……文士保護は独立しがたき文士の言う事である。保護とは貴族的時代に云うべき言葉で、個人平等の世にこれを云々 （ うんぬん ） 極 （ きょく ） 喝采 （ かっさい ） 薩摩絣 （ さつまがすり ）
「今のが、黒田東陽 （ くろだとうよう ）
「うん」
「妙な顔だな。もっと話せる顔かと思った」
「保護を受けたら、もう少し顔らしくなるだろう」
高柳君は二人を見た。二人も高柳君を見た。
「おい」
「何だ」
「いやに睨 （ にら ）
「おっかねえ」
「こんだ誰の番だ。――見ろ見ろ出て来た」
「いやに、ひょろ長いな。この風にどうして出て来たろう」
ひょろながい道也先生は綿服 （ めんぷく ） 金釘 （ かなくぎ ） 曝 （ さら ） 古瓢箪 （ ふるびょうたん ） 独 （ ひと ） 粛然 （ しゅくぜん ） 襟 （ えり ）
「自己は過去と未来の連鎖 （ れんさ ）
道也先生の冒頭は突如として来た。聴衆はちょっと不意撃 （ ふいうち ）
「過去を未来に送り込むものを旧派と云い、未来を過去より救うものを新派と云うのであります」
聴衆はいよいよ惑 （ まど ） 寸 （ すん ） 隙 （ すき ） 嘲殺 （ ちょうさつ ） 角力 （ すもう ） 呼吸 （ こきゅう ） 放 （ ほう ） 鎌首 （ かまくび ）
「自己のうちに過去なしと云うものは、われに父母 （ ふぼ ） 明瞭 （ めいりょう ） 父母 （ ふぼ ） 吾人 （ ごじん ）
聴衆は依然として、だまっている。あるいは煙 （ けむ ） 捲 （ ま ）
「文芸復興は大 （ だい ） 浪漫派 （ ろうまんは ） 耶蘇教徒 （ ヤソきょうと ） 基督 （ キリスト ） 古 （ いにし ） 儒者 （ じゅしゃ ） 孔子 （ こうし ） 昔 （ いにし ）
「もうわかった」と叫ぶものがある。
「なかなかわかりません」と道也先生が云う。聴衆はどっと笑った。
「袷 （ あわせ ） 単衣 （ ひとえもの ） 慎 （ つつ ） 飄 （ ひょう ）
「六 （ む ）
「それはわからんでも差支 （ さしつかえ ） 吾々 （ われわれ ）
「ノー、ノー」と云うものがある。
「どこかでノー、ノーと云う声がする。わたしはその人に賛成である。そう云う人があるだろうと思うて待っていたのである」
聴衆はまた笑った。
「いや本当に待っていたのである」
聴衆は三たび鬨 （ とき ） 揚 （ あ ）
「私 （ わたし ） 眼鏡 （ めがね ） 愛宕山 （ あたごやま ） 這入 （ はい ） 齷齪 （ あくせく ） 一弾指 （ いちだんし ） 間 （ かん ） 敲 （ たた ）
「政治家は一大事業をしたつもりでいる。学者も一大事業をしたつもりでいる。実業家も軍人もみんな一大事業をしたつもりでいる。したつもりでいるがそれは自分のつもりである。明治四十年の天地に首を突き込んでいるから、したつもりになるのである。――一弾指の間に何が出来る」
今度は誰も笑わなかった。
「世の中の人は云うている。明治も四十年になる、まだ沙翁 （ さおう ） 愚痴 （ ぐち ）
「もうでるぞ」と叫んだものがある。
「もうでるかも知れん。しかし今までに出ておらん事は確かである。――一言にして云えば」と句を切った。満場はしんとしている。
「明治四十年の日月 （ じつげつ ） 語 （ ご ） 換 （ か ） 吾人 （ ごじん ） 有 （ も ） 昼夜 （ ちゅうや ） 舎 （ す ） 老耄 （ ろうもう ） 則 （ のっ ）
聴衆のうちにそうかなあと云う顔をしている者がある。
「先例のない社会に生れたものほど自由なものはない。余は諸君がこの先例のない社会に生れたのを深く賀するものである」
「ひや、ひや」と云う声が所々 （ しょしょ ）
「そう早合点 （ はやがてん ） 享 （ う ） 大 （ だい ）
言い切った道也先生は、両手を机の上に置いて満場を見廻した。雷 （ らい ） 気合 （ けあい ）
「個人について論じてもわかる。過去を顧 （ かえり ） 半白 （ はんぱく ） 大 （ だい ） 恋々 （ れんれん ） 吾人 （ ごじん ） 男 （ だん ）
「大気燄 （ だいきえん ） 薩摩絣 （ さつまがすり ）
「文学に紅葉氏一葉氏を顧みる時代ではない。これらの人々は諸君の先例になるがために生きたのではない。諸君を生むために生きたのである。最前 （ さいぜん ） 差支 （ さしつかえ ） 大 （ おおい ） 後 （ うし ） 気遣 （ きづか ） 思 （ おもい ） 極 （ きわ ）
満場は何となくどよめき渡った。
「なぜ初期のものが先例にならん？ 初期はもっとも不秩序の時代である。偶然の跋扈 （ ばっこ ） 僥倖 （ ぎょうこう ） 勢 （ いきおい ） 揚 （ あ ） 由 （ よ ） 遥 （ はる ） 祖述 （ そじゅつ ） 波瀾 （ はらん ） 自 （ みず ）
「以上は明治の天下にあって諸君の地位を説明したのである。かかる愉快な地位に立つ諸君はこの愉快に相当する理想を養わねばならん」
道也先生はここにおいて一転語 （ いってんご ）
「理想は魂である。魂は形がないからわからない。ただ人の魂の、行為に発現するところを見て髣髴 （ ほうふつ ） 在 （ あ ）
あるものは不平な顔をした。しかしだまっている。
「学校に在って教師を理想とする事が出来ますか」
「ノー、ノー」
「社会に在って紳士を理想とする事が出来ますか」
「ノー、ノー」
「事実上諸君は理想をもっておらん。家に在っては父母を軽蔑 （ けいべつ ） 大 （ だい ） 滔々 （ とうとう ）
聴衆は少しく色めいた。「失敬な」とつぶやくものがある。道也先生は昂然 （ こうぜん ） 睥睨 （ へいげい ）
「英国風を鼓吹 （ こすい ） 憚 （ はば ） 己 （ おの ） 暴露 （ ばくろ ） 出 （ いで ） 脳裏 （ のうり ） 醗酵 （ はっこう ）
「諸君。理想は諸君の内部から湧 （ わ ） 付焼刃 （ つけやきば ）
道也先生はひやかされるなら、ひやかして見ろと云わぬばかりに片手の拳骨 （ げんこつ ） 黒木綿 （ くろもめん ） 袴 （ はかま ） 最前 （ さいぜん ）
「理想のあるものは歩くべき道を知っている。大なる理想のあるものは大なる道をあるく。迷子 （ まいご ）
「諸君のうちには、どこまで歩くつもりだと聞くものがあるかも知れぬ。知れた事である。行ける所まで行くのが人生である。誰しも自分の寿命を知ってるものはない。自分に知れない寿命は他人にはなおさらわからない。医者を家業にする専門家でも人間の寿命を勘定する訳には行かぬ。自分が何歳まで生きるかは、生きたあとで始めて言うべき事である。八十歳まで生きたと云う事は八十歳まで生きた事実が証拠立ててくれねばならん。たとい八十歳まで生きる自信があって、その自信通りになる事が明瞭 （ めいりょう ） 黙示 （ もくじ ） 臆測 （ おくそく ） 山師 （ やまし ）
高柳君の隣りにいた薩摩絣 （ さつまがすり ）
「社会は修羅場 （ しゅらじょう ） 前 （ ぜん ） 間 （ あいだ ） 出入 （ しゅつにゅう ） 冒 （ おか ） 斃 （ たお ） 拱手 （ きょうしゅ ） 冀 （ こいねが ） 輩 （ はい ） 躓 （ つまず ） 非業 （ ひごう ） 児 （ じ ） 遥 （ はる ）
「諸君は道を行かんがために、道を遮 （ さえ ） 生涯 （ しょうがい ） 内生命 （ ないせいめい ） 煩悶 （ はんもん ） 辛惨 （ しんさん ） 昨日 （ きのう ） 胸裏 （ きょうり ）
道也先生は、がたつく硝子窓 （ ガラスまど ） 会釈 （ えしゃく ） 捲 （ ま ） 屋 （ や ） 棟 （ むね ） 虚空 （ こくう ） 逃 （ のが ）
「諸君。諸君のどれほどに剛健なるかは、わたしには分らん。諸君自身にも知れぬ。ただ天下後世が証拠だてるのみである。理想の大道 （ たいどう ） 刹那 （ せつな ） 一瞥 （ いちべつ ） 合点 （ がてん ） 行 （ ゆ ） 由 （ よ ）
高柳君は何となくきまりがわるかった。道也の輝やく眼が自分の方に注 （ そそ ） 思 （ おもわ ）
「理想は人によって違う。吾々は学問をする。学問をするものの理想は何であろう」
聴衆は黙然 （ もくねん ）
「学問をするものの理想は何であろうとも――金でない事だけはたしかである」
五六ヵ所に笑声が起る。道也先生の裕福 （ ゆうふく ） 除 （ の ） 徐 （ おもむ ） 袖 （ そで ） 黒木綿 （ くろもめん ）
「随分きたない」と落ちつき払って云った。
笑声 （ しょうせい ） 揉 （ も ） 潰 （ つぶ ）
「せんだって学問を専門にする人が来て、私 （ わたし ） 妻 （ さい ） 溜 （ た ）
「どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問ほど馬鹿気た事はない。学問は学者になるものである。金になるものではない。学問をして金をとる工夫 （ くふう ）
満場はまたちょっとどよめいた。
「一般の世人は労力と金の関係について大 （ だい ） 誤謬 （ ごびゅう ） 丁稚 （ でっち ）
「そうかなあ」と突飛 （ とっぴ ） 奴 （ やつ ） 笑 （ わらい ）
「だから学問のことは学者に聞かなければならん。金が欲しければ町人の所へ持って行くよりほかに致し方はない」
「金が欲しい」とまぜかえす奴が出る。誰だかわからない。道也先生は「欲しいでしょう」と云ったぎり進行する。
「学問すなわち物の理がわかると云う事と生活の自由すなわち金があると云う事とは独立して関係のないのみならず、かえって反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理窟 （ りくつ ） 儲 （ もう ）
何か云うだろうと思って道也先生は二十秒ほど絶句して待っている。誰も何も云わない。
「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚 （ ぐ ） 極 （ きょく ） 贔屓 （ ひいき ） 弁 （ べん ） 己惚 （ うぬぼ ）
「ひや、ひや」「焼くな」「しっ、しっ」だいぶ賑 （ にぎ ）
「自分達は社会の上流に位して一般から尊敬されているからして、世の中に自分ほど理窟 （ りくつ ） 憫然 （ びんぜん ）
高柳君の眼は輝やいた。血が双頬 （ そうきょう ） 上 （ のぼ ）
「訳 （ わけ ） 己惚 （ うぬぼれ ） 済度 （ さいど ） 愛想 （ あいそ ） 豈計 （ あにはか ）
高柳君は胸の苦しみを忘れて、ひやひやと手を打った。隣の薩摩絣 （ さつまがすり ） 嘲弄的 （ ちょうろうてき ） 咳払 （ せきばらい ）
「社会上の地位は何できまると云えば――いろいろある。第一カルチュアーできまる場合もある。第二門閥 （ もんばつ ） 盲目 （ めくら ）
エヘン、エヘンと云う声が散らばって五六ヵ所に起る。高柳君は口を結んで、鼻から呼吸 （ いき ）
「金で相場のきまった男は金以外に融通は利 （ き ） 擁 （ よう ） 幅 （ はば ） 好 （ い ）
高柳君は腰を半分浮かして拍手をした。人間は真似 （ まね ） 好 （ すき ） 勢 （ いきおい ）
「金は労力の報酬である。だから労力を余計にすれば金は余計にとれる。ここまでは世間も公平である。（否 （ いな ） 攫 （ つか ） 好 （ い ） 小商人 （ こあきんど ） 高下 （ こうげ ） 多寡 （ たか ） 目安 （ めやす ）
滔々 （ とうとう ）
「それを金があるからと云うてむやみにえらがるのは間違っている。学者と喧嘩 （ けんか ） 煎 （ せん ）
あまり熱心な滑稽 （ こっけい ）
「そうでしょう――金貨を煎 （ せん ） 下痢 （ げり ）
道也先生はにやにやと笑った。聴衆もおとなしく笑う。
「それで好 （ い ） 嗜好 （ しこう ） 理窟 （ りくつ ） 盲目 （ めくら ） 蛇 （ へび ） 怖 （ お ）
と急に会話調になったのは曲折があった。
「学問のある人、訳のわかった人は金持が金の力で世間に利益を与うると同様の意味において、学問をもって、わけの分ったところをもって社会に幸福を与えるのである。だからして立場こそ違え、彼らはとうてい冒 （ おか ） 尻 （ しり ） 据 （ す ）
「学者がもし金銭問題にかかれば、自己の本領を棄 （ す ） 縄張内 （ なわばりうち ） 這入 （ はい ） 葛藤 （ かっとう ） 初手 （ しょて ） 権能 （ けんのう ） 連 （ つ ） 凹 （ へこ ） 凌雲閣 （ りょううんかく ） 仙人 （ せんにん ）
聴衆は道也の勢 （ いきおい ） 独 （ ひと ） 喝采 （ かっさい ）
「商人が金を儲 （ もう ） 容喙 （ ようかい ） 自 （ みずか ） 醸造 （ じょうぞう ） 主 （ しゅ ） 災 （ わざわい ） 己 （ おの ） 是非共 （ ぜひとも ） 保 （ たも ）
聴衆は一度にどっと鬨 （ とき ） 揚 （ あ ） 大 （ おおい ） 襟巻 （ えりまき ） 甲斐 （ かい ）
道也先生は予言者のごとく凜 （ りん ） 木枯 （ こがらし ） 屋 （ おく ） 撼 （ うご ）
「ちっとは、好 （ い ）
六畳の座敷は、畳がほけて、とんと打ったら夜でも埃 （ ほこ ） 薬瓶 （ くすりびん ） 験温器 （ けんおんき ） 喀血 （ かっけつ ）
「今日はだいぶいい」と床の上に起き返って後 （ うしろ ） 掻巻 （ かいまき ） 背 （ せ ）
中野君は大島紬 （ おおしまつむぎ ） 袂 （ たもと ） 魯西亜皮 （ ロシアがわ ） 巻莨入 （ まきたばこいれ ）
「うん、煙草 （ たばこ ）
「なに構わない。どうせ煙草ぐらいで癒 （ なお ） 憮然 （ ぶぜん ）
「そうでないよ。初 （ はじめ ） 肝心 （ かんじん ） 昨日 （ きのう ）
「今朝来た。暖 （ あった ）
「うん。暖かにしているがいい。この室 （ へや ） 侘 （ わび ） 気 （ げ ） 四方 （ あたり ）
「あの障子 （ しょうじ ） 這入 （ はい ）
「障子だけ張ったって……」
「転地でもしたらどうだい」
「医者もそう云うんだが」
「それじゃ、行くがいい。今朝そう云ったのかね」
「うん」
「それから君は何と答えた」
「何と答えるったって、別に答えようもないから……」
「行けばいいじゃないか」
「行けばいいだろうが、ただはいかれない」
高柳君は元気のない顔をして、自分の膝頭 （ ひざがしら ） 瓦斯双子 （ ガスふたこ ） 端 （ はじ ） 鼠色 （ ねずみいろ ） 食 （ は ） 出 （ だ ）
「それは心配する事はない。僕がどうかする」
高柳君は潤 （ うるおい ）
「僕がどうかするよ。何 （ なん ）
高柳君は自分の心が自分の両眼 （ りょうがん ） 覗 （ のぞ ）
「君に金を借りるのか」
「借りないでもいいさ……」
「貰うのか」
「どうでもいいさ。そんな事を気に掛ける必要はない」
「借りるのはいやだ」
「じゃ借りなくってもいいさ」
「しかし貰う訳には行かない」
「六 （ む ） 奢 （ おご ）
「学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ」
「平生 （ ふだん ）
「そりゃ世話をする方から云えばそうだろう」
「じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい」
「不平はないさありがたいと思ってるくらいだ」
「それじゃ心快 （ こころよ ）
高柳君はしばらく返事をしない。なるほど自分は世の中を不愉快にするために生きてるのかも知れない。どこへ出ても好かれた事がない。どうせ死ぬのだから、なまじい人の情 （ なさけ ）
「君の親切を無 （ む ） 勘弁 （ かんべん ）
「またそんなわからずやを云う。こう云う病気は初期が大切だよ。時期を失 （ しっ ）
「もう、とうに取り返しがつかないんだ」と山の上から飛び下りたような事を云う。
「それが病気だよ。病気のせいでそう悲観するんだ」
「悲観するって希望のないものは悲観するのは当り前だ。君は必要がないから悲観しないのだ」
「困った男だなあ」としばらく匙 （ さじ ） 起 （ た ） 梧桐 （ ごとう ） 坊主 （ ぼうず ） 真直 （ まっすぐ ） 曝 （ さら ）
「淋 （ さび ） 桐 （ きり ）
「この間まで葉が着いてたんだが、早いものだ。裸の桐に月がさすのを見た事があるかい。凄 （ すご ） 景色 （ けしき ）
「そうだろう。――しかし寒いのに夜る起きるのはよくないぜ。僕は冬の月は嫌 （ きらい ） 綾瀬 （ あやせ ） 漕 （ こ ） 銀扇 （ ぎんせん ）
「気楽云ってらあ。銀扇を流すたどうするんだい」
「銀泥 （ ぎんでい ） 奇麗 （ きれい ）
「君の発明かい」
「昔 （ むか ） 通人 （ つうじん ）
「贅沢 （ ぜいたく ）
「君の机の上に原稿があるね。やっぱり地理学教授法か」
「地理学教授法はやめたさ。病気になって、あんなつまらんものがやれるものか」
「じゃ何だい」
「久しく書きかけて、それなりにして置いたものだ」
「あの小説か。君の一代の傑作か。いよいよ完成するつもりなのかい」
「病気になると、なおやりたくなる。今まではひまになったらと思っていたが、もうそれまで待っちゃいられない。死ぬ前に是非書き上げないと気が済まない」
「死ぬ前は過激な言葉だ。書くのは賛成だが、あまり凝 （ こ ） 身体 （ からだ ）
「わるくなっても書けりゃいいが、書けないから残念でたまらない。昨夜 （ ゆうべ ）
「よっぽど書きたいのだと見えるね」
「書きたいさ。これでも書かなくっちゃ何のために生れて来たのかわからない。それが書けないときまった以上は穀潰 （ ごくつぶ ） 厄介 （ やっかい ）
「それで転地するのがいやなのか」
「まあ、そうさ」
「そうか、それじゃ分った。うん、そう云うつもりなのか」と中野君はしばらく考えていたが、やがて
「それじゃ、君は無意味に人の世話になるのが厭 （ いや ）
「どうするんだ」
「君の目下 （ もっか ） 逗子 （ ずし ） 鎌倉 （ かまくら ） 熱海 （ あたみ ） 好 （ すき ） 往 （ い ） 呑気 （ のんき ） 身体 （ からだ ） 作 （ さく ） 望 （ のぞみ ） 叶 （ かな ）
高柳君は膝頭 （ ひざがしら ）
「僕が君の所へ、僕の作を持って行けば、僕の君に対する責任は済む訳なんだね」
「そうさ。同時に君が天下に対する責任の一分 （ いちぶ ）
「じゃ、金を貰おう。貰いっ放しに死んでしまうかも知れないが――いいや、まあ、死ぬまで書いて見よう――死ぬまで書いたら書けない事もなかろう」
「死ぬまでかいちゃ大変だ。暖かい相州辺 （ そうしゅうへん ） 楽 （ らく ）
「うん、よしきっと書いて持って行く。君の金を使って茫然 （ ぼうぜん ）
「そんな済むの済まないのと考えてちゃいけない」
「うん、よし分った。ともかくも転地しよう。明日 （ あした ）
「だいぶ早いな。早い方がいいだろう。いくら早くっても構わない。用意はちゃんと出来てるんだから」と懐中から七子 （ ななこ ） 三折 （ みつお ） 紙幣 （ しへい ）
「ここに百円ある。あとはまた送る。これだけあったら当分はいいだろう」
「そんなにいるものか」
「なにこれだけ持って行くがいい。実はこれは妻 （ さい ） 発議 （ ほつぎ ）
「それじゃ、百円だけ持って行くか」
「持って行くがいいとも。せっかく包んで来たんだから」
「じゃ、置いて行ってくれたまえ」
「そこでと、じゃ明日 （ あす ） 向 （ むこう ）
「そうか、もう帰るか。それじゃ奥さんによろしく」
中野君は欣然 （ きんぜん ）
百円の金は聞いた事がある。が見たのはこれが始めてである。使うのはもちろんの事始めてである。かねてから自分を代表するほどの作物 （ さくぶつ ） 合間 （ あいま ） 執 （ と ） 興 （ きょう ） 催 （ もよお ） 饑 （ うえ ） 寒 （ さむさ ） 容子 （ ようす ） 繋 （ つな ） 秣 （ まぐさ ） 終日 （ しゅうじつ ） 馳 （ か ） おれ にはおれ がある。このおれ を出さないでぶらぶらと死んでしまうのはもったいない。のみならず親の手前世間の手前面目ない。人から土偶 （ でく ） おれ を出す機会がなくて、鈍根 （ どんこん ） 噛 （ か ） 道也 （ どうや ） 綯 （ よ ） 縄 （ なわ ） 纏 （ まと ） 言訳 （ いいわけ ） 貴 （ たっと ）
百円を懐 （ ふところ ） 室 （ へや ） 爽 （ さわや ） 師走 （ しわす ） 市 （ いち ） 黄昏 （ たそがれ ） 神楽坂 （ かぐらざか ） 上 （ あが ） 瓦斯 （ ガス ）
毘沙門 （ びしゃもん ） 提灯 （ ちょうちん ） 褪 （ さ ） 手拭 （ てぬぐい ） 半襷 （ はんだすき ） 寿司 （ すし ） 三馬 （ さんま ） 黒足袋 （ くろたび ） 頬被 （ ほおかぶ ） 懐手 （ ふところで ） 万年筆 （ まんねんふで ）
世は様々だ、今ここを通っているおれは、翌 （ あす ） 寿司屋 （ すしや ）
道也先生に逢 （ あ ） 脳裏 （ のうり ） 門口 （ かどぐち ）
誰か来客のようであるが、せっかく来たのをとわざと遠慮を抜いて「頼む」と声をかけて見た。「どなた」と奥から云うのは先生自身である。
「私です。高柳……」
「はあ、御這入 （ おはい ） 景色 （ けしき ）
高柳君は玄関から客間へ通る。推察の通り先客がいた。市楽 （ いちらく ） 縞 （ しま ） 紋博多 （ もんはかた ） 鈍栗眼 （ どんぐりまなこ ） 挨拶 （ あいさつ ）
「どうしました。だいぶ遅く来ましたね。何か用でも……」
「いいえ、ちょっと――実は御暇乞 （ おいとまごい ）
「御暇乞？ 田舎 （ いなか ） 赴任 （ ふにん ）
間 （ あい ） 襖 （ ふすま ） 御辞儀 （ おじぎ ） 退 （ しりぞ ）
「いえ、少し転地しようかと思いまして」
「それじゃ身体 （ からだ ）
「大した事もなかろうと思いますが、だんだん勧める人もありますから」
「うん。わるけりゃ、行くがいいですとも。いつ？ あした？ そうですか。それじゃまあ緩 （ ゆっ ）
「それで、どうも御気の毒だが――今申す通りの事情だから、少し待ってくれませんか」
「それは待って上げたいのです。しかし私の方の都合もありまして」
「だから利子を上げればいいでしょう。利子だけ取って元金は春まで猶予 （ ゆうよ ）
「利子は今まででも滞 （ とどこお ） 好 （ い ）
「そうはいかんでしょうか」
「せっかくの御頼 （ おたのみ ）
「いけませんか」
「どうもまことに御気の毒で……」
「どうしても、いかんですか」
「どうあっても百円だけ拵 （ こしら ）
「今夜中にですか」
「ええ、まあ、そうですな。昨日 （ きのう ）
「期限の切れたのは知ってるです。それを忘れるような僕じゃない。だからいろいろ奔走して見たんだが、どうも出来ないから、わざわざ君の所へ使をあげたのです」
「ええ、御手紙はたしかに拝見しました。何か御著述があるそうで、それを本屋の方へ御売渡しになるまで延期の御申込でした」
「さよう」
「ところがですて、この金の性質がですて――ただ利子を生ませる目的でないものですから――実は年末には是非入用だがと念を押して御兄 （ おあにい ）
道也先生は黙然 （ もくねん ） 鈍栗 （ どんぐり ） 煙草 （ たばこ ） 呑 （ の ）
「先生」と高柳君が突然横合から口を出した。
「ええ」と道也先生は、こっちを向く。別段赤面した様子も見えない。赤面するくらいなら用談中と云って面会を謝絶するはずである。
「御話し中はなはだ失礼ですが。ちょっと伺っても、ようございましょうか」
「ええ、いいです。何ですか」
「先生は今御著作をなさったと承 （ うけたま ）
「見るなら御覧、待ってるうち、読むのですか」
高柳君は黙っている。道也先生は立って、床の間に積みかさねた書籍の間から、厚さ三寸ほどの原稿を取り出して、青年に渡しながら
「見て御覧」という。表紙には人格論と楷書 （ かいしょ ）
「ありがとう」と両手に受けた青年は、しばしこの人格論の三字をしけじけと眺 （ なが ） 挙 （ あ ）
「君、この原稿を百円に買って上げませんか」
「エヘヘヘヘ。私は本屋じゃありません」
「じゃ買わないですね」
「エヘヘヘ御冗談 （ ごじょうだん ）
「先生」
「何ですか」
「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿？……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」
道也先生は茫然 （ ぼうぜん ）
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
高柳君は懐 （ ふところ ）
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好 （ い ）
愕然 （ がくぜん ） 紛 （ まぎ ） 作物 （ さくぶつ ） 懐 （ ふところ ） 致 （ いた ） 酬 （ むく ）
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後（団体著作物にあっては公表後又は創作後）100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメイン の状態にあります。
Public domain Public domain false false
