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遺書 (尾崎秀実)

他の版の作品については、遺書をご覧ください。


 拝啓

 昨日はおいそがしいところを貴重な時間を割き御引見下され有難う存じました。先生のいつに変らず御元気な御様子をまことに心強く存ぜられました。さてその際先生より私身、後のことについて御示唆がありましたので、遺言と申す程のことはありませんが、家内へ申し伝えたい言葉を先生までお伝え致しおき、小生死後先生よりお伝え願ったらいかがなものかと、ふと心付きましたのでこの手紙を認めました次第でございます。実はこれらのことは家内への手紙にも書きましたのですが、どういうものか家へその書信が到着しておりません。或いは事柄があまりに強く響き過ぎますため、家内のものへ与える衝撃を慮っての検閲者の親切心のためかとも存じますが、ともかく私としても気もちよく語れる事柄でもありませんが、用件には違いありませんから申し残したいと存じます。そんなわけでありますから、どうか先生から家内へお伝えの場合も、小生の死後にお願い致し度く存じます。

一、小生屍体引取りの際は、どうせ大往生ではありませんから、死顔など見ないでほしいということ、楊子はその場合連れて来ないこと。

一、屍体は直ちに火葬場に運ぶこと、なるべく小さな骨壺に入れ家に持参し神棚へでもおいておくこと。

一、乏しい所持金のうちから墓地を買うことなど断じて無用たるべきこと。勿論葬式告別式等一切不用のこと(要するに、私としては英子や楊子、並びに真に私を知ってくれる友人達の記憶の中に生き得ればそれで満足なので、形の上で跡をとどめることは少しも望んでおりません)。

 勿論こうは申しましても、私は死後まで家人の意志を束縛しようというのではありません、寧ろ私の真意は私には何等特別の要求はありません、どうぞ御随意に皆さんで、というところなのでありますが、ただ参考までに申したというところです。将来平和な時期が来て、我が楊子が一本立ちが立派に出来てその上でお母さんと一緒にお父さんのお墓も作ってやろうということにでもなれば、その時はまた喜んでお墓の中にも入りましょう。ただ疎開だ、避難だという場合には骨壺などまで持ち歩く必要はありませんから、それこそ庭の隅にでも埋めて置いてくれて結構です。――その上に白梅の枝でも植えておいてもらえばこの上ありません。

 次に、これは申すまでも無いかと存じますが、英子の行動は今後自由勝手たるべきこと。私は何等特別の注文はありません。楊子の将来についてもこれまでいろいろのことを空想まじりで希望がましく述べたりしましたが、それも今は何等特別の指示は致しません。今後の諸情勢と楊子自体の希望によって決定さるべきものであり、英子と雖も単に親切な助言者以上の役割を努める以外に、自分の意思を強いても無駄であると知るべきでしょう。云うまでもありませんが、私の家を存続するとか、尾崎の名を伝えるとかいう気もありませんから、「養子」などのことはごうも特別考慮の必要ありません。只一つの希望は将来楊子が夫を持つ場合お母さんをも大事にしてくれる人を選んでほしいということだけです。

 私が妻子に只一つ大きな声で叫びたいことは、「一切の過去を忘れよ」「過去を棄てよ」ということです。私が昔からそれとなく云いつたえ、ことに過去二年九カ月にわたって何とかして分からせたいと考えて云ったり書いたりしたことはただそれだけだったのです。お金がもはや頼りにならないことは事実が否応なしに教えた筈です。物と雖もやがて同様です。結局それは過去の残骸です。否そればかりでなく、過去の記憶にすら捉われてはならない時です。一切を棄て切って勇ましく奮い立つもののみ将来に向って生き得るのだということをほんとに腹から知ってもらいたいというのです。

 家内は私の行動があまりに突飛であり自分のことを思わないばかりでなく、妻子の幸福を全然念頭に置かない残酷な行動だったと恨んでいることが手紙の中などからよくうかがわれます。無理からぬことと思います。(家内はもともと消極的な女で実につつましい片隅の家庭生活の幸福だけを私に望んでいたので、所謂私の世間的な出世や華々しい成功などは寧ろ嫌っているのでありました。)だが私には迫り来る時代の姿があまりにもはっきり見えているので、どうしても自分や家庭のことに特別な考慮を払う余裕が無かったのです。というよりもそんなことを考えたとて無駄だ、一途に時代に身を挺して生き抜くことのうちに自分もまた家族たちも大きく生かされることもあろうと真実考えたのでありました。(ここは誠に説明のむつかしいところです。結局「冷暖自知れいだんじち」してもらうより他はないと思います。私はこのころ、真実のことを云おうとすればする程、言葉というものが如何に不完全なものかということを感じて来ました。評論や記事などを書く場合にだけしか言葉というものは役に立たないものだと思いました。)

 私の最後の言葉をも一度繰り返したい。「大きく眼を開いてこの時代を見よ」と。真に時代を洞見するならば、もはや人を羨む必要もなく、また我が家の不幸を嘆くにも当らないであろう。時代を見、時代の理解に徹して行ってくれることは、私の心に最も近づいてくれる所以ゆえんなのだ、これこそは私に対する最大の供養であると、どうぞお伝え下さい。

 この私の切なる叫びが幾分でも妻子の心にとどくならば私は以て瞑します。これ以上何の喜びがありましょう。(このこともまた私の死後機会を見て先生からよく了解の行くようにお話し下さい。今いえばただ私の身勝手に過ぎず、妻子をいたずらにつき放して一人うそぶいているように思われるおそれがありますから。)

 そうはいうものの私は心から妻に対して感謝しております。そうして「心からお気の毒であったと思っている」とお伝え下さい。一徹な理想家というものと、たまたま地上で縁を結んだ不幸だとあきらめてもらう他ありません。

 平野検事のお心づくしも有難う存じました。先生からどうぞよろしくお伝え下さい。なお同検事は御存知のことと存じますが、私は目下ここの所長さんの御好意によって自由な感想録を書かしていただいています。これは門外永久不出で単に所長さんにだけ読んでいただく、それも私の生前にはお目にかけないということにして御諒解を願っております。従ってそれはただ私のたのしみのために書いているようなものであります。いわば大波の来る前に砂浜の上に書いた文字のようなものであります。ただ私の態度は湖水の静かな水のようにその上を去来する白雲や時には乱雲や鳥の影や、また樹影やらを去来のままに映し来り映し去って行きたいと思っています。世界観あり、哲学あり、宗教観あり、文芸批評あり、時評あり、慨世あり、経綸あり、論策あり、身辺雑感あり、過去の追憶あり、といった有様で、よく読んでいただけば何かの参考にはなろうかと思っております。併しもとよりそれを目的に書いているのではありません。ただこれは先生に私がこんなものを物しているということだけを知っておいていただきたいと存じたまでであります。時世のことについては最早何事も申しません。ただ小生の胸中お察し下さい。

 国家のため先生のご自愛のほど祈る念ますます切なるものがあります。

 堀川先生はじめ皆様へよろしくお伝え下さい。

   昭和十九年七月二十六日

尾崎秀実
頓首再拝


 竹内老先生 玉案下

追白、一番暑熱の必要なこの頃、この涼しさはお米のことが心配になります。

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