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道草

道草 (小説)から転送)


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 健三けんぞうが遠い所から帰って来て駒込こまごめの奥に世帯しょたいを持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種のさびさえ感じた。

 彼の身体からだには新らしくあとに見捨てた遠い国のにおいがまだ付着していた。彼はそれをんだ。一日も早くその臭をふるい落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。

 彼はこうした気分をった人にありがちな落付おちつきのない態度で、千駄木せんだぎから追分おいわけへ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。

 ある日小雨こさめが降った。その時彼は外套がいとうも雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷ほんごうの方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現ねづごんげんの裏門の坂をあがって、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十けん位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼のをわきへそらさせたのである。

 彼は知らん顔をしてその人のそばを通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃またひとみをその人の方角に向けた。すると先方ではもうくに彼の姿をじっと見詰めていた。

 往来はしずかであった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色けしきなく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。

 彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳はたちになるかならない昔の事であった。それから今日こんにちまでに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。

 彼の位地も境遇もその時分から見るとまるで変っていた。黒いひげはやして山高帽をかぶった今の姿と坊主頭の昔の面影おもかげとを比べて見ると、自分でさえ隔世の感が起らないとも限らなかった。しかしそれにしては相手の方があまりに変らな過ぎた。彼はどう勘定しても六十五、六であるべきはずのその人の髪の毛が、何故なぜ今でも元の通り黒いのだろうと思って、心のうちで怪しんだ。帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える媒介なかだちとなった。

 彼はもとよりその人に出会う事を好まなかった。万一出会ってもその人が自分より立派な服装なりでもしていてくれればいと思っていた。しかし今目前まのあたり見たその人は、あまり裕福な境遇にいるとは誰が見ても決して思えなかった。帽子を被らないのは当人の自由としても、羽織はおりなり着物なりについて判断したところ、どうしても中流以下の活計を営んでいる町家ちょうかの年寄としか受取れなかった。彼はその人の差していた洋傘こうもりが、重そうな毛繻子けじゅすであった事にまで気が付いていた。

 その日彼は家へ帰っても途中で会った男の事を忘れ得なかった。折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた。しかし細君には何にも打ち明けなかった。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事のほか決して口を利かない女であった。



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 次の日健三はまた同じ時刻に同じ所を通った。その次の日も通った。けれども帽子をかぶらない男はもうどこからも出て来なかった。彼は器械のようにまた義務のように何時もの道をったり来たりした。

 こうした無事の日が五日続いたあと、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間もほとんどこの前と違わなかった。

 その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人なんびとをも不安にしなければやまないほどな注意を双眼そうがんに集めて彼を凝視した。すきさえあれば彼に近付こうとするその人の心がどんよりしたひとみのうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくそのそばを通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。

「とてもこれだけでは済むまい」

 しかしその日うちへ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。

 彼と細君と結婚したのは今から七、八年前で、もうその時分にはこの男との関係がとくの昔に切れていたし、その上結婚地が故郷の東京でなかったので、細君の方ではじかにその人を知るはずがなかった。しかしうわさとしてだけならあるいは健三自身の口から既に話していたかも知れず、また彼の親類のものから聞いて知っていないとも限らなかった。それはいずれにしても健三にとって問題にはならなかった。

 ただこの事件に関して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事実が一つあった。五、六年前彼がまだ地方にいる頃、ある日女文字で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。その時彼は変な顔をしてその手紙を読んだ。しかしいくら読んでも読んでも読み切れなかった。半紙廿枚ばかりへ隙間なく細字さいじで書いたものの、五分の一ほど眼を通したあと、彼はついにそれを細君の手に渡してしまった。

 その時の彼には自分あてでこんな長い手紙をかいた女の素性を細君に説明する必要があった。それからその女に関聯かんれんして、是非ともこの帽子を被らない男を引合に出す必要もあった。健三はそうした必要にせまられた過去の自分を記憶している。しかし機嫌買きげんかいな彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやったか、その点になると彼はもう忘れていた。細君は女の事だからまだ判然はっきり覚えているだろうが、今の彼にはそんな事を改めて彼女に問いただして見る気も起らなかった。彼はこの長い手紙を書いた女と、この帽子を被らない男とを一所に並べて考えるのが大嫌だいきらいだった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介なかだちとなるからであった。

 幸い彼の目下の状態はそんな事に屈托くったくしている余裕を彼に与えなかった。彼はうちへ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入はいった。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟しげきの方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。

 彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書のうち胡坐あぐらをかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを片端かたはしから取り上げては二、三ページずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこのていたらくを見るに見かねたある友人が来て、順序にも冊数にも頓着とんじゃくなく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。



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 健三は実際その日その日の仕事に追われていた。うちへ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心はほとんど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。

 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達からうたい稽古けいこを勧められて、ていよくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人ひとにはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。

 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気おぼろげにそのさびしさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞さくばくたる曠野あらのの方角へ向けて生活のみちを歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。

 彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。

「教育が違うんだから仕方がない」

 彼の腹の中には常にこういう答弁があった。

「やっぱり手前味噌てまえみそよ」

 これは何時でも細君の解釈であった。

 気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれるたび気不味きまずい顔をした。ある時は自分を理解しない細君をしんから忌々いまいましく思った。ある時はしかり付けた。またある時は頭ごなしにり込めた。すると彼の癇癪かんしゃくが細君の耳に空威張からいばりをする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷おおぶろしき」の四字に訂正するに過ぎなかった。

 彼には一人の腹違はらちがいの姉と一人の兄があるぎりであった。親類といったところでこの二軒より外に持たない彼は、不幸にしてその二軒ともとあまり親しく往来ゆききをしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持のいものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子をかぶらない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り千駄木せんだぎの町を毎日二へん規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしそのあいだ身体からだの楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢ししを畳の上に横たえて半日の安息をむさぼるに過ぎなかったろう。

 しかし次の日曜が来たとき、彼はふと途中で二度会った男の事を思い出した。そうして急に思い立ったように姉のうちへ出掛けた。姉の宅は守坂かみざかの横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所にあった。彼女の夫というのは健三の従兄いとこにあたる男だから、つまり姉にも従兄であった。しかし年齢とし同年おないどしか一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であった。この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が其所そこをやめた今日こんにちでも、まだ馴染なじみの多い土地を離れるのがいやだといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。



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 この姉は喘息持ぜんそくもちであった。年が年中ぜえぜえいっていた。それでも生れ付が非常な癇性かんしょうなので、よほど苦しくないと決してじっとしていなかった。何か用をこしらえて狭いうちの中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。その落付おちつきのないがさつな態度が健三の眼には如何いかにも気の毒に見えた。

 姉はまた非常に饒舌しゃべる事のすきな女であった。そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。彼女と対坐たいざする健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。

「これがおれの姉なんだからなあ」

 彼女と話をしたあとの健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。

 その日健三は例の如くたすきを掛けて戸棚の中をきまわしているこの姉を見出した。

「まあ珍らしくく来てくれたこと。さあ御敷きなさい」

 姉は健三に座蒲団ざぶとんを勧めて縁側へ手を洗いに行った。

 健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。欄間らんまには彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。その落款らっかんに書いてある筒井憲つついけんという名は、たしか旗本はたもとの書家かなにかで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔此所ここの主人から教えられた事を思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。そうして年からいえば叔父おじおいほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲すもうをとっては姉からおこられたり、屋根へ登って無花果いちじくいで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、しりを持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパスを買ってるといって彼をだましたなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。姉と喧嘩けんかをして、もう向うから謝罪あやまって来ても勘忍してやらないと覚悟をめたが、いくら待っていても、姉があやまらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰てもちぶさたなので、向うで御這入おはいりというまで、黙って門口かどぐちに立っていた滑稽こっけいもあった。……

 古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意をつ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。

「近頃は身体からだの具合はどうです。あんまり非道ひどく起る事もありませんか」

 彼は自分の前にすわった姉の顔を見ながらこうたずねた。

「ええ有難う。御蔭さまで陽気がいもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせいに働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんのあすびに来てくれた時分にゃ、随分しり端折ぱしょりで、それこそ御釜おかまの御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」

 健三は些少さしょうながら月々いくらかの小遣を姉にる事を忘れなかったのである。

「少しせたようですね」

「なにこりゃあたし持前もちまえだから仕方がない。昔からふとった事のない女なんだから。やッぱりかんが強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」

 姉は肉のない細い腕をまくって健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形のかさが、だるそうな皮で物憂ものうげに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。

「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事はずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父おとっさんや御母おっかさんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」

 姉の眼にはいつか涙がたまっていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖くちくせのようにいっていた。そうかと思うと、「こんな偏窟へんくつじゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。



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 そんな古い記憶をび起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層ひとしお健三の眼についた。

「時に姉さんはいくつでしたかね」

「もう御婆おばあさんさ。取っていちだもの御前さん」

 姉は黄色いまばらな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。

「するとわたしとは一廻ひとまわり以上違うんだね。私ゃまた精々違ってとおか十一だと思っていた」

「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人うちが羊の三碧さんぺきで姉さんが四緑しろくなんだから。健ちゃんはたし七赤しちせきだったね」

「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」

「繰って見て御覧、きっと七赤だから」

 健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。年齢としの話はそれぎりやめてしまった。

「今日は御留守なんですか」と比田ひだの事をいて見た。

昨夕ゆうべ宿直とまりでね。なに自分の分だけなら月に三度か四度よどで済むんだけれども、ひとに頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでついひとの分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへるのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、むこうへ泊る方がかえって多いかも知れないよ」

 健三は黙って障子のそばに据えてある比田の机を眺めた。硯箱すずりばこ状袋じょうぶくろや巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い脊皮せがわをこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから綺麗きれいに光った小さい算盤そろばんもその下に置いてあった。

 うわさによると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという評番ひょうばんであった。宿直とまりだ宿直だといってうちへ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。

「比田さんは近頃どうです。大分だいぶ年を取ったから元とは違って真面目まじめになったでしょう」

「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ寄席よせだ、やれ芝居しばやだ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しはやさしくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分はげしかったもんだがね。ったり、たたいたり、髪の毛を持って座敷中引摺ひっずり廻したり……」

「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」

「なにあたしゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」

 健三は勝気な姉の昔を考え出してつい可笑おかしくなった。二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫にだまされて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に不憫ふびんに思われて来た。

「久しぶりに何かおごりましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。

「ありがと、今御鮨おすしをそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」

 姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。健三は仕方がないからしり落付おちつけてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。



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 近頃の健三は頭を余計つかい過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。それでも姉の悪強わるじいにはかなわなかった。

海苔巻のりまきなら身体からださわりゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに御馳走ごちそうしようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。いやかい」

 健三は仕方なしにうまくもない海苔巻を頬張ほおばって、い加減烟草タバコで荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。

 姉が余り饒舌しゃべるので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むずがゆくなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。

 ひとに物を食わせる事の好きなのと同時に、物をる事の好きな彼女は、健三がこの前めた古ぼけた達磨だるまの掛物を彼に遣ろうかといい出した。

「あんなものあ、うちにあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田ひだだってりゃしないやね、汚ない達磨なんか」

 健三はもらうとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。

「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日きょうまで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住おすみさんがいちゃ、少し話しにくい事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」

 姉の前置まえおきは長たらしくもあり、また滑稽こっけいでもあった。小さい時分いくら手習をさせても記憶おぼえが悪くって、どんなに平易やさしい字も、とうとう頭へ這入はいらずじまいに、五十の今日こんにちまで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。

「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実はわたしも今日は少し姉さんに話があって来たんだが」

「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故なぜ早く話さなかったの」

「だって話せないんだもの」

「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟きょうだいの間じゃないか、御前さん」

 姉は自分の多弁が相手の口をふさいでいるのだという明白な事実にはごうも気が付いていなかった。

「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」

「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人うちがあの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、おれの知った事じゃないって顔をしているんだから。――もっとも月々の取高とりだかが少ない上に、交際つきあいもあるんだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」

 姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。つまり月々遣る小遣こづかいをもう少ししてくれというのだろうと思った。今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求があわれでもあり、また腹立たしくもあった。

「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」

 これが姉の口から出た最後の言葉であった。健三はそれでもいやだとはいいかねた。



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 彼はこれからうちへ帰って今夜中に片付けなければならない明日あしたの仕事をっていた。時間の価値というものを少しも認めないこの姉と対坐たいざして、何時いつまでも、べんべんと喋舌しゃべっているのは、彼にとって多少の苦痛に違なかった。彼は好加減いいかげんに帰ろうとした。そうして帰る間際になってやっと帽子をかぶらない男の事をいい出した。

「実はこの間島田に会ったんですがね」

「へえどこで」

 姉は吃驚びっくりしたような声を出した。姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山な表情をしたがる女であった。

太田おおたはらそばです」

「じゃ御前さんのじき近所じゃないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」

「掛けるって、別に言葉の掛けようもないんだから」

「そうさね。健ちゃんの方から何とかいわなきゃ、むこうで口なんぞけた義理でもないんだから」

 姉の言葉は出来るだけ健三の意を迎えるような調子であった。彼女は健三に「どんな服装なりをしていたい」とき足した後で、「じゃやッぱり楽でもないんだね」といった。其所そこには多少の同情もこもっているように見えた。しかし男の昔を話し出した時にはさもさもにくらしそうな語気を用い始めた。

「なんぼ因業いんごうだって、あんな因業な人ったらありゃしないよ。今日が期限だから、是が非でも取って行くって、いくら言訳をいっても、すわり込んでいごかないんだもの。しまいにこっちも腹が立ったから、御気の毒さま、御金はありませんが、品物で好ければ、御鍋おなべでも御釜おかまでも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」

「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」

「ところがあの業突張ごうつくばりの事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしにかせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄ってい事あないはずだあね」

 健三の耳にはこの話がただの滑稽こっけいとしては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡ひっからまっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑おかしいというよりもむしろ悲しいものであった。

わたしゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」

「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」

「しかしわざわざ彼所あすこいらを通って、私のうちでも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」

 この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。それが健三には空御世辞からおせじのごとく響いた。

「こちらへはその後まるで来ないんですか」

「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」

「その前は?」

「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。鰻飯うなぎめしかなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまをひとかたけでもいからひとうちで食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ服装なりなんかかなりなものを着ているんだがね。……」

 姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。目下の島田については全く分らなかった。



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「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」

 こんな簡単な質問さえ姉には判然はっきり答えられなかった。健三は少しあてが外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居所いどころを突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの手数てかずを尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑けいべつしなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。

 彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。

 其所そこには往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々にあおい色がいていやにおいさえ彼の鼻を襲った。彼はそのきたならしい一廓いっかくを――さまの御屋敷という名で覚えていた。

 堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。

 この御屋敷と反対の側には小さな平家ひらやまばらに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃにまじっていたその町並は無論不揃ぶそろであった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居すまいこしらえたのである。

 健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。四間よましかない狭い家だったけれども、木口きぐちなどはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な御影みかげ石燈籠いしどうろうが据えてあった。

 綺麗好きれいずきな島田は、自分で尻端折しりはしおりをして、絶えず濡雑巾ぬれぞうきんを縁側や柱へ掛けた。それから跣足はだしになって、南向の居間の前栽せんざいへ出て、草毟くさむしりをした。あるときはくわを使って、門口かどぐち泥溝どぶさらった。その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。

 島田はまたこの住居すまい以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどのみちを付けた。裏は野ともはたとも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番へこんだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。しかしその企ては何時までも実現されなかった。冬になるとかもりるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。……

 健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を今日こんにちの事のように考えた。

「ことによると、良人うちでは年始状位まだ出してるかも知れないよ」

 健三の帰る時、姉はこんな事をいって、あん比田ひだの戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。

 彼はその日無沙汰ぶさた見舞かたがた市ヶ谷いちがや薬王寺やくおうじ前にいる兄のうちへも寄って、島田の事をいて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり駒込こまごめへ帰った。その晩はまた翌日あくるひの仕事に忙殺ぼうさいされなければならなかった。そうして島田の事はまるで忘れてしまった。



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 彼はまた平生へいぜいの我に帰った。活力の大部分を挙げて自分の職業に使う事が出来た。彼の時間は静かに流れた。しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので、澄ましていた。それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思えなかった。細君はまた心のうちで彼と同じ非難を夫の上に投げ掛けた。夫の書斎で暮らす時間が多くなればなるほど、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならないはずだというのが細君の方の理窟であった。

 彼女は自然の勢い健三を一人書斎に遺して置いて、子供だけを相手にした。その子供たちはまた滅多に書斎へ這入はいらなかった。たまに這入ると、きっと何か悪戯いたずらをして健三にしかられた。彼は子供を叱るくせに、自分のそばへ寄り付かない彼らに対して、やはり一種の物足りない心持をいだいていた。

 一週間後の日曜が来た時、彼はまるで外出しなかった。気分を変えるため四時頃風呂ふろへ行って帰ったら、急にうっとりしたい気持に襲われたので、彼は手足を畳の上へ伸ばしたまま、つい仮寐うたたねをした。そうして晩食ばんめしの時刻になって、細君から起されるまでは、首を切られた人のように何事も知らなかった。しかし起きてぜんに向った時、彼にはかすかな寒気が脊筋せすじを上から下へ伝わって行くような感じがあった。その後ではげしいくさみが二つほど出た。傍にいる細君は黙っていた。健三も何もいわなかったが、腹の中ではこうした同情に乏しい細君に対するいやな心持を意識しつつはしを取った。細君の方ではまた夫が何故なぜ自分に何もかも隔意なく話して、能働的のうどうてきに細君らしく振舞わせないのかと、その方をかえって不愉快に思った。

 その晩彼は明らかに多少風邪かぜ気味であるという事に気が付いた。用心して早くようと思ったが、ついしかけた仕事に妨げられて、十二時過まで起きていた。彼の床に入る時には家内のものはもう皆な寐ていた。熱い葛湯くずゆでも飲んで、発汗したい希望をもっていた健三は、やむをえずそのまま冷たい夜具のうちもぐり込んだ。彼は例にない寒さを感じて、寐付が大変悪かった。しかし頭脳の疲労はほどなく彼を深い眠の境に誘った。

 翌日あくるひ眼を覚した時は存外安静であった。彼は床の中で、風邪はもうなおったものと考えた。しかしいよいよ起きて顔を洗う段になると、何時もの冷水摩擦が退儀な位身体からだ倦怠だるくなってきた。勇気をして食卓に着いて見たが、朝食あさめしは少しもうまくなかった。いつもは規定として三膳食べるところを、その日は一膳で済ましたあと、梅干を熱い茶の中に入れてふうふう吹いてんだ。しかしその意味は彼自身にも解らなかった。この時も細君は健三の傍に坐って給仕をしていたが、別に何にもいわなかった。彼にはその態度がわざと冷淡に構えている技巧の如く見えて多少腹が立った。彼はことさらなせきを二度も三度もして見せた。それでも細君は依然として取り合わなかった。

 健三はさっさと頭から白襯衣ワイシャツかぶって洋服に着換えたなり例刻にうちを出た。細君は何時もの通り帽子を持って夫を玄関まで送って来たが、この時の彼には、それがただ形式だけを重んずる女としか受取れなかったので、彼はなお厭な心持がした。

 外ではしきりに悪感おかんがした。舌が重々しくぱさついて、熱のある人のように身体全体が倦怠けたるかった。彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。指頭しとうに触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計たもとどけいの音と錯綜さくそうして、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。



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 彼は例刻にうちへ帰った。洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の不断着ふだんぎを持ったまま、彼のそばに立っていた。彼は不快な顔をしてそちらを向いた。

「床を取ってくれ。るんだ」

「はい」

 細君は彼のいうがままに床を延べた。彼はすぐその中に入って寐た。彼は自分の風邪気かぜけの事を一口も細君にいわなかった。細君の方でも一向其所そこに注意していない様子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があった。

 健三が眼をふさいでうつらうつらしていると、細君が枕元へ来て彼の名を呼んだ。

「あなた御飯を召上めしやがりますか」

めしなんか食いたくない」

 細君はしばらく黙っていた。けれどもすぐ立って部屋の外へ出て行こうとはしなかった。

「あなた、どうかなすったんですか」

 健三は何にも答えずに、顔を半分ほど夜具のえりうずめていた。細君は無言のまま、そっとその手を彼の額の上に加えた。

 晩になって医者が来た。ただの風邪だろうという診察をくだして、水薬すいやく頓服とんぷくを呉れた。彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。

 翌日あくるひは熱がなお高くなった。医者の注意によって護謨ゴム氷嚢ひょうのうを彼の頭の上に載せた細君は、蒲団ふとんの下に差し込むニッケル製の器械を下女げじょが買ってくるまで、自分の手で落ちないようにそれを抑えていた。

 魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。健三の頭にはその間の記憶というものがほとんどない位であった。正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。それから枕元に坐っている細君を見た。そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。

「あなたどうなすったんです」

「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」

「そりゃ解ってます」

 会話はそれで途切れてしまった。細君はいやな顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。

おれがどうしたというんだい」

「どうしたって、――あなたが御病気だから、わたくしだってこうして氷嚢をえたり、薬をいだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」

 細君は後をいわずに下を向いた。

「そんな事をいった覚はない」

「そりゃ熱の高い時おっしゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生へいぜいからそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」

 こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。

「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」

 健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。彼は論理の権威で自己をいつわっている事にはまるで気が付かなかった。学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底しんそこから大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。



十一

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 その晩細君は土鍋どなべへ入れたかゆをもって、また健三の枕元にすわった。それを茶碗ちゃわんに盛りながら、「御起おおきになりませんか」といた。

 彼の舌にはまだこけが一杯生えていた。重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気にはほとんどなれなかった。それでも彼は何故なぜだか床の上に起き返って、細君の手から茶碗を受取ろうとした。しかし舌障したざわりの悪い飯粒が、ざらざらと咽喉のどの方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一ぜんで口をぬぐったなり、すぐもとの通り横になった。

「まだ食気しょっきが出ませんね」

「少しもうまくない」

 細君は帯の間から一枚の名刺を出した。

「こういう人が貴方あなたていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」

 健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。

何時いつ来たのかい」

「たしか一昨日おとといでしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱がさがらないから、わざと黙っていました」

「まるで知らない人だがな」

「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」

 細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。すると彼の頭にこの間途中で会った帽子をかぶらない男の影がすぐひらめいた。熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す機会がまるでなかったのである。

「御前島田の事を知ってるのかい」

「あの長い手紙が御常おつねさんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」

 健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には不確ふたしかであった。

「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」

 健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。

「そうね。もう七年位になるでしょう。あたしたちがまだ千本通せんぼんどおりにいた時分ですから」

 千本通りというのは、彼らがその頃住んでいたある都会の外れにある町の名であった。

 細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、御兄おあにいさんからも聞いて知ってますわ」といった。

「兄がどんな事をいったかい」

「どんな事って、――なんでもあんまり善くない人だっていう話じゃありませんか」

 細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。彼は黙って眼を閉じた。盆に載せた土鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。

「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒おなおりになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」

 健三は仕方なしにまた眼をいた。

「来るだろう。どうせ島田の代理だと名乗る以上はまた来るにきまってるさ」

「しかしあなた御会いになって? もし来たら」

 実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。

「御会いにならない方がいでしょう」

「会っても好い。何も怖い事はないんだから」

 細君には夫の言葉が、また例のだと取れた。健三はそれをいやだけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。



十二

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 健三の病気は日ならず全快した。活字に眼をさらしたり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。

 健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉よしだとらきちという見覚みおぼえのある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小さな声で「御会いになりますか」とたずねた。

「会うから座敷へ通してくれ」

 細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇ちゅうちょしていた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。

 吉田というのは、でっぷりふとった、かっぷくのい、四十恰好がっこうの男であった。しま羽織はおりを着て、その頃まで流行はやった白縮緬しろちりめん兵児帯へこおびにぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して堅気かたぎ商人あきんどとは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤ごもっとも」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。

 健三には会見の順序として、まず吉田の身元からいてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。

 彼はもと高崎たかさきにいた。そうして其所そこにある兵営に出入しゅつにゅうして、糧秣かいばを納めるのが彼の商買しょうばいであった。

「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも柴野しばのの旦那には特別御贔負ごひいきになったものですから」

 健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。

「その縁故で島田を御承知なんですね」

 二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの大酒たいしゅで家計があまりゆたかでないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい報知たよりに違なかったが、同時に大した興味をく話題にもならなかった。この夫婦に対して何らの悪感あっかんいだいていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然いやな心持がした。

 吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。

「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人にだまされてみんなっちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったりなんかするもんですからな」

「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり慾張よくばるからじゃありませんか」

 たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。しかも困窮というからしてが既に怪しかった。肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。そのくせ月々若干なにがしみついでってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。

 正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものはゼロだという事を相手に納得させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。ただ先方はどこまでも下手したでに出る手段を主眼としているらしく見えた。不穏の言葉は無論、強請ゆすりがましい様子はおくびにも出さなかった。



十三

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 これで吉田の持って来た用件の片が付いたものと解釈した健三は、心のうちであんに彼の帰るのを予期した。しかし彼の態度は明らかにこの予期の裏を行った。金の問題にはそれぎり触れなかったが、毒にも薬にもならない世間話を何時までも続けて動かなかった。そうして自然天然話頭わとうをまた島田の身の上に戻して来た。

「どんなものでしょう。老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが、――どうかして元通りの御交際おつきあいは願えないものでしょうか」

 健三はちょっと返答に窮した。仕方なしに黙って二人の間に置かれた烟草盆タバコぼんを眺めていた。彼の頭のなかには、重たそうに毛繻子けじゅす洋傘こうもりをさして、異様の瞳を彼の上に据えたその老人の面影がありありと浮かんだ。彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。同時に人格の反射から来るその人に対しての嫌悪けんおの情も禁ずる事が出来なかった。両方の間に板挟みとなった彼は、しばらく口を開き得なかった。

「手前も折角こうして上がったものですから、これだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので」

 吉田の様子はいよいよ丁寧になった。どう考えても交際つきあうのはいやでならなかった健三は、またどうしてもそれを断わるのを不義理と認めなければ済まなかった。彼は厭でも正しい方に従おうと思いきわめた。

「そういう訳ならよろしゅう御座います。承知のむねむこうへ伝えて下さい。しかし交際は致しても、昔のような関係ではとても出来ませんから、それも誤解のないように申し伝えて下さい。それからわたしの今の状況では、私の方から時々出掛けて行って老人に慰藉いしゃを与えるなんて事はずかしいのですが……」

「するとまあただ御出入おでいりをさせて頂くという訳になりますな」

 健三には御出入という言葉を聞くのがつらかった。そうだともそうでないともいいかねて、また口を閉じた。

「いえなにそれで結構で、――昔と今とは事情もまるで違ますから」

 吉田は自分の役目がようやく済んだという顔付をしてこういったあと、今まで持ち扱っていた烟草入を腰へさしたなり、さっさと帰って行った。

 健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに捗取はかどらなかった。

 其所そこへ細君がちょっと顔を出した。「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。細君がそのまま黙って引込ひっこんだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。

 平生へいぜいよりは遅くなって漸く夕食ゆうめしの食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。

先刻さっき来た吉田って男は一体何なんですか」と細君がいた。

「元高崎で陸軍の用達ようたしか何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。

 問答はもとよりそれだけで尽きるはずがなかった。彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。

「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」

「まあそうだ」

「それで貴方あなたどうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」

「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」

 二人は腹の中で、自分らのうちの経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それですべてをまかなって行く細君に取っても、少しもゆたかなものとはいわれなかった。



十四

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 健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだきたい事が残っていた。

「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」

「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩けんかをする訳にも行かないんだから」

「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」

「来ても構わないさ」

「でもいやですわ、蒼蠅うるさくって」

 健三は細君が次の間で先刻さっきの会話を残らず聴いていたものと察した。

「御前聴いてたんだろう、悉皆すっかり

 細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。

「じゃそれでいじゃないか」

 健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君もそうした点において夫の権利を認める女であった。けれども表向おもてむき夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。事々ことごとについて出て来る権柄けんぺいずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。何故なぜもう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆ぎりょうも自分に充分具えていないという事実には全く無頓着むとんじゃくであった。

「あなた島田と交際つきあっても好いと受合っていらしったようですね」

「ああ」

 健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。細君は何時でも此所ここまで来て黙ってしまうのを例にしていた。彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に厭気いやきがさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、ますます彼を権柄ずくにしがちであった。

「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、おれ一人でめたって」

「そりゃわたくしに対して何も構って頂かなくってもござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」

 学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。「また始まった」という気が腹の中でした。しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意をかなければならないような事をいい出した。

「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と御交際おつきあいいになっちゃあ」

「御父さまっておれのおやじかい」

「無論貴方あなたの御父さまですわ」

「己のおやじはとうに死んだじゃないか」

「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、向後こうご一切付合つきあいをしちゃならないっておっしゃったそうじゃありませんか」

 健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対してさほど情愛のこもった優しい記憶をっていなかった。その上絶交云々うんぬんについても、そう厳重にいい渡されたおぼえはなかった。

「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」

「貴方じゃありません。御兄おあにいさんに伺ったんです」

 細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。

「おやじは阿爺おやじ、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」

 こういい切った健三は、腹の中でその交際つきあいが厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、いたずらに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。



十五

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 健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服をこしらえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着とんじゃくしなかった。彼の上着には腰のあたりにボタンが二つ並んでいて、胸はいたままであった。霜降の羅紗ラシャも硬くごわごわして、極めて手触てざわりあらかった。ことに洋袴ズボンは薄茶色に竪溝たてみぞの通った調馬師でなければ穿かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。

 彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底なべぞこのような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾ずきんのようにかぶるのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席よせへ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍かでまわして見た事もあった。

 その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵むしゃえ錦絵にしきえ、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体からだにあう緋縅ひおどしのよろい竜頭たつがしらかぶとさえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙きんがみで拵えた采配さいはいを振り舞わした。

 彼はまた子供の差す位な短かい脇差わきざしの所有者であった。その脇差の目貫めぬきは、鼠が赤い唐辛子とうがらしを引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚さんごで拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は何時いつも抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。

 彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑こしみのを着けた船頭がいて網を打った。いなだのぼらだのが水際まで来て跳ねおどる様が小さな彼の眼に白金しろがねのような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へいで行って、海鯽かいずというものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へてしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは河豚ふぐの網にかかった時であった。彼は杉箸すぎばしで河豚の腹をかんから太鼓だいこのようにたたいて、そのふくれたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……

 吉田と会見したあとの健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々いて来る事があった。すべてそれらの記憶は、断片的な割に鮮明あざやかに彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕れいさいの事実を手繰たぐり寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自おのおののうちには必ず帽子をかぶらない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。

「こんな光景をよく覚えているくせに、何故なぜ自分のっていたその頃の心が思い出せないのだろう」

 これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。

「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合じょうあいが欠けていたのかも知れない」

 健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。

 彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。感情にもろい女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。



十六

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 待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。

 健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をしていか解らなかった。思慮なしにそれらをめてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人とひざを突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。

 島田はかねて横風おうふうだという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心をきずつけられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。

 しかし島田は思ったよりも鄭寧ていねいであった。普通初見しょけんの人が挨拶あいさつに用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてにはで、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。健三はむかしその人から健坊けんぼう々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれをいやに感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。

「しかしこの調子ならいだろう」

 健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいとつとめた。向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談などもほとんど出なかった。従って談話はややともすると途切れがちになった。

 健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。

「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」

「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」

 高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。

「はあ」

「そら知ってるでしょう。あのしばの」

 島田の後妻の親類が芝にあって、其所そこうちは何でも神主かんぬしか坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚えているような気もした。しかしその親類の人には、ようさんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、ほかのものに顔を合せた記憶はまるでなかった。

「芝というと、たしか御藤おふじさんの妹さんに当るかたの御嫁にいらしった所でしたね」

「いえ姉ですよ。妹ではないんです」

「はあ」

要三ようぞうだけは死にましたが、あとの姉妹きょうだいはみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」

 ――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。

「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父おじさん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃はうち手入ていれをするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように此所ここの前を通ります」

 健三は昔この男につれられて、いけはたの本屋で法帖ほうじょうを買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買ったためしのないこの人は、その時もわずか五厘の釣銭つりを取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌とうきしょう折手本おりでほんを抱えてそば佇立たたずんでいる彼に取ってはその態度が如何いかにも見苦しくまた不愉快であった。

「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」

 健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑をらした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。



十七

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「でも御蔭さまで、本をのこして行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにかって行けるんです」

 島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。字引じびきか教科書だろうとは推察したが、別にいて見る気にもならなかった。

「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」

 健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でももうけるには本に限るような事をいった。

「御祝儀は済んだが、――が死んだ時あとが女だけだもんだから、実はわたしが本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらとめて、向うから収めさせるようにしたんです」

「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金もとでるようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りのい訳になるんだから、無学のものはとてもかないませんな」

「結局得ですよ」

 彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。その上いくら相槌あいづちを打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。手持無沙汰てもちぶさたな彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。

 その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに蒼黒あおぐろい葉を垣根のそばに茂らしているほかに、木らしい木はほとんどなかった。ほうき馴染なずまない地面は小石まじりに凸凹でこぼこしていた。

「こちらの先生も一つ御儲おもうけになったら如何いかがです」

 吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない訳に行かなかった。仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といってばつを合せた。

「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」

 これは年寄の言葉であった。それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼はいやな顔をした。しかし老人は一向そんな事に頓着とんじゃくする様子も見えなかった。迷惑そうな健三のていを見ても澄ましていた。しまいに吉田が例の烟草入タバコいれを腰へ差して、「では今日こんにちはこれで御暇おいとまを致す事にしましょうか」と催促したので、彼はようやく帰る気になったらしかった。

 二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び座蒲団ざぶとんの上に坐ったまま、腕組をして考えた。

「一体何のために来たのだろう。これじゃひとを厭がらせに来るのと同じ事だ。あれでむこうは面白いのだろうか」

 彼の前には先刻さっき島田の持って来た手土産てみやげがそのまま置いてあった。彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。

 何にもいわずに茶碗ちゃわんだの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。

「あなたまだ其処そこに坐っていらっしゃるんですか」

「いやもう立っても好い」

 健三はすぐ立上たちあがろうとした。

「あの人たちはまた来るんでしょうか」

「来るかも知れない」

 彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折をり合う子供の声がした。すべてがやがてしずかになったと思う頃、黄昏たそがれの空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。



十八

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 雨の降る日が幾日いくかも続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日欝陶うっとうしい思いをして、縫針ぬいはりにばかり気をとられていた細君は、縁鼻えんばなへ出てこのあおい空を見上げた。それから急に箪笥たんす抽斗ひきだしを開けた。

 彼女が服装を改ためて夫の顔をのぞきに来た時、健三は頬杖ほおづえを突いたまま盆槍ぼんやり汚ない庭を眺めていた。

「あなた何を考えていらっしゃるの」

 健三はちょっと振り返って細君の余所行姿よそゆきすがたを見た。その刹那せつな爛熟らんじゅくした彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。

「どこかへ行くのかい」

「ええ」

 細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとのびしい我に帰った。

「子供は」

「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜やかましくって御蒼蠅おうるさいでしょうから」

 その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。

 細君の帰って来たのは、彼が夕飯ゆうめしを済ましてまた書斎へ引き取ったあとなので、もうあかりいてから一、二時間経っていた。

「ただ今」

 遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌ぶあいきょうが、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介なかだちとなった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。

 話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲のい夫婦でもなかった。またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに陳腐ちんぷ過ぎた。

 二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題にのぼせた。

此間こないだうちへ行ったら、門司もじ叔父おじに会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」

 門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車でって来て、急に入用いりようが出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少さしょうながら用立てたら、立派に印紙をった証文を後から郵便で送って来た。その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。

「今何をしているのかね」

「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内あがるつもりだっていってました」

 健三にはその後をく必要もなかった。彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。細君の父もそれを疑わなかった。叔父はその父をうまく説きつけて、門司まで引張って行った。そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本をき上げたのである。

 健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。細君もいうのが厭らしかった。しかし何時もの通り会話は其所そこで切れてしまわなかった。

「あの日はあまりい御天気だったから、久しぶりで御兄おあにいさんの所へも廻って来ました」

「そうか」

 細君の里は小石川台町こいしかわだいまちで、健三の兄のうち市ヶ谷薬王寺前いちがややくおうじまえだから、細君の訪問は大した迂回まわりみちでもなかった。



十九

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御兄おあにいさんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」

 細君の顔には多少諷諫ふうかんの意が現われていた。

「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前やくおうじまえへ廻ったのかい」

「またそんな皮肉をおっしゃる。あなたはどうしてそうひとのする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。わたくしあんまり御無沙汰ごぶさたをして済まないと思ったから、ただ帰りにちょっと伺っただけですわ」

 彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際つきあいの義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。

御兄おあにいさんは貴夫あなたのために心配していらっしゃるんですよ。ああいう人と交際つきあいだして、またどんな面倒が起らないとも限らないからって」

「面倒ってどんな面倒を指すのかな」

「そりゃ起って見なければ、御兄おあにいさんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろろくな事はないと思っていらっしゃるんでしょう」

 碌な事があろうとは健三にも思えなかった。

「しかし義理が悪いからね」

「だって御金をって縁を切った以上、義理の悪い訳はないじゃありませんか」

 手切の金は昔し養育料の名前のもとに、健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であった。

「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫のうちへ引き取られていらしったんでしょう」

 いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然はっきり分らなかった。

「三つから七つまでですって。御兄おあにいさんがそう御仰おっしゃいましたよ」

「そうかしら」

 健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には眼鏡めがねで見るような細かい絵が沢山出た。けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。

「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」

 彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。

「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」

「しかしやつッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」

 細君は口をつぐんだ。それが何故なぜだか健三にはさびしかった。

おれも実は面白くないんだよ」

「じゃ御止およしになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、先方むこうは」

「それが己にはちっとも解らない。むこうでもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」

「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」

「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」

「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」

 細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。其所そこを既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、かすかな不安がまた新らしくきざした。



二十

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 その不安は多少彼の仕事の上にいて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへうずめてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。

 細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。

 自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手にゆだねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末げつまつに細君の手から支出の明細書めいさいがきを突き付けられたためしがなかった。

「まあどうにかしているんだろう」

 彼は常にこう考えた。それで自分に金のる時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額にのぼる事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえうたぐった。

「月々の勘定はちゃんとしておれに見せなければいけないぜ」

 細君はいやな顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。

「ええ」

 彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末つきずえが来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌のい時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろとせまる事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月にさかなをどれだけくったものか、または米がどれほどったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。

 この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。

「何か変った事でもあるのかい」

「どうかして頂かないと……」

 細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。

「不思議だね。それで今日きょうまでって来られたものだね」

「実は毎月まいげつ余らないんです」

 余ろうとは健三にも思えなかった。先月すえふるい友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断ったおぼえもあった。

「しかしかつかつ位には行きそうなものだがな」

「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」

 細君はいいにくそうに、箪笥たんす抽匣ひきだしにしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末てんまつを話した。

 彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。ひとに知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心にさびしい印象を刻み付けた。こうした聯想れんそうが今の彼を特更ことさらびしく思わせた。

「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」

 彼自身いまだ質屋の暖簾のれんくぐった事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入でいりするはずがないと考えた。

「いいえ頼んだんです」

「誰に」

「山野のうちの御婆おばあさんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」

 健三はその先をかなかった。夫が碌な着物一枚さえこしらえてやらないのに、細君が自分のうちから持ってきたものを質に入れて、家計のたしにしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。



二十一

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 健三はもう少し働らこうと決心した。その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。

 彼は自分の新たに受取ったものを洋服の内隠袋うちかくしから出して封筒のまま畳の上へ放り出した。黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の出所でどころを知った。家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。

 その時細君は別にうれしい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求をたす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。

 細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。

「あなたの着物をこしらえようと思うんですが、これはどうでしょう」

 細君の顔は晴々はればれしく輝やいていた。しかし健三の眼にはそれが下手へたな技巧を交えているように映った。彼はその不純を疑がった。そうしてわざと彼女の愛嬌あいきょうに誘われまいとした。細君は寒そうに座を立った。細君の座を立ったあとで、彼は何故なぜ自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えてますます不愉快になった。

 細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。

おれは決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分のっている温かい情愛をき止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」

「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」

「御前はしょっちゅうしているじゃないか」

 細君は恨めしそうに健三を見た。健三の論理ロジックはまるで細君に通じなかった。

貴夫あなたの神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当にわたくしを観察して下さらないのでしょう」

 健三の心には細君の言葉に耳をかたぶける余裕がなかった。彼は自分に不自然なひややかさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。

「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」

 二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女なんにょのような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。

 健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とをいとった。無意味に暇をつぶすという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かしおおせる、またしおおせなければならないと考える男であった。

 彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。

 或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。彼は無言のまま茶の間へあがって、細君にたすけられながら洋服を和服に改めた。



二十二

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 彼が火鉢ひばちそばすわって、烟草タバコを一本吹かしていると、間もなく夕飯ゆうめしぜんが彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。

あがったのかい」

 細君には何が上ったのか解らない位この質問は突然であった。ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味をさとった。

「あの人ですか。――でも御留守でしたから」

 細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気にさわる事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。

「上げなかったのかい」

「ええ。ただ玄関でちょっと」

「何とかいっていたかい」

「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから御不沙汰ごぶさたをして済みませんって」

 済みませんという言葉が一種の嘲弄ちょうろうのように健三の耳に響いた。

「旅行なんぞするのかな、田舎いなかに用のある身体からだとも思えないが。御前にその行った先を話したかい」

「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの御縫おぬいさんて人のうちなんでしょう」

 御縫さんのかたづいた柴野しばのという男には健三もその昔会ったおぼえがあった。柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。それは師団か旅団のある中国辺のある都会であった。

「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」

 健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらくを置いたあとでこんなといを掛けた。

く知ってるね」

何時いつ御兄おあにいさんから伺いましたよ」

 健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立めはなだちからいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんはまたすらりとした恰好かっこうい女で、顔は面長おもながの色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛まつげの多い切長きれながのその眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門をくぐった記憶をっていた。その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢ながひばち猫板ねこいたの上にある洋盃コップから冷酒ひやざけをぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前でびんでつけていた。彼はまた自分の分として取りけられたにぎすしをしきりに皿の中からつまんで食べた。……

「御縫さんて人はよっぽど容色きりょうが好いんですか」

何故なぜ

「だって貴夫あなたの御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」

 なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田のうちへ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝どぶに掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭であいがしらの健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙ドイツ語を習い始めの子供であったので、「フラウ門にって待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯としからいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪こうおたなかった。それから羞恥はにかみに似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球ゴムだまのように、かえって女からはじき飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、ほかに面倒のあるなしを差措さしおいて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。



二十三

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貴夫あなたどうしてその御縫さんて人を御貰おもらいにならなかったの」

 健三はぜんの上から急に眼を上げた。追憶の夢をおどろかされた人のように。

「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それにおれはまだ子供だったしね」

「あの人の本当の子じゃないんでしょう」

「無論さ。御縫さんは御藤おふじさんの連れっ子だもの」

 御藤さんというのは島田の後妻の名であった。

「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」

「どうなってるかわからないじゃないか、なって見なければ」

「でもことによると、幸福かも知れませんわね。その方が」

「そうかも知れない」

 健三は少し忌々いまいましくなった。細君はそれぎり口をつぐんだ。

何故なぜそんな事をくのだい。詰らない」

 細君はたしなめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。

「どうせわたくしは始めっから御気に入らないんだから……」

 健三ははしを放り出して、手を頭の中に突込んだ。そうして其所そこたまっている雲脂ふけをごしごし落し始めた。

 二人はそれなり別々のへやで別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと挨拶あいさつに来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。細君はその子供をかした後で、昼の残りの縫物を始めた。

 御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いたあとの事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。

 その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ這入はいって来た。それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼のそばに腰を卸した。健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。

「あなたその端書は比田ひださんから来たんですよ」

 健三はようやく書物から眼を放した。

「あの人の事で何か用事が出来たんですって」

 なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。わざわざ彼を呼び寄せる失礼も鄭寧ていねいびてあった。

「どうしたんでしょう」

「まるで判明わからないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」

「みんなで交際つきあっちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄おあにいさんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所そこに」

 端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。

 兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望をっていたらしかったのである。

「健ちゃんのうちとこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんのうちへ行かれるんだけれども」

 御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。

「だって御縫さんが今かたづいてる先は元からの許嫁いいなずけなんでしょう」

「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」

「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」

「そんな事が判明わかるもんか」

「じゃ御兄おあにいさんの方はどうなの」

「それも判明らんさ」

 健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。



二十四

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 健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた守坂かみざかへ出掛けた。

 彼は時間に対してすこぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きるとるまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。

 彼は途々みちみち自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。

 彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里ヒステリーは、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。

 彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所にまとめて考えなければならなかった。すべてが頽廃たいはいの影であり凋落ちょうらくの色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。

 姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。

「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶あいさつした。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。

「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくってり切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方あなたと御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」

 比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先つとめさきの近所に囲っているといううわさはまるでうそのようであった。

 古風な言葉で形容すれば、ただ算筆さんぴつに達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえいた。

「姉さんは」

「それに御夏おなつがまた例の喘息ぜんそくでね」

 姉は比田のいう通り針箱の上に載せたくくまくらりかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間をのぞきに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。

「どうです」

 彼女は頭を真直まっすぐに上る事さえかなわないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉のどに障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽せきの発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、はたで見ていても気が退けた。

「苦しそうだな」

 彼は独り言のようにこうつぶやいて、まゆひそめた。

 見馴れない四十恰好がっこうの女が、姉のうしろから脊中せなかさすっている傍に、一本の杉箸すぎばしを添えた水飴みずあめの入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。

「どうも一昨日おとといからね、あなた」

 姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前まのあたりこの猛烈な咳嗽せきと消え入るような呼息遣いきづかいとを見ていると、病気にかかった当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。

「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。わたしはあっちへ行くから」

 発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。



二十五

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 比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然じねん末枯すがれて来る気の毒な女房の姿は、この男にとってごうも感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも同棲どうせいして来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けたためしのない男であった。

 健三の這入はいって来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁てつぶち眼鏡めがねを外した。

「今ちょっと貴方あなたが茶の間へ行っていらしった間に、くだらないものを読み出したんです」

 比田と読書とくしょ――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。

「何ですか、それは」

「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」

 比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『常山紀談じょうざんきだん』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢でき込んでいるのを、まるで余所事よそごとのように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何いかにもくこの男の性質をあらわしていた。

わたしゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」

 彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた湯浅常山ゆあさじょうざんを講釈師と間違えるほどでもなかった。

「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴きょくていばきんとどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝はっけんでん』も持っているんだが」

 なるほど彼はきりの本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を綺麗きれいに重ね込んでいた。

「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」

「いいえ」

「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の日本橋にほんばし桜田さくらだがすっかり分るんだからね」

 彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙みのがみ版の浅黄あさぎの表紙をした古い本を一、二冊取り出した。そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本をくらから引きり出して来て、ページから頁へと丹念に挿絵さしえを拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町するがちょうという所にいてある越後屋えちごや暖簾のれんと富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点しょうてんとなった。

「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出てまい」

 健三は心のうちでこう考えた。ただ焦燥あせりに焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。

 兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間をつなぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。書物の事なら何時いつまで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らずじて持っていた。

 本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。

「もう来そうなもんですね、ちょうさんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっとむかいりましょうか」

 この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。



二十六

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 やがて門口かどぐち格子こうしを開けて、沓脱くつぬぎ下駄げたを脱ぐ音がした。

「やっと来たようですぜ」と比田ひだがいった。

 しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入はいった。

「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時いつから」

 短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷にすわっている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。

「長さん、先刻さっきから待ってるんだ」

 性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息ぜんそくなどはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何いかにもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。

「今行きますよ」

 長太郎ちょうたろうも少ししゃくだと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。

重湯おもゆでも少し飲んだらいでしょう。いや? でもそう何にも食べなくっちゃ身体からだが疲れるだけだから」

 姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中せなかさすっていた女が一口ごとに適宜な挨拶あいさつをした。平生へいぜい健三よりは親しくそのうち出入でいりする兄は、見馴みなれないこの女とも近付ちかづきと見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。

 比田はぷりっとふくれていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごしこすった。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。

「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」

 比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。

「何ですあの人は」

「そら梳手すきて御勢おせいですよ。昔し健ちゃんのあすびに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」

「へええ」

 健三には比田のうちでそんな女に会ったおぼえが全くなかった。

「知りませんね」

「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌しゃべるのが病なんだから」

 よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。

 姉はまたき出した。その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。長太郎も茶の間を出て来なかった。

「何だか先刻さっきよりはげしいようですね」

 少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。比田は一も二もなく留めた。

「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと吃驚びっくりしますがね。わたしなんざあもう年来れっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても今日こんにちまで一所に住んでる事は出来ませんからね」

 健三は何とも答える訳に行かなかった。ただ腹の中で、自分の細君が歇私的里ヒステリーの発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。

 姉の咳嗽せき一収ひとおさまり収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。

「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、生憎あいにく珍らしく客があったもんだから」

「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」

 比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。



二十七

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 三人はすぐ用談に取り掛った。比田ひだが最初に口をひらいた。

 彼はちょっとした相談事にも仔細しさいぶる男であった。そうして仔細ぶればぶるほど、自分の存在が周囲から強く認められると考えているらしかった。「比田さん比田さんって、立てて置きさえすりゃいんだ」とみんながかげで笑っていた。

「時に長さんどうしたもんだろう」

「そう」

「どうもこりゃ天から筋が違うんだから、健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね、わたしゃ」

「そうさ。今更そんな事を持ち出して来たって、こっちで取り合う必要もないだろうじゃないか」

「だから私も突っねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、まるで自分の殺した子供を、もう一ぺん生かしてくれって、御寺様へ頼みに行くようなものだから御止およしなさいって。だけど大将いくら何といっても、すわり込んでいごかないんだからね、仕方がない。しかしあの男がああやって今頃私のうちへのんこのしゃあでって来るのも、実はというと、やっぱり昔しれこの関係があったからの事さ。だってそりゃ昔しも昔し、ずっと昔しの話でさあ。その上ただで借りやしまいしね、……」

「またただで貸す風でもなしね」

「そうさ。口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに、金にかけちゃあかの他人より阿漕あこぎなんだから」

「来た時にそういって遣れば好いのに」

 比田と兄との談話はなかなか元へ戻って来なかった。ことに比田は其所そこに健三のいるのさえ忘れてしまったように見えた。健三は好加減いいかげんに何とか口を出さなければならなくなった。

「一体どうしたんです。島田がこちらへでも突然伺ったんですか」

「いやわざわざ御呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり喋舌しゃべって済みません。――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その顛末てんまつを御話しする事にしようか」

「ええどうぞ」

 話しは意外にも単純であった。――ある日島田が突然比田の所へ来た。自分も年を取って頼りにするものがいないので心細いという理由のもとに、昔し通り島田姓に復帰してもらいたいからどうぞ健三にそう取り次いでくれと頼んだ。比田もその要求の突飛とっぴなのに驚ろいて最初は拒絶した。しかし何といっても動かないので、ともかくも彼の希望だけは健三に通じようと受合った。――ただこれだけなのである。

「少し変ですねえ」

 健三にはどう考えても変としか思われなかった。

「変だよ」

 兄も同じ意見を言葉にあらわした。

「どうせ変にゃ違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」

よくでやきが廻りゃしないか」

 比田も兄も可笑おかしそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時までも変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありようはずがなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったといって、島田が一人で訪ねて来た時の言葉を思い出した。しかしどこをどう思い出しても、其所そこからこんな結果が生れてようとは考えられなかった。

「どうしても変ですね」

 彼は自分のために同じ言葉をもう一度繰り返して見た。それからやっと気を換えてこういった。

「しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。ただ断りさえすりゃ好いんだから」



二十八

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 健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。

「しかし一旦は貴方あなたの御耳まで入れて置かないと、わたくしの落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を真面目まじめなものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。

「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」

「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。

「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、わたしだってその場ですぐ断っちまいまさあ」

 こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所そこへ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。

「いえ何御礼なんぞ御仰おっしゃられると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見てもうちへも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。

 彼は其所にある塩煎餅しおせんべいを取ってやたらにぼりぼりんだ。そうしてその相間あいま々々には大きな湯呑ゆのみへ茶を何杯もえて飲んだ。

「相変らずく食べますね。今でも鰻飯うなぎめしを二つ位るんでしょう」

「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦そばを五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」

 比田はその頃から食気くいけの強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのをめられたがって、時機さえあれば始終たたいて見せた。

 健三は昔しこの人に連れられて寄席よせなどに行った帰りに、能く二人して屋台店やたいみせ暖簾のれんくぐって、すし天麩羅てんぷら立食たちぐいをした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いたしかおどりとかいう三味線しゃみせんの手を教えたり、またはさばを読むという隠語などを習い覚えさせたりした。

「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍軽井沢かるいざわで蕎麦を食って御覧なさい、だまされたと思って。汽車のとまってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあってうもうがすぜ」

 彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。

「それよか、善光寺ぜんこうじ境内けいだいに元祖藤八拳とうはちけん指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」

這入はいって一つ遣って来やしないか」

「だって束修そくしゅうるんだからね、君」

 こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。しかし比田は一向そこに気が付かなかった。

「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所あすこに、ちんちらでんきてこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などといた。

 先刻さっきから落付おちついていた姉が、またはげしくき出した時、彼はようやく口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平をそろえて、黒い顔をごしごしこすった。

 兄と健三はちょっと茶の間の様子をのぞきに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元にすわっていた後で、別々に比田の家を出た。



二十九

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 健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は平生へいぜいの彼にとって遠い過去のものであった。しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。

 彼の頭には願仁坊主がんにんぼうずに似た比田の毬栗頭いがぐりあたまが浮いたり沈んだりした。猫のようにあごの詰った姉の息苦しくあえいでいる姿が薄暗く見えた。血の気のきかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり引込ひっこんだりした。

 昔しこの世界に人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去のにおいいだ。それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二のいやらしさとをもたらす混合物であった。

 彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると其所そこには時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼をった青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心をおどらした。

 或日彼はその青年の一人に誘われて、いけはたを散歩した帰りに、広小路ひろこうじから切通きりどおしへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた見番けんばんの前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。

 彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事がひらめいた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年あまり牢屋ろうやの中で暗い月日を送ったあとやっと世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。

「さぞつらいだろう」

 容色きりょうを生命とする女の身になったら、ほとんど堪えられないさびしみが其所そこにあるに違ないと健三は考えた。しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わないつれの青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。この青年はまだ二十三、四であった。彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。

「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」

 彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。若い時から白髪の生えたがる性質たちの彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。

「しかし他事ひとごとじゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄のうちで暮したのだから」

 青年は驚ろいた顔をした。

「牢獄とは何です」

「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」

 青年は答えなかった。

「しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ、今日こんにちの僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」

 健三の調子は半ば弁解的であった。半ば自嘲的じちょうてきであった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によってさきへ進んで行くのが、この時の彼にはいたずらに老ゆるという結果より外に何物をも持ちきたさないように見えた。

「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」

「そんな事はありません」

 彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。



三十

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 うちへ帰ると細君は奥の六畳に手枕てまくらをしたなりていた。健三はそのそばに散らばっている赤い片端きれはしだの物指ものさしだの針箱だのを見て、またかという顔をした。

 細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りをむさぼらないと、頭がしびれたようになって、その日一日何事をしても判然はっきりしないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに小言こごとをいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。

不貞寐ふてねをするんだ」

 彼は自分の小言が、歇私的里性ヒステリーしょうの細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当つらあてのために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しいつぶやきを口の内でらす事がよくあった。

何故なぜ夜早く寐ないんだ」

 彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼がえて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。

 健三はこうした細君の態度をにくんだ。同時に彼女の歇私的里ヒステリーを恐れた。それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。

 彼は其所そこに立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。ひじの上に載せられたその横顔はむしろ蒼白あおしろかった。彼は黙って立っていた。御住おすみという名前さえ呼ばなかった。

 彼はふと眼を転じて、あらわな白いかいなの傍に放り出された一束ひとたば書物かきものに気を付けた。それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を一纏ひとまとめくくったものとも見えなかった。惣体そうたいが茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじんよりで丁寧な結び目がしてあった。その書ものの一端は、ほとんど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。

 彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を蒼白あおじろい細君のひたいの上に注いだ。彼女のほおは滑り落ちるようにこけていた。

「まあ御痩おやせなすった事」

 久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。その時健三は何故なぜだかこの細君を痩せさせたすべての源因が自分一人にあるような心持がした。

 彼は書斎に入った。

 三十分も経ったと思う頃、門口かどぐちを開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。すわっている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。子供はやがてけ込むように奥へ入った。其所ではまた細君が蒼蠅うるさいといって、彼らをしかる声がした。

 それからしばらくして細君は先刻さっき自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。

「先ほど御留守に御兄おあにいさんがいらっしゃいましてね」

 健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。

「もう帰ったのかい」

「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって御上おあがりになりませんでした」

「そうか」

「何でも谷中やなかに御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだとおっしゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」

「何の用なのかね」

「やっぱりあの人の事なんだそうです」

 兄は島田の事で来たのであった。



三十一

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 細君は手に持った書付かきつけの束を健三の前に出した。

「これを貴夫あなたに上げてくれとおっしゃいました」

 健三は怪訝けげんな顔をしてそれを受取った。

「何だい」

「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、用箪笥ようだんす抽匣ひきだしの中にしまって置いたのを、今日きょう出して持って来たっておっしゃいました」

「そんな書類があったのかしら」

 彼は細君から受取った一括ひとくくりの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。書類は厚さにしてほぼ二すんもあったが、風の通らない湿気しっけた所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋のあとが偶然健三の眼を懐古的にした。彼はその不規則な筋を指の先でざらざらでて見た。けれども今更鄭寧ていねいからげたかんじんよりの結び目をほどいて、一々中をあらためる気も起らなかった。

「開けて見たって何が出て来るものか」

 彼の心はこの一句でよく代表されていた。

「御父さまが後々のちのちのためにちゃんと一纏ひとまとめにして取って御置おおきになったんですって」

「そうか」

 健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。

「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」

「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だからおれのいなくなったのちに、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、御兄おあにいさんに御渡になったんだそうですよ」

「そうかね、己は知らない」

 健三の父は中気で死んだ。その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。彼は親の死目しにめにさえ会わなかった。こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。

 彼はようやく書類の結目をいて一所に重なっているものを、一々ほごし始めた。手続き書と書いたものや、かわせ一札の事と書いたものや、明治二十一年一月約定金請取やくじょうきんうけとりの証と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらわれて来た。その帳面のしまいには、右本日受取うけとり右月賦金は皆済相成候事かいざいあいなりそうろうことと島田の手蹟で書いて黒い判がべたりとしてあった。

「おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな」

「あの人にですか」

 細君はその帳面を逆さまにのぞき込んでいた。

しめていくらになるかしら。しかしこの外にまだ一時にったものがあるはずだ。おやじの事だから、きっとその受取を取って置いたに違ない。どこかにあるだろう」

 書付はそれからそれへと続々出て来た。けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。

「小学校の卒業証書まで入れてある」

 その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。

「何ですかそれは」

「何だか己も忘れてしまった」

「よっぽど古いものね」

 証書のうちには賞状も二、三枚まじっていた。のぼり竜とくだり竜で丸い輪廓りんかくを取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。

「書物ももらった事があるんだがな」

 彼は『勧善訓蒙かんぜんくんもう』だの『輿地誌略よちしりゃく』だのを抱いて喜びの余り飛んでうちへ帰った昔を思い出した。御褒美ごほうびをもらう前の晩夢に見たあおい竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、平生へいぜいと違って今の健三には甚だ近く見えた。



三十二

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 細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦いったん下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧ていねい剥繰はぐって見た。

「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」

「あったんだね」

 健三はそのままほか書付かきつけに手を着けた。読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。

「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明わからないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」

 健三の父と島田との懸合かけあいについて必要な下書したがきらしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読みくだした。

貴夫あなたの御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」

「そんな話はおれも聞いてはいるが」

此所ここに書いてありますよ。――同人幼少にて勤向つとめむき相成りがたく当方とうかたへ引き取り五カ年間養育致候縁合そろえんあいを以てと」

 細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行まちぶぎょうか何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴ほうふつした。その父から、将軍の鷹狩たかがりに行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着とんじゃくしなかった。

「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子にられたのね。此所にそう書いてありますよ」

 健三は因果な自分を自分であわれんだ。平気な細君はその続きを読み出した。

「右健三三歳のみぎり養子に差遣さしつかわ置候処おきそろところ平吉儀妻へいきちぎさいつねと不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日こんにちまで十四カ年間養育致し、――あとは真赤まっかでごちゃごちゃして読めないわね」

 細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。健三は腕組をして黙って待っていた。細君はやがてくすくす笑い出した。

「何が可笑おかしいんだ」

「だって」

 細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。そうして人さし指の頭で、細かく割註わりちゅうのように朱で書いた所を抑えた。

「ちょっと其所そこを読んで御覧なさい」

 健三は八の字を寄せながら、その一行をずかしそうに読み下した。

「取扱い所勤務中遠山藤とおやまふじと申す後家ごけへ通じ合いそうろうが事の起り。――何だ下らない」

「しかし本当なんでしょう」

「本当は本当さ」

「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分のうちへ御帰りになった訳ね」

「しかし籍を返さないんだ」

「あの人が?」

 細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心をそそった。

 書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形いんぎょう濫用らんようして金を借り散らした例などが挙げてあった。

 いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下くだされ、残金――円は毎月まいげつ三十日限り月賦にて御差入おさしいれのつもり御対談云々うんぬんと長たらしく書いてあった。

すべ変梃へんてこな文句ばかりだね」

「親類取扱人比田寅八ひだとらはちって下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」

 健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。



三十三

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 葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。

「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」

 健三にはその方が便宜であった。彼の仕事は前の日か前の晩をつぶして調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。従って必要な時間をひとに食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。

 彼は兄の置いて行った書類をまた一纏ひとまとめにして、元のかんじんよりくくろうとした。彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。

「あんまり古くなって、弱ったのね」

「まさか」

「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、貴夫あなた

「そういえばそうかも知れない。何しろ抽斗ひきだしに投げ込んだなり、今日こんにちまで放って置いたんだから。しかし兄貴もくまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」

 細君は健三の顔を見て笑い出した。

「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」

「だがさ。紙屑籠かみくずかごの中へ入れてしまわなかったという事さ」

 細君は赤と白で撚った細い糸を火鉢ひばちの抽斗から出して来て、其所そこに置かれた書類を新らしくからげた上、それを夫に渡した。

おれの方にゃしまって置く所がないよ」

 彼の周囲は書物で一杯になっていた。手文庫には文殻ふみがらとノートがぎっしり詰っていた。空地くうちのあるのは夜具やぐ蒲団ふとんのしまってある一けんの戸棚だけであった。細君は苦笑して立ち上った。

御兄おあにいさんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」

「あの事でかい」

「それもそうですけれども、今日きょう御葬式にいらっしゃる時に、はかまるから借してくれって、此所ここ穿いていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるにきまっていますわ」

 健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。始めて学校を卒業した時彼はその兄からもらったべろべろの薄羽織うすばおりを着て友達と一所にいけはたで写真を撮った事をまだ覚えていた。その友達の一人いちにんが健三に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものはたれだろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織をさびしそうに眺めた。その羽織は古いの紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。懇意な友人の新婚披露ひろうに招かれてほしおか茶寮さりょうに行った時も、着るものがないので、袴羽織ともすべて兄のを借りて間に合せた事もあった。

 彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。今昔こんじゃくの感――そういう在来ありきたりの言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸にいた。

「袴位ありそうなものだがね」

「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」

「困るなあ」

「どうせうちにあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれでいでしょう。毎日使うものじゃなし」

「宅にある間はそれで好いがね」

 細君は夫に内所ないしょで自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。夫には何時自分が兄と同じ境遇に陥らないものでもないという悲観的な哲学があった。

 昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立っていた。今の彼は切り詰めた余裕のない生活をしている上に、周囲のものからは、活力の心棒のように思われていた。それが彼には辛かった。自分のようなものが親類中で一番好くなっていると考えられるのはなおさらなさけなかった。



三十四

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 健三の兄は小役人であった。彼は東京の真中にあるある大きな局へ勤めていた。その宏壮こうそうな建物のなかに永い間あわれな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。

「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」

 その建物のなかには何百という人間が日となくとなくはげしく働らいていた。気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。

「ああいやだ」

 活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。彼は病身であった。年歯としより早く老けた。年歯より早く干乾ひからびた。そうして色沢いろつやの悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。

「何しろ夜ないんだから、身体からだに障ってね」

 彼はよく風邪かぜを引いて咳嗽せきをした。ある時は熱も出た。するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。

 実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。彼は隔晩に局へ泊らせられた。そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。翌日あくるひの朝彼はぼんやりして自分のうちへ帰って来た。その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。

 それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。

今度こんだは少し危険あぶないようだから、誰かに頼んでくれないか」

 改革とか整理とかいううわさのあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。彼はその都度つど誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。健三は頬杖ほおづえを突いて考えさせられるばかりであった。

 彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日こんにちまで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗しょうこうして行くより外には何の事実も認められなかった。

「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」

 健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。その兄の派出好はでずきで勉強ぎらいであった昔も眼の前に見えるようであった。三味線しゃみせんいたり、一絃琴いちげんきんを習ったり、白玉しらたまを丸めてなべの中へ放り込んだり、寒天を煮て切溜きりだめで冷したり、すべての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。

「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」

 これが今の彼の折々ひともらす述懐になる位彼は怠け者であった。

 兄弟が死に絶えたあと、自然健三の生家の跡をぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。それで元からある借金をして、自分は小さなうち這入はいった。それから其所そこに納まり切らない道具類を売払った。

 間もなく彼は三人の子の父になった。そのうちで彼の最も可愛かあいがっていた惣領そうりょうの娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核にかかったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。しかし彼のなしる凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。二年越わずらった後で彼女が遂にたおれた時、彼の家の箪笥たんすはまるで空になっていた。儀式にはかまは無論、ちょっとした紋付の羽織はおりさえなかった。彼は健三の外国で着古した洋服をもらって、それを大事に着て毎日局へ出勤した。



三十五

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 二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通りはかまを返しに来た。

「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」

 彼は腰板の上に双方のはじを折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の見栄坊みえぼうで、ちょっとした包物を持つのもいやがった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り膏気あぶらっけもなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅をつまんで、それを鄭寧ていねいに折った。

「こりゃ好い袴だね。近頃こしらえたの」

「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」

 細君は結婚のときこの袴を着けて勿体もったいらしくすわった夫の姿を思いだした。遠い所でごく簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。

「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっともいたんでいないじゃないか」

「滅多に穿かないんですもの。それでも一人でいるうちにくそんな物を買う気になれたのね、あの人が。わたくし今でも不思議だと思いますわ」

「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」

 二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。

 東京からわざわざ彼女をれて来た細君の父は、娘に振袖ふりそでを着せながら、自分は一通りの礼装さえ調ととのえていなかった。セルの単衣ひとえを着流しのままでしまいには胡坐あぐらさえいた。ばあさん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってからもらうという約束があったので、媒酌人なこうどもその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた注意書ちゅういしょのようなものを読んで見た。それは立派な紙に楷書かいしょしたためられたいかめしいものには違なかったが、中には『東鑑あずまかがみ』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。

雌蝶めちょう雄蝶おちょうもあったもんじゃないのよ貴方あなた。だいち御盃おさかずきの縁が欠けているんですもの」

「それで三々九度をったのかね」

「ええ。だから夫婦中ふうふなかがこんなにがたぴしするんでしょう」

 兄は苦笑した。

「健三もなかなかの気六きむずかしやだから、御住おすみさんも骨が折れるだろう」

 細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う気色けしきも見えなかった。

「もう帰りそうなものですがね」

「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」

 兄はまだその後をいおうとした。細君はふいと立って茶の間へ時計を見に這入はいった。其所そこから出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。

「これがるんでしょう」

「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」

「ええ見せました」

「何といってたかね」

 細君は何とも答えようがなかった。

「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」

「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」

 細君は夫から頼まれてそのうちの最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。兄もそれぎり書類について語らなくなった。二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。その健三は約三十分ほどして帰って来た。



三十六

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 彼が何時いつもの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白とり合せた細い糸でくくられた例の書類は兄の膝の上にあった。

先達せんだっては」

 兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。

「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」

「そうですか」

 この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。

御由およしの送籍願が這入ってるんだよ」

 御由というのは兄のさいの名であった。彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が其所そこから出てようとは、二人とも思いがけなかった。

 兄は最初のさいを離別した。次の妻に死なれた。その二度目の妻が病気の時、彼は大して心配の様子もなくく出歩いた。病症が悪阻つわりだから大丈夫という安心もあるらしく見えたが、容体ようだいが険悪になって後も、彼は依然としてその態度を改める様子がなかったので、人はそれを気に入らないつまに対する仕打とも解釈した。健三もあるいはそうだろうと思った。

 三度目のさいを迎える時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。しかし弟には一言いちごんの相談もしなかった。それがための強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉あねの方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのはいやだと主張して、気の弱い兄を苦しめた。

「なんてさばけない人だろう」

 陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって頑固かたくなにした。習俗コンヴェンションを重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがるへいがあった。彼は慚愧ざんきの眼をもって当時の自分を回顧した。

「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったらいでしょう」

「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」

 兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。

「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」

「もう古い事さ」

 兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗しくじって、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は耄碌もうろくしていなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。

御幾年おいくつでしたかね」と細君がいた。

「御由ですか。御由は御住おすみさんと一つ違ですよ」

「まだ御若いのね」

 兄はそれには何とも答えずに、先刻からひざの上に置いた書類の帯を急に解き始めた。

「まだこんなものが這入はいっていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」

 彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは喜代子きよこという彼の長女の出産届の下書であった。「右者みぎは本月ほんげつ二十三日午前十一時五十分出生しゅっしょう致しそろ」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が筋違すじかいに入っていた。

「これも御父おとっさんの手蹟だ。ねえ」

 彼はその一枚の反故ほごを大事らしく健三の方へ向け直して見せた。

「御覧、虫が食ってるよ。もっともそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」

 結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。



三十七

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 兄は過去の人であった。華美はなやかな前途はもう彼の前によこたわっていなかった。何かに付けてうしろを振り返りがちな彼と対坐たいざしている健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。

さむしいな」

 健三は兄の道伴みちづれになるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりにさむしいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。

 兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな挨拶あいさつをしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。

「何しろ比田ひだからそういって来たんだからたしかだろう」

 その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせてったとも、健三には判明わからなかった。

「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。其所そこはつい聴いて来るのを忘れたよ。もっともあのぺん姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」

 健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける性質たちであった。ただひとから頭を下げて頼まれるのがうれしくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。

「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」

 兄はあんに比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で懸合事かけあいごとなどに出掛ける人ではなかった。少し気をつかわなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限りじっ辛防しんぼうして独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも可笑おかしくもない代りに何となく気の毒に見えた。

「自分も兄弟だからひとから見たらどこか似ているのかも知れない」

 こう思うと、兄を気の毒がるのは、つまり自分を気の毒がるのと同じ事にもなった。

「姉さんはもういんですか」

 問題を変えた彼は、姉の病気について経過をたずねた。

「ああ。どうも喘息ぜんそくってものは不思議だねえ。あんなに苦しんでいてもじきなおるんだから」

「もう話が出来ますか」

「出来るどころか、なかなか喋舌しゃべってね。例の調子で。――姉さんの考じゃ、島田は御縫おぬいさんの所へ行って、智慧ちえを付けられて来たんだろうっていうんだがね」

「まさか。それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう」

「そう」

 兄は考えていた。健三は馬鹿らしいという顔付をした。

「でなければね。きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって」

 健三はまだ黙っていた。

「何しろさむしいには違ないんだね。それもあいつの事だから、人情で淋しいんじゃない、よくで淋しいんだ」

 兄はお縫さんの所から毎月彼女の母の方へ手宛てあてが届く事をどうしてか知っていた。

「何でも金鵄勲章きんしくんしょうの年金か何かを御藤おふじさんがもらってるんだとさ。だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。なんしろあの位慾張よくばってるんだから」

 健三は慾で淋しがってる人に対して大した同情も起し得なかった。



三十八

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 事件のない日がまた少し続いた。事件のない日は、彼に取って沈黙の日に過ぎなかった。

 彼はその間に時々おのれの追憶を辿たどるべく余儀なくされた。自分の兄を気の毒がりつつも、彼は何時の間にか、その兄と同じく過去の人となった。

 彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると綺麗きれいに切りてられべきはずの過去が、かえって自分を追掛おっかけて来た。彼の眼は行手を望んだ。しかし彼の足はあとへ歩きがちであった。

 そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段はしごだんのついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角まっしかくであった。

 不思議な事に、その広いうちには人が誰も住んでいなかった。それをさみしいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。

 彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直まっすぐに見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中け廻った。

 彼は時々表二階おもてにかいあがって、細い格子こうしの間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛はらがけを掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。みちを隔てた真ん向うには大きな唐金からかねの仏様があった。その仏様は胡坐あぐらをかいて蓮台れんだいの上にすわっていた。太い錫杖しゃくじょうを担いでいた、それから頭にかさかぶっていた。

 健三は時々薄暗い土間どまへ下りて、其所そこからすぐ向側むこうがわの石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へのぼった。着物のひだへ足を掛けたり、錫杖のつらまったりして、うしろから肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。

 彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路こうじを二十間も折れ曲って這入はいった突き当りにあった。その奥は一面の高藪たかやぶおおわれていた。

 この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹でこぼこがあった。石と石の罅隙すきまからは青草が風になびいた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は草履穿ぞうりばきのままで、何度かその高い石段をのぼったりさがったりした。

 坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立こだち蒼黒あおぐろく見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地くぼちの左側に、また一軒の萱葺かやぶきがあった。家は表から引込ひっこんでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋かけぢゃやのような雑なかまえこしらえられて、常には二、三脚の床几しょうぎさえていよく据えてあった。

 葭簀よしずすきからのぞくと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端りょうはじを支える二本の棚柱たなばしらは池の中に埋まっていた。周囲まわりには躑躅つつじが多かった。中には緋鯉ひごいの影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影まぼろしのように赤くするそのうおを健三は是非捕りたいと思った。

 或日彼は誰も宅にいない時を見計みはからって、不細工な布袋竹ほていちくの先へ一枚糸を着けて、えさと共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿さおを放り出した。そうして翌日あくるひ静かに水面に浮いている一しゃく余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。……

「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」

 彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したといわなければならなかった。



三十九

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 それから舞台が急に変った。さみしい田舎いなかが突然彼の記憶から消えた。

 すると表に櫺子窓れんじまどの付いた小さなうち朧気おぼろげに彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。

 彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。

 彼は其所そこ疱瘡ほうそうをした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡ほんほうそうを誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちでころげ廻った。惣身そうしんの肉を所嫌わずむしって泣き叫んだ。

 彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。空いた場所の畳だか薄縁うすべりだかが、黄色く光って、あたりを伽藍堂がらんどうの如くさびしく見せた。彼は高い所にいた。其所で弁当を食った。そうして油揚あぶらげの胴を干瓢かんぴょういわえた稲荷鮨いなりずし恰好かっこうに似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄てすりにつらまって何度も下をのぞいて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。つれの大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅がつぶれた。するとその潰れた屋根の間から、ひげを生やした軍人いくさにんが威張って出て来た。――その頃の健三はまだ芝居というものの観念をっていなかったのである。

 彼の頭にはこの芝居とたかとが何の意味なしに結び付けられていた。突然鷹が向うに見える青い竹藪たけやぶの方へ筋違すじかいに飛んで行った時、誰だか彼のそばにいるものが、「れた外れた」と叫けんだ。すると誰だかまた手をたたいてその鷹を呼び返そうとした。――健三の記憶は此所ここでぷつりと切れていた。芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には不分明ふぶんみょうであった。従って彼が田圃たんぼやぶばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく判明わからなかった。そうしてその時代の彼の記憶には、ほとんど人というものの影が働らいていなかった。

 しかし島田夫婦が彼の父母として明瞭めいりょうに彼の意識にのぼったのは、それから間もないあとの事であった。

 その時夫婦は変な宅にいた。門口かどぐちから右へ折れると、ひと塀際へいぎわ伝いに石段を三つほどあがらなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地ろじで、抜けると広くてにぎやかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間どまも長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆しらほを懸けた船が何艘なんぞうとなくったり来たりした。河岸かしにはさくった中へまきが一杯積んであった。柵と柵の間にある空地あきちは、だらだらさがりに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹べんけいがにがよくはさみを出した。

 島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち退いたものか、それらはすべて健三の知識のほかよこたわる秘密であった。

 一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田のさい御常おつねは、化物ばけものと同居でもしているように気味を悪がった。もっともこの西洋人は上靴スリッパー穿いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖をっていた。御常がしゃくの気味だとかいってあおい顔をしてていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。



四十

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 西洋人は何時の間にか去ってしまった。小さい健三がふと心付いて見ると、その広いへやは既に扱所あつかいじょというものに変っていた。

 扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。テーブルや椅子いす今日こんにちのように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長くすわるのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分からって来るものも、ことごとく自分の下駄げた土間どまへ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へかしこまった。

 島田はこの扱所のかしらであった。従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の突当つきあたりに設けられた。其所そこから直角に折れ曲って、河の見える櫺子窓れんじまどの際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶はたしかにそれを彼に語り得なかった。

 島田の住居すまいと扱所とは、もとより細長い一ついえを仕切ったまでの事なので、彼は出勤しっきんといわず退出たいしつといわず、少なからぬ便宜をっていた。彼には天気のい時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す臆劫おっくうを省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いてうちへ帰った。

 こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の硯箱すずりばこの中にある朱墨しゅずみいじったり、小刀のさやを払って見たり、ひと蒼蠅うるさがられるような悪戯いたずらを続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。

 島田は吝嗇りんしょくな男であった。さいの御常は島田よりもなお吝嗇であった。

つめに火をともすってえのは、あの事だね」

 彼が実家に帰ってからのち、こんな評が時々彼の耳にった。しかし当時の彼は、御常が長火鉢ながひばちそばへ坐って、下女げじょ味噌汁おつけをよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。

「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀かわいそうだ」

 彼の実家のものは苦笑した。

 御常はまた飯櫃おはち御菜おかず這入はいっている戸棚に、いつでも錠をろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦そばを取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものようにぜんを出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。

 しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈きはちじょう羽織はおりを着せたり、縮緬ちりめんの着物を買うために、わざわざ越後屋えちごやまで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄をり分けている間に、夕暮の時間がせまったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。

 彼の望む玩具おもちゃは無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具もまじっていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟さんばそうの影を映して、烏帽子えぼし姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい独楽こまを買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際かしぎわ泥溝どぶの中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場まきつみばさくと柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込むかにの穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕いけどりにしてたもとへ入れた。……

 要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそからもらい受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。



四十一

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 しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。

 彼らが長火鉢ながひばちの前で差向いにすわり合う夜寒よさむの宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。

「御前の御父おとっッさんは誰だい」

 健三は島田の方を向いて彼をゆびさした。

「じゃ御前の御母おっかさんは」

 健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。

 これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形でいた。

「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」

 健三は厭々いやいやながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故なぜだか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。

 或時はこんな光景がほとんど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃しつこかった。

「御前はどこで生れたの」

 こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪たかやぶおおわれた小さな赤い門のうちを挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支さしつかえなく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向頓着とんじゃくしなかった。

健坊けんぼう、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」

 彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。

「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」

 健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。 彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ年歯としはの行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌みにくんだのである。

 夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようとつとめた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼には既に身体からだの束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。

 夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。

 自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部からたたき込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は蒼蠅うるさがった。

「なんでそんなに世話を焼くのだろう」

「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三はおのれ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう玩具おもちゃを喜んだり、錦絵にしきえを飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人をうれしがらなくなった。少なくともふたつのものを綺麗きれいに切り離して、純粋な楽みにふけりたかった。

 夫婦は健三を可愛かあいがっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心をるために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかもみずから知らなかった。



四十二

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 同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。

 彼の我儘わがままには日増ひましに募った。自分の好きなものが手にらないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所そこすわり込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中せなかから彼の髪の毛を力に任せてむしり取った。ある時は神社に放し飼のはとをどうしてもうちへ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母のちょうを欲しいままに専有しる狭い世界のうちに起きたりたりする事より外に何にも知らない彼には、すべての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。

 やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。

 ある朝彼は親に起こされて、眠い眼をこすりながら縁側えんがわへ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖をっていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてそのあとを知らなかった。

 眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから河岸かしの方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。

 驚ろいた養父母はすぐ彼を千住せんじゅ名倉なぐられて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼はの臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが幾日いくか続いたか彼は知らなかった。

「まだ立てないかい。立って御覧」

 御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。

 彼はしまいに立った。そうして平生へいぜいと何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいてうれしがりようが、如何いかにも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。

 彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶あいうつ事も少なくはなかった。

 御常は非常にうそく事のうまい女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露ばくろしてみずから知らなかった。

 或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題にのぼった甲という女を、はたで聴いていても聴きづらいほどののしった、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変めていた所だというような不必要な嘘までいた。健三は腹を立てた。

「あんな嘘を吐いてらあ」

 彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝ひれきした。甲の帰ったあとで御常は大変におこった。

「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」

 健三は御常の顔から早く火が出ればい位に感じた。

 彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛かあいがられても、それにむくいるだけの情合じょうあいがこっちに出てないような醜いものを、彼女は彼女の人格のうちかくしていたのである。そうしてその醜くいものを一番く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々だだに外ならなかったのである。



四十三

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 そのうち変な現象が島田と御常との間に起った。

 ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼のそばではげしくののしり合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。

 その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。

 こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩けんかが、今ではようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。

 幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴みなれないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。

 やがて御常は健三に事実を話して聞かせた。その話によると、彼女は世の中で一番の善人であった。これに反して島田は大変な悪ものであった。しかし最も悪いのは御藤おふじさんであった。「あいつが」とか「あの女が」とかいう言葉を使うとき、御常は口惜しくって堪まらないという顔付をした。眼から涙を流した。しかしそうした劇烈な表情はかえって健三の心持を悪くするだけで、外に何の効果もなかった。

「あいつはかたきだよ。御母おっかさんにも御前にも讐だよ。骨をにしても仇討かたきうちをしなくっちゃ」

 御常は歯をぎりぎりんだ。健三は早く彼女の傍を離れたくなった。

 彼は始終自分の傍にいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、むしろ島田の方を好いた。その島田は以前と違って、大抵はうちにいない事が多かった。彼の帰る時刻は何時も夜更よふけらしかった。従って日中は滅多に顔を合せる機会がなかった。

 しかし健三は毎晩暗い灯火ともしびの影で彼を見た。その険悪な眼といかりふるえる唇とを見た。咽喉のどから渦捲うずまけむりのようにれて出るその憤りの声を聞いた。

 それでも彼は時々健三をれて以前の通り外へ出る事があった。彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものをたしなんだ。ある晩彼は健三と御藤さんの娘の御縫おぬいさんとを伴れて、にぎやかな通りを散歩した帰りに汁粉屋しるこやへ寄った。健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。それで彼らはろくに顔さえ見合せなかった。口はまるで利かなかった。

 宅へ帰った時、健三は御常から、まず島田にどこへ伴れて行かれたかをかれた。それから御藤さんの宅へ寄りはしないかと念を押された。最後に汁粉屋へは誰と一所に行ったという詰問を受けた。健三は島田の注意にかかわらず、事実をありのままに告げた。しかし御常の疑いはそれでもなかなか解けなかった。彼女はいろいろなかまを掛けて、それ以上の事実を釣り出そうとした。

「あいつも一所なんだろう。本当を御いい。いえば御母おっかさんが好いものを上げるから御いい。あの女も行ったんだろう。そうだろう」

 彼女はどうしても行ったといわせようとした。同時に健三はどうしてもいうまいと決心した。彼女は健三をうたぐった。健三は彼女を卑しんだ。

「じゃあの子に御父おとっッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」

 何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかし御常は其所そこで留まる女ではなかった。

「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」

 嫉妬しっとから出る質問は何時まで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なくあらわして顧り見ない彼女は、とおにも足りないわが養い子から、愛想あいそを尽かされてごうも気が付かずにいた。



四十四

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 間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。河岸かしを向いた裏通りとにぎやかな表通りとの間に挟まっていた今までの住居すまいも急にどこへか行ってしまった。御常とたった二人ぎりになった健三は、見馴みなれない変なうちの中に自分を見出だした。

 その家の表には門口かどぐち縄暖簾なわのれんを下げた米屋だか味噌屋みそやだかがあった。彼の記憶はこの大きな店と、でた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。しかし自分の新らしく移った住居については何の影像イメジも浮かべ得なかった。「時」は綺麗きれいにこのびしい記念かたみを彼のために払い去ってくれた。

 御常は会う人ごとに島田の話をした。口惜くやしい口惜しいといって泣いた。

「死んでたたってやる」

 彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける媒介なかだちとなるに過ぎなかった。

 夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。また専有物だと信じていた。

「これからは御前一人が依怙たよりだよ。いかい。しっかりしてくれなくっちゃいけないよ」

 こう頼まれるたびに健三はいい渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。

 健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろよくに押し出される邪気が常に働いていた。それが頑是がんぜない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。しかしそのの点について彼は全くの無我夢中であった。

 二人の生活はわずかのしか続かなかった。物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再縁が現状の変化を余儀なくしたのか、年歯としの行かない彼にはまるで解らなかった。何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。

「考えるとまるでひとの身の上のようだ。自分の事とは思えない」

 健三の記憶にのぼせた事相は余りに今の彼と懸隔していた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。

「御常さんて人はその時にあの波多野はたのとかいううちへまた御嫁に行ったんでしょうか」

 細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の上書うわがきをまだ覚えていた。

「そうだろうよ。おれく知らないが」

「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」

 健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。生死しょうしなどは無論考えの中になかった。

「警部だっていうじゃありませんか」

「何んだか知らないね」

「あら、貴夫あなたが自分でそう御仰おっしゃったくせに」

何時いつ

「あの手紙をわたくしに御見せになった時よ」

「そうかしら」

 健三は長い手紙の内容を少し思い出した。その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。乳がないので最初からおじやだけで育てた事だの、下性げしょうが悪くって寐小便ねしょうべんの始末に困った事だの、すべてそうした顛末てんまつを、飽きるほどくわしく述べた中に、甲府こうふとかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変仕合しあわせだと書いてあった。しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、其所そこになると健三には全く覚がなかった。

「ことによると、もう死んだかも知れないね」

「生きているかも分りませんわ」

 二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。

「あの人が不意にって来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」

 細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙っていた。



四十五

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 健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いくらかずつの送金をしてくれるのに、小さい時分あれほど世話になって置きながら、今更知らん顔をしていられた義理でもあるまいといった風の筆意が、一ページごとに見透かされた。

 その時彼はこの手紙を東京にいる兄のもとに送った。勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるように先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が来た。もともと養家先を離縁になって、他家へ嫁に行った以上は他人である、その上健三はその養家さえ既に出てしまった後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るという理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、その返事には書いてあった。

 御常の手紙はそのふっつり来なくなった。健三は安心した。しかしどこかに心持の悪い所があった。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかった。同時に彼女を忌み嫌う念は昔の通り変らなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。そうして島田に対するよりも一層嫌悪の念がはげしかった。

「島田一人でもう沢山なところへ、また新らしくそんな女がって来られちゃ困るな」

 健三は腹の中でこう思った。夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、漸々だんだん経済上の苦境に陥いって来たのである。

 健三は時々うちへ話しに来る青年と対坐たいざして、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。

 或日彼はその青年の一人に向ってこういった。

「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」

 青年は苦笑した。そうして答えた。

「それは貴方あなたがた時代の事でしょう。今の青年はそれほど呑気のんきでもありません。なんになろうとか、なにをしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまたく承知していますから」

 なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知せちがらくなっていた。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少い違った点があった。

「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」

 青年は解しがたいという顔をした。

「あなただってちっとも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱりおれの世界はこれからだという所があるようですね」

 今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に仏蘭西フランスのある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。

 人がおぼれかかったり、または絶壁からおちようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。

「人間は平生へいぜい彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟とっさに起ったある危険のために突然ふさがれて、もう己は駄目だと事がきまると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこですべての過去の経験が一度に意識にのぼるのだというんだね。その説によると」

 青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。健三も一刹那いっせつなにわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。



四十六

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 健三の心を不愉快な過去にき込む端緒いとくちになった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。

 その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。

「どこまでこの影がおれ身体からだに付いて回るだろう」

 健三の胸は好奇心の刺戟しげきに促されるよりもむしろ不安の漣漪さざなみに揺れた。

「この間比田ひだの所をちょっと訪ねて見ました」

 島田の言葉遣はこの前と同じように鄭重ていちょうであった。しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。彼の口ぶりはまるで無沙汰ぶさた見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如くであった。

「あのへんも昔と違って大分だいぶ変りましたね」

 健三は自分の前にすわっている人の真面目まじめさの程度をうたぐった。果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。

「もとはそら彼処あすこたきがあって、みんな夏になるとく出掛けたものですがね」

 島田は相手に頓着とんじゃくなくただ世間話を進めて行った。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人のあといて引っ張られて行くだけであった。すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。しまいに彼は健三の姉を呼びてにし始めた。

御夏おなつも年を取ったね。もっとももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能くわたしって掛ったりなんかしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら喧嘩けんかをしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ可哀想かわいそうだからそのたんびにいくらかずつ都合してったよ」

 島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞおこるだろうと思うように横柄おうへいであった。それから手前勝手な立場からばかり見たゆがんだ事実をひとに押し付けようとする邪気に充ちていた。

 健三は次第に言葉ずくなになった。しまいには黙ったなりじっと島田の顔を見詰た。

 島田は妙に鼻の下の長い男であった。その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。だからちょっと馬鹿のようであった。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。まゆはむしろ険しかった。狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられたためしがなかった。法印ほういんか何ぞのように常にうしろで付けられていた。

 彼はふと健三の眼を見た。そうして相手の腹を読んだ。一旦横風おうふうの昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の鄭寧ていねいさに立ち戻って来た。健三に対して過去のおのれに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。

 彼はへやの内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には生憎あいにく額も掛物も掛っていなかった。

李鴻章りこうしょうの書は好きですか」

 彼は突然こんな問を発した。健三は好きともきらいともいいかねた。

「好きなら上げてもござんす。あれでも価値ねうちにしたら今じゃよっぽどするでしょう」

 昔し島田は藤田東湖ふじたとうこの偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々はくはつそうがんばんしのようんぬんと書いた半切はんせつ唐紙とうしを、台所のへっついの上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものかすこぶる怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田はようやく帰った。



四十七

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「何しに来たんでしょう、あの人は」

 目的あてなしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。

「解らないね、どうも。一体さかなけだものほど違うんだから」

「何が」

「ああいう人とおれなどとはさ」

 細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。溝をこしらえたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で其所そこたいらにしたら好かろうという考えをっていた。細君の同情は無論自分の家族の方にあった。彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。同時に夫が里と調和しなくなった源因のうちに、自分が主な要素として這入はいっている事も認めていた。

 細君は黙って話を切り上げようとした。しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。

「御前はそう思わないかね」

「そりゃあの人と貴夫あなたとなら魚と獣位違うでしょう」

「無論外の人と己と比較していやしない」

 話はまた島田の方へ戻って来た。細君は笑いながらいた。

「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」

「己にろうかっていうんだ」

御止およしなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」

 夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。二円五十銭の月賦で、この間拵えた雨合羽あまがっぱの代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり長閑のどかな心持になれようはずがなかった。

「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」

「うん何にもいわない。まるできつねつままれたようなものだ」

 始めからこっちの気を引くためにわざとそんな突飛とっぴな要求を持ち出したものか、または真面目まじめ懸合かけあいとして、それを比田ひだへ持ち込んだあと、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だとさとったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。

「どっちでしょう」

「到底解らないよ、ああいう人の考えは」

 島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。

 彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。その時健三は書斎に灯火あかりけて机の前にすわっていた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒いとくちを見せかけた所であった。彼は一図にそれを手近まで手繰たぐり寄せようとして骨を折った。彼の思索は突然ち切られた。彼は苦い顔をしてへやの入口に手を突いた下女げじょの方を顧みた。

「何もそう度々たびたび来て、ひとの邪魔をしなくっても好さそうなものだ」

 彼は腹の中でこうつぶやいた。断然面会を謝絶する勇気をたない彼は、下女を見たなり少時しばらく黙っていた。

「御通し申しますか」

「うん」

 彼は仕方なしに答えた。それから「御奥おくさんは」とたずねた。

「少し御気分が悪いとおっしゃって先刻さっきから伏せっていらっしゃいます」

 細君のるときは歇私的里ヒステリーの起った時に限るように健三には思えてならなかった。彼はようやく立ち上った。



四十八

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 電気燈のまだごとにともされない頃だったので、客間にはいつもの通り暗い洋燈ランプいていた。

 その洋燈は細長い竹の台の上に油壺あぶらつぼめ込むようにこしらえたもので、つづみの胴の恰形かっこうに似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。

 健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せてしんを出したり引っ込ましたりしながら灯火あかりの具合を眺めていた。彼は改まった挨拶あいさつもせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。

 なるほど火屋ほやが薄黒くくすぶっていた。丸心まるじん切方きりかたたいらに行かないところを、むやみにを高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。

「換えさせましょう」

 家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は下女げじょを呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。しかし島田は生返事をするぎりで、容易にすすで曇った火屋から眼を離さなかった。

「どういう加減だろう」

 彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明にった丸いかさの隙間をのぞき込んだ。

 健三の記憶にある彼は、こんな事をく気にするという点において、すこぶ几帳面きちょうめんな男に相違なかった。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側のちりを気にした。彼はしりをからげて、ふき掃除をした。跣足はだしで庭へ出てらざる所まで掃いたり水を打ったりした。

 物が壊れると彼はきっと自分で修復なおした。あるいは修復そうとした。それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決していとわなかった。そういう事が彼のしょうにあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。

「なにそんなものはうちで出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」

 損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。

うちの人はあんまり正直過ぎるんで」

 御藤おふじさんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、うそと承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少したしかな根底があるらしく思えた。

必竟ひっきょう大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」

 健三はただ金銭上のよくを満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうしてくぼんだ眼を今硝子ガラスの蓋のそばへ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。

「彼はこうして老いた」

 島田の一生をせんじ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉がきらいであった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾ごうよくな老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。

 その時島田は洋燈の螺旋ねじを急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火あかりをなおの事暗くした。

「どうもどこか調子が狂ってますね」

 健三は手をたたいて下女に新しい洋燈を持って来さした。



四十九

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 その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。

 しかし彼はもう先達せんだっての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。李鴻章りこうしょうの李の字も口にしなかった。復籍の事はなお更であった。おくびにさえ出す様子を見せなかった。

 彼はなるべくただの話をしようとした。しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠くへだたっているとも思えなかった。

 健三は退屈した。しかしその退屈のうちには一種の注意がとおっていた。彼はこの老人が或日或物を持って、今より判明はっきりした姿で、きっと自分の前に現れてくるに違ないという予覚に支配された。その或物がまた必ず自分に不愉快なもしくは不利益な形を具えているに違ないという推測にも支配された。

 彼は退屈のうちに細いながらかなり鋭どい緊張を感じた。そのせいか、島田の自分を見る眼が、さっき擦硝子すりガラスかさを通して油煙にくすぶった洋燈ランプを眺めていた時とは全く変っていた。

すきがあったら飛び込もう」

 落ち込んだ彼の眼は鈍いくせに明らかにこの意味を物語っていた。自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。しかし時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付おちつきを与えてりたくなる場合もあった。

 その時突然奥の間で細君のうなるような声がした。健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感をっていた。彼はすぐ耳をそばだてた。

「誰か病気ですか」と島田がいた。

「ええさいが少し」

「そうですか、それはいけませんね。どこが悪いんです」

 島田はまだ細君の顔を見た事がなかった。何時どこから嫁に来た女かさえ知らないらしかった。従って彼の言葉にはただ挨拶あいさつがあるだけであった。健三もこの人から自分の妻に対する同情を求めようとは思っていなかった。

「近頃は時候が悪いから、く気を付けないといけませんね」

 子供はうに寐付ねついたあとなので奥はしんとしていた。下女げじょは一番懸け離れた台所のそばの三畳にいるらしかった。こんな時に細君をたった一人で置くのが健三には何より苦しかった。彼は手をたたいて下女を呼んだ。

「ちょっと奥へ行って奥さんの傍にすわっててくれ」

「へええ」

 下女は何のためだか解らないといった様子をして間のふすまを締めた。健三はまた島田の方を向き直った。けれども彼の注意はむしろ老人を離れていた。腹の中で早く帰ってくれればいと思うので、その腹が言葉にも態度にもありありと現れた。

 それでも島田は容易に立たなかった。話の接穂つぎほがなくなって、手持無沙汰ぶさたで仕方なくなった時、始めて座蒲団ざぶとんから滑り落ちた。

「どうも御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」

 細君の病気については何事もいわなかった彼は、沓脱くつぬぎへ下りてからまた健三の方を振り向いた。

「夜分なら大抵御暇ですか」

 健三は生返事をしたなり立っていた。

「実は少し御話ししたい事があるんですが」

 健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。老人は健三の手に持った暗い灯影ひかげから、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐にもぐり込もうという人の悪いいやな色か動いていた。

「じゃ御免」

 最後に格子こうしを開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。健三の門には軒燈さえいていなかった。



五十

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 健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。

「どうかしたのか」

 細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲団ふとんの横からまたその眼を見下みおろした。

 ふすまの影に置かれた洋燈ランプは客間のよりも暗かった。細君のひとみがどこに向って注がれているのかく分らない位暗かった。

「どうかしたのか」

 健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。

 彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。

「もうあっちへ行ってもい。此所ここにはおれがいるから」

 ぼんやり蒲団の裾にすわって、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女げじょは無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼はまゆひそめながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もならおんなを呼び返して小言こごとをいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。

 細君の眼はもう天井を離れていた。しかし判然はっきりどこを見ているとも思えなかった。黒い大きな瞳子ひとみには生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と直接じかつながっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔ひとみの向いた見当を眺めていた。

「おい」

 健三は細君の肩をゆすった。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其所そこに夫の存在を認める何らの輝きもなかった。

「おい、己だよ。分るかい」

 こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざいなこの言葉のうちには、ひとに知れないで自分にばかり解っている憐憫れんびんと苦痛と悲哀があった。それからひざまずいて天にいのる時の誠と願もあった。

「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」

 彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。感傷的センチメンタルな気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的デモンストラチーヴになれない男であった。

 細君の眼は突然平生へいぜいの我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。

貴夫あなた?」

 彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。

「あの人はもう帰ったの」

「うん」

 二人はしばらく黙っていた。細君はまたくびを曲げて、そばている子供の方を見た。

「能く寐ているのね」

 子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。

 健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。

「水で頭でも冷してろうか」

「いいえ、もうござんす」

「大丈夫かい」

「ええ」

「本当に大丈夫かい」

「ええ。貴夫ももう御休みなさい」

「己はまだ寐る訳に行かないよ」

 健三はもう一遍書斎へ入って静かなを一人かさなければならなかった。



五十一

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 彼の眼がえている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。

 彼は明日あしたの朝多くの人より一段高い所に立たなければならないあわれな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目まじめに筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心をきずつけるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。

明日あしたの講義もまたまとまらないのかしら」

 こう思うと彼は自分の努力が急にいやになった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動せんどうされて起る、「おれの頭は悪くない」という自信も己惚うぬぼれたちまち消えてしまった。同時にこの頭の働らきをき乱す自分の周囲についての不平も常時ふだんよりは高まって来た。

 彼はしまいに投げるように洋筆ペンを放り出した。

「もうやめだ。どうでも構わない」

 時計はもう一時過ぎていた。洋燈ランプを消して暗闇くらやみを縁側伝いに廊下へ出ると、突当つきあたりの奥の間の障子二枚だけがに映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。

 子供は犬ころのようにかたまってていた。細君も静かに眼を閉じて仰向あおむけに眠っていた。

 音のしないように気を付けてそのそばすわった彼は、心持くびを延ばして、細君の顔を上からのぞき込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔ねがおの上にかざした。彼女は口を閉じていた。彼のてのひらには細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息いきが微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。

 彼はようやく出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸をいて起った。けれども彼はすぐその衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女をゆすり起そうとしたが、それもやめた。

「大丈夫だろう」

 彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人なんびともこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。

 細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女のまぶたの上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛まつげとざしている奥を見るために、彼は正体たわいなく寐入った細君を、わざわざゆすり起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれればいのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な真似まねをしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。

 やがて彼は寐衣ねまきを着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。

 翌朝あくるあさ彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。

貴夫あなたもう時間ですよ」

 まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計たもとどけいを眺めていた。下女げじょ俎板まないたの上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。

おんなはもう起きてるのか」

「ええ。先刻さっき起しに行ったんです」

 細君は下女を起して置いてまた床の中に這入はいったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。

 昨夜ゆうべの事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。



五十二

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 二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察せいさつも払わなかった。二人は二人に特有な因果関係をっている事を冥々めいめいうちに自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事もみ込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。

 健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りてうちへ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅からむかいが来るような心持になった。彼は広いへやの片隅にいて真ん向うの突当つきあたりにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いてかぶと鉢金はちがねを伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆ヴァーニッシで塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。

 これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のためにたたられる恐れをいだかなかった。彼はこの老人を因業いんごう強慾ごうよくな男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊みくびってもいた。ただらぬ会談に惜い時間をつぶされるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。

「何をいって来る気かしら、この次は」

 襲われる事を予期して、あんにそれを苦にするような健三の口振くちぶりが、細君の言葉を促がした。

「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」

 健三は心の裡で細君のいう事をうけがった。しかし口ではかえって反対な返事をした。

「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」

「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭めんどくさいにゃ違いないでしょう、いくら貴夫あなただって」

「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」

 多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、いつもよりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。

 島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。すきがあったら飛び込もうとして、この間からねらいを付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着とんじゃくなく、ついに健三に肉薄にくはくし始めた。

「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もないわたしなんだから、是非一つ」

 老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角においていため付けるほど強くも現われていなかった。

 健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計をつかさどっていない彼の財嚢ざいのうは無論軽かった。空のまま硯箱すずりばこそば幾日いくかも横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣をつかみ出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。

「どうせ貴方あなたの請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆みんな上げたんですよ」

 健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金をった事を一口もいわなかった。



五十三

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 翌日あくるひ例刻に帰った健三は、机の前にすわって、大事らしく何時もの所に置かれた昨日きのうの紙入に眼を付けた。革でこしらえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。彼はそれを倫敦ロンドンの最もにぎやかな町で買ったのである。

 外国から持って帰った記念が、何の興味もかなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。細君が何故なぜ丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥いちべつを空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。

 その内何かで金のる日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。

「おい少し金を入れてくれ」

 細君は右の手で物指ものさしを持ったまま夫の顔を下から見上げた。

這入はいってるはずですよ」

 彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人に金をられたことも全く夫婦間の話題にのぼっていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。

「あれはもうっちゃったんだ。紙入はうから空っぽうになっているんだよ」

 細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。

「ちょっと拝見」

 健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。細君は中をあらためた。中からは四、五枚の紙幣さつが出た。

「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」

 彼女は手垢てあかの付いたしわだらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如くかすかな笑に伴なった。

「何時入れたのか」

「あの人の帰った後でです」

 健三は細君の心遣をうれしく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。

おれ内所ないしょで島田に金をられたのを気の毒とでも思ったものかしら」

 彼はこう考えた。しかし口へ出してその理由わけを彼女にただして見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んでおのれを説明する面倒をあえてしなかった。彼女の填補てんぽした金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。

 その内細君の御腹おなかが段々大きくなって来た。起居たちいに重苦しそうな呼息いきをし始めた。気分もく変化した。

わたくし今度こんだはことによると助からないかも知れませんよ」

 彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。

何故なぜだい」

「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」

 質問も説明もこれ以上にはのぼる事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。りんが鼓膜の及ばないかすかな世界に潜り込むように。

 彼女は悪阻つわりで死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養灌腸かんちょうをするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。

「女は詰らないものね」

「それが女の義務なんだから仕方がない」

 健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目でたらめに過ぎなかった。彼は腹の中で苦笑した。



五十四

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 健三の気分にもあがさがりがあった。出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。時によると、不快そうにている彼女のていたらくがしゃくに障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと樫貪けんどんらざる用を命じて見たりした。

 細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つともるとも勝手にしろという態度をとった。平生へいぜいからあまり口数を利かない彼女はますます沈黙を守って、それが夫の気を焦立いらだたせるのを目の前に見ながら澄ましていた。

「つまりしぶといのだ」

 健三の胸にはこんな言葉が細君のすべての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼はほかの事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶといという観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを真闇まっくらにして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染きちがいじみた癇癪持かんしゃくもちとして評価されなければならなかった。

貴夫あなたがそう邪慳じゃけんになさると、また歇私的里ヒステリーを起しますよ」

 細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三は非道ひどくその光を怖れた。同時にはげしくそれをにくんだ。我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部うわべではいて勝手にしろという風を装った。その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君はく承知していた。

「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」

 彼女は健三に聞えよがしにつぶやいた。健三は死んじまえといいたくなった。

 或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃かみそりがあった。彼女が黒檀エボニーさやに折り込まれたその刃を真直まっすぐに立てずに、ただ黒いだけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃をぎ取った。

「馬鹿な真似をするな」

 こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子にめ込んだ硝子ガラスあたってその一部分をくだいて向う側のえんに落ちた。細君は茫然ぼうぜんとして夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。

 彼女は本当に情にせまって刃物三昧はものざんまいをする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものをもてあそぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を五条いつすじにも六条むすじにも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死をてらう人のようであった。健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。

 その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、まったくその解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前におのれを懺悔ざんげする人の誠を以て、彼は細君の膝下しっかひざまずいた。彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。

「今だってその源因が判然はっきり分りさえすれば」

 彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼は昨夕ゆうべの事について、ついに一言ひとことも細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。



五十五

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 こういう不愉快な場面のあとには大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入はいって来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。

 けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返してはばからなかった。

「じゃ当分子供をれてうちへ行っていましょう」

 細君はこういって一旦里へ帰った事もあった。健三は彼らの食料を毎月まいげつ送ってるという条件のもとに、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的広い屋敷に下女げじょとたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しもさびしいとは思わなかった。

「ああ晴々せいせいしてい心持だ」

 彼は八畳の座敷の真中に小さな餉台ちゃぶだいを据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。丁度極暑の頃だったので、身体からだの強くない彼は、よく仰向あおむけになってばたりと畳の上に倒れた。何時替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の脊中せなかを蒸すような黄色い古びがしんまで透っていた。

 彼のノートもまた暑苦しいほど細かな字で書きくだされた。はえの頭というより外に形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計こしらえるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。そして苦痛であった。また義務であった。

 巣鴨すがもの植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた。それを茶の間のえんに置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜こんだ。けれども彼女の盆栽を軽蔑けいべつした。それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物しろものだったのである。

 彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。彼女の里へ顔を出そうなどという気はまるで起らなかった。彼女の病気に対する懸念もことごとく消えてしまった。

「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とかいって来るだろう」

 彼の心は二人一所にいる時よりもはるかに平静であった。

 細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。その代り向うでも来なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継布つぎのあたった青い蚊帳かやの中に入ってた。

 一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥あちこちしていた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸しおりどの影から急に姿を現わした。

貴夫あなたもとのようになって下さらなくって」

 健三は細君の穿いている下駄げたの表が変にささくれて、そのうしろの方が如何いかにも見苦しくり減らされているのに気が付いた。彼はあわれになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。

「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」

 細君が帰ってから幾日いくか目か経ったのち、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍ふえんしたに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動ふるまいであった。彼は一も二もなく承知した。細君はまた子供を連れて駒込こまごめへ帰って来た。しかし彼女の態度は里へ行く前とごうも違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母にだまされたような気がした。

 こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。



五十六

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 同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅うるさくした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。

い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」

 島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。

「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」

「たしか十シリングだったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」

「五円?――五円は随分好いですね。浅草あさくさ黒船町くろふねちょうに古くからわたしの知ってる袋物屋があるが、彼所あすこならもっとずっと安くこしらえてくれますよ。こんだる時にゃ、私が頼んで上げましょう」

 健三の紙入は何時も充実していなかった。全く空虚からの時もあった。そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せてしりを長くした。

「小遣をらないうちは帰らない。いやな奴だ」

 健三は腹の内で憤った。しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。

 そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。二十、三十とまとまった金を、平気に向うから請求し始めた。

「どうか一つ。私もこの年になってかる子はなし、依怙たよりにするのは貴方あなた一人なんだから」

 彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、くぼんだ鈍い眼を狡猾こうかつらしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。

「これだけの生活くらしをしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」

 彼はこんな事まで口へ出していった。

 彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。

「ありゃ成し崩しにおれ侵蝕しんしょくする気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄ってようってんだ。実に厭な奴だ」

 健三は腹が立ちさえすれば、よく実にとか一番とかとかいう最大級を使って欝憤うっぷんの一端をらしたがる男であった。こんな点になると細君の方はしぶとい代りに大分だいぶ落付おちついていた。

貴夫あなたが引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」

 健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとしたほおと唇とに見せた。

「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」

「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」

「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」

 細君には健三の意味がく通じなかった。

「どうせ貴夫の眼から見たら、わたくしなんぞは馬鹿でしょうよ」

 健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。

 二人の間に感情の行違ゆきちがいでもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影うしろかげを見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただじっすわっていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時いつまでも構う気色けしきを見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢ざしきろうへ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。



五十七

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 健三の心は紙屑かみくずを丸めたようにくしゃくしゃした。時によると肝癪かんしゃくの電流を何かの機会に応じてほからさなければ苦しくって居堪いたたまれなくなった。彼は子供が母に強請せびって買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛けとばして見たりした。赤ちゃけた素焼すやきの鉢が彼の思い通りにがらがらとわれるのさえ彼には多少の満足になった。けれども残酷むごたらしくくだかれたその花と茎のあわれな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢はかない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、うれしがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかしその子供の前にわが非を自白する事はあえてし得なかった。

おれの責任じゃない。必竟ひっきょうこんな気違じみた真似まねを己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」

 彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。

 平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。彼は一人いて一人自分の熱でくすぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女げじょしかった。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度をはじた。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ないおのれをいかった。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と心のうちで読み上げた。

おれが悪いのじゃない。己の悪くない事は、仮令たといあの男に解っていなくっても、己にはく解っている」

 無信心な彼はどうしても、「神には能く解っている」という事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳は何時でも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。

 彼は時々金の事を考えた。何故なぜ物質的の富を目標めやすとして今日こんにちまで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。

「己だって、専門にその方ばかりりゃ」

 彼の心にはこんな己惚おのぼれもあった。

 彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。極めて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪あくせくしているような島田をさえ憐れに眺めた。

「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」

 こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。

 彼は元来もうける事の下手へたな男であった。儲けられてもその方に使う時間を惜がる男であった。卒業したてに、ことごとほかの口を断って、ただ一つの学校から四十円もらって、それで満足していた。彼はその四十円の半分を阿爺おやじに取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚あぶらげばかり食っていた。しかし彼はその間に遂に何事も仕出かさなかった。

 その時分の彼と今の彼とは色々な点において大分だいぶ変っていた。けれども経済に余裕ゆとりのないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。

 彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。しかし今から金持になるのは迂闊うかつな彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすればまた色々な塵労わずらいが邪魔をした。その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。どうしていか解らない彼はしきりにれた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入はいって来るにはまだ大分があった。



五十八

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 健三は外国から帰って来た時、既に金の必要を感じた。久しぶりにわが生れ故郷の東京に新らしい世帯を持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。

 彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にあるさな家を空けて彼らの住居すまいに充てた。細君の祖父母が亡くなるまでいたその家は狭いながらさほど見苦しくもなかった。張交はりまぜふすまには南湖なんこだの鵬斎ぼうさいの書だの、すべて亡くなった人の趣味をしのばせる記念かたみと見るべきものさえもとの通りり付けてあった。

 父は官吏であった。大して派出はでな暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせるほど窮してもいなかった。その上健三の細君へは月々いくらかの手当が公けから下りた。健三は安心してわが家族を後に遺した。

 彼が外国にいるうち内閣が変った。その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出されてはげしく活動しなければならないある位置に就いた。不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。父は崩壊の渦のうちき込まれなければならなかった。

 遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、ほとんど心を悩ませなかった。

 迂闊うかつな彼は帰ってからも其所そこに注意を払わなかった。また気も付かなかった。彼は細君が月々もらう二十円だけでも子供二人に下女げじょを使って充分って行ける位に考えていた。

「何しろ家賃が出ないんだから」

 こんな呑気のんきな想像が、実際を見た彼の眼を驚愕おどろきで丸くさせた。細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。仕方がないので、しまいには健三の置いて行った地味じみな男物を縫い直して身にまとった。同時に蒲団ふとんからは綿が出た。夜具は裂けた。それでもそばに見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。彼は自分の位地を失ったあと、相場に手を出して、多くもない貯蓄をことごとく亡くしてしまったのである。

 首の回らないほど高いカラを掛けて外国から帰って来た健三は、この惨澹みじめな境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーのために手非道てひどく打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえたなかった。

 その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱のふたさえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしい家を探し始めた。同時に金の工面もしなければならなかった。

 彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、一時いちじ賜金しきんを受取る事が出来た。一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれでやっと日常生活に必要な家具家財を調ととのえた。

 彼はわずかばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物の如何いかんにかかわらずむやみに価切ねぎり倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、烟草盆タバコぼん火鉢ひばち丼鉢どんぶりばち、眼にるものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後を追懸おっかけなければならなかった。たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのかひとの物を買うのか、その区別をわきまえていないように猛烈な男であった。



五十九

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 健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の指物さしもの渡世とせいにする男の店先に立って、しきりに算盤そろばんはじく主人と談判をした。

 彼のあつらえた本棚には硝子戸ガラスど後部うしろも着いていなかった。塵埃ほこりの積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほどしなった。

 こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職してもらった金は何時の間にかもうなくなっていた。迂闊うかつな彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要にせまられて、同宿の男から借りた金はどうして返していか分らなくなってしまったように思い出した。

 そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしくこしらえた高い机の前にすわって、少時しばらく彼の手紙を眺めていた。

 わずかの間とはいいながら、遠い国で一所いっしょに暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義のもとに、官命でって来たその人の財力と健三の給費との間には、ほとんど比較にならないほどの懸隔があった。

 彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると繻子しゅすで作った刺繍ぬいとりのある綺麗きれい寝衣ナイトガウンを着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたようにじっすくんでいる健三は、ひそかに彼の境遇をうらやんだ。

 その健三には昼食ちゅうじきを節約したあわれな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た帰掛かえりがけに途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的めあてもなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々かたかたの手に持った傘でけつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭パンを何度にも頬張ほおばるのが非常に苦しかった。彼は幾たびか其所そこにあるベンチへ腰をおろそうとしては躊躇ちゅうちょした。ベンチは雨のためにことごとれていたのである。

 ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶をひるになると開いた。そうして湯も水もまずに、硬くてもろいものをぼりぼりくだいては、生唾なまつばきの力で無理にくだした。

 ある時の彼はまた馭者ぎょしゃや労働者と一所に如何いかがわしい一膳飯屋いちぜんめしやかたばかりの食事を済ました。其所の腰掛の後部うしろは高い屏風びょうぶのように切立きったっているので、普通の食堂の如く、広いへやを一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。

 こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼はく健三を午餐ひるめしに誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼から金を借りたのはこうして彼と大分だいぶ懇意になった時の事であった。

 その時彼は反故ほごでもてるように無雑作な態度を見せて、五ポンドのバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時返してくれとは無論いわなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。

 日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出てようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人のふるい友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求をれて、るだけの金を彼の前にそろえてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人のもとへ返しに行った。新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事にめた。



六十

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 こんな具合にしてやっと東京に落付おちついた健三は、物質的に見た自分の、如何いかにも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れたの方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂に金の問題で色々にき乱されてくる時、彼は始めて反省した。平生へいぜい何心なく身に着けて外へ出る黒木綿くろもめんの紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。

「このおれをまた強請せびりに来る奴がいるんだから非道ひどい」

 彼は最もたちの悪いその種の代表者として島田の事を考えた。

 今の自分がどの方角から眺めても島田よりい社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼びてにした人から今となって鄭寧ていねい挨拶あいさつを受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣こづかいの財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚みなしている彼の立場から見て、腹が立つだけであった。

 彼は念のために姉の意見をたずねて見た。

「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」

「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそうひとにばかりみついでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」

「御金がそんなに取れるように見えますか」

「だってうちなんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」

 姉は自分の宅の活計くらしを標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田ひだが月々もらうものを満足に持って帰ったためしのない事や、俸給の少ない割に交際費のる事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分のたかのぼる事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。

「その賞与だって、そっくりあたしの手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料をひこさんの方へってまかなってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」

 養子と経済を別々にしながら一所のうちに住んでいた姉夫婦は、自分たちのいたもちだの、自分たちの買った砂糖だのという特別な食物くいものっていた。自分たちの所へ来た客に出す御馳走ごちそうなどもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三はほとんど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。

「健ちゃんなんざ、こんな真似まねをしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」

 彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた。

「まあ好いやね。面倒臭めんどくさくなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも蒼蠅うるさいなら留守を御遣いよ。構う事はないから」

 この注意は如何いかにも姉らしく健三の耳に響いた。

 姉から要領を得られなかった彼はまた比田をつらまえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。

「何しろもとの通りあの地面と家作かさくを有ってるんだから、そう困っていない事はたしかでさあ。それに御藤さんの方へは御縫おぬいさんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」

 比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ないうわ調子ちょうしのものには相違なかった。



六十一

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 しまいに健三は細君に向った。

「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇っていうのは。姉にいても比田に訊いても、本当の所がく分らないが」

 細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、朱塗しゅぬり船底枕ふなぞこまくらの上に乱れた頭を載せていた。

「そんなに気になさるなら、御自分でじかに調べて御覧になるがいじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。御姉おあねえさんだって、今あの人と交際つきあっていらっしゃらないんだから、そんなたしかな事の知れているはずがないと思いますわ」

おれにはそんな暇なんかないよ」

「それじゃ放って御置きになればそれまででしょう」

 細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。腹で思っている事でもそうむやみに口へ出していわない性質たちに出来上った彼女は、自分の生家さとと夫との面白くない間柄についてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏窟へんくつな男であった。

「放って置け?」

 健三は反問した。細君は答えなかった。

「今までだって放って置いてるじゃないか」

 細君はなお答えなかった。健三はぷいと立って書斎へ入った。

 島田の事に限らず二人の間にはこういう光景が能く繰り返された。その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。――

「御縫さんが脊髄病せきずいびょうなんだそうだ」

「脊髄病じゃずかしいでしょう」

「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと柴野しばの御藤おふじさんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね」

可哀想かわいそうね今から脊髄病なんぞにかかっちゃ。まだ若いんでしょう」

おれより一つ上だって話したじゃないか」

「子供はあるの」

「何でも沢山あるような様子だ。幾人いくたりだか能くいて見ないが」

 細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十にたない夫人の心持を想像に描いた。間近にせまったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。重そうな腹を眼の前に見ながら、それほど心配もしてくれない男の気分が、なさけなくもありまたうらやましくもあった。夫はまるで気が付かなかった。

「島田がそんな心配をするのも必竟ひっきょう平生へいぜいが悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田にいわせると、その柴野という男が酒食さけくらいで喧嘩早けんかっぱやくって、それで何時まで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。やっぱり島田の方が愛想あいそを尽かされているに違ないんだ」

「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」

「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」

「一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――」

 細君は少し躊躇ちゅうちょした。健三には意味が解らなかった。細君はいい直した。

「どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう」

 御藤さんがまだ若い未亡人びぼうじんであった頃、何かの用で扱所あつかいじょへ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をしてったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。しかし恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった。

よくも手伝ったに違ないね」

 細君は何ともいわなかった。



六十二

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 不治ふじの病気に悩まされているという御縫さんについての報知たよりが健三の心をやわらげた。何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、ほとんど親しく口を利いたためしがなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。強烈ない印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の面影おもかげは、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かにたっとかった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼からそそり得る点において。また漠然として散漫な人類を、比較的判明はっきりした一人の代表者に縮めてくれる点において。――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。

 それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。何時起るかも知れない御縫さんの死は、狡猾こうかつな島田にまた彼を強請せびる口実を与えるに違なかった。明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。しかし彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。

「衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない」

 彼はこう観念した。彼は手をこまぬいで島田の来るのを待ち受けた。その島田の来る前に突然彼のかたきの御常が訪ねてようとは、彼も思い掛けなかった。

 細君は何時もの通り書斎にすわっている彼の前に出て、「あの波多野はたのって御婆おばあさんがとうとうって来ましたよ」といった。彼は驚ろくよりもむしろ迷惑そうな顔をした。細君にはその態度が愚図々々している臆病おくびょうもののように見えた。

「御会いになりますか」

 それは、会うなら会う、断るなら断る、早くどっちかにめたら好かろうという言葉のつかい方であった。

「会うから上げろ」

 彼は島田の来た時と同じ挨拶あいさつをした。細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。

 座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身にまとって、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。彼の心で想像していた御常とは全く変っているその質朴な風采ふうさいが、島田よりも遥かに強く彼を驚ろかした。

 彼女の態度も島田に比べるとむしろ反対であった。彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、鄭寧ていねいに頭を下げた。言葉遣も慇懃いんぎんきわめたものであった。

 健三は小供の時分く聞かされた彼女の生家さとの話を思い出した。田舎いなかにあったその住居すまいも庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。ゆかの下を水が縦横に流れているという特色が、彼女の何時でも繰り返す重要な点であった。南天なんてんの柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。しかし小さい健三はその宏大こうだいな屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。それから一度も其所そこへ連れて行かれた覚がなかった。彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を朧気おぼろげながら見抜くように、彼の批評眼がだんだんえて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の法螺ほらではないかと考え出した。

 健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前にかしこまって坐っている白髪頭しらがあたまの御婆さんとを比較して、時間のもたらした対照に不思議そうな眼を注いだ。

 御常は昔からふとじしの女であった。今見る御常も依然として肥っていた。どっちかというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかとうたがわれる位であった。それにもかかわらず、彼女は全く変化していた。どこから見ても田舎育ちの御婆さんであった。多少誇張していえば、かごに入れた麦焦むぎこがしを背中へ脊負しょって近在から出て来る御婆さんであった。



六十三

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「ああ変った」

 顔を見合せた刹那せつなに双方は同じ事を一度に感じ合った。けれどもわざわざ訪ねて来た御常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。ところが健三にはそれがほとんど欠けていた。従って不意に打たれたものは客よりもむしろ主人であった。それでも健三は大して驚ろいた様子を見せなかった。彼の性質が彼にそうしろと命令する外に、彼は御常の技巧からあふれ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女のる芝居を事新らしくせられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。

 彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には人世じんせいと切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿てんめんしているらしく見えた。

 島田と別れてから二度目にかたづいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女をもらって、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。

 養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どの位な程度の活計くらしをしていたものかく分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口をれなかった。

 その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或身縁みよりを頼りに、ずっと辺鄙へんぴな所へ引越した。其所そこで娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ毎年まいねん下がる扶助料だけで活計くらしを立てて行った。……

 御常の物語りは健三の予期に反してむしろ平静であった。誇張した身ぶりだの、仰山な言葉遣だの、当込あてこみ台詞せりふだのは、それほど多く出て来なかった。それにもかかわらず彼は自分とこの御婆おばあさんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。

「ああそうですか、それはどうも」

 健三の挨拶あいさつは簡単であった。普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。

「昔の因果が今でもやっぱりたたっているんだ」

 こう思った彼はさすがにい心持がしなかった。どっちかというと泣きたがらないたちに生れながら、時々は何故なぜ本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。

おれの眼は何時でも涙がいて出るように出来ているのに」

 彼は丸まっちくなって座蒲団ざぶとんの上にすわっている御婆さんの姿を熟視した。そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく観じた。

 彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。

「失礼ですが、車へでも乗って御帰り下さい」

 彼女はそういう意味で訪問したのではないといって一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。気の毒な事に、その贈り物の中には、うとい同情が入っているだけで、あらわな真心はこもっていなかった。彼女はそれを能く承知しているように見えた。そうして何時の間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、あきらめるより外に仕方がないという風にふるまった。彼は玄関に立って、御常の帰って行く後姿を見送った。

「もしあのあわれな御婆さんが善人であったなら、わたしは泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水しにみずを取って遣る事も出来たろう」

 黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。



六十四

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「とうとうって来たのね、御婆おばあさんも。今までは御爺おじいさんだけだったのが、御爺さんと御婆さんと二人になったのね。これからは二人ふたありたたられるんですよ、貴夫あなたは」

 細君の言葉は珍らしく乾燥はしゃいでいた。笑談じょうだんとも付かず、冷評ひやかしとも付かないその態度が、感想に沈んだ健三の気分を不快に刺戟しげきした。彼は何とも答えなかった。

「またあの事をいったでしょう」

 細君は同じ調子で健三にいた。

「あの事た何だい」

「貴夫が小さいうち寐小便ねしょうべんをして、あの御婆さんを困らしたって事よ」

 健三は苦笑さえしなかった。

 けれども彼の腹の中には、御常が何故なぜそれをいわなかったかの疑問が既によこたわっていた。彼女の名前を聞いた刹那せつなの健三は、すぐその弁口に思いいたった位、御常は喋舌しゃべる女であった。ことに自分をまもる事に巧みな技倆ぎりょうっていた。ひとの口車に乗せられやすい、また見え透いた御世辞おせじうれしがりがちな健三の実父は、何時でも彼女をめる事を忘れなかった。

「感心な女だよ。だいち身上持しんしょうもちいからな」

 島田の家庭に風波の起った時、彼女はあるだけの言葉を父の前に並べ立てた。そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と口惜くやしい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になってしまった。

 御世辞が上手だという点において健三の父は彼の姉をも大変可愛かあいがっていた。無心に来られるたんびに、「そうそうはおれだって困るよ」とか何とかいいながら、いつか入用いりようだけの金子きんすは手文庫から取出されていた。

「比田はあんな奴だが、御夏が可愛想かわいそうだから」

 姉の帰った後で、父は何時でも弁解らしい言葉をはたのものに聞こえるようにいった。

 しかしこれほど父を自由にした姉の口先は、御常に比べると遥かに下手へたであった。まことしやかという点において遠く及ばなかった。実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見た位、彼女の口はうまかった。

 彼女に会うときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分この口にあった。

「御前を育てたものはこのわたしだよ」

 この一句を二時間でも三時間でも布衍ふえんして、幼少の時分恩になった記憶をまた新らしく復習させられるのかと思うと、彼は辟易へきえきした。

「島田は御前のかたきだよ」

 彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、また彼の前にさらけ出すにきまっていた。彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。

 どっちを聴くにしても涙がまじるに違なかった。彼は装飾的に使用されるその涙を見るに堪えないような心持がした。彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。けれども自分の必要と思う場合には、その言葉にいやらしい強い力を入れた。円朝えんちょう人情噺にんじょうばなしに出て来る女が、長い火箸ひばしを灰の中に突き刺し突き刺し、ひとだまされたうらみを述べて、相手を困らせるのとほぼ同じ態度でまた同じ口調であった。

 彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりもむしろ不思議に思う位、御常の性格がろうとして崩すべからざる判明はっきりした一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。

 細君は彼のために説明した。

「三十年ぢかくにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」

 遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点がてんが行かなかった。

「そんな淡泊あっさりした女じゃない」

 彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。



六十五

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 御常を知らない細君はかえって夫の執拗しつおうを笑った。

「それが貴方あなたの癖だから仕方がない」

 平生へいぜい彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の生家さととの関係について、夫のこの悪いへきが著るしく出ているように彼女は思っていた。

おれが執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際つきあった事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべをいうのだ」

「だって現に貴夫あなたの考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」

「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部うわべだけで腹の中はもとの通りなんだ」

「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」

「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」

「随分独断的ね、貴夫も」

「批評があたってさえいれば独断的で一向差支さしつかえないものだ」

「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分だいぶ出て来るでしょう。あの御婆おばあさんはわたくしと関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」

 健三には細君の言葉が何を意味しているのかく解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向おもてむき夫とり合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質たちではなかった。

面倒臭めんどくさい」

 少し込み入った議論の筋道を辿たどらなければならなくなると、彼女はきっとこういって当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。健三から見るとなおさら心持が悪かった。

執拗しつおうだ」

「執拗だ」

 二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にあるわだかまりを御互の素振そぶりから能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。

 我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないともかず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心のうちに繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。

「これで沢山だ」

「己もこれで沢山だ」

 また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。

 それでも護謨紐ゴムひものように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の伸縮のびちぢみがあった。非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で徐々そろそろ元へ戻って来た。そうした日和ひよりい精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉がれた。

「これは誰の子?」

 健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時既に自分の胎内にうごめき掛けていた生の脈搏みゃくはくを感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭しとうに伝えようとしたのである。

喧嘩けんかをするのはつまり両方が悪いからですね」

 彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない頑固がんこな健三も、微笑するより外に仕方がなかった。

「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たといかたき同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」

 健三は立派な哲理でも考え出したように首をひねった。



六十六

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 御常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。

 毎年まいとし時候が寒くなるときっと身体からだに故障の起る兄は、秋口からまた風邪かぜを引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、幾日いくか経っても熱がれないで苦しんでいた。

「つい無理をするもんだから」

 無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内どっちかをえらぶより外に仕方がないように見えたのである。

「どうも肋膜ろくまくらしいっていうんだがね」

 彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について何人なんびとよりも強い畏怖いふの念をいだいていた。そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。

 健三は細君に向っていった。――

「もう少し平気で休んでいられないものかな。めて熱のくなるまででもいから」

「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、やッぱりそうは出来ないんでしょう」

 健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ活計くらしの方面からのみ眺める事があった。彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許していた。同時にそういう観察からのがれる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。彼は苦い塩をめた。

「死にやしまいな」

「まさか」

 細君は取り合わなかった。彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。生家さとと縁故のある産婆が、遠い所からくるまに乗って時々やって来た。彼はその産婆が何をしに来て、また何をして帰って行くのか全く知らなかった。

「腹でもむのかい」

「まあそうです」

 細君ははかばかしい返事さえしなかった。

 その内兄の熱がころりとれた。

御祈祷ごきとうをなすったんですって」

 迷信家の細君は加持かじ、祈祷、占い、神信心かみしんじん、大抵の事を好いていた。

「御前が勧めたんだろう」

「いいえそれがわたくしなんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも髪剃かみそりを頭の上へ載せて遣るんですって」

 健三には髪剃の御蔭で、しこじらした体熱が除れようとも思えなかった。

「気のせいで熱が出るんだから、気のせいでそれがまたすぐ除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、杓子しゃくしでも鍋蓋なべぶたでも同じ事さ」

「しかしいくら御医者の薬を飲んでもなおらないもんだから、試しに遣って見たらどうだろうって勧められて、とうとう遣る気になったんですって、どうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」

 健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内状を気の毒に思った。髪剃の御蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。

 兄が癒ると共に姉がまた喘息ぜんそくで悩み出した。

「またかい」

 健三は我知らずこういって、ふと女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。

「しかし今度こんだは何時もより重いんですって。ことによるとずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそういってくれっておっしゃいました」

 兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分のしりを畳の上に着けた。

「少し立っていると御腹おなかの具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません」

 産がせまるほど妊婦は運動すべきものだ位に考えていた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに退儀であるかは全く彼の想像のほかにあった。彼は活動をいる勇気も自信も失なった。

「私とても御見舞には参れませんよ」

「無論御前は行かなくっても好い。己が行くから」



六十七

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 その頃の健三はうちへ帰ると甚しい倦怠けんたいを感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく昼寐ひるねをした。机にって書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。愕然がくぜんとして仮寐うたたねの夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺撃しげきした。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。くくり付けられた人のように書斎にじっとしていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝とすわっていろと彼に命令するのである。

 かくして四、五日はいたずらに過ぎた。健三がようや守坂かみざかへ出掛けた時はずかしいかも知れないといった姉が、もう回復期に向っていた。

「まあ結構です」

 彼は尋常の挨拶あいさつをした。けれども腹の中ではきつねにでもつままれたような気がした。

「ああ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きていたってどうせひとの厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、やっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」

 姉は自分のいう裏を健三から聴きたい様子であった。しかし彼は黙って烟草タバコを吹かしていた。こんな些細ささいの点にも姉弟きょうだいの気風の相違は現われた。

「でも比田のいるうちは、いくら病身でも無能やくざでもあたしが生きていてらないと困るからね」

 親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。それは女房の心尽しなどに対して余りに無頓着むとんじゃく過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、むしろ気の毒な位親切だったからである。

あたしゃ本当に損な生れ付でね。良人うちとはまるであべこべなんだから」

 姉の夫思いは全く天性に違なかった。けれども比田が時として理のとおらない我儘わがままをいい募るように、彼女は訳の解らない実意立じついだてをしてかえって夫をいやがらせる事があった。それに彼女は縫針ぬいはりの道を心得ていなかった。手習てならいをさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てから今日こんにちまで、ついぞ夫の着物一枚縫ったためしがなかった。それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、小用こように行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかといって、網戸の内外うちそとで母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。

 そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、その実どこか似通った所のあるこの腹違はらちがいの姉の前に、彼は反省をいられた。

「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮をけばおれだって大した変りはないんだ」

 平生へいぜいの彼は教育の力を信じ過ぎていた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。かく事実の上において突然人間を平等にた彼は、不断から軽蔑けいべつしていた姉に対して多少きまりの悪い思をしなければならなかった。しかし姉は何にも気が付かなかった。

御住おすみさんはどうです。もうじき生れるんだろう」

「ええおっこちそうな腹をして苦しがっています」

「御産は苦しいもんだからね。あたしも覚があるが」

 久しく不妊性と思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。年歯としを取ってからの初産ういざんだったので、当人もはたのものも大分だいぶ心配した割に、それほどの危険もなく胎児を分娩ぶんべんしたが、その子はすぐ死んでしまった。

「軽はずみをしないように用心おしよ。――宅でも彼子あれがいると少しは依怙たよりになるんだがね」



六十八

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 姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。

「彦ちゃんがもう少し確乎しっかりしていてくれるといんだけれども」

 彼女は時々はたのものにこんな述懐をらした。彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、至極しごく穏やかな好人物であった。朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だといううわさを耳にした事はあるが、そのの点について深い交渉をたない健三には、どこが不足なのかく解らなかった。

「もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね」

 無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。しかし比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな贅沢ぜいたくのいえた義理でもなかった。彼らは彦ちゃんをどこの学校へも入れてらなかった。わずかばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取ってむしろ僥倖ぎょうこうといわなければならなかった。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。昔し死んだ赤ん坊については、なおの事同情が起らなかった。彼はその生顔いきがおを見た事がなかった。その死顔しにがおも知らなかった。名前さえ忘れてしまった。

「何とかいいましたね、あの子は」

作太郎さくたろうさ。あすこに位牌いはいがあるよ」

 姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いてこしらえた小さい仏壇を指し示した。薄暗いばかりでなく小汚こぎたないその中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。

「あの小さい奴がそうですか」

「ああ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵えたんだよ」

 立って行って戒名かいみょうを読む気にもならなかった健三は、やはりもとの所にすわったまま、黒塗くろぬりの上に金字で書いた小形の札のようなものを遠くから眺めていた。

 彼の顔には何の表情もなかった。自分の二番目の娘が赤痢にかかって、もう少しで命をられるところだった時の心配と苦痛さえ聯想れんそうし得なかった。

「姉さんもこんなじゃ何時ああなるか分らないよ、健ちゃん」

 彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。健三はわざとその視線を避けた。

 心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思っていない彼女のいい草には、世間並の年寄と少し趣を異にしている所があった。慢性の病気が何時までも継続するように、慢性の寿命がまた何時までも継続するだろうと彼女には見えたのである。

 其所そこへ彼女の癇性かんしょうが手伝った。彼女はどんなに気息苦いきぐるしくっても、いくらひとから忠告されても、どうしてもながら用を足そうといわなかった。うようにしてでもかわやまで行った。それから子供の時からの習慣で、朝はきっと肌抜はだぬぎになって手水ちょうずつかった。寒い風が吹こうが冷たい雨が降ろうが決してやめなかった。

「そんな心細い事をいわずに、出来るだけ養生をしたら好いでしょう」

「養生はしているよ。健ちゃんからもらう御小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事にめているんだから」

 田舎いなかものが米の飯を食うように、彼女は牛乳を飲むのがすべての養生ででもあるかのような事をいった。日に日に損なわれて行くわが健康を意識しつつ、この姉に養生を勧める健三の心のうちにも、「他事ひとごとじゃない」という馬鹿らしさが遠くに働らいていた。

わたしも近頃は具合が悪くってね。ことによると貴方あなたより早く位牌になるかも知れませんよ」

 彼の言葉は無論根のない笑談じょうだんとして姉の耳に響いた。彼もそれを承知の上でわざと笑った。しかしみずから健康を損いつつあるとたしかに心得ながら、それをどうする事も出来ない境遇に置かれた彼は、姉よりもかえって自分の方をあわれんだ。

「己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だといってくれるものは一人もありゃしない」

 彼はそう思って姉のくぼみ込んだ眼と、けたほおと、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。



六十九

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 姉は細かい所に気の付く女であった。従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。一面において馬鹿正直な彼女は、一面においてまた変なまわを出す癖をっていた。

 健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の生計について、ひとの同情に訴え得るようなあわれっぽい事実を彼の前に並べた。しまいに兄の口を借りて、いくらでもいから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知してもらう事にした。すると姉から手紙が来た。ちょうさんの話では御前さんが月々いくらいくらわたしるという事だが、実際御前さんの、呉れるといった金高かねだかはどの位なのか、長さんに内所ないしょでちょっと知らせてくれないかと書いてあった。姉はこれから毎月中取次なかとりつぎをする役に当るかも知れない兄の心事を疑ぐったのである。

 健三は馬鹿々々しく思った。腹立しくも感じた。しかし何より先に浅間あさましかった。「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。彼の姉にてた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分をく現わしていた。姉はそれぎり何ともいって来なかった。無筆むひつな彼女は最初の手紙さえ他に頼んで書いてもらったのである。

 この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何でも蚊でもきたがる彼女も、健三の家庭については、当り障りのない事の外、多く口を開かなかった。健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかつて想いいたらなかった。

「近頃御住さんはどうだい」

「まあ相変らずです」

 会話はこの位で切り上げられる場合が多かった。

 間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も大分だいぶまじっていた。しかしその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。従って彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい無愛想ぶあいそな変人に過ぎなかった。

 さみしい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能くわきまえていた。けれども其所そこには彼の追憶をいざなう何物も残っていなかった。過去の記念がことごとく彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。

 彼は昔あった青田と、その青田の間を走る真直まっすぐこみちとを思い出した。田の尽る所には三、四軒の藁葺屋根わらぶきやねが見えた。菅笠すげがさを脱いで床几しょうぎに腰を掛けながら、心太ところてんを食っている男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のように広い紙漉場かみすきばがあった。其所を折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見下す水の流れには存外の距離があった。橋のたもとにある古風な銭湯の暖簾のれんや、その隣の八百屋やおやの店先に並んでいる唐茄子とうなすなどが、若い時の健三によく広重ひろしげの風景画を聯想れんそうさせた。

 しかし今ではすべてのものが夢のように悉く消え失せていた。残っているのはただ大地ばかりであった。

「何時こんなに変ったんだろう」

 人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層はげしい自然の変り方に驚ろかされた。

 彼は子供の時分比田ひだと将棋を差した事を偶然思いだした。比田は盤に向うと、これでも所沢ところざわ藤吉とうきちさんの御弟子だからなというのが癖であった。今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じ事をいいそうな男であった。

おれ自身は必竟ひっきょうどうなるのだろう」

 衰ろえるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。



七十

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 元気のない顔をしてうちへ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意をいた。

「御病人はどうなの」

 あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然はっきり聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。

「何もういんだ。てはいるが危篤きとくでも何でもないんだ。まあ兄貴にだまされたようなものだね」

 馬鹿らしいという気が幾分か彼の口振くちぶりに出た。

「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫あなた。もしもの事でもあって御覧なさい、それこそ……」

「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉はまた病気に騙されたんだ。つまり皆な騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩らったって、決して騙されないんだからね」

「やっぱり宅にいないの」

「いるもんか。もっと非道ひどく悪かった時はどうだか知らないが」

 健三は比田の振下ぶらさげている金時計と金鎖の事を思い出した。兄はそれを天麩羅てんぷらだろうといって陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。金着きんきせにせよ、本物にせよ、彼がどこでいくらで買ったのか知るものは誰もなかった。こういう点に掛けては無頓着むとんじゃくでいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。

「月賦で買ったに違ないよ」

「ことによると質の流れかも知れない」

 姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。健三にはほとんど問題にならない事が、彼らの間に想像の種を幾個いくつでも卸した。そうされればされるほどまた比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまうくせに、姉はついに夫の手元に入る、または現在手元にある、金高きんだかを決して知る事が出来なかった。

「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」

 姉の言葉はまるで隣の宅の財産でもいいてるように夫から遠ざかっていた。

 姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかった。それがやむをえない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。しかし金銭上あくまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、みだりに彼女を驚ろかせたがる料簡りょうけんに至っては想像さえ及ばなかった。妻に対する虚栄心の発現、らされながらも夫を腕利うでききと思う妻の満足。――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。

「金のる時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所いっしょにいるだけじゃないか」

 健三のなぞは容易に解けなかった。考える事のきらいな細君はまた何という評も加えなかった。

「しかしおれたち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そうひとの事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」

「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」

 健三はすぐしゃくに障った。

「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」

「いますとも。貴夫あなたが好いと思っていらっしゃる通りに」

 彼らの争いはくこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心をき乱した。健三はそれを慎みの足りない細君のせめに帰した。細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。

「字が書けなくっても、裁縫しごとが出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」

「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」

 細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感がよこたわっていた。



七十一

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 筋道の通った頭をっていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観にとらわれるほど厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関してほとんど無定見であった。母はまた普通の女のように八釜やかましく子供を育て上る性質たちでなかった。彼女はうちにいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的にく感じていた。

「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないといられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るがい。夫という肩書などはなくっても構わないから」

 不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定してはばからなかった。

「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」

 二人が衝突する大根おおね此所ここにあった。

 夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。ややともすると、「女のくせに」という気になった。それが一段はげしくなるとたちまち「何を生意気な」という言葉に変化した。細君の腹には「いくら女だって」という挨拶あいさつが何時でもたくわえてあった。

「いくら女だって、そう踏み付にされてたまるものか」

 健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明かに読んだ。

「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格をこしらえるがいい」

 健三の論理ロジックは何時の間にか、細君が彼に向って投げる論理ロジックと同じものになってしまった。

 彼らはかくしてまるい輪の上をぐるぐる廻って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。

 健三はその輪の上にはたりと立ちどまる事があった。彼の留る時は彼の激昂げっこうが静まる時に外ならなかった。細君はその輪の上でふと動かなくなる事があった。しかし細君の動かなくなる時は彼女の沈滞がけ出す時に限っていた。その時健三はようやく怒号をやめた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、やはり円い輪の上を離れる訳に行かなかった。

 細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。生憎あいにく留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首を傾むけた。

「何か用でもあったのかい」

「ええ少し御話ししたい事があるんですって」

「何だい」

 細君は答えなかった。

「知らないのかい」

「ええ。また二、三日うちにあがって能く御話をするからって帰りましたから、今度参ったらじかに聞いて下さい」

 健三はそれより以上何もいう事が出来なかった。

 久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしにかかわらず、向うがわざわざこっちへ出掛けてようなどとは夢にも予期しなかった。その不審がいつもより彼の口数を多くする源因になった。それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。しかしそれは彼がよく彼女において発見する不平や無愛嬌ぶあいきょうから来る寡言かげんとも違っていた。

 夜は何時の間にやら全くの冬に変化していた。細い燈火ともしびの影をじっと見詰めていると、は動かないで風の音だけがはげしく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな洋燈あかりを間に置いて、しばらくしんすわっていた。



七十二

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今日きょう父が来ました時、外套がいとうがなくって寒そうでしたから、貴方あなたの古いのを出してりました」

 田舎いなかの洋服屋でこしらえたその二重廻にじゅうまわしは、ほとんど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。

「あんな汚ならしいもの」

 彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。

「いいえ。喜こんで着て行きました」

御父おとっさんは外套をっていないのかい」

「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」

 健三は驚ろいた。細いに照らされた細君の顔が急にあわれに見えた。

「そんなにこまっているのかなあ」

「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」

 口数のすくない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々うすうす知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。

 彼は絹帽シルクハットにフロックコートで勇ましく官邸の石門せきもんを出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木かたぎきゅうがたに切り組んで作ったその玄関のゆかは、つるつる光って、時によるとれない健三の足を滑らせた。前に広い芝生しばふを控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと接続つづいて長方形の食堂があった。結婚する前健三は其所そこで細君の家族のものと一緒に晩餐ばんさんの卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多カルタに招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声のうちふかした記憶もあった。

 西洋館に続いて日本建にほんだて一棟ひとむね付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の下女げじょと二人の書生が住んでいた。職務柄客の出入でいりの多いこの家の用事には、それだけの召仕めしつかいが必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要もたされるはずはなかった。

 健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさほど困っているようには見えなかった。彼が駒込こまごめの奥に住居すまいを構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこういった。――

「まあ自分のうちつという事が人間にはどうしても必要ですね。しかしそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々せいぜい貯蓄を心掛けたらいでしょう。二、三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それをわたしに預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」

 貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。

「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」

 彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、驚愕きょうがくの念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力かいりょくを眺めた。しかし千円こしらえて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法をく気にもならずについ今日こんにちまで過ぎたのである。

「そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。何ぼ何だって」

「でも仕方がありませんわ、まわあわせだから」

 産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の気息遣いきづかいはただでさえ重々おもおもしかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と光沢つやの悪いそのほおとを眺めた。

 昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人をいた下等な団扇うちわを四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺おやじ相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろなさけなくなった。

「でもよく着られるね」

「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」

 細君はさびしそうに笑った。



七十三

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 中一日置いて彼が来た時、健三は久しぶりで細君の父に会った。

 年輩からいっても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、何時も自分の娘婿に対して鄭寧ていねいであった。或時は不自然に陥る位鄭寧過ぎた。しかしそれが彼を現わすすべてではなかった。裏側には反対のものが所々に起伏していた。

 官僚式に出来上った彼の眼には、健三の態度が最初からすこぶる横着に見えた。超えてはならない階段を無躾ぶしつけに飛び越すようにも思われた。その上彼はむやみにみずから任じているらしい健三の高慢ちきな所を喜こばなかった。頭にある事を何でも口外してはばからない健三の無作法も気に入らなかった。乱暴とより外に取りようのない一徹一図な点も非難の標的まとになった。

 健三の稚気を軽蔑けいべつした彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いてようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。すると二人は其所そこで留まったなり動けなくなった。二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。だから相手の長所も判明はっきりと理解する事が出来にくくなった。そうして二人とも自分のっている欠点の大部分には決して気が付かなかった。

 しかし今の彼は健三に対してうたがいもなく一時的の弱者であった。ひとに頭を下げる事のきらいな健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。

如何いかにも苦しいだろう」

 健三はこの一念に制せられた。そうして彼の持ちきたした金策談に耳を傾むけた。けれどもい顔はし得なかった。心のうちでは好い顔をし得ないその自分をのろっていた。

「金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。誤解してはいけません。わたくしはこんな場合に敵討かたきうちをするような卑怯ひきょうな人間とは違ます」

 細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すより外に仕方がなかった。

 このぶっきら棒な健三に比べると、細君の父はよほど鄭寧であった。また落付おちついていた。はたから見れば遥に紳士らしかった。

 彼は或人の名を挙げた。

「向うでは貴方あなたを知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」

「知っています」

 健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深い交際つきあいはなかった。卒業して独乙ドイツへ行って帰って来たら、急に職業がえをしてある大きな銀行へ入ったとか人のうわさに聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。

「まだ銀行にいるんですか」

 細君の父は点頭うなずいた。しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。またそれを詳しくいて見たところが仕方がなかった。要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。

「で当人のいうには、貸しても好い、好いがたしかな人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」

「なるほど」

「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」

 健三は自分自身を慥なものと認めるには躊躇ちゅうちょしなかった。しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上ひとに知れていなければならないはずだと考えた。その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。平生へいぜい彼の口にする知合しりあいのうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。

何故なぜ私の判が必要なんでしょう」

「貴方なら貸そうというのです」

 健三は考えた。



七十四

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 彼は今日こんにちまで証書を入れてひとから金を借りた経験のない男であった。つい義理で判をいてったのがもとで、立派な腕をちながら、生涯社会の底に沈んだまま、藻掻もがき通しに藻掻いている人の話は、いくら迂闊うかつな彼の耳にもしばしば伝えられていた。彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。しかし頑固な彼の半面にはいたって気の弱い煮え切らない或物がく働らきたがった。この場合断然連印を拒絶するのは、彼に取って如何いかにも無情で、冷刻で、心苦しかった。

「私でなくっちゃいけないのでしょうか」

貴方あなたならいというんです」

 彼は同じ事を二度いて同じ答えを二度受けた。

「どうも変ですね」

 世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく交際つきあった事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。

「どんな目に逢わされるか分りゃしない」

 彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡しゅんじゅんしなければならなかった。その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。

「印をす事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を調ととのえて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私のっている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つあたって見ましょう。無論御入用おいりようだけのたかは駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」

 いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三をいなかった。

「どうぞそれじゃ何分」

 彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱くつぬぎの上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題にのぼらずにしまった。

 けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は世帯を持つときに、火鉢ひばち烟草盆タバコぼんを一所に買って歩いてもらった友達のうちへまた出掛けた。

「金を貸してくれないかね」

 彼はやぶから棒に質問を掛けた。金などを有っていない友達は驚ろいた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手をかざしながら友達の前に逐一事情を話した。

「どうだろう」

 三年間支那のある学堂で教鞭きょうべんを取っていた頃に蓄えた友達の金は、みんな電鉄か何かの株に変形していた。

「じゃ清水しみずに頼んで見てくれないか」

 友達の妹婿に当る清水は、下町のかなり繁華な場所で、病院を開いていた。

「さあどうかなあ。あいつもその位な金はあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」

 友達の好意は幸い徒労むだにならずに済んだ。健三の借り受けた四百円の金が、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経ってのちの事であった。



七十五

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おれは精一杯の事をしたのだ」

 健三の腹にはこういう安心があった。従って彼は自分の調達ちょうだつした金の価値について余り考えなかった。さぞうれしがるだろうとも思わない代りに、これ位の補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。細君の父も其所そこまで内状を打ち明けるほど彼に接近して来なかった。

 従来の牆壁しょうへきを取り払うにはこの機会があまりに脆弱ぜいじゃく過ぎた。もしくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。

 父は健三よりも世間的に虚栄心の強い男であった。なるべく自分をひとく了解させようとつとめるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線にてさせたがる性質たちであった。従って彼を囲繞いにょうする妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾むきがちであった。

 境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の平生へいぜいを顧みない訳に行かなかった。彼はそれを糊塗ことするため、健三に向ってあたう限りさあらぬ態度を装った。それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に連印を求めたのである。けれども彼がどの位の負債にどう苦しめられているかという巨細こさいの事実は、遂に健三の耳にらなかった。健三もかなかった。

 二人は今までの距離を保ったままで互に手を出し合った。一人が渡す金を一人が受け取った時、二人は出した手をまた引き込めた。はたでそれを見ていた細君は黙って何ともいわなかった。

 健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれほどに離れていなかった。彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いて驚ろいた事があった。

「山を掘るんだって?」

「ええ、何でも新らしく会社をこしらえるんだそうです」

 彼はまゆひそめた。同時に彼は父の怪力かいりょくに幾分かの信用を置いていた。

うまく行くのかね」

「どうですか」

 健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされたのち、彼はその用事を帯びて北国ほっこくのある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へって来た。父が旅先で急に病気にかかったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それについて旅費の都合は出来まいかというのが母の用向ようむきであった。

「ええええ旅費位どうでもしてあげますから、すぐ行って御上なさい」

 宿屋にている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とをしんから気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空のびしさまで想像の眼に浮べた。

「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」

「じゃなお御心配でしょう。なるべく早く御立ちになる方がいでしょう」

 幸いにして父の病気は軽かった。しかし彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり立消たちぎえになってしまった。

「まだ何にも見付からないのかね、口は」

「あるにはあるようですけれどもうままとまらないんですって」

 細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。しかし市の有志家が何名か打ちそろって上京した時に、有名な政治家のある伯爵はくしゃくに会って、父の適不適を問いただしたら、その伯爵がどうも不向ふむきだろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。

「どうも困るね」

「今に何とかなるでしょう」

 細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。健三も例の怪力かいりょくを知らないではなかった。

「ただ気の毒だからそういうだけさ」

 彼の言葉にうそはなかった。



七十六

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 けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。みずから進んで母に旅費を用立ようだった女婿むすめむこは、一歩退しりぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着むとんじゃくでもなかった。むしろ黒いひとみからひらめこうとする反感の稲妻であった。つとめてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。

 父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧ていねいであった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に突掛つっかかる事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃いんぎんな態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。

わたくしも今度という今度は困りました」

 最初にこういった父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。

 父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、また実業家でもあった。

「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうかうまく出来そうですよ。三井みつい三菱みつびしを除けば日本ではまあ彼所あすこ位なもんですから、使用人になったからといって、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広いようですから、面白く働けるだろうと思うんです」

 この財力家によって細君の父に予約された位地というのは、関西にあるある私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、其所そこの社長を選ぶ特権を有していたのである。しかし何十株か何百株かの持主として、あらかじめ資格を作って置かなければならない父は、どうして金の工面をするだろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。

「一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです」

 健三は父の言葉に疑を挟むほど、彼の才能を見縊みくびっていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱げだつさせるという意味においても、その成功を希望しない訳に行かなかった。しかし依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の挨拶あいさつは形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるで其所に注意を払わないように見えた。

「しかし困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」

 彼は懐からまた一枚の辞令見たようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。

「今御話した一方の方が出来たらこれはやめるか、または出来ても続けてやるか、その辺はまだ分らないんですが、とにかく百円でも当座のしのぎにはなりますから」

 昔し彼が政府の内意で或官職をなげうった時、当路の人は山陰道筋のある地方の知事なら転任させてもいという条件を付けた事があった。しかし彼は断然それをしりぞけた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円の金をもらって、別にいやな顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。

 こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼はまた後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。



七十七

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 細君の父は事務家であった。ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。乃木のぎ将軍が一時台湾総督になって間もなくそれをやめた時、彼は健三に向ってこんな事をいった。――

「個人としての乃木さんは義に堅く情にあつく実に立派なものです。しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ大分だいぶあるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものにはく及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。其所そこへ行くとやっぱり手腕ですね。手腕がなくっちゃ、どんな善人でもただすわっているより外に仕方がありませんからね」

 彼は在職中の関係から或会の事務一切を管理していた。侯爵こうしゃくを会頭に頂くその会は、彼の力で設立の主意を綺麗きれいに事業の上で完成したあと、彼の手元に二万円ほどの剰余金をゆだねた。官途に縁がなくなってから、不如意に不如意の続いた彼は、ついその委託金に手を付けた。そうして何時の間にか全部を消費してしまった。しかし彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかった。従って彼はこの預金から当然生まれて来る百円近くの利子を毎月まいげつ調達ちょうだつして、体面を繕ろわなければならなかった。自家の経済よりもかえってこの方を苦に病んでいた彼が、公生涯の持続に絶対に必要なその百円を、月々保険会社から貰うようになったのは、当時の彼の心中に立入って考えて見ると、全くうれしいに違なかった。

 よほどあとになって始めてこの話を細君から聴いた健三は、彼女の父に対して新たな同情を感じただけで、不徳義漢として彼をにくむ気は更に起らなかった。そういう男の娘と夫婦になっているのが恥ずかしいなどとは更に思わなかった。しかし細君に対しての健三は、この点に関してほとんど無言であった。細君は時々彼に向っていった。――

わたし、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くしてくれさえすれば」

「泥棒でも構わないのかい」

「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でもいわ。ただ女房を大事にしてくれれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、うちで不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの」

 実際細君はこの言葉通りの女であった。健三もその意見には賛成であった。けれども彼の推察は月のかさのように細君の言外までにじみ出した。学問ばかりに屈託している自分を、彼女がこういう言葉でよそながら非難するのだというにおいがどこやらでした。しかしそれよりも遥かに強く、夫の心を知らない彼女がこんな態度であんに自分の父を弁護するのではないかという感じが健三の胸を打った。

おれはそんな事で人と離れる人間じゃない」

 自分を細君に説明しようとつとめなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。

 しかし細君の父と彼との交情に、自然の溝渠みぞが出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。

 健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という端書だけを出した。父はそれを寛仮ゆるさなかった。表向それをとがめる事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細こさいに心得ていた彼は、何故なぜ健三が細君の父たる彼に、賀正がせいを口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。

 一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむをえないで犯す罪と、らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質たちよろしくないこの余裕を非常ににくみ出した。



七十八

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くみしやすい男だ」

 実際において与しやすい或物を多量にっていると自覚しながらも、健三はひとからこう思われるのがしゃくに障った。

 彼の神経はこの肝癪かんしゃくを乗り超えた人に向って鋭どい懐しみを感じた。彼は群衆のうちにあってすぐそういう人を物色する事の出来る眼を有っていた。けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。だからなおそういう人が眼に着いた。またそういう人を余計尊敬したくなった。

 同時に彼は自分をののしった。しかし自分を罵らせるようにする相手をば更にはげしく罵った。

 かくして細君の父と彼との間には自然の造った溝渠みぞが次第に出来上った。彼に対する細君の態度もあんにそれを手伝ったには相違なかった。

 二人の間柄がすれすれになると、細君の心は段々生家さとの方へ傾いて行った。生家でも同情の結果、冥々めいめいうちに細君の肩を持たなければならなくなった。しかし細君の肩を持つという事は、或場合において、健三を敵とするという意味に外ならなかった。二人はますます離れるだけであった。

 幸にして自然は緩和剤としての歇私的里ヒステリーを細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏うつぶせになって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側のはじ蹲踞うずくまっている彼女を、うしろから両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。

 そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧もうろうとして夢よりも分別がなかった。瞳孔どうこうが大きく開いていた。外界はただ幻影まぼろしのように映るらしかった。

 枕辺まくらべすわって彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安がひらめいた。時としては不憫ふびんの念がすべてに打ち勝った。彼はく気の毒な細君の乱れかかった髪にくしを入れてった。汗ばんだ額を手拭てぬぐいいて遣った。たまには気をたしかにするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。

 発作の今よりもはげしかった昔の様も健三の記憶を刺戟しげきした。

 或時の彼は毎夜細いひもで自分の帯と細君の帯とをつないでた。紐の長さを四尺ほどにして、寐返ねがえりが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。

 或時の彼は細君の鳩尾みぞおち茶碗ちゃわんの糸底をあてがって、力任せに押し付けた。それでも踏んり返ろうとする彼女の魔力をこの一点でい留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。

 或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。

御天道おてんとうさまが来ました。五しきの雲へ乗って来ました。大変よ、貴夫あなた

わたしの赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら其所そこにいるじゃありませんか。桔槹はねつるべの中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」

 流産してから間もない彼女は、抱きすくめにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。……

 細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆たなびいていた。彼は心配よりも可哀想かわいそうになった。弱いあわれなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君もうれしそうな顔をした。

 だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪かんしゃくが強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそうおれを苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。

 不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君がもとで出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復したあとでも、ちょっと埋める訳に行かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。



七十九

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 不合理な事のきらいな健三は心のうちでそれを苦に病んだ。けれども別にどうする了簡りょうけんも出さなかった。彼の性質はむきでもあり一図でもあったと共にすこぶる消極的な傾向を帯びていた。

おれにそんな義務はない」

 自分にいて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。彼は何時までも不愉快の中で起臥きがする決心をした。成行なりゆきが自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。

 不幸にして細君もまたこの点においてどこまでも消極的な態度を離れなかった。彼女は何か事件があれば動く女であった。ひとから頼まれて男より邁進まいしんする場合もあった。しかしそれは眼前に手で触れられるだけの明瞭めいりょうな或物をつらまえた時に限っていた。ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。自分の父と健三の間にもこれというほどの破綻はたんは認められなかった。大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はそのを閑却した。自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだと観じていた。

「だって何にもないじゃありませんか」

 裏面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。しまいにどうなっても構わないというりの気分が、単に消極的な彼女をなおの事消極的に練り堅めて行った。

 かくして夫婦の態度は悪い所で一致した。相互の不調和を永続するためにと評されても仕方のないこの一致は、根強い彼らの性格から割り出されていた。偶然というよりもむしろ必然の結果であった。互に顔を見合せた彼らは、相手の人相で自分の運命を判断した。

 細君の父が健三の手で調達ちょうだつされた金を受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。

「産婆は何時頃生れるというのかい」

「何時って判然はっきりいいもしませんが、もうじきですわ」

「用意は出来てるのかい」

「ええ奥の戸棚の中に入っています」

 健三には何が這入はいっているのか分らなかった。細君は苦しそうに大きな溜息ためいきいた。

「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」

今度こんだは死ぬかも知れないっていってたじゃないか」

「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」

「どうも御気の毒さまだな」

いわ、死ねば貴夫あなたのせいだから」

 健三は遠い田舎いなかで細君が長女を生んだ時の光景をおもい出した。不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれといわれて産室へ入った時、彼女は骨にこたえるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛しがみ付いた。そうして拷問でもされる人のようにうなった。彼は自分の細君が身体からだの上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかという気さえした。

「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」

「じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな」

「一人で生めるかい」

 細君は何とも答えなかった。夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。健三も訊いて見ようとは思わなかった。うまつき心配性な彼は、細君のうなり声を余所よそにして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。

 産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。

「一週間以内かね」

「いえもう少しあとでしょう」

 健三も細君もその気でいた。



八十

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 日取が狂って予期より早く産気さんけづいた細君は、苦しそうな声を出して、そばている夫の夢を驚ろかした。

先刻さっきから急に御腹おなかが痛み出して……」

「もう出そうなのかい」

 健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。

「少しさすってろうか」

 起き上る事の臆劫おっくうな彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しかっていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干みちひのように、何度も来たり去ったりしたように思えた。

「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切ひとしきり痛んではまた一仕切治まるんだろう」

「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」

 細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。じっ蒲団ふとんの上に落付おちついていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。

「産婆を呼ぼうか」

「ええ、早く」

 職業柄産婆のうちには電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へけ付けるのを例にしていた。

 初冬はつふゆの暗い夜はまだ明け離れるのに大分だいぶ間があった。彼はその人とその人のかどたた下女げじょの迷惑を察した。しかし夜明よあけまで安閑と待つ勇気がなかった。寝室のふすまを開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人をき立てて暗い夜の中へ追い遣った。

 彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みはますますはげしくなった。彼の神経は一分ごとに門前でとまる車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。

 産婆は容易に来なかった。細君のうなる声が絶間たえまなく静かな夜のへやを不安にき乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねてこらえて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩ぶんべんした。

しっかりしろ」

 すぐ立って蒲団のすその方に廻った健三は、どうしていか分らなかった。その時例の洋燈ランプは細長い火蓋ほやの中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落しているあたりは、夜具の縞柄しまがらさえ判明はっきりしないぼんやりした陰で一面につつまれていた。

 彼は狼狽ろうばいした。けれども洋燈を移して其所そこてらすのは、男子の見るべからざるものをいて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手はたちまち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好かっこうの判然しない何かのかたまりに過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭ででて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものがげ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込ひっこめた。

「しかしこのままにして放って置いたら、風邪かぜを引くだろう、寒さでこごえてしまうだろう」

 死んでいるか生きているかさえ弁別みわけのつかない彼にもこういう懸念がいた。彼は忽ち出産の用意が戸棚のうちに入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の後部うしろにある唐紙からかみを開けた。彼は其所から多量の綿を引きり出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切ちぎって、柔かい塊の上に載せた。



八十一

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 その内まちに待った産婆が来たので、健三はようやく安心して自分のへやへ引き取った。

 は間もなく明けた。赤子あかごの泣く声が家の中の寒い空気をふるわせた。

「御安産で御目出とう御座います」

「男かね女かね」

「女の御子さんで」

 産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。

「また女か」

 健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心のうちあんに細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思いいたらなかった。

 田舎いなかで生まれた長女は肌理きめこまやかな美くしい子であった。健三はよくその子を乳母車うばぐるまに乗せて町の中をうしろから押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながらうちへ帰って来た。しかしあてにならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人にれられて彼を新橋しんばしに迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと御父おとうさまかと思ったとはたのものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々たけが詰って来た。輪廓にかどが立った。健三はこの娘の容貌のうちにいつか成長しつつある自分の相好そうごうの悪い所を明らかに認めなければならなかった。

 次女は年が年中腫物できものだらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのがもとで、とうとう髪の毛をじょぎじょぎにってしまった。顋の短かい眼の大きなその子は、海坊主うみぼうず化物ばけもののような風をして、其所そこいらをうろうろしていた。

 三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。

「ああいうものが続々生れて来て、必竟ひっきょうどうするんだろう」

 彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気おぼろげまじっていた。

 彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏かにていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具蒲団ふとんくるまれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。昨夜ゆうべ暗闇くらやみで彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。

 一切も綺麗きれいに始末されていた。其所そこいらにはよごものの影さえ見えなかった。夜来やらいの記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。

「蒲団は換えてったのかい」

「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」

「よくこう早く片付けられるもんだね」

 産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。

貴夫あなたがむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」

「そうだろう。随分驚ろいたからね」

 こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なってあおい顔をしている細君の方が懸念の種になった。

「どうだ」

 細君はかすかに眼を開けて、枕の上で軽くうなずいた。健三はそのまま外へ出た。

 例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元にすわった。

「どうだ」

 しかし細君はもう肯ずかなかった。

「何だか変なようです」

 彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照ほてっていた。

「心持が悪いのかい」

「ええ」

「産婆を呼びに遣ろうか」

「もう来るでしょう」

 産婆は来るはずになっていた。



八十二

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 やがて細君のわきの下に験温器があてがわれた。

「熱が少し出ましたね」

 産婆はこういって度盛どもりの柱の中にのぼった水銀を振り落した。彼女は比較的言葉ずくなであった。用心のため産科の医者を呼んでてもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。

「大丈夫なのかな」

「どうですか」

 健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ産褥熱さんじょくねつじゃなかろうかという危惧きぐの念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。

「どうですかって、御前の身体からだじゃないか」

 細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。

「人がこんなに心配してるのに」

 この感じをあくる日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう退めている事に気が付いた。

「やっぱり何でもなかったのかな」

「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」

「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」

 健三は真面目まじめであった。細君はさびしいほおに微笑をらした。

 熱はさいわいにしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当に行った。健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながらすわった。

今度こんだは死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」

「死んだ方が好ければ何時でも死にます」

「それは御随意だ」

 夫の言葉を笑談じょうだん半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。

「実際今度こんだは死ぬと思ったんですもの」

「どういう訳で」

「訳はないわ、ただ思うのに」

 死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。

「御前は呑気のんきだね」

貴夫あなたこそ呑気よ」

 細君はうれしそうに自分のそばている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さい頬片ほっぺたつっついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻めはなっているとはいえないほど変な顔をしていた。

「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」

「今に大きくなりますよ」

 健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。

「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」

 細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。

「何ですって」

 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。

「それがどうしたの」

「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」

「詰らないわ。ひとに解らない事さえいいや、いかと思って」

 細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三はいやな顔もせずに書斎へ入った。

 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息ぜんそくたおれようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手にるようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その島田の事も御常おつねの事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。



八十三

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 子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、ひまさえあると、新らしいいもとそばに寄りたがった。その妹のまたたき一つさえ驚嘆の種になる彼らには、くさめでもあくびでも何でもかでも不可思議な現象と見えた。

「今にどんなになるだろう」

 当面に忙殺ぼうさいされる彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなになるかをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。

 この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。

「またかたまっているな」

 彼はすぐきびすめぐらして部屋の外へ出る事があった。

 時によると彼は服も改めずにすぐ其所そこ胡坐あぐらをかいた。

「こう始終湯婆ゆたんぽばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」

 彼は何にも解らないくせにい加減な小言こごとをいってかえって細君から笑われたりした。

 日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つへやに塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。

「女は子供を専領してしまうものだね」

 細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。其所そこには自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。

「何でやぶから棒にそんな事をおっしゃるの」

「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討かたきうちをするつもりなんだろう」

「馬鹿を仰ゃい。子供がわたくしそばへばかり寄り付くのは、貴夫あなたが構い付けて御遣おやりなさらないからです」

おれを構い付けなくさせたものは、とりも直さず御前だろう」

「どうでも勝手になさい。何ぞというとひがみばかりいって。どうせ口の達者な貴夫にはかないませんから」

 健三はむしろ真面目まじめであった。僻みとも口巧者くちごうしゃとも思わなかった。

「女は策略が好きだからいけない」

 細君は床の上で寐返ねがえりをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。

「そんなに何もわたくしいじめなくっても……」

 細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ産褥さんじょくを離れ得ない彼女の前に慰藉いしゃの言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙をいてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。

 次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。

「貴夫何故なぜその子を抱いて御遣りにならないの」

「何だか抱くと険呑けんのんだからさ。くびでも折ると大変だからね」

うそを仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合じょうあいが欠けているんですよ」

「だって御覧な、ぐたぐたして抱きけない男に手なんか出せやしないじゃないか」

 実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡みずぼうそうの出来た時、健三の態度がにわかに一変した実例を証拠に挙げた。

「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」

 健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。

「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」

 彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身はすべての技巧から解放された自由の人であるかのように。



八十四

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 退屈な細君は貸本屋から借りた小説をく床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意をく時、彼は細君に向っていた。

「こんなものが面白いのかい」

 細君は自分の文学趣味の低い事をあざけられるような気がした。

「いいじゃありませんか、貴夫あなたに面白くなくったって、わたくしにさえ面白けりゃ」

 色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。

 健三の所へとつぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入でいりする二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とはちがった意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くに違ないという確信をっていた。

 案に相違して健三は頑強がんきょうであった。同時に細君の膠着力こうちゃくりょくも固かった。二人は二人同志で軽蔑けいべつし合った。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。健三はまた自分を認めない細君を忌々いまいましく感じた。一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に見下みくだす態度を公けにしてはばからなかった。

「じゃ貴夫が教えて下さればいのに。そんなにひとを馬鹿にばかりなさらないで」

「御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、おれにゃどうする事も出来ないよ」

 誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。しかし古いだけでらちは一向開かなかった。

 健三はもう飽きたという風をして、手摺てずれのした貸本を投げ出した。

「読むなというんじゃない。それは御前の随意だ。しかしあんまり眼を使わないようにしたら好いだろう」

 細君は裁縫しごとが一番好きであった。よる眼がえてられない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を洋燈ランプの下に運ばせていた。長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのがもとで、大変視力を悪くした経験もあった。

「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本位構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」

「しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」

「なに大丈夫です」

 まだ三十に足りない細君には過労の意味が能く解らなかった。彼女は笑って取り合わなかった。

「御前が困らなくっても己が困る」

 健三はわざと手前勝手らしい事をいった。自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。それがまた夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。

 同時に彼のノートはますます細かくなって行った。最初はえの頭位であった字が次第にありの頭ほどに縮まって来た。何故なぜそんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、ほとんど無意味に洋筆ペンを走らせてやまなかった。日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈ランプから出る薄い灯火ともしびの影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費らんぴして顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。



八十五

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 細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱のきりを立てようとしていた。

「大変荒れた事、今年はいつもより寒いようね」

「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」

「そうでしょうかしら」

 細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢ひばちの上にかざして、自分のつめの色を見た。

「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」

「ええ、そりゃ分ってますわ」

 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白あおしろほおを二、三度でた。

「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」

 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑おかしく見えた。

「そりゃ冬だから寒いにきままっているさ」

 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の身体からだに厳しくあたった。彼はやむをえず書斎に炬燵こたつを入れて、両膝りょうひざから腰のあたりにみ込むひえを防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君とかわる所がなかった。

 毎朝夫を送り出してから髪にくしを入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女はくたびに櫛の歯にからまるその抜毛を残り惜気おしげに眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。

「新らしく生きたものをこしらえ上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」

 彼女の胸にはかすかにこういう感じがいた。しかし彼女はその微かな感じを言葉にまとめるほどの頭をっていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、がまじっていた。いずれにしても、新らしく生れた子が可愛かあいくなるばかりであった。

 彼女はぐたぐたして手応てごたえのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸いほおへ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。

 彼女は自分のわきにその子を置いて、またたちもの板の前にすわった。そうして時々針の手をやめては、暖かそうにているその顔を、心配そうに上からのぞき込んだ。

「そりゃ誰の着物だい」

「やっぱりこの子のです」

「そんなにいくつもるのかい」

「ええ」

 細君は黙って手を運ばしていた。

 健三はやっと気が付いたように、細君のひざの上に置かれた大きな模様のある切地きれじを眺めた。

「それは姉から祝ってくれたんだろう」

「そうです」

「下らない話だな。金もないのに止せばいのに」

 健三からもらった小遣のうちいて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。

「つまりおれの金で己が買ったと同じ事になるんだからな」

「でも貴夫あなたに対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」

 姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。ひとから物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。

「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田ひだに借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」

 こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。

「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」

 ひとを訪問する時にほとんど土産みやげものを持参したためしのない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんすを見詰めていた。



八十六

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「だから元は御姉おあねえさんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」

 細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。――

とおのものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を目的あてに何か呉れるんだそうですよ」

「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」

「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」

 ひとから見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかりこしらえている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。

「随分厄介な交際つきあいだね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」

はたから見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」

 健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。

 今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先にしたたる面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿料を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。

 かねてからわが座敷の如何いかにも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂だんござかにある唐木からき指物師さしものしの所へ行って、紫檀したん懸額かけがくを一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達にもらった北魏ほくぎ二十品にじっぴんという石摺いしずりのうちにある一つをり出して入れた。それからその額をかんの着いた細長い胡麻竹ごまだけの下へら下げて、床の間のくぎへ懸けた。竹に丸味があるので壁に落付おちつかないせいか、額は静かな時でもななめかたぶいた。

 彼はまた団子坂を下りて谷中やなかの方へのぼって行った。そうして其所そこにある陶器店から一個の花瓶はないけを買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。趣味に贅沢ぜいたくをいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。

 彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物たんものを買った。織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、い加減な選択をした。それはむやみに光るかすりであった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭にそろいの羽織はおりと着物をこしらえるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙いせざきめいせんを抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。

 これらの物を買い調ととのえた彼はごうも他人について考えなかった。新らしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を過重かちょうする姉に比べて見ると、彼はあわれなものに対する好意すら失なっていた。

「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての見栄坊みえぼうなんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」

親切気しんせつぎはまるでないんでしょうか」

「そうさな」

 健三はちょっと考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。

「ことによるとおれの方が不人情に出来ているのかも知れない」



八十七

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 この会話がまだ健三の記憶を新しくいろどっていた頃、彼は御常おつねから第二回の訪問を受けた。

 先達せんだって見た時とほぼ同じように粗末な服装なりをしている彼女の恰好かっこうは、寒さと共に襦袢胴着じゅばんどうぎの類でも重ねたのだろう、前よりはますます丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢ひばちをすぐその人の方へ押しった。

「いえもう御構い下さいますな。今日きょう大分だいぶ御暖おあったかで御座いますから」

 外部そとには穏やかな日が、障子にはめめた硝子越ガラスごしに薄く光っていた。

「あなたは年を取って段々御肥おふとりになるようですね」

「ええ御蔭さまで身体からだの方はまことに丈夫で御座います」

「そりゃ結構です」

「その代り身上しんしょうの方はただせる一方で」

 健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えるところもあった。

「酒でも飲むんじゃなかろうか」

 こんな推察さえ彼の胸を横切った。

 御常の肌身はだみに着けているものはことごとく古びていた。幾度いくたび水をくぐったか分らないその着物なり羽織はおりなりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗きれい洗張あらいはりが出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何いかにも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。

「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」

「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」

 健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。

「この人はおれを自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」

 近頃の健三は実際健康をそこなっていた。それを自覚しつつ彼は医者にもてもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃした。或時はひとが自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。

「年が若くって起居たちいに不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構もんがまえうちに住んで下女げじょさえ使っていれば金でもあると考えるように」

 健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしくとこに飾られた花瓶はないけとその後に懸っている懸額かけがくとを眺めた。近いうちにそでを通すべきぴかぴかする反物たんものも彼の心のうちにあった。彼は何故なぜこの年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。

「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」

 彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。

 御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕うでがすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当みあたらないらしかった。

「何しろ取高とりだかが少ないもんですから仕方が御座いません。もう少しかせいでくれるといのですけれども」

 彼女は自分の娘婿をつらまえて愚図だとも無能やくざだともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも物指ものさしで反物の寸法さえ計れば、縞柄しまがらだの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。

 生憎あいにく健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。



八十八

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 好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。

「失礼ですがこれでくるまへでも乗って行って下さい」

「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりであがったのでは御座いませんから」

 彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めてふところへ入れた。

 小遣をる時の健三がこの前と同じ挨拶あいさつを用いたように、それをもらう御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という金高かねだかさえ一致していた。

「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」

 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。

「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉がらざる義理立ぎりだてをするのと同じ事なのかしら」

 自分の関係した事じゃないといった風に熨斗ひのしを動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――

「ないときは遣らないでもいじゃありませんか。何もそう見栄みえを張る必要はないんだから」

「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」

 二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗ひのしから火鉢ひばちへ移す音がその間に聞こえた。

「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫あなた紙入かみいれに」

 健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶はないけを買うのに四円いくらか払った。懸額かけがくあつらえるとき五円なにがしか取られた。指物師さしものしが百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀したんの書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人しょうにんの手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙いせざきめいせんを買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢てあかの付いた五円札がたった一枚残ったのである。

「実はまだ買いたいものがあるんだがな」

「何を御買いになるつもりだったの」

 健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。

「沢山あるんだ」

 慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚をっている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。

「あの御婆おばあさんは御姉おあねえさんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人とうちで落ち合っても、そう喧嘩けんかもしないでしょう」

「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそたまらないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」

「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」

「喧嘩はとにかく、おれの方がいやじゃないか」

「二人ともまだ知らないようね。片っ方がうちへ来る事を」

「どうだか」

 島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。

「あの御婆さんの方がまだあの人よりいでしょう」

「どうして」

「五円貰うと黙って帰って行くから」

 島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。



八十九

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 日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を聯想れんそうした。

 彼らだって生れ付いてのかたき同志でない以上、仲のい昔もあったに違ない。ひとからつめともすようだといわれるのも構わずに、金ばかりめた当時は、どんなに楽しかったろう。どんな未来の希望に支配されていただろう。彼らに取ってむつましさの唯一の記念とも見るべきその金がどこかへ飛んで行ってしまったあと、彼らは夢のような自分たちの過去を、果してどう眺めているだろう。

 健三はもう少しで御常の話を島田にするところであった。しかし過去に無感覚な表情しかたない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。昔の憎悪ぞうお、古い愛執あいしゅう、そんなものは当時の金と共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。

 彼は腰から烟草入タバコいれを出して、刻み烟草を雁首がんくびへ詰めた。吸殻すいがらを落すときには、左のてのひら烟管キセルを受けて、火鉢ひばちの縁をたたかなかった。やにたまっていると見えて、吸う時にじゅじゅ音がした。彼は無言で懐中ふところを探った。それから健三の方を向いた。

「少し紙はありませんか、生憎あいにく烟管が詰って」

 彼は健三から受取った半紙をいて小撚こよりこしらえた。それで二返も三返も羅宇ラウの中を掃除した。彼はこういう事をするのに最もれた人であった。健三は黙ってその手際を見ていた。

「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」

 彼は疎通とおりの好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこういった。

「我々の家業は暮も正月もありません。年が年中同じ事です」

「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」

 島田がまだ何かいおうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。

「おや赤ん坊のようですね」

「ええ、つい此間こないだ生れたばかりです」

「そりゃどうも。ちっとも知りませんでした。男ですか女ですか」

「女です」

「へええ、失礼だがこれで幾人いくたり目ですか」

 島田は色々な事をいた。それに相当な受応うけこたえをしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。

 出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。

「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」

 彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと明瞭めいりょうになるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三は其所そこまで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のあるまなこを注いだ。何のために生きているかほとんど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。

「どういう訳でこう丈夫なのだろう」

 健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態については、ごうも責任がないものの如き忌々いまいましさを感じた。その時島田は彼に向って突然こういった。――

御縫おぬいもとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」

 とても助からないという事だけは、脊髄病せきずいびょうという名前からして、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。

「そうですか。可愛想かわいそうに」

「なに病気が病気だからとてもなおりっこないんです」

 島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。



九十

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 しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりもはるかに重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。

「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」

 此所ここまで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からそのあとを推察する事が出来た。

「また金でしょう」

「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」

 島田の言葉は変にぞんざいになったり、また鄭寧ていねいになったりした。

「今までは金鵄勲章きんしくんしょうの年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで目的あてが外れるような始末で、わたしも困るんです」

 彼はまた調子を改めた。

「とにかくこうなっちゃ、御前をいてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困る」

「そうひとにのし懸って来たって仕方がありません。今のわたくしにはそれだけの事をしなければならない因縁いんねんも何もないんだから」

 島田はじっと健三の顔を見た。半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼付は、単に相手の心を激昂げっこうさせるだけであった。健三の態度から深入ふかいりの危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。

「永い間の事はまた緩々ゆるゆる御話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」

 健三にはどういう急場が彼らの間に持ち上っているのか解らなかった。

「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこのうちだって暮になりゃ百と二百とまとまった金のるのは当り前だろう」

 健三は勝手にしろという気になった。

「私にそんな金はありませんよ」

笑談じょうだんいっちゃいけない。これだけのかまえをしていて、その位の融通が利かないなんて、そんなはずがあるもんか」

「あってもなくっても、ないからないというだけの話です」

「じゃいうが、御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」

 健三はこの無茶苦茶な言掛いいがかりにおこらされるよりはむしろ驚ろかされた。

「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方あなたの関係した事じゃありません」

 島田は其所そこまで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。

「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」

「ええ、もう一文も上ません」

 島田は立ち上った。沓脱くつぬぎへ下りて、開けた格子こうしを締める時に、彼はまた振り返った。

「もう参上あがりませんから」

 最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗いうちに輝やいた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見下みおろした。しかし彼はその輝きのうちに何らのすごさも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。彼自身のひとみから出るいかりと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。

 細君は遠くからあんに健三の気色けしきうかがった。

「一体どうしたんです」

「勝手にするがいや」

「また御金でも呉れろって来たんですか」

「誰がるもんか」

 細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。

「あの御婆おばあさんの方が細く長く続くからまだ安全ね」

「島田の方だって、これで片付くもんかね」

 健三は吐き出すようにこういって、きたるべき次の幕さえ頭の中に予想した。



九十一

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 同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭どい眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔を鮮明あざやかに眺めた。

 実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損できそこないが舞い込んで来たかという顔付をした父は、ほとんど子としての待遇を彼に与えなかった。今までと打って変った父のこの態度が、うみの父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を背負しょい込んでからすぐ慳貪けんどんに調子を改めた父とを比較して一度は驚ろいた。次には愛想あいそをつかした。しかし彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育に伴なう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭をもたげた。彼は遂に憂欝ゆううつにならずに済んだ。

 子供を沢山っていた彼の父は、ごうも健三に依怙かかる気がなかった。今に世話になろうという下心のないのに、金を掛けるのは一銭でも惜しかった。つながる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見てるのは、ただ損になるだけであった。

 その上肝心の本人は帰って来ても籍はもどらなかった。いくら実家で丹精して育て上たにしたところで、いざという時に、またれて行かれればそれまでであった。

「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。しかしその外の事はこっちじゃ構えない。先方むこうでするのが当然だ」

 父の理窟はこうであった。

 島田はまた島田で自分に都合のい方からばかり事件の成行なりゆきを観望していた。

「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時表沙汰おもてざたにしてでもこっちへ奪還ふんだくってしまえばそれまでだ」

 健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。

 実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が我楽多がらくたとして彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。

「もうこっちへ引き取って、給仕きゅうじでも何でもさせるからそう思うがいい」

 健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。健三は驚ろいて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は幾歳いくつだったかく覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分きざしている頃であった。

「給仕になんぞされては大変だ」

 彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。さいわいにしてその言葉は徒労むだに繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。

「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」

 彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲と能く闘いおおせたものだという誇りも大分だいぶまじっていた。そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。

 彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。しかもその現在のために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。

 彼と島田との関係が破裂したのは、この現在の御蔭であった。彼が御常をむのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在の御蔭であった。細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在の御蔭に違なかった。一方から見ると、ひとそりが合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。



九十二

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 細君は健三に向っていった。――

貴夫あなたに気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」

 健三の心はこうした諷刺ふうしを笑って受けるほど落付おちついていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼をますます窮屈にした。

「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれでいと思っているんだろう」

「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」

 生憎あいにく細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質たちであった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。

 彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手ふところでをしたなり澄ましていた。行李こうり一つからげるにさえ、彼は細紐ほそびきをどう渡すべきものやら分らなかった。

「男のくせに」

 動かない彼は、はたのものの眼に、如何いかにも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領をますます反対の方面に移して行った。

 彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎いなかれて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐あぐらをかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。

「あれじゃ仕方がない。わたくしに御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」

 健三の申出もうしでは細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴をほしいままにする我子を見て、何という未来の心配もいだいていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。

「もし田舎へって貴夫と衝突したりなんかすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」

 細君の弁解を聞いた時、健三は満更まんざらうそとも思わなかった。けれどもそのほかにまだ意味が残っているようにも考えた。

「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」

 周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所ここにあるのではなかろうかと推察した。

 なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧りこう過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、今日こんにちに至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。

「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」

 健三の言葉は勢い権柄けんぺいずくであった。きずつけられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。

 機嫌の直った時細君はまた健三に向った。――

「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったらいでしょう」

「解るようにいおうとすれば、理窟ばかりね返すっていうじゃないか」

「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六こむずかしい理窟はやめにして」

「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」

「だって貴夫の理窟は、ひとじ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」

「御前の頭が悪いからそう思うんだ」

「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのはきらいですよ」

 二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。



九十三

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 面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。そうして其所そこている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。

 章魚たこのようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別のかきもなかった。自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻せっぷんした。

貴夫あなたわたくしのものでなくっても、この子は私の物よ」

 彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。

 その赤ん坊はまだ眼鼻立めはなだちさえ判明はっきりしていなかった。頭には何時まで待ってもほとんど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。

「変な子が出来たものだなあ」

 健三は正直な所をいった。

「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」

「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」

「今に御覧なさい」

 細君はさも自信のあるような事をいった。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために夜中やちゅう何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ逢着ほうちゃくした。

 四、五日前少し強い地震のあった時、臆病おくびょうな彼はすぐえんから庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へあがって来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。

「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」

 何故なぜ子供の安危あんきを自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。咄嗟とっさの衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。

「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」

「当り前ですわ」

 健三は自分が如何いかにも不人情のような気がした。

 しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえってひややかに眺めた。

「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」

 しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。

「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るにきまっている。御前はおれと離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」

 書斎に落付おちついた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。

芭蕉ばしょうに実がると翌年あくるとしからその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」

 彼は母の立場をこう考え尽したあと、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思いいたった時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。

「子供をった御前は仕合せである。しかしその仕合をける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」



九十四

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 年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつると御正月」といううたをうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。きたるべき新年の希望にちていた。

 書斎にいる健三は時々手に洋筆ペンを持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。

 子供はまた「旦那のきらい大晦日おおみそか」という毬歌まりうたをうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中あてはまらなかった。彼はただ厚いつ折の半紙の束を、とおも二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い印気インキで棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。

 半紙に認ためられたものはことごとく鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ判然はんぜんしないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は落胆がっかりした。「ペネロピーの仕事」という英語の俚諺ことわざが何遍となく彼の口にのぼった。

「何時まで経ったって片付きゃしない」

 彼は折々筆をいて溜息ためいきをついた。

 しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。彼は不審な顔をしてまた細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。

「何だい」

「島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです」

「今差支さしつかえるからって返してくれ」

 一度立った細君はすぐまた戻って来た。

「何時伺ったらいか御都合を聞かして頂きたいんですって」

 健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分のそばに高く積み重ねた半紙の束を眺めた。細君は仕方なしに催促した。

「何といいましょう」

明後日あさっての午後に来て下さいといってくれ」

 健三も仕方なしに時日を指定した。

 仕事を中絶された彼はぼんやり烟草タバコを吹かし始めた。ところへ細君がまた入って来た。

「帰ったかい」

「ええ」

 細君は夫の前に広げてある赤いしるしの附いた汚ならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。――

 調べ物を度外に置いた彼女は、すわるとすぐ夫にたずねた。――

「また何かそういって来る気でしょうね。しつい」

「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」

 細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼にる方に傾いていた。しかし話は其所そこまで発展する機会を得ずによそへれてしまった。

「御前のうちの方はどうだい」

「相変らず困るんでしょう」

「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」

「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」

「この暮のうちにはずかしいのかね」

「とても」

「困るだろうね」

「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」

 細君は割合に落付おちついていた。何事もあきらめているらしく見えた。



九十五

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 見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日なかいちにち置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先ペンさきで、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭ゆびさきは赤い印気インキで所々よごれていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。

 島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型をことにしていたが、健三からいえば、双方ともほとんど差別のない位懸け離れた人間であった。

 彼はしま羽織はおり角帯かくおびを締めて白足袋しろたび穿いていた。商人とも紳士とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三にいた。――

貴方あなたわたくしの顔を覚えて御出おいでですか」

 健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。いていえば、今日こんにちまでただ世帯染しょたいじみて生きて来たという位のものであった。

「どうも分りませんね」

 彼は勝ち誇った人のように笑った。

「そうでしょう。もう忘れてもい時分ですから」

 彼は区切を置いてまた附け加えた。

「しかし私ゃこれでも貴方のぼっちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」

「そうですか」

 健三はない挨拶あいさつをしたなり、その人の顔をじっと見守った。

「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所あつかいじょっていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯いたずらをして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱すずりばこの中にあったんでさあ。あの時金盥かなだらいに水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」

 健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前にすわっている人のその時の姿などは夢にもおもい出せなかった。

「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのためにあがったような訳合わけあいなんです」

 彼はすぐ本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。

「もう再び御宅へは伺わないといってますから」

「この間帰る時既にそういって行ったんです」

「で、どうでしょう、此所ここいらで綺麗きれいに片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」

 健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気こうきを快よく思わなかった。

「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、わたしにはよッぽど心持が好いんです」

 その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。

「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでもまとめたものを渡して、あの書付とえになすった方が好くはありませんか」

 健三はその書付をたしかに覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材料のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後こうご御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味をわずか二行あまりつづって先方へ渡した。

「あんなものは反故ほご同然ですよ。むこうで持っていても役に立たず、私がもらっても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」

 健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。



九十六

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 話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければじょうに訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという料簡りょうけんが露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。

「書付を買えの、今に迷惑するのがいやなら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後こうご一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」

「ええそれがつまりわたくしの来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」

 健三はそんなら何故なぜ早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。

「じゃどの位出して下さいます」

 健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか判明はっきりした目安の出てようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。

「まあ百円位なものですね」

「百円」

 その人はこう繰り返した。

「どうでしょう、めて三百円位にしてる訳には行きますまいか」

「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」

御尤ごもっともだが、島田さんもああして困ってるもんだから」

「そんな事をいやあ、わたしだって困っています」

「そうですか」

 彼の語気はむしろ皮肉であった。

「元来一文も出さないといったって、貴方あなたの方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃ御止およしなさい」

 相手はようや懸引かけひきをやめた。

「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。その上でまたあがる事にしますから、どうぞ何分」

 その人が帰った後で健三は細君に向った。

「とうとう来た」

「どうしたっていうんです」

「また金を取られるんだ。人さえ来れば金を取られるにきまってるから厭だ」

「馬鹿らしい」

 細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。

「だって仕方がないよ」

 健三の返事も簡単であった。彼は其所そこへ落付くまでの筋道をくわしく細君に話してやるのさえ面倒だった。

「そりゃ貴夫あなたの御金を貴夫が御遣りになるんだから、わたくし何もいう訳はありませんわ」

「金なんかあるもんか」

 健三はたたき付けるようにこういって、また書斎へ入った。其所には鉛筆で一面によごされた紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐ洋筆ペンを取り上げた。そうして既に汚れたものをなおさら赤く汚さなければならなかった。

 客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。

「神でない以上公平は保てない」

 彼はあやふやな自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。

「神でない以上辛抱だってし切れない」

 彼はまた洋筆ペンを放り出した。赤い印気インキが血のように半紙の上ににじんだ。彼は帽子をかぶって寒い往来へ飛び出した。



九十七

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 人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。

「御前は必竟ひっきょう何をしに世の中に生れて来たのだ」

 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。

「分らない」

 その声はたちまちせせら笑った。

「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所そこへ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」

おれのせいじゃない。己のせいじゃない」

 健三は逃げるようにずんずん歩いた。

 にぎやかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を刺撃しげきした。彼の気分はようやく変った。

 彼は客の注意をくために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店頭みせさきを、それからそれとのぞき込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹さんごじゅ根懸ねがけだの、蒔絵まきえ櫛笄くしこうがいだのを、硝子越ガラスごしに何の意味もなく長い間眺めていた。

「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」

 少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君もほとんど何にも買わないといってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる連中れんじゅうばかりであった。中にも細君の父は一番非道ひどそうに思われた。

「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」

 借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。

 それは内閣の瓦解がかいした当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの退しりぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。しかし多数の候補者のうちから、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選にれた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門にせまった。官邸を引き払った時に召仕めしつかいの数を減らした彼は、少時しばらくして自用俥じようぐるまを廃した。しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追ってますます悲境に沈んで行った。

「相場に手を出したのが悪いんですよ」

 細君はこんな事もいった。

「御役人をしている間は相場師の方でもうけさせてくれるんですって。だからいけれども、一旦役を退くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」

「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」

貴方あなたに解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」

「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものにきまっちまうじゃないか。馬鹿な女だな」

 健三はその時細君と取り換わせた談話までおもい出した。

 彼はふと気が付いた。彼とれ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的をっているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。

 或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥いちべつを与えた。

「御前は馬鹿だよ」

 まれにはこんな顔付をするものさえあった。

 彼はまたうちへ帰って赤い印気インキきたない半紙へなすくり始めた。



九十八

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 二、三日すると島田に頼まれた男がまたを通じて面会を求めに来た。行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再びすわるべく余儀なくされた。

「どうも御忙がしいところを度々たびたび出まして」

 彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。

「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれでよろしい、その代りどうか年内に頂戴ちょうだい致したい、とこういうんですがね」

 健三にはそんな見込がなかった。

「年内たってもうわずかの日数しかないじゃありませんか」

「だから向うでも急ぐような訳でしてね」

「あれば今すぐ上げてもいんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」

「そうですか」

 二人は少時しばらく無言のままでいた。

「どうでしょう、其所そこのところを一つ御奮発は願われますまいか。わたくしも折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざって来たもんですから」

 それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足るほどの手数てかずでも面倒でもなかった。

「御気の毒ですが出来ませんね」

 二人はまた沈黙を間に置いて相対あいたいした。

「じゃ何時頃頂けるんでしょう」

 健三には何時という目的あてもなかった。

「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」

「私もこうして頼まれてあがった以上、何とかむこうへ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ御取極おとりきめを願いたいと思いますが」

御尤ごもっともです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」

 健三はそれより外にいいようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。

 その晩寒さと倦怠けんたいしのぐために蕎麦湯そばゆこしらえてもらった健三は、どろどろした鼠色のものをすすりながら、盆をひざの上に置いてそばに坐っている細君と話し合った。

「また百円どうかしなくっちゃならない」

貴夫あなたらないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」

「遣らないでもいいのだけれども、おれは遣るんだ」

 言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。

「そう依故地えこじおっしゃればそれまでです」

「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」

「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」

「理窟と形式とは違うさ」

「貴夫のは同なじですよ」

「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ論理ロジックっている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、身体からだ全体にもあるんだ」

「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」

「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿ののようなもので、理窟がうちから白く吹き出すだけなんだ。外部そとから喰付くっつけた砂糖とは違うさ」

 こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手につかまなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思っても出来なかった。

「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、外部そとへ出た所だけをつらまえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の御父おとっさんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁いんねんがないと考えているようなもので……」

「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう外部うわべばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんなひがんだ眼でひとを見ていらっしゃるから……」

 細君のまぶたから涙がぽたぽた落ちた。いう事がその間に断絶した。島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へれた。そうして段々こんがらかって来た。



九十九

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 また二、三日して細君は久しぶりに外出した。

無沙汰ぶさた見舞みまいかたがた少し歳暮に廻って来ました」

 乳呑児ちのみごを抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒いほおを赤くして、暖かい空気のなかしり落付おちつけた。

「御前のうちはどうだい」

「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」

 健三は挨拶あいさつの仕様もなかった。

「あの紫檀したんの机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いからしました」

 舞葡萄まいぶどうとかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机とうづくえは、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の抵当かたに取った細君の父は、同じ運命のもとに、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。

「縁起はどうでもいが、そんな高価たかいものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」

 健三は苦笑しながら烟草タバコを吹かした。

「そういえば貴夫あなた、あの人にる御金を比田ひださんから借りなくって」

 細君はやぶから棒にこんな事をいった。

「比田にそれだけの余裕があるのかい」

「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」

 健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。

「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」

「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当さしあたり困るような事はないんですって」

 彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。

居食いぐいをしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」

「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」

 健三は平生へいぜいから島田の因業をわらっていた比田だの姉だのをおもい浮べた。自分たちの境遇が変ると、昨日きのうまで軽蔑けいべつしていた人の真似まねをしててんとして気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供みていた。

「どうせ高利なんだろう」

 細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。

「何でもうまく運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、御姉おあねえさんがそうおっしゃいましたよ」

 健三は姉のいう利子の高から胸算用むなざんよう元金もときんを勘定して見た。

「悪くすると、またみんなっちまうだけだ。それよりそう慾張よくばらないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」

「だからたしかな人に貸したいっていうんでしょう」

「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」

「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」

「それじゃおれだって借りるのはいやださ」

御兄おあにいさんも困っていらしってよ」

 比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。

「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな剣呑けんのんな思いまでして借りる必要もあるまいからね」

 健三は苦々しいうちにも滑稽こっけいを感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でもうかがわれた。それをはたで見て澄ましている姉の料簡りょうけんも彼には不可思議であった。血が続いていても姉弟きょうだいという心持は全くしなかった。

「御前己が借りるとでもいったのかい」

「そんな余計な事いやしません」



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 利子の安い高いは別問題として、比田から融通してもらうという事が、健三にはとても真面目まじめに考えられなかった。彼は毎月まいげついくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。

辻褄つじつまの合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」

 こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。

「何だか変だな。考えると可笑おかしくなるだけだ。まあいやおれが借りてらなくってもどうにかなるんだろうから」

「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。彼所あすこいらの待合まちあいか何かへ」

 待合という言葉が健三の耳になおさら滑稽こっけいに響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような性質たちではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。

 滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。

 それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は平生へいぜいから自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」とほとんど口癖くちくせのようにいっていた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、あんに未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。

 病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の記念かたみとも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。無論健三にはそれを受出す力がなかった。彼は義姉あねから所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。

 或日皆なが一つ所に落合った。するとその席上で比田が問題の時計を懐中ふところから出した。時計は見違えるように磨かれて光っていた。新らしいひも珊瑚樹さんごじゅたまが装飾として付け加えられた。彼はそれを勿体もったいらしく兄の前に置いた。

「それではこれは貴方あなたに上げる事にしますから」

 そばにいた姉も殆んど比田と同じような口上を述べた。

「どうも色々御手数おてかずを掛けまして、有難う。じゃ頂戴ちょうだいします」

 兄は礼をいってそれを受取った。

 健三は黙って三人の様子を見ていた。三人は殆んど彼の其所そこにいる事さえ眼中に置いていなかった。しまいまで一言いちごんも発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。しかし彼らは平気であった。彼らの仕打を仇敵きゅうてきの如く憎んだ健三も、何故なぜ彼らがそんな面中つらあてがましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。

 彼は自分の権利も主張しなかった。また説明も求めなかった。ただ無言のうちに愛想あいそうを尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番非道ひどい刑罰に違なかろうと判断した。

「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫あなたも随分執念深いわね。御兄おあにいさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」

 細君は健三の顔を見て暗にその気色けしきを伺った。健三はちっとも動かなかった。

「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」

「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」

 こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の生家さとの事も勘定に入れてあった。



百一

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 としが改たまった時、健三は一夜いちやのうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。

「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ。」

 実際彼の周囲には大晦日おおみそかも元日もなかった。ことごとく前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見て御目出とうというのさえいやになった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。

 彼は普通の服装なりをしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬木立ふゆこだちと荒たはたけ藁葺わらぶき屋根と細いながれ、そんなものが盆槍ぼんやりした彼の眼にった。しかし彼はこの可憐かれんな自然に対してももう感興を失っていた。

 幸い天気は穏かであった。空風からかぜの吹きまくらない野面のづらには春に似たもやが遠く懸っていた。その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の身体からだを包んだ。彼は人もなくみちもない所へわざわざ迷い込んだ。そうしてけかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に佇立たたずんでいる間に、気分を紛らそうとして絵をいた。しかしその絵があまり不味まずいので、写生はかえって彼を自暴やけにするだけであった。彼は重たい足を引きってまたうちへ帰って来た。途中で島田にるべき金の事を考えて、ふと何か書いて見ようという気を起した。

 赤い印気インキで汚ない半紙をなすくるわざようやく済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼はまた洋筆ペンを執って原稿紙に向った。

 健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、またおのれの病気に敵討かたきうちでもしたいように。彼は血にえた。しかもひとほふる事が出来ないのでやむをえず自分の血をすすって満足した。

 予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。

「ああ、ああ」

 彼はけだものと同じような声を揚げた。

 書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただどんな手続きでそれを島田に渡していかちょっと迷った。直接の会見は彼も好まなかった。向うももう参上あがりませんといい放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。どうしても中へ入って取り次ぐ人の必要があった。

「やっぱり御兄おあにいさんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。今までの行掛りもあるんだから」

「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼むほどの事でもないから」

 健三は津守坂つのかみざかへ出掛て行った。

「百円遣るの」

 驚ろいた姉は勿体もったいなさそうな眼を丸くして健三を見た。

「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。そうしみったれ真似まねも出来まいし、それにあの島田ってじいさんが、ただの爺さんと違って、あの通りの悪党わるだから、百円位仕方がないだろうよ」

 姉は健三の腹にない事まで一人合点ひとりがてんでべらべら喋舌しゃべった。

「だけど御正月早々御前さんも随分好いつらの皮さね」

「好い面の皮こいの滝登りか」

 先刻さっきからそば胡坐あぐらをかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。しかしその言葉は姉に通じなかった。健三にも解らなかった。それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって可笑おかしかった。

「でも健ちゃんは好いね。御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから」

「こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。右大将うだいしょう頼朝公よりともこう髑髏しゃりこうべと来ているんだから」

 比田は変梃へんてこな事ばかりいった。しかし頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。



百二

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 比田と兄がそろって健三のうち訪問おとずれたのは月の半ば頃であつた。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年のにおいがした。暮も春もない健三の座敷の中にすわった二人は、落付おちつかないように其所そこいらを見廻した。

 比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。

「まあこれでようやく片が付きました」

 その一枚には百円受取った事と、向後こうご一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟は誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かにしてあった。

 健三は「しかる上は後日に至り」とか、「后日ごじつのため誓約くだんの如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。

「どうも御手数おてすうでした、ありがとう」

「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時まで蒼蠅うるさく付けまとわられるか分ったもんじゃないよ。ねえちょうさん」

「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」

 比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼にはらないでもいい百円を好意的に遣ったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるために金の力をりたとはどうしても思えなかった。

 彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、其所に自分が復籍する時島田に送った文言もんごんを見出した。

私儀わたくしぎ今般貴家御離縁に相成あいなり、実父より養育料差出そうろうについては、今後とも互に不実不人情に相成ざるよう心掛たくとぞんじ候」

 健三には意味も論理ロジックく解らなかった。

「それを売り付けようというのが向うの腹さね」

「つまり百円で買って遣ったようなものだね」

 比田と兄はまた話し合った。健三はその間に言葉をさしはさむのさえいやだった。

 二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。

「こっちの方は虫が食ってますね」

反故ほごだよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠かみくずかごへ入れてしまえ」

「わざわざ破かなくってもいでしょう」

 健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向っていた。――

先刻さっきの書付はどうしたい」

箪笥たんす抽斗ひきだしにしまって置きました。」

 彼女は大事なものでも保存するような口振くちぶりでこう答えた。健三は彼女の所置をとがめもしない代りに、める気にもならなかった。

「まあかった。あの人だけはこれで片が付いて」

 細君は安心したといわぬばかりの表情を見せた。

「何が片付いたって」

「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」

「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」

「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」

「安心するかね」

「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」

「まだなかなか片付きゃしないよ」

「どうして」

「片付いたのは上部うわべだけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」

 細君の顔には不審と反抗の色が見えた。

「じゃどうすれば本当に片付くんです」

「世の中に片付くなんてものはほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るからひとにも自分にも解らなくなるだけの事さ」

 健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。

「おおい子だ好い子だ。御父さまのおっしゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」

 細君はこういいいい、幾度いくたびか赤いほお接吻せっぷんした。

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。