賤岳合戦記

 
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賤岳合戦記 巻上
 
 
 

秀吉卿は天正十年十月十五日信長公被勤於御葬礼を爾来城南の宝寺を為城墎梁于畿内育万民而城之助信忠卿の御若君は信長公の嫡孫なれは江州安土山にすへ奉り北畠オープンアクセス NDLJP:178中将信雄卿を若君十五才にならせ給ふ迄為御名代諸事御計ひ有へしと是も安土山に置奉り尊敬す頗君臣親愛之体魏然乎可忠臣矣素秀吉卿は真小輩之人なるか数ケ国を領するのみならす若君を守立るといふ名のみにて実は天下の政務此人に有しかは故将軍の如く威逐月加り禄逐年増是偏に離倫の才智絶類の武勇に因てなり然るを小智小見なる傍輩是を妬み是を悪く事甚以浅からす取分深う妬み思ふは修理之亮勝家にそ極りける京童秀吉卿に便り幸いみしき者を柴田方の町人うらやみつゝ越前に至て秀吉卿威勢の程を語りしかは妬心日々に生し怨憎月々に生す是誠に古今不易之同情なり因之勝家与滝川左近将監一益縁者の事なれは相議し謂けるは秀吉今若君を安土に置奉りおのれ後見として天下の裁判自由之至不是非事共也贔負之者には其沙汰快し​本マヽ​​なと​​ ​に便りぬる者には万踈なりしとや今不両葉則後斧柯を用ゆへし然間織田三七信孝に此有増申上秀吉を押下さんとて計けるかくて丹羽五郎左衛門尉長秀へ此趣に与しくれ候へと御頼なされ可然候はん旨滝川指図有により信孝より三宅中記を以て委細に被仰けれは長秀承り奉り仰御尤に候然は若君を秀吉取立申をいなみ思し給はゝ先若君を岐阜へ御取もとし被成急度御後見之義成へきと思し候はゝ此催し宜しくおはしまし候はんや秀吉後見を嫌ひ誰やの人其沙汰に及候共若君幼稚の間は悪口両説絶申間敷候能々御思惟可然おはさんやと計にてしかと与し申へくとの返事はなし長秀思ふやう天下の裁判は中々勇猛に達したる計にては古今ならさる例和漢甚以多し武勇を以せは柴田方は十に八九目出度事こそ多かめれ其を如何といふに第一柴田は信長公の老臣におひては武勇の長たり殊に北国には前田又左衛門尉佐々内蔵助不破彦三原彦次郎なといふ歴々の勇者多く有し其上勝家甥にて侍る佐久間玄番允舎弟久右衛門尉同三左衛門尉同源六郎何れもたしかなる者にて矧武備あり是偏に柴田に対し肩を比ふへき人なき事瞭然たり夫天下之器にあたる地位は能人を知て其用実有て度量大やうにのひ才智尽に武勇に達しなから武を以事とせす賞罰両輪の如く用と云共賞をは強く罰をは弱く施し何事も理の正に当りてせはしからず法度の立へき本は己を正しくし他を恵む事も大やうに広く衆を愛し民を撫育し財実を愛せす専威の柄を能く養ふ類ひに有予久しく信孝勝家一益之行を窺ふに武勇を以事とし其外は勝れす是鳥にしていはゝ羽翼片々有か如し如何そ自由を得んや秀吉卿は勝家より勇功は少けれとも江北浅井父子を敵とし小谷の城に向ひて対陣し終に得大利其後播州強敵の中に在国し是も又程もなく一国平均に治しなり一国より六国を亡しつる秦威に似たり殊に勇猛も且備り才智は古今に独歩せし程にも見へしか秀吉天下を舒巻せん事掌握に覚ふなり勝家得大利事有共若君をないかしろにし給ふへし周公旦の緒なるは昔さへまれなりき今の世日本にしていかゝあらんそなれは何れとてもはかしき事は有へからす同しくはともかくもならはやと思ふなる由戸田半右衛門尉高木左吉坂井与右衛門尉なとに対し悲嘆の形勢は尤深し大方は秀吉天下の器にあたれり惜乎華麗に身を労し自己の栄花こそ天下国家を知ての本意なれと思へり又翫物喪志之癖も有若是等の癖病なくは賢君にそ有けめ何としても天下の器にちかし天下の器に当る才は天のなせる所也天のオープンアクセス NDLJP:179作る所を人道としていかゝ妨んや思ひもよらさる所也信長公御連枝歴々多く大臣あまた侍りかし共明智を討所は池田高山に在し去なから秀吉着陣を待得てこそ合戦は始めけれ然則主君の怨敵を亡せしは実は秀吉卿にあり其上古(故カ)将軍御送葬莫太の費をもいとはす勤侍る事も此人なり云彼云是忠義甚以夥し天忠義を感し給ふ事眼前たり秀吉何も合天心所多く見ゆいかてか天心に背かんや吾は天理に随はんといとふかう思ふなりとひそかに老臣に評しけれは各承り御遠慮尤宜敷奉存候是当家繁栄すへき金言にこそおはしませとて無際悦ひにけり秀吉の権威春気の発生するか如く弥増行を柴田腹くろに思ひこめつゝきやつ任他われ武威を以取消ん事は卵を石に投せんよりも安かるへき物をといひつゝ雪の夥しく積ぬるを見ても腹立上方の説を聞ては溜息をつき雪の上を飛立計にいらてにけり初冬の比滝川左近謀りけるは勝家は若時より腹のあしき事大方ならぬ人也北国は中冬より中春迄は雪深して心八長に思ふ共上方への出勢もなるましき也いさ年内は秀吉と和睦のとゝのへ宜からんと思ひ勝家へ其趣ひそかに云やりけれは則応其義前田又左衛門尉不破の彦三金森五郎八并養子伊賀守以秀吉へ入魂有へき趣云つかはすへきと思ひつゝ勝家老臣に相議しけれは何れもよろしく候はんと也天正十年十月廿五日小島若狭守中村文荷斎を以て三人の衆へ右之趣頼入の条京都へ上り候て信長公如此ならせ給ふて幾程もなく傍輩と合戦を挑ん事も口惜く只和睦し若君を取立先君の御恩を可存旨よきに計ひ給り候へと有しかは何れも左もこそ有へき事にて候へとて十月廿八日北の庄を立江州長浜に至り伊賀守に語りけれは尤可然事に候我病の床に在といへ共肩興に助られ上着し此事を調へ見んと悦ひ晦日長浜を同船し出にけり十一月二日至摂州宝寺四使留田左近将監の宿所へ尋行此人を以羽柴筑前守殿へ右之趣申述候へは是は忝奉存也何様にも勝家御指図次第に御座有へし信長公老臣之事なれは何を以いなひ申候はんやとて一両日饗膳よきに妙汰し霜月四日四使を帰しけり四人の衆秀吉の御存分思ひの外軽くおはしますや雖然其験なくては遠路上りたるかいなしと思ひおしかへし筑前守殿へ申入やうは迚の事に盟の所いかゝ御座候へくや互の御誓紙も能候はんやと有けれは我もかく存寄候丹羽五郎左衛門尉池田勝入なとゝ申談宿老共不残其かため宜敷たはさんや各へ其趣申つかはし是より一ツ書を以申上候はん其旨修理亮殿へ被仰候へと有しかは四人の衆けにさもあらん事也と思ひ重て不右之沙汰帰りにけり其趣勝家へ懇に以使札申入各は少し在洛し信長公御廟所へも参り五六日も過候て下るへきと也翌日五日大徳寺へ参詣し亡君惣見院殿の廟前に至り落涙今更のやうになん見へて新也四使在京の由秀吉聞給ふて種々の幣礼事尽にけれは各忝事身に余り侍ると云しはかやうの事なるへしと一入悦ひあへりぬ久々親しひぬる京童温問し来り昼夜を尽しての遊興数年の労一時に消帰路の思ひを亡すといへ共十一月八日都を立て大津より船に乗其夜明方に至長浜着津し直に越府に着て十日の晩北の庄へ参り秀吉より返事の赴勝家へ委く申けれは寒天の節そ辛労力之段満足之通其謝尤懇也柴田春は時のよろしきに順ひなん物をと笑みをふくみ筑前守を方便すましたりと悦ひ思へりかくて三人衆は居城へ帰りにけり

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評曰此和睦故北国は聊油断有しとかや又三人の使者衆去六月迄は勝家と同しさまなる傍輩なりし也

筑前守殿蜂須賀彦右衛門尉木村隼人に向て仰ける今度柴田か方より四使を以和睦の事察し思ふに中冬より中春迄は深雪なるを以上方へ出勢ならさるの条和睦と称し吾に油断せさせ春は雪消ると等しく大波をうたせ瞳と攻上るへきとの謀也抑予を方便ん者は異朝にては子房我朝にては近きをいはゝ楠多門兵衛等か所及にもあらんかし柴田なとか愚意を以計見ん事蟷螂か斧なるへしと嘲けり笑ひにけり此扱ありてより秀吉は上方諸大名の心を取見んと二六時中工夫を費し方々への使者温問之品々理に叶ひ浅からさりしかは国々の城主等秀吉の御用に立申度と望み思ふ事募もて行験には宝寺之門前従遠国之使者飛脚捧物なとみちにきはひぬる事信長公の威にも及なんか諸大名の心を大方取やはらけ親しく成ぬかくて柴田緑者又は不浅緑者知音をは一向敵に極め其国へ年内に令進発一当あて手なみの程をも見せ其上腹あしき柴田に来春無理なる働をせさせ思ふ図に引請可打果なりとて十一月中旬率数万騎江州長浜近辺に着陣し遠巻に打囲みしか此城には秀吉久敷住なれし間攻干共安かるへし然共伊賀守は柴田并に玄番允に対し恨み深き事多し予も又能是を知る所詮理を以攻討んには不如とて勝家伊賀守に相違之条数を記立伊賀守老臣木下半右衛門大金藤八郎徳永石美守を呼よせ及其沙汰けれは各承り如御存知父子の間以外間隙多く候此趣伊賀守に申達し御返事重て可申上候と領掌し立帰伊賀守に云しかは内々恨み深く存寄し事ては有則同心せし也

評曰運籌于帷幕中勝于千里外とはかやうの事成へきか此計籌掌握於天下に治むへき前表也

伊賀守十一月廿二日朝組頭之者共を呼集め勝家近年義理違し恨の数々を十七ケ条記し各披見し此内予か非義の条子あらは諫め正し候へとて出しけれは余義もなき事共に御座候とて如此之上は親子義絶に及ふ条越前に父母妻子等有之者は急き丸岡へ参候て勝家へ奉公仕候へ我に与せんと思ふ輩は名の上に点をかけ明日可誓紙と巻物を出しけり則点を懸るも有又丸岡にいまた父母なと有し輩は暇を申請別るゝも有成へき程は父母呼よせ取見んとて急き下るもありて騒動以外也秀吉は丹羽五郎左衛門尉筒井順慶長岡越中守池田紀伊守蜂屋伯耆守其外畿内遠境之大名小名都合其勢五万余騎を引率し不於風雪濃州進発大柿を本陣と定めらる然て国中の城々之内不味方をは攻平け脱甲降する者をは令入魂所領安堵之状を出し幾程もなく美濃一国大方成味形岐阜一城に極め頓てをし寄町を打破り裸城になし則時に可乗捕之催し急也痛はしや信孝心は剛に猛けれとも国中の城主悉く心を変し敵に与するの条力なし此上は秀吉と和睦せんより外なしとて長秀方へ其趣被仰遣けれは流石信長公の御子息なれは痛敷奉存秀吉へ和与の事歎しかは秀吉も其故を被存何様にも若君を取立能に御計ひ被成候へ今度は勢を打納可申候又以来野心あらん者御心を伺ひ対敵之思ひを可成候左様のためにも御座候条御老母を安土山におかせられ可然候オープンアクセス NDLJP:181とて則其沙汰に及へり其上信忠卿御二男も岐阜に御座候へは覚束なし唯是をも御供致さんとて安土山へ入まいらせけり定十五六日ケ間に濃州一国平均に相随へ又長浜へ立帰り北国按への城々普請等丈夫にいとなみ立鉄炮之玉薬武具以下兵粮馬の飼ひに至る迄籠置来春は早々此表へ可出勢と約し臘月廿三日帰陣に及ひ其夜は安土に宿陣し若君へ歳暮の御祝義として御小袖十重銀子二千両進上あり其下付々の面々にも悉く沙汰に及ひしかは中々忠義正しき人なりと感しつゝ用ぬる事いとおびたゝしかくて廿六日至山崎宝寺之城に帰陣せしめ越年之祝義例年に越へ目出度事有廿八日には今度濃州表出勢之傍輩衆へ小袖十銀子百枚樽肴十荷宛并其家中の組頭何れも不残小袖二重宛使者を相添へ今度寒天之節苦労の段喜ひ入趣いとねんころに尽されけり

評曰如此武略兼備り万はかの行事下坂の車のことくなるは天下の大器也然共義士なる傍輩なれはいまた君臣の義に及はす斯其労を謝する事時を違へす有し也不破彦三原彦次郎云けるは佐久間玄番允か驕今さへ不大方よとて内々の腹立ふかゝりしとかや

秀吉如此諸人の労を報謝し下民を憐給ひしかは此人の為ならはいかなる疲労も物の数ともせす可大功と思ひ籠さるはなかりけり

評日大志有人は大人小人の心を取事身にかへても勤へき事也秀吉卿は其身にかへて仕給ふ故諸人の心秀吉の為に在て其身にあらす然るに寄て忠功を抽んと思ふに実有て毎事はかの行事水の流るゝかことし

相順ふ人々の云けるは今年はいかなる年にや有しやらんと至備中参陣せしより爾来一日片時も休足の間なしかく有ては身も世もあられん物かと大あくひして年を越んと沐みなとせし処に明日元旦飯後より播州姫路へ下向有へきの条其用意油断有へからさる旨触にけり各承り悔けるは責て元日をは安くあらせ給はん事なるに是は急なる事なりとてつふやきつゝ其用意とせよ角せよと也

熟去し年の内の事共を思ふに二月中半木曽の深雪を凌き信忠卿甲信両国乱入し武田勝頼父子を亡せしか又夏は将軍御父子逆臣明智か為に弑せられ給ひ様々の事共移り替るに人の心も何とのふ静ならす世間の事さま物さはかしう成て上下安き事なかりし年も夢の間に暮て天正十一年元旦の祝義物ことに改り漸々半日春の心地してとや角やとのゝあるうちに午後より姫路へ下向お給ふへきなれは猶今年も忙敷有へき前表かと思はれ予め安き心もなかりし夜半計に姫路へ着せ給ふて二日は悉くゆるやかに有へしと樽肴或は銀子或は八木なと相添給ふてけり左も無く共去し年中之労をも忘れなんに是は目出度事にておはしますよとて朝より夜半に及て爰もかしこもうたふ声々遊々として万歳をよはふ目出度かりける年の始也秀吉は休息もし不給還て心に労を尽し右筆二三輩召てたれかれ年々の恩禄或は馬太刀小袖或八木馬之飼料等記し立見給へは八百六十余人に及へり則それの奉行十人計被仰付五日のうちに仕廻可申旨急也其御隙二日の午刻に明しかは朝餉祝し給ひて休み給ふかゆり若大臣の軍にしつかれ熟睡せられしにも越たり傍人笑止に思ひ侍りて云凡人のきこんオープンアクセス NDLJP:182秀つゝく程こそ有けれ去ぬる年の内は終によるの隙さへ穏ならさりし昨今の熟睡之体思ひやられて痛みにけり三日の午後やうよろほひ出給ひ聊休息し備りし験にや気力殊之外付て鬼共くみつへうそ覚へたるさらは年頭之礼を請候へしと在姫路士計今日中に仕舞候へと被仰付しかは内々其望みては有我さきにと進みしに因て町より本城迄せきあひをし分かたして時をうつせ共御前は絶間なく拝謁にきはひにけり四日五日は近国之衆或は城主或は諸寺諸社の僧官神人参りつとひ其様夥し朝には大名小名に対し尽親愛夕には寵臣近習に向ひて評政道之損益天下泰平工夫更に懈怠も無けり

 
 

安土には若君御幼稚に付て伯父信雄卿為御名代元日之朝礼受させ給ふて賑ひし也秀吉卿も中国之務政を沙汰し置正月七日上洛し年頭之参内を遂られ摂家清花諸公家なとへも其さまいと厳重也翌朝至大津船に乗其夜安土に至り翌朝御両殿へ新正の御礼其品を尽されし事恰将軍御在山のことし君臣の礼義甚以不軽とて諸人の感拝洋々乎として岐に充り

傍人曰将軍取立之大臣多く有といへとも秀吉卿のやうに亡君の重恩を能勤らるゝは稀也行々興るへき人なりと媚をなす輩尤多かりし也其前表何となふ此人は可天人也と諷しあへりぬ是自然の通兆也

秀吉卿安土に五日滞留し給ふて柳瀬表をかろと見廻取出の城々へ心を相添又頓て此表へ可令出勢と約し正月中旬宝寺へ帰城仕給ふ

 
 
秀吉卿遠慮し給ふやうは残雪深き内に先滝川左近をおしつめ蟄居させ其後美濃国に発向し弥国中の人質等を堅く取しめ三月よりは柴田に向ふへきとの義定也因之正月十一日諸国出陣之廻文有しは来る十五日より廿日の間遠近に随ひ日並を追ふて被立出宿々不指合様に尤候江州草津辺にして勢揃し手を分て勢州表へ可乱入候条於彼地相待候との廻文也各日限に先たちはあれ共遅参はなし秀吉小姓馬廻り弓鉄炮一万五千の着到にて正月廿三日江南に着陣し惣軍勢七万余騎を三手に分給ひ土岐多羅口より乱入し給ふは羽柴美儂守筒井順慶伊藤掃部之助氏家左京亮稲葉伊与守其勢二万五千也君ケ畑越より押入勢は三好孫七郎殿中村孫平治堀尾茂助其勢二万余騎なり秀吉は三万余騎を引率し安楽越に掛りて乱入し給ふに岸かけもなきやうに見へしは実乎猛勢に節所なしと云し事滝川も上方勢おさへの取出を道筋に拵置可相防と兼ての用意有しか共其城には押への勢を置脇道をうたせ給ふに寄りて支度相違してけり滝川も数度の戦に功有し人なれはあの藤吉郎か手なみの程は知りたり節所を越来りし事誠に天の与る幸なり能図を見て切かゝり悉く撫切に伐捨るか夜討そするか何様大軍反て味方の利と成謀有へしと実しく云しかは満坐ゑつほに人左もあらんとそ楽ひける多勢三手に分て乱入し民屋悉く放火し煙り天に蔽ひ日を障殊更秀吉卿は三万余騎を段々に備へ桑名近辺におし寄在々所々不一宇も放火し給ひにけり滝川も三方の手あてに六七千の勢を分てつかはしゝかは心は剛に余ると云共勢は不足いはゝ病鶴の翅翖のオープンアクセス NDLJP:183短か如し因之桑名近辺を眼前に焼せまけ腹立て云やうはあはれ夜討して頸を拾はん事は今夜を過すましき物とて怒りにけり三方より分入し勢在々所々にして入亘りて堂社仏閣とも云す焼立鯨波を挙てそ引かへし山取をして終夜大かゝりをたかせ夜討の用心きひしかりし也秀吉も桑名より五六里引退て滝川は弓矢取ての​本マヽ​​明名​​ ​なり今日之狼藉さそ無念に有へし小勢にて鬱憤を散する事夜討にしくはなし其心得をなし候へとて軍中其制尤きひしく夜盗の功者を遠聞に出し終夜大かゝりを山のことく積上たりせしかは痛しや一益夜討の支度も空しく成却て如何なるてたてもやあらんかと不審く思はれ取出の城々へ用心油断有へからす珍しき敵の手たてあらは可告知と云やり還て自分の用心に労す羽柴小一郎殿三好孫七郎殿は一益甥滝川義大夫か楯籠ぬる峰の城に押寄幾重共なく打囲み攻にけり又佐沼新助か籠りし亀山の城をは秀吉先勢として取巻せ給ふ惣搆も柵逆茂木を引用心きひしきと云へ共閏正月廿六日之朝押詰柵を引破り塀を乗山下を焼払ひ日々夜々に仕寄たゆみもなけれは日を経て今は城中の旗の招きと味方のまねきと結ひ違ふ計そ見へにけり夜に入は鉄炮をつるへ立鯨波を上攻皷をうち隙透間もなく攻金堀を入て未申の矢くらを堀くすし塀も倒れしかは其より込入らんとしころを傾け進め共城中一命をすて防き戦ふに依て其夜は空く明にけり哀乎似子轍跡之魚吻淤泥之水此旨滝川聞及ひ佐沼には方便りて退候へと密通しけれは即降人に成て城を渡し長島へ退きにけり角て亀山の城をは信雄卿へ奉進之峰の城関の地蔵の要害をは塀逆木幾重共なく引廻し鳥の外通ふ物とては嚅耎如き物計也如此丈夫に被仰付攻手之勢を相定め給ふまつ当国の国人関安芸守入道万鉄斎木村隼人正前野勝右衛門尉一柳市助山岡美作守青地四郎左衛門尉等に攻口を定め給ひ制法厳重に調へ置横目の士五人残し置秀吉は至江北柴田出張のよし注進あるに依て二月八日江州長浜に趣し也柴田は未北の庄に在といへ共佐久間玄蕃允為大将二万余騎天正十一年二月七日木の本辺に至て出張すへきとの用意也因之各諍先陣を処に前田孫四郎利長進み出今度の先陣い府中に有し者より先を駆へき者有へからす不破彦三より我行年抜群下なり然は鬮取にも不及先陣の理我に有理をおして先をかけんと云者あらは浮世に在てもかひなし弓矢八幡も御ちけんあれ先陣は我なるへしと云各へ理り七日の払暁に立出木本さして出張すつゝく勢には不破彦三佐久間久右衛門原彦次郎金森五郎八なり玄番大将なれは跡に打しか東野の城をおさへ陣を備てそ有ける前後其勢一万五千在々所々に分入て悉く放火し凱歌を上け即勢を打納柳瀬辺に陣取ぬ同十日天神山木の本両城におさへの勢を置つゝ玄番允働きけり此度も先手は孫四郎也一番に打て出けるか此度の井口川を切て放火せんとの義定なれは取手の城々に按への勢をあまた置て焼払の勢は一万騎には過へからす然共孫四郎若き人なれは深入して関ケ原近辺まて悉く放火し勝ときをあけ引取し也
 
 

去七日北国勢出張し木本辺令放火之由至勢州注進有しかは秀吉も内々江北へ御出勢有へきとの事にては有即翌日八日亀山の城より江北さして打せ給ふ十日暮程に長浜に着て玉藤オープンアクセス NDLJP:184川井口辺今日放火いたしつるよし聞給ふて扨も残多事かな今半日早く着陣せは悉く可討留者をと蹉をして千悔し給ふかくて翌朝賤岳近辺へおし出す惣軍勢を十三段に備へけり

一番  堀久太郎 二番 柴田伊賀守勢  三番  木村小隼人助堀尾茂助木下将監

四番  前野勝右衛門加藤作内浅野弥兵衛一柳市助

五番  生駒甚介小寺官兵衛明石与四郎木下勘解由左衛門大塩金右衛門山内伊右衛門黒田甚吉

六番  三好孫七郎殿中村孫平治

七番  羽柴小市郎殿 八番 筒井順慶  九番 赤松次郎蜂須賀彦右衛門伊藤掃部之助

十番  赤松弥三郎神子田半左衛門  十一番 長岡与市郎高山右近大夫

十二番 羽柴御次丸千石権兵衛    十三番 中川瀬兵衛

其次は秀吉小姓馬廻弓鉄炮一万五千を三段に備へしか十三段をは峯より岑を伝へに鶴翼に備へけれは小国より察し見る事区々にして十二万余騎と見るも有十万に及ふへしと云も有けると也秀吉の先備八首は弓鉄炮也敵味方先手間十町に過へからす鉄炮足軽のみにて其日は相引にしたりける敵合戦を挑ならは勝負迄こそなく共はつれの合戦は有へき事也然るを敵不取合は覚束なく秀吉卿思召翌日未明に足軽にまきれ古老の者十騎計召連峰によち上りて敵の屯を見給ふに急に破つへうも見へす又敵より責かゝりて可討果やうにも見へす極る処は弥々取出之城々普請等丈夫に拵へ能兵共を猶加勢し先惣人数をは打納宜敷からんやと老臣に相議しけれは可然おはさんと也因之伊賀守勢を入置し天神山之城は聊出過益なしとて十町計引退き本山に要害を拵へ給ふ左ね山をも弥丈夫にこしらへ堀久太郎を入置志津岳の尾崎に中川瀬兵衛尉其尾七八町北の方高山右近大夫賤ケ岳の城には美濃守内桑山修理亮田上山は小市郎殿本陣として居城也遊軍は蜂須賀彦右衛門尉生駒甚助神子田半右衛門尉赤松弥三郎明石与四郎小寺官兵衛尉其勢一万五千なり何れによらす弱き所へ可助成との事なれは木本辺に宿陣してけり海津口の按へには丹羽五郎左衛門尉一万長岡与市郎三千にてかためたり去とも長岡は帰陣有て海賊舟を用意せられ越前の浦々に著岸し在々所々放火有へきとの事にて三月初旬帰陣に及ひぬ筒井順慶なともまつ帰国有へしと使者有秀吉も至長浜納人馬を可休と卯月朔日引給ふ伊賀守病気逐日重りもて行まゝ上洛し侍りて加保養然の旨にて卯月五日上京あり

 
 
本山の要害に心を変する者有よし誰ともなしに云出しかは木村小隼人佐を本丸へ入大鐘藤八木下半右衛門山路将監を外輪へ出し用心厳しく見へし処に山路卯月十三日之朝小隻人亮へ茶を申さんと約し用意頻也此企は木村を討て柴田か勢を本山へ引入んとの隠謀とかや然を其夜子の刻計に木村か門を扣く者有誰そと番の者共問けれは御本陣より急用の事にて有そ先門を啓き候へと云しまゝ隼人に其旨告し処大崎右衛門聞候へと有しかは即出むかひ何用の御事そ承り候へしと云し時いや御本陣よりの御用には非す候伊賀守具臣野村勝次郎是迄参たる由申候へと有に寄て大崎立帰り其由申けれはさらは内へ入よとて近習十人計野村オープンアクセス NDLJP:185か左右に随ひ屋裏へ入しかは野村刀脇さしを大崎に渡し密かに申上候はんとやはら立寄さゝやきけるは山路将監心を変して候明朝御茶を申数寄屋にて御辺を奉討本山の城へ柴田勢を引入むとの事に相極りたる由云けれは木村実さもあらんと覚へたりさらは只今逆寄に寄可討果と有しを野村承り先病気の由被仰遣相延明朝御仕かけ候はゝ同類不残被打果候はんやと指図せしに尤なりとて山路方へ俄に虫さし出痛候間明朝は参るましき旨使者を遣しけれは扨は此事推量有し也反忠を心許なく思ひ密談の者誰彼とよふに野村勝次郎そ居さりけり反忠此奴なんめり時刻移りなは悪かりなんと長浜の宿所に母や妻子共有しをは山路か甥と奮臣二人つかはし船にて早々退候へ財宝等に少も相かまはす片時もはやく退候へと出し其身は密談之者三人同道し鶏の声初て聞へし折節落にけり将監か陣所ひそとさわき出たる由野村か宿より告知らせける間即かくと隼人佐に申けれはすは退たる物にこそとてくると引巻尋ぬれは如案見へさりけり在長浜母なとからめに馬上五六騎遣しみれははや船にて忍ひたりとなん番船の者も熟眠して在しを山路将監か母の乗たる冊の権番船の碇の綱にあたりしかは十艘の番船一度にゆられ出是は如何様なる舟か通るにこそとて声々にのゝしり出けれは案のことく不知船見へつるに因て追かけ舟をとめ見れは山路か母妻子共也彼是七人番船へ取のせこき戻り隼人佐使者共に渡し侍りけり

評曰悪逆無道なる者天にくみ給ふに因て山路か母なとか乗たる舟番船の睡を覚しぬる事天心厳なる事黙識すへし呼恐哉

山路か妻子共七人秀吉へ上奉り謀反の様子委く木村申上しかは見せしめの為なる条急き張付に懸て将監めに見せよと被仰けれは隼人の佐いとゝ腹あしき人ては有卵月十六日柴田か陣取近う逆張付にかけて山路是を見よと高声によははり瞳と鯨波を挙てとよめきにけり痛しや夢にも知らぬ事に七人の者共に憂目をみせ耻を与る事後代万人の舌頭に絶さらん事も偏に将監か無道故也能々勘かへみるに謀反をし侍りて行末の目出度はなかりけり

 
 

信孝いかゝは思召けん旧冬秀吉と和睦の契約を変しられ柴田滝川と仰合され敵の色を立氏家内膳稲葉伊与守か領分の在々処々放火有之由注進有しかは秀吉卿旧冬岐阜を可攻平之所信長公の御厚恩忘れかたく存知及助宥候し今又斯約を変し自業得果なれは不思惟事なりとて至濃州出馬可打果と卯月十七日暁天に長浜を立て同日玄の刻大柿に著陣翌日十八日の早天に氏家稲葉か勢を以て信孝の御分領悉く放火し十九日には至岐阜押寄可攻干と支度侍りしか共夜半より雨夥く降出小止みもなけれは其日は止にけり斯る処に廿日の午刻佐久間玄番兄弟不破彦三原彦次郎徳山五兵衛尉上方取出の要害をは丈夫にをさへ置余語の海を左になし廻り来て中川瀬兵衛か要害を打囲み息をもくれす攻候旨飛脚倒来せしかは秀吉驚きもし給はて扨は得大利事思ひの外はやかるへきそかち立の士二百人之内道に得たるを五十人撰出しつゝ急き長浜に至て廿人は松明を持せ出我行先道通山の峰々に百姓を追出しともし立させよ卅人は長浜近辺の地下人共に酒食馬の飼ひをこしらへ持オープンアクセス NDLJP:186出道の両辺に待せよ米銭の費倍々の算用をとけさせ遣すへき旨能々申聞せ早速持出候やうに油断致されと被仰付けり斯て弓鉄炮小性馬廻其組頭へ柳瀬において大利を得る事出たるそ早々拵へ出候へ腰兵粮のみにて軽々と出よと被仰触けり堀尾茂助を召てひそかに仰られけるは其方か一命を請事有そとよ汝は当城に残り候て若氏家内膳正か心変りなる色見へしかは能に計ひ候へとしめやかに頼れけれは堀尾御諚畏て奉りぬ一命を進し置事は本来左もあらては不叶事也然共当城の主と申時分からと云某一人は如何侍らん云れとても御指図次第にて候へと申上けれは其方好の者十人程残し置へきそ好み候へと仰けりいや十人まても入不申誰彼六七人御残し候へと申上即堀尾は残りけり

 
 

同十九日早朝監将佐久間玄番允に云様は羽柴筑前守一昨日至濃州令発向由候其意趣は三七殿今度勝家を救はんと思召秀吉に対し敵の色を立させられ氏家稲葉か分領を放火し給ふに寄て信孝を退治せんとの義也とかや然は信孝御志しの程を救給はては不叶事にておはさんか如何思ひ給ふそやと云けれは尤助成申度事は飛立計なりと云共大山を隔て其間に大敵あれは不了簡事共也何とそ救ひ奉らん衆もあらは承度こそ候へと云し時山路サヽヤきけるは上方より北国勢押へ置し取出共の普請は何れも丈夫におはしまし候余呉の海の東なる中川瀬兵衛尉か有し要害は多くの取出の城ともを隔て敵間遠きを頼みとして普請以外形計に拵候しなり是を討んなとゝは上方勢思ひもよらさる所也然は討不意に同し不意を討に利のなき事は稀なる事也秀吉濃州出勢は折を得たる幸ひに候いささせ給へとあり敷重てすゝめけれは玄番いとゝ進度折ふしなれは即同心しさらは取出の城々押への勢を勝家へ問ひ奉り定めんとて同日午の刻匠作の陣所へ玄番久右衛門兄弟同参して其旨相議有運の尽なん験かや勝家も如何あらんと不及思惟てたての事共を聞届け宜しからんと同し給へり西の方二ケ所の城の押へには前田又左衛門尉利家子息孫四郎利長志津岳のおさへには原彦次郎安井左近大夫堀久太郎取出をは勝家おさへ置へきの条心安く働候へ帰陣には海道を直に退候へ必宿陣すへからす今日中に引取候へしとて廿日の早朝に暇乞有しか是そ最期のいと間乞とは成にける先陣は不破の彦三徳山五兵衛尉佐久間久右衛門尉大将は玄番允都合其勢一万余騎余呉の海をつたひ山路をたとり急きしかは漸夜も白みあへりぬかゝる処に中川瀬兵衛尉か者とも馬をひやしに余呉湖さして来りしを押へ取て軍神の血祭にそしたりける伴ひ者共逃帰りて味方の勢かと見し処に太田平八池田仙右衛門尉か馬取を四五人切て候急き御出合なくは危き事に成へく候やとのゝしる張番の士聞もあへす鉄炮を以防戦ふ処に賤ケ岳の要害より中川瀬兵衛尉高山左近其勢六千おり下りて三尺計高き土手を隔て不破彦三佐久間久右衛門か勢と揉に捫て防戦ふ互に勝劣もなき武士なれは入も立す入いる事もならて勝負まち成し事数刻に及へり玄番思ふやう奥平九八郎三州長篠に籠城し極軍をひらく時鳶の巣山の陣屋を焼立しかは武田か勢跡を焼立られ度に迷ひし也あの要害の麓へ廻り下小屋を焼候へ去程ならい敵跡をやかれ度を失ふて敗北せん事疑有へからす急き徳山よりオープンアクセス NDLJP:187勢を分つかはし陣屋を焼候へと云遣しけれは尤可然候とて神部兵右衛門尉に一千余騎を引分相添敵の下小屋を焼候へと申付しかは神部其勢を二手に分て手かるき者計撰ひ出し城の山下へ廻り下小屋を焼立よとて遣し神部は六七百の勢を左右に随へ瀬兵衛か居城より襲ふ事もやと待かけたり彼の勢下小屋に至て見れは黒く打出人足の外用に立へき者曽てなかりしかは頓て焼立時を瞳と上し也中川高山も土手を堺て汗水に成て防戦けるか下小屋を焼立たるに度を失ひ退散せしを引付て追行は誠に蜘蛛の子を散したるかことくおのかさまなれと瀬兵衛尉は二三度引返し追払ひてはのきのき下知しけるは入城し堅固に可守とて手廻りの勢五六百にて終に居城へ籠りぬ北国勢勝に乗て息をもくれす攻上りしかは瀬兵衛小性馬廻り五六十人にて突て出防戦ふ形勢たとへていはん方もなし不破佐久間弥先立込入けるを中川大音声を上突て出つきのけする事五六度に及へり然共新手を入替攻しかは身も労れはて或は討れ或は手を負残少になり叶はしとや思ひけん大手をはすて詰の城へ曳ぬる処を跡より中川殿きたなくも後を見せさせ給ふ物かな引かへし勝負あれと訇る声にまけ腹立て引帰し又鑓を合せ五六人突伏し処に玄番允内近藤無一と名乗かけ散々に戦ひ終に瀬兵衛を討取首を上たりかくて頸共を集め実見に及ひけれは漸日も西山に傾きぬ瀬兵衛尉首を勝家へまいらせけれは悦ひあへる事限りなし昨夜山道をたとりたとり来て終日戦ひつかれ大利を得たるに上下気ゆるまり心気以外脱にけり勝家本陣へ廻れは五六里直に行は一里にも不足也玄番允是に可致在陣旨注進ありけれは急き引納候へし此上大利にほこらされ只片時もはやく引取吾陣旅を固候へし時々位を見るならは旬内に天下掌握に帰すへしと再三馬上之歴々を遣し諫しか共玄番勝に乗て聞も入す勝家老してはや分別も相違せりとて下知をも用ゐす使者五六度に及時いふか返事をもせさりし也兎や角やせし間に日くれぬ

評曰織田備後殿信長公へ遺戒の内得大利其勢ひを能養ぬれは敵国は自然に亡る物なりと有しを勝家能存知られし故玄番允に急引取候へと使者数度に及しを不用ほこりし行衛可見或人曰如此玄番允下知を不用は勝家早々進み来りて玄蕃を引立同道し引取なは誠によろしからんか秀吉ならは此沙汰に及へしと心有人は悔にけり

秀吉卿従美濃国柳瀬表出勢之事

〈癸未〉卯月廿日未の刻秀吉小姓馬廻弓鉄炮都合其勢一万五千を率し濃州大垣より諸鐙を合せ急き給へる其気象いかなる天魔破旬も向ふへくも見へさりけり良有て堀尾茂助は氏家内膳か心を引見んと思ひ云やうは秀吉難義の程いかゝ思召候や又当城に御座候はんやと尋けれはされは岐阜への手あてを沙汰し置某も秀吉卿の御跡をくろめ申さん頓て参陣せんとて貝を吹せ旗を出しひしめきあへりしかは堀尾茂助も安堵し六人の者共に云やうは氏家若心を変しなは引付一着を極むへきと心腑に銘し思ひしか目出度事こそ候へ内膳も只今柳瀬へ趣くへきと也いさ内膳と引連参陣有へきと云けれは各悦ひあへりつゝ申の下刻に大柿を出汗馬の鞭隙なく急きにけり秀吉殊之外急給へ共多勢なれは思ふ程にははかも行さりしか藤川オープンアクセス NDLJP:188辺にてははや夕日山の端に近く次第に闇く成とひとしく地下人百姓共手に松明をともしつれ御むかいの者なりと声々に名乗しかは其名を覚ゆる事は成ましきそ某郡某里と能覚候へ一廉褒美すへきそと自も宣ひ多くは歩立の者を以仰けり長浜近辺の町人百姓等酒食赤飯馬の飼ひなと持出一村備へを儲けさゝけしかは餅を手つから取てほうひし給ひし事あまた度也人馬力を得一きはいかめしやかに其勢甚以夥し嶺より岑わきへ松明をともし立万灯会も物かはなれは秀吉卿当地参陣やらん松明の数莫大也とて敵陣ひそと云出人声物替りせり又大柿より今何として参着あらんや心つよく思ふへしとさゝやく処も有て陣中騒きあへりぬかくて松明弥多く成道を急く便快し秀吉卿賤岳に付給ひ取出取出の城々へ唯今著陣候夜明なんとせは北国勢に引付て弓鉄炮を以射すくめよ明はなれなは合戦を初むへし得大利事掌をさすか如きそと被仰触殊の外勇み給へり

評曰筑前守殿去年三月以来爰かしこはかをやり給ふ事の聊不足なる事なきを能考へ見すんは​本マヽ​​徹​​ ​せし諸人皆並々の事に思へり其人も亦倫々の心なるへきか噫宜乎非蛇不知蛇道と云置し事

 
賤岳合戦記 巻下
 
 
 

長秀は若州并江州之内志賀高島両郡を領し坂本を居城とし有しにより北国勢を押へん為勢を分敦賀表に三千又塩津海津に七千伏置江北を静めける処に卯月十七日秀吉濃州表出張の由申に付て柴田に対し有取出の城々無心元存小性馬廻千余人組頭二三輩召連船五六艘に取乗同廿日出船有漸汀近くなるに随て鉄炮之音夥くなり出たり渚を見れは旗さし物多く立さはきぬ長秀察しけるは敵賤岳を攻落し其勢溢出かくやある船を汀へ急き著よと怒りける坂井与右衛門尉江口三郎右衛門尉等も実さも有へしと覚へ奉る然時は引返し坂本の城を堅固守給ひ宜数候はんと諫けれはいやとよ弓矢取身の図をはつし義を汚すは必終か無物そと云つゝ船をおろし海津へ遣し勢を分三分二急き賤岳へ可相越旨書状を調へもとしけり望月曰五里漕戻りて五里来らん事其勢何として此急難の用に立申候んや長秀曰それは狭き存分也物は期の延る事多く有物そかし賤岳之城へ加勢として五郎左衛門尉籠りぬる由敵方に聞候はゝ多勢ならんと思ふへし急き漕もとれとて其身は渚をさして早めけりかくて船を漕よせ問へは今暁越前勢中川瀬兵衛尉高山右近の大夫要害を攻候しか唯今落城したるやらん火の手あかり申候此城に有し桑山修理亮も見驚き落てのかれ候いまた十町には過す存候へ然間此城へ北国勢入かはり此辺の百性共をは撫切にせんとて難義千万に存候急き御入城被成給り候やうにと申けれは即入ぬ長秀桑山を散々に悪口せられけるかいかゝは思けん修理亮方オープンアクセス NDLJP:189へ足はやなる者を遣し五郎左衛門尉当城為加勢只今着陣候急き帰られ候へと云やりけれは桑山立帰りて是へ御加勢あらんとは夢にも知らすして退侍る也是よりは申合随分可尽粉骨をと云し時長秀申合せんとはおかしく思ひしか共其方立帰り被申しに因て下々力を得候と有しかは桑山重て言葉はなかりけり長秀其近辺在々処々へ五郎左衛門尉こそ只今賤ヶ岳の城へ加勢として入たるそ安堵せよと触取出の城々へも力を付しかは味方千騎万騎のきほひとはかやうの事なりとゝつときほひ出けり

評曰信長公御在世之時は簗田柴田滝川丹羽等かはる軍の前後を勤しか今度も丹羽心かけ信篤かりし働也

不破彦三佐久間久右衛門か陣へ夜半比より松明美濃路よりの海道峰々に夥しく見へ其とはなしに物さはかしく成出しかは下々起よ其用意せよと声々にしきりけれとも昨日終日戦ひ疲れしかいらへ事をもせさりし也去共物になれたるは此けしきはたゝ事にあらさるへしと其様急なるも有玄番允陣中も弥さはき立退なんとひしめき立出しかとも十九日夜節処を窘歩し来り昼は終日戦ひ暮したり目さす共知ぬよるの道小篠か上の露諸共に落まろひ起ては倒れたをれては起上り急きしかせめて月をよすかにせんとのゝしる内廿日の夜の月山の端にのほれは聊道しるへ有南方の勢は兼支度を調へ敵退なは付んと待得し事なれはいまた陣払もせさりし内にはやひしと付て見へたりけり原彦次郎安井左近も賤岳を押へ有しか漸々仕払て一手に成し時玄番今日の殿も此両人を頼入と云しかは委細意得候と領掌し跡に打けるか鉄炮十挺五六張宛一町に伏置是迄引取下知次第うてよと有しか共敵すき間なく引付かゝり来て鉄炮をたに打兼る計に急なりけり原と安井と立代り殿せんと堅約して一二度いさも侍れともこはき殿にや有けん安井は引取て退しにより原一しして前後に目をくはり左右に下知し退しか青木勘七郎原勘兵衛長井五郎右衛門豊島猪兵衛鷲見源治郎鷲津九蔵毛屋新内なと引返しては突倒し突退けゝれは敵もさつと引にけり青木は其中にて行年おとる程に跡をは我にまかせよとて二三度引かへし鑓を合せ突のけしか何れも鑓を以たゝき合けるに青木計引ぬき引抜突しかは敵思ふ程には付さりけり如此六七人の兵共帰し合せあまたゝひ戦し故後は原が勢にはしたはさりし也柴田三左衛門尉は三千余騎の勢を率し賊ヶ岳の岑筋なる堀切を前之日越つゝ南に向て勢を備へ敵勢をおさへ有けるが兄の玄番允一万五六千の勢をやうにして志津岳の北なる山へ引上余呉の海辺よりおし上る勢を押へ有しか三左衛門方へ我勢ははや難なく引退し也急き是迄引取候へと使者両度に及しかはさらは玄番允と一手にならんとせし処秀吉卿は夜の明るを待かね木本をまたほのくらきにおし出し志津岳の城の南に御旗を立させられ弓鉄炮の頭分共に堀きりのこなたなる勢は只今配引取と見へしそ急きはせ付討せよと使番母衣之者を以被仰付しかは心得候と云もはてすひしと引附堀切より引上け候を懸渡しにねらひすましうたせしかは時の間に手負二百人余り打出しけり敵は此手負をのけんとせしに勢の次第も乱れ右往左往なるを御旗元より御覧して小性とも法度をゆるすそ引付て手柄をせよやと御身を捫み下知し給ひしかオープンアクセス NDLJP:190は相悦ひ真先に石川兵助なとすゝみ行けるに福島市松加藤虎之助同孫六郎平野権平脇坂甚内糟屋助右衛門片桐助作等我おとらしと引付し処に玄番拝郷五左衛門をよひ先手危く見ゆるそ能に計ひ候へしと云しかは引へき所を引すして如此成来り今更計ひになる物かと思ひしか共面もふらす引かへしけれは浅井吉兵衛尉山路将監宿屋七左衛門尉も倶に帰し合せしか拝郷真先に鑓を打込とひとしく石川兵助と名乗出鑓を合戦ひしか共に打死してけり渡辺勘兵衛尉浅井喜八郎浅野日向守は堀切を跡に見なし嶺わきを追立行に加藤虎之助同孫六彼十人計の小性衆曳々声を上すき間をあらせす追立行にこそ吉兵衛将監も余呉の方なる谷へ心さすやうに見へしと否渡辺勘兵衛浅井喜八郎見知りたるそと詞をかけし処に心得たりといひ鑓を以向はんとせしか如何はしたりけん二人ともに谷へ落まろひしを麓に有し大塩金右衛門か手へ討取し也柴田三左衛門尉は足をも乱さす手負共をも打かこひ二十町計引取けるに秀吉卿の小性衆ひたと付て追行処に前田又左衛門尉茂山の麓高き処に二千余の勢を二段に備へ有しを便りとして佐久間久右衛門逃る味方を左右におし分路とゝまりしはしか程在し也玄番今日の軍はこらへかちなるそと大の眼に角を立下知しける処に原彦次郎進み出我々は左様に不存也けふの軍はひかへ行程敵の勢は弥重りて厚く味方の勢は見るか内にうら崩れすへく候願くは只今一合戦候へかし先は十万騎成とも某さはき可申候今朝我勢敵を度々突くつろけ手なみの程を能見せ候へし然にや予か殿には得も付さりし故後は心安く引候へつる因之かくは申候そ一番合戦をは吾々致候はんと押返し云しか共玄番允諫を防き用ひさりし也案の如く末舌の根もかはかさるに南方の勢谷よりは水のわくか如く溢れ上り峰よりは吹飛木枯のやうに寄合勢十重廿重に厚く成行しを北国勢のうらにひかへたる弱兵見驚き色めき出しを丹羽五郎左衛門尉長秀すは時は今なり惣かゝりに懸れや者ともと金の馬しるしをふらせ瞳とかゝりしにこそ玄蕃允佐久間久右衛門か勢惣敗軍には成にけり

有人曰北国勢之内七本鑓の衆と鑓を合せしと云しも多かりしとかや此相手は拝郷浅井山路宿屋なりしか三人は討死し宿屋は退し也玄番兄弟か勢廿計鑓を以払ひ引にせし内に小原新七宿屋七左衛門安彦弥五右衛門尉水野助三なと鑓を以払ひ退にしたりし間廿町許の内に鑓もあふへきか丹羽甚太郎前日手を負し故其鑓にははつれたる由甚太郎語りし也

 
 
柴田勝家小性馬廻其勢七千余騎堀久太郎か用害東野をおさへ対陣せしなり玄番允勝にのり引取さるを悔み怒り急き引取候へと使者数波を立云やりしか共不用引さりしかは其道にくき者也と散々にのゝしり腹立して在し所に如案夜半の比より四方物さはかしく成出何共なふひそめきあへりぬ是はいか様不可然事成へしと家老とも勝家の陣に集りつゝ玄番引取さる事に付て千非を悔ける処に秀吉夜前夜通しに多勢を率し濃州より至此表今暁著陣の由何方ともなく沙汰しけれは軍中雑説を云爰もかしこも以之外さはき出怯弱なる者ともは多く頓疾虚病をかまへ夜の間に落しも有悉く色を失ひ度に迷ふ体はか敷事あらしと思ふオープンアクセス NDLJP:191処に余語の海辺に当て鉄炮の音事々敷鳴出とよみあへる声夥し弥陣中危からん事急に成かたつを呑て有し折節水野小右衛門尉か飛脚来て玄番今暁賤岳を退候へは敵ひたと付て危く見へ候と云しかは勝家聞もあへす左もこそあらんと思ひつれさもあらはあれ吾是にて一合戦すへきと勢を備へ待にけり痛はしや近作心は剛に勇め共西の方玄番兄弟か勢敗軍に及ひ臈次もなきを見弥勇て衆を励せ共旗本之勢も又いつ减する共なく僅に三千許に成しかは此勢にて利に乗したる多勢に向はん事如何あらんと長共申せしを修理之亮合戦の習ひは左は無物也我に任せよ千騎計にても心を一致にし十死一生に極め合戦に及ふ時は勝物なりと勇けれとも尤なりと請ぬ顔さか也毛受庄介其趣を見柴田に申けるは御意之上とうかう申に似たれともそれは昔尾州において度々軍になれたる下々数多持給ひしに因て其働も有しそかし此度は見逃きゝにけに数度逢たる下々にておはしまし候故過半落失ぬ昨日より思召よりし事を先手の者とも不致も又如此落ちりしも皆極軍のしるし眼前に候是にて云ひかいなき討死をなされ名も知れぬ者の手にかゝり給はゝ後代迄口おしかるへし願くは北の庄へ御帰城被成御心静に御自害候へ某御馬印を請取奉り御名代に是にて討死を致候へし其隙に急き御帰陣被成候へ斯申候もとうかう思召候はゝ見るか内に徒に成へう覚奉ると急き諫奉れは流石其道に得たる勝家なれは尤なりとて五幣を勝助に渡し心もあらん者は毛受に与せよと云捨て諸鐙を合せ退し也庄介五幣を請取我手の者三百余人其外勝家の小性馬廻少々左右に随へ原彦次郎居たりし要害幸に明しかは是に取入老母妻子共方へ形見の物を旧功の者に渡し遣しかくて盃を出し樽あまた取ちらしそれと云し時皆土器おつとり酌たりけり追行兵共柴田か馬印を見是に修理亮こそ扣へたれまはらかけすなと追行勢を制し止るも過半せり又勝家討取名を天下に揚んと勇むも有てひたと取巻し処に勝助名乗けるは天下に隠もなき鬼柴田と云れしは吾なりとてあたりを払て突て出けれは二町あまりはつとひらきにけりかゝる処に兄の毛受茂右(左イ)衛門尉殿をしてありしか此由を聞てさらは弟と一所に討死せんと思ひ向ひたる敵を追払ひ来りしを勝助うれしけに逢つゝ敬ひ云けるは御心さし返々も忝存候乍去あまた討死をとけ候共此極軍をいかてか救ひ給はんや貴方は老母への孝行に御退有て撫育し給へよ左もあらは弥御恩賞深かるへき旨手を摺て侘けれは孝行といひし事尤其理なきにあらす去とも其方を見捨退ない汚名世と共に有なん其上老母は其方如存知義理を好み給へり義理を捨退なは母の心にも違はんか争か義を汚さんやとて兄弟共に忠死を極たりしは異朝には高祖の臣紀信我朝には義経の臣佐藤兄弟等成へし類ひすくなき事共也新手を入替攻入んと再三しけるに兄弟其外歴々之者とも多く有て突退息をもさせす戦しか共或手負或討れ残りすくなに成にけり勝介兄に向ひて勝家退給ふて一時に余りぬへし心安く退給ひなんいさ心よく最期の合戦して腹きらんと云まゝに残りたる兵十余人を引連突て出散々に相戦ひ追ちらし其後兄弟腹をそ切たりける其身は柳瀬の流れに沈といへ共名は高根の雲と立上り天晴剛の者よと其比は市豎孩童迄も口号候し勝家府中の城に至前田父子に対面し此中苦労の段一礼ねん比にのへつゝ極軍のせめに遇て如此の次第更オープンアクセス NDLJP:192に言葉もおはしまさす候急き湯漬を出され候へと心静に食し痩さる馬を所望し急き給へり利家も送候はんとて立出られしを辞し返し候ひけるか又よひかへし其方は筑前守と前々入魂他に異なり必今度の誓約をひるかへし安堵せられ候へと云捨てわかれにける

評曰勝家至剛なるに依て斯成はてゝ府中の城を疑ふ心もなく立寄誓約をゆるし侍る事神妙也又左衛門尉も送らんと立出しも又道也時により人に依て勝家を討安堵を求んか

勝家柳ケ瀬表より卯月廿一日の暮程に帰城し柴田弥右衛門尉小島若狭守中村文荷斎徳庵中村与左衛門尉松平甚五兵衛尉なとをめし寄今日の敗軍玄番允大利にほこり早速不引取故越度を取某一代の功名を一時に亡し無念なる次第とうかう云に及れさる事共也よしそれも前世の因果なるへし此上は急き丸々の人数を其くはりをせよと云れしかは玄蕃の者共其外心もあらん者は籠候へと弥右衛門尉等廻文してけり右之旨承り覚悟を極め来りし者を記付侍るに一番佐久間十蔵十五歳是は去春前田又左衛門尉か聟に成し者也十蔵家来の者諫けるはいまた幼少の御身なれは籠城し給はても苦しからさる事にて候殊に利家は府中の城に安堵のよし奥村かたより申越候急府中へ忍はせ給ひ宜しかろんと達てとめし時いやとよ父帯刀勝家へ背き信長公直参となり安土に在しか喧嘩の座に連り果し事汝等も知所也其比幼稚に有しを勝家よひ返し莫太の領地を給りし其恩不浅是一ツ利家縁者に成侍らすは母への孝行にとうかう世をいとひてもみんか又左衛門父子のちなみを便り一命をつかん事取分汚らはしく覚ふ也是二ツ名字を汚しぬれは先祖へ対し不孝有是三ツ旁籠城すへきの理爰に有とて終に籠りぬ

二番松浦九兵衛尉是は常に玄蕃の内にして城を預し者也法花経信者にて小庵を結ひ上人をすへ置しか此上人現世にて報恩謝得し侍らんと籠城に赴しを松浦達て諫め止めしか共是非同道せんとて籠りぬ九兵衛郎等も二人供してけり

或曰松浦つねはあらましき者にて有しか情をかけんと思ふ者には清く其沙汰有し者にて家来も忝存せしか果して両人追腹せし也

三番松平市左衛門尉は玄蕃允につかへ賤岳にてよき高名をし手を負侍りし故昨夜退来たりしか父甚五兵衛籠城たりしにより籠りけり勝家も急き賀州に至て城を守れよと云れし時君を見すて父を見捨命を全せし者よと諸人の舌頭にかゝりなは松平の二字を汚し侍らんまゝ何れの御門なり共御預け候へ随分防き戦んとて出さりけり

四番溝口半左衛門尉是は養子伊賀守北の庄之田屋の守にし侍りし故常に当庄に在し也今世武名且香しき亀田大隅守父これ也勝家も汝は予か臣にも非す急き出よと有し時いや左にはおはしまさす候伊賀守不孝の罪を謝んため何れの権成共請取奉らんと堅固に申つゝ果畢

五番玄久是は古しへ匠作になれむつひたる物にて有しか痛手を負奉公ならさる身と成ぬ是に因て地下人になし豆腐屋になれよとて大豆百俵年給し侍りき来世にても豆ふうを上奉らんとしとけなけに云つゝ切腹す

六番山口一露斎若大夫〈舞し〉上坂大炊助〈右筆〉児玉

オープンアクセス NDLJP:193七番小島新五郎病の床下に在し故肩興に助られ籠りし時大手の門の扉に小島若狭守男新五郎十八歳因病気柳瀬表出張せさる也只今籠いたし忠孝を全すと書付たり

八番吉田藤兵衛尉息藤十郎いまた二十にもみたさりし者なれは父退度思ひ再三出よと諫けれとも是のみ父の命に背きても苦しからさる事成とて父の櫓に籠りにけり籠城を心さし出ぬる折ふし祖母も共に泣悲みとめ侍りしを父をともなひ帰らんとあり敷云しかは必左もあれよとて遣しぬ忠孝清め侍る者よとて心ある人はうらやみ又は感しけり

九番大屋長右衛門尉是は柴田弥右衛門か子也けり父は宵に籠帰らされは母並兄弟共を山中へ能に送り其後籠り父に其旨告しかは満足してけり此外数十人常々櫓なとに在し者共其所を守り果ぬ然に立蕃之内落て浮名を流すも有又世俗の口号侍りし文荷斎徳庵志摩守三人の法師武者とたはむれしか共徳庵は利家の人質を盗出其便をまうけ侍りしか共又左衛門義理を違し者なりと思はれぬかゝるにや色外に顕れ其便りもいたつらに成後は洛下に心ならす有しか地下人さへあれは如此の者也とて諸人の舌頭にかゝり果し也中村与左衛門尉は匠作同郷に生長し弓馬の二道をたしなみし者なれは馬上の弓五十騎付侍りしなり然るに​本マヽ​​寄​​ ​よき射手あまためし連射させつゝ其功をあらはして切腹してけり

評曰其比迄は人心義ありて歴々の切腹其名いと香しく有し也此以来何の最期に如此清き事共や有

秀吉すき間をあらせす追討にせよと下知し給へは素より望所也其日に府中辺迄討たれは漸日暮ぬ其夜は府中脇本辺立錐之地もなく陣取にけり

 
 
翌日廿二日北庄へおし寄らるゝ勢の次第堀久太郎を先手として其次取出の番手の次第に任せ打候へと定給ふ掟之事

一進退何事も母衣之者并使番次第可守其法事

一濫妨すへからさる事并酒家に入ましき事

一まはらかけすましき事

一勝利にほこるへからさる事

一合戦を心に備へ夜討の用意可有事

右之条々無相違可相守此旨者也

と五六十通調させ給ふて夜半以前に触給ふ鶏の声しきりけれは堀久太郎はや立出北の庄へおし行ぬ其次誰々と如御定うち行路辺之在々放火せしかは烟明かたの雲と乱れあひて空は霧の海と成朝日を障にけり北庄の城頓の事なれは二三の丸のみ人数賦を沙汰し惣搆の事は中々かゝへ見んともせす諸卒の妻子共貴となく賤となく便に随ひ南より北きたより南にさまよふ形勢見る目さへにまとひぬ夫に別れ子にをくれなとしかゝる上に流牢の身と成住なれし処をかちはたしにて離れ行心の内おし量にさへ涙落ぬ先手の勢備へ設け北庄の城をくると引巻四方を一度に焼立しかは煙宇宙に満々として空に知られぬ雲幾重共なくをほオープンアクセス NDLJP:194ひつゝとこやみと成にけるとうかうせしまに秀吉公著陣し給ひ愛宕山へ打上り此くらやみは自然の幸也是を便りに本城の堀きはに着竹東を付よ必声はし立な声あらは弓鉄炮を招くなるへしと制給へは何れも相意得静まりかへりて竹束或い畳あるひは戸なとを以てかこみし也良有て煙風にまかせ東すれは四方の寄手本城の堀きは迄附たるを本城より見で驚きあへりぬ城中よりねらひすまして鉄炮を打けるに浮矢は更になかりし也取静めたる体さすか名将の籠城とは見へにけりかゝる処に柴田権六佐久間玄番允を生捕て秀吉へ斯と披露有けれは可然事也とて褒美尤厚し去二月迄権六は当城の主玄番允は賀州金沢の城主たりしか扨もと云て涙催す袖のみ多し見る者栄衰日々に替りぬるとはかやうの事にこそとて痛も有て因果の程を思ひ煩ひぬ秀吉卿能に計ふへしと山口甚兵衛尉副田甚左衛門尉にそ預らる両人請取宿所へ引入小手をゆるし行水を参らせ帷子を前に置は心ある哉とて着し侍りぬ

評曰秀吉勝家興亡の故を勘へみるに勝家は文道をさみし下し武道をのみ聞を事とし或は政道之損益をも不問或は依怙贔負かちなる事多酒宴遊興に長し世を短ふ思ひ取し故也因之養子伊賀守か恨あり伊州家督まてこそなく共玄番允兄弟程にも親愛あらは何そ父子の因を変せんや伊賀守理は有と云共無道の罪には究るへし秀吉卿の才智は世に勝れ殊に気体実せしに依て去年の春備中に至り出勢有しより以来一日片時も休息の間もなく遊興といふ事もよそに見自他之労を尽されしにより不期大利而大利不意に至る事多かりし也此一労をよく思へは高麗迄も達せし也殊に秀吉は明智を討亡し亡君の御葬礼をも執行しは信長公へ真忠有公御連枝并世臣親臣多しと云共何れか秀吉卿の忠に似たるも有や天是を争か救ひ給はさらんや能思ふへし大事に及ては天心に叶されはならぬ物也人力のみを頼むはおろかなる歟

 
 
廿三日午前に攻鼓なとを止よはゝりて曰昨日廿二日之夜山中にて御子息権六殿並玄番殿を生捕て参候あな痛はしき御事にて候と呼はりぬ是より城中ひそまりて音もせす其後い請取し門々を防き守る計にてしか鉄炮も打す夜に入とひとしく殿守之上にも下にも広間其外櫓々なとにも酒宴はしまりけり勝家盃に向つゝ一族他家の人々をよひ並へ被申けるはあの藤吉郎猿くわしやか為にかく成果る事無念之次第とうかう云に及れす所詮酒呑て明日はうき世の隙をあけほのゝ雲と消なんとて文荷斎それと有しかは名酒の樽共あまた置ならへ種々の肴を出しつゝ酒宴こそ始めけれ弥右衛門尉に申付何れの櫓にも酒を呑候へと樽肴給りしかは何方も酒宴の声々聞へけり小谷の御かたへ勝家さし給へは一二酌て又返し侍りけるに匠作も数盃をかたふけ文荷斎にさし給ふ小島若狭守い酒宴の半にも四方を見廻しつゝ其品露心に忘れさりしかは心を安んしゆるやかに酒をそ愛しける盃も度々廻りけれは漸終なんとす勝家小谷の御方に被申けるは御身は信長公の御妹なれは出させ給へつゝかもおはしますましきと有けれは小谷の御方涙くませ給ふて去秋の終岐阜より参かくまみへぬる事も前世の宿業今更驚くへきに非す爰を出去ん事思ひもよらす候しかはあれと三人のオープンアクセス NDLJP:195息女をは出し侍れよ父の菩提をも問せ又みつからか跡をも吊れん為そかしとの給へはいと安き事なりとて其よし姫君に申させ給ふ姉君いやとよ母上共に同し道にゆかん物をとなき悲ひ給ふを文荷斎其わけも聞入す御手を取引立三人出し奉りぬ〈此小谷の方ハ浅井備前守の後至三女ハ則備前守長政の息女後秀吉の室淀の方ハ其一女也〉夜半の鐘声殿守に至りしかは御二所深閨に入ぬ彼四面楚歌の夜の夢楚王虞氏か深き恨もかくやと思ひ出にけり何れも櫓々へ引入まとろまんとすれははや郭公雲井に音つれ別れを催し侍るに

    小谷御方

 さらぬたにうちぬる程も夏の夜の別をさそふほとゝきすかな

    勝家

夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあけよ山時鳥

    節義に当て不変者なれは同し道に侍らんとて     文荷斎

 契あれやすゝしき道にともなひて後の世迄も事へ仕ん

となん詠ありけれは匠作猛き心もそれならす見へてさらに袖をそ濡されける小谷の御方其外数々の女房達念誦称名の声哀れをとゝめけり若狭守文荷斎殿守の下に込草をつみ置兼ての用意残処もなくさたし置しかは心静に火をかけ半燃出るに及て雑人原をは出しさて勝家のおはしましける五重に上り下はかく仕まい申候御心静に沙汰し給へと申上しかは流石か最期はよかりけり男女三十余人同し烟と立上りぬ勝家の気象常にしも違ふ事それに感をなし卯月廿四日申の刻にそ終りにけり

 
 
上村経かたひらの出立にて籠城せしかは勝家の曰扨も頼母敷見へたり去共汝は末森殿〈匠作の姉〉

同息女此行末可然やうに計ひ候へと有しかはいやそれは兎も角も成給はん間何れの御門成ともかため申さんと達て望みしか共是非出て彼人々をよきに計ひ候へ忠義たるへしと有しに依て涙共に出て末森殿へ参いさゝせ給へ一先落候て浮世の有様をも御覧し候へと諫つゝあやしけなる乗物に二人の人々をのせ参らせ椎の谷の奥へと心さしけるか竹田と云里に至りて思ふにいや深く山に入なは北の庄の便りもまれなるへし是に一両日滞留しよしあしの事を聞てんやとせし処に廿四日申の刻に北庄之殿守炎上とおほしくて煙事の外にそ見へにける扨は匠作御切腹にこそと上村思ひつゝ両人にむかいて北庄もかく見へ給ふ間御覚悟なされ候へと云しかは常々怙み給ひし弥陀の名号に向て心静に称名し給ひ硯を引寄給ひて

 今こゝに六そら余りの日の数を唯一時にかへしぬる哉

息女も同し硯にて

 思ひきや竹田の里の草の露母うへともに消ん物とは

末森殿南無阿弥陀仏と唱つゝ首をうけさせ給ふとひとしく御首は前に落にけり息女も名号にむかいつゝ母うへ上品上生に導給へ勝家御父子玄番殿文荷斎何れも同し蓮の台にむオープンアクセス NDLJP:196かへとらせ給へといとたうとく見へし処をあへなくも六左衛門御くひを打落しけり斯てあたりの僧五六人請し衣装なとあたへ御菩提を頼み奉ると云置草庵に火をかけ半は燃立を見立なから腹十文字にかき切同し煙りと立上りけり哀なる事共也此六左衛門は勝家同郷に生しかすか成し身なれ共戦場にして度々用にかない其功かさなりしかは上村の二字をゆるし給ふて二千石の所を知りぬいと香しかりし者成故其名今に香し翌日廿五日には焦土と成し城の掃地なとも被仰付けり毛受庄助無比類遂忠死をたりと再三御感有て母妹なとに堪忍領聊恩賜あり

 
 
廿六日には加賀国御仕置の為下向有しか五三日滞留し利家に金沢之城に石川河北の両郡を相添賜り頓而引帰し五月朔日至北庄丹羽五郎左衛門尉長秀今度一かたならぬ忠節に因て越前若狭賀州の内能美恵那二郡可被進之旨被申渡即越前守に任せられ可然おはさんやと戯させ五月三日には江州坂本の城に御帰陣有

評曰美濃国大姉を卯月廿日に打立給ひ至今月朔日十一日の日数にして如此大なるはか行事和漢に稀ならんか亦長秀利家とは去春まて牛角成傍輩にて有し故知行割等聊掛酌之義有

 
 
秀吉卿より諸侯大夫其外馬廻小性中へ端午の祝義として美酒肴夥く下し給ふ坂本に十余日御滞留有しか権六郎玄番事洛中を引渡し六条河原にて生害有へき旨浅野弥兵衛尉へ被仰出に依て其沙汰に及ぬ権六は不及是非体骨髄に徹し見へてけり玄番か曰中川を打取し後勝家の下知に任せ早速本陣へ引取なは何そ及此期乎戦功を全くして上方勢を侮すんは秀吉を我如くせん物を果報いみしき筑前なる哉と云しかは浅野打聞て数々に悪口しけれは玄番ふり仰て大忍之志はおのれ等に云て聞せんも如何なれとも夫頼朝は虜の身と成池の尼に便り赦を請平家を責平げ父の讎を報しけり生て不侯死て五鼎に烹るゝ共悔なけんは是大丈夫の志也呼不知よなと云浅野を白眼にし大にしかりしはあつはれ大剛の者なりと人皆感しあへりし也所詮夢なりとて硯をこひ一首かくなんよめる

 世の中をめくりも果ぬ小車は火宅の門を出るなりけり

中々色をもかはらすくひをうけてけり鬼玄番と云れし事も有し物を

 
 

加藤虎之助後号肥後守於朝鮮無比類有武勇之誉其名香于日域高麗震旦也領肥後生国尾州賀藤孫六郎後号左馬助於朝鮮乗取番船武勇佳名尤高して香しき感状有後家康公に事へ奉り寛永四年春秀忠公為恩賜自伊与移会津領五十万石爪牙之臣成父い三州生国也左馬助い於尾州長

福島市松後左衛門大夫領於備後安芸諸士を事外さみし下し諸臣の恨多人也小過を大になして行ひ或牛さき或は烹ころし或は刀脇指を取引張切にしあるひは杖にてたゝきころし又はオープンアクセス NDLJP:197指を切なとせし事数をしらす元和の末背制法事有て在信州領四万石終に其処にして失ぬ息備後守は酒におほれて父より前に病死せしなり生国尾州

脇坂甚内後号中務大輔領淡路生国江州也

糟屋助右衛門尉後号内膳正領三万石

平野権平後遠江守於和州領五千石其心猛くして秀吉卿に背く事度々有し也因之領知少しとかや生国尾州

片桐助作後号東市正慶長末於大坂秀頼公へ逆心有て摂州茨木へ立のきしか大坂を攻給ひし時御母堂のおはします処をよく知て大鉄炮を打入城をいたましむる事異他秀頼公を亡し百日を過し侍らて令病死億兆之指頭にかゝり名を汚しけり生国江州也

右之七人を七本鎗と号して感状有其辞曰

今度信孝対某及鉾楯千秀吉前将軍信長公御連枝今也不両葉可用斧柯事在手裏殊柴田修理亮滝川左近将監与被仰合之義決然也依之至濃州大柿之城在陣伏岐阜之城之所柴田先勢柳瀬表致出張之旨告来之条不時刻帰于柳瀬勝負之刻竭粉骨於一番鎗退羣雄北国勢及敗北事偏在爾之武功 ​本マヽ​​実​​ ​即加増領五千石令宛行者也

 天正十一年七月朔日        秀吉判

各五千石之一行を令頂戴入部之規式尤勇々布見へてけり

評曰七人之面々何れも二百石之上下を領し有しか頓に五千石之地を知り侍りけれは万の自由いといみし肩をならへし傍輦の面々なみを越られぬる事を腹くろに思ひ籠るも有又うらやみぬる心浅からぬも多かりけれは諸卒励武勇之力日々に新しく剛強に成て度々の勝利を得給ひつゝ異国迄退治し給ひき

彼七人よりはやきも有及ふへきも有し也桜井左吉伊木半七郎なとも倫を離れたる働き有殊に石川兵助は七人よりも早く鑓を合たりしか数多処痛手を蒙り鑓下にて果にけりなからへ有ならは此人一番鑓の名のみ高して七人は其下に立んとなん

評曰今世武名をはけみうらやみつゝ其あたり迄の鑓をと望み思ふは小豆坂之七本鑓前田又左衛門尉堤の上の鑓等也此外の鑓の名は其国其党々或は東西のはてにて云しは天下おしなへてのゝしるは稀也七人揃へて一番鑓といふ事如何あらんと此道に精しき人申侍りし誠に聊の其先後は有へき事なり小豆坂の七本鑓と其名香しきも退口の鑓前田鎗も味方軍の色あしくみへて引しを突返しぬるとあれはのき口の鎗也重て智将老師の評にして可否定りぬへし誠に今度の合戦にて天下秀吉に極りし事漢劉天下即成之功速か成しも不嗇財施恩禄封大国賞を重せられし因て天下入掌握ぬると智臣感しけるに暗に合へり寔に此二巻の智謀武功果敢決断得其所しに因て朝鮮迄脅かし至于支竺其威名有しとかや

賤岳合戦記大尾

オープンアクセス NDLJP:198   里程

岐阜ヨリ木本迄十七里大柿ヨリ十三里長浜ヨリ四里

木本ヨリ越前府中前田の居城迄十五里勝家居城迄廿里

賤岳ヨリ柳瀬内中尾山勝家居城迄二里余

   取出ノ事

黒田山ノ内田上山本城ナリ賤岳大岩山〈中川〉岩崎山〈高山〉モト山ノ内〈里人堂山ト云伊賀守勢居之〉ニ二ヶ所サネ〈里人菖蒲谷トイフ堀之〉以上七ヶ所

北国勢ノ取出ハ柳瀬内中尾本城ナリ玄番允ハ行市山ニ居ス其外取出ノ跡数所有レトモ何レヲ誰ト定カタシ原不破前田徳山ナトカ輩居セシナルヘシ南方ノ取出ニ比スレハ尤カタハカリナリ去ト内中尾ノ如キ巍々タルハ又南方ニモナシ柳瀬ヨリ北越前府中辺迄ハ双方大山聳一騎立トモイフヘキ難所ナリ就中江越堺ノ辺五六里カ間ハ雪夥シク積所ニテ時ニヨリテハ丈余ニモ及フ是カ故ニ中冬ヨリ中春迄ハ往来不自由ナリ誠ニ北陸道ノ銚子口トモイフヘシ

 
 
中川瀬兵衛尉清秀墓碑

中川瀬兵衛尉源清秀尉摂州人也在茨木城数有戦功是天正元年秋受信長之命和田伊賀守惟政武名冠天下十年夏与秀吉惟任日向守光秀之軍大破之自是威名漸盛也其余雖軍功枚挙十一年三月秀吉使清秀為此城守将柴田氏時北越魁将佐久間玄蕃允盛政率数万兵此城急欲之故攻戦声如雷霆天地然清秀膂力絶人沉勇大略更不之力戦防故城中堅固也高山右近雖側砦清秀力且不一戦而敗走所以敵軍乗勢競進欲之也清秀開門出戦故敵退奔三町余敗軍七矣追亡逐北搏殺幾数百人清秀亦被三創故家臣諫曰自裁清秀曰汝不知乎於今日之戦縦雖首於僕卒我何辱之乎曽聞雖一人以滅敵為勇士敢不肯焉家臣引遏其袂清秀奮絶不還復追敵矣凡突入敵陣九回然衆寡不遇見其遂不_勝帰城自殺享年四十二歳次癸未四月二十日也挙世感彼驍勇也此地雖其旧跡年代寝久古塔頽側予今在于此媚娟心目如清秀况其功之偉哉盍之玆清秀第五世孫中川佐州刺史久恒歎其古塔頽側予曰是歳幸乃一百年遠忌何不改造_之乎故予新建一基石浮屠其古塔

 天和二壬戌四月二十日

 碑文ニハ中川自殺ト記セリ此辺流布ノ実録ト云ニ其意ヲ同セス

従軍戦死之墓碑

従清秀討死輩

 中川淵之助   熊田兵部    熊田三太夫    熊田孫七    森本進徳

オープンアクセス NDLJP:199 山岸監物    杉村久助    森権之助     鳥飼四郎太夫  太田平八

 菅朴太夫    山川小七右衛門 今中孫之丞    能瀬藤助    久保甚吾

 野尻出助    松田孫三郎   田代太左衛門   貞彦太夫    貞彦作

 田能村杢左衛門 入江土佐    寺井弥次衛門   村上太郎兵衛  高山宗吉

 大藪新八    玄正坊     知半

台所人十人余小人中間廿人余此時家臣従清秀討死凡数百人其将既戦死是故難其姓名今以明知之者聊記此云爾

時今中川佐州刺史久恒彼(為脱歟)亡魂造一基石塔思予遠忌願以此功力闘卒幽魄悉遊安養浄刹(俾イ)無比之楽矣亦願於家(世脱歟)武運長久椿葉松柏齢子孫増繁栄蓋此予所以志願

于時天和二壬戌四月二十日

                         浄信寺住持沙門雄山謹誌

此文碑面ニアリ碑高サ五尺許

以上二ツノ石塔ハ大岩山中川戦為ノ地ニアリ二碑トモニ柵ノ中ニシテ東向ナリ毎歳四月廿日中川侯ヨリ御代参アリ木本浄信寺ヨリ支配之清秀戦死ヨリ当文政二年迄二百三十七年


志津岳吊古之碑

 左ノ詩ハ碑面ニアリ高サ五尺許柵ノ外ニアリ

 宝暦十二年閏四月将藩帰路岐岨十四日謁江州志津岳

先君荘岳公之墓往事因恭賦五言一律石以述懐云

昔日屯軍地慨然憶指揮塁虚山鳥過碑湿岫雲帰登陟攀空翠躊躇対落暉功名著竹帛千載欽英威

                  豊後州岡城主中川修理大夫源久貞頓首拝

                             男  久徳謹書

右大岩山中川公ノ碑文ヲ附録シ是ヲ記ストイヘトモ野生元来不学短才ニシテ脱字誤字又ハ字ノ有所ヲタカヘシモ是有ヌヘシ宜ク正之読給ヘカシ噫々不能ノ耻カシサヨ

此一帖ニ乗ル所ノ合戦ノ地理クハシク知リ給ントナラハ近江細見之図〈板元大坂〉并改日本興地路程全図等ニテ考へ給ヘハ一望ノ内ニ見渡サレテ此地ニ来リ給イシヨリモ委シカランカモ

 
 
夫賤岳の合戦といふは秀吉卿一世の大利にして天下の人誰か是を知らさらん就中七本鑓の名尤高く婦女に至るまて是をいはさる者なし且此山は麓より絶頂に至て一里許其絶景をいオープンアクセス NDLJP:200へは余呉琵琶の両湖を直下にして比良伊吹の二山を異坤に見渡し其眺望に至ては又たくひあらさるへしされは君か世の今は遠津国の人々も此山に登りて遊覧し給ふ事日々になん侍りぬされは折々はお​のカ​​れ​​ ​らにも取出の跡地理の次第訊給ふ人々もあなれはおのれ不能不才なれとも此岳の麓に住ぬれは此戦あらかしめしらてはと此あたり里々の何かしか秘蔵くれかしか記録とて賤ヶ岳合戦実録といふ有ひそかに是を借求(得イ)て閱するに其文に詳略はあれと何れも一体にして元一人の著述せる物ならんかしと覚ゆ且百年の後に作せるやうなる事もあなり又此辺に流布せる物なから返て地理に合さる事も侍りて実録といへるもいふかしき事のみ多かりき彼世上に行れる大閤実記大閤真顕記を始として北国太平記其外書々に此合戦の次第を著すといへとも何れも其意不同にして何れか是何れか非なる事を知らす近比絵本大閤記てふ物を出し専世に行る此うち賤ヶ岳の段著述の節著者画工等此山に登り地理をうかゝひ又此辺の実録なといへるをも能聞正し彼も取是も捨すして著せる物なれは其面白き事是に及ふ物あらし賤岳を夜軍に取なし七本鑓の相手を定めしは真顕記を元とし此辺の実録といふによれる成へしおのれある時とある書林か許にて此戦ひの事なと語り出侍るに書林か曰爰に大閤記といへる一著書あり然共其文体花やかならされは是を見んといふ人あらねは紙魚の腹肥しぬるとて投出せるを見るに実記真顕記の類ひにあらす尤古文にして実々敷事とも多かりき且著者の名は小瀬甫庵と記り小瀬甫庵は賀州の儒生にして信長の祐筆太田和泉守牛一といふ者の友なりしとかや其時代の人にして述之れは印刻の時代もまた古く奮記といひつへし是等や実録ともいふへきかされと上にいへる書々とは戦ひの次第尤異なる事ありて又いふかし或日浅井郡高田といへる里に渡辺何かしありて此許に遊ひ侍る事ありあるしの曰子は賤岳の麓なれは地理は元よりにして古実も聞侍らんまゝ語り候へと有しにおのれ彼不審のあらましを有のまゝに語り侍れは主曰予か祖先に渡辺勘兵衛といふ者有て秀吉卿に随ひ奉りそこ爰の戦場に赴しあらましも自筆して残せる物有とて一帖を見せ給へり其中先賤ヶ岳の戦を見るにはすかに紙三ひら計なれとも其趣意甫庵か述る処と符節を合すかことくおのれ爰に至て大に嗟歎して甫庵か大閤記の実なる事を知る是より彼書々を用す専此書を信用し則其中第五第六のふた巻を抜写して私に賤岳合戦記と外題し上下のふた巻となし人々にも風聴し侍るは愚なる心のひかみなつめるかも此程あつまなるはらからの許より申おこせるはやことなき御方より賤岳地理の図合戦の次第記せる物望み給へるまゝ日あらすも書写し越へきよし申おこせるにさらは能筆持給へる人に助け給はらはやとそこ爰頼み侍れと誰か是を助んといふ者なけれはせんすへきやうなくおのれらか見る甲斐なき筆にて寒夜のともし火をかゝけて写終りぬまゝ脱字誤字いくらもあらんまゝよく是を察し能是を考へ給へかし何事も山賤か写せし物よと見ゆるし給ひて不能を憐み給へかし猶くはしくは印刻の本を尋てよみ給ふへし此辺の実録てふ物見事夢々望み給ふ事なかれと其後へに物し侍りぬ

   文政二年卯臘月上旬記之畢         湖北黒田住人 西川与三郎記之

オープンアクセス NDLJP:201

 明治十六年九月                近藤瓶城校


右賤ケ岳合戦記二巻文中まゝ誤脱と思はるゝ字句なきにあらす然れとも他本のこれに比較すへきものなし帝国大学蔵本の続群書類従中に賤岳合戦記と称するもの一本ありと雖とも其文異にして全く本書と別本なり

 明治三十五年一月               近藤圭造

 
 

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