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詩学/第六章

提供:Wikisource


 吾吾は六脚韻律に於ける詩[叙事詩]と喜劇とに就いては、後の章で述べようと思ふ。さうして、これから、悲劇に就いて述べようと思ふ。それには、吾吾は先づ前に述べたことの結果として生ずる定義をまとめねばならぬ。前述の事柄から定義を下せば「悲劇は然るべき大きさを持つてそれ自身全き、一つの厳粛なる行動を模倣したものであり、快適な装飾を施された言葉に依つて描かれ、各種の装飾は別別に、それぞれの場所に挿入される。さうして悲劇は、叙述体でなく、俳優が、そこに描かれたものを実行する所の形式に描かれる。さうして、悲劇は、哀憐と恐怖とを作興する出来事を含み、それを通して、かやうな情緒の其[悲劇の]瀉泄《カタルシス》を行ふ。」此処に言ふ「快適な装飾を施された言葉」とは律《リユツモス》、並びに、和音《ハルモニア》即ち旋律《メロス》を雑〔まじ〕へた言葉を指す。また、此処にいふ「各種の装飾は、別別に、それぞれの場所に挿入さる」とは登場人物が、悲劇のある部分を[唄はないで、また、朗唱しないで]只、韻文で語つて進めて行くことと、さうしてまた、ある部分を、唄つて、もしくは、朗唱して進めて行くこととを意味する。

 さて、登場人物は、そこに描かれた物語を実行するのである以上、先づ、場面[書割、登場人物、衣装、その他]が悲劇の一要素でなければならぬ。第二に、その模倣が、行はれる媒材である所の旋律と措辞とである。此処に言ふ措辞とは、[詩人の側から言へば]単に韻文の作成を意味する。旋律が何を意味するかは説明するまでもない。尚ほ、悲劇れは人間の行動を模倣するものである。さうして、行動は、行動する人を伴ふ。行動する人は必然的に、その性格と思想との点に於いて、何等かの特徴を持たなければならない。何となれば、彼等の行動は、それらの特徴に依て、初めて[善悪成敗などの]特殊な性質を持つことになるからである。故に自然、性格と思想とが、彼等の行動の二つの原因となり、従つて、彼等の生涯の成功と失敗との二つの原因となる。さて、人間の行動は、筋に依て模倣される。此処に言ふ筋とは、幾多の事件の結合を意味する。性格とは、吾吾をして、彼等行動する人間に、ある種の倫理的特徴を付与せしめるものを意味する。思想とは、彼等が、ある特殊なる点を論証しようとし或は、ある普遍的真理を述べ示さうとする時の彼等の言葉に顕はれるものを意味する。それ故に、大体から見て、すべての悲劇は六個の要素から成立ち、これらの要素の如何に依て、吾吾は、その作品の性質を判断する。六個の要素とは、筋、性格、措辞、思想、場面、旋律である。以上の中、二個の要素[措辞並びに旋律]は模倣の媒材から来一個[場面]は模倣の形式から来、三個[筋、性格、並びに、思想]は模倣の対象から来る。さうして、これらの六個の要素以外には、何物もない。可也多くの劇作家が、実際、これらの要素を利用したのであつた。それは、恐らくは、如何なる悲劇も同様に場面、性格、筋、措辞、旋律、思想の六個の要素を許容するからである。

 以上の六要素中、最も重要なものは、事件の結合の仕方である。悲劇は、もともと人間を模倣するものでなく、人間の行動と生活と、幸福 [1] と不幸とを、模倣するものである。人間のすべての幸福もしくは不幸は、彼等の行動の様式に存する。さうして、吾吾人間が生きる目的は、ある様式の行動であつて、ある倫理的な性質そのものではない。性格は吾吾にある性質を与へる。然し、吾吾が、幸福であると否とは、吾吾がなす所の行動の様式で定《き》まる。それ故、彼等[俳優]は、性格を描かんがために、そこに描かれた物語を実行するのではない。彼等は行動のために性格をも取容れるのである。それ故、悲劇の狙ふ所は事件、即ち、筋である。さうして何事も狙ひ所が一番肝要である。尚ほ悲劇の一要素なる筋の重大なことは、悲劇が、そこに、何等かの人間の行動なくしては、なし能はぬものであるに反して、性格を除いても成立ち得る点から見ても分かる。近頃の大抵の作家の悲劇 [2] にはまるで性格はない。これが、すべての種類の詩人の通弊である。同様な欠点が画家の中に、例へば、ポリュグノトスと対照される所のチェウクシス [3] に於いて見出される。ポリュグトスノは、性格を強く描くに反して、チェウクシスは、まるで、性格を描いてゐない。さうして、また、ある劇作家は措辞並びに思想の点にては、鮮やかな出来栄えであり、非常に性格的な台詞を並べ立てたとしても、尚、彼は、悲劇の真の効果[情緒の瀉泄《カタルシス》]を作り出し得ないことがあらう。然るに、措辞、思想、並びに性格の点に於いて、どんなに劣つてゐても、そこに一団の出来事があり、筋が存在してゐたならば、その悲劇は、遥かに成功したであらう。さうして、また悲劇に於いて、最も力強く吾吾の興味と情緒とを誘ふものは、筋の部分である所の急転《ペリペテイア》と発見《アナグノオリシス》 [4] とである。尚ほ、また初心の劇作家が筋の結構の点よりも、先づ、措辞と性格との点に於て、早くも成功する事実は、暗に筋が悲劇の根本要素たることを示してゐる。初期に於ける吾吾の劇作家の殆んどすべてが、矢張、筋の結構よりも、之等の二要素に於いて、遥かに成功したのであつた。それ故、悲劇の第一の要素であつて、言はば、その生命とも言ふべき部分は、どうしても筋である。さうして性格は第二位に落ちる。吾吾は同様のことを絵画に於いて見出す。もし、誰れかが、如何に美麗なる絵具を以て塗り立てても、そこに何等の構図もなければ、肖像画の最も簡素なスケッチほども悦びを与へないであらう。元来悲劇は人間の行動を模倣したものである。さうして、其れが行動する個個の人間を模倣するは、主として、彼等の行動を描かんが為めである。第三位は思想である。思想とは、言ひ能ふべきこと言ひ、時と場所とに似つはしいことを話す能力を言ふ。思想は、台詞にある限りに於いて、政治学や修辞学の部門に入る。何とならば、昔の詩人は、彼等の描く人物をして、政治家のように弁論せしめ、近頃の詩人は修辞学者のやうに話させてゐる。行動する人物が、如何なる種類のものを求め、如何なる種類のものを避けようとするかといふ、その倫理的意図の顕然と窺はれない場合毎に、彼等の意の動く所を、台詞を通じて、鮮かに示すものが性格である。それ故に、人物が求めようとするものも、避けようとするものも、まるで無いやうな無関心な問題 [5] に対する台詞に於いては、性格を仄〔ほの〕めかす余地もない。之れに反して、思想は、彼等が、あることに就いて、相手を説き伏せ、または、説き破らうとし、または、ある普遍的真理を述べようとして語る、全ての台詞に現はれる。文学的諸要素の第四は登場人物の措辞である。措辞は、前に述べた如く[登場人物の側から言へば]言葉に盛られた彼等の思想であつて、韻文に於いても、散文に於いても、事実上同じものである。説き残された二つのものの中、旋律は悲劇を最も美しく装飾する。場面は観客を恍惚〔こうこつ〕たらしめるものであるが、最も芸術味の少ない要素であり詩の本領に最も遠いものである。何とならば、悲劇の効果は、それを俳優が演出しなくとも、収められ得るからである。且つ、舞台装置は、詩人の仕事であるよりもむしろ衣装師の仕事である。



■訳者解説

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 本章の悲劇の定義は、先づ、悲劇の模倣の対象、次ぎに、媒材、形式に触れ、最後に、かやうな媒材と形式とに於いて、かやうな対象を模倣する結果として生ずる所の、悲劇の機能を結論してゐる。此結論を除いた他のものは、前五章までに説かれたる事柄を総合したに過ぎない。

 悲劇の定義中、吾吾に耳新しいこの最後の結論「哀隣と恐怖とを作興する出来事を含み、それを通して、かやうな情緒の、其(悲劇の)カタルシスを行ふ(tēn tōn toioutōn pathēmatōn katharsin 'its catharsis of such emotions')に対しては、ルネッサンス以来、幾多の人が、いろいろな解釈を与へた(バイウオータア『アリストートルの詩学』三六一 - 五頁)。今、それあらの多くの解釈を見るに、その創意は、下の三つの点の上にある。


(一) tōn toioutōn pathēmatōn (of such emotions) これを

[イ]哀隣、恐怖等の情緒と解釈する――一五六〇年ヴィクトリウス、一六一〇年ヘインシウス、一六七一年ミルトン(『サムソン・アゴニステス』序)一七六八年レッシング(『ハムブルグの戯曲論』七七節)、一七八九年ツウアイニング、一七九四年ティリット等。

[ロ]哀隣と恐怖とに解釈する――一六四〇年メナルディエ、一七七一年バトゥ、一八五七年ベルナイス等。

[ハ]一般の情緒に解釈する――一五五九年ミンツルヌス等。


(二) katharsis アリストテレスは『政治学』八篇七章一三四一B三八(本書一二三頁参照)で情緒のカタルシスを以て何を意味するかは、『詩学』で委しく説明すると告げてゐる。この点から考へても、カタルシスの説明が『詩学』の何処かになくてはならない。然るに現存の『詩学』には、何処にも、この説明がない。然しながら、説明を要すべき用語を突然、定義に用ひ、あとからそれを説明すると言ふやり方は、アリストテレスには珍らしくないから、恐らくは、『詩学』の失はれたる部分に於いて、喜劇の機能の説明と共に説明されたのであらう(バイウオータア、同上序文二三頁、本文一五〇頁)。試みに、この語がプラトンに出る二三の場合を引いて見やう。『ソフイスト』二二七に於いて、吾吾の身体のカタルシスに触れ、これを外面的と内面的とに分け、前者を沐浴が、後者を医薬と体操とがすると言つてゐる。この場合のカタルシスは、希臘〔ギリシャ〕の病理学にて、吾吾の身体内に生ずる体液(humours)中、体内にとどめ置いては、吾吾に不快と害悪とを与へるものを、医術的、もしくは、生理的に除去し排泄することを意味する所の瀉泄《カタルシス》である。プラトンは、続いて、同上二三〇に渡つて、精神のカタルシスを説き、無智、悪徳、偏見、虚栄などは精神の病であり、之等の病を除くものは矯正、教育、論駁であると言つてゐるが、この場合のカタルシスは、医学上の瀉泄《カタルシス》を倫理上に写した隠喩《メタフオア》と認められ得る。プラトンは、また、『フアイド』六九に於いて、先づ、甲の快楽のために乙の快楽を慎む場合の節制や、恐怖から来た所の勇気は、真の美徳でないと断定し、智(phronēsis)から生れた美徳こそ真の美徳であつて、これは、快楽恐怖などいふ魂の感情のカタルシスをすると言つてゐる。この場合のカタルシスは医学上の瀉泄を心理上に移したまでではあるが、プラトンは続いて、このカタルシスから宗教上の入門式と清浄式《カタルシス》とを受けた人間は、死後、神と住むやうにならうと言ふ真意は、実は、真の美徳に依て、魂を騒がす感情を解脱させた真の哲学者のことを言つてゐるのであると。プラトンが宗教上のカタルシスに触れてゐる他の個所は『法律』九篇八八一に見出される。そこでは、穢れた者は、その穢れを浄める清浄式《カタルシス》を行はない間は寺院に出入することが禁じられてゐる。

 以上の諸例その他プラトン『法律』五篇七三五、第八篇八三一、九篇八六五等を考察するとアリストテレス時代に於いて、カタルシスは、主として、医学上と宗教上の用語であつて、それが、倫理的や心理的その他の意味に移して用ゐられたやうである。アリストテレスの悲劇の定義に於けるカタルシスのルネッサンス以来の解釈は、大体、下の二通りである。

[イ]これを病理学上の瀉泄からの隠喩と見、情緒の燃焼は、吾吾の魂の中に鬱積してゐる情緒を釈放する、と解釈する――ミンツルヌス、ティリット、ワイル、ベルナイス等。

[ロ]宗教上の穢れを清める意味のカタルシスからの隠喩と見、情緒を何等かの不純分子から清浄にすると解釈する。さうして、その不純分子は何んであるか、又情緒が清められるとはどんな意味であるか、それらの問題は、可也所説紛粉としてゐるやうである(バイウオータア同上、一五九 - 一六〇頁参照)。重もなるもの二つを挙げれば

[ロノ一]悲劇で情緒を燃焼させることが度重なれば、吾吾の過激になり易い情緒が適度に保たれる。さうして、チョウチョを中庸に保つことが美徳であると――ミルトン、レッシング、ツウアイニング等。

[ロノ二]悲劇が見せる勧善懲悪の教訓が、情緒を倫理的に清浄にすると。ルネッサンス時代の伊太利の持論は、大体、この説であつた(スピンガアン『文芸復興期の文芸批評史』七五頁参照)。


(三)tēn (tōn toioutōn pathēmatōn katharsin) これを 'its catharsis of such emotions' と、この冠詞を possessive sense (Goodwin: Greek Grammar, revised and enlarged, sec. 949) にとるのはバイウオータアの解釈である。この解釈は変化のやうであるが、カタルシス説明に重大な役目をすることがあとに分かる。従来、この定冠詞は、尋常普通の定冠詞として取扱はれてきた(ティリット、ベルナイス等に依つて)が一八四八年ワイルが、初めて、この語に重点を置いて、かやうな情緒特有の ('die solehen Affecten eigenthümliche Reinigung') と訳した。ブチアも、同じく 'the proper purgation of these emotions' と訳してゐる。


 吾吾は前章に於いて、プラトンとアリストテレスが、芸術上、丁度正反対の意見を抱いてゐるので、両者を並べて見る時、対照で以て一方の立場が、非常に際立つてはつきりと、吾吾の眼に迫ることを知つた。其れ故、悲劇に対するプラトンの意見を究めることは、アリストテレスの悲劇の定義の解釈に何等かの曙光を与へるやうに思はれる。プラトンは『国家論』十篇六〇五 - 六に於いて、悲劇喜劇を、大要、下の如くに非難してゐる。「一主人公が自己の苦悩を慟哭するを聞く時、吾吾は主人公に同情し、作家を称讃する。しかも、吾吾自身が苦悩する場合、かやうな感情表現は女女しい行為として排斥される。然らば、吾吾は、吾吾自身に於いては忌み嫌ふべきことを、他人に於いては喜んでゐる。それは、悲哀が他人のものであるが故に、吾吾は油断して、吾吾の対面を損することなくして、哀愁に耽ることが出来ると考へるのである。然し、かかる習慣は、必ず、遂には、自分自身の悲しき出来事の場合にも涙に耽るといふ結果を齎〔もたら〕す。同じことが喜劇にも言へる。吾吾は、吾吾自身、巫山戯た口を利くことを恥づるが、他人が馬鹿げた滑稽を言ふのを面白く思ふ。かやうにして、舞台の上で、演じられる粗野な笑はかせに喜んでゐる中に、吾吾自身が、家庭に於て、道化者になつて了ふだらう。詩は激情と欲望とを助長する。詩は、吾吾にこれらのものを抑制することを教へず、却つて、之等をして吾吾を支配せしめる」。プラトンは、以上のやうに、悲劇喜劇は、吾吾の魂に於いて、気高き理性を亡ぼし、劣情なる感情を旺盛ならしめるやうな、主客転倒の混乱を作るものとして排斥する。プラトンのこの戯曲排斥論は、戯曲を肯定し、戯曲が狙ふ感情的効果を正当視する仮定の下に成れる『詩学』を書いたアリストテレスに依て知られてゐなかつたとは考へられない。さうすると、アリストテレスのカタルシス説は、プラトン戯曲攻撃論に対する答弁として企てられたものと見做される。


 それでは、アリストテレスは、『詩学』以外の彼の著書の何処かで、カタルシスを説いてゐないかと言ふと、彼は『政治学』に於いて、音楽のカタルシスを説いてゐるのである。アリストテレスは同上、八篇六章、一三四一A二一に於いて、子供の教育と音楽との関係を述べて、「且つ竪笛は善き倫理的効果を齎〔もた〕らす (ethikos) ものでなく、寧ろ、人をあまりに興奮させる (orgiastikos) 楽器である。竪笛は、演奏者の目的が教育でなく、カタルシスにある場合に用ふるべきである」と言つてゐる。アリストテレスのこの言葉に於いて注意すべきは、其処で、竪笛の感情を煽る作用と、他の楽器の倫理作用との間が、はつきり、区別され、さうして、彼の所謂カタルシスが、倫理的作用でなく、感情的作用であることが明白に現はれてゐる点である。而して、アリストテレスは、更に、同上、一三四一B三二に於いて下のやうに言つてゐる。「哲学者のある人達は旋律を分類して、倫理的 (ethikos) 活動的 (praktikos) 並びに神憑的 (enthousiastikos) となし、そして、ある種の音楽様式はある種の旋律に相当するといふやうに、音楽の諸様式は、それぞれ、その性質上、之等の旋律の一つ一つに、相当するものと説いてゐる。吾吾は旋律のこの分類法に賛成する。然し、音楽の用途は一つでなく、多様である。即ち、教育のため、カタルシスのため(今、説明を省く処のカタルシスに就いては『詩学』で明細に説かう)、第三に、賞玩、寛楽、勤労後の慰藉〔いしゃ〕のために用ひられる。それ故、すべての音楽様式が吾吾に依て用ひられねばならぬ。然しながら、すべての音楽様式を無差別に用ひてならないことは明らかである。教育上には倫理的旋律が、他人の演奏を聴いて楽しむ場合には活動的と神憑的旋律とが用ひられる。何んとならば[訳者曰、以下、音楽の神憑的様式を演奏に許す理由]ある人の魂にあつては、過度に動く所の情緒(例へば哀隣や恐怖、或は、神憑《エンツウシアスモス》は、また、人に依り強弱の相違こそあれ、すべての人の魂に存在する。さうして神憑《エンツウシアスモス》は、ある種類の人にあつては、発作的な位、過度に動く。然し、吾吾は、それらの人人が、魂に神秘的な興奮を与へる所の旋律を用ふるや、その神聖な旋律の効果に依て、恰〔あたか〕も、医師からカタルシス療法を受けたやうに、平静に戻るのを見る。かやうな療法は、また哀隣性や恐怖性の人人、並にあらゆる種類の感情家に必要である。さうして、人間は、誰しも、各自、之等の情緒の分け前に与かる限りは、感情家といふほどでもない普通の人々にも必要である。すべての人々は、彼等の魂を愉快に軽快にする所のあるカタルシスを必要とする。カタルシス性の音楽がすべての人間に無害な悦楽を与へるのは、同じく、其等の音楽の齎〔もた〕らすこの釈放作用に拠る。」(ニューマンのテクスト及び註釈、並びにジヨウエットの訳注に拠る)。

 『政治学』の此の一節に於けるカタルシスが当時の医学上のカタルシスから来た隠喩であることは、前後の言葉使ひから明白である。ヒポクラテス派の古代希臘〔ギリシャ〕の生理学者が、人間の体は血液、痰汁、黄胆汁、黒胆汁を含み、之等の四体液の正しい割合と混合とが健康を形作り、不正規な配合と不適当な割合とが病気を作るものとなし、過多な体液は適当な瀉泄《カタルシス》を行ひ、体内から排泄しなければならぬと言ふあの考へを、アリストテレスは、吾吾の魂の上に推拡めてゐることが明白である。プラトンは、イデアの世界を写すべき吾吾の魂の玲瓏明哲を曇らするものとして哀隣、恐怖、快楽、苦痛、その他の諸感情を絶対に排斥するが、アリストテレスは、適度なる之等の感情を美徳であるとしてゐる(『倫理学』二篇六章一一〇六B)。此事から、アリストテレスの言ふ情緒の瀉泄《カタルシス》は其根絶を企てるものでなく、これ、を適度に保たうとするのであることが分かる。即ち哀隣、恐怖その他の情緒を適度にとり合はせ持つことは吾吾の魂の健康状態であるが、魂に不安を与へる程に過多な之等の情緒は、丁度、吾吾の体内から排泄しなければならぬ所の病的な体液に相当する有害物である。其れ故、吾吾は、音楽その他の適当なる瀉泄《カタルシス》を行ひ、之等の過多な情緒を魂から排泄しなければならぬと言ふのである。次ぎに、ある音楽がする情緒の瀉泄《カタルシス》とはどんな療法であるかと言ふ問題である。この問題は上に引用した『政治学』の一節の中で言はれてゐる事柄から解き得る。アリストテレスは、其処で、神憑 (enthousiasmos) にかかつた者は、神秘的な興奮を起させる音楽を聴けば状態に復すと胃つてゐる。 enthousiasmos《エンツウシアスモス》は其語意「神に取り憑かれたる」が示すやうに、宗教的エクスタシイの一種で(ブチア『アリストートルの詩学』四版二四八頁)その外部的症状は息切れがし、頭をぐるぐる廻はし、恐ろしい形相をするやうである(ニューマン『アリストートルの政治学』三巻五三七頁。)アリストテレスはこれを tou peri tēn psukhēn ethous pathos (Jowett: "an emotion of the ethieal part of the soul") 言つてゐる(『政治学』第八篇一三四〇A一一)。さて、かやうな発作は、健全な人に対して同様な発作を作興するやうな興奮性の音楽で治ると言ふのであるが、これは一種の類似治療法 (homeopathy) と言へる。さうして、この similia similibus curantur の学説は、矢張、ヒポクラテスに創まると言はれてゐる (Encyclopaedia Britannica: 'Homeopathy')。プラトンも similia similibus curantur に触れ、赤兒は、静かに抱かれてゐるよりは、歌つたり揺つたりされた方が、却つて、よく眠に入る例や、ディオニュソスの祭の狂躁的な音楽に乱舞陶酔することは、平常エンツウジアスモスにかかり易い者に取つては、却て、一つの鎮静法であることなどを言つてゐる(『法律』七篇七九〇)。


 『政治学』に説かれた音楽のカタルシスの意義を以上のやうに解釈してくると、当然、吾吾の頭に浮んでくることは、悲劇のカタルシスもこれなんだ! といふことである。吾吾は、音楽のカタルシスの意義を、何の不都合もなく、そのまま、悲劇の場合にあてはめ得る。さうして悲劇のカタルシスをさう解釈してくると、それは、プラトンの悲劇排斥論に対する立派な答弁となる。即ち、悲劇に依つての哀隣、恐怖などの情緒燃焼は、かやうな情緒を助長しないのみならず却つて、それを鎮静すると。即ち、実際生活より齎〔もたら〕され、吾吾の胸中に鬱積してゐる潜在性の同様な情緒を釈放することに依て、たとへ一時的たりとも、それらの情緒を鎮静させる。従つて悲劇の怖ろしい哀れなる光景から掬うすべき吾吾の悦びは、プラトンの主張する如く、吾吾の徳性を傷けるものでなく、反対に、無害有益な悦びであると言ふのである。


 『政治学』に於ける音楽のカタルシスから誘導された、悲劇のカタルシスに対する以上の病理学的解釈が、プラトンの悲劇論の丁度論駁となる処にこの解釈の強味がある。さうして、この解釈の結果たる、悲劇の機能に対するペリパテティクな説明に、アリストテレスの面目が躍如として出てゐる。且つ、彼の家は、代代、医者で、父はマケドニア王国の侍医で、自然哲学と医学とに於いて当代の一大権威であつたこと、さうして、彼自身も医学に遺伝的趣味を有し、『詩学』にもその反影が出てゐる(クーパアが彼の『アリストートルの詩学』序文二三頁に於いて指摘した如く)こととに思ひ至らば、彼が悲劇の機能を医学上の瀉泄で説明しやうとしたことは蓋然のことのやうに思はれる。さうして、また、アレキサンドリア大王の母オリムピアスが、よく、神憑《エンツウシアスモス》の発作に罹つたことが、プルターク『アレキサンダア』に記録されてゐる(このことはニューマン同上三巻五六三頁に於て指摘されてゐる)処から、王の師たるアリストテレスは彼女が、その度びに、神憑的な音楽で瀉泄治療を受けるのを見てゐたと想像され、この種類のカタルシスは彼にとつては日常茶飯事であつたやうに考へられる。  悲劇のカタルシスの以上の病理学的解釈は、一五五九年、伊太利のミンツルヌスに依て先鞭をつけられてゐる。然し、悲劇は勧善懲悪の教訓で以て倫理的感化をすべきものであるといふ思潮が勢力を振つてゐたルネッサンス時代に於いて、当然、彼の説は顧られなかつた(スピンガアン同上七五頁)。ルネッサンス時代の此の倫理的傾向の詩論は、そのえ今日を近世にまで及ぼし(コルネイユ、ラシーヌ、レッシング、ドライデンがそれである)、病理学的解釈が、十八世紀末、再び、ティリット(彼の解釈が矢張、『政治学』に於ける音楽のカタルシスに基礎を置いてゐることがバイウオータア同上一五二 - 三頁に依つて引用されたる其の一節に依て分かる)に依つて台頭しかけたが、世の注意を惹かなかつた。かくして、悲劇のカタルシスの病理学的解釈は、遂に、ワイル(一八四八年)やベルナイス(一八五七年)の名と結び付けられるやうになつて了つた(バイウオータア同上一五二 - 三頁)。


 アリストテレスの悲劇のカタルシスの意義はこれで明かになつた。さうして、彼が音楽や悲劇の瀉泄作用を考へてゐたことは、吾吾をして、彼が、笑ひを以て笑ひを瀉泄する喜劇の作用を考へてゐたことを思はせる。このことは、悲劇の定義を「悲劇が哀隣と恐怖とを作興する出来事を含み、それを通して、かやうな情緒の、其(悲劇の)瀉泄を行ふ」と、バイウオータアの読方に読む時に、一層、はつきりしてくる。「其(悲劇の)瀉泄」といふ言ひ方は、カタルシスが悲劇に特有のものでなく、音楽にも、また、喜劇にも、それぞれのカタルシスがあることを仄めかしてゐるものと考へられる(バイウオータア同上一五二頁)。此処に於いて、吾吾の頭に、一つの問題が浮んでくる。    悲劇と喜劇とはディオニュソスの祭の進化したものである。ディオニュソスの祭りそのものは一種の情緒の瀉泄を遂げてゐたものである。希臘〔ギリシャ〕のダン書が乱舞乱酔して狂躁を究め、所謂ディオニュソスの陶酔《エクスタシイ》に陥つた、そこに、仮令低級なものであつたにせよ、彼等の魂の中に鬱積してゐた情緒が自由に釈放されたに違ひない。プラトン(『法律』第七編七九〇)の言ふ如くある者は竪琴の狂騒的な旋律の陶酔に依て、日ごろの神憑《エンツウシアスモス》から振ひ落すことが出来た。ある者は、思い切つて放縦に振舞ふことに依て、欲情を魂から振ひ落とすことが出来た(モールトン『古代古典劇』六頁)。悲劇と喜劇とがディオニュソスの祭から進化したものであるなら、悲劇の哀隣、恐怖の瀉泄と喜劇の笑ひの瀉泄とは、このディオニュソスの陶酔から進化したものと言へる(この事はプチアに依つても同上二七三頁に於いて示唆されてゐる)。情緒の瀉泄作用はディオニュソスの祭から悲劇喜劇まで一貫して存在してゐる。吾吾は、この点でも、アリストテレスの悲劇の機能の説明が真実を捉へてゐることを知るが、吾吾の問題は其処にあるのではなくディオニュソスの陶酔が二分されて、哀隣恐怖と笑ひとの瀉泄に進化して行つた意義にある。然し、これは哲学上の問題で、アリストテレス自身も、『詩学』に於いては、直接にその解決を与へてゐない。其れ故、吾吾は、この問題を後日に譲るが、彼が、『詩学』第二章で「喜劇は人間を現前の人人よりも、より悪しく描き、悲劇はより善き人間を描かうとする」言ひ換へれば、悲劇は人間を神にまで引き上げようとして、さうして、その不可能を悲しむものであり、喜劇は人間を動物にまで引き下ろして笑ふものであると言つてゐる彼の言葉が、この問題を解く鍵ではあるまいかと思はれることだけを附記しておく。


 最後に、アリストテレスの言ふ哀隣と恐怖の意義である。彼は『修辞学』二篇五章一に於いて、恐怖とは、破壊的もしくは苦痛を伴ふ害悪が将に吾吾に来らんとするをありありと認めた時の一種の苦痛もしくは心騒ぎであると定義を下してゐる。また同上二篇八章二に於いては哀隣とは、破壊的もしくは苦痛を伴ふ害悪が、それに相当しない人に、現実に起つてゐる時の一種の苦痛、然してその害悪たるや、また、吾吾にも、或は、吾吾の親近者にも起こりさうな性質のものであつて、しかも、それが甚だ手近かに起らねばならぬと定義を下してゐる。かやうに、哀隣も恐怖も、アリストテレスに於いては、一種の苦痛であると考へられてゐることは注意すべきである。彼は、また、同上二篇八章十二に於いて、哀隣の対象となる人物が、吾吾と極めて近親であつて、その苦悩が吾吾自身の苦悩の如き感のする場合、哀隣は恐怖に変ずると言つてゐる。かやうに、アリストテレスに於いては哀隣と恐怖とは相互に密接な関係を持ち、吾吾が他人を哀隣するのは、同一境遇に立つ時の吾吾を考へると恐ろしくなる場合であつて、哀隣は恐怖より発生するのであると(同上二篇八章十三)。


■訳注

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  1. 「幸福」『倫理学』一篇一章 - 八章(スチュウアト)に於いて、アリストテレスは、大要、下の如く言つてゐる。「人間の努力のあらゆる様式は、終極に於いて、同一な目的を有し、この目的はその目的自身のために求められ、他の一切の諸目的はこの目的到達の手段として選ばれる。この単一なる最終の目的は至善で、普通に幸福と呼ばれてゐる。ある人は快楽に、ある人は富に、ある人は社会上の地位に幸福を発見する。且つ、また、人の幸福観は境遇に依て変化する。病む時には健康が、貧しい時には富が、自己の無智を意識する時は智識が、幸福と考へられる。然しながら、これらは何れも、一方に偏した幸福観である。金銭はある目的のために求められる。然し、この目的は吾人の終極の真の目的ではない。至善は真の目的でなければならない。また、快楽、名誉、知識、徳性は、それら自身のためと、それらのものが齎〔もたら〕すと考へられる所の幸福のために求められる。然し、真の目的は、只、それ自身のためにのみ求められるもので、それ自身と他のもののために求められるものではない。また、プラトン派の人達が、個個の善きものから離れたイデアに幸福の存することを主張するが、それは、人間の到達し難いものであるから、問題にならぬ。また、一部の人は、善《アレテー》そのものが人生の真の目的であると主張するが、それは誤りである。何とならば、ある人は善《アレテー》を所有し、而かも、何等価値あることを為ないで一生を空しうする。否、善《アレテー》を所有するに拘らずある大なる不幸にさへ巻き込まれることがあるからである。それでは、一体、何が幸福であらうか? 此問題は人間特有の機能を明らかにしたならば分明する。何とならば、人間の至善は人間特有の機能を善くするといふことにあらねばならぬからである。人間の生命の機能として、営養、発育作用がある。また、感覚作用がある。然し、それらは動物にも植物にも通ずる。最後に、人間には理性の活動がある。さうして、これが人間特有の機能んである。其れ故、人間の至善は、この機能を善く、言ひ換へれば、人間特有の善《アレテー》を表出する結果を得るやう、この機能を仕遂げることにある。さうして、人間の幸福は人性に存する最も優れたる、最も完全なる善《アレテー》、即ち理性の善《アレテー》を表出しつつある所の生命の活動であると定義される。理性は動物にも通ずる所の低級な質料 (Matter) の上に印刻された人間の形相 (Form) であつて、只、人間に依て、営養的及び感覚的なる質料の上に実現される。其れ故、理性の善《アレテー》の活動は、当然ある物的基礎を要する。衣装やコーラスや舞台装置が無くして、光輝ある悲劇を演ずることが不能であるやうに、人生の高貴なる活動をするには外面的善き物を要する。友人、富、権勢は多くの活動の手段であり、名門、美しき子女、容貌の美は幸福を装飾する附属品である(スチュウアト『ニコマコスの倫理学の註釈』並びにバアネット『アリストートルの倫理学』第一篇の序文並びにチエイズ及びギリスの英訳等に拠る)。
  2. 『詩学』十四章に於いて、エウリピデスは「昔の悲劇詩人」の部に入れられない所から判断すると「近頃の悲劇」とはエウリピデス以後の悲劇を意味するやうである(バイウオータア註)。
  3. 「チエウクシス」五世紀末。女性を美しく描いて当代の人を驚嘆せしめた (A Companion to Greek Studies sec. 349)。第二十五章参照。
  4. 「急転と発見」第十一章参照。
  5. アリストテレスは『修辞学』三篇十六章一四一七A一九に於いて、数学の議論は、其れが取扱ふ事実が吾吾に無関心なことであるから、何等の性格的色彩を許容しないといつてゐる。


■編注

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