コンテンツにスキップ

詩学/『詩学』と其歴史に就いて (松浦嘉一)

提供:Wikisource

 今日吾吾が有するアリストテレスの『詩学』は此偉大な哲学者がアテーナイの東郊リュケイオンの園で当代の学徒に講義した詩学の要綱だけを書き写した彼自身の覚書、若くは、聴講生の一人が取つたノートを再現したものであると言はれてゐる。

 アリストテレスは、三大悲劇詩人の最初の人アイスキュロスの死後約七十年程、最後の人エウリピデスの死後約二十年程に、生れてゐる。それ故、彼の時代から言へば、ペリクレスが作つたアテナイの、同時に、悲劇の黄金時代は前世紀の昔のことであつた。アイスキュロス、ソフホクレス、エウリピデスの悲劇は、当時に於いては既に古典であつた。さうして、之等の三大悲劇詩人に続く程の劇作家も出なかつた。喜劇、叙事詩に就いも同じことが言へる。アリストファネスも既に過去の人であり、ホメロスに続くやうな叙事詩はペリクレス時代にも生れなかつた。アリストテレスの「詩学」は前世紀の赫赫〔かくかく〕たるアテナイの文化の鬱勃たる精力が生んだ所の、かやうな芸術品を一応整理し説明すると同時に、其等の作品中の最善最高のものから或一般的法則を抽象して、これを詩(広い意味に於ける)のテクニークとして若い詩人達に示さうとしたものである。

 歴史的に言へば、アリストテレスの『詩学』は、彼の師プラトンの芸術否定論から生れたものである。プラトンは、彼の哲学の主知的立場から悲劇喜劇を攻撃して其等は吾吾の魂の中に於いて気高き理性を亡ぼし、劣等なる情緒を旺盛ならしめるものである、すべての芸術は模倣の模倣であつて、実在から三段も遠いものであると言つた。プラトンは戯曲のみならず、ホメロスの詩までも同様の理由から排斥した。プラトンの理想国家に許される詩は市民の子弟教育の資材となるべき限りの詩、即ち神神や英雄に対する讃美の詩歌のみであつた。アリストテレスの『詩学』は、言はば、プラトンの此芸術否定論を反駁したもので、彼の師が何等価値のないものとして排斥した詩を、教育道徳の方便とするやうな従属的地位から独立せしめ、詩それ自身の存在の理由を見付けようとしたものである。さうして、詩はアリストテレスのお陰で、初めて、独立の世界を与えられた。

 アリストテレスの没するや『詩学』は彼の群書の下積みに埋れたまま、幾世紀も世人から忘れられて了つたやうである。西暦三世紀のディオゲネス・ラエルティオスが其第五巻二十一節で『詩学』が二巻から出来てゐることを明示してゐる以外に、吾吾は雅典〔アテーナイ〕、歴山府〔アレキサンドリア〕、羅馬〔ローマ〕の三都時代を通じて、本書に触れた人の名を殆んど聞かない。リチャード・シュートの遺著『アリストートル著書史』に拠ればキケロ(西暦前一〇六 - 四三)は、就中『修辞学』を二十度も引用してゐるが『詩学』には一言も触れてゐない。プルターク(西暦約四六 - 一二〇)もアリストテレスの他の多くの書に言及してゐるが『詩学』には、全然、直接に触れてゐない。古代の人で『詩学』『の注釈を書いたといふやうな痕跡は絶無である。

 アリストテレスと共に古代の四大詩学者とも言ふべきホラティウスやプルタークやロンギヌスも詩学の濫觴〔らんしょう〕たる本書そのものを知らなかつたやうである。ホラティウス(西暦前六五 - 八)は所謂彼の『詩論《アルスポエティカ》』の処処(例へば其一一九行一九一行一九三行、三三三行等参照)でアリストテレスの詩論の思想を顕してゐるが、其等は単に『詩学』の間接の反映であることは、彼自身の言葉からも判断される。彼は『詩論《アルスポエティカ》』二七五行以下に於いて悲劇の起源に対する彼の無知を曝露してゐるが、それは彼が『詩学』を読んでゐないことを暗示すると言へよう。プルタークに関しては、彼自身の詩学とも言ふべき『読詩人論』(De Audiendis Poetis iii)に於いて、吾吾が蜥蜴〔とかげ〕の絵を悦ぶのは、それが美しいためでなく、模倣されたものだからであると、アリストテレスの『詩学』四章の反映とも認むべきものはあるが『詩学』そのものに直接に触れてゐるといふことは絶無である。最後に、ロンギヌスの『崇高論《ペリヒュプソウス》』(西暦一世紀とも或は四世紀とも言はれる)に至つては、其三十二節にアリストテレスに言及されてゐるが、それは『修辞学』に関してゐる。

 『修辞学』がアリストテレスの死後多くの人から読まれ、其姉妹篇たる『詩学』がまるで忘却された理由は、両書の内容に存するやうに思はれる。『修辞学』は弁論術を説き、何時の時代にも有用な学問であるに反し『詩学』は要するに戯曲と叙事詩とのテクニークを説いたもので、特殊な時代にのみ顧られる学問である。

 西暦三三〇年羅馬〔ローマ〕帝国の首都が羅馬〔ローマ〕から君府〔コンスタンチノープル〕に遷つた時、希臘〔ギリシャ〕文学も共に付随して行き、其処で十五世紀の初期まで、所謂其バイザンタイン〔ビザンチン〕時代を作つた。吾吾が有する最古の『詩学』の希臘〔ギリシャ〕テクストで通常 Ac と略称されてゐるものは実にこの時代(西暦一千年頃)に出来たものである。さうして、只その頃に出来たといふ以外に、中世紀の希臘〔ギリシャ〕人に『詩学』に関する何等の文献あることを聞かない。然しながら、不思議にも『詩学』は東方の国で読者を見出した。『詩学』は八世紀にシリア語に訳され、十世紀と十一世紀の間にAbu《アブ》 Bishar《ビシャル》 Matta《マッタ》 に依つて其のシリア訳から亜刺比亜〔アラビア〕語に重訳された。間もなく西刺比亜〔アラビア〕の哲学者アヴエロイーズ(一一二六 - 九八年)が此亜刺比亜《アラビア》訳に拠つて『詩学』の註釈を書き、其れが希伯来〔ヘブライ〕語に訳され、之れが再び十三世紀に、ヘレマヌス・アレマヌスに依り『アリストテレスの詩学』の名で羅典〔ラテン〕訳された。此の羅典語の抄訳のみを通して、アリストテレスの『詩学』は僅かに中世に知られるやうになつた。然し、スピンガアン(『文芸復興期の文芸批評史』一六頁)に拠れば、それは此の時代の文芸批評界に影響を与へた何等の痕跡もなく『詩学』はダンテにもボカーチヨにも、また殆んどペトラークにも知られてゐなかつた。

 近世に於ける『詩学』の歴史は十五世紀の後半に初まる。此の時君府〔コンスタンチノープル〕が土耳其〔トルコ〕人から脅かされたが為めに、其処の多くの希臘〔ギリシャ〕学者が数多の古典文学を携へて伊太利〔イタリー〕へ逃避したからである。かくして、初めて、伊太利の学者に『詩学』の希臘〔ギリシャ〕語原文そのものが知られた。一四九八年、希臘〔ギリシャ〕語からの最初の羅典訳がヂョルヂォ・ヴァラに依りヴェニスに出版され、一五〇八年『詩学』原文の初版がアルダイン版の希臘〔ギリシャ〕修辞学者』の第一巻として世に出た。然し不幸にして、それは杜撰極まる編纂で、本文《テクスト》は悪化したと言はれて居る。一五三六年パチはこの希臘〔ギリシャ〕本文《テクスト》に羅典訳を添へて出した。一五四八年、ロボルテリは羅典訳と世界最初の註釈とを添へて出した。翌年センニは初めて伊太利訳を出した。続いてマヂ、ヴエトーリ、カステルヴエトロ、及びピコロミニ達の訳註が出た。

 かやうに幾世紀も隠滅の底に埋れてゐたアリストテレスの『詩学』はヴエニスやフローレンスから矢継早やに出版されるに至つたが、これが直ちに当時伊太利を中心として起つたルネッサンスの文芸評論の根底を形作る運命を持つた。この方面の知識はスピンガアン著『文芸復興期の文芸批評史』から十二分に得られる。

 文芸復興期の伊太利に於ける『詩学』研究はベニに終つたが、其余風を承けたものにネザーランドのレイデゥン〔ライデン〕から一五九〇年仏人カゾオボンに依り、一六一一年和蘭〔オランダ〕人ヘンシウスに依り、編纂された二つの『詩学』がある。下つて、一六九二年巴里〔パリ〕からダシエの仏訳及び註釈と、一七七一年バトゥの『四つの詩学』(Les Quartes Poétiques d'Aristote, d Horace, de Vida, de Despréaux)とが出た。

 独逸に於いては一七五五年クルチュスに依り『詩学』の最初の独訳が出た。グーデマン(『アリストテレスの詩学』序文一五頁)に拠ればこの独訳は杜撰で、解釈全然ダシエに因つたものであるが、ゲーテやシルレルが此独訳を通してアリストテレスの『詩学』を知つたといふ歴史的興味あるものである。レッシングが一七六七 - 八年に渡て、彼の『ハンブルグの戯曲論』に於いて『詩学』の研究を発表してゐることは誰も知る所である。

 英国に於いては、一六二三年倫敦〔ロンドン〕からゴウルストンの羅典訳が、一七八〇年牛津〔オックスフォード〕からウインスタンリイの註釈が、一七八九年倫敦〔ロンドン〕からツウアイニングの英訳と弘汎な註釈とが、一七九四年牛津〔オックスフォード〕からティリィトの有名な羅典訳と羅典語註釈とが出た。

 以上十九世紀初期までの『詩学』の諸版註釈は、近世に於ける該書研究のアルダイン版時代のものと仮に名付けられ得るであらう。即ち、其時代までの『詩学』研究者の何れもが、一五〇八年に出たアルダイン版を、さういふ名と、それが世界に於ける『詩学』原文の初版であるといふ威光とで、其最も信憑〔しんぴょう〕すべき原文であると誤信し、悉く、此れに基因し、単に意義不明の個処に対し、各自思ひ思ひの些細な改訂を加へたのみで、三百有余年に渡つて、編纂者から編纂者へ、学者から学者へと伝へたからである(バイウオータア著『アリストートルの詩学』序文二五頁)。

 近世に於ける『詩学』研究の後期とも言ふべきは独逸のリッタア、スペンゲル、並びにフアーレン達のアルダイン版の不良性摘発に始まる。かくして、初めて Ac 稿本が『詩学』の唯一の典拠たることが世界に認められ今日に及んで来てゐる。其故、近世後期に於ける『詩学』研究は独逸に始まり、さうして、独逸に於いて最も優勢であつた。就中、ベルナイス(Grundzuge der verlorenen Abhandlung der Aristoteles über Wirkung der Tragödie; Breslau, 1857)が悲劇の瀉泄《カタルシス》作用に対する新解釈を詳説して、初めて学界を首肯せしめたことは特筆大書すべき点である。

 独逸の『詩学』研究に接踵〔せっしょう〕して起り、而も円熟老成したる点にて前人の塁を摩すの定評あるものが、一八七三年 - 一九〇九年の長きに亘るバイウオータアの『詩学』研究である。バイウオータアはフアーレンの余風を承けて、 Ac テクストが『詩学』最古の稿本たることを論理明快に唱道し『詩学』中の字句述語の殆んど悉くに対し、アリストテレス若くはその他の作家から、其等に平行するものを引用例示して、初めて、其等の真意義を捉へるといふ、最も堅実な法式に拠つてゐる。然して其等の例証を見るに、あるものは、従来、必らずしも、正当に解釈されてゐなかつた字句の意義を確定し、あるものは、伝統的読方を確証し、従来擅〔ほしいまま〕に其れに向つて投げられてゐた危疑を一掃してゐる。  『詩学』の本文《テクスト》研究と解釈に対する世界の主なる貢献は以上の如きものであるが、尚ほ、私は玆〔ここ〕に、一八八七年英人マルゴリウスが、世界に於いて初めて『詩学』の亜刺比亜〔アラビア〕訳を世に出したといふ一事を特筆しなければならぬ。マルゴリウスは、此亜刺比亜〔アラビア〕訳の処処を断片的に訳して『詩学』の本文《テクスト》研究に此東洋語の訳書を利用する方法を示してゐるさうである。其れ以来、此亜刺比亜〔アラビア〕訳は、これまで『詩学』学者がやつてきた所の、意味不明の字句に対する創造的修正のあるものを確証したりして『詩学』研究に重大な役目をするやうになつた。

 世界に於ける『詩学』研究の大部分は本文《テクスト》研究と解釈とに集中されてきたが、近世、独逸で『詩学』に説かれた持論を骨組とし、これをアリストテレスの他の諸篇に散見する此方面に関する彼の言説で肉付け、さうして、此哲学者の頭に存在してゐた芸術論、否な芸術学を組立てて見ようとする試が起つた。『詩学』そのものは数多の学者の努力で、殆ど、完全に釈明されたが、単に其所に顕はされた一連の思想の説明のみでは、アリストテレスの所謂芸術学を組織する一団の思想を窺ふことは出来ない。そこで、彼自身の多くの諸篇から材を拾ひ集めて、彼の当然考えてゐた芸術学を築き上げようとするのである。この試みをなしたものが、タイヒミュラアの『アリストテレス研究』(Aristotelische Forschungen, 1869)ラインケンの『芸術上に於けるアリストテレス』(Aristoteles über Kunst, 1870)デゥリングの『アリストテレスの芸術学』(Die Kunstlehre des Aristoteles, 1870)ベルナイスの『アリストテレスの戯曲論に関する二論文』(Zwei Abhandlungen über die Aristotelische Theorie des Drama, 1880)である。一八九四年倫敦〔ロンドン〕から出たブチアの『アリストートルの詩論』(Aristotle's Theories of Poetry and Fine Art)は此部類に属すべきものである。


■編注

旧字体→新字体へ変換。《》は底本のルビ、〔〕はWikisource入力者による補注(主として常用+人名用の範囲に含まれない漢字等へのルビ振り)その他、下記の変換を行っている: ・堙滅→隠滅