コンテンツにスキップ

西郷隆盛言行録/第一篇 南洲と幼時の感化

提供:Wikisource

西郷隆盛言行録

第一篇 南洲と幼時の感化

第一章 家庭と其周圍

 西郷南洲は文政十年丁亥十二月七日鹿兒島城下の加治屋町に生る。加治屋町は今の鹿兒島市の西端甲突川の東涯にありて、昔の所謂武士小路の一なると傳へらる。

 南洲の生まれたる家は、武士の階級に於ては、所謂小姓組なるものに屬し、家格極めて賤しかりきといへども、その家庭の教育は極めて剛健にして、以て未来の大西郷を産む所以のもの存したりき、父は勘定方小頭なり、その性行たゞ撲直廉毅にして特に偉とするに足るものなかりきといへども、常に南洲の教育については關心して止まず或は藩儒に從はしめ、或は藩の學館聖堂に入らしめ以て困知勉行せしめぬ。

 殊に南洲は其の少年の時にあたりて、いたく薩摩武士的の精神感化をうけたりき。薩摩武士は島津忠久以來、常に時の征夷大将軍の感武に下らざるの風ありて、豊太閤にして猶且つ此の九州の一隅のみは容易に屈服せしむる能はざるものありし程なり、豊太閤曾て宮部善祥坊が根白の籠城振りをたゝへて曰く日本無變と。 以て薩摩武士のいかに剛健にして容易く人に下らざるを知るに足らむ。

 剛健にして大侠撲直にして廉毅磊落にして忠恕、これ薩摩の特色なり、而して此の特色はやがて後に南洲の特色となりしなり。

第二章 迫田太次右衛門

 南洲の家の豊かならざるや、彼れは十五歳の少年にして、郡方書役と爲さざる能はざりき。此の時常に随近せし人物に迫田太次右衛門なるものあり、資性恬澹にして、雅寛、杳かに凡常人を抜くものあり、『實歴史傳』に曰く『迫田翁は清廉超俗の士にして、頗る奇行多し、翁の家は極めて貧なり、其の居、壁落ち檐破るれども、敢て修めず、雨日に逢うときは、轍ち屋漏淋漓、防ぐべからず。翁從容として雨漏を室の一隅に避けて危坐し、毫も意に介せず、一日藩廰窮民救恤の擧あり、時に吏員翁の貧なるを見て、救恤を受くべきやを問ふ。翁曰く誠に感謝すべしと、乃ち其の庭前の老松を指して曰く「看よ彼の老松の鬱蒼として枝を垂る、我れ之れを支ふるも憾らくは一枝を餘せり、蓋し一柱足らざればなり、余、旦夕之れを憂Page:Saigo takamori memoir.pdf/9Page:Saigo takamori memoir.pdf/10Page:Saigo takamori memoir.pdf/11

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。