西洋館漫歩


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⻄洋館漫歩


 私の市内散歩に興を添えてくれる⼀種の建築がある、それは明治の初め頃に建てられたいわゆる⻄洋館と称せられる処の建物である。それらの建物は概して⽊造でありペンキが塗られていたり、漆喰であったりして少しも欧洲の古い建築の如き永久的な存在の感じを起させない処の建物ばかりである。でも私たちは⼦供の時からこれらの⻄洋館によって外国というものを夢⾒さされていたものである。ロンドンや巴⾥はこの居留地のような処だとも思っていた。ところでだんだん、どうやらそうでもないらしく思えて来て、とうとう私が巴⾥へ到着した時、巴⾥はとても古めかしく荘厳な⽯の蔵の連続であった。そしてあの居留地の⻄洋館というものは、ほんのバラックであり、ほんの腰かけのための家である事が判った。そして川⼝町の⻄洋館に似たものはコロンボ、シンガポールにおいて私は⾒る事が出来た。要するに植⺠地の⻄洋館であった訳だといっていいかと思う。
 しかしながら、そこには、簡略ながらも、異⼈が故郷を思う⼼から、その建物はバラックではあるがその窓、その屋根、その柱、その⽞関にあらゆる異⼈の伝統と趣味による装飾が施され、異⼈の伝統から出た⾊彩が施され、その部屋の内部は⽇本⼈にとっては合点の⾏かない処の構造に仕組まれていたりするので、われわれがそれによって異国と異⼈の⼼の奇妙さを感じ、その⼼を知ろうと思わせられ、⽇本⼈の⾒た事もない地球の裏側の世界を偲ばしめたのである。
 それらの影響から、⽇本の県庁や警察署等もまた、⽊造の⻄洋館と変じ、当時の異⼈の⼿によって建てられたり、あるいは⽇本の⼤⼯によって模造されたりした事と思う。
 それらの⻄洋⾵建築は⼤阪では何んといっても川⼝町本⽥あたりの昔の居留地に最も多く、現在もかなり遺っている。


 川⼝町では、旧⼤阪府庁舎などは最も代表的のものと思う。私はいつも、茂左衛⾨橋から、あるいは豊国橋の上からこの府庁の円屋根を眺める事を重⼤な楽しみの⼀つとしている。殊に豊国橋から⾒ると、その両岸に、まだ錦絵時代の倉と家があり、⼀本の松が右岸の家の庭から丁度円屋根の右⼿へ聳え⽴ち甚だよき構図を作っているのである。ところが最近、その松が枯れてしまい今は⾻のみ⽴っていて真とに淋しくなってしまった。そしてその府庁舎は空家と

なり、この先き、この⾵景はどんな事になって⾏くか、私は⼼細い。

 私は⽀那料理⾷べるためにのみ本⽥町辺りへ出かけるが、思う。天華クラブや天仙閣のも⽀那の、そのかど⼝から⾒る家の眺めを私は愛している。殊に天華クラブの前庭に腰をおろすとそこは⽇本ではなく⻄洋でもなく、⽀那でもない⼀種混雑した情景が漂い、私の⼼を欧洲航路の船室へ運んで⾏ってくれる。
 今は空家となっているらしいが板屋橋の南側には住友邸の⻄洋館がある。その附近は⼤阪の中⼼地でありながら今なおかなりの閑静な場所であり、昼間でさえ猫の⼦を捨てに⾏くには都合のよい場所である。私の幼時トンボ釣りの修業場でもあった。その⽩き⼟塀の中には⻄洋らしく、ゴムの⼤樹が繁っている。その中のオークルジョスや⻘緑のペンキか何かが塗られた古⾵な⽊造の洋館がトンボ釣りの私の⼼をいたく刺戟したものであった。その建物の内部を私

は知らないが私は今も時々その辺りを散歩する時、こんな⼈気のない家と場所が混雑せる⻑堀橋のちょっと東に存在する奇妙さを⾯⽩く思う。そしてこの奇しき家の内部を知るものはただ永久に、蜘蛛と⿏とだけかも知れないわけである事を惜むのである。


 それから、私は⼼斎橋を散歩して⼆つの古めかしき時計台を眺める事が出来る。その⻄側のものはかなりの修繕を加えた様⼦だが、東側のものは殆んど昔の俤をそのままに保ちつつ⼈々に存在を忘れられつつ聳えている。私はこの時計台とその洋館をいつも⽴ち⽌って観賞するのである。⾚い煉⽡づくりであり⼆階の両側にはブロンズの⼈像も決して拙いものではない。時計台の上には美しき笠がありその周囲にはシャンデリヤの如くレースの如き美しき装飾が施されている。時計の⽂字もまた古⾵であり、古めかしき⾳によって今なお、時を知らせつつある。
 私の⼦供の時分には、⼤阪に⼆つの⾼塔があった、これは天王寺五重の塔とは違って、当時のハイカラな洋⾵の塔であった、⼀⽅は難波にあって五階であり、⼀⽅は北の梅⽥辺りと記憶するが九階のものだった。九階は⽩き⽊造で聳え五階は⼋⾓柱であり、⽩と黒とのだんだん染めであったと思う。私は⼆つとも昇って⾒た事を夢の如く思い起す事が出来る。


 つい⼆、三⽇前、バスの中である⽼⼈の⼤⼯がこの五階について語り合っていた、昔はもっさりしたものをこさえたもんや、あの南の五階はお前、⼋⾓のといいかかった時タクシと市電が衝突の混雑を発⾒して⼤⼯は話頭を転じてしまったため、その由来を聞く事が出来なかったのを私は頗る残念に思った。
 消滅した建物では、堺筋の南⽅今の新世界の辺りかと思うが、多分それは商業クラブとか何んとか呼ばれた処の円屋根を持った⽩い建物があった。堺筋に⽴って南を⾒ると、必ずこの建物を望み得た事を記憶する。
 円屋根といえば私は先きに述べた処の旧府庁舎の円屋根を愛する。⼤阪最初の記念すべき洋館であり、ある⻄洋⼈の設計になったものだと聞くが詳細の事を知らない。⼆、三年前の院展がここで開催された時、私は這⼊って⾒たがかなり暗くて、不気味だった、殊に円屋根の内部は階下から⾒上げる事が出来るようになっていた。⼆階の床には円屋根と同じ直径の⽳があり、古めかしき⼿摺りがあり、その⽳からヨカナアンの⾸が現れそうな気がした。その他まだ

まだこの時代の建築を探せばかなり出て来そうであるが、なお私は神⼾の居留地と⼭⼿に散在する処の古き洋館に頗る愛着を感ずるものの多くを発⾒しているのであるが⻑くなるので神⼾は略する。

 ただそれらは殆んどバラック⾵で植⺠地的であるが故に、如何に時代の変遷の中途に位する処の記念すべきものであり特殊の⾯⽩さを持っているものであるにしても、永久に住む事が不可能な都合に出来上っているために、だんだんそれらのものはこの世から消滅して⾏くであろうけれども、私はその代表的のあるものだけは、せめてこの時代の記念塔として保護し保存したいものだと思っている。


 近来⼤阪の都市⾵景は⽇々に改まりつつあり、新しき時代の構図を私は中之島を中⼼として、現れつつあるのを喜ぶけれども、同時に古き⼤阪のなつかしき情景が消滅してしまうのを惜むものである。
 私は本当の都市の美しさというものは汚いものを取り捨て、定規で予定通りに新しく造り上げた処にあるものでなく、幾代も幾代もの⼈間の⼼と⼒と必要とが重なり重って、古きものの上に新しきものが積み重ねられて⾏く処に新開地ではない処の落着きとさびがある処の、掬い切れない味ある都市の美しさが現れて⾏くのだと思っている。
 私はそんな町を眺めながら味わいながら散歩するのが好きだ。
 
 

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