芸林間歩/支那青年と自然科学

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支那青年と自然科学[編集]

「ラ・ブレス・メヂキャル」といふフランスの医学雑誌(昨年六月十一日発行の号)にDr.A.Legendreと云ふ人の支那の学生の心理に就いて論ずる文章が載って居て甚だ面白い。この人はTchentou(成都?)の医学校を創立しそこで教授をしてゐたと云ふが、其支那学生の行状を批評するや痛快である。殊に泰西自然科学に対する支那学生の能力に就いては頗る悲観的の口吻を漏らして居る。今少しくそれを抄訳して見よう。曰く、始めて上海香港等に来て支那労働者を看る外国人は彼等の頗る勤勉なるに驚くが、是れは海港に在って彼等の間の生存競争が激甚なる為めであって、一旦内地に入ると此等の階級の者と雖も寧ろ頗る怠惰である。ポタンシァルに欠けて、始終筋肉上の休息を要求し、持続的の仕事が出来ない。

この怠惰が仕事に表はれて、紡績工は平等の太さの糸を作ることが出来ず、染工は同じ濃さの藍壷を二つと設けることが出来ない。

それと同じやうな性質が未来の支配階級たる学生にも見られるのである。その第一の特徴は同じ仕事を続けてゆくことの出来ない点である。始めの数日間或は数週間はたいへん好く勉強する。然しそのうちに学校へ出て来なくなる。即ちその郷里に帰って一日十八時間も煙草を飲みながらむだ話をする為めである。また第二の特徴は自己満足である。試験の時など出来なくてもそれは自分の不勉強のせゐではなく、その先生のせゐであると揚言する。

いろんなものに手を出して一時熱心にやるが、早倦がする。先生を換へて見たりするが、結局何にも仕遂げない。そして一般的興味の問題に就いて最も好んで饒舌して、直ぐ社会的の事件に関与したがる。

これは一般に支那人の性質と謂って可いのであるが、それが学生に於ても明瞭に現はれる。それ故泰西の自然科学の如きには彼等は甚だ不適当である。彼等は自国の文学に就いて大なる自負を有して居り、欧羅巴の科学の如きそれに較べれば何でもないと考へてゐる。

第三の特徴は秩序やメトヂックといふ観念の無いことである。自分の気儘に勉強をして見たり、遊んで見たり、その教師を困らしたり、之に対して陰謀を起したりする。殊に予備教育といふものを辛抱して受けるものは殆どない。予備教育などは受けないで一足飛びに正味の学問へと進みたがる。解剖学は習はないで直ぐ外科を覚えたがる。化学などはつまらないからと云って解析幾何や動物学を習って見る。

また物理や化学を習ふ場合には、それで直ぐ金まうけが出来るとか或は途方もない不思議な事が出来るとかいふ目的からである。そして其真相が薄々分って来るとすぐ厭きて止めてしまふ。そして鉱物学をやって見たり、国際公法を習って見たりする。それは之によって地中の宝を発見したり、欧羅巴人を手玉にとる大政治家にならうといふのである。

また官憲も是等の学生を監督することが出来ない。彼等は翰林院学士かも知れないが、その文学の知識はいざ知らず、酸素も哺乳動物も、少しく自然科学的のことはかいもく無知識である。

又あんな動揺常なき中央政府では、学政の秩序を保たせる力は無い。だから支那で本当の学校と云ったら唯外国人の経営してゐるものばかりだと謂って可い。

そして学生は公立学校の委員と称するものと一緒になって大事な時間を政談演説や政治運動に費消してしまふ。

かう云ふ状態であるから科学的には彼等は進歩しよう筈がない。あれやこれやの欧羅巴の学問を食ひ散かし、それに自国の文学を併せて作り上げる所は結局実のないえせ学問で、真に欧羅巴の文物を同化するといふやうなことは到底望まれない。

そして彼等のかう云ふ気象は確かにその国民性と深い関係があり、その上に此国民の幾世紀の間の結晶化の結果であるのであるから、一部の人の考ふるやうに、さう容易くは真の効果の有る発展を期待することは出来ない。数年の間に欧羅巴に負けぬ工業を起さうなどと夢みてゐるが、その結果は皆失望に終るのである。

又政治的社会的にも支那の今の無政府状態は支那学生の焦燥の気分を増長せしむるより外の役には立たない。然し彼等の神経衰弱的の発作は早晩疲労して鎮静すべきであるが、ボルシェヰク思想の支持がある為めにいつまでも続くのである。それで彼等は昔からの先祖崇拝族長制度の伝統を蔑視し、好くも知らぬ新思想へ走るのである。亜米利加やロシヤから来るいろいろの思想の間に選択をなす能力なく、そして国家の無秩序は一層増大する。

この無秩序は第一に外国人憎悪キセノフォビィとして現はれる。支那の事情を好く知らない外国人は之を支那人の愛国心だと誤認する。

学生は学窓に在るよりも街頭に出づるを喜び、自由、デモクラシィを合言葉にして政治的の直接行動をなし、いかにも世界的の大運動を行ふかの如く慢心してゐる。然し政府の今の如く腐敗し無力である間は、支那の学生は恵まれないだらう。

右(注:上記)は少し乱暴な意訳であるが、この仏蘭西のドクトルは支那学生に対し其悲観的な観察をかなり不遠慮に表白してゐる。

同年の十二月に至って同じ雑誌が L'Avenir du Tonkin の十一月号を引いて香港の英太守 Sir R.Stubbs の同年十月廿二日に香港の立法会議でした演説の一節を紹介してゐる。

「終に臨み余は教育問題に就いて一言しよう。支那人に対して泰西の教育法を課した結果はあまり好調ではないと認めざるを得ぬ。此方法に由って教育せられたものは然らざるものに比して遥か卓絶した叡智を持つであらうといふ予想に反して、其実は寧ろ却って甚だ劣るのである。

「我々の過誤は畢竟泰西風の教育といふものに対して過大の価値を置いた所に在る。そして支那風の普通教育を出来るだけ奨勵しなかったといふことは、確かに我々の過失である。今や教育部長は此問題に就て長い間研究した末に、将来適当の時機に於て小学校から大学までを通ずる支那風教育の階梯を制定しようとしてゐる云々。」

所で香港の大学は其建立以来相当の年月を経過して居、寄付金でそれが建立せられた当時多大の感激を与へてゐるだけに、香港太守の演説のこの一節は一層興味がある。英国側は支那青年に英国風の教育を与へて多少は英国の感化を期待して居ったのに、支那青年はその教育風の如何に拘らず畢竟支那青年で、英国側の希望に副はなかったのである。

さて是等の悲観的論評は、一、支那青年が欧州風の教育、殊に自然科学の教育に不向きであるといふことと、二、その教育の精神(英国風なり、又一般に欧羅巴風なりの)に薫陶せられないといふことを結論とするものである。

この第二の問題をばわたしくは今ここで批評しようとは思はない。わたくしが奉天に居た当時、満州で日本人が行ってゐる支那人教育の場所(中学堂等)では支那青年を全く日本人同様に取扱ひ、日本の祝日を祝し、日本の国歌まで歌はせた(?)といふ評判であったが、わたくしは夙く満州を去って其結果如何を観察する機会を得なかった。

第一の支那青年は西洋風の教育に適さぬ、殊に自然科学には不得意であるといふことに関しては、今直ぐには結論は下せないにしても、後来の支那の文化に関心するほどのものは一たび攻究する必要のある問題だと思ふ。

民国は既に十数年の齢を重ねたが、支那人自身の手に由る自然科学の教育並に研究は未だ興らないと曰って差支ない。北京大学はあの始末だし、物理、化学、動物、植物等の純粋なる自然科学、或は地理、地質其他の応用科学をそれ自身の為に研究してゐる支那人が支那広しと雖も現今幾人あるだらうか。

応用科学のうちでは医学教育が先づ比較的広く行はれてゐる。大正九年の秋にわたくしは支那の山西、河南、湖南、湖北、浙江等の諸省を旅行した時、医学校及び大病院は必ず之を参観した。そのうち支那人自身で経営してゐるのは、北京、太原、蘇州、抗州の四つの官立医学学校であり、わたくしはその孰れをも見た。孰れの学校にも日本に学んだ医学者が教授となってゐるのがあったが、然し、概して云ふと、是等の学校が後来、教育及び研究の府として発展するだらうかといふことに就いては多大の疑問なきを得なかった。どこにもまだ不完全と不秩序とが存して居た。然しそれは大半は経費不足、換言すれば政府なり、地方庁なりの無秩序に其咎を帰すべきものであると思はれた。

何となれば、たとへば長沙における湘雅医院及び其医学校、南京における金陵大学及び其付属の鼓棲医院、浙江に於ける大英医院、呉湘に於ける独逸医学校(是れは大正九年は大戦争中とて甚だ閑散であった)、殊にわたくしの自ら勤務した南満医学堂(今の満州医学大学──尤もこれは支那人教育を主としてはゐないが)等の如く外国人の経営するものは、上述の官立学校に比して遥かに整頓して居り成績も挙げてゐるからである。

然し最後の問題、支那青年は自然科学の学習に適しないか否か。──此問題はさう容易く解決することが出来ないと思ふ。わたくしの五箇年の経験ではまだ何ともいはれぬ。北京のロックフェラァの医学校の如き、大正九年にまだやっと建築の落成を見たばかりで、其後果してどの位の成績を挙げて居るか、わたくしは好く知らない。然し満州大学に於ては臨床医学の他に基礎医学を専門に修める支那青年も出来、その一人の如きは最近日本の医学博士になってゐる。

それでわたくしは支那青年の自然科学研究に関して、ルジャヤンドル氏のやうな悲観説を為すものではない。支那学生が自然科学を喜ばないのは、支那の政情の悪いことが最大原因である。往年わたくしは北京に於てそこの大学教授周作人氏に会った時、氏は文科に入学した学生の殆ど全部が法科に転じたといってこぼして居られた。今や支那に於ける立身の道は法科を修めて官吏になるより外の道がないから、勢さうなるのである。

で、わたくしは支那青年が自然科学の学習に不向きだとは考へないが、支那に純粋なる自然科学が興るのは前途遼遠だとは思ふのである。

支那人は今や学問の為めに学問をするといふ興味をまるで失ってゐる。日本で所謂「漢学」と称せられる古典学も清朝以来の学者の死し去った後は太だ廃れるだらうと云ふことである。然るに支那青年はその後を継がないのみならず、欧羅巴文明の根本精神をも受入れようとしてゐない。それはわたくしもルジャンドル氏と同意見である。故に今医学に於て少数の能才があった所で、恐らくその次の次の代にならなければ、「功利主義」以上の意味に於ける泰西の学問の精神を理解するものは出て来まいと思はれる。

支那を旅行する人はこの国の古くして且つ広いことを痛感する。而も新しいメトヂックを以てする科学的研究に向っては、是れ全く鋤鍬の入れられざる処女地である。然し支那人の手では地理学に於て、考古学に於て、又博物学等に於て、急には好研究が興らないとすれば、その為に我々が一臂の労を盡すのが正当である。近時対支文化事業といふ名目で上海に自然科学研究機関が設立せられたといふが、然しさう云ふ制度の他にも、たとへば各地に於ける同仁病院のやうなものを利用し、日本の教授なり、学生なりが、夏休みになり、又は相当の年月なり支那に止まって、個人としては部分的でも、結局は統一的になるやうな方針で、地方地方で、自然科学的研究を行ったら、だんだんと成績が挙って来るだらうと思ふ。

今までも商業取引の上、又は工業的事業の上に、日本の会社は或は地質学者、或は特殊の技師を支那に派遣して、その報告を徴してゐる。これ等は然し全く世間には伝はらない。一方に文化的の意味では大連の満鉄の中央試験所のやうなもの、上海の同文学院のやうなもの、其他支那或は日本内地に於て、公の職務として又は個人的趣味として多くの支那文物自然に関する研究が施されて居る。然しそれ等を統轄する機関がないから、孰れも断片的の状態に止まって連絡を欠いてゐる。

で日本としては、今後支那研究に向って中枢機関を設けて連絡と統一とをつけることが必要だらうと思ふ。

わたくしは支那を去ってからもう七年になる。この間余り支那の事に就いて注意をしなかった。今回「改造」から原稿を求められたが、今述ぶる所は七年前の思想知識から出ない。唯蕪文を以て責をふさぐだけである。(六月十八日夜)

(「改造」昭和三年)

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