臨終記

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臨終記


東條耿一


 彼が昭和十二年九月の末、胃腸を壊して今年二度目の重病室入りをして以来、ずっと危険な状態が続いて来たが、こんなに早く死ぬとは思はなかつた。受持の医師が、私に、北條さんはもう二度と立てないかも知れません。ママと云はれたのは彼が死ぬ二十日ばかり前の事であつた。私はその時はじめてそんなに重態なのか、とびつくりする程迂闊に彼に接してゐたのである。来る春まではまあむづかしいにしても、正月ぐらゐは持越すものと信じてゐた。それほど彼は元気で日々を送り迎へてゐたのである。彼にしても、こんなに早く死が訪れようとは思はなかつたに違ひない。尤も死期の迫りつつあることは意識してゐたらしく、その頃の日記にも、

「かう体を悪くしたのも、元を質せば自ら招けるものなり。あきらめよわが心。

 けれど、かう体が瘦せてはなんだか無気味だ。ふと、このまゝ病室で死んでしまふやうな気がする。」

 また重態の日々が続いた後であらう、苦悶の様が書かれてゐる。

「しみじみと思ふ。怖しい病気に憑かれしものかな、と。

 慟哭したし。

 泣き叫びたし。

 この心如何にせん。」

その頃が最も苦しかつたらしく、また、死との闘争も激しかつたやうに見受けられた。私にも、おれはまだ死にたくない、どうしても書かなければならないものがあるんだ。もう一度恢復したい。と悲痛な面持で云つた事もあつた。彼は腸結核で死んだのである。

 彼は最後の一瞬まで、哀れなほど実に意識がはつきりしてゐた。文字通り骨と皮ばかりに瘦せてはゐたが、なかなか元気で、便所へなども、死の直前まで歩いて行つたほどである。その辛棒強さ、意志の強靭さは驚くばかりであつた。それでも死ぬ三四日前には、起上るにも寝返りするにも、流石に苦痛を覚えたらしく、私が抱起してやるとほつとしたやうに、さうして呉れると助かるなあ、と嬉しげであつた。寝台が粗末で狭いので、瘦せこけてゐる背中のあたりが悪く、あまつさへ蒲団が両脇に垂れ下がり、病み疲れた体にはその重量がいたく感じるらしく、よく蒲団が重いなあ……と苦しげに呟いた。私が蒲団を吊つてやらう、と云ふと、彼は俄かに不機嫌になつて、ほつといて呉れ、君、ここは施療院だぜ。施療院の、おれは施療患者だからな。出来るだけ忍ばにやならんよ。それに蒲団を吊ると重病人臭くていかん。と怒つたやうに云ふのであった。平素の彼が、全く我儘無軌道ときてゐるので、こんな時、思ひがけなく彼の真の姿に触れ、たじたじとさせられる事がよくあつた。

 来る日も来る日も重湯と牛乳を少量、それも飲んだり飲まなかつたりなので、体は日増に衰弱する一方であつた。食べる物とては他に何も無いのであつた。流動物以外の物を一寸でも食べようものなら、直ちに激しい痛みを覚え、下痢をするらしかつた。彼はよく、おれは今何もいらん。只麦飯が二杯づゝ食ひたい、そのやうになりたい、と云つた。創元社の小林さんからの見舞品も、殆ど手をつけなかつた。尤も、これはおれの全快祝ひに使ふんだ、と云つて、わざわざ私に蔵はせて置いたのである。

 それらの品々は悲しくも、お通夜の日、舎の人達や私達友人の淋しい茶菓となつた。彼はまた口癖のやうに、こん度元気になったら附添夫を少しやらう。あれはなかなか体にいい、やつぱり運動しなけや駄目だ。まづママ健康、小説を書くのは然る後だ、と云つて、よくなつてからの色々のプランを立ててゐた。そんな時の彼は恢復する日を只管待ち侘びてゐたらしく、また必ず恢復するものと信じてゐたやうであつた。小説はかなり書きたいやうだつた。君、代筆して呉れ。と云つたり、ああ小説が書きたいなあ……と悲しげに呟く事などもあつた。じつと寝たなりで居るので色々な想念が雲のやうに湧いて来るのであらう、おれは今素晴しい事を考へてゐた。世界文学史上未だかつて誰も考へた事もなく、書いた者もない小説のテーマなんだと確信ありげに云ふ事もあつた。

 病気によいといふ事はたいていやつてみてゐたらしいが、たいして効果は無かつたやうだつた。時には変つた療法を教へたりする人があると、真向から、そんなものは糞にもならん、あれがいいこれがいいと云ふものは凡てやつてみたが、却つておれは悪くした。結局、病人は医者にいのちを委せるより他ないんだ、と喰つて掛る事もあつた。

 死ぬ二三日前には、心もずつと平静になり私などの測り知れない高遠な世界に遊んでゐるやうに思はれた。おれは死など恐れはしない。もう準備は出来た。只おれが書かなければならないものを残す事で心残りだ。だがそれも愚痴かも知れん、と云つたのもその頃である。底光りのする眼をじつと何者かに集中させ、げつそり落ちこんだ頰に小暗い影を宿して静かに仰臥してゐる彼の姿は、何かいたいたしいものと、或る不思議な澄んだ力を私に感じさせた。私は時折り彼の顔を覗き込むやうにして、いま何を考へてゐる? と訊ねると何も考へてゐない、と答へる。何か読んでやらうかと訊くと、いや何も聞きたくない、と云ふ。静かな気持を壊されたくないのであらう。

 彼の死ぬ前の日。私は医師に頼んで、彼の隣ママ寝台を開ママけて貰つた。夜もずつと宿つて何かと用事を足してやる為であつた。私が、こん晩から此処へ寝るからな、と云ふと、さうか、済まんなあ、と只一言。後はまた静かに仰向いてゐた。補助寝台を開けると、たいていの病人が、急に力を落したり、極度に厭な顔を見せたりするのであるが、彼は既に、自分の死を予期してゐたのか、目の色一つ動かさなかつた。その夜の二時頃 (十二月五日の暁前) 看護疲れに不覚にも眠つてしまつた私は、不図私を呼ぶ彼の声にびつくりして飛起きた。彼は瘦せた両手に枕を高く差上げ、頻りに打返しては眺めてゐた。何だかひどく昂奮してゐるやうであつた。どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んで呉れないか。と云ふ。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもは一寸触つても痛いと云ふのに、その晩に限つて、もつと強く、もつと強くと云ふ。どうしたのかと不思議に思つてゐると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いてゐた。こんな晩は素晴しく力が湧いて来る、何処からこんな力が出るのか分らない。手足がぴんぴん跳ね上る。君、原稿を書いて呉れ。と云ふのである。いつもの彼とは容ママ子が違ふ。それが死の前の最後に燃え上つた生命の力であるとは私は気がつかなかつた。おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であつた。私は周章てふためいて、友人達に急を告げる一方、医局への長い廊下を走り乍ら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚えバカ、バカ、死ぬんぢやない、死ぬんぢやない、と呟いてゐた。涙が無性に頬を伝つてゐた。

 彼の息の絶える一瞬まで、哀れな程、実に意識がはつきりしてゐた。一瞬の後死ぬとは思へないほどしつかりしてゐて、川端さんにはお世話になりつぱなしで誠に申訳ない、と云ひ、私には色々済まなかつた、有難う、と何度も礼を云ふので、私が何だそんな事、それより早く元気になれよ、といふと、うん、元気になりたい、と答へ、葛が喰ひたい、といふのであった。白頭土を入れて葛をかいてやるとそれをうまさうに喰べ、私にも喰へ、と薦ママめるので、私も一緒になつて喰べた。思へばそれが彼との最後の会食であつた。珍らしく葛をきれいに喰つてしまふと、彼の意識は、急にまるで煙のやうに消え失せて行つた。

 かうして彼が何の苦しみもなく、安らかに息を引き取つたのは、夜もほのぼのと明けかかつた午前五時三十五分であつた。もはや動かない瞼を静かに閉ぢ、最後の訣別を済ますと、急に突刺すやうな寒気が身に沁みた。彼の死顔は実に美しかつた。彼の冷たくなつた死顔を凝視めて、私は何か知らほつとしたものを感じた。その房々とした頭髮を撫で乍ら、小さく北條北條と呟くと、清浄なものが胸元をぐつと突上げ、眼頭が次第に曇つて来た。

 彼が死んではや二週間、その間お通夜、骨上げ、追悼と、慌しい中に過ぎ、いま彼の遺稿の整理をし乍ら、幾多の長篇の腹案に触れ、もうあとせめて五六年、私の生命と取替へてでも彼を生かしてやりたかつた、としみじみとした思ひがした。残り尠ない彼の日記を読んでゐるうちに、ふと次の詩のやうな一章が眼についた。彼のぼうぼうとした寂寥と孤独、その苦悩の様がほぼ窺はれるやうな気がするので、此処に引用する事を許して戴き、心から彼の冥福を祈りたい。


粗い壁

壁に鼻ぶちつけて

深夜、

虻が羽搏いてゐる。

(昭和十二年十二月記)

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