紀州御発向記

 
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紀州御発向之事
 
一天風治四海波穏○(也イタ)時内大臣平朝臣秀吉公、威光輝万古、名誉伝八荒、日域之外、亦無敵者、況近国乎、于越コヽニ紀伊国雑賀御征伐之事、尋其由来、去天正四年、前将軍信長公、悪一揆之凶徒、欲之、其路節所、而為楚山之嶮、蜀川之難、依之従古以来、敵軍無乱入、然信長公延五六万騎之人数、押寄雑賀、送数日、一揆所楯籠、大河巨海、廻舟成屯、堅固之条、輙難破却、故以調略〈[#底本では直前に返り点「一」なし]〉一城定味方、御人数悉引払矣、其後又及国危、則動令蜂起怨者也、国国又属平均、則雖降参、不之、泉州岸和田之城、入置中村孫平次一氏、令守之、彼一起之徒党、頼節所、取向泉州表、東​无タ​​為​​ ​高絶山聳、人馬之通不叶、西大灘海荒、兵船之路不輙、中筋五十町余、田畠在家森林也、隔川伏(便イタ)堤、作要害五六箇所、城城交交、掘掘搆士居柵、殊根来雑賀、足軽共鉄炮得名、放則無中、縦大軍雖寄来、魁精兵若干於射取者、有乎、対陣岸和田事数年、今歳天正十三年三月廿一日、御動座之由、兼日成陣触、彼路筋、海山之嶮難、舟之着場、馬之立処、以案内者見究、成画図、先手之大将令之、人数分二筋、段々書立、定臘次者也、浦山両手之備、二十三段也、以上十余万騎之人数、立双岸和田表、山手千石堀、浦沢、并積善寺木島、畠中窪田、此外数箇所取出之城有之、二十一日未刻、御動座也、見合御旗先、諸口一度寄人数、一揆之要害、敵付安道筋、成横矢構、構之前築土堤狭間、大筒小筒込薬、大兵小兵解矢手把待掛、内府以御下知、先攻寄山手千石堀、内放鉄炮、平砂如胡麻、中死者踏付、手負倒者乗越、我先我先乱入、始羽柴孫七郎、割込両方之付城交、搦手廻人数、四方同時攻入、一人不オープンアクセス NDLJP:220首、悉打捨切捨、浦手沢城、是亦揃鉄炮数、敵近近引付、敵続放打所、或衝鉄楯、或傾鍪簪シコロナサシ鎧袖、取死人小楯、無明闇攻上、ミナ(皆タ)一揆之首、残ナシ端城見之、一度明退、北者追着追着、

(四月四日誅百五十三人命者男女二千八百余人也タ)撫切物悉討果、以其競、同廿三日、至根来寺御動座也、防之螳蜋難ヨリモ車、攻之泰山易卵、逆徒方方追散、僧房伽藍懸火、谷谷甍、成焰上天、山山梢成烟連雲、三日三夜照百里、唯伝法院一宇、帰然如霊光殿、彼一乗山根来寺、覚鑁上人在世、建立伝法院巳来、専闘諍隣国近郷、取弓矢寺法焉、巳六百年来、寺家安泰而飽富恣己、無強敵、蔑小敵其趣、恰如井蛙語_海、故一刻破却、折節有修行者一首之狂歌、云

  似合さる根来法師のうてたて​はイタ​​に​​ ​あわれ弓父のはちをかくはん

伝法院者、本朝無隠大仏閣也、依之引‐上都、定太平山仏殿者也、翌日至雑賀谷御動座也、始土橋平次所所要害、木葉如風、一度落居、則新造土橋搆、為御幕下者也、此時玉置堀内神保等、致懇望帰参、然河向小雑賀云太田在所有之、土民百姓住居之地也、雖(随タ)国次此、全無科之由、以理侘言申之間免之、然従所所集彼在所悪党等、往還之陣夫荷物以下、奪取之、狠籍旨、達上聞、上大怒尤甚、諸陣俄廻触、悉可打果御諚也、乍去在家要害不残、鉄炮数多、急攻則可人数、対土民侍事無詮、唯水責而可鱗之餌食、四方築堤、忽廻四十八町路四里也、堤高六間間中、土台十八間、而上之路筋広五間余下墨太田之家棟、従堤卑事定五尺許、随領知之分限、書立人数、何間何間破(割タ)付、則堤之外面、立続陣屋、不昼夜、大名小名自砕手成普請日、其間中村孫平次仙石権兵衛尉九鬼右馬允為大将、小西石井梶原等定舟奉行、越由良那智、逆浪附(泝タ)天、卒風捲砂、凌此大難オシ寄熊野、陸路(地タ)山聳谷深、而非ヤル師之道、古平家侍湯川一党、其外カセ侍、不国司、践(踏タ)雲桟石、滝水上古木岩崛之間小屋、谷岩ノ間、田岨古畑為便、居住者也、此路筋非山猿野鹿通、旅人諺云、親不知子不知、犬戻、合子投、左ウツボ是也、不(其タ)悉放火、打破湯川楯籠城、削彼一類跡、去延文四年、宮方与将軍家合戦之時、湯庄司背本意、対宮方悪逆之謀叛、殆非其報哉、扨紀州泉州御舎弟美濃守秀長支令護之、彼両国海近而海賊易付、山峻而山賊易伏、非良将者難撫之、秀長常専軍忠、糺臣下猥、不憲法沙汰、依之小雑賀曰岡山所定居城、分人数、成普請、彼岡国府中而平地独秀城郭也、南和歌浦、西吹上浜、自東紀北流入、麓林深諸木交条、寔万景一覧之境致也、卯月初、内府御陣廻之次、和歌浦玉津島有参詣、一首御詠歌

  打出て玉津島よりなかむれはみとり立そふ布引の松

彼浦之布引松有由緒哉、最正風体之佳作也、各吟味之、古曰、君子以一言国之邪正、寔哉、于時太平山院主古渓宗陳和尚、以事至柳営幕下、感御詠之佳作、伸祝事韻末、其辞云、

   画工於景未濃 浦号和歌誰后蹤 神祝吾君玉津島 緑新布引万年松

屢雖陣営風流如此、其後五岳名僧伝聞之ミナ(皆タ)以見高韻、誠一時之雅興也、又新立坐数、旦暮延雅客、茶会不枚舉、然彼大田堤、毎日有御動座、一日甲賀輩普請成オープンアクセス NDLJP:221、殊背法度之旨条、其科不少、故被離領知、一類悉行流罪、当日又明石与四郎則実所致之普請、過分限早速出来、感悦之余、一万石遣領知者也、罰科賞功、頓而如此不威、窃監之、甲賀士常致不善、明石則実全抱忠功、連連依其心也、只非一日之儀乎、依之人人成勇尽力無退屈、摠別師之痩(疲タ)事、依粮也、然内府取国人之懐事、第一諸勢遣兵粮故也、古今無様次第也、殊今度須磨明石兵庫西宮尼崎堺津、其外以所所舟兵粮、増田右衛門長盛為兵粮奉行、紀湊置之、一日八木千俵大豆百俵、相渡者也、堤漸相究所、卯月中旬、俄雨降而如車輪、紀川洪水、而所築之堤、川筋一文字流来、百四十五間突切、其汀成淵、此刻以テタテ打果者似退屈、唯以水可責、重而築之、其流深而難(堰タ)、於是津湊遣舟、俵二三十万買寄、込入土沙羅淵底、本之堤ヨリ広高、即時築立、又始作盲舟メクラフネ、工色色製攻道具、切崩敵土居、水漸入城内、一揆勿論浮沈、土居小屋、塀之掩(矢歟)、明空狭間、作人形之、塀下明狭間、従其打鉄炮、又拵松明焼草中裹鉄炮薬、欲彼舟、待東風之便、種種雖謀略、果而無保之一事、依之一揆仰天伏地、頻成侘言旨、蜂須賀左衛門正勝言上、然者扶過土民、撰出有罪悪党、得誅罰御諚、切悪人五十余人首磔、召直残百姓、専耕作者也、然高野山金剛峰寺、是先終無上意、不柔和之姿、専真言大事条、尤神妙也、殊彼山者、誠無比之霊地、弘法大師遺跡、而諸人所帰依也、異朝敬之、故以制札、寺領全無相違者也、就中金堂破懐歳久、誰人於末世造此大功哉、内府大政所殿為逆修此堂、八木一万石遣之、又金堂為修理料、於隣郷三千石之寺領、末代所新寄進也、一乗山悪心破却、高野山正直仰之、人人可之者也、内府所態掌涓埃不虚捐、仍記千幸万吉之云、

〔四月七日進軍熊野九日還御大阪城

 一本真書于時天正十一年吉辰                播州三木住 大村由已撰

  明治三十五年一月以大学本再校了          近藤圭造

 
 

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