立花遺香

目次
 
秀忠へ宗茂の奉公木村主水の仕を罷む小野和泉武功を説く清正と和泉和泉六十一にして初めて書に志す武士の最大事和泉武功に誇らず乱世武士道顕はる鳥居の兵粮入由布雪嘉由井下総善導寺を焼く戸次を立花と改む宗茂の幼時車返の陣小刀と脇差家康の人の遣ひ方本多忠政東軍関ヶ原に進む小牧山の戦花房助兵衛家康に仕ふ島原の乱と宗茂家康の旗印立花三太夫浮田秀家と宗茂の確執小栗大六の斥候大坂夏陣に於て宗茂の勇戦家康と五奉行の確執宗茂等大坂に赴く秀吉自ら大阪城攻の法を説く大谷吉隆杉山忠左衛門の殊功谷川大膳廉恥を重んず伊達政宗の臣家康を謀る家康利家の病を訪ふ将軍家光高麗陣の事を宗茂に問ふ朝鮮陣の思出清正宗成の勇を感ず小早川隆景の勇戦蔚山の後詰朝鮮人の敗軍戦死者に下帯なし細川忠興政宗を屈せしむ宗成松平信綱の為に家光の疑を解く島原攻略不成績の理由家光宗茂の議を用ふ高名不覚紛なきを名誉とす蒲池宗碩の軍法宗茂佩刀の華美を戒む小早川秀秋と宗茂との確執宗成出陣する時の決心水野和泉宗茂をして敵勢を探らしむ宗茂和泉に先鋒を命ず武器の長短多少を論ずるの無用宗茂譜第藩士の子弟を愛撫す刀脇差の吉凶立花鑑俊立花氏の再興鑑俊の素性秀吉薩摩征伐の時人質を出す立花の血附の扇新田氏の子孫立花十時敵将星野中務を討つ敵の大将を切る時の作法高鳥居の戦宗茂実父の訓戒家康の宗茂観秀忠福島加藤の態度を宗茂に問ふ太閤子孫断絶の時節到来情報の請を拒絶す大坂の役宗茂東軍の顧問に備ふ宗茂秀頼の出馬なきを予言す秀忠宗茂を優遇す宗茂の弓術宗茂家中仕置の法立花山切岸下の戦休松の戦筑後肥後国境の紛争石田三成宗茂の甘心を求む小野和泉立花氏に属す小野和泉家老となる和泉武道の衰微を歎ず道伯の秀吉の恩賞を被らざる理由紹運戦死の理由宗茂政道を猥にせず関原の役宗茂秀頼の命を奉じて上洛す加藤清正宗茂の上洛を諫む宗茂等大津を攻む西軍の敗報を得て宗茂軍を班す宗茂豊後に著く立花系図戸次氏記録十時半次家子居宅の美を難ず立斎の号関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ加藤清正宗茂の為に家康に弁ぜんとす宗茂の返書江上の戦捷を宋雲に報ず鍋島氏の軍を襲はんとす内田玄恕清正南の関へ出陣家康より清正への内命矢の口の防禦宗茂柳川開城を肯んぜず宗茂清正に開城を約す宗茂清正を信頼す領民開城を悲み宗茂を慕ふ清正宗茂を迎ふ清正如水薩摩へ出陣清正薩摩へ宗茂を誘ふ宗茂高瀬に留る小野和泉の献金宗茂上洛前田氏宗茂を招がんとす宗茂江戸に至る宗茂の覚悟柳川の旧領に復す宗茂幼時の沈著大友中務の素性大友統連の素性
 
 
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立花遺香
 
立花者、藤原姓而大友同氏也、大織冠十八代之孫苗称大友親能、親能男号能直

〈童名一法師丸、〉能直、源頼朝季子也、頼朝、寵大友四郎大夫経家之女男子〈是一法師丸なり、〉能養之、以嗣其家、称大友左近将監、賜豊後国、近侍武衛、能直六代末葉、称貞宗〈孫太郎、左近将監、〉貞宗生二男子、嫡称とし〈阿多々丸左近将監、〉二男称氏泰〈千松丸、式部丞、〉然貞載居住筑前国立花山城〈糟谷郡内、〉故以立花氏、二男氏泰在豊後、称大友、貞載建武中於洛陽東洞院、討結城判官親光、以得其首、時柳営尊氏、賜吉光短刀、討結城、時被重創、故経三日、遂卒、有男子、称まさ、宗匡七代後胤、称戸次鑑連へつきあきつら〈八幡丸、左近将監、法名称梅岳道雪、〉此人武勇智謀超絶常人、仕大友、攻城戦野、顕芳誉者数回矣、天正中、龍造寺山城守隆信、与大友、戦于筑後国久留米、道雪有軍功、卒然罹病痾、死于陣中、大友宗麟賜書於其子左近将監むね〈後改宗茂〉、以賞之、其辞曰、

態差遣古庄丹後入道候、今度至筑後国久留米表、龍造寺隆信出張刻、道雪オープンアクセス NDLJP:9勇気、以粉骨之手柄退大軍、忠節不浅、令喜悦之処、不意道雪被病死之由、悲歎之泪難乾者也、貴殿御心中、従是察焉而已、委細丹後入道可演説、恐惶謹言、

  四月廿五日  宗麟在判

         立花左近将監殿

按、道雪無実子、養同国太宰府岩屋城主高橋主膳入道紹運子、以継家系、左近将監統虎〈改宗茂是也、

然宗茂為人也、雄略剛毅、而能用兵焉、天正十五年、秀吉発軍於九州之時、立花宗茂出立花城〈在筑前国、〉捕星野某、或与薩摩軍相戦、顕勇誉数回、秀吉威喜不少、乃言曰、立花者九国逸物也、且賜書曰、

黒田勘解由・宮部入道、七月九日之書状倒来候、抑九州事如条目、豊筑薩江加下知之処、義統・輝元令承仗、以和合之儀馳走、尤神妙候、然而薩州事、至筑紫領内相働、于令在陣之由無是非候、此旨最前義統註進候条、則毛利・小早川・吉川打越関戸、義統令相談、急度可及行由申含、黒田勘解由宮部入道差下候、定而不油断候、此上敵不遁散者、輝元註進次第、追々差遣人数、其上秀長・秀次始、可相働之条、彼兇徒等可誅伐候、然者両人事、依忠節、一廉可申付候、味方申談、聊無越度様、調議第一候、義統江茂仰下間、可其意候也、

  八月三日    秀吉在判


          立花左近将監殿

          高橋主膳入道殿

去月廿七日、対安国寺・黒田勘解由・宮部入道書状、并首註文、今月十日、披見候、今度其表島津相働候処味方之城数二三箇所、手脱相果候条、其構之儀、無心許思召候、輝元・元春・隆景、其外人数追々差遣候処、立花城無別条相抱候、対殿下、忠節無比類、被覚食候処、去廿四日、敵引退候刻、足軽相付、敵数多討捕儀、手柄之上、重而高鳥東西責破、城主星野中書・同民部少輔始、其外不残、数万人討捕首註文到来、誠粉骨之段、不申候、自是以後之儀者、聊率爾成働可無用也、人数追々差遣、其上輝元・元春・隆景両三人、一左右次第、オープンアクセス NDLJP:10殿下被御馬、九州逆徒等、速可首之条、得其意尤候、然者為褒美、新地一廉可仰付候間、突鎗高名仕、忠節之輩可支配、弥成勇候様、可申賜事専要候、委細安国寺・宮部両三人可申也、

  九月十日    秀吉在判

          立花左近将監殿

文禄中、秀吉遣軍于朝鮮、時宗茂自帥千三百三十余騎、渡彼地大軍功、其事跡所口碑也、所史伝也、繁多故略之、慶長五年、石田誅伐之時、以豊臣内府命、少応其言、茲京極宰相高次、党東国、拠居城大津塁、立花宗茂・毛利輝元・筑紫上野介・多賀出雲守・伊東丹後守〈七手組列、〉速水甲斐守〈七手組列〉等、九月六日、発大坂攻之、十一日、遂破一方口、立花宗茂最一入城、其勇敢抜粋也、遂高次乞和解、故解囲去、宗茂独守之、時濃州役既敗潰、故速乗舟、還居城柳川〈在筑後国、〉以守拒之、肥前国住人鍋島加賀守、亦初党大坂、聞関ヶ原敗潰、而為前過、言曰、許故攻抜立花・柳川、以致微忠、大神君諾之、於是発軍于筑後国〈張営於鉢之院、加藤清正・黒田如水、亦赴柳川、囲其城、宗茂出城戦、其軍鋒甚鋭、攻兵皆猶予矣、遂因清正以乞和交、清正達之、公愛宗茂砥節絶倫量、遂容之、立花開城去、〈清正家人和田備中入其城、以守備之、〉鈞命宗茂赴武城、更賜一万石、近侍大神君、元和元年役供奉、張営於本陣前隊、五月七日、於天王寺口、撃城兵首級、他日賜旧領、還柳川城、譲家禄其子忠茂〈飛騨守、〉寛永十四年、肥前国土民一揆、時赴彼地其城、薙髪称立斎、其鑑虎相承、而子孫茂栄矣、


大樹様より、宗茂様召出され、御咄申すべき由、御意段々御座候て後、上意に、飛弾守には、台徳院殿より此方、別して御心安く、思召し上げられ候、其方又親みも之あるべく候、然れば御当地にては、いか様の儀にて、大切の御用に、御立ちあるべき御心入に候や、仰上げらるべしとの御雑談なり、宗茂様仰上げられ候は、天下御静謐の御時代に御座候へば、秀忠へ宗茂の奉公大切の御奉公と申す儀、一円申上ぐべき様、御座なく候、御酒存分に下され、千秋楽を謡ひ申すより外、御座なく候、我等の御奉公には、何方にても、御門一所御番相勤め申すべき外、覚悟御座なく候と、仰上げオープンアクセス NDLJP:11られ候時、殊の外御機嫌能く、御天守の御拝見まで仰付けられ候、委細の儀は、立花壱岐、柳川へ申越され候通りなり、大津御陣の御咄、京極一家の衆、一座にて御座候、宗茂様仰上げられ候は、先づ大津を始め蹈落し、東国大名共の首、一々に取り申すべしと、覚悟仕り候との儀なり、其後、井伊掃部殿御出でなされ候て、上意に、さすがの立花なり、御前にて有体に、常の者は申上げ候事、なるまじとの御意御座候由、御咄なり、此時天守の板敷は、上下へ物申す声聞え、兼ねて、然るべからざる段、仰上げられ候へば、竹と木をまぜて、仕直させらるゝとなり、

一、高麗御陣帰の後、御家中の侍、多過ぎ候間、御残しなされ候由にて、大身・小身の侍計り、七十三人御暇下され候、木村主水の仕を罷む小野和泉御断申上げ、右の内三人御免なされ候、木村主水と申す者、二百石取居り申し候、此者儀は、道雪様御代より相勤め、殊に主水親は戦死仕り候筋目にて御座候間、御免なされ候様にと、和泉申上げ候時、以ての外御機嫌悪しく、総て御暇下され候者共、其科其越度仰出されず候は、身命相続ぎ申すべき、奉公の使を失ひ申す処、御不便に思召され、仰立てられず候、然るに御定の人数の内より、三人まで御断申上げ、御免なされ候に、又此主水事を申上げ候は、余りなる事に思召され候、御意なさるまじと、思召され候へども、此間主水観御用に立ち候故、たゞ今まと召置かれ候。銘運機御存命の内、今一度御尋ねなされたく、思召さるゝ事之あり候に付、達者に生付、年も若く候間、此主水へ御状持参仕り候様に、仰付けられ候処、三月まで暮し罷り成らざるの由、申し候て、罷帰り候、其時吉田右京申し候は、何方にて御用に立つも同然に御座候、人のならぬ所を望み申すは、物をかしき儀に御座候へども、仰付けられ候はば、参るべき由を申すに付、即ち御状御渡しなされ候処、少しも遅滞仕らず、其夜御返事を取り罷帰り候、其後、高麗南大門の前にて、主水事先に進み候間、今度先年の不覚を仕返し候やと、御心を付けられ、御覧なされ候に、鎗前に罷成り、はづし申し候、是を初め、高麗御陣中、さばかり度々御敵合成され候処、一度も手に合ひ申さず候、斯様の不覚仁召置かれ、何の御用に立ち候はんやと、御意なされ候時、和泉も殊の外迷惑仕り候、其後薦野参河召出され、和泉申上げ候に付、三人御免なされ候、其身も断り申したく存ずる者、之あり候はゞ、申上げよとの御意なり、参河有難く存じ奉る儀、生涯忘れざる由、物語なり、則ち参河申上げ候て、両オープンアクセス NDLJP:12人御免能成り候、此時御暇下され候者共、方々へ有付き候に、主人々々より、御尋の時は、何れも能き者召出されたるとの御意なり、御暇下され候者共も、後々まで有難く存じ奉り候となり、

小野和泉武功を説く一、小野和泉、〈柳川開城の節、清正の扶助にて、肥後に参る、〉肥後へ参り候て、後庄林・にいのみ・飯田・森下など、何れも清正の家中にて、口をきゝ申し候者共、左近様は度々の場数、各々へも其覚承り及び候、御咄承りたき由、度々申し候へども、和泉取合ひ申さず候、何れも申し候は、和泉も柳川にてこそ和泉なれ、熊本にては替りたる事あるまじと申す由、和泉承り、或時又尋ね候時、さらば咄し申すべく候、御覧候へとて、肩をぬがれ候に、腰より上四十四箇所の手疵御座候、此疵は何方にて如何様の働き仕り、蒙り候と、段々申され候て、其証文、左近将監父子・大友殿代々の証文、一つに仕り候ては、分取高名・一番鑓・一番乗・一番首と之あり候計り、廿六所持仕り候、御望み候はと、御目に懸くべく候、是に付、各へ御尋ね申したき事之あり候、清正様十文字の片館、懸折られ候程、御働きなされ候に、御供の各は、如何様の事を仕り御座なされ候や、左近将監如きは、左程場を蹈み申し候へども、我々こそ切屑にも罷成り候へ、終に左近自身に、其程に働き申したる事は、之なく候と申し候時、何れも赤面仕り、其後終に武道咄仕らず候由、

清正と和泉一、清正、和泉へ初めて御遭ひなされ、万づ御尋ねなされ、和泉退出の後、仰せらるゝは、樫柄の鎗一本持ち候はゞ、一方固め不足なき者なり、若き者の彼者を見習へとの御意なり、或時、仰せらるゝは、和泉若き時より、方々の取合にかゝり、定めて書物等しかと読み申すまじと推量なされ候、御身にも、御幼少より御隙之なく、今更御迷惑なさるとの御咄なり、和泉六十一にして初めて書に志す和泉申上げ候は、私儀六十一まで、いろはのいの字も存ぜず候て、高麗にて、毛利甲州公より、御書下され候、其節、首実検仕り居り候処に、使者直に持参仕り候、左近家老と申し、老体にて、無筆とは申し難く、如何仕るべくやと、あぐみ候処、内田玄恕参り候間、拝見仕り、能き様に御請け申上げくれ候の様に頼み、相済し候、是より是非なく存じ、帰陣の後、女房にいろはを書かせ習ひ候て、漸く只今程に、にじり申し候と、御咄申上げ候、清正思召上げられ候は、御挨拶に申上げ候と、思召され、玄恕其外柳川より参り居り候者に、御尋ねされ候処、相違之なき故、仮初にも偽なきを、誠の武士と仕る由、尤もオープンアクセス NDLJP:13左様に之あるべき事なりと、仰せられ候、夫より後、一入和泉に御懇意になられ候、常に御咄相手になされ、御将碁の御相手になされ候、或時御次にて、近習の侍、喧嘩を仕り、討果し申し候、清正座数を御立ち、御次に御出なさるべしと、遊ばさるゝを、和泉、御袖にすがり、大将たる御身の、斯様なる所に、軽々しく御出なされ候事、あるべき事に御座なく候へ、是へ参り候はゞ、此年寄が兎も角も罷成り候て後こそ、御手はおろさるべく候へ、何の為の御番衆にて御座候や、頓て取静め申すべく、申上げられ候へば、清正も御赤面なされ、其儘御座敷に御直りなされ候、其後番衆仕舞ひ申し候、此段清正御生涯御無念に思召され候や、御終焉の譫言に、小野和泉に御胸胆を御見抜かれ、是非に及ばずとの御意となり、或時関東より、御求めなされたる由にて、御秘蔵の嵐鹿毛と申す馬を責めさせ、御覧なされ候処、和泉罷出で候て、天晴御馬にて御座候、年若く御座候はゞ申上げ、一鞍乗り申すべき物をと、申上げ候、其方は右の手叶ひ申さず候に、馬も乗り候事、罷成るかとの御意なり、荒馬をこなし申す事こそ、成り申さずとも、腕切折られ申さざる以前に、乗習ひたるにて、斯様の能き馬には、乗り申すと申上げ候、さらばと仰せられ候て、御乗らせなされ候、一返し地道乗り候て、御前にて、御馬拝領、有難き由、御礼申上げ、直に宿所の様に乗り帰り申し候、あの年寄に出し抜かれなされたると計りにて、則ち拝領仰付けられ候、武士の最大事清正和泉へ、武辺に取りて、何事か成りにくき物かと、御尋ねなされ候に、別なる事御座なく候、よく死に申す事、成りにくき物と、申上げ候、殊の外御感心なされ候となり、

一、立斎様御咄に、数年御試し御覧なされ候に、戦場にて働きたる事を、後には諸人是非共に、飾り立て申したがるべき物に候、和泉武功に誇らず是は我身ながらも、少し足らぬと存じ候故、申すにて之あるべく候、此以前、小野和泉申したるは、鎗場に罷出で張帰り候度毎に、そこの下知たらで、爰の申し様かしく〔くしか〕てと、後に存じ当り候、高鳥居〈筑前国糟屋郡に属す〉計りにて、心一盃に下知仕りたると、存ずる由申し候、屏下にて石に打たれ、倒れ候時、内の者共引連れ候て、引き申すべしと、取寄り候を、和泉に構ふな、蹈散らして乗入れと申し候、是れ計り心一盃の下知仕りたると申し候、和泉が手柄は、斯様の事にて之なく候、崩れ立つたる勢を、立て直す事は、殊の外成り難き物なるに、和泉は引立つて乱れたる勢を立て直し、勝利に仕り候事、御覚オープンアクセス NDLJP:14なされて、四度之あり候、道雪様御代にも、数度左様の事仕り候へども、それをば申すこと之なく候、まだ足らぬ働とばかり存ずるは、誠の侍たる道を存じたる故なり、少々の働を仕り、自慢仕り候事多きは、是非に及ばざる行跡なりと、御意なされ候時、立花壱岐申上げられ候は、最早唯今は、和泉抔斯様なる老功の者、世間にも御座あるまじと、御挨拶仕り候時、又御意なされ候は、此以前薩州所にて、島津中務申し候は、武道は老若に依らず候、乱世武士道顕はる然れども世上の武士道、静謐なる世には廃り申し候、物騒なる時代は、男女猛き心になり居り申し候故、其出生の子も、心甲斐々々しく候、色香を愛し、戯に会交して、出生したる子は、武士も町人抔に変る事御座なく候と語り候、今御尤に思召され候、十時伝右衛門は、十二にて十時新右衛門に仰付けられたり、仕者を新右衛門一太刀切りて、又打たんとする所を飛び県り、首をかき申し候、此十時伝右衛門、十八になり候時、兄の勘解由兵衛と両人にて、仕者を致し候に、長き刀かぶりに打込み、兎角仕り候隙に、勘解由兵衛一人にて、仕舞ひ申し候、成長仕り候ても、男わざの働咄し候時には、十八にて仕損じたる事計りを申し候、是も実の侍心ある故に候、高野喜左衛門は、十三の年豊後より頼み来り、御成敗なされ候平山寿玄と申す大力の大男にて、打手の者共三四人、覚えの者にて候へども、手を出し得申さず候所を飛び懸り、爰を遁すかと申し抱付き、突伏せ申し候、今の村尾の親は、十五になる時、雪嘉と碁を打ち居り申し候処に、秋月〈筑前国遠賀郡に属す〉より苅田に罷出で候に、何れも罷向ひ申すに、雪嘉に鎗を貸し候間、鎗は借し申すべく候、血を付けざる事はなき鎗ぞと、申し候へば、心得申したる由を申し、罷出て候処に、敵早や引取り申し候に付、唯一人素膚にて、秋月が領内まで参り候て、甲首を取り、罷帰り候、総て其時分は、若き者共、斯様の甲斐々々しき事、多く之あり候、殊に時代故と、思召上げらるとの御咄なり、

鳥居の兵粮入一、道雪様御代、高鳥居〈筑前国糟屋郡〉に、兵糧難儀に及ぶ由、大友殿御聞きなされ、御頼みなされ方、別に御座なく候間、道雪様急度御扶持様に、申し来るに付、立花〈筑前国糟屋郡〉 より御馬を出され、斛物御籠めなさるべきかとなされ候処、筑紫〈筑前〉・龍造寺、〈肥前、〉立花の城の隙を窺ひ申すの由、相聞え候に付、小野和泉・由布雪嘉二頭、雑兵二千四百余にて、高鳥居に兵糧御籠めなされ候、其の帰に、秋月〈筑前〉五千余の勢にて、金原オープンアクセス NDLJP:15敝をし切切候、由布雪嘉此段立花の御城に相聞え、道雪様へは御具足を召され、櫓に御上りなされ、小野和泉・由布雪嘉遣され候間、無手なる事は、あるまじと御意なされ、御歯嚙をなされ御座候、扨雪嘉、和泉に申し候は、一手に丸めて、上の口は難所に候間、拙者引き申すべく候、下の口は長場悪しからず候間、和泉引連れ候様にと申し候時、和泉、以ての外腹立にて、雪嘉何方にて、此和泉を左様に見限られ、引きよき方を引くと、承り候やと、申し候時、雪嘉申し候は、尤に候、聊か左様の事にて之なく候、総じて大将なくして、鑓はなり申さず候、若し難儀に候はゞ、美作召連れ候間、某か美作か、一人討死仕るべく候、其方には命の取替御所持なく候間、申したる事に候と、申す時、和泉同心致し、下の口を和泉引き申し候、両方一度に、鑓合はせ候、上の口の鑓も、殊の外強く候間、美作も数箇所の疵を蒙り、膝の皿まで、切落され候、下の口は足場よく候間、上の口より敵勢多く之あり候、和泉も組討仕り、一人仕伏せ申され候処に、敵駈合せ、首を半分程かき候時、立花右衛門大夫〈次郎兵衛と申す衆も之あり候〉助合せ、敵を討ち、和泉助かり候、左様に仕る御隙に、味方の勢黒み立ち、敵勢一度に敗れ候間、和泉一手の勢、則ち勝利に罷成り候、上の口は鑓の最中にて、之あり候に、由井下総由布鉄運親下総、〈一説に相模、〉和泉へ申し候は、同志の儀に候間、苦しからずば助け申したき由、申され候、和泉子細に及ばず候、早々向はれ候様にと申すに付、四五十程にて、上の口近く参られ候処、上の口も敵勢崩れ候間、道より下総は引返し帰り候、和泉、何とて返し申され候やと、尋ね候へば、参り著かぬ時に、敵崩れ申し候間、引返し申すと申し候、和泉感涙を流し、世間の人は、斯様の事をば、我行き向ふ事を、敵見候て、崩れたると、十人は十人申す事にて候、恥しき侍にて候と申す、道雪様へも其段申上げ候、其翌日、昨日手に合ひたる者は、申すに及ばず、下々まで、昨日罷出て候者は、一人も罷出でまじく候、若し罷出で候はゞ、名字闕退仰付けらるべく候、昨日何れも大切の御奉公仕り候間、今日は御旗本計りにて、成程御大切の鎗を遊さるべく候由、仰出され、金原筋より秋月領方へ、御働なされ候へども、敵一人も出合ひ申さず候、総て道雪様へは、少しも飾りたる事を、御嫌ひなされ候故、其時分の覚ある衆、仮初の事にも偽を申さず候由に候、

善導寺を焼く一、道雪様を、善導寺の出家共相謀り、御用を承るべき旨、申すに付、御隠密の御オープンアクセス NDLJP:16使として、後藤隼人・足達対馬両人、未明に善導寺へ遣され候処、草野に内通仕置き罷帰り、御道に百人計り伏させ置き、打殺し候故、草野に御使遣され、善導寺へ御人数出され候間、罷出でられ候はゞ、一戦を遂げらるべしとの儀なり、然れども草野人数一人も出し申さず候に付、善導寺和尚を始め、長老分の僧徒八十人余搦捕り、石松参河入道に下され候、後藤隼人は、参河入道の婿にて之ある故なり、右の出家共、一人も残さず、皆伐捨て申し候、扨寺をも御焼失なされ候に、善導寺大師の木像一つ出し申し候、是は誰が計らひて出し候かと、御詮議なされ候に、新田掃部、某取出し候と申上げ候、何故出し候との御意なり、掃部申上げ候は、私儀は此寺にて、手習を仕り申し候、坊主其悪行をなし候故、寺をば斯様に遊され候とも、寺の号は廃れ申すまじく候、又仏像にも科は御座なく候間、是さへ御座候はゞ、末代寺号の印に罷成るべしと、申上げ候へば、よきと計り、御意なされ候て、其儘召置かれ候、掃部先祖、其上筑後の内木藪辺まで、知行仕り候故、其因にて、斯様に仕り候由、

戸次を立花と改む一、御当家戸次の御名字、立花に御改めなされ候儀、道雪様御望を以ての儀と、之ある儀共、諸人存じたる事に候、いか様の首尾にて、御望みなされたりと御座候儀、慥に存じ候者御座なく候、由布美作咄に、雪嘉存生の時申したるは、鑑俊御討取なされ候以後、立花山〈筑前国糟屋郡に属す〉に御在城なさるべしと、思召入られ候処、脇より立花在城の望、之ある故、道雪様へは、御在城なさるべき儀、定らずと取沙汰仕り候、其節、御在城なさるゝ儀は、兎も角も、討取りの地、其□鑑俊は屋形御兄弟にても、鑑俊よりは下の格式なれば、以来諸方の敵を蹈付けらるゝに於ては、府内〈豊後の屋形と称す、大友宗麟此に居す、〉にての御格式、立花の家に少しも劣りなさるまじく、立花御在城御望みなさるべき由にて、御願ひなされ候へども、支へ申す者、之ある故、屋形 〈宗麟を崇むる号、〉より御免之なく候、御在城の御望は、再三なり難く思召され、然らば御名字を立花と御改めなさるべしと、御望みなされ候、立花〈高く〉と戸次〈卑し〉は豊後の格式、殊の外違之あり、扱立花に御成り候て以後、鑑俊在世の格式の様に、相勤めらるべき儀、屋形より御免之なくとも、達て左様になさるべしとの儀にて、御望みなされ候処、二度まで屋形より、御合点なされずとの御返答故、三度目に多年の忠節皆無に罷成らせられ候とも、是程の御望相叶はせられず候はゞ、思召定めらるオープンアクセス NDLJP:17るとの儀、屋形へ相聞え、立花の名字は、屋形へ不忠の名跡故、御免遊されず候、然れども達ての願たる上は、御望に任せらるゝとの事なり、其節には、訴訟遊され、御免にても、御一世に御名乗なされ候儀、憚に思召上げられ候間、統虎様御代に、立花御名乗なさるべく候御望、相叶はせられ候印に、戸次右衛門大夫に、立花御免なさるべしとの儀にて、則ち右衛門大夫、立花を名乗り、道雪様御逝去の一年前より、統虎様立花御名乗り遊され候、此段は美作も、覚え居り申す由に候、扨道雪様、立花御在城の儀は、筑前国中乱れ立ち候に付、初め望みたる人、在城なり難く存じ、望を止め申すに付、屋形より道雪様へ、此間御望と之あり、其上毛利家の押に、誰彼と候ても、御老功の儀に御座候間、道雪様御頼みなさるゝとの儀にて、御在城なされ候、

一、由布美作申され候は、鑑連様〈戸次伯耆守鑑連、入道麟伯軒道雪、〉御法体の時は、屋形より宗麟の麟の字進ぜられ候、御用ひなさるべき由に付、麟伯様と申し候、其後段々豊後の沙汰悪しくなり候時、中国より参り候禅僧に御遭ひなされ、次第に御年も傾ぶかれ候、少しも義に背かれば、御謝世なされたく思召上げられ候、御名にも左様の心ある名を御用ひなされたく、思召さるとの御意なり、禅僧申上げられ候は、左様にも思召され候はゞ、道雪様と御名を御用ひなされ、然るべく候はんや、道に降りたる、雪道にて消え申したる儀を、御取りなさるべき由、申上げられ候に付、大に御満足なされ、初めの御名は軒号になされ、麟伯軒道雪様と申したるなり、

宗茂の幼時一、統虎様御養子の時、御年十六と諸人普く申し候、然れども立斎様御咄に、九つの御年、道雪様御一所にて、御膳召上がらるゝ時、鮎を御むしりなされ候を御覧なされ、武士の御作法御存知なく、女の様なる御所体、物の用に御立ちなさるまじとて、殊の外の御叱に御遭ひなされ候との事なり、又十三の御年、道雪様御同道にて、栗のから多くこれある所を、御通りなされ候に、御足に栗のいが立ち候間、之をけ候へと、仰せられ候時、由布源五兵衛〈雪嘉俗名〉立寄り、手にて押揉み候故、一入御痛みなされ候へども、御痛みなされ候と、仰せられ候儀、御成りなされず、殊の外御難儀なされたると、御咄なり、

一、多々良浜〈筑前国糟屋郡〉の御合戦の時、〈名字は高森、名は知らず、〉よく矢を送られたる者あり、其矢の主、翌日の合戦に、戸次丹波守内何某といふ、敵方より送りたる人の名をいうオープンアクセス NDLJP:18て、又参らせ候と、小刀の先にて彫り、上に血をすり込みて、又比類なく相働き候、此事を世間に聞き違へ、道雪様御一手の弓の者共は、皆斯くの如く仕りたりと申し候は、僻事なり、此段薦野玄嘉、柳川へ筑前より御入部の御祝儀に参り候節、咄し申され、慥なる事なり、

車返の陣一、道雪様、肥後車返の御陣の時、所は難所、敵は三方より取囲むに依り、御人数を引取らるゝ事、何ともなり申さず候、合志〈三池先祖〉某三千計りの勢にて、御味方に参られ候、道雪様より海老名肥前御使に遣され、合志方へ御加勢として御出陣、御大慶なされ候、屋形様へ具に仰上げらるべく候、併し御防戦御手に及ばせられず候はゞ、御加勢あるべく候、先づ夫へ御控へ候て、御見物あるべき由仰遣され、御馬より御下りなされ、阿蘇山〈肥後国〉へ御向ひなさる、諸人承り候様に、戸次伯耆守鑑連〈[#「連」は底本では「運」]〉、十四歳にて初陣より、今日に至つて、度々の合戦に、一度も他家の扶助に預からず、終に後れを取らず、若し今日の合戦に勝利なくば、譬ひ他家の合力にて、戦死を遁れ候とも、生きたる甲斐あるまじ、唯願はくば、阿蘇大明神熟覧之あり、速に勝利を得さしめ給へ、申す所、少しも不義の心あらば、立所に利を失ふべしと、御観念あつて、御拝なされ、御馬に召さるゝと其儘、白生の鷹〈白彪の鷹か〉一つ飛び来りて、御幟のせみに止り、足振ひ仕り候、之を見て、諸人一同に涙を流し、御利運疑なしと、勇みかゝり申し候、其時迄は向風にて之あり候が、俄に追風になり、御旗色悉く直り候を見て、敵方より人数を引払ひ候故、何たる事も御座なく候、是は小野和泉御供仕り、共に見届け申したる事故、不思議なる事の由、度々咄し申したるとなり、其後道雪様御一代、終に鷹御使ひなされず、宗茂様も右の御沙汰聞召し及ばれ、御鷹は召置かれ候へども、終に御鷹御すゑなされず候なり、

小刀と脇差一、立斎様へ立花壱岐申上げられ候は、仍て某事数年御奉公能く相勤め候ふ、地にても下され候儀は、如何御座あるべくやと、申上げらる、御意に、此以前結城宰相殿、家康公へ、戸田三郎右衛門、数年の間、御奉行能く仕り候間、御加恩仰付けられ、然るべしとの御取合に、家康公仰せらるゝは、小刀は度々使ひて、用を達すれども、さして馳走もせず、刀脇差は一代に多くて五度か三度か、命をかばふ用に立つ故、殊の外に崇敬するなりと、仰出されたりと、聞召し及ばれたるとの御意、之ありしとなり、

オープンアクセス NDLJP:19家康の人の遣ひ方一、立斎様御咄に、本田平八殿へ度々御参会なされ候段、御咄に、家康公、若く御座候時より、何事にても、はきと御意なされず候故、自然はもどかしく存じ候、我等共年寄り候て、自分の家来の者使ひ立て候て、存じ当り候、上より下の事は能く見ゆる物にて候、能く見ゆるに任せて、善悪を申すになりては、下たる者は、一切頭は上り申さず候、家康公は此所を以て、下を御厭ひ遊されたると、存知たるとなり、依て武蔵守様へも、之をこそ折々申上ぐるとの事なり、大将たる御仁体と、下ざまの替りたる所、格別の儀ありとなり、

本多忠勝の訓戒一、立斎様御咄に、伏見にて本多平八殿に、武蔵守様〈台徳院様か〉御入りなされ候に付、立斎様も御出て候様にとの御事にて、御相伴の御人数に御成りなされ候、御料理の上に、平家を御聞きなされ候に、平八殿、忠度の最後を語らせられ候、国々の狩武者なれば、一騎も落合はずといふ所にて、平八殿申さるゝは、武蔵守様を始め奉り、何れも若き御方は、此所を肝要に御聞きなされ候へと、申されたるなり、又御馬の咄になり候時、平八殿申さるゝは、左近様御せい高く御座候間、御用馬に大馬御好みなさるまじき由、申さるゝとなり、

本多忠政一、本多平八殿嫡子出雲守殿へ、日本無双の勇力と相聞え候、大坂冬の御陣に、家康公より、急にかゝれとの御下知なり、出雲守殿、是は御無体なる上意なり、此深沼を何と越さるゝ物か、直に申上ぐべしとて、御前に罷出で、其段申上げらる、上意に、猛勢に切る所なしと云ふ事を知らずや、親には劣りたる物かなと、仰下さる、出雲守殿、則ち御前を立ち、親に劣るとの上意の上は、生きて詮なし、沼に入りても、死ぬるは同じ道ぞとて、打入らるゝを見て、三千余人の人数、一度に打入りたれば、誠にたけも及ばぬ沼なれども、何の障もなく、向へ打上らるゝ、其手に敵出合はねば合戦はなし、無理乗せんとあるを、家来共鎧にすがり、取止めたり、其後扱になり、両御所様京都御逗留の内、村木蔵に火事之ある時、焼死たるべき覚悟にて、一足も引かず、即時に蹈消され候、翌年夏陣に、大坂の大手天王寺口にて馬週くに、七八騎真一文字に駈合ひ、時を移し、大勢を駈散らし、終に戦死なり、

東軍関ヶ原に進む一、関ヶ原合戦の時、加藤求馬之助殿・福島左衛門大夫殿、御譜代には井伊掃部頭殿・本多平八殿を始め、大名衆十三人、御先として、関ヶ原に宿陣あり、各関東御オープンアクセス NDLJP:20出馬の到来、相待たれ候処、小栗大六御使にて、何れもへ仰下され候は、思召し上げらるゝ旨之ある故、なさるまじとの御意なり、掃部殿・平八殿、上意の趣、合点に及ばれず、是程の御大事に、御馬出さるまじとの儀当地在陣の面々、承られ候はゞ、所存も如何に御座候、屹度何様の思召にて、早速御出馬なくては、成り難き由、申上ぐべしと、大六へ申談ぜらるゝ、大六相心得たしとの返答にて、諸大名列座の所へ罷出で、御出馬なさるまじき由の御意の趣、少しも残さず、申渡し候、何れも興を醒し、如何仕たる事よと怪しみ、詮議ありて、兎角申さるゝ人なし、左馬之助殿申さるゝは、是程御尤の御意なし、大勢爰許に罷越し、数日になり候へども、迫合にても一度仕らず候間、東陣の家々に、御心を置かせられての御事に候、明日我等先を仕り、岐阜〈美濃の内〉の城を乗取る程を申上げ候はゞ、御馬は即時に出で申すべく候と、申さるゝ時、何れも尤の由にて、翌日岐阜城に取懸け、即刻城を乗落し、首注文を以て、言上の便相届け候と其儘、御馬出さるゝの由、立花壱岐へ棗目九太夫咄なり、井伊玄蕃殿〈掃部殿の事〉咄も同前なり、

小牧山の戦一、家康公、尾州信雄の御頼に依つて、尾張へ御出勢の時、秀吉公の御方にて、弓矢覚え候面々評定に、家康公、信雄へ合力あらば、御人数を分けられ、小牧山より参河へ働かせらるゝに於ては、家康公尾張へ出勢なるまじく候、其時は信雄御退治易かるべしとの事にて、秀次公大将にて、大勢にて小牧山へ〈尾州〉向はる、此事又家康公へ聞え、小牧山へ御人数差向けられず候ては、敵参河へ働き申すべしとて、井伊万千代を大将となされ、□千余差向けらる、其節仰付けらるゝは、今度の敵を常体の如くに侮り、小牧山を越え、平場の合戦、堅く無用たるべし、敵譬ひ敗軍たりとも、小牧山を越え、相働くべからずと、堅く仰下けらる、秀吉公より秀次公、其外池田勝入以下へ、仰含めらるゝは、今度小牧山へ敵出向かば、かゝつての合戦無用たるべし、敵譬ひ敗軍仕るとも、山をさして、引取候はゞ、追付無用に仕るべしと、仰付けらる、扨小牧山にて両勢対陣に及ぶと其儘、上方勢進み懸つて、山を指して押上る、万千代殿備は、峠に立て置かれたり、小勢といひ、若き万千代大将なれば、さしての事あるまじと思ひ侮りての事なり、然るに万千代殿へは、武田家譜代の武辺功者共、余多之ある事なれば、敵の高競して懸かるを見すまし、備を立て設けて、よき程に待ち請けて、突いて懸る、見上げと見下しの鑓の事なれオープンアクセス NDLJP:21ば、上方勢一たまりもせず敗軍なり、万千代殿の手の老功の者共、家康公の御下知といひ、殊更敵は大軍なれば、長追して息を切らし、敵の二の手に当てられなば、却て味方利を失ふべしと、急に人数を追留らんとするに、万千代殿若く候故、敵の崩るゝを見て、無二無三に追懸り、小牧山をおり下らる、上方勢の後勢、勝入を先として、覚えの侍大将にて、控へたる所に、万千代殿追懸けられ候間、一溜もなく敗軍なり、覚の者共大勢討死仕り候故、万千代殿は漸く峠まで引取らるゝ、家康公より大久保七郎右衛門殿・大須賀五郎左衛門両人の内、一人急度小牧山へ参り、合戦仕りたるか、対陣計りか見届け、註進仕り候様にと、仰付けられ、一万余の御人数にて、小牧山近く御馬を向けらる、大須賀駈付け、万千代敗軍の様子見届け、急に引返し、鑓の最中にて御座候、御馬を向けられ候はゞ、則ち御勝利疑なしと、申上げらると其儘、御人数を進められ、押付けらるゝに、万千代殿、峠に引上らるゝ所に、御人数の先手も、峠に押上る、上方勢勝に乗つて、進み懸る所を御旗本覚の衆、自身鑓を合せ、一手も合はず、上方勢を追崩す、秀吉、此由を御聞き、急に旗本を進めらるゝ、此時篠才蔵は、秀次公の御近習にて、遥に先に懸り候が、其儘馬を乗返し参り候間、秀次公、才蔵、日頃の口に違ひ、きたなし、返せと仰せらる、才蔵、此敵は鑓の成る敵にて御座なく候、御馬を返され候へと申上ぐる、夫れにも御構なく、三度迄返せと仰せらる、才蔵、勝てば勝つ程、備固まり、段々後勢次第よく附き来り候、是に合ひては、鑓仕るべき様なしと申せども、猶ほ御承引なし、才蔵腹を立て、くそくらはしめせといひて、引退きたり、秀次公御勢、才蔵申すに違はず、一溜もせず敗軍なり、池田勝入、〈滝川左近か、森武蔵守か、〉是等を始めとして、大勢討死なり、家康公則ち、御勢を清洲〈尾州〉に入れられ、小牧山の陣を引払はせらる、一説、峠に大久保七郎右衛門に、其日手に合はざる人数三千相添へ残し置き給ふともいふ、秀吉公、味方敗軍の次第を聞召され、其儘御人数を進められ候へども、家康公御人数を入れらるゝ故、秀吉公御退陣なり、此時尾州清洲の鯉、三年風味悪しかりしとなり、

花房助兵衛家康に仕ふ一、花房助兵衛は、小早川隆景〈一説浮田中納言殿〉の家来、元来比類なき覚の侍なり、然るに太閤より、御勘気の事あり、家康公御不便を加へられ、御執成に依つて、助兵衛は佐竹殿へ御預になる、其子十歳の内外に罷成る男子之あり、いか様家康公御内意オープンアクセス NDLJP:22御座候や、江戸小〔石カ〕川の寺に預け置き、其後家康公御鷹野御序に、右の寺へ御腰を懸けられ、助兵衛辰御覧遊され、召仕はるべきの旨、仰出さる、何者の子とも相知れ申さず候間、名字如何名乗らせなさるべくやと、上意候時に、榊原式部少輔、某名字分け、名乗らせ申すべき由、申上げられ、然るべしとの仰にて、則ち榊原何某と名乗り、御奉公申上ぐる、関ヶ原一乱の時、景勝より佐竹殿へ、今度の儀にて候間、偏に合力相頼まるゝ由、申談ぜらる、佐竹殿承引なり、右の助兵衛が家康公御思深く蒙りたる故、御旗本へ参り、今度御奉公仕りたき由、申し候て、家康公へ参り、則ち御前へ召出され、今度上方の逆徒誅罰の為め、御馬を出さるゝ、其留守に、景勝は江戸へ相働き候に於ては、佐竹も一味仕り、罷出づべくや、助兵衛事は、佐竹家中の儀、委細存ずべく候間、申上ぐべき旨、仰出さる、助兵衛申上げ候は、佐竹は罷出づまじく候、元来律義なる生付にて、景勝に余儀なく相頼まれ、心得たると申す首尾にて、景勝御退治の討手の御断申され候、御当家へ敵対仕る程の儀は、少しも之あるまじく候と申上げ候、家康公御意、然らば佐竹罷出づまじく、通り能く存じ候はゞ、神文を以て申上げよとの事なり、助兵衛、神文を以て、申上ぐる程に、慥には存ぜざる由、申上ぐる、其後関ヶ原御勝利の後、助兵衛に五千石下され候、助兵衛存じ候は、いかに少地にても、一万石は下さるべしと存じ候処、相違の事に思ひ、老年に罷成り、召果され候節、子共を呼び、申さるゝは、御当家にて、一生此つらにて、斯様に罷成り候は、先年佐竹罷出づまじき段、神文を以て申上げよとの御意之ある所、其時心付之なく、神文仕らざる故なり、其神文仕りたればとて、何の紛にも、立つ事にあらず、唯諸人に佐竹罷出でざる事を、御知らせなされたくとの思召にて、仰付けらるゝ事存寄なく、此仕合なり、武将に御奉公申上ぐるは、能々心の鍛錬なるべき由申置かる、島原一揆の時、肥前陣より出丸一番乗、罷仕りたる榊原は、右の助兵衛為めには孫なり、

一、道雪様へ武田信玄より、九州にて名誉の御働聞召し及ばれ、御対面なされたしとの御状参り候、是は偏に、山僧持参仕り候なり、道雪様御逝去の跡に持参りたり、今に之あり、

島原の乱と宗茂一、島原一揆の時分、戸田左門殿、宗茂様御下著候て御遭ひ、様々の御物語共之あり、御幼少より方々御陣の儀、聞召し及ばれ、権現様御供にても、御覧なされオープンアクセス NDLJP:23候、斯様に城下に陣を取寄せ、浅間なる様子、終に見及び候事、之なしとの御意なり、宗茂様、御尤に思召され候、此の如く取詰め候城の仕寄は、成程丈夫に竹束なども断替へ、柱の根入深く仕り候が本にて候、是は細き柱、其上、根入浅く之あり候間、何の用にも立ち申すまじく候との御意なり、左門殿仰せらるゝは、諸家の旗・馬印、珍しき物好共、見え申し候と之あり、次手に、権現様厭離穢土欣求浄土の御旗は、色々申伝之あり候へども、慥なる事之なく候、家康の旗印縦へば御宗体浄土宗にて御座なされ候故、御宗体の要文故、御用ひなさると、大方申す事に候、実は家康公、参河に御座なされ候時、今川氏真より、美しき小姓を、作り牢入申付け、隙を以て、家康公を討ち奉れとの巧之あり候に、日所作御修行なされ、或時夜深く御目を醒され、御床の御寝道具は、其儘にて召置かれ、御珠数御手に懸けられ、念仏唱へなされ候処、右の小姓刀を抜き、御夜著を二刀刺し申候を、御覧遊され、其儘御手籠めななれ、御殺し遊され候、其節、此体を御遁れ遊され候は、念仏御修行の功徳と御座候と、御歓喜の余り、此文を御旗に御用ひなされ候、然れども彼小姓御殺し遊され候儀、敵方へ少しも知れ申さず候様に、深く御隠しなされ候、御意に叶ひ、常に御寝所に計り、召置かれ候と、取沙汰仕り候故、敵方にはいつ首尾を合せ候やと、夫を頼に仕り、何たる手立もなく、日を暮し申し候、御隠しなされ候事故、御旗本にも之を存じたる者、今に多くは之なく候、又間に之を承り違ひ、清康公の御時、織田弾正忠、此巧仕られたると申すは、僻事にて之ある由、左門殿御咄なり、家康公は此事の後、男女に限らず、夜御傍に召寄せられざる様に、遊されたるとなり、

一、細川三斎・御振舞の上にて御咄、小田原落城の時、氏康集め置かれたる旧記、余多之ありたる内に、平知盛の噂記したる〔書カ〕、御座候を見たる由、語り申す者之あり候、一谷の合戦、平家敗軍に及び候処、児玉党より使を以て、知盛へ知らせ候処、知盛其使者を討たせられ候、児玉党之を憤り、打つて懸り、既に知盛を討ち申すべき処に、武蔵守知章・監物太郎抔、討死の際に、漸く落延び申され候より、其時、諸人の沙汰に、詮なく使者を討たれたる故に、子を討たせ、郎等を討たせ、一方ならぬ不覚と云ひたり、扨後に源氏より平家を攻むる時、一谷の合戦に、平家の一族余多討死なれども、よき大将は一人も討たれず、取分知盛などは、大剛にオープンアクセス NDLJP:24して、さばかり急なる所にて、しかも身の為めに、なる事を知らせたる使なれども、落つべき覚悟なく、討つて捨てられたるは、大方ならぬ勇気なりといひて、源氏より奥深く、思ひなしたるとなり、此使討ちたるが能きか、討たぬが能きか、此是非を家康公御前にて、評判仕れと、御意御座候へども、何れも兎角申上げたる人なかりしとの御咄なり、

一、関ヶ原御陣の時、家康公、大友宗五郎殿に御遭ひ遊され、手を御取りなされ、今度逆徒御打果しなされ候事、御手の内に握られたる事に候、相構へて若気にて、先駈を好み、身を捨てらるまじく候、豊後の国守、論は之あるまじとの上意なり、然る処義統逆心の到来之あり、則ち宗五郎殿へ、存じたるか存ぜざるかとの上使あり、宗五郎殿は少しも御承知なく候へども、義統左様の企を仕り候上は、上意の御請けなさるべき様、御座なく候と、之ある時、山田平内〈名しかと覚えず、名字は慥に山田なり〉 申し候は、昨日も山くゝり余多参り候、色々の沙汰御座候、是も左様の儀に御座あるべしと申し候、然れども義統の謀叛、追々に註進之あるに付、扨は宗五郎殿も、内々存ぜられたる事なるべしとの儀にて、御供に召連れられず候、常々御寵愛なされ候故、其分にて召置かれ候、終に牛込にて御死去にて候、御尋の時、父子格別の儀に御座候間、御赦免を蒙り、御供仕り、御馬の前にて、兎も角も罷成りたくと、御請けなされ候へば、今少しは能き首尾にてありたりとなり、右の通り本多佐渡守御直の御咄なり、

立花三太夫一、伏見にて太閤様御代に、宗茂様島津殿へ御振舞御出でなされ候御供に、頭に立花三太夫召連れられ候、囲に御入りなされ候て後、〈名字失念、〉四郎兵衛〈島津殿番衆なり〉罷出て、三太夫方へ申し候は、只今囲にて感集院興簡〈俗名左衛門〉を薩摩守手討仕り候、興簡家来へ其段申渡し、異議申すに於ては、残らず打果し候筈に申付け候、左近様御供衆、何れも御一所に、御片寄り御座なされ候様、なされ下さるべく候と申し候、何れも年寄りたる者も、如何申して然るべくやと、あぐみ存じ候処、三太夫は二十歳内外にて候故、脇より何程に答へ申すべくやと、気遣ひ申し候処、三太夫申し候は、我々罷有り候こそ幸に候間、若し打果され候首尾に候はゞ、御加勢仕りたく候へども、何れを興簡家来、何れを薩摩守衆と、分明に存ぜず候間、御加勢は仕り難く候、何方にても御屋敷内に、警固仰付けられ然るべき所、御差図次第、左近供の者オープンアクセス NDLJP:25共へ、相堅めさせ申すべく候と申し候時、四郎兵衛申し候は、御念を入れられ候儀忝く存じ候、左候はゞ、玄関の右の道より、屋敷裏への往還之なき様に、御警固なされ下さるべく候と、申すに付、其通りに仕り候、其後四郎兵衛、此方御屋敷へ参り候て、三太夫殿御心入の段、薩摩守へ申聞け候、殊の外満足仕られ候、年寄りたる者も、左様に差当る才覚罷成るまじく候、常々左近様へは、若き御供頭、召連れられ候と、我々も存じ居り候処、三太夫殿先日の御働を以て、左近様御目がね強き段、驚き奉り候由申し候、興簡家来共、異議に及ばず、退散仕り候故、騒動に及ばず、静りけるとなり、

一、伏見御城普請の時、備前中納言殿足軽と、御家の足軽と、口論仕出し、中納言殿の足軽を一人打伏せ候、御家の足軽も、両人手負ひ候て、互に騒動仕り、普請場を引払ひ、罷帰り候、浮田秀家と宗茂の確執中納言殿とは、屋敷向にて御座候処に、中納言殿殊の外、腹立にて、宗茂様御屋敷へ押寄せ、憤を散ぜらるべき由、仰せらるゝに付、中納言殿御一家の面々、段々中納言殿屋敷へ相集まられ候、宗茂様は浅野弾正殿へ、御兄弟様共、御振舞に御出での御留守にて、薩摩殿よりは、右の四郎兵衛、足軽五十人・騎馬八騎相副へ、屋形へ参り、立花参河へ、何角にても、差図次第、相堅め申すべき由申し候、大友殿よりは、朽納たくみ右近上下六十人にて参り候、其外安国寺・石田治部少輔・藤堂佐渡守殿、彼是日頃御入魂の大名衆十一人の御手前より、思々の御加勢、御見舞参り候、御隣屋敷は武蔵守様なり、本多平八殿より使を以て、武蔵守殿へ申付け候は、騒動の旨趣は、存ぜられず候へども左近将監殿屋敷、相替り候事、之あるに於ては、此方屋敷筋へは、少しも御心遣あるまじく候間、左様に思召さるべしとの口上なり、之を承届け、御屋敷中も下々まで、心強く存じ候、中納言殿屋敷へは弓・鉄炮を持たせ、諸方より引切る間も之なく、駈集り候間、屋敷中に居余り、門外までひしと相備へ罷在り、両方の長屋の窓を明け、足軽共論仕り候て、若き侍共は、門外へ罷出て、寄せられぬ先に、勝負を初め申すべしなど、騒ぎ申し候、然れども御留守居の家老中より、堅く制し申す故、門外へは罷出でざる由、路を隔て、飛礫を打ち、弓を射懸け申し候、中納言の二階門の上に、中納言殿の甥子羽柴左門かと申す仁、小姓一人召連れ、窓より此方屋敷の内を、相窺ふ様子に候所を、京都みやこ兎角兵衛、弓を以て、左門をねらひ射候へども、射はづし、脇に居オープンアクセス NDLJP:26し小姓を、一矢に射殺し申し候、夫れより猶募り立て申し候、宗茂様へ段々註進申上げられ候を、御聞きなされ、浅野殿より、御兄弟様共に、中納言殿へ御出でなされ候、立花殿は是へ参りたるぞと、はし申し候へば、何故に是程の催に、うかうかと参らるべくや、人違たるべしと、皆々申し候処、門の内へ御入りなされ候へば、中納言殿は玄関へ御出で候て、何か御下知なされ候処、傍へつと御寄りなされ、私の家来共、粗忽なる儀を仕り、御腹立の段、承届け候間、御断の為め、参上致し候と、仰述べらる、中納言殿異議に及ばれたる御返答も候はゞ、左に宗茂様、右に主膳様、御供には十時新四郎・石松安兵衛・今村五郎兵衛・安東伴之助・池部龍右衛門・十時摂津・十時但馬、是等を始めとして、場数覚の者共、老若十八人各片唾を呑み、御後に引つ副ひ、中納言殿衆も大勢罷出で、何れも御供の衆、さがられ候へ下られ候へと、度々申し候へども、少しも耳に聞入れ申さず候間、中納言殿も、暫し兎角御返詞之なく候へども、難儀に思召し候や、御手前に是まで御出で候て、断之ある上は、子細に及ばず候、以来無礼の儀、之なき様、家来中へ仰付けらるべしとの御挨拶なり、宗茂様御兄弟共に、御自分様へ御承引の上は、何か之あるべく、御家来中の騒を、相止められ候へと、御挨拶なされ、仰の通り、定め御聞けあるべく候と、高々と仰せられ、御帰りなされ候、方々より、御見舞の人数、それに御礼仰述べられ、御返しなされ候、武蔵守様へは、早速御礼に仰出でなされ候、押付本多平八殿御見舞にて、夜更まで、御酒盛なり、平八殿、中納言殿へ参られ、弥〻御和談候様御扱なり、それ故先づ上向は、無事に相済み申し候、

一、備前中納言殿、右の意趣を以て、宗茂様へ便宜次第、強き御返報之あるべき由、内々其御企御座候由、日頃宗茂様へ御入魂の御方より、御油断あるまじき由、御内意共之あり候、伏見・大坂御登城の節、石松安兵衛・安藤津之助、其外にも腕を争ひ候若き侍中、御供定の人数の外、御城内へ入れ申す事、なされず候に付、袴を脱き、脇差計りにて、御草履取に替へ、御城内へ入り申し候、是は御城内にて、宗茂様を手籠に、仕らるべき聞え之ある故なり、島津殿・浅野殿、其外親しく御出会ひ候御間柄の御家来は、近付き多く、能く存知候故、御城下りなされ候て後、参会候へば、いつ侍には仰付けられ候やなどと、雑談申したるとなり、或時伏見にて、中納言殿御供大勢召連れられ、船遊に御出で候処、宗茂様御通り合ひなされ候、御オープンアクセス NDLJP:27供中、すはや事出来りぬと存じ、跡へ御駕返し申すべくやと、御窺ひ候へば、少しも苦しからず、道は半分に分つて通る習なり、御駕を常の通に、舁き通し候へと、御意御座候故、真直に通し申し候処、中納言殿と船に御乗りなさるべしと罷成り候が、是は誰かと、高声に御尋ねなされ候に付、御供中も、既に大事出来と、存ずる処に、石松安兵衛・小野七郎、〈長左衛門事、〉袖を引き申すに付、立止り候へば、石松申し候は、中納言殿衆大勢押懸け候とも、小路鑓の儀に候間、鑓二本にて支へ候はゞ、殿様へは、何たる御難儀もあるまじきぞと、申すに付七郎も跡にさがり申し候、御屋敷よりは、浮田殿へ御行遭ひなされ候て、既に事に及び候由に付、立花吉右衛門・十時摂津・池部龍右衛門抔を始め、皆はだせ馬に乗り、自身鑓を持ち罷出で候間、御屋敷には、小野和泉一人残り居申し候、都合鑓を下げ、駈付け候侍七十六人之あり候、然れども中納言殿御供中、はたと騒ぎては、見え候へども、何たる事も之なく候、自然聞えたる事、之あり候はゞ、中納言殿は、なか安穏なるまじと、諸家の取沙汰に御座候、御帰りなされ候て後、小野七郎召出され、いか様の儀にて、御跡に下り申し候やとの御尋なり、七郎申し候は、安兵衛斯くの如く申し候に付、両人にて相支へ申すべしと存じ、御跡に下り申し候と、申上げ候、其時、仰せられ候は、其方共はまだ若輩にて知るまじく候、彼安兵衛が親を源五郎といひて、隠なき覚の者なり、道雪様御代に御成敗なされ候者、親子三人之あり候を、彼源五郎に仰付けられ候、先づ親を一人呼び候て、討果し候へ、子供は其後余人に仰付けらるべしとの事なり、然るに源五郎三人共に呼寄せ、先づ親を切伏せ候処、子供両人抜合せ、切付け候子をも、一人は即座に切伏せ候処、いかゞ仕り候や、刀鍔本より折れ候て、既に難儀に及び候時、後より相手を長刀にて、突通し申したる故、何事なく仕舞ひ申し候、何者が突き申したると存じ、内に入り尋ね候へば、家来共は、聞付けざる由、申す故、不審立て候処、女房申し候は、替りたる物音仕り候間、差覗き見申し候へば、切合はれ候間、長刀にて突き申し候といひて、苧をうみて、少しも替りたる気色も見えず居たると、聞召し及ばれたり、左様に大剛なる者共より、夫婦して持ちたる子なればこそ、唯今二十の内外にて、健なる心立て之あり、彼源五郎、後に隼人と御呼び候へども、断り申し候て、源五郎にて罷在り候、岩屋〈筑前三笠郡〉へ御使に遣され候処、敵勢既に取囲み申す時の事に候故、返事オープンアクセス NDLJP:28は申さず候ても、其分の事に候、是にて討死なり、御供仕るべしと申し候に付、紹運様も達て御止めなされ候へども、承引仕らず候、申分聞えたる道理に候故、高橋を免し、越前になされ候、申したる詞を違へず戦死致し候、斯様の者は、何年過ぎ候ても、惜しく思召し上げられ候て、忘られずとの御意なり、

一、大坂御陣の時、〈寄口失念〉橋を出て、城より夜討あり、家康公御近習の若侍衆に仰付けられ、夜討の次第見届けさせ遊さる、橋を越えて、誰人の陣場、夜中何時に、敵勢何程計り、誰某家来何人討死仕り、手負ひ申したる抔と申上ぐる、是にては埓明かざる由、御意なされ、段々三人迄、仰付けられ候へども、何れも同じ口上に申上げ候、小栗大六の斥候小栗大六を召して、急に見届け参り候様にと、仰付けらる、大六陣所へ罷. 帰り、粥など拵へ、緩々下られ罷在り候、まだ罷帰らざるやと、段々に御使御座候へども、少しも急ぎ申さず候、大六子息御近習に罷在り候故、傍輩中より遣し候て、大六急がれ候様にと申し候、然れども大六、酒など存分に給べ罷越し、頓て帰り、申上げ候は、橋を出で、二十間右の方を打ち申し候、味方より早くすけ合せ、押返し、橋の半まで追ひ申したると、申上ぐる時、御意なされ候は、打様少しさがりたるなと仰せらる、大六其通りに候と、申上げ候、又御意に、何れもよく仕合ひたると計り仰せられ、御座を御立ち遊され候、最前具に申上げたるには、御合点遊されず、大六あらと申上げたるにて、其儘御合点なされたる事、諸人不審に存じ、大六子息を相頼み尋ね候、夜討の仕様、さがりたるなとの御意は、如何様の事にて候や、大六、斯様に取詰めたる仕寄に、城より夜討する時は、譬へば橋を出て打つにもせよ、又は一筋の道にもせよ、行当る真向ふは、用心厳しき故、打つても利なし、十間か十五間脇に寄り、柵にても竹木にても破るものなり、二十間とはさがらぬものなり、跡を取切らるゝ故なり、今度の夜討は、二十間脇を打ちたれば、少しさがりたるとの御意なり、又問うて云ふ、仕合ひたるこそ幸なれ、味方より橋を越え、付入り候ても、相働き然るべきに、橋中まで追ひたるを、よく仕合はせたるとの御意は、如何仕りたる儀に候や、大六申さるゝは、総て夜討などに出て候時は、敵付来らば、如何様にしても、討取るべしと、兼ねて相図を仕置く物なり、夫故橋の中にて、追留りたるを、よしと御意なされたるとなり、

大坂夏陣に於て宗茂の勇戦一、大坂夏御陣に、宗茂様より、加藤左馬之助殿へ、浜武助兵衛御使に遣され候、オープンアクセス NDLJP:29左馬之助殿は、昼弁当召上がられ候処へ参り候、左馬之助殿御陣場より、宗茂様御陣場、程遠くは候へども、一目渡に見え申し候、左馬之助殿仰せられ候、立花殿御痛はしき事かな、戦死と思召し究められ候、馬を立て直され候と、仰せられ候間、助兵衛、不思議に存じ居り候、御返事承り、罷帰り候半途にて、宗茂様御備の左右の陣、悉く崩れ候、之を見候て、御家の人数も、其儘騒ぎ立ち申し候、然れども御譜代の侍に十九人、新参には川村次郎兵衛・藤田弥右衛門・益子市郎右衛門・大屋十左衛門、此外二人、以上廿五人、一足も引き申さず候、本より宗茂様は、御馬を立てられたる所より、諸勢崩るゝを御覧なされ、成程静に御馬を十二三間先へ進められ候、諸家の陣崩れ申すべき様子を、早く御覧じ付けられ、御馬を立て直され候を、左馬之助殿は、其儘御存知なされ候へども、別に知りたる人之なく候儀、恥しき事なり、宗茂様御人数も崩れたり、敵出合ひ候はゞ、即刻御戦死の御覚悟も、之あり候へども、御備に敵当り申さず候故、御別儀なし、其時新参にて、振能き六人は、何れも歩行組にて、無足に候へども、馬に乗り、御供に罷出で候、其後今度新参の内に、物の用に立つべき者、之ありとの御意にて、何れも御取立なされ候、

一、大坂御陣大手口、伊井掃部殿御難儀に及ばれ、小笠原信濃守殿へ、急ぎ御助け候様にとの使なり、小笠原殿陣場よりは、中に沼を阻てたる所なり、掃部頭へ相代り候様にとの上使も之あり候処、信濃守殿・御嫡内匠殿父子、二千四五百の勢にて、右の沼を迴り、敵相なり、急ぎ助けられ候様にとの上使の上に、掃部殿より櫛の歯を引く如く、此方の人数、今朝より散々草臥れ候間、御代りなされ候様にとの使故、備の乱るゝをも顧みず、押懸られ候に、掃部殿の人数は、はや残らず崩れ散り申し候、勝に乗つて競ひ来る敵に、小笠原勢乱れて懸り候間、立足もなく、信濃殿・内匠殿戦死なり、内匠殿の舎弟右近殿は、当年十八になられ候が、何れも沼を迴り候を、もどかしく思召し、手勢百計り沼に打入れ、直に押懸らんと遊し候へども、殊の外の深田にて、信濃殿・内匠殿の跡より、打上られ敵相なり、右近殿も十九箇所の疵を蒙られ、既に鑓玉にあげ、鑓三本にて、中に衝貫き、持上げ候処を、右近殿の歩行士渋谷勘解由・横田佐野右衛門と申す両人すけ合せ、敵を追払ひ、右近殿を勘解由肩に懸け、引取り申し候、右近殿、半死半生にて御座候へどオープンアクセス NDLJP:30も、内府様・将軍様御前へ、苦しからず候間、肩に懸りながら、罷出て候様にとの儀にて、渋谷・横田両人にも、御直に御褒美の上意之あり、渋谷が肩に懸り、無性になり御座候を、横田後を叩き、少し目明しめせ、此方が如き者は、外様に罷在り候故、斯様の難儀に合しめずと、悪口仕り候故、快気の後、渋谷は大身に取立てられ、横田は前後不覚の疵を蒙りたればとて、悪口を仕り候儀、比興に思召すとて、渋谷よりは小身なり、両人共に、権現様より御直に召出さるべしとの上意に候へども、御断を申上げ、罷出でざるなり、実の武士なり、

一、関ヶ原御勝利の後、京都に於て、将軍様より〈浅野紀伊守殿か、慥に仁体を覚えず、此列の大名〉其働御感なされ、御懇の上使の上、御盃下され、御肴、御差し御座遊され候御脇差、之を遣され候、則ち頂戴仕らるべしと、諸人存じ候処、御傍より畳一畳程さがり、戴かずに持ち居り申され候間、脇より当惑仕られ候やと、気を付け候へども、少しも構はず罷有られ、御前へ御差替の御脇差、とくと御差しなされ候て後、成程しほらしく頂戴仕られ、退出遊され候、諸人名誉の若功者と申し候、加藤清正の家中にても、斯様の事ありたるとなり、〈是は人によりての事なりといふ人あり、〉

家康と五奉行の確執一、関ヶ原御陣前、家康公と大坂奉行中、不和に御成り候は、先づ奉行中の方より家康公を物毎六かしく存じ候故、悉く其色振之あり候、家康公よりは、奉行中をば、物の数となされず候、然れども先づ互に上向は、折めく御相談付届抔御座候、然る所家康公、紫野へ御鷹野に御出て遊され候、治部少輔方より、使を立て、其所は代々天下の御鷹場にて御座候、然る所に家康公御鷹場に遊し候ては、若君様は何方にて御鷹野遊さるべく候やと、申遣し候に付、家康公兎角の御返詞之なく、尤も思召し上げらるゝ由にて、御帰りなされ候、此節黒田筑前守殿・加藤肥後守殿を始め、治部少輔に不和なる故、何れも家康公の思召し立たせらるゝ事候はゞ、御下知に随ひ、治部少輔を討果し申すべしと、支度之あり候に付、宗茂等大坂に赴く治部少輔大坂より都島へ立退き候、此時島津殿・宗茂様、此外大勢伏見に御座なされ候衆、右の様子思召し付けられ、治部少輔尤の申分なり、此騒動の紛に、大坂若君様御様体覚束なく、治部少輔も越度なきに、何れも日来の意趣を以て、無体に討果し申さるべくば、不出来なる次第なり、急度大坂へ罷越し、様子聞届けらるべしと、各御相談なされ候、然れども牧方〈摂州〉へ、加藤か黒田か、其外の衆罷出て居り候て、大坂オープンアクセス NDLJP:31へは少々異議之あり候、各所替にて、御越し御無用と申さる時、其分にて罷帰るも如何なり、所存之ありと申して、罷通ると申切つて、無用の合戦は如何なりと、評定一決仕らず候、然る所に、宗茂様仰せらるゝは、詮議に日を暮し、大坂変に及び候て後は、天気を見合せ候て、若君様御機嫌相伺ふべき所をも、得伺ひ申さずと、諸人の嘲、遁れ難く候、道にて如何様の儀にて、屍をさらし候とも、大坂への志は、後日に聞え申すべく候、我等に於ては、明日大坂へ志し、打立ち申し候との御意なり、島津殿を始め、其儀に於ては、子細に及ばず、同意仕るべく候、左候はば、先陣は誰か仕るべく候やと、御座候時、寺沢殿、某仕るべしと、仰せられ候へども、宗茂様仰せらるゝは、本より先陣は宗茂にて候と仰せられ、伏見より各五頭、其外小身衆、彼是総人数一万四五千、宗茂様御先陣にて打立ち候、小野和泉を召出され、其方与力丹波左馬は、召連れ候やと御尋ね、成程召連れ申し候と申上ぐる、則ち御前へ召出され、今日の物見仰付けられ候、牧方へ誰にても、人数召連れ、一戦の用意にて、罷出で居られ申し候や、見届け候て、早速申上げ候様にと、御意成し下され候、左馬申上げ候は、御意其旨を得奉り候、左候はゞ、鉄炮三挺程相添へられ下さるべく候、自然引取申す儀、罷成らざる様子に候はゞ、一度につるべ放しに打たせ申すべく候間、敵勢之ありと、思召さるべく候由、申し候て、足軽三人に鉄炮を持たせ参り候、牧方へは加藤殿・黒田殿、其外大名衆四頭、人数一万余にて、宿はづれより、段々相備へ居り申され候、然る所に、左馬鉄炮を持たせ参り候を見咎め、人を以て相尋ねられ候は、誰人の家来、何方へ罷通り候やと、申させられ候、左馬申し候は、立花左近将監家来丹波左馬と申す者にて候、左近将監を始め、伏見より若君様御機嫌相伺ひ申すべき為め、大坂へ罷通り候、世間物忌の節に候間、先達て案内の為め、某を差遣し候と、残る所なく申し候、牧方へ罷出で居り申され候衆、此段聞き申され候ても、差留め申す儀も、あながちに仕り難く存ぜられ候や、各人数を引返し申され候故、何たる事もなく、少しの取合にも及び申さず候、先立て物見遣されず候はゞ、必定事に及び申すべく候と、各功者共申し候、其時は頓て和談にて、治部少輔大坂へ罷出で候、

秀吉自ら大阪城攻の法を説く一、太閤大坂御城成就の後、何れも御振舞の上にて、仰せらるゝは、此城を軍勢を以て、破るといふ事は、思寄りなき事なり、然れども我れ之を攻むるならば、手間オープンアクセス NDLJP:32取るべからず、和睦を取結び、堀を埋めさせ、其上に攻落すべしとの御意なり、大坂落城、右の御意に違はず候、誠に是れ天より人の口を借りて、謂はせられたるなりと、世人申合へり、

一、関ヶ原御合戦に、〔築カ〕前中納言綿三段後切と中す後、結部少輔力へ相否や、大谷刑部少輔一人家来を伴ひ、軍は則ち是までなり、大谷吉隆生害する間、何卒首を隠し申すべき由申付け、自殺致し候、夫故刑部少輔首計り、終に見え申さゞるなり、刑部少輔は分別深き事、是計りに限らず、是関ヶ原一乱の最初、家康公は景勝御退治として、関東御下向に定り、其以後に、治部少輔所存を刑部少輔に申聞け候、刑部申し候は、此事成就仕るまじきも、今二十日早く我等に聞かせ申され候はゞ、何卒相談、当座の意趣に仕り、某刺違ひ候はゞ、事成る事もあるべく候、家康瀬田の橋を越え、東国に越さるゝに於ては、虎を千里の野に放つなり、譬ひ味方の人数、家康に百倍仕り候とも、勝利あるまじく候、既に太閤様千余万の大軍に、二万に足らぬ勢にて、尾州清須・小牧の戦陣の為体、何れも御存じの前に候、秀吉公も御智謀にても、たやすく成り難き家康なり、まして各我等が才覚を以て、いかに存ずるとも、是れ蟷螂が斧ならん、遅く聞かせられたる事、臍を嚙むにてこそ候へ、病気なれば、渡の船とも存ずべき物をと、申したるなり、刑部少輔は返山僧を成敗して、悪病を受けたる由なり、

杉山忠左衛門の殊功立花主膳様〈法名道伯、宗茂の御舎弟〉御家来、杉山忠左衛門死去の節、子供幼少に付、跡式立つまじき由、相聞え候、夫に付、忠左衛門後家より、立花壱岐・十時三弥〈此時は内匠と申し候〉両人方へ、小野長左衛門を以て相頼み、立斎様御詞を添へられ、何卒跡式仰付けられ下され候様にと、頼み申し候、然れども右両人申され候は、唯今左様の取次、何卒成り難き由、申され候間、雪斎へ其段、長左衛門咄し申され候処、雪斎、扨は左様に候や、彼忠左衛門は、主膳殿御家にて、いか様の儀候とも、御疎略なされ候者にて、之なく候間、大殿様へ申上げ候はゞ、異議なく、御詞添へらるべく候、壱岐内匠抔、前々の儀存ぜず候故、成るまじき由申し候、内匠を呼び、談じ聞かせ申すべしとて、則ち内匠方呼び候て、語り申され候、紹運様、岩屋御籠城の節、筑紫・秋月の両家、上面は和談に仕置き、自分の力を以て、紹運をたばかり、いか様とも、仕おほせ候はゞと、巧み候て、色々仕り、岩屋〈筑前三笠郡〉へも人質を遣し、岩屋よりはオープンアクセス NDLJP:33統増を人質に、両家の方へ請取り置き候、然る所、島津家へ両家より内通之ある由、慥に相聞え候故、今度相果て候忠左衛門親を、其時分は杉山山城と申し候、紹運様御意に、山城殿と殿を御附けなされ、御呼びなされ候、山城、いか様の儀とも存ぜず、御前に罷出で候、御意なされ候は、当城恙なく候儀、二十日の間たるべく候、夫に付いては、其方頼みたき儀、之あり候、承るべくや、承るまじくやと、仰せられ候、山城とかく申上ぐべき様御座なく、謹んで罷在り候、脇に屋山中務居り申し候に向ひ、山城殿、今冥加恐しき御意を承り、前後に忘じたる計りと申し候、又御意なされ候は、総て主となり内となる儀、士の習云ふに及ばず、其旨先祖以来の儀、鎌倉北条家・尊氏将軍の時代より、三原の何某と相知れ、今に於て、其証文共所持し候旨、結句当家よりも厳重の儀に候、屋形より鑑種も相備と仰付けられ、今に至りては、大体譜第同前に、心安く存ずる其方なり、大切の用を頼み申すに於ては、今更千町・万町の知行を遣すと申しても、唯名計りにて、実は用なし、然れば昔等輩の挨拶に、之ある所を以て、其方を崇敬する事、志計りの重賞なりと、御意なされ候時、山城も感涙を押へ兼ね、謹んで申上げ候は、大勢の中より、召出され、斯様の御意を承り候儀は、誠に今生後生の面目、何事か是にまさり申すべくや、譬ひ如何様の儀なりとも、身命を捨て、御奉公申さゞるは、武士たる者の道にあらずと申す時、仰聞けられ候は、さらば子細を仰聞けらるべし、弥七郎 〈統増の御事なり、立斎様御名、初は弥七郎様と申し候、左近将監様に御成り候て後、統増の御事を又弥七郎様と申し候〉を敵方へ遣し置かれ候事、黄泉の障と、思召され候秋月の取出に、召置きたるなれば、其方罷越し、時宜を見合せ、弥七郎を生害さするか、仕済したらば、宝満山へ〈筑前三笠郡岩屋城の後に〉引取るべし、彼取出下まで、宝満より迎勢差越さるべく候、今暮に罷越し候へ、左候はゞ其方も、紹運より二十日先立ちて死に申さるべく候、此事を別して御頼み思召すとの御事なり、山城畏つて申上げ候は、一分の力を以て仕らんには、百千に一つも、仕損ずる事も之あるべし、然れども臣として、一図に忠義にはまり候ては、万に一つも、仕損ずる事あるべからず候、数ならぬ山城に、此御大事を仰付けられ候儀、面目之に過ぎず、有難き次第と、御請け申上げ候時、御意なされ候は、敵方より物頭三人附け置く由、聞召し及ばれ候、今一人其方に差添へられたく思召し候、誰に仰付けらるべくや、一人は三原采女、弥七郎様へ添へ置かれ候上は、仕損ずまじと、仰せらオープンアクセス NDLJP:34れ候時、山城申上げ候は、左候はゞ、弟にて候、中島半助に仰付けられ候様にと、望み申し候、御意なされ候は、兄弟一所にて、相果て候はゞ、名字相続の者共、年盛にして、一所に死去に及び候事、御残多く思召され候由、仰せられ候へば、山城申し候は、其儀にて御座候、他人と一同に参り候はゞ、前後を争ふ心御座候て、万一仕損じ申すべく候、兄弟は左様の心遣ひ御座なく候間、是非と申上げ候に付、則ち半助召出され、仰付けられ候、半助も殊の外悦び、畏り奉り候に付、御盃を下され、秋月の取出に、弥七郎様へ紹運様より、御使に遣され候由にて、人をも召連れず、唯両人参り候、秋月家の番の侍穂波蔵人・川尻権左衛門・水上助次郎三人出合ひ、料理を出し、馳走仕り候処、三原采女、各は何の御用にて、両使罷越され候やと申し候て、戸の内へ入ると否や、山城半助、川尻・水上両人を、此御用ぞと申し候て、左右に取つて押へ候、穂波、脇差を抜き申し候所を、釆女則ち押付けて、取つて押へ申し候、三人共に手籠の時、大勢鑓・長刀を持ち、ひしめき申し候、山城申し候は、各に少しも敵対申さず候、弥七郎殿へ面談成り難きに付、斯くの如く仕り候、我々弥七郎殿へ遭ひ候はゞ、各を其儘手放し申すべしと、申すに付、さらば本丸へ、我々を質に召され、御通り候て、弥七郎殿へ御目見仕られ候へと、一同に申すに付、手さす者之なく候、則ち弥七郎様御供仕り罷出で、宝満より迎勢参り居り候処まで罷出て、弥七郎様御恙なく、宝満山の城に入りまゐらせ候、斯様の大忠仕りたる者の子孫なれば、彼御家にて、悪しくなる筈に御座なく候、某手前より大殿様へ、其段申上げ候、壱岐内匠も申上げ然るべき由、申付けらる、扨はと申され、其段何れも申上げられ候、立斎様御意に、彼忠左衛門子孫ならば、少しも子細なく、不便を加へらるべき由、主膳様へ仰遣され候間、跡式相違なく、仰付けられ候、筑紫は此時より薩摩へも太閤へも、両方へ内通仕られ、さむの人にて候となり、

谷川大膳廉恥を重んず一、紹運様より立花へ、谷川大膳御使に遣され候、七月廿六日の夜、山伝ひに立花の御城へ参り候、則ち御返事を下され、廿七日の夜、岩屋落城の儀存ぜず候て、大手口の門に忍び寄り、大膳帰り来れり、明けて入れ候へと申し候、敵大勢罷出て、則ち取籠め、縄を懸け、島津中務前に召連れ参り候、如何様の者ぞと、尋ね候に付、少しも隠さず、名乗り申し候、中務申し候は、紹運公は今日戦死を遂げられ候、其オープンアクセス NDLJP:35方最早此方へ相随はれ候へ、紹運よりの恩禄程には、何時も子細あるべからず候と申し候、大膳申し候は、忝き次第には候へども、此時節に及び、左様の望之なく候、唯御芳志に預りたき事、一つ之あり候、立花よりの返札、某首に懸け罷在り候を、首を刎ねられ候て後、御披見候はゞ、何事か是に過ぎたる悦候はんと申し候時、中務涙を流し、誠の士にて候、其状披見の望なく候、大切になされ、立花へ御帰しあるべき由、申し候て、則ち縄を解き、刀・脇差をし与へ、人を添へ、立花へ送り届け候、〈法名立心と申し候、〉

伊達政宗の臣家康を謀る一、関ヶ原一乱の時、権現様、景勝御退治として、奥州岩沼城に御入りなされ候時、政宗の御家来伊達安房、政宗へ申し候は、天下の望候はゞ、唯今にて候、其故は家康公岩沼へ御入り候、討ち申すべきは、手に握りたる事に候、政宗思案ありて、返事なし、片倉小十郎が、〈此事申したる人の名しかと覚えず候、〉罷出で申し候は、凡そ伊達の家、今に至つて御相続の儀は、家康公の御恩義を以てなり、先年小田原にて、太閤より御咎の節、既に御切腹に及ばれ候処を、家康公の御執持一つを以て、身命・国家御長久の事に候はずや、然るに此家康公、日本が寄せたかりても、輒く討たるゝ器量人にて之なく候、恩を受けて、警を以て報ずるに至りては、何ぞ是れ人を以て言ふべけんや、加之岩沼の城中、家康公の馬週五百より内はあるまじく候、此五百は他家の一万にも劣るまじく候、如何に取詰め候ても、一時・二時の内には、中々攻取る事なるまじく候、少らく時移り候はゞ、家康公に劣らぬ侍大将共、三千・四千・七八千程宛、一里・二里宛隔て、陣を取りたる面々、家康の大事と存じ、身命を捨て駈付け候はゞ、伊達の家、滅亡時刻うつるべからずと、申し候時、政宗も大に其心なされ候、其後家康御上洛の跡、景勝押も、家康公は政宗の命の親なりとの事にて、世上申伝へ候如くなり、

家康利家の病を訪ふ一、加賀大納言利家卿、大坂にて病気重く、取詰めたると相聞え、家康公、御見舞として、伏見より御出でなされ候、既に利家の宅へ御入りなされ候時、利家、御子息利長に、家康公入来の儀に付、心得たりやと、申され候、利長、今朝より馳走の儀、申付け置き候との返答なり、家康公、利家の病室へ御入り遊され、御帰の後、布団の下より、抜身の刀を取出し、利長に見せられ候、其方心得たるやと、申したるに、器量ありて返答あらば、則ち家康公を只今刺殺したらんに、天下に手に立オープンアクセス NDLJP:36つ者あるべからず、三奉行を始め、器量の者一人もなし、然れども人の入魂にて、大義は成就せぬものなり、其方事も家康公へは、能々頼み置きたれば、某死後たりとも、別条あるまじ、天下は則ち家康公の手に落ちたりと、申されけるとなり、

将軍家光高麗陣の事を宗茂に問ふ 一、大樹家光公、立斎様へ御尋ねなされ候は、高麗の陣中敵対の様子、日本の戦同前に候や、申上ぐべしとの上意なり、御請け仰上げらるゝは、其次第、安々と申上ぐべき様、御座なく候、御前には稀なる物にで、賤しき者の家に、多く御座候、蠅と申す物は、団扇なぞにて払ひ候へば、一度にばつと飛散り候へども、頓て又本の如くに寄集り、何とも退治成り難き物に御座候斯くの如く高麗人も、一旦打尽し申す事、手間取る事、さのみ御座なく候へども、頓て本の如くには満ち仕り候故、退屈仕る事、多く御座候と、仰上げられ候処、上意には、尤も左様にあるべき事なり、高麗は高麗、大明は大明、其国々の人民、所を去らぬ如くに、治らざれば、何国にても、必ず其如くなくては叶ふべからずとの上意なり、立斎様にも、御尤至極の上意との御咄なり、

朝鮮陣の思出一、松浦肥前殿・細川三斎老・島津薩摩守殿、此外三四人、立斎様へ御振舞に御出てなされ候、薩摩守殿仰せられ候は、三斎老高麗へ御渡りなされ候は、二番陣に御座候様に承り及び候、高麗御陣中、何箇度程、御手に合はれ候やと御尋ねなされ候、三斎老仰せらるゝは、拙者渡り候後は、飛弾守殿御存の如く、五六度も手に合ひ申し候との返答なり、肥前守殿仰せらるゝは、飛騨守殿へは、親にて候法印も、常々咄し申さるゝにて、承り及び候、数度の御場数と申す内、高麗にては幾度程、御手に御遭ひなされ候やとの御尋なり、立斎様の仰は、総て高麗にては、最初より渡りたる衆も、陣仕り居り候処に依り、聢と手に合はざるも御座候、拙者共も、さして場数と申す程も御座なく候、城攻又は城籠り、平場の駈合に駈けて、二十度余、敵合ひ仕り候、然れども覚之なく候間、高麗の所の名存ぜず候故、何と申す所〔のカ〕合戦と、それに申し難く候、唯今は其時の儀、存じたる衆少く候、福島左衛門殿・加藤左馬助殿・薩摩殿御親父兵庫殿・寺沢兵庫殿・加藤主計殿・藤堂佐渡殿・黒田筑前殿、此衆と寄合ひ候時は、大方所の名も、咄し出し候へども、段々死去めされ候て、清正宗成の勇を感ず僅三四人になり候との御挨拶なり、三斎老仰せらるゝは、加藤主計は肥後事に御座候や、肥後申さるゝに、高麗陣中に恥しき者之なく候、立花左オープンアクセス NDLJP:37近将監計りにて候、蔚山籠城の後詰、僅二千計りの勢にて、何十万騎とも知れぬ大敵を、一手にて追崩し申され候、其前の後詰、毛利宰相を始め、大勢にて仕られ候は、さして驚く程の事も之なく候由、度々咄承り申-候、所詮日本・高麗の場数、方々常々の御咄、大積り三十八九度も御手に合はれ候や、我等抔は日本・高麗にかけて、二十度に足らず、戦場には罷出で候、飛弾守殿一分の覚は、申すに及ばず、大坂にて御家来小野和泉、太閤御前に召出され、日本又内七人の鎗柱と御座候て、御盃下され候儀、御面目の至との御咄なり、

一、御同座にて、薩摩守殿仰せらるゝは、高麗陣中、私一家の者共、在陣の所とは飛騨守殿御在陣の所間遠く、互に在陣の間の儀、知り知られ申す儀、稀に御座候、高麗御在陣の間、是ぞ替りたる事と、思召さるゝ儀は、御座なく候やと、御尋なり、さして替りたると存ずる儀、御座なく候との御返答なり、珍らしからざる事に御座候へども、小早川一所に在陣仕り候儀、節々之あり候、小早川隆景の勇戦誰とても陣中の用心、懈なく申付け候事は、替る事なく候、然れども隆景様、何によらず、小者中間に至るまで、草臥れ申さず候様に、一人も程遠く、打散り申さゞる様にと、色々心懸けられ候て、自身右の下知仕り、隙なく陣中迫り申さるゝを、度々見及び候、陣を出すにも、諸将五六里参り候へば、隆景は三里ならでは、参られず候、福島左衛門大夫などは、殊の外腹立申したる事も御座候、如何様の了簡にて之あるやと、存じ居り申し候、加藤主計などは、彼方此方高麗中駈迴り申し候、小西摂津抔も、最前は随分遠駈仕り候処、大明より高麗を救ひ申し候と、御沙汰御座候と否や、小西などは散々の所体に御座候、然れども諸人存じ候は、小西其外は、一円の末陣にて、見苦しき不覚も之ある事と、存じ居り候、二番陣には、隆景は渡り申されず候、前の様に、諸人相働き申し候、扨大明より高麗に加勢参ると、申す程こそ候へ、何十万騎とも計り難き大軍にて、野も山も皆敵勢みち申し候、加藤主計抔程、あら働き好み申す者は、御座なく候へども、其時分はつら出しもなり申さず、既に飢死仕るべしと致し候、小西抔は途方なき事、多く御座候、島津殿を始め、方々在陣の衆、大軍にても、何方に向ひ、如何様に合戦仕るべしとも、手あらくもならざる程の大勢なる敵に御座候、此時に及び、隆景は老功にて、大明と高麗は地続にて之ある間、無量の大軍を以て、高麗在陣の日本勢の跡を取切り、一人も残さオープンアクセス NDLJP:38ず討取るべき大謀あるまじきにあらず、左様の時は、臍を嚙むとも、及ぶべからずと、兼ねて覚悟罷在り候と、後に存じ当り候と、仰せられ候時、何れも尤至極と御感心なり、

一、丹羽五郎左衛門殿・加藤肥後殿艶御出て、御料理進ぜられ候、御茶の上、肥後守殿仰せられ候は、前肥後守、高麗より持参られ候茶碗、内々貴様へ進じたく存じ居り候、親も秘蔵仕り候へども、別して御心安く、御意を得申したる儀も候間、進じ申すべしとの儀にて、仰せ遣され、則ち参り候、蔚山の後詰殿様御覧遊され、此茶碗は高麗蔚山の後責に罷越し候時、茶振舞はれ、能く見覚えたるとの御挨拶なり、肥後守殿仰せられ候は、家来共申し候は、同氏前肥後守蔚山在城の節、後責に貴様へも、御出勢の儀、二番陣の時は、御一手になられたるとの儀、あらまし兼々承り及び候、最前は大勢一同に御越しなされたる由に候、親申し候は、人は大勢ありても、用に立つ人は、殊の外少き物にて候、蔚山在城に、後詰大勢罷越されても、敵を退け候合戦は、立花殿と吉川両人計りにて候、所持申す儀、覚え居り申し候、いか様の儀にて御座候や、御咄承りたしとの御事なり、殿様仰せられ候は、蔚山の後請には、大勢にて参り候時は、とてもはかしき事、之あるまじく候間、多分討死仕るべしと、存じたる計りに候、黒田甲斐守〈長政〉・小早川左衛門〈隆景〉・我等三人申し候は、敵は大勢を頼み、さしたる用心もあるまじく候、三人鬮取に仕り、一二三に相備へ、夜討仕り、追崩し申すべく候、然れども夜討は、五万・十万の敵にこそ、利ある事に候へ、左様に粗忽にはいかゞと、何れも申さるゝに付、夜半過より、合戦を始め候はゞ、利ありても無くとも、夜は明け申すべく候、其時後陣の勢遣され候はゞ、一定味方の大利に候と、口を揃へ申し候へども、何れも承引之なく候、唐人との取合は、時を移さず、手ばしかくさへ仕れば、利あるに付、申したる事に候、正月元日より対陣仕り、段々に足軽を出し、迫合仕り候、させる事あるまじと、気の毒に存じ居り候処、小早川の足軽共、敵に跡をさへられ、難儀に及び候時、毛利家来吉川蔵人備を出し、鑓を始め候、小早川も黒田も、吉川をすけ、人数を押出し候、我等は陣場の方角、吉川が敵合の所とは、程遠く候に付、黒田・小早川一同には、駈付け難く、蔚山の城を右になし、黒田・小早川が勢をも跡になし、敵の跡備に横鑓を入れ、三備切崩し候と其儘敵勢一同に崩立ち引退き候、此段は一同に向ひたる衆オープンアクセス NDLJP:39も、黒田・小早川両手の者ならでは、具に存ずまじく候、前肥後守殿召仕はれ候、加藤清景、是は弓矢功者にて、敵の崩れたるは、後勢の敗軍故と見届け、我等一人の手柄と申し、嬉しがり候は、おこがましく候と、御咄なり、

一、十時但馬咄に、蔚山後詰に両度御伺ひなされ候後は、御一手最前は、諸家一同に御伺ひなされ候、然れども殿様へは釜山浦を、諸家よりは両日遅く、御立ちなされ候、其故は方々一揆起り、釜山浦と蔚山の間、飛脚の通路もならざるに付、殿様へ方々の一揆追払はれ候様にとの儀にて、はと、〈所の名といふ、所覚えず、〉大明人大勢にて、ふさんかいより、日本道七八里隔て、陣を取り、追散され候、夫より直にふさんかいに残し置かれ候人数も、御呼取りなされ、蔚山に御伺ひなされ、正月二日の未明に、先出立ち申されたる衆へ追付かれ、何れも軍評定の座却へ御出で候、毛利殿仰せられ候は、如藤・浅野へも、是まで加勢の儀相示し、人数恙なき様に、城を明け、引取るより外、之あるまじくやと、之ある時、黒田殿・小早川殿仰せられ候は、兎角一合戦なくては、是まで出陣の印之なく候、幸ひ立花も参られ候、三人の内に先手仕らるべく候やと、達て仰せられ候へども、埓明き申さず候、殿様へは道道の一揆退治に、是まで参り候、何れも合戦之なく候はゞ、又々釜山浦まて、一揆を退治仕り候て、罷帰るべく候、去り乍らあの大軍に向ひ、何れも合戦なされ候はゞ、見捨てゝは帰り難く候間、仰聞けられ次第、何方へなりとも、伺ひ申すべく候と、仰せられ候へども、一円捗取り申さず、気の毒に思召され候処、又釜山浦より蔚山の間、一揆起り候由、聞え之ある故、弥〻殿様へは、ふさんかいの様に、御帰陣なさるべしと、思召し置かれ候処、小早川殿の足軽共、敵に喰ひ留められ、難儀に及び候処を、吉川蔵人一手備を出し、合戦を始め申し候、黒田殿・小早川殿は、吉川をすけ、人数を出され候、殿様へは敵の諸勢、雲霞の如く相備へ罷在り候に、御馬を入れられ、追崩され候を見て、敵の先陣・後陣、一度に敗軍仕り候、此時渡部沢右衛門親・後藤勘右衛門両人共に御馬取にて、能く御馬の口にすがり申し候由、咄し候との物語なり、

一、立花丹後咄に、蔚山初めの後詰の時、諸家は敵の先陣に押懸り候、殿様へは敵の諸勢何万騎とも知れず、相備へ居り申すに、鑓を入れられ候、立花吉右衛門・由布五兵衛〈壱岐事〉二組、御先を仕り候、敵の備堅く、其上敵は待合戦にて、先下りの所オープンアクセス NDLJP:40に、控へ居り申したるに、無退に懸り申し候故、御先二手大方追立てられ、吉右衛門は半弓の矢を四筋まで射立てられ、崩るゝ勢を盛返し、采配を取つて、下知仕り候、和泉一手と某一手は、備場地下りにて、先手の敵合、細かには見え申さず候、御本陣は高き所にて、能く見え申し候に付、和泉も我等も人数を出し、立懸り候へば、御先手は大方残らず追立てられ、吉右衛門上下二三十人にて、返合せ返合せ相働き候、十時但馬守は崩立つ勢に引立てられ、蹈留り難く候に付、鑓の石突を土に突き立て、敵を後になし、鑓の柄に取付き、一人立留り申し候、備乱れて懸る敵に、和泉・我等二手鑓を合せ候故、何の手もなく、敵崩れ申し候、総じて朝鮮人は一崩れ崩れ候て後は、大方どし崩れ仕り、返合する事稀に候、朝鮮人の敗軍無量の大軍にて候へども、殿様御一手にて、諸勢を追立てらるゝを見て、諸方一度に敗軍仕り候、此時和泉・我等二手、敵合仕らざる先に、骨切の但馬を討たする事かと、御意なされ候、御馬を入れらるべしとなされ候を、御馬取共、能く御馬を控へ申すに付、御腹立なされ、御馬取の甲、御打割なされ候との御咄なり、此時二番手にて、一番鑓を千手仕り候、一二の論、後まで知れ申さゞる由に候、〈右の三箇条、一場の説故、書入れ申すとなり、依つて此次の箇条、細川殿御同座と申す者、三箇条前の筒条に付けて見るべし、〉

一、細川三斎殿御同座にて、仰せられ候は、本多佐渡守殿方より、鎧づきといふ事は、いか様の事かと、相尋ねられ、此の如く、以前より本多平八方に、我等も相尋ね候、鎧の肩をゆり上げ、鎧のさねと身をすかせて、鎧の札に温まりの強く入り候はぬ様に、仕り候を申すと、承り置き候間、則ち其段申述べ候、老功に候間、尋ぬると申し懸けられ、知らぬと申すも、異な物に候、されば若く御座候方は、いらぬ事にても、御覚なされ候に、如く事あるまじと仰せられ候、

戦死者に下帯なしー、同御座敷にて、伊藤三伯、色々の御咄の次手に、戦死仕りたる者、めいよと下帯之なき者と、諸人申し候、不思議なる事に御座候と申され候、三斎老仰せらるるは、いかにも実正なり、医者は聞くと其儘、知るべき事に候、夫を不思議と申さるゝは、似合はぬ事なりとの儀なり、三伯猶以て、合点仕らず候由、申上げ候、三斎老仰せらるゝは、人の身は血気充ちたる時こそ、上帯・下帯共に、結びたる儘にて之あり候、死に候へば、身は殊の外細る者に候、就中戦死の者は、忽ち血が抜け果て候故、下帯も溜るべき様なく、身細り候て、則ち下帯も落ち申し候物に候、夫故オープンアクセス NDLJP:41功者抔は、下帯の結目と前とに、紐を付け、肩に懸け、死後にも落ちぬ如くにすると、聞き及ばれたるとの御咄なり、

細川忠興政宗を屈せしむ一、薩摩中納言殿・細川越中守殿〈三斉老也〉御両人、立斎様へ御振舞に御出て、色々御咄の次手に、中納言殿仰せらるゝは、仙台中納言〈政宗なり〉と心安く仕り候に、やゝもすれば、薩州は一揆に一味し、御当家へは敵対なり、それに御当家大忠の陸奥守などと、同列の御会釈は、御自分は御大慶なさるべく候、我等などは不足に存ずと、度度申され、やかましくて、御成なされぬとの事なり、立斎様仰せられ候は、それこそ何より安き御返答之あるべき物をと、仰せらるゝに付、夫は如何申すべくやと御尋ねなさるゝ、奥州左様に申さるゝ時、此方こそ御当家へ随分忠を仕り候、御味方に参らず候はゞ、多分御馬を向けらるゝにて之あるべく候、然らば御自分方は、定めて御先たるべし、左候はゞ、戦死なども之あるべくや、我等滅亡に於ては、天下の騒動たるべし、左も之なきは、国家の為め、上様へ御奉公申上げ候者の随一にて候と仰せられ、然るべしとの事なり、其後中納言殿御出でなされ、日外の御指南の通り、奥州へ返答致し候へば、兎角の返事なく、此間余程工夫したる申分なり、合点が行かぬ、大体の智恵には、及ばぬ事を遣り出されたりと申して、其後ふつかの一言なく候、是程気味のよきことは、御座らぬと仰せられ、御笑なり、

一、島原一揆の時、黒田筑前守殿一手の人数、二月廿七日、本丸へ乗入り候を御覧候が、兄弟三人馬上にて、松平伊豆守殿の陣所へ行き向はれ、伊豆守殿へ仰せられ候は、今度当地にて、軍法に依怙なされずとある儀、江府に於て、申さるまじと、あらと仰せられ候、伊豆守殿、是は如何様の儀に候や、存寄らざる仰を承り候との儀なり、筑前守殿仰せらるゝは、其儀にて候、先達て立花・松倉両家の陣場、此方へ相渡され候へ、両人の衆へは、何方にても仕寄を付返し申すべしと、申し候へども、御承引なく、其節申分も存寄り候へども、切所を憎み、兎や角申す様に候間、異議なく領掌申し候、細川越中守へ、両家の陣場を相渡され候は、某の望をば相叶はせられず、越中守望は相叶はせられ候儀、依怙にては之なく候や、総て今度の一揆は、細川が手のびにして、天草の郷人原を打漏したる故、斯様に募り立て候、細川は天草の郷人、取籠りたる故、攻め候を望み申さず候て、叶はざる所にオープンアクセス NDLJP:42て候、殊に細川両家の衆へ、仕寄をも附けて、返し申さず候、此段は偏に、御自分の御入魂に思召され、越中守故に候と、仰せられ候時、伊豆守殿、思召御尤に候、此段は重ねて、申述ぶべく候と御返答なり、其後豆州江戸御著候へども、いか様右の子細相聞え候故か、御目見も済み申さず候処、宗成松平信綱の為に家光の疑を解く立斎様〈此時は飛弾守様と申す〉御著なされ、守様と申す則ち御前へ召出され、其方参府御待兼ね遊され候、島原の様子、仰上げらるべしとの上意なり、宗茂様仰上げられ候は、今度御目代として、若き伊豆守差下され候の間、如何と存じ奉り候処、万事の儀、驚き入つたる儀に御座候、委細伊豆守申上ぐべく候、兎角上の御目がね、有難き御事に存じ奉り候、申上げ候とも、老衰仕り、始終つゞまやかに御座あるまじき由、仰上げられ候、上意に、伊豆守諸事の下知、よかりつるかとの儀なり、残る所御座なしと仰上げられ候、然らば御目見仰付けらるべき由、仰出され、伊豆殿御目見相済み候、夫豆州は、立斎様へ大方ならざる御ちなみなり、

一、島原一揆の時、〈十二月七日歟、此両日の内、此段仰上げらるゝは、御くつれとも知れず候、但七日に窺ふべきなり、霜月廿七日の晩景、宗茂様召に依つて、御申上げ遊され候、〉趣は、左近方御暇下され、出勢の上は、老体別して難儀に思召し上げられ候へども、島原へ罷下り、伊豆守へ申談じ、無首尾之なき様仕るべき旨、仰付けられ、則ち御請け遊され、御城を御下りなされ候処、重ねて召返され、彼地一揆御成敗の儀、何程に存じ候や、残さず所存申上ぐべき由、御直の上意なり、則ち仰せられ候は、死を相究め申したる侍の籠りたる城も、兵糧尽き候へば、不日に落ち申す事、古今同然に御座候、今度の一揆、何程兵糧用意仕り候とも、当年の毛作の外、求め様御座あるまじく候、密々に天草・島原かけ、一年の斛物残らず、〔城カ〕に取入り候とも、来春中はよも続き申すまじく候、又急に御成敗なされ候はゞ、城下へ取詰め居り申し候諸勢、残らず三里も四里も引払ひ候て、張本人計り御成敗にて、附随ひたる百姓共は、本々の村里へ召返さるゝ筈と、扱を入れ候はゞ、能き大将之あり、究竟の侍計り籠りたる城も、大方内に疑出来り候へば、城は持たれぬ物にて御座候、況や郷人の儀に御座候間、城内即刻異変の者多く、区々の沙汰に疑惑仕り候処を、一攻手強く攻め候はゞ、即時に乗落し申すべく候と、仰上げられ候へば、上意に申上げ候処、一々御尤も思召し上げられ候、今度の一揆は格別の族に候間、城に籠りたる程の者、男女老若に依らず、一人も残さず、御成敗に時日を移さるゝ儀、オープンアクセス NDLJP:43御下知ゆるがせにしては、且つは御威光なき様に、思召し上げられ候、此所いかが存じ候やと、仰出され候、又仰上げられ候は、御成敗何程延引にても、少しも上の御威光薄き事にて御座なく候、恐れながら今度の一揆、猶以て、天下御静謐の御吉瑞と、一入珍重の至存じ奉り候、余りに静謐過ぎ候へば、何事もとなへ失ひ、武士の沙汰悪しく御座候間、願はくは今度の一揆は、今少しも募立たせて、一両年も怺へさせかしと存じ候と、仰上げられ候時、御機嫌能く、いかにも申上げらるる所、一々当然に思召し上げられ候、早々罷下り候へとの上意なり、島原落去の後、伊豆守殿御下知宜しからずと、上聞に達し、御目見も済み申さず候、宗茂様御著なられ候と、即刻御前へ召出され、段々御尋ねなされ候、十二月二十日、大手立花一手、搦手に松山口より本丸へ懸け、鍋島一手にて城攻之あり候へども、寄手よりは、郷人の儀に之あり候間、さしたる儀あるまじと存じ候処、城内よりの防戦、存の外手強く、松山へ取上り申すべしと、押立て候鍋島勢、本丸より厳しく打出し候鉄炮防ぎ難く、早々引払ひ候、是に依つて大手の攻口へ、皆城内の勢を迴したると相見え、夜の明くるに従ひ、一入鉄炮多く打出し、相図の鍋島、人数を引払ひ、後勢之なき故、立花人数も討死・手負多く之あり候、御目代よりの御下知にて、引取り申したるとの註進の趣、正月朔日の城攻の註進、何れも委細御尋ねなされ候、則ち仰上げられ候は、今度の城攻仕損じ申したる儀、不案内にて、何れも一向に郷人原との思ひ侮り、無理に働を仕り候故、其詮御座なく候と存ぜられ候、飛道具にて防ぎ申すには、侍・百姓の替ある物にて御座なく候、島原攻略不成績の理由上の御目がねは、強く御座候、今度若き伊豆守差下され候儀、いかゞと存じ候処、物毎痒き所に手の届き候様に、さばけ申したるを見聞仕り、御覚の所驚き奉り候と、仰上げられ候時、上意に、伊豆守事、不届なる儀之あり候様に、聞召し上げられ候処、其方申分相違の様に思召上げられ候と、仰出され候、又仰上げられ候は、斯様の大儀なる事も、端々まで残らず、能くと計りに、申す様には、成り申さず候ものに御座候よしあし共に、落去に首尾合ひ合はぬにて、御勘弁あるべき儀かと、仰上げられ候時、尤の由御意御座候て、則ち伊豆守殿御目見仰付けられ候、飛騨様御退去の跡に、立花が寿命長くしても、若かれかしと、思召し上ぐべしとの上意に御座候由、此段井伊玄蕃殿〈掃部殿御事〉御振舞の時、左近様へ、御前にての儀に御座候間、飛騨オープンアクセス NDLJP:44守殿は御沙汰之あるまじと仰せられ、玄蕃殿御直の御咄なり、右の御咄を、高木四郎兵衛・上野源太夫承り、書付け候も同前なり、宗茂様島原御著陣、正月十五日なり、

一、同一揆に付、御下りの時、道中・船中共に、少しも御急ぎなされず候、御供の侍中、殊の外もどかしく存じ奉り候、柳川へ御著遊され候時、山田庄兵衛御前へ罷出て、船中悪しく御座候や、存じたるより御滞留と申上げ候、御意に、今度は御老後御戦場にて、替りたる事なくば、夜白御寝なるまじく候、一揆手強くば、最早御年に惜しきとも、思召し上げられず候、是までの思出と、思召し上げられ、道中・船中御気遣のべられ、緩々と御下知なさるとの御意なり、

家光宗茂の議を用ふ一、同島原へ御著なされ、伊豆守殿へ御遭ひなされ候時、立花殿思召、何程に御座候やとの事なり、宗茂様仰せられ候は、御自分御下り以後、定めて追々上意御座あるべく候、其趣いかゞ御座候やと、御尋なり、伊豆殿仰せられ候は、上意には、粗忽なる儀を仕らず、食攻に仕るべき由、仰下され候、則ち宗茂様御前にて仰上げられ候に、少しも相違なき仰分なり、宗茂様仰せられ候は、是程の御謀御座あるまじく候、此上には誰が何たる存寄之あるべくやと、御挨拶なされ候時、伊豆殿は、右の段々、御前にての儀、御存なき故、立花殿は御老体御功者の儀に候の間、何様と相待ち候へども、御自分とても、替りたる儀、思召し寄なしとの儀、尤も力及ばざる事なりと仰せられ候、宗茂様をかしく思召され、人は九分・十分、左様に替あるべき道理、御座なく候、各へは江戸にては、兵具なくとも、今度の一揆百姓等、一々に縛り、首を切つてと仰せられ、御帰りなされ候が、左様に手儘にもならぬ物にて御座候やと、仰せられ、御立ちなされ候、仕寄場を御乗物にて、一度御巡見なされ候、

一、同陣中、筑前殿陣に、夜討仕り候時、其宵より宗茂様仰付けられ候、何れも侍共、罷出て候者は、帰らず相詰め居り申し候様に、申付くべき由、御意なされ候、黒田殿・寺沢殿陣場に、夜懸け仕るにて、騒動致し候、村尾・民屋召出され、筑前守馬印動き候や、人遣し見せ候へと仰付けられ候。則ち見せ申し候処、馬印は少しも動き申さゞる由、申来り候、其段御聞き遊され、よしと計り御意なされ、則ち御寝なり候時、宵より鉄炮繁く、城より打ち候間、定めて斯様の儀仕るべしと、オープンアクセス NDLJP:45思召し上げられたるとの御意なり、

一、同陣正月廿六日、七時の上刻、〈落城は二月廿七日なり、廿六日より攻懸り、夜明廿七日に城落つる、文段いぶかし、〉諸勢本丸へ取詰め候処、城より防ぎ候上、日暮れ候間、今日は乗落し難しとの儀にて、諸勢引払ひ候処、立花宗盤三池衆召連れられ、細川殿先勢引払ひ候跡の攻口より、乗入れられ候、之を見て、引返し候肥後勢、一同に押返し乗入り候、当家へ参り候諸浪人、其外此段見及び候諸勢皆々も、廿七日本丸一番乗は、立花殿にて之ありと申し候、〈立花宗整乗りたるは、廿六日に見えたり、又諸浪人申、したる口上、廿七日本丸一番乗といふ事、是又いぶかし、立斎公高名不覚紛なきを、高名にするとの一言、千載不易の御名言なり、〉其後左近様より飛騨様へ、本丸へは宗盤手より一番に乗込み候間、其段伊豆守方へ、仰せ達せらるべきの由、御尋ね遊され候、御返事に、斯様の打込の働に、誰とても前後の沙汰、さのみ成り難き事に候、高名不覚紛なきを名誉とす天然と細川方へ本人の首を取りたる由に候、左候へば、誉を争ふ様にも聞え、名聞を専一にして働くは、愚なる様に候ては、気味悪しき事に候、総て高名不覚紛なき様に候てこそ心好く候、少しの事を言ひ立つる様なるは、心ある者の聞きては、よからざる事に候、殊に左近様計り、御出陣遊され候はゞ、尤に候、御老体様の御副ひ御座なされ、斯様の聊なる事を手柄めかし、仰せ達せらるゝ様にては、御仁体に御似合なされざることに、思召し上げられ候間、必ずその分になされ差置かるべく候と、仰せ遣され候故、何の御沙汰も遊されず候、

一、同陣にて、宗盤御前に御出てなされ候、飛騨守様仰出さるゝは、今度は其方に似合ひたる働にて候、細川が大勢にて乗り兼ね、引取り候跡に、敵息を継ぎ、油断仕るべしと存じ、勢を廻したるは、好き了簡に候、之をば人の乗口より乗り候間、乗りたるには仕るまじなどと、申す事、静になり候ては、殊の外六ヶしき物に候、然れども言ひ立つるになれば、敵の油断を考ふる事、軍の習に候、其方乗口より、何しに此方を乗せ候やといひて、勝は勝になるものに候との御意なり、

一、島原御帰陣の時、黒崎〈筑前〉の御茶屋にて、山田勝兵衛・立花壱岐〈たりと□事〉両人、大殿様御前へ召出され、勝兵衛方は、蒲池宗碩の軍法豊後にて蒲池宗碩に軍法承りたるかと、御意なされ候、書物之なく候や、大体の伝授にて、師派に乗り申さゞるは、書物は伝り申すまじく候、たゞ一巻にて、何事も調ふ如くにしたる物なりと、御意なされ候、勝兵衛申上げられ候は、御意の通り、若輩の時分、親が宗碩を頼み、軍法稽古仕らせオープンアクセス NDLJP:46候へども、書物は相伝仕らず候、内田玄恕が師派を伝へ申したりと、覚え申し候、玄恕が伝を受け申したる者は、御座なく候やと、申上げ候、御意に、安東津之助・石松安兵衛両人に、一人相伝候様に、仰付けられ候、殿様へは入用の所計り、御覚えなされ候へば、よしと思召し上げられ候故、書物は御所持遊されず候、弟子にても子にても、一人の外伝へざる作法にて、伝ふる時、書物を写させ、能く合点する如くに教へ仕舞ひて、本書をば焼きて捨つる習なり、石松に伝へたりと、御聞き遊され候、安兵衛戦死仕り候故、伝へ申すべき者之なく候、御前へは最早御入りなされず候、今度程の百姓一揆の籠城を、大勢人は損じながら、外曲輪を一重破る事のならざるは、人数の取扱の沙汰を知らざる故なり、壱岐は安兵衛が書物の行先、承らず候や、存じ候はゞ探促仕り、左近様へ差上げ候様に、仰付けられ候、壱岐申上げ候は、方々吟味仕り候はゞ、相知れ申さゞる儀、之あるまじく候由、申上げ候、其後壱岐、存ずべき者共へ、追々吟味仕られ候へども、右の書物之なく候、安兵衛討死の時は、竈門助右衛門、右の書物を取り、紛失仕りたる由、後に知れ申し候、

一、大殿様右の御意の趣、左近様御聞き遊され、江戸にて大殿様へ、右の書物は、いか様の事を記し申したる物にて御座候やと、御尋ね遊され候、大殿様仰せられ候は、別なる事之なく候、敵に向ひ、多勢・小勢に依らず、軍を取結び、一定利を得る理を記したる物なり、是が大将たる者の心持にある事なり、我家人なればとて、左様に下知に従ひ、敵に向ひたる時、いかに釆配を取りて、只進め死ねといひたればとて、其下知に従ふ物にては之なく候、常々上からは、下を子の如くに、不便を加へ、下からは、上を親の如く思ふ様に、人を使へば、下知をせずとも、上のよき様とならではせぬものなり、右壱岐守に仰付けられ候書物にも、第一の本にしたるは、此事にてありと、御咄なり、

宗茂佩刀の華美を戒む一、左近様御陣刀御拵仰付けられ候、立斎様御覧遊され、兎角の御意なし、後に御咄の次手に、仰せらるゝは、物毎に時代に候なり、太刀は所持なくては叶はぬなり、陣刀とて、寸つまりの刀を、太刀に拵へ申す事、当世の流行はやりと見えたり、大将たる者は、云ふに及ばず、武士たる者は、諸道具の拵、目に立つ様に仕り候は、悪しく候、自然の時は、敵・味方共に、能き相手をとならでは、目かけぬ物にて候、いオープンアクセス NDLJP:47かに心猛く剛からんも、遠矢などにて、人より先に手を負ひては、何の働もならぬ物なり、具足なども細道具多きは、悪しき物なり、我等は世の常の指料の刀に、蟇肌ひきはだを用ひ、日本は云ふに及ばず、朝鮮に至りて、四十余度の戦場、一度も事を欠きたる事なしと、御咄遊され候時、壱岐申上げられ候は、鎧の上にて、二尺三寸となりたる刀、馬上にて抜け申さゞる由、申上げ候、当世皆陣刀は、寸短に仕り候由、承り及び候と、申上げられ候、御意に、安達対馬は、三尺一寸の刀を、馬上にて抜き候て、道雪様御馬の前にて、騎馬三騎・歩行武者六人、一所に切伏せ候、是は如何抜き候や、心を静めて、一度に抜けずば、中取をしても抜きたるがよし、それより急なる時は、脇差を抜くべし、総て馬上にては、柄を逆手に取りて、抜くがよし、第一馬に当る気遣なく、寸の延びたるも抜けよし、小脇差にても、馬上にて抜打は、せぬがよしとの御意なり、

小早川秀秋と宗茂との確執一、筑前の名島の城主小早川金吾中納言殿は、高麗以来、殿様と殊の外御不中なり、第一釜山浦にて、中納言殿より福島左衛門大夫殿・加藤左馬助殿両人にて、沙汰の限りなる事なされ候、是は小西摂津守御贔屓にて、両人の居城、敵大勢にて取巻き候を、物とも存ぜず、中々手柄なる御働之あり候を、小西と御内談候て、さしての事にて之なき様に、取成され候、太閤様へ右両人の衆より、直に委細申上げられ候に付、一番陣御帰陣の節、御前にて、其首尾、中納言殿へ御尋ねなされ候、中納言殿殊の外御迷惑候て、隆景以来、殿様は御入魂の事に候間、能き様御取成なさるべしと思召され、右の首尾は、立花能く存じたる事に候と、仰上げられ候、太閤より殿様へ御尋ねなされ候、殿様は、私儀旗頭役など勤め申し候はゞ、左様の儀、成程見聞仕り候て、存じ申すべく候、身に取り入らざる事に候へば、少しも存ぜず候、去り乍ら両人の者共は、天晴男にて之ありと、承り及び候、爰許にて沙汰之あり候様に、遠遁げなどは、ゆめ仕らざる由は、承り及び候と、仰上げられ候故、中納言殿散々なる首尾にて候、其翌日殿様御前へ召出され、御直に仰渡され候は、近き内に、殿様へ九州の旗頭仰付けらるべく候、弥〻忠節励まるべく候、数年御約束の通り、肥後・筑後・肥前三箇国一円に、宛行あてがはるべく候、御一家の端にても、金吾殿などと、少しも頼み思召す御所存之なく候との儀にて、御盃遣され、御城を下られ候、御家中へも御心安き方へは、其段仰下され候御状、今に之ありオープンアクセス NDLJP:48候、金吾殿殊の外の腹立にて、殿様御振舞なされ、其上にて毒を進めらるべしとの御巧なり、御家中何れも申し候は、御振舞に御出でなされ候事、御無用と申し候、和泉一人御出てなされ、然るべしと、申上げ候、左様の腰抜は、一度手並を見せ申さず候へば、果もなき事を仕り、人の害に罷成り候と、申すに付、尤と仰せられ、御振舞に御出でなされ候、御供にも物馴れたる者計り、召連れられ候、中納言殿へは、首尾好く毒を遣され候事、成り難く候はゞ、打果さるべしとの御用意にて、御相伴などとて、討手の強き人、九人まで相定められ候処、御座敷に御直りなされ候時、中納言殿御出でなされ候と其儘、御脇へ寄られ、少しも御立てなされず候、御膳立て候て後、中納言殿の膳に、御自分のを御自身御居ゑかへなされ、御汁を懸けられ、御本飯計り召上げられ、御酒も中納言殿参らず候へば、召上がられず候、御茶も其如くになされ候て、毒進めらるゝ事、成り申さず候、御供中、理不尽に御座敷近くまで、罷上り居り申し候へども、之を咎め申す事、罷成らず候、御立ちなされ候時も、玄関まで、中納言殿を先に立てられ候故、打手の衆、一人も手ざし申す事、成り申さず候、此時御差しなされ候御脇差は劒切、御刀は道雪様御定指の兼光なり、〈紹運様より手自ら遣され候短刀なり、〉長光の劒も、御懐中なされ候由、矢島、勘兵衛咄なり、岡田将監殿も此時の打手に傭はれ候と、後に御咄なり、高麗にて毛利甲州御陣へ、正則〈福島〉・清正〈加藤〉御同道にて、御出で候時も、御腰物は則ち右の通りなり、薩摩殿へ、興簡御成敗の時、御出てなされ候にも、御腰物は右の通りになされ候由に候、総て御用心なされ候所へは、いつも左様になされたるとなり、

一、道雪様、高良山﨑御陣の時、上妻より久米に御出でなされ候節、竹迫たんばさま新次兵衛弟、幡堂寺に、出家仕り居るを召出され、還俗仰付けられ候、御盃の上に、鰹下され、精進落し申し候、御召替の御具足、折節御持たせなされたるを、下さるべしと御座候処、彼者其年十八に罷成り候、明朝敵の具足を取り候て著仕るべしと、申上げ候故、諸人うりつけを申上げ候と存じ候に、翌朝相週に罷出て候、敵を仕伏せ、詞の如くに著仕り候、高良山、御陣の内、筑前へ陣場を上げ、罷帰り候故、御成敗三十一人の内にて、切死仕り候由、由布相模、此時振能く候由に候、新次兵衛は三十三度の場数に、一番鑓・一番首・一番乗、分捕一度も仕外し申さず候、此内二度向ひたる方に取合之なく、手に合ひ申さず候由、三十三人の内、野山忠右衛門・村オープンアクセス NDLJP:49尾安左衛門妻子なく、御免なり、

一、立斎様御通りなされ候処に、番衆の内に、柄にも鞘にも、成程能き鮫を懸けて見事に拵へたる万を、刀懸に懸け置き候、御通懸けに御覧なされ、御意なされ候は、刀・脇差の拵、能く仕り候は、尤の事なり、然れども拵へ候て、人は仕伏せられぬ物なり、鼻の先に拵ふもあり、伊達に拵ふもあり、皆侍の煩なり、飾物なり、真実の拵といふは、目に立つ事なく拵へ置きて、心を落し付け、道具の業を用ふるをいふべし、万事飾を専にすれば、用に立つ所か、疎かになる事、必然の物なりと、仰せられ候なり、

一、立斎様御意なされ候は、世間に大剛なる者、主膳程の者、之あるまじく候、高麗以来、方々取合の節、敵対に及びても、程々様々の事を、入るも入らぬも申し候、我等は出陣とさへ申せば、見苦しき死様をせじと、心遣致し候へば、下知せずして叶はぬ事計り、漸に申付け候、宗成出陣する時の決心すべ悪しからぬ様に、死ぬる事は、大方の事にてはなるまじと、常にも存ぜられ候へども、主膳は何より安く存ぜらると見えたり、ならぬ事なりと、仰せられ候、主膳様之を御聞きなされ、御意を承り、当惑仕り候、常に存じ候は、御下知にさへ従ひ、相働き候へば、何時も勝利にて、悪しき事は無しと計り、覚悟仕り罷在り候故、死様の心付、毛頭御座なく候、御前には御本心を左様に御究め遊され候故、只今まで御名字相替へず、御相続遊され候、私儀も少し左様の心付も御座候はゞ、既に紹運、天下に対し、戦死の上は、若輩たりとも、家来の指南計りに付け申さず、宝満にして骸をさらす覚悟仕り候はゞ、高橋の名跡も、形の如く相続仕るべきものを、是非なき儀に御座候と、仰上げられ候、立斎様御聞き遊され、やかましく、かしましき申やうかなとて、御笑ひなされ候、

一、立斎様、肥後にて有動と御取合の時、南の関に御著陣なされ候て、夜に入り、小野和泉を召出され、当地案内者はなきかとの御意なり、和泉申上げ候は、兼ねて吟味仕り候へども、慥なる案内者、御座なく候、有動の城下程近き所に御座候間、某罷出で、見合せ申上ぐべしと申し候、御意に、其方は老体にて、歩行成り難かるべし、水野和泉宗茂をして敵勢を探らしむ夜中殊に山城にて馬上は、猶以て心元なく候明日は別して大切なる物前にて候、其方は随分草臥れざる用意肝要に候、御自身御出で御覧遊さるべき由、オープンアクセス NDLJP:50御意なされ候、主膳様・立花右衛門大夫抔を始め、御出は御無用、誰にても、功者共遣され、御見せ然るべきの旨申上ぐる、和泉は御供の者を御吟味なされ、御覧じ届けられ、然るべしと、人に見せたる計りにては、心持替る事もと申すに付、御自身御出で遊され候、御供には主膳様・立花右衛門大夫・戸次治部・安東五郎右衛門・十時但馬・今村五郎兵衛・天野源右衛門・池部龍右衛門・十時伝右衛門・十時摂津・十時源兵衛、是等を始め、廿七人召連れられ候、何れも被官与力の内、物馴れたる者計り、一人・二人宛召連れ候へと、仰付けられ候、有動の城より、十七八町手前まて、御出なされ候時、天野源右衛門申し候は、御大将の余り軽々しく候と、申上げ候、立斎様御笑ひなされ、能く御覧じおほせられ、御備なくては、其詮なしと御意なされ、とくと御見認めなされ、御帰りなされ候、何れも和泉老耄仕り、あらぬ事を申上げ、無用の所に、御出で遊されたりと、存じ居り候者も御座候、詞に出し申す者も御座候、翌朝御打立ち相成り候時、南の関より有動の城までの間にて、爰の山合、彼所の藪陰より、一人・二人宛出来り候を見候へば、和泉手にても、形の如く覚ある功の者共なり、いかゞ仕りたる事ぞと、相尋ね候へば、一昨夜より和泉申付け、此辺に忍び居り候、自然敵より伏勢などの用意仕り候はゞ、早々申し来り候様にとの為め、斯くの如くに候と、申すに付、諸人、和泉事只者にては之なしとて、驚き申し候、以上十六人まで遣し置き候者共、段々に所々より罷出で候を見候て、天野源右衛門、上方にて、斯様の功の入りたる始末見申さず候とて、感じ入り申し候由、

宗茂和泉に先鋒を命ず一、同所より主膳様を始め、和泉・摂津・右衛門大夫抔、御前に罷出で、兵粮米を持遣し候事、彼是御評定御座候、主膳仰せられ候は、明日の御先は、某仕るべしと、仰せられ候間、御前より、明日は御心持御座候間、和泉に仰付けらるべしとの御事なり、主膳様達て御望みなされ候故、もだされ難く、兎も角もと仰出され候故、主膳様御先なさるゝ筈になり申し候、扨御酒召上がらるべき由にて、主膳様へひた強ひに御強ひなされ候間、主膳様前後御覚えなく、御寝なられ候、之を幸になさるべき為め、御酒進めらるとの事にて、則ち和泉へ御先仰付けられ候、和泉申上げ候は、兵粮を持たせ遣し候人夫の備は、一の跡より然るべく候、先手の辰の刻に、打立ち申すべしと、申上げ候、立斎様御尤に思召し上げられ候由、仰出されオープンアクセス NDLJP:51候、其後和泉又申上げ候は、諸方共に、一番鳥うたひ候はゞ、拵へ候て、夜の明くるを待ち申すべき由、申談じ罷帰り候、翌朝和泉は、一番鳥うたひ申すと其儘、打立ち申し候、東白む前に、御馬も出し申し候、後に宵の御定に、刻限違ひたり、いかゞ仕たる事かと、申す者多く御座候、森下備中申し候は、人の知る事にあらず、敵の国中なれば何方よりいか様の事にて、聞き申すべくも知れぬ事なれば、時々折々にて、心持ある事なりと申し候、御帰陣の後、何はあれ今度殿様御物見に、御案内も御存知なき所へ、和泉然るべき由申上げ、御出でなされ候事、僻事なりと、諸人申し候、十時但馬申し候は、皆共知る事にあらず、山道は何と広くしても、大方一騎打なり、左様の截所にては、先づ第一大将よく御案内を知り給はねば、不意なる事、之ある時、人数の迴方に危ぶみあると、敗軍するとは一度なり、夫故和泉然るべしと、申上げ候、譬ひ敵大勢打出て候とも、身共を始め、三十人計り参り候間、弱虫共七百・八百召連れられ候よりも、慥に之あり候、総て截所は、猶更下手の大連れは、悪しく候、慥なる男三十人あれば、千・二千の敵、前後より取巻きても、怪我をする左近殿にて之なきに付、和泉物見を勧め申し候と申し候、一時分十時但馬・森下備中伝右衛門〈源兵衛とも申し候〉・池部龍右衛門などは、内田玄恕に劣らぬ戦功の者共にて之ある故、六ケしき所の敵の見計らひには、右四人の内より、大方遣され候となり、

一、同御陣にて、小野和泉・十時摂津二手、態と人を残し、三百四五十にて御先を仕り、有動が城大手に押寄せ、夜の明くるを相待ち候、二陣に兵粮を運ばせ、三番には御本陣なり、夜の引明くるに、有動の城下を、人夫四五百人粮米取持ち罷通り候を、城より見候て、三百計り一同に打出て候、和泉手の先を仕り候物頭、立足もなく追立てられ、参り候を、和泉があるぞ、返し候へと、三度まで申し候へども、立留り申さず候間、和泉駈寄せ、一刀に打切り申し候、和泉鎚を取直し、道横になし、崩れ懸る勢を押留め、足軽共に下知を加へ、一同に折敷かせ、鉄炮を打たせ、敵のひるむ所を、十時摂津に追込み候へと、申越し候故、摂津、横鑓に突崩し、皆城に追籠め申し候、其夜御前にて、和泉手に懸け、切り申したる者の事を、何某事、今日神妙の働仕り、討死仕り候と、申上げ候故、跡式相違なく下され候、摂津具に見届げ、崩立つたる勢をば、和泉なればこそ押留め、味方を切り申し候オープンアクセス NDLJP:52て盛返し、始終の首尾を合せ申し候、いかなる剛の人も、及ぶ事にあらず、我手にかけて、御取合申上げ候事も、前代未聞の仕方、例なき事なりと、皆人感じけり、

一、高麗にて御陣中に、立花三左衛門馬を殺し、乗替之なく、迷惑仕り候処、天野源右衛門才覚にて、黒田甲斐守殿乗料、南部鹿毛といふ逸物を盗取りて、礼に三左衛門同道にて、源右衛門参り候、長政も、左候はゞ余の馬を遣し申すべきに、其馬は南部殿より、高麗陣中具足下乗料に仕れと、申越され、別して秘蔵に候物を、残多き事をと、仰せられ候、十時但馬申し候は、人は他家の馬を、盗取りに取り申され候、殿へ申上げ、馬貰ひ申すべきぞと申し、罷出で候て、申上げ候は、私は小西摂津守殿・前野但馬守殿抔、御陣隣の衆は、何れも御存知にて、懇意に仰せられ候、小西殿の御陣場は、高みにて御座候間、気晴れ申し候、唯今の分にては、一二月も爰元に、御滞陣なされ候間、私は小西殿御陣場の片端に参り、気を晴し居り申したしと、申上げ候、又我儘を申すと計り、御意御座候、御免にて候と申して、小西殿へ参り、望み候へば、其身の家中望ましく存じ、後々は家来にも成り申すべき者と、存ぜられ候と、相見え候、殊の外の懇意なり、五七日過ぎ候て、敵夜懸け仕り候間、小西衆散々崩れ候て、陣場を明け引き申し候、但馬は少しも驚き申さず、盗人の昼寝も、当てがなければ、致さずといふ儘に、鑓おつ取り、敵を突崩し追払ひ候て、小西氏の陣屋に、立て置かれたる好き鑓を、自身一疋乗り、被官にも一疋取らするといふと、打乗せ、殿様御陣へ参り候、小西殿より馬返し候へと、申し来り候へども、敵の取り申す所を追落し、腕にて取り候馬なれば、返し申す事成り難しと、申し候へども、殿様より仰付けられ候故、しぶ一疋は返し、一疋は留め置き申し候、

一、高麗にて備前中納言殿、くむさんの城御攻の時、十時源兵衛、〈治部佐左衛門嫡子、十時伝右衛門養子に仕リ候処、十時名乗り申候、〉宗茂様より御使に参り候、黄門卿の衆申し候は、立花殿の使者、一番乗仕るべしと、存じ候や、のぼり階子の指物にて、参り候と申し候、源兵衛与力共、此由承付け、源兵衛に申し候は、随分某共働き申すべく候間、攻め候へ、御通り候て、御乗り候様にと、申し候に付、望み候へば、勝手次第罷通り候様に、仰付けられ候間、則ち攻口へ参り、源兵衛一番乗仕り、中納言殿より感状を取り、罷帰り候養父伝右衛門、見たる所之あり、子にしたるなどの御意なり、

オープンアクセス NDLJP:53一、立斎様御咄に、有動との御取合、御帰陣の時、道にて竹林の陰より、俄に敵発立ち、鉄炮を放し懸け候、御人数一度に折敷き候処、黒糸の鎧を著たる者一人、土井を越え、一番に鑓を合せ候、誰かと御覧なされ候へば、池部龍右衛門なり、押続きて、土居を越え、放合を仕り、首を取り候、誰かと御覧なされ候へば、今村五郎兵衛なり、敵の様子御覧なされ、御備を立てられ候へば、其儘敵崩れ申し候との御咄なり、

一、本多佐渡守仰付けらるゝは、飛騨守殿は、西国筋の儀は申すに及ばず、既に高麗まで御渡海に候、先日本多下総守殿に御遭ひ候て、今度仰付けられ候長柄の事、散々悪しく御談じ候由、承り候、夫に就き、存じ当り候、本多平八常々申したるは、一切武道具は、有る無しの物なり、武器の長短多少を論ずるの無用道具頼みにして、中々勝負成り申すものにて、之なく候、人数を持つ者は、家人の恨なき様に、人数を持たぬ者は、死様一つ工夫する事なりと申し候、尤なる事と存ぜられ、覚悟に覚え申され候、左様の事にて、御自分にも、長柄入らざる物と、仰せられ候やとの儀なり、宗茂様仰せらるゝは、平八殿申さるゝ分、至極なる儀に存ぜられ候、先日も下総守殿へ申し候通り、東国筋の儀は不案内にて、西国扨は高麗にて見及び候に、長柄余多之ありたればとて、徳になりたる事、これなく候、足軽は何と申しても、侍より早く崩れたがり候故、私の譜第の者共の子、余多持ちたるを取立て、銘々に召仕ひ候事は、手に及び申さず候故、一飯をもべさせ、他出仕らず候様に、はごくみ召置き候、宗茂譜第藩士の子弟を愛撫す某者共に人数入用の節は、鑓一本持たせ候て、召連れ申し候、左様の者共は、身に当てゝ、知行など之なく候ても、恥を存じ候儀、足軽共には替る儀に候故、備崩れ申す儀、之なく候、足軽は鑓業成り兼ね申す物に候、長柄の得は、陣場の囲ひ賑ひ候て、自然地下りの陣場にて、高みより見込まれぬ所などの為めには、能く御座候、昔は長柄にて、騎馬を防ぐ習ありたる由に候へども、総人数鑓を持ち候に、馬働さのみならぬ物に候、其段は各様始め、鑓場御覧候衆は、皆御合点たるべきとの御意なり、

一、江戸にて、道伯様、肥後より御登りなされ候時、宗茂様御対面の上、道伯様の御刀、御拵見苦しく候間、進ぜらるゝ由にて、御刀一腰進ぜられ候、道伯様御刀は、宗茂様へ進ぜられ候を、宗茂様御取りなされ、此刀も作は悪しからぬ作に候、仁オープンアクセス NDLJP:54王にて之あるべく候、紹運様より進ぜられたるかと、御尋ねなされ候へば、いかにも其通りに御座候と、仰せられ候時、立斎様、紹運様の御事を思召し出され候や、御涙を御流しなされ候、扨打込み御抜かせ、御覧なされ候、仁王三郎清と銘御座候、清の字の下は、字分ち見え申さゞる由に候、道伯様の仰せらるゝは、御目利此以前より、御好みなされ候程に御座候由、御挨拶仰上げられ候処、戸次治部御機嫌伺に参られ候、刀脇差の吉凶則ち御前に召出され、治部事は、刀・脇差の運の吉凶、能く見申し候、此刀運の善悪、見候様にと、仰付けられ、則ち右の御刀を取抜き候て、見申し候て、何の役にも立ち申す道具にて之なきの由、申し候て、投げ申し候、道伯様殊の外、無興なされ候、立斎様御意なされ候は、扨こそ主膳、此刀指され候て、能き仕合とある事、之なく候、道具の運の吉凶は、慥に印ある事なりと、仰せられ候、道具余多御出しなされ、御見せなされ候、夫々によしあし申上げ候、悪しき由申上げたるは、御指料にはなされず候、道伯様、治部へ仰せらるゝは、刀の運悪しきを指しては、指主の為め、悪しき事あるやと、御尋ねなされ候、治部申上げ候は、申すに及ばざる事に候、運の悪しき刀は、指主を守らず、夫故久しく指主の身に添へ申さず、必ず人の手に渡り申し候、いか様の瑾物にても、三代伝りたるをば、重宝の刀と仕り候、其故は指主を守り、男冥利に叶ふ故、子孫相続にて、相伝り候処を、崇み申され候と申上げ候、立斎様へも、尤の由御意なされ候、

一、道伯様御尋ねなされ候は次手御座なく候て、御尋ね申上げず候、私儀も最早立花の御名字名乗り候様にと、仰付けられ候間、入らざる儀に御座候へども、立花に御改めなされ候儀、少し承知仕り居り申したく存じ候由、仰上げられ候、宗茂様御意に、殊の外長く六ヶしき事なり、立花鑑俊去り乍ら大体鑑俊を、道雪様御付けなされ候事は、定めて聞召さるべく候、鑑俊は代々立花の城主にて、大友の嫡流なり、昔は立花を西大友と申したる由に候、義教将軍より、立花大友入道と之あり候状、参り候、以後大友を改め、立花を用ひ候、大友家にて、古今共に、一門の内に立花に上越す仁之なく候、鑑俊代までも、大友家のあひしらひ、中々重きことに候、然れども鑑俊重畳悪逆之あり候故、滅亡仕り候、鑑俊子新五郎、流浪仕り候て、道雪様へ申され候は、鑑俊不義の段は、言語に絶し候、父子格別の儀に候間、道雪様御憐愍を以て、代々の知行所、少しにても安堵仕りたく候、道雪様を少しも恨オープンアクセス NDLJP:55み申す心之なく候、御才覚を以て、望の通り、知行安堵の儀、相叶ひ申さず候はゞ、何方に罷在り候とも、大友殿より御構なく候様に、御取持ち下され候様にと、頼み申さるゝに付、道雪様より大友殿へ、仰達せられ候処、赦免之なく候を、色々仰達せられ、住所の安堵、事叶ひ申し候、其後道雪様より大友殿へ、立花の名跡は、大友の嫡孫として、代々忠節、其紛なく候、然る所、新五郎不義に付、御先代に御誅罰なされ候、今度鑑俊適〻立花の家を起し候へども、重畳の不義に付、討果され候、この鑑俊、元来立花の家来筋の者の子にて候間、筋目も慥ならず、不義なるも道理に候、立花の名跡断絶の所は、御前代より、歎き思召され候に付、鑑俊にも仰付けられ候、立花氏の再興今とても断絶の所は、歎き思召さるべき儀、勿論の儀御座候、道雪様元来戸次の御名字御相続なされ、御知行も相違なく、鎮連へ御譲りなされ候間、此上は立花の御名字御名乗りなされ、則ち立花御在城遊されたき由、御望みなされ候処、大友殿聢と御合点之なく候へども、大方無理に御望み、相叶はれ候、然れども道雪様へ、其後に立花御在城計りにて、立花とは御名乗りなされず候、宗茂様へ、立花御名乗なされ候様にとの御事なり、鑑俊子新五郎、道雪様御心入、身に余り、忝く存じ、立花の名字御継ぎ下され候儀、誠に此上なき悦に候由、申し候て、立花先祖より伝来候品々、道雪様へ進上申され候、綸旨・院宣・将軍家御教書・血附の扇子・旗・吉光の脇差、彼是数多之ある由、皆焼失にて、扇・脇差・旗計り相残り候と、御語りなされ候、

鑑俊の素性一、由布美作申され候は、立花左近将監鑑俊は、元来軸丸右近と申す者の子なり、秋月殿腹込の子とも申し候、其故に此前、秋月滅亡の時、其仕ひ女の内、容貌勝れたるを、右の軸丸取り候て、妻に仕り候が、程なく男子を持ち申し候、其後軸丸首尾候て殺され候、其妻をば、一万田弾正妾に仕り候処、右の男子に離れ候ては、奉公仕るまじき由、申すに付、子共に引上げ寵愛仕り候、後は右の連子、殊の外馳走仕り、田原・吉岡、其外の親類にも相頼み、此子を何卒取立てたく存じ、色々仕り候処、右の軸丸は、立花家譜代にて、立花の系図・巻物、代々相伝へ候品々、所持仕り候を、女取置き、之を幸に仕り、色々申上げ、立花の名跡に取立てられ候、鑑俊母は秋月の娘を、軸丸密通仕り、盗取るとも申し候、

一、同美作咄に、筑前立花の城主立花新五郎まで、代々大友へ忠節多く之あり候、オープンアクセス NDLJP:56其上大友嫡流たる故、大屋形〈義鑑の事、豊後衆左様に申し候〉までは、随分重き御会釈にて候、尤も鑑俊、最前は殊の外軽く候へども、筑前・肥前の間にて、二三度能く相働かれ候、後に則ち立花の城主に仰付けられ、其後は前の立花代々の格式に替る事之なく候、前つかたも、余りおこられ候て、豊後を潰し、立花より大友の名跡を相続せんと歎きて、隠謀顕れ候て、立花の名跡、断絶仕りたる由に候、鑑俊も武勇は勝れ候へども、幼少の時分よりの母が、色々の不義逆心を教へ勧めけるとなり、

一、雪斎咄に、丹八左衛門、戦場の御奉公も、おろかなく仕り候、然れども常の時、さのみ役に立たざる生付との物語なり、いか様の儀候て、左様に申され候やと、不審にて、古庄源左衛門に尋ね候処、是は腹赤様御事に就いて、雪斎其外御家中の面々、八左衛門并松岡中務が伯父妙貞が事を不届に存じ、左様に申し候、其子細は、太閤西国御下向の年、則ち薩摩御陣なり、諸大名の質に、子共・兄弟にても、七歳より下の者は、成り申さず候、秀吉薩摩征伐の時人質を出す殿様よりは、宋雲様大坂へ御座なされ候筈に御座候へども、其年御病気に付、前の年九月より、翌年の三月まで、腹赤様大坂へ御座なされ候、御供を八左衛門相勤め申し候、御登城の事をば、摂津始め、御家中にて、何れも隠し申し候、家人共に隠し申す事、憎からぬ事共に候、其節八左衛門、不覚なる仕様と申すにて、今に悪しく申し候、其時より、御登城の事は、隠し申し候、今程は最早腹赤様へは、上方へ御越しなされたると申す事、知りたる者も少く候、此頃まで、妙貞善道寺の尼寺に居り申し候、是へ殿様御尋ね候事共、語らせ聞き候に、世上に申し候通りなり、殿様計り御不義と申すも、余りなる事なり、兎角斯様の沙汰、無用の由申し候、

立花の血附の扇一、立斎様、長久寺法印へ御咄に、立花の血附の扇といふは、何れも実に聞き覚え居られ候や、道雪様御在世の時、御覧なされ候には、鉄首の猪の目すかし之あるに、日の丸を出したる平骨の扇、先年坊主が母の呉れたる骨三本は、則ち右の鉄骨の扇なり、又飾扇を血附といふは、戸次の家にての事なり、此事に付、藤北紀伊守に如何様の事ぞと、尋ね候へば、結城をば戸次が討ちて、其首をすゑたるは、貞載〈名乗不覚〉懸其時差したると申し候故、二本とも血附の扇と申し、苦しからずと申し候、道雪様には、鉄骨の扇を血附と御意なされたると、御覚えなされたる由、御咄なり、又兎角即座に結城を討ちたるは、戸次にて候、大友も即座に死したるにては之オープンアクセス NDLJP:57なく、結城の首を、尊氏の御前に持ちて出でられたる時に、吉光の脇差を、足利の家の重宝たれども、今度の忠勤に依つて、遣すとの事なり、又戸次が討ちたる印には、此度結城太夫〈此所大友殿の名御咄覚えず〉を切り候処、すかさず結城を討取り、手を負ふとの事、神妙に候、戸次〈此名御前にも御失念〉へと、仮名に尊氏の自筆の状、之あり候、然れば血附の扇、戸次・立花両家に之ある筈にて、之を細かにいへば、六ケしく入組みたる事との御物語なり、

一、津川円斎咄に、此以前、屋名瀬に角末紹覚と申す法体の浪人御座候、是は豊後にては、俗名治部太夫と申したる者にて候、大友殿至明寺殿の時、筑後の生桑、〈所の名覚えず、〉菅刑部為めには、おばにて之あり候、おみねのお方と申す、容貌勝れ候故、御寵愛候て、召置かれ候、此腹に女子一人出生候、成人の後、宗麟より新田茂述に遣され候、茂述死去の後、男子之なく、女子一人七ツになられ候、之あり候へども、世間は乱れ申し候最中にて、茂述跡も新田掃部嫡子を右の女子に取合ひ、名跡相続候様にとの事なれども、中々左様に仕り候ても、定なる事成り難く、茂述後室をば、脇屋寂宗〈新田とも申し候、是は俗名佐田七郎兵衛と申し、代々脇屋名乗り申し候内、新田にても、茂述とは、別家の由、義述為めには、従兄にてありたる由〉手前に引取り申し候、寂宗為めには、茂述は姪にてありたる由、幼名はおなりと申したる御料人にて御座候、簗頼村は寂宗知行所にて、右の御料人も簗瀬に御座候て、病死なされ候、紹覚は右の御料人茂述へ御座候時、附添ひ参りたる者にて、後まで簗瀬に居り申し候、脇屋の名跡も、寂宗までにて断絶仕り候、寂宗に女子一人・男子一人之あり候、男子は遁世候て、行方知れ申さず候、

一、太閤薩摩御陣の時、肥後の内、〈所の名覚えず、〉川水深く候て、宗茂様始め、御先手の諸大名、段々一備宛御越しなされ候、浅野殿・宗茂様御両人早く御越しなされ、後陣の諸勢、御待ちなされ候、此時浅野殿へ宗茂様御物語なされ候、私領内近所に、新田左兵衛と申して、筑後に罷在り候、新田氏の子孫私方へも左兵衛同名に、掃部と申す者之あり候、是は筋目あるものに候て、折を以て、各様御取持を以て、御目見にても仕らせたく、思召し上げられ候旨、仰述べられ候、浅野殿仰せられ候、元来上野の新田にて之あり候やと、御尋ねなされ候、宗茂様仰せらるゝは、いかにも彼者先祖は、上野の新田にて、大友とも近き内縁の者にて御座候と、御咄しなされ候、浅野殿、それは次手次第、いかにも御目見成り申すべき儀と、仰せられ候、其後肥後一揆オープンアクセス NDLJP:58の儀に付、西国にて家古き名家の侍共、御取合の儀成り難き首尾に付、宗茂様よりも、重ねて御頼みなされ候儀も之なく、浅野殿よりも、仰出され候事も之なく候、太閤薨去の後、太閤記出来申し候、則ち浅野殿仰せられ候は、薩摩陣の時、肥後にて立花殿珍しく、新田名字御目見の願仕られ候、是は慥なる国侍の様に、咄し仕られ候、其時分立花殿相〔憑カ〕の様に申され候由、甫庵へ御物語候に付、加藤右馬允所へ甫庵方より、立花殿御家来、皆其元の様に引取られ、肥後守殿御扶持の由、承り及び候、左様の筋目存じたる衆、之あるべく候間、右の新田名字の儀、御聞届け下さるゝ由、申越し候、其節右馬允所へ、坂本道烈・旧杵道運参り居り申し候に、右馬允等申し候、道運申し候は、それは只今の佐田清兵衛親にて候由、申し候に付、則ち右馬允方より、其子孫唯今は、肥後守家中に、佐田名乗り罷在り候由、申越し候に付、太閤記に、九州降参の侍の内に、佐田と記し申し候、此段も宗茂様へ尋ねて参り候故、立花壱岐いかゞ仕るべくやと、相伺ひ申され候処、やかましき事、取合ひ申すまじき由、御意なさるゝに付、肥後へ尋ねも参りたるなり、右の通り、甫庵弟子大沢玄古咄なり、浅野殿近習に居申し候中村孫大夫物語、又坂本道烈咄、段々一つに之を書き載するものなり、

立花十時敵将星野中務を討つ一、京都兎角兵衛門咄に、高鳥居取崩され候時、星野中務疲れ、人数残らず討たれ候故、牀机にかゝり居り申し候処に、立花次郎兵衛・十時伝右衛門両人、一同に懸り候、伝右衛門は大身の鑓、次郎兵衛は刀にて仕り候、両人共前後なく切付け候に、大将と見申し候故、次郎兵衛は刀を両手にて、押戴き懸り申し候、伝右衛門、此時分までは若く候て、何の思慮も之なく、次郎兵衛は面白き事を仕ると計り存じ候、中務は相打にて候、其節池部龍右衛門に仰付けられ、首帳書かせられ候、伝右衛門は、次郎兵衛刀にて仕り候て、次郎兵衛討ち申したると申し候、次郎兵衛は鑓下の高名とこそ申し候間、伝右衛門討ちたるにて候処、宗茂様御出でなされ、何れも聞事なる申分と、御意なされ候、伝右衛門・龍右衛門に少し目成仕り候故、中務は次郎兵衛打取り候と、首帳に記し申し候、伝右衛門両人共、御感状下され候、此時は龍右衛門武者奉行の様なる者にて、之ありたる由に候、中務は大男の大刀にてありたる由に候、其前殊の外強く働き候に付、刀は打折れて、鞘計り腰にありたる由に候、次郎兵衛は軍礼を能く存じたる故、伝右衛門も高麗を存じたオープンアクセス NDLJP:59る故、大将を打取り候時の事、いかゞ仕りたるものぞと、尋ね申し候、敵の大将を切る時の作法立心〈治郎兵衛法名か〉 申され候は、是は武士道の第一と仕る事にて、少しも無礼せぬ様に、心得申す事にて候、然れども家人一同に懸り申す時、作法の様に仕りては、後手に成り候故、持ちたる手道具を、弓ならば矢・鑓・長刀何れにても、押戴き打ち申す事、軍神へ、武冥理に叶ひ、大将を討つ処の一礼に候、一人かゝり候時は、総じて大将の最期に働く事は、之なき物に候、然れども当座の敵を打払はれ候へば、運を開かるゝ所、又は当の敵を打ちて、其場を落ち、後日運を開かるゝ様なるは、大将とても働く事尤なり、牀机・敷皮に居て、少しも働かれざる時は、大将の前、少し左に寄り、畳二畳程、大方二間たるべく候、相隔て、譬へば当御家にて、次郎兵衛中務を、討つ時の儀に候はゞ、立花左近将監親成〈統虎・宗茂、但此親成は、道雪の別の諱か〉家などは、幕下とか云ふなり、家人又は被官、又は左近将監内と、此三はいはぬ詞なり、親成幕下立花次郎兵衛、源何某御介錯を仕らん為め、参りたりと、刀を右の手に持ち、左の手を突き、成程礼儀正しくいふ物なり、大将甲の錣を首にさはり、切る事ならずば、御甲を御取りあれといふべし、甲を取られずば、唯々笛をよく見定めて、切先にて突き切り、甲を取りて除け、首を取るべし、相手向にて、自然大将働き候とも、手さへ負はずば、大将働きたるといはぬ物なり、介錯に参りたるといふ時、大将は物いはぬものなり、

高鳥居の戦一、藤江太郎右衛門咄に、高鳥居取崩され候時、筑前国中へも、若杉・岩屋を始め、又方々に、敵余多之あり候故、自然高鳥居、御利運に成り申さず候はゞ、何様御大事にて之あるべしと、諸人も存じ候、小野和泉与力丹波左馬・薦野参河与力藤江太郎左衛門両人召出され、高鳥居の敵の用心、彼是城近く参り、見届け候様、仰付けられ候、内田玄恕召出され、高鳥居へ御馬を向けられ候はゞ、東へ御旗本向けらるべくや、西へ向けらるべくやと、御尋ねなされ候、玄恕申上げ候は、両人を遣され候間、星野兄弟、西にても東にても、中務居り申す方を見届け次第、中務罷在る方へ、御旗本を向けられ、然るべしと、申上げ候処、両人罷帰り、城内の人数雑兵等には越し申すまじく候、若杉の取出には、人数五百内外、之あるべく候、一昨夜より今朝まで、両所の人数、水を汲み申す積り、食を拵へ候、煙の立つ様、見届け申したる由、申すに付、中務は東に居り申すか、西に居り申すかと、玄恕尋ね申オープンアクセス NDLJP:60し候、両人共に、居所定め申す事、存ぜざる由申し候、玄恕申し候は、足場能く御座候間、東に御旗本を向けらるべく候、安東津之助に御馬印を御渡しなされ候はば、中務譬ひ西に罷在り候とも、東に向ひ申すべき由、申し候て、先づ若杉の取出御蹈落しなさるべき由、仰出され候、御先は中村摂津・立花三右衛門、夜九時に立花を出□かけ候、取出の敵は、高鳥居へ引取るべき覚悟にて居り申し候処へ、急に押詰の候故、混乱仕りたると、見え申し候、然れば黒木織部・和仁図書と申す二人の大将分の者、随分器の者にて、人数を丸め、両度突出し、相働き申し候、然る所に、御馬週五六騎にて御駈付けなされ、十時摂津が北より相働き候人数、早々引取り候て、丹波と一方より西に迴り候へど、御下知なされ、摂津勢引返し候と、一度に敵は崩れ候て、囲を出で、高鳥居の様に引き申し候、小野和泉・蘆野参河両人御先仰付けられ、高鳥居へ若杉より直に取詰められ、其時まで夜は七つ少し過ぎにて之あり候、東の屏際より五町隔て、御馬を立てられ候、何れも力を尽し、相働き候へども、和泉を始め、石に打たれ、大勢損じ申し候、御先手攻めあぐみ、見え申し候処、〈高島居は、険山にて、四方に石弓を多く仕懸け候体、今に其跡残り之あり、〉御馬を御下りなされ、城近くに御寄りなされ、御下知なされ候に、城より打ち候鉄炮、御甲の右の吹返に当り申し候、又御前より二三間先に、御道具を持ち居り申し候者、真中を鉄炮にて打抜かれ、倒れ申し候、之を見て、立花右衛門大夫・同次郎兵衛・池部龍右衛門、此等廿四人一同に、御矢面に立塞り申し候処、何れもまだなき事を仕り候、御自身御手を下されずば、捗行くまじと、御愚なされ、押分けて先へ御進みなされ候、之を見候て、何れも一同に乗入り申し候、御旗本乗入り申し候と、聞え候に付、参河嫡子吉右衛門、〈此内蒔野弥七郎と申し候、〉未だ髪前髪之あり候て、御旗本さへ乗入り候処、後れ候は、生きて是非なく候と申し、一番に塀に付き申し候、参河も一同に塀に付き申し候、藤江太郎右衛門・寒田弥吉、西の手一番に乗入り、御塀下に敵も手負多く見え候へども、此首は取るに及ばずと存じ、先へ参り候処、矢倉より下り申す者之あり候、則ち鑓付け、太郎右衛門甲首を取り申し候、則ち矢倉に上り、見申し候に、民部〈中書の弟〉は重き手負ひ引取り、自害仕りたる故、敵対申す者之なく候間、即刻火を懸け申し候、東の手は、中務随分の覚悟の者にて之ある故、五六度まで突出し申し候、長刀にて相働き申し候、立花次郎兵衛鑓を合せ候処、京都兎角兵衛・十時伝右衛門相オープンアクセス NDLJP:61続き申し候、中務長刀打折れ候処を、次郎兵衛突き候へども、突き外し、上帯を突切り申し候に付、門の内へ引入り、上帯を結び申すべしと、刀を抜き、片手にて扉に立添ひ、切払ひ仕り候が、柱に切込み、刀も打折れ申し候、運の極と存じ候や、七八間引続き、石に腰を懸け、少しも働き申さず候、是より後は、京都兎角兵衛咄同断なり、

一、同人咄に、大津にて手に合ひ申さず、若手の衆四五十人、塀を越タ候て後、浜の手本丸の門口に押詰め申し候、内田忠兵衛監督此時之を見て、今にも敵突出て候はば、一支も仕るまじく候為体なり、少し引取り候へと、申しも果さゞる所に、敵三百計り真黒に突出で申し候、一支も仕らず、御人数崩れ申し候、此時立花五右衛門・内田忠兵衛を始め、六人一所にて、戦死仕り候、立花三太夫・安東五郎右衛門・石松安兵衛など、大勢に引立てられ、心ならず崩れ申し候故、諸人親程もなき者共と申し候故、此以後何事にでも、有り次第討死せんと、存じ極め罷在り、終に江上にて討死仕りたることなり、

一、宗茂様御意に、いか様の御生付にて御座候や、御親とだに申し奉るは、御実父様も御養父様も、殊の外厳しき御生付にて御座候、紹運様は常には、さのみ烈しき御事は、御座なく候、宗茂実父の訓戒然れどもはづれに、言語に絶したる厳しき御意地御座候、立花様御当家へ御養子に御座候時、御衣装なされ、紹運様御前へ御出でなされ候時、御暇乞の御盃遊され候て、仰渡され候は、向後は紹運様を夢にも御親と思召し上げらるまじく候、明日にも道雪様と、武士の習、敵味方とも御成りなされ候はゞ、道雪様の御先へ立たれ、成程紹運様を御討ちなさるべく候、道雪様へは少しも未練なる事を大に御嫌ひなされ候間、自然不覚の御覚悟にて、道雪様より義絶遊さるなどゝ、之あり候時、必ず岩屋の様に、御帰りなさるまじく候、其時は之を以て潔く御生害なさるべき由、御意なされ、長光〈作不覚に之あり、慥に長光と御意なされ候〉の剣を遣され候、御手づから遣され候儀、今に御〔忘カ〕なされず候故、其劒を常に御身を離されず、御形見と思召し上げらるゝとの御意にて、御沉涙なり、

一、立斎様御咄に、御当家に御養子なされ御座候事、最前は紹運様御承引遊されず候、然る所、大友隼人之を聞かれ候て、是非とも然るべき由、申談ぜられ、紹運様へも御同心なり、隼人は器量ある生付にて、大友一家には、珍しき人柄にて候オープンアクセス NDLJP:62処、早世は惜しき事と、御意なされ候、此隼人殿は、元来義鑑の末子にて、母は本庄出雲が娘にてありたる由なり、御簾中より嫉妬深く候故、幼少より小原宗良が所にて、養育仕り候後、実名失念〈宋雲様御父親様〉養子にて、宋雲様へは御兄なり、養子の後も、大友名乗られたるなり、

一、大坂御陣の時、夏陣に、伏見より本多佐渡守承にて、立斎様へ密に早々御越しなされ候様にとの御意あり、家康公より佐渡守へ仰付けらるゝは、秀忠公若く御座なされ候、斯様の事に及びては、律義にして、功の入りたる年盛の者、相談の向座に之なくてはならぬ物に候、立花はさのみ心安ずべき者に之なく候へども、弓矢を取りて功者に候、家康の宗茂観殊に物を変改せぬ気立に之あり候間、将軍今度の談合相手に仕らるべく候、此趣佐渡守手前より申聞くべしとの御意なり、立斉様へは、御先に大坂へ御座なされ候故、早々伏見御上りなされ候処、佐渡守右の通り申談ず、則ち将軍様御前へ御出でなされ候、御意に、委細の儀は、佐渡守咄に相伝申すべく候、其方儀多年心安き事に候、秀忠福島加藤の態度を宗茂に問ふ今度出勢の内、福島左衛門太夫・加藤左馬之助、其外毛利・浅野以下、別条之あるまじくや、加藤・福島は、其方数年の旧友にて、心立も存じたるべしと、思召し上げられ候に付、御尋ねなさるとの御事なり、御請に仰上げられ候は、加藤・福島事、別条あるまじく候、総て太閤御取立の者共、先年其女房々々登城仰付けられ候後々は、太閤へも内心の憤之あり候、只今も斯様の儀、白地に申上げ候は、太閤御恩は浅からぬ身にて候へども、一切の物は、道理と申す物之ある時は、一旦悪しく候ても、後は能き事に成り申し候、太閤の御子孫に向ひ、弓を引き申す事は、身に取つては、憚に似て候へども、関ヶ原御一戦の刻までに、秀頼公の為めには、既に身命を捨て、家を潰し申し候、是れ太閤への報恩に御座候、其後生計の為めに、御当家より少地下され候間、何様御奉公仕るべき所存に御座候、御人数の内、誰彼と申すとも、少しも御心置かるまじく候、太閤子孫断絶の時節到来太閤御子孫断絶の時節到来にて候故、御本意に任せられ候儀、少しも滞り申すまじく候由、仰上げられ候、重ねて御意に、秀吉子孫断絶の時節到来とは、如何様の事ぞと、御尋なり、又仰上げられ候は、最前申上げ候様に、物は道理次第にて御座候、太閤は信長の取立にて、信長の子孫を、或は死罪或は流罪に行はれ候、譬へば、御当家太閤の御恩を厚くかつがるゝと申すとも、太閤の非義、子孫に報う所、其遁あオープンアクセス NDLJP:63るまじく、況や御当家少しも太閤の恩下に成りたると申す儀、御座なく候間、今度の御利運、露程も疑あるまじき由、仰上げられ候時、御前にも別して御納得遊され、仰上げらるゝ所、一々御尤に思召し上げられ候、早々大坂へ罷帰るべき由、仰付けられ候、佐渡守申され候は、御苦労に候へども、唯今御意の通り、加藤・福島抔は、心中も計り難く候間、大坂にて自然左様の事御存あるべき便候はゞ、情報の請を拒絶す早早御聞届けなされ、御註進肝要に候と申され候時、立斎様御返答に、只今御前にて申上げ候様に、太閤の御子孫に弓引き申す事、憚に候へども、道理に依つての事に候、加藤・福島も拙者同前の所存たるべく候、然るに御当家に対し、今に至り忠節ぶりに、彼者共が口をむしり、心を引き見る様なる儀は、弓矢八幡も照覧、宗茂に於ては、仕るべからず候、千万に一つも、彼者共野心之あるに於ては、拙者へ申聞かせぬ事、よも之あるまじく候、其時は右の道理を以て、一往申談ずべく候、夫にても承引仕らず候へば、将軍の御前にて、斯くの如く申したる事にて候間、某に於ては、此所存変改仕るまじく候由、申し候て、福島にても加藤にても、相手を遁さず、即座に刺違ひ申すべく候、我等刺違ひたりと、御聞きなされ候はゞ、生残りたる加藤にても、福島にても、御隔心御尤に候と、仰せられ、早々大坂へ御帰りなされ候、其段将軍様御聞き遊され、弓矢を取る程の者は、左様の清き心立なくては、成り難しと、再三御感遊されたる由、後に佐渡守殿御咄を、即座に書付けたり、

大坂の役宗茂東軍の顧問に備ふ一、同御陣に、将軍様にて立斎様召出され、御本陣を天王寺・茶白山へ移され候はん、如何と御尋なり、〈此章不審、将軍様御本陣は岡山、大御所御本陣は茶臼山なり、但し此上意は、大御所の上意か、〉御請に、御旗本の軍を立てられ候処、其体は了簡に及ばず候と、仰上げられ候時、いか様の所存ぞと、重ねて御尋ねなされ候、其上仰上げられ候は、憚ながら家康公の御陣をば、伏見に御据ゑなされ、御前の御陣を、浜の少しこなた、〈いづくの地か不審、〉諸大名の少々を折々御巡見に、大坂へ御馬を向けられ、御下知御尤に存じ奉り候、此城の構、少々堀など埋め申し候ても、中々急に破り難き要害に御座候、然る所に、不日に取詰められ、五日御躊躇ひなされ候はゞ、大軍の習にて、殊の外勇気強く、少し時過ぎ候へば、退屈仕り候物に候間、敵より之を存じ、打つて出で候はゞ、いかゞに存じ候と、仰上げられ候、御前へも申す所、尤に思召し上げられ候、去り乍ら其段オープンアクセス NDLJP:64は少し御奥意之ある様なる御意なり、立斎様仰上げられ候様に、御旗本まで崩れ申したる時、佐渡守殿申され候は、立花が申したるに違はず候、御本陣の場を御替へなさるべくやと、申上げれ候、将軍様御意に、是程に取詰め候て、陣場を改め候はゞ、敵に利を得さするにて候、軍の習、斯様の事珍しからずと、御意なされ、少しも御構ひなされず候、佐渡守殿立花様へ御遭ひ、上意此分に候、いかゞ仕るべくやと申され候、立斎様御返答に、上意の通りに御座候、唯今に至り、御陣を一町にても、遠のけらるゝと之ある儀、以ての外悪しき事に候、畢竟此所の場を、進み馳するとも、引くまじき為めの遠巻にて候、宗茂秀頼の出馬なきを予言す城より昨日打出で候に、秀頼公の出馬に候はゞ、御当家の御大事と存じ候処、出馬之なく候間、早々静り申し候、最早重ねて城よりは、手強く働き候事、成るまじく候、物の用に立つ程の物は、昨日大方羅出で、或は討死、或は手負ひ候て、重ねて働き候手立、中々なるまじく候、其上秀頼公若く御座候て、総人数のしまり覚束なく候、弓矢功者共が、遮つて昨日打出で候を、何の分ちなき者共に、多分うりつけなる働無用と、申したるも之あるべく候、秀頼公にも、させる者附添ひ申さず候間、昨日も出馬之なく候、然れば口々に申しなし、昨日打出でたる程の者は、上に無用の働、仕りたると申しなすべく候、此後城より打出づる事、存寄も之なき事に候、又秀頼公出馬候て、手強き合戦と申す事も、之あるまじく候と、仰せられ候処、少しも相違之なく候故、其段々御耳に立ち、家康公より将軍様へ、立花には懇意あるべく候、秀忠宗茂を優遇す然れば十五万石より上の大名になしては、いかに心安く候ても、軽くはあひしらはれぬ物にて候間、其心得之あるべしとの御事なり、其後大坂落城、二条の御城にて、諸大名列座の時、越前少将殿召出され、其次蜂須賀殿、其次立斎様召出なれ、今度は何角と大切の心遣、別して御満足遊され候由、将軍様御直の御意なり、其時分諸家の沙汰に、立花は小身なれども、出頭と人より先に、召出されたりと、申候へども、伏見より、大坂まで、段々右の首尾にて、御懇の御意なり、右の段々、本多佐渡守殿・細川三斎老へ、御咄、高晴軒にて、之を承り候、太閤よりの感状、御所望にて御覧の上に、秀吉には莫大の忠勤候、御当家には、させる御奉公之なきに、御冥加に相叶はれたる儀に候と、之ある時、佐渡守殿此咄なり、

一、本多佐渡守殿へ御光儀の時、御前に御慰の為めに、的御座候、問を少し遠く仕オープンアクセス NDLJP:65り候様、仰付けられ候に付、的場十七間に出来申し候、御成遊され、射手衆罷出て候へども、間遠く之あり候故か、さして中り申さず候、宗茂の弓術御前より佐渡守方御覧なされ、少し御笑ひなされ候、佐渡守罷立たれ候て、飛騨守老体ながら、御前にて一矢仕られ候様にとの上意候と、仰せられ候、宗茂様仰せられ候は、若き時分の物に御座候、六十余の某が御前にて仕り候儀、いかゞに存じ候、去り乍ら上意と御座候に、御断も申されず候、少し中絶にては、射申す事成り難き物にて御座候、我等は二十年に余り、弓射申さず候、蹴矢を仕るも、御慰に候と仰せられ、御立ちなさるゝを、御覧遊され、御前よりそれと仰出さると、一同に弱弓強弓五六張拾決を相添へ、宗茂様御前に持参候、弓懸御指しなされ、弓は何れにても能く候、矢束何程に之あるべくやと仰せられ、矢御取り、矢束御覧候て、一手御取りなされ、御立場に御出でなされ、御膚を脱かれ、御矢構なされ、御引付なされ候と、其座に居申す程の衆は、申すに及ばず、御前にも、扨々御聞及び遊さるゝにも勝りたる、見事の手前と、御意御座候、早矢をから串の竹を射削り、的の内に、御射込みなされ候、則ち矢答から串と答へ申し候間、御年寄られ、御中絶故、殊の外矢あらく御座候と仰せられ、一本にて召置かるべしと、遊され候を、御前より、とてもの儀に、も一本も仕れと、仰出され候間、又遊され候、是は星を遊され候故、矢答きりもみと答へ申し候、御前にも、思召し及ばれたるより、上の弓との上意にて、御盃の下、御頂戴なされ候由、壱岐へ御咄遊さる、御若年より御好みなされ候弓の始終、是にてあるべく候、天下の御前にて、所望候と候て、弓遊さるべしとは、思召寄られずとの御意なり、

一、浅野弾正殿、柳川へ御出の時、御馳走に御鷹野に御出でなさるゝ由にて御同道遊され、御出でなされ候、其時分新田掃部、隼の逸物所持致し候を、三度まで合せられ候へども、其日に限り、羽向けも仕らず候、御前には御鷹召し置かれず候、佐伯善左衛門・立花右衛門太夫など、手前より鷹を出し候へども、何れも其日は不手際にて、鳥一つも取れ申さず候、御不興に思召し上げられ、船より御帰りなされ候時、田に居り申し候鵜を、鷹は無精仕り候間、御馳走に一矢遊さるべき由、御意なされ、十四五間之あり候を、ひやうにて、追鳥に遊され候、尾筒の上より、餌持へかけ、真中を御射通しなされ候、二本御取りなされ候矢、今一本、何にてもオープンアクセス NDLJP:66居申し候へかしと、御立ちなされ候、弾正殿仰せられ候は、自然御射外しなされ候へば、初の御手際に、疵付き申し候間、召置かれ候様にと、御挨拶なされ候処、薄の穂に頬白居り申すを、あれ御覧なされ候へと仰せられ、十間計りにて遊され候、羽節、御射切りなされ候故、則ち落ち申し候、弾正殿殊の外感ぜられ候、太閤へも此段御聞きなされ、折を以て、弓御所望なさるべしとの御意御座候由、弾正殿御咄なされ候へども、太閤の御前にては、遊されざる由、御咄なり、

宗茂家中仕置の法一、細川三斎老御同道にて、御城より御下りなされ、直に三斎老御同道にて、御帰りなされ、御料理の上、茶進ぜられ候、御拝領の御茶なり、其後万づ御咄し遊され候、三斎仰せられ候は、飛騨守殿へは、家中の御仕置に、一切御労苦はなされず候由、仰せられ候、了簡に及ばず候、目付役人に能き人御持ち候や、隠居にても僅か召仕ひ候者の事、大方にせい当致さねば、埓明き申さずとの御事なり、殿様仰せられ候は、我等は小身者に御座候故、今まで横目と申す者、一人も召置き申さず候、何事も我等は、一分に能しと存じ候事、悪しと存じ候事、女房共へ申すも、家中・外様へ召仕ひ候者へ申すも、同様に仕り候、元来物を隠す事、毛頭も御座なく候、寝所にても、申したる事をば、家中の又者までも、聞かせたしと存じ候程に、仕り候、夫故我等が好み候事ならでは、家中の者共仕らず候、常々嫌ひ候事は、法度仕らず候へども、致さず候、諸事私取置くを、家中の者共、真似申し候に付、何れもぬらりとしたる者計り持ち申し候、何とも下知仕るべき様、御座なく候間、私よりも法に外れたる馬鹿者御座候て、大きなるいたづらを仕り候時は、目付と申しても、召置き申さず候へども、いや共に聞け申し候間、其様なるやからは、夫夫に仕置き申付け候、一切に付、斯様に仕れ、左様に致せと、常々に世話仕り候事は、少しも之なきとの御咄なり、三斎御聞きなされ候て、それはなる事にては御座なくと仰せられ、ふつと物仰せられず、扨もと計り御申し候なり、

立花山切岸下の戦一、鑑俊御討果しなされ候時、切岸下〈立唯山たの城険絶なり、故に切岸下にて血戦なり〉の鑓、殊の外手強く候て、御人数も二度突返され候、道雪様御自身御下知遊され、御先に十時右近・小野和泉・足達宗円、僅か三人立とる参り候、立花方よりは、福井玄鉄と申し候て、名を得たる覚えの者、真先に立ち、七八十程の勢にて、御先手高野出雲・十時摂津〈是は雪斎親なり〉 両手の人数と、真黒に鑓を合せ候処、味方よりは先登りの道、敵よりは大方下坂程オープンアクセス NDLJP:67の地形にて、御先勢皆突崩され、出雲・摂津、弥〻手負ひ申し候、之を御覧遊され、急に御懸りなさるゝに、日来道雪様をば、敵方にも能く見知り申したる儀に候故大勢にて取籠め候処、右近和泉・宗円、比類なく相働き、三人共大小の疵、十箇所より内なるは之なく候、足下に御前にて、廿八人切伏せ申し候故、玄鉄が人数も、引色に罷成り候処、御跡備より戸次刑部・同治部、其外大勢駈付け、敵を払ひ申し候、此時程大切なる火急の第、大殿様度々の御鎗に、終に之なき由に候、鎗の最中に、敵一人脇に迴り下り、拳に三間計り置き候て、矢をつがひ、道雪様をねらひ申し候時、内田〈名失念、玄恕兄なり〉駈塞り、其矢に当り、一即死仕り候、幼少の子供へ、御懇の御書下さるとなり、

休松の戦一、休松の〈筑前〉御合戦に、御人数皆討死仕り候時、足達宗円は、討死仕り候やと、御意御座候、御前にては、七八間先より、宗円是に罷在り候と相答ひ、片手にては候へども、是れ御覧候へと、申し候て、甲計り三刎投げやり申し候、此時淵十八兵衛は御長刀持にて候、火急に候故、御長刀御取り遊さるべしとなされ候時、大将の御働と申す事は、某体のなくなり候て後の事と申し候て、是れ御覧遊され候へと申し、御前にて十八人切伏せ候故、御帰陣の後、則ち肩御免なされ、観蔵を十八兵衛になされ候、

一、同御合戦、夜に入り、夜討になされ候時、立花の切岸の儀、仰出され則ち御吉例に任ぜられ、和泉・宗円、若輩ながら、十時新右衛門、〈是は右近兄の子にて之ありたる由、休真の咄なり、早世故、其名を伏真るとと名乗り申さるとなり、〉御大切の御合戦の由、承付け、参りたる処、神妙に思召し上げられ候、其上右近先年、切岸の下の働、比類なく候、其子に候間、仰付けらるゝ由にて、三人御先に立ち申し候、此時は侍中、僅に四十七人・雑兵百九人之ありたる由に候、各所持の食取出し、喰ひ申し候、道雪様を始め、滞なく喰ひ申したる者は、僅に八人にて之あり候、其外は下々まで、咽に通り申さず候、此様子御覧なされ、数千の味方、或は手負、或は討死、さながら算を乱したる中に、僅に相残り候は、上下に依らず、一人当千の者共なり、人は死ぬるより、大きなる事なし、男たる者、死に臨みて、食事せずんば、何を力にして、死出の山路を越えて行くべき、之を見候へと仰せられ、大きなる握飯四五、はらと召上がられ、御見せなされ候、之を見申して、一度に独も残らず、飯を給べ申したりとなり、

オープンアクセス NDLJP:68一、佐々陸奥守殿、肥後拝領致され、入部之ある節、肥後にて抱へられ候侍に、宗麟よりの侍に、筑後肥後国境の紛争宗麟よりの書出しに、肥後国の内、にぶしか村の事と之あり候を、持ち居り申し候、陸奥守殿、扨は右両所は、筑後の内にては、之あるまじとの事にて、其段柳川へ申し来り候、柳川にて御吟味なされ候処、高良山に筑後一国の図伝帳之あり、右両所村、筑後に其紛之なき故、御双方より、御使者の往返之あり候ても、其埓明き申さず候処、佐々殿、太閤より召し、登られ候時、野田に籠を立てさせ、自筆に、兼ねて申談じ候、にぶしか村両所の儀、たとひ肥後の内たりとも、向後異議なく、筑後の内になさるべき由相認め、宗茂様へ御状参り候、其後加藤主計頭肥後拝領の時、又右両村の儀、申し来り候、此時は御内証にて、埓明き申さず候に付、大坂御奉行所へ、御双方より仰出され候処、佐々殿よりの御状差出され、佐々も此儀に付、段々申す旨、之あり候へども、斯くの如しと、後には申したる由、仰述べられ候、奉行中の捌にても、相済み申さず、太閤様御耳に達し候処、佐々陸奥守、此状を認め候に、顕然筑後の内と、慥に承り届けず候はゞ、たとひと申す字を書き申すまじく候、筑後の内、勿論たるべしと、仰出され候、主計頭殿より、宗麟の書出、差出され候処、太閤殊の外御笑ひなされ、いか様の慥なる控あるかと、思召し上げられ候処、此大友が判形を以ての儀、佐々は申すに及ばず、加藤も似合はざる事を申し候、九州を手に入れ、数十代古き家にて居ながら、小身の島津にせばめられ、秀吉が太刀影を以て、漸く安堵仕る程に、万事の儀を取失ひ、不吟味なる大友が判を以て、証拠と仕る儀、さりとは是非に及ばずとの儀にて、事なき故、筑後の内に極る事初の如し、

石田三成宗茂の甘心を求む一、立斎様御咄に、高麗にて石田治部少輔申し候は、左近殿今度当表在陣の間、度々の御働は申すに及ばず、就中南大門の先陣、抜群の御手柄、御自分の誉にはなり申さず、皆秀家の手柄になり候て、上聞に達し候、此方御頼み思召し候はゞ、するどに申主ぐべき由申し候間、面白き物の申され様に候、左様の事、正直に申上げ候為めに、差越され候自分として、頼め申上ぐべしとは、此方所存に叶ひ申さず候間、御前の仕合次第と申し候へば、余程迷惑仕りたり、尤なる事に候、余人は存ぜず、何様我等は申上げ候程に、御自分よりも御書を以て、仰上げらるべき由申し候、又大坂にて此前つかた、治部申し候は、立花殿進上の正宗の刀、上へは浅野オープンアクセス NDLJP:69弾正進上と、思召され御座候、定めて貴様へは、御朱印頂戴なさるまじく候と、申し候間、如何様の成行をも存ぜず候、刀進上の御朱印とては、頂戴は仕らず候と、申し候へば、拙者に御任せ候へと、申し候が、頓て御朱印を取越し申し候、いかゞ仕たる心底にて、懇意仕り候やと、存じ候へば、自然の事之ある時、大切なる事を頼み申すべき所存とある儀を、関ヶ原以後に、思召し当てられ候と、仰せられたるなり、

小野和泉立花氏に属す一、小野和泉御家に、参り候儀は、至明寺殿の御代、鑑連様肥後へ御出陣の時、 〈此時の敵方の名乗知らず、リヤウアンと計り申し候、〉良簡は元来鑑連様へ御由緒之ある故、定めて御容捨の儀、之あるべしなどと、府内にて取沙汰之あり候、敵城は難所にて御座候故、急に攻め滅さるゝ事も成り難く候、夫に就き、御出陣の時、譬ひ親子・兄弟なりとも、敵味方に罷成り、用捨仕るべき子細之なく候、今度無二無三に、御戦死を遂げられ、聊か左様の私など、御心底之なき所、顕然なさるべく候へども、しもなき世上の沙汰に付、詮なく御戦死も、屋形へ対して不忠と、思召し上げられ候へば、御旗本より一両輩御同道なされ、後日の沙汰の為めに、なされたき由、仰達せらるゝに付、本庄甚五郎・奴留湯図書・小野弾助〈始めは大助と申しましたる由〉三人参り候、本庄は其後戦死仕り候、奴留湯は豊後へ帰り申し候、弾助は手前より望み候て、鑑連様御備内に罷成り居り申し候、最前は小者一人持たぬ体にて、罷有りたると、和泉咄なり、弾助は則ち小野和泉是なり、

小野和泉家老となる一、休松御帰陣の後、道雪様御家老は、申すに及ばず、侍大将まで大方残らず、討死仕り候に付、御家老役、誰に仰付けらるべくやと、御家中の者共、何れも召出され、御直に御尋ねなされ候、何れ〔もカ〕口を揃へ、小野和泉然るべき由、申上げ候、御前にも小野和泉と御書付けなされ、御握り御座なされ候を、御出しなされ、何れも申す所と思召し嘱啄、御満足に思召し上げらるゝ由、即ち和泉へ仰付けらるゝ由、戸次喜左衛門咄なり、

一、小野若狭申され候は、肥後にて和泉申し候は、清田又兵衛、其外一同に棚倉へ引越し申す由にて、暇乞に参られ候に、左近様御事は、御幼少より、御器量の程能々見及び申し候、御長命にさへ御座候はゞ、以来は元の大名に御成り兼ねなさるまじく候、何れも若く御座候間、物のむづかしき事、聢と御存あるまじく候、大オープンアクセス NDLJP:70殿の御代に合ひ候て、和泉武道の衰微を歎ず見申せば、左近様御代になり候ては、鑓の柄を握り、場を去らぬ骨ためしの者、三ケ一になり申し候、今五七年も過ぎ候はゞ、猶以て少くなりゆき、当地へ居り申し候は、申すに及ばず、左近様へ御奉公仕り、附添ひ申す衆とても、同時に候、鑓に附け申すまじく候、待ちて見られ候へ、此後世間に鎗業の事候時、大殿の御代より当殿まで、身共に御先を仰付けられ、相勤め候様に、世間に擢んでたる御誉になり候様なる儀は、あるまじく候、当殿の御代に、若者共の内に、切角御用にも立ち、後々は功者にもなり申すべしと存じ候、新左衛門・伝左衛門・安兵衛・監物・五右衛門・三太夫など、斯様なる者、人にも成立ち、御用にも立ち申すべしと存じ候は、大方討死仕り候、死残りたるは、吉右衛門・源兵衛など計りなり、是が何とも笑止なる事と申し候、竹迫惣左衛門申し候は、夫は何故段々悪しく成行き申し候やと尋ね申し候、一切に無精なる者多く候故なり、無精にと計りする物なり、いかなる名大将にても、其家中下々までの事を、悉く自身目利はならぬ物なり、我家の家老・組頭が目利して申上げねば、大将御存じあるべき様なし、人の善悪を申上ぐべき役を仕る者、斯くして偽を申すに付、刄の様なる仕方になり、挨拶の仕様、物の言様、刀・脇差の拵様・畳ざはりなどゝ申して、役にも立たぬ事を本とし、只実成なる事を取失ひ、心に思召さぬ事を申し、人をたぶらかし申す故、何とも目利仕りにくき事に候、身近く居り候てさへ、見えにくき人にて候、況して殿の身にて、偽る者・正直者それに御目利なり申さぬ物にて候、総じて大将は、人を御覧なさるゝ事第一に候、一人能き者御覧じなられ候へば、其物が何事も御相手になり申す故、段々能く成行き候、大殿様万事御功者にて、何事も正直々々と遊され候にも、足達宗円などゝ申す者は、御目違ひなされたると、御意なされ候、左近様は御年も若く御座候、なまやさしき御心懸にては、真実御用に立ち申す者と之ある儀、御覧じ付けられ難かるべく候、又御手になり御相談申上ぐべき者も、今は之なく候、兎角偽多く、成行き、人の目利なり申さず候時は、鎗おつ取りて、御用に立つ立たぬ、目利ならぬ物と、存ぜらるべき由申し候、又兵衛始め、涙を流し感じ申され候、

一、立花主膳様、〈道伯様御嫡子、〉柳川にて立斎様へ仰上げられ候は、私儀は幼少に御座候故、祖父紹運此方の事、一円存じ申さず候、然れども紹運は太閤へ御味方仕り、戦オープンアクセス NDLJP:71死なされ候、道伯の秀吉の恩賞を被らざる理由道伯其子として、太閤様より御恩地も下されず、筑後四郎御拝領の内にて、御分地仰付けられ候は、如何仕たる儀に御座候や、私召仕ひ候年古き者共に相尋ね候て、聢と合点仕らず候間、御尋ね申上げ候と、仰上げられ候、立斎様御意に、むづかしき事に候、然れども能く相尋ねらるゝと、思召し上げられ候故、御咄なさるべしと、心を定められて、御聞きなさるべしとの御意なり、道伯若気にて、宝満山の城を明け、敵の虜になりたる故なり、敵より扱ひを入れ、立花の城へ相送らるべき由、申し候時、紹運戦死の上は、其子として存生の望之なく候と、申し候て、宝満山にて粉骨を尽し、城を持届くるか、さなくば戦死を仕りたき所なり、道伯は臆病にも之なく、差当りさばけたる利口なる生付にて、之あり候ひしかども、慥に蹈み詰めたる分別と、先の考のなき男〔故カ〕、若輩とは申しながら、実満山にて右の首尾故、太閤よりさせる御恩賞之なく候、尤も宝満下城の時は、紹運より統増へ相添へられ候弓矢功者ども、一分別仕る程の者、大方討死仕りたる故、力及ばる事にては之あれども、此所は別して人の入魂にては参らぬ所なりと、御咄しなされ候、主膳様御若輩に御座候へども、無念に思召し上げられ候や、歯囓みをなされ、御涙を流され候、立斎様御覧遊され、其方は道伯様には勝りたり、親の足らぬ分別を聞き、家の面目を失ふと、口惜しく思ふは尤なり、道伯は一生の間、宝満の開城を恥とも思召さで居られたりと仰せられ候、紹運戦死の理由主膳様仰せられ候は、紹運が地形悪しく、岩屋にて戦死に候、宝満はいか様の儀にて、御籠之なく候や、承りたく存候、殿様仰せられ候は、其段は其方家来共皆存じ申すべく候、去り乍ら紹運の内存は、知り申すまじく候、立花より細々其事も仰越され候処、御承引なされず候、屋山中務・萩原大学、大一殺人は其其功功者共、常に御心安く召仕はれ候者共、達て御異見申上げ候に、御所存仰出さるまじと、思召し上げられ候へども、何れも深切なる志に候間、仰聞けられ候、勝誇りたる大軍の敵を請け、要害とても頼むに足らず、思召され候、いか様の平地にもせよ、御骸を晒さるゝに至らば、敵勢をば形の如く、一御損じなさるべく候、左候はゞ、岩屋計りの落城にて、宝満・立花は堅固にして、秀吉の御下向待請けらるべく候、紹運様へは、御自身の後栄、少しも思召されず候、統虎には立花の名跡、御継ぎなされ候間、高橋の御名字・御名乗御座なされ候よりは、御他名の儀候の間、何卒御長久に御相続候様にと、夫のみオープンアクセス NDLJP:72思召し上げられ候、御自身は又吉弘の御本名にてもなく、高橋の御名跡に候、右是又断絶なされ、能き物にて之なく候故、弥七郎様〈道白様御事〉宝満へ召置かれ、何卒御運を開かれ候様にとの思召に候、所詮紹運様岩屋へ御座なされず、宝満御籠城に候はゞ、一定敵は立花に向ふべく候、左候はゞ、統虎様へ御死なされ候はゞ、若き御子を御先に立てられ、御存生本意にあらず思召され候間、向後御異見申上ぐまじき由、仰出され候に付、何れも涙を流し、一筋に御供と相定め候者、既に八百余人なり、此残は統虎様へも、仰越されず候由の御咄にて、御沈涙なり、

一、薦野玄嘉、筑前より御見舞に参られ候、紹運様岩屋御戦死、いか様の儀にて、唯一日にはたと御戦死なされ候や、如何様其時に取り、子細あるべきの様に存ぜられ候と、相尋ね候、玄嘉申され候は、尤も岩屋も御防戦の御用意能くなされ、所々の囲など、手強くなされ、聊爾の御人数を出されず、御城を堅固に相抱へられ候、思召し候はゞ、敵いか程大軍にても、俄攻にならぬ山城にて、いか様にしても、二日・三日などに、落城は思寄りなき事に候、紹運様御戦死を御急ぎなされ候は、殿様を御大切に思召され候故に候、其子細は、立花より岩屋へ、宝満に御籠りなされ様に、仰遣され候へども、御承引之なきに付、岩屋へ御加勢の人数上下七十人余遣され候節、仰越され候は、何卒御防戦を遂げられ、二三日も御城懈怠なき様に、紹運様御家来中へ、能々相心得候様にと、仰遣され候、是は立花より後責に、夜討をなさるべき御計略之あり候故なり、紹運様〔にカ〕は必ず殿様へ後詰の思召立、堅く御無用に候、秋月より立花へも、随分手当を仕り、自然殿様岩屋へ御出馬候はゞ、立花を乗取り申すべき手立て、鏡にかけて、御覧なさるゝ程に思召され候、曽て以て粗忽なる御働御無用の由、度々仰越され候へども、岩屋の御籠城日を経られ候はゞ、必定殿様後詰遊さるべき儀、是亦鏡にかけて、御覧じ届けられ候に付、左候はゞ、敵の手立に抔、御落ちなされ候へば、何事も徒事になるとの思召故、一日の間に、御戦死にて候、夫故一働せる程の者共を、一刻も早く討死仕り候様にと、御下知なされたる由に候、是は城の早く破るゝを以て、御本意と遊されたる故と、相聞え申し候は、尤も格別の御籠城、又有難き御智略に候と咄し申し候、

宗茂政道を猥にせず一、立花壱岐咄に、此以前、〈各失念、壱岐も名を覚え申さず候、〉御歩行の者二人、散々人外の働仕り候オープンアクセス NDLJP:73とて、急度仰付けられず候て、叶はざる者御座候を召連れられ、御下国なされ候、道すがら欠落にても仕り候様に、色々と謎を懸くる様に、御意なされ候へども、欠落仕らず候、柳川御著の上にて、切腹仰付けられ候、此段兼ねて宋雲様御耳に入り、紹運様御年回に御座候間、是非御赦免遊され候様にと、御役人中へ仰付け置かれ候故、右仰出し御座候時、何れもより、宋雲様より御意の趣を以て、御断申上げ候処、以ての外御機嫌悪しく、仰出され候は、何事に依らず、宋雲様より仰入れらるゝ事に御座候はゞ、仰せられ候様になされず候て、叶はざる事と思召し上げられ候、去り乍ら是は、侍の内に御加へなされ、召仕はれ候者の事なれば、御親と申しながら、女性の御入口に従はれ、御赦免なされ候ては、能からざる事に、思召し上げられ候、紹運様の御年忌の儀、御前にも御失念遊されず候、斯様の事には、御親の御逝去百日の内たりとも、御用捨遊さるべき御所存にて御座なく候、御殺しなされ候ことは、形の如く不便に思召し上げられ候、非道なる事をなされず、賞罰其理に当る様に遊され、御政務に私のなき程の御追善御座なく候、宋雲様いかに仰下され候とも、斯様の儀は、何れも了簡仕り申上ぐべき儀にて之なしと、御意なされ、御免遊されず候、御家中の侍中、皆涙を流し、有難がり申し候となり、

関原の役宗茂秀頼の命を奉じて上洛す一、由布美作咄に、立花吉右衛門、大津御帰陣の節、語り候は、殿様・秀包御一同に筑後より安芸まで御著なされ、秀元へ御対面の上にて、秀包仰せられ候は、今度の騒動、畢竟奉行中の念より、出来仕り候、秀頼公の御意と御座候て、召上げられ候間、罷登り候、落去一円心附御座なくと仰せられ候時、秀元仰せられ候は、其段は兼ねて談合熟達せられ、各へも申遣し候、異議に及ばず、御上洛候へ、追付某も上洛仕り、申承るべしと御座候時、殿様仰せられ候は、今度の題目の発起、前後存ぜざる事に候へば、詞を立てゝ申すべき様之なく候、本より善悪弁へ之なく候、柳川罷立ち候刻、加藤清正宗茂の上洛を諫む加藤主計頭方より申越し候は、此度出陣無用に仕るべく候、其故は秀頼公御若年に候へば、天下の政務、未だ御心附之なく候間、況して諸国の人数召上げらるゝ思召寄之なく候、是は石田治部少輔・小西以下、佞奸の輩、秀頼公の御意をかづけ、佐竹・上杉を始め、たぶらかし、何卒籌策を運らし、家康を亡し、天下の政を我意に任せ、国政を取りたくと存じ候処より、巧み出したる事候、オープンアクセス NDLJP:74鍋島信濃守も今度上洛の由に候、某は近辺の儀に候間、宇土〈小西が留主〉の城を攻めほし申すべく候、某へは肥前・佐賀〈鍋島が留主、元来鍋島龍造寺が家来なれども、龍造寺不器量故、朝鮮陣以来、鍋島陣代を勉めて、竟に肥前国を取る〉へ罷越し、龍造寺を攻め候様にと、申越し候、尤も理究とは存じ候へども、秀頼公の御意と之あるに、上洛仕らず候ては、太閤の報恩に背き候と存じ罷上り候、承るに及ばず候へども、今度の御思召立、根本は如何様の儀にて御座候やと、御尋ねなされ候、秀元仰せられ候は、とかくは入らず、若君様御為を思召し候はゞ、御上洛候て、粉骨を竭さるべく候、若君様御大事、此節に候との事なり、秀包も再三、右の題目聞きたき由、仰せられ候へども、秀元何たる事もなく、御上り候へとの御事なり、殿様仰せられ候は、最前申述べ候様に、加藤主計頭申越すに付、了簡仕り候、此度の起りは、畢竟内府へ天下の権威御取り候へと、何れもより下づくろひなされ、遣さるゝにて御座候、主計頭は元来治部少輔と不和なるに就いてこそ、左様には申すと、思召さるべく候、聊か左様にては御座なく候、主計頭は正直なる仁にて、きたなき所これなき生付に候、何故内府へ一味候やと、存じ候へば、尤も至極なりと申すは、をこがましく候へども、内府へ向ひ、唯今日本国中に、勝利を得申すべき仁、覚え御座なく候、左候時は、愚なる事を仕出し、主計頭・左衛門太夫・左馬之助等、何れも秀頼様御先途に立ち申すべしと、覚悟仕る程の者、一度に滅亡仕り候儀、無念に存じ、治部を始め、無分別第一の奉行中潰れ候とも、主計頭を始め、若君様御用に立ち申す者共、存命居り申し候はゞ、若君様をば形の如く、取立て奉らんと、存じはまりたる心入にて、此方へも鍋島方へ手つかひを仕り、内府の味方へ参り候へと、申聞け候、然れども若君様御意の上、御後見より達て召登らせ候上は、兎も角も罷登りてこそ、所存をも申すべけれと存じ、是まで参り候、是非とも御分別御思案、此時に御座候と、仰せられ候へば、秀元仰せられ候は、夫は初心なる事に候、今度我等を始め、味方一味の軍勢を以て、内府方一人に、大方四五人当ての積に候、勝利掌の内に握りたる事候、善も悪も、此上は若君様御大事、此時に候、一刻も早く、御登り候へとの事なり、殿様も此上は力及ばず候、斯様に申す儀共に、臆し申す様に、思召され候や、軍は勢の多少は頼み難く候、申しにくき事に候へども、何方にても、今度某罷り向ひたる所、人より先には敗れ申すまじく候、申す処の実否は、後に御覧候へ、必ずしも後悔は及び難き物オープンアクセス NDLJP:75にて御座候と、仰せられ、御座を御立ち、大坂の様に、御登りなされ候、此段は、吉右衛門御座敷に罷出て、承りたる儀にて候、左候て大坂より、伏見の御屋敷に御越しなされ、秀元其外よりの差図にて、関ヶ原へ御向ひなさるゝ筈にて、瀬田の城まで御越しなされ候処、京極殿、大津の城に敵の色を立て、召籠られ候に付、殿様を始め、諸家七頭は、大津の城を攻めほされ候筈にて、取詰められ、宗茂等大津を攻む本丸まで攻詰め候処、扱になり、京極殿剃髪候て、高野へ上られ候、諸家へ人質の取交し之あり候に、殿様よりは立花三郎右衛門〈旧杵新助と申し候、三郎右衛門は近頃の名なり〉遣され候、京極殿下城候て、諸家の人質差返され候に、三郎左衛門、其時分二十歳内外に候、京極へ申し候は、御返しなされ候とて、印なくば罷帰り難く候、証文給り候か、左なくば飽くまでも御供仕るべしと申さるゝに付、此節身一つさへ心に任せず候、曽て以て無用に候と、相留められ候へども、三郎右衛門罷帰らず候故、途中にて挟箱に腰を懸け、自身状を認め、和談の儀、変改なく、人質は手前より差返さるゝの由、相認め、三郎右衛門に相渡され候、則ち三郎右衛門持参仕り候、始めに殿様大津の城へ御向ひなされ、外曲輪まで取詰められ候処、兄弟二人〈名字名存ぜず〉城の内に懸け入り、昔は次仕兄弟、今は我等兄弟、大津の城一番乗ぞと申し候て、無退に懸り申すに付、御人数我劣らじと、進み申し候間、諸家の勢も攻懸り、御家より三の丸乗破り、中江新八・由布大炊、三の丸一番乗仕り候由に候、西軍の敗報を得て宗茂軍を班す京極様下城の跡には、殿様御在城なされ候、関ヶ原の合戦、治部少輔を始め、敗軍仕り候段、慥に相知れ候て、京都の様に、御人数引かれ候て、木下肥後守へ御使遣され候へども、途方に暮れ居り申され候故、落支度計りにて、返事之なく候、大坂へ定めて御籠城の御用意なさるべく候間、殿様へは大坂の様に御越しなされ、いか様とも若君様御先途の御供と、御思召極められ候由、木下殿へ仰遣され、大坂の様に御越しなされ候処、橋々に焼草を積み、日下与右衛門と申す者、大坂よりの下知の由、申し候て、焼落し申すべしと仕り候、殿様御覧なされ、古より関東勢上洛に橋を落し、利になりたる事之なく候、焼き候事、堅く無用に仕り候へ、伏見に御逗留の間は、橋を焼かずとも形の如く防戦を遂げらるべく候間、必ず焼き候事無用と仰付けられ、伏見に三日御逗留なされ候、家康公後に聞召し及ばれたるよりも、剛なる仕方と、御感遊されたる由に候、〈此橋御焼かせなされざる事は、瀬田の橋と申し候、慥に御意にも、瀬田の橋と度々御咄なり、〉大坂へ御越しなされ、増田へ、オープンアクセス NDLJP:76若君様御籠城たるべく候、何方にても、一口仰付けられ次第、相堅め申すべき由に、仰遣され候へども、一向降参の用意計りにて、其沙汰之なく候故、宋雲様を御引取りなされ候、大坂御出船なされ候処、塩俵にて兵粮米切れ候に付、足軽共に仰付けられ、兵糧米売り申す者之なく候はゞ、追払ひ船に取入れ候様にと、仰付けられ候て、少々鉄炮をば放し、火を懸け、所の者共追散し、兵粮取込み、上の関を御越しなされ候処に、黒田如水、豊後表より番船を出し、御下りを相待たれ候由、相聞え候故、殿様へも此時までと思召切られ候、如水船に、押並べ候へ、御刺違なさるべき由、御意なされ候処、十文字の幕、走らかし候船二十余艘、日向灘より相見え候由申すと、一同に走り来る、薩摩より御迎に進じたる船にて候、〈此時参り候者足軽大将にて候、名知れ申さず候、御意には、川尻十右衛門と御覧、一度御咄遊され候、〉薩摩へ御越しなされ候へと、申し候へども、宗茂豊後に著く薩摩へは御座なされ候儀、思召寄もなき儀と、御意なされ候に付、さらば何方へも、御著船の御供仕るべき由、申し候間、豊後府内〈但府内にては之なしと、申す衆も之あり候、兎角豊後にては御座候、木付と申す説も御座候、御意には、豊後と計り御咄承り候へ〉御船を著けられ、山越に柳川へ御著遊され候、立花三太夫・同兵庫は、筑前若松より参り候、これは御供船跡に下り、豊後へ御著の由を存ぜず候ての儀なり、

一、殿様、豊後より御上りなされ候儀、瑞松院様御聞付なされ、清田又兵衛に、柳川御留守居の勢、馬乗二十騎、雑兵百九十余人、御迎に遣され候、御城を明けいかがと、申し候へば、御城は殿様御在世にてこそ、入用の物なれ、内田玄恕・由布七右衛門抔、年寄りたる者共居り申し候間、自然の儀候とも、殿様御外聞失ひ候様には、仕るまじく候、心安く存じ候へとの事なり、扨て豊後と生桑の堺にて、山越に人数相見え候時、御迎の勢は、殿様にて御座あるべしと、慥に申し候、御供の勢は敵と存じ、何れも死支度仕り候処、御迎の人数にて、互に悦び申し候、瑞松院様女性にて御座なされ候へども、至極の御心入と、皆感じ奉り候、

立花系図一、立花に御系図の事を、打網新助、肥後より何れも柳川へ参り候時、斎藤休無に相尋ね候は、立花新五郎殿より御当家へ参り候品々、肥後にて焼失の儀、具に承知致し候、只今は最早立花の御名字の旧記は御座あるまじく候、然る所、大友具簡より、此方の儀も、具に相知りたる由、申す衆之あり候、いかゞ仕り、知れ申し候や、立花新五郎より外、別に相伝へ申すべき仁之なく候、合点に及び申さず候、休無申し候は、尤に候由申し候て、立花宇左衛門〈始め弥七郎と申し候〉呼び候て、新助に引合オープンアクセス NDLJP:77せ申され候、則ち新助望にて、立花の系図、其外大友殿よりの感状を始め、将軍家の書出など、余多見せ申し候故、新助驚き入り申し候、四郎左衛門は、新五郎殿腹替の弟を子に仕られたりと、聞え申し候、御家には御歩行に居り申され候、只今の立花御系図は、右四郎左衛門差上げられ候なり、少し御取立てなされ候はゞ、御教書等も差上げ申すべき所存と、見え申し候へども、いか様の思召に候や、其分にて差置かれ候故、御暇申上げ、其後行方知れ申さず候、

戸次氏記録一、立花壱岐申され候は、御当家戸次御名字の御記録は、鎮連、豊後にて滅亡の時、御紛失仕りたるが多く候、又肥後腹赤にて、宮永様御焼失の内に、戸次御名字の記録は、少し御座候て、立花の記録多く御座候、殿様宮永様御名乗前に、記録の入りたる箱、殿様へ御取替なされ候へば、よく御座候へども、後には成り難く、太閤様の御書出なども、不思議に残りたる事に候、血付の扇は、真勝寺門前に居り申し候光善寺母、焼き申す所を取置き、御入部の節差上げ候、〔銀カ〕子など下され候、尤も骨三本損じ申し候、八幡大菩薩の御旗は、義統より殿様へ御望なされ候に付、遣され候処、惣五郎御死去の後、又御預けなされ候故、御当家へ参り候、とかく唯今の御名字、目出たき事どもなり、腹赤にて焼失なされ候品々、心を付け見置き候はゞ、大礼は覚え申すべきを、何心なく見たる計りにて、少しも覚え申さず候、今は残念に存じ申し候、宮永様思召も、御尤も千万なる事に候、殿様とは御不〔和カ〕 に候へば、別に誰の為めに、御死去の後、残し置かるべくや、大殿様さばかり御厳重になされたる品々を、志もなき者の手に渡り、兎や角仕るべき事を思召され、御焼失なされたるは、女性の思召には、然るべき事なり、彼是に付いて、憎きは局なり、右御焼失の内に、太閤様よりの書出の事は、世間に申す程にては、之なく候、是は別に初めより召置かれ候、大殿様御遺言の事は、慥なる事にも之なき由に候、此時佐野八兵衛先祖西明寺殿よりの書出を始め、大内家よりの感状・佐竹の家よりの感状十余通焼失なり、其子細は、安東対馬道雪様御代に、疵を蒙り候時、薬師堂に居り申し候巡礼、金瘡の療治能く仕り候に付、召寄せられ、療治仰付けられ候、能く仕り候間、則ち召抱へられ、名字御尋ねなされ候に、佐野名字と申し候間、其先祖控之あるや、いか様の筋目ぞと、御尋ねなされ候処、元来は上野者にて、佐竹の幕下に罷在り、其後は大内家へ参り居り申し候へども、大内殿滅亡の後、オープンアクセス NDLJP:78年傾き、唯今の為体に罷成りたる由、申上げ候て、西明寺よりの書出し、其外御目に懸け候て、知行仰付けられ、右の証文下し置かれ候はゞ、又々行脚に罷出でたき心も出で申すべく候間、御預けなされ候由、仰出され、御取置きなされ候、後には金瘡よりは、武道上手の由、御意なされ候、若き時分、武者修行に諸国歩き申したる仁なり、〈此時は、北神野正作と申したる由に候、佐竹・大内家には、正作親為と申し候か、正作は信長へ勤めたる分とも申し候、〉

一、雪斎咄に、大殿様に御子御出生なされざるに付、矢島左馬介を御養子になさるべしと之ある儀承り、欄倉より取物も取敢へず、江戸へ罷越し、瑞松院様御耳に入り候はゞ、さらでだに思召勝れたる摂津に候間、よかるまじと存じ、殿様を町屋へ御立寄りなされ候様に仕り、斯様に承り候、近来推参なる申上事に御座候へども、御一門の内に、御養子に遊さるべき御仁体、御座なく候はゞ、他家より御相談、御尤に存じ奉り候、只今まで、御家来の矢島が子に、御名字御継がせなされ候ては、仏家中の侍、御奉公に勇み申すべき所御座なく候、斯様に申す摂津は、何様に御分別御違なされ候とも、殿様御一代、御家を罷出で、他方仕り候覚悟、毛頭御座なく候と、泪を流し申上げ候時、御尤に思召上げられ候、主膳様へ産前の女房之ある由、御聞きなされ候、出生の御子御男子に候はゞ、御養子なさるべき由、御意なされ候、雪斎も御尤至極に存じ奉り候由申上げ、罷下り、やがて、〔本ノマヽ〕

十時半次一、同咄に、残多きは、十時半次仕合なり、大殿様筋目を思召し、成程御仕立なさるべしと、遊ばされ候処に、御直に申上げ候は、私事は人の上に立ち申す器量御座なく候、足軽門番にても、仰付けられ候はゞ、夫は少しも如才なく、御奉公仕るべく候、人々の上に立ち候ては、諸人の難儀に罷成るべく候間、御免遊され下さるべく候と申上げ候、色々御異見仰聞けられ候へども、承引仕らず候故、殿様にも御残多く思召し上げられ、一器量ある者とは、思召し上げられ候へども、御力及ははや依、其分にて召信かれ候、療養ない教授意をざる程に御座し正気に付、大坂御両陣の儀承り、又湯も懸らぬに、自身馬を引き、大坂へ参り候へども、殿様へは、何れも一同に御供仕りたりと、御召し上げられたると計り、御意なされ候、さすがの者にて、夫を少しも苦労に仕らず、御人数崩れ候時も、一番に馬より飛下り、片手に鑓を持ち、一方の手には、馬の口を控へ居り申し候、殿様御褒美なされざるを、異な事と申し候へども、少しも御褒美に預り候為めには参オープンアクセス NDLJP:79らず候、男の役にこそ参りたれと申し候、若君の能き鏡と申され候、

家子居宅の美を難ず一、赤楯より柳川へ御入部の御祝儀に、鍋島信濃守柳川へ参られ、御城にて殊の外の御酒盛御座候て、信濃守罷帰られ候跡にて、立花壱岐申上げられ候は、田中殿御城の構は、申すに及ばず、御城と同じく、侍中の居屋敷まで結構になされ候故、今度の御客にも、見苦しく御座なく候と、申上げられ候処、御意なされ候は、是は殊の外、宜しからざる事なり、其子細候、斯程に手広く普請などすると云ふは、皆僑より出づる事なり、居なし広大なれば、端々の者は寄付かぬ物なり、左様に物毎余情がましくしなしては、上と下は大分遠ざかり、上の事下に直に知られず、下の事は猶上に知れぬ物なり、田中は筑後〈[#「筑」は底本では「越」]〉一国を取居たれども、御当家此節に極り、御大事の大坂陣に、用銀之なく、人数を連れ候事、罷成らず、終に滅亡にて候、是は皆上と下を遠くしなして、役にも立たざる城普請などに物を入れ、家を潰すのみならず、はづれは腰抜にて候、上を学ぶ下にて、召仕の侍共も、入らざる居なしなど、結構仕り候、御前には、御城もさか藁葺にして、小屋懸にても召置かれたく、思召し上げられ候、雨露さへ御凌ぎなされ候へば、能く御座候、居なしの見苦しきぞ、衣装のきたなきぞ、召仕者共、田舎者にて不骨なるぞなどゝいふは、何程人に笑はれても、名字に塵の付き申す事はなき物なりと、仰出され候、壱岐其外感涙を流し、御意を承り候、

一、細川三斎御咄に、加賀大納言、又左衛門に居り申され候時、風鈴を懸けて、其下に昼寝をせられたる夢に、

   だいなしといひもたつせずこむふちの火も消えぬればくわんとなるなり

之を二度まで見て、事付け置かれたるが、後に大納言になると思ひ合はせられたるとなり、

立斎の号一、立斎様御法名は、御若く御座なされ候時、御心安く御意を得られ候御方、何れも立花左近将監様と福島左衛門太夫様御事、片名字・片名に、立左・福左と仰せられ候、後には御自筆の御状などにも、立左様と、多分遊され遣され候間、福左様立左様と読みよく御座候に付、諸人称へ申し、御心安き御方も仰せられ候、御若き時分、しこ名に左様に申し候間、りうさの下には、いの字御付けなさるべき由にて、立斎様と申し奉るなり、

オープンアクセス NDLJP:80関ヶ原の役島津氏宗茂を誘ふ一、大津落城は、関ヶ原の御合戦五日前なり、柳川へ御帰陣は十月五日なり、島津殿より出家を使になされ、種ケ島一島、御知行に進ぜらるべく候間、方々敵募り申さゞる内に、薩摩へ御越しなさるべき由申し来る、日来の御入魂、今に於て御疎宣なく、承く思召し上げられ候、併し今度の京方表へ出勢の儀、逆徒一味と申すにても之なく候、若君様より、仰下さるゝ趣に、任せ候ての儀に候間、大坂・関東御双方の御奉行次第、兎も角もなさるべしと、存じ究め居り申し候、身上をかばひ申す程ならば、今度出勢仕るべき所に、之なく候との御返事なり、

加藤清正宗茂の為に家康に弁ぜんとす一、十月十七日、小野作兵衛家来、竹井村左太夫と申し候者に、加藤主計頭殿足軽一人相添へ、主計頭殿より仰越され候御状に、

今度上方出陣、御恙なく御帰陣、目出たく存じ候、貴様御事、高麗以来、御芳志に預り候儀、少しも失念仕らず候、今度の御出勢、本より逆徒一味と申すにては之なく候、若君様御意と申し、秀元の催促に付いての儀に候間、黙止し難く思召し、御上洛尤に候、大津へ相働かれ、京極下城の儀、是又御出勢の上は、尤も左様になるべき事候、大坂と関東御和談、大方相調ひ候段、今日飛脚到来仕り候、此上は貴様御事も、関東へ異議を思召さるべき所に御座なく候、鍋島信濃守儀も、上方へ出勢仕り候処、逆徒敗軍に付、肥前へ罷下り候儀も成り難く、又関東へ参陣も、誰を頼み申すべき様も之なく、本願寺を頼み、関東へ御味方の儀申入れ、御勘気御赦免の奉公に、御近国の儀に候間、立花を討つて出し申すべしと申上げ、其通り相叶ひ候に付、先達て申越し、貴様の御帰城前より、加賀守儀は、筑後表へ勢を出し申すの由、承り及び候、黒田如水事も、大友一揆打ほして、事故無く、豊後国中静謚申し候に付、其表へ急度出勢仕るべく候の間、我等へも其旨相心得、早々出陣仕るべき由申越し候、定めて加賀守へも其段、申談ずべしと存じ候、加賀守其表へ罷出で候とも、さしたる儀、御座あるまじく候、如水儀は、甲斐守関東へ罷越し候間、残勢定めて小勢たるべく候間、何たる儀も成り申すまじく候、拙者儀は、宇土表の儀、取静め候に付、其表へ罷出で候儀、急には罷成るまじく候と、申遣し候、拙者事は、其元へ罷向ひ候とも、弓矢八幡も照覧、貴様に向ひ、合戦仕る覚悟御座なく候、此節の儀に候間、関東へ御無事の取扱ひ、心の及び仕るべく候、則ち関東へも飛脚を以て、貴様御事、逆徒へオープンアクセス NDLJP:81少しも御一味之なく候、若君様御意を借り、申遣し候催促に任せ、御上洛之ある由、大津を攻められ候儀は、出勢の上は、是非に及ばず、働かれたるにて候、是を以て、京極と扱ひになられ候上は、関東へ至りても、御別心之あるべき所は御座なく候、貴様御事、数年御入魂に申承り、御心底存じたる儀に候間、我等手前より申談じ候はゞ、柳川表無事に静謐仕るべく候間、是非とも我等に、柳川表取扱ひ申す儀、仰付けられ候様にと申越し候、京極方へ御和談の子細、慥なる儀、仰知らさるべく候、黒田・福島など、御領内へ相働き候とも、御構なく召置かるべく候、如水事は、尤も左様に之あるべき儀に御座候へども、加賀守儀、身の科の通道に、其表出勢の望、近頃以て比興に存じ候、申すに及ばず候へども、今度の儀に於ては、拙者存命にさへ之あり候はゞ、身上を抛ち、随分御取持ち申すべく候間、少しも聊爾なる御分別など、御無用なさるべく候、右の趣申述ぶべき為め、斯くの如くに御座候、恐惶謹言、宗茂の返書 

一、主計頭殿への御返詞は、御事多き所に、思召寄り、御細書に預り、忝く存じ候久しきなじみ、思召し忘られず、御懇意の儀、誠に以て御礼申述べ難く候、左様に仰せ聞けられ候段、少しも御虚言之あるべき儀と存ぜず候、然れども我等は、只今出来の、珍しき事と存ぜず候、兼ね斯様に御座あるべしと存じ、秀元へも及心諫言し候、時宜を以て、御聞きなさるべく候、仰の如く、大坂・関東御別儀御座なき上は、今更拙者少しも別心御座なき段、御紙面の通り候、近日是より使者を以て、委細申述ぶべく候、心事細書成り難き候間、早々斯くの如く御座候、恐惶謹言、

此返詞、古庄安左衛門仰付けられ、相認め候、

一、主計頭殿より右の通り申し来り候に付、大村善長へ、京極殿と御和睦の判形御持たせなされ、熊本へ申遣し候御口上は、数年御心安く申承り候に付、今度の御心入、誠に以て悦び思召され候、然れども自然斯様の節は、計策等も之ある儀に候、左様の儀にて、外聞悪しく御仕合せ候へば、本意なく思召され、若し関東の首尾成り難く候はゞ、早々貴様御出勢候はゞ、見苦しからぬ様に、埓を明け申すべく候、斯様に申し候儀、弓矢の御冥利を懸けられ候、御身命を惜まれての儀にては御座なく候、御先祖以来、数度御奉公申上げ候者共、一々御不便に思召されオープンアクセス NDLJP:82候て、仰談ぜらるべしとの儀なり、善長南の関まで参り候へども、通じ申さず候に付、城番の人に、清正より御状進ぜられ候、御返事の使に参り候由、申断り候に付、城番より熊本へは、其段申越し、清正より小野作兵衛南の関へ遣され候、御口上の趣、御聞きなされ候、京極殿より和談の判形召遣され候儀、清正殊の外御感心なされ候、立斎様柳川御下城の後、清正右の判形御持参候て、此御証文故、大津の城扱になされ候申立、相叶ひ候へば、内府も、扱は立花事重科に非ずとの仰にて、之ありとの御咄なり、是は三郎右衛門念の入りたる仕様能き故なり、他家より京極殿へ、人質に参り候者共は、京極殿より差返さるゝに任せ、何れも其分にて帰られ申し候故、後日御吟味遊され候時、皆欠落仕りたりとの御評定相極り、死罪に仰付けられ候、三郎右衛門計り、少しも子細之なく、天下の手柄に罷成り候、立花殿誉ある故、若年の家来まで神妙なりと、取沙汰仕り候、

一、清正へ右の儀仰遣され候に付、小野和泉・立花吉右衛門、其外江浦・蒲船津方方の押に、出し置かれ候衆へ、如何様の儀候とも、卒爾なる働仕るまじく候由、仰付けられ候、江上の戦然れども敵の働出で候はゞ、足軽迫合せりあひ等は仕らず候ては、押に召置かれ候甲斐之なく候間、見計らひ、そゝげたる働、之なき様にと、仰付けられ候所に、江上にて、二十日の朝、不慮の第之あり候、其子細は、〈是より先き、御高瀬にて、和泉吉右衛門、源兵衛申上げ候趣、替る事之なく候、〉

一、江上にて鎗之あり、大勢戦死の由、相聞え候間、殿様則ち矢かべまで御出馬なされ候処、立花吉右衛門、水田より駈付け、敵を払ひ、味方の手負等、子細なく引取り候由、御聞き遊され、則ち蒲池の城に御寄せなされ、和泉大切の手を負ひ候由、御馬を出され候より、少しも替る事之あるまじく候、随分養生仕れとの御意なり、道々手負ひ候者共へ、段々御詞を下され候、小野七郎〈作太夫の親〉手を負ひ、馬にて引き申し候、捷を宋雲に報ず矢かべの町外れにて参会、馬より下り申すべしと仕り候を御覧、手負に礼ある物にあらず、乗通り候へ、其方は先度伏見にて蒙り候疵、未だとくと癒ゆまじき所に罷出で、又疵を蒙り候やと、御意なされ候て、其方疵を蒙り、召連れたる者も、疵を蒙り候処、仰付けられにくゝ、思召し上げられ候へども、自余の者遣され候ては、御気遣に思召し上げらるべく候間、宋雲様へ参り、味方勝鑓にて御座候間、少しも御気遣ひ遊さるまじき由、申上げよと、仰付けられ候間、則ち宋雲様へ参り申上げ候、宋雲様より長木学弟儀三を御使になされ、今日の鑓御オープンアクセス NDLJP:83勝利の由、御悦に思召し上げられ候、勝負には御構なさるまじく候、人の家を継がれたる御名字に、塵を御付けなされざる儀、第一に思召され候様にとの御口上なり、殿様の御勝れなされたるこそ御道理なれ、御袋様さへ女性にても、斯様の御心にて御座候に、紹雲様の御子と申し、旁〻以て御勝れなさるゝ筈に、諸人申し奉り候、斯様の時、其場へ罷出で候者、御使に遣されず候へば、慥に之なき故に、七郎遣され候由に候、

鍋島氏の軍を襲はんとす一、二十日の夜、立花、丹波に先づ仰付けられ、内田玄恕・森下備中、相添へられ、御旗本を中備に遊ばされ、立花吉右衛門に跡備仰付けられ、夜合戦を遂げらるゝ筈に相極め候、是は玄恕備中みぎりに罷出で、見済し罷帰り候て、斯くの如く候、薦野玄嘉・由布美作、此事を承付け、早々蒲池へ罷越し、備中・玄恕は物に狂ひ候や、若殿様に申上ぐる事も、事によりたる物に候、御子様とても御座なく、大殿様御名字をば、誰に御継がせなされ、左様にかるはづみなる御働をなさるべく候や、龍造寺隆信幕下より成立ちたる加賀守を御相手になされ候ては、近頃似合はざる儀に御座候、主計頭殿御取持の関東の首尾、相調へ申さず候はゞ、柳川の城にて、いか様とも埓を明けられ然るべく候、尤も御馬を出され候上は、加賀守を追崩さるる儀は、最も安かるべく候、加賀守の追散らされたればとて、何か御手柄になり申すべくやと申して、無理無体に御供仕り、柳川の御城の様に参り候、内田玄恕内田玄恕申し候は、独り持ちたる辰監物は、先年伏見にて、佐伯善右衛門が小者と、監物小者として、高野聖を散らしたる故、善右衛門爰元にて生害仕り候節、監物も死し申すべしと仕り候間、死所は知るべく候間、其分にて罷在り候へと申して、我等譲りたる知行千五百石、僅五百石に罷成り居り申し候間、今度の御供に罷上り候時、本知行取返すか、さらずば先年死し申すべき命に候間、討死仕り候様にと申し候へば、大津にて立花惣右衛門抔と一所に、浜の手にて、仮名を名乗り、尋常に死したりと承り候、死ねとは申し候へども、独子を殺し、生きたる甲斐もなく候間、あはれ如何様にも仕り、死たく存ずるなりと申し候、備中申し候は、加賀守が腰抜侍に、傍輩共大勢討たせ申し候間、我々望み申し候様に、仰付けられ候はゞ、今夜蹈懸け、加賀守が皺つら切り申すべしと存じ、申上げたりと申し候、何れも持て扱うたる備中が申分、玄恕愁歎は尤と申し候、

オープンアクセス NDLJP:84一、同廿一日の朝、十時但馬・清水藤右衛門・足達勝右衛門三人、蒲池の城へ遣され候、是は昨日立花吉右衛門一手、小野和泉一手に入り替り候へども、小保の番勢は、先引取り申さず候様に、仰出され候に付、吉右衛門一手無勢故、斯くの如く、仰付けられ候、松延の番勢引取り、蒲舟津に召置かれ候、鍋島方より廿一日の朝、足軽を出し、雑兵三百余、矢かべ村中むたの辺まで、打迴り参り候、蒲池より但馬藤右衛門・勝右衛門鬮取り仕り、段々一二三と打週りに罷出で候、廿一日の朝、勝右衛門罷出て候て、中むたの村外れにて、迫合にも及ばず追崩し、敵四人打取り、生捕二人仕り候、是より後、敵方より終に足軽をも出し申さず故、何たる事も之なく候、廿一日、小保番勢も残らず蒲池へ引取り申し候、吉右衛門与力藤江太郎右衛門一人、舟にて柳川の様に引取り申し候、是は殿様薩摩へ御落ちなされ候儀も、之あるべくやと、肥前より番船数多出し置き候、其中を漕ぎ通り参り候、江浦には立花丹波召置かれ候、

清正南の関へ出陣一、十一月廿五日、加藤清正南の関まで出陣なされ候、此時小野作兵衛に、案内者申附けられ候、作兵衛申し候は、肥後より柳川へは、瀬高・江の浦と申す道筋二つ御座候、江の浦筋は、人数越え難き川御座候、其上宮永殿と申す、左近将監殿本妻居られ申し候処、江の浦よりの道筋に近く御座候、此宮永殿と申すは、左近将監殿養父道雪様の娘にて御座候、左近殿家来共、此宮永殿を殊の外大切に仕り候故、此近所へ御人数向ひ候はゞ、左近殿御下知御座なく候ても、何様手強く、鎗を仕るべく候、江上にて、同氏和泉も手を負ひたるとは承り候へども、武辺覚の者、殊の外多く居り申し候間、難所と申し、旁〻以て瀬高筋然るべき由を申上げ候、清正仰せられ候は、今度の出勢、少しも合戦の支度にて之なく候間、多勢は召連れず候間、手迴り計りとて、旗本千二三百程にて御出でなされ候、

清正の斡旋一、同廿九日、黒田如水雑兵八百計りにて、水田へ著陣なされ候、清正より如水へも、加賀守へも、立花事首尾候て、我等手前より関東へ申遣し候間、必ず柳川へ取詰めれ候儀、御無用の由仰遣され候、弥〻以て迫合にても之なく候、海道物騒の節に之ある故、清正より関東へ申上げらるゝ事も、関東より清正へ仰下され候趣も、延引にて候、家康より清正への内命内府様より清正へ仰下され候は、小西居城の事さへ、一分の働、心元なく思召し上げられ候、筑後表及び薩州へも相勧かれ、不日に取静めらるべオープンアクセス NDLJP:85き由、御満足に思召し上げられ候、筑後表の儀、望の通り、清正へ仰付けられ候間、子細なき様に、相計らはるべく候、去り乍ら了簡に及ばざる事共之あり候はゞ、段々仰上げらるべく候、御差図なさるべしとの儀なり、内府様よりは、斯くの如く申し来り候、左近様御事、榊原式部殿へ、清正より具に仰遣され候処、本多平八殿、立花は憎き者と申され候故、榊原殿も、左近様御事、御沙汰成り難き由、申し来り候故、清正も如何なさるべくやと、思召され候処、京極殿大津城扱になされ、御和睦の由申立てらるゝに付、内府様より、其儀に於ては、大津を攻め候衆は、相果さらるゝに、及び申さゞる由、仰遣され候に付同月廿八日、清正蒲船津辺御越しなされ候て、矢の口の防禦矢の口を留め候様にと、御双方仰談ぜられ候処、三つ橋の上にて、肥後勢の中より、馬武者一騎乗上げ候て、蒲船津へ罷出で候、番勢の様子を見候て、帰り仕り候処を、石田六之丞、松の木に上り、蒲舟津の村の前よりは、三町余之あり候を、鉄炮にて一矢に打落し申し候、清正此段御覧なされ、是は御案外なる儀に思召し候と、御座候時、大村善長申し候は、双共方に矢の口の儀は、仰談ぜられ候へども、此節の儀に御座候間、此川を隔て候て、柳川より押へ勢出し置き候、御和談未だ相調ひ申さとる内に、卒爾に橋を越え申すべき様に、相見え候間、若き者共腹を立て打申したるにて御座あるべく候と申し候、清正仰せられ候は、とかく左近殿へ入魂仕る所存に候間、是程の儀に、存立たれ候所存なきには、なさるまじく候由にて、扨仰越され候は、宗茂柳川開城を肯んぜず関東より我等へ、然るべき様に、取扱ひ申し候様にと、申し来り候間、御下城なされ、肥後の様に御越しなされ候様にとの儀なり、殿様よりは、兎角取扱ひ御頼みなされ候事、別の儀等之なく候、御譜第の者共、身命御厭ひなさるゝの儀に候、御開城なされ候ては、路頭に立ち申すも、此城を枕に仕り、相果て候も、同じ道にて御座候と、家来共強に申し候間、先づ御下城はなさるまじく候、其上島津殿へ仰合され候首尾も御座候間、島津殿関東へ申談ぜられず候処、殿様御和談候ては、御存命の儀、御面目なく思召され候との儀なり、清正より、島津方へ仰談ぜられ候とは、如何様の儀に御座候や、定めて今度島津人質・貴様御人質一同に、御引取りなされ、申遣し候由、承り候間、此御礼に島津方より、死生に付いて、御疎意なく、申談ずべしと、申入り候由、承り届け候、此所を余り堅過ぎたる御心底にて、兎や角と御心遣なさるゝと存じ候、オープンアクセス NDLJP:86大坂と関東無事になり候上は、最前より申尽し候様に何を御心当になされ、此所にて御身命を捨てられ候はんや、義を立てらるゝとも、申し難く候、畢竟犬死なされたる計りに候、島津方へ仰談ぜられ候とも、只今の儀候間、遠方と申し、中々通路も叶ひ申すまじく候、若し又薩摩の様に、御立退なさるべしと、思召され候はゞ、此節の儀に候間、後々咎も顧み申さず候、拙者領内より、御家来の妻子に至る迄召連れられ、御引越しなさるべく候、斯様に申し候儀、何とやらん、御心をさみしたる様に相聞え候へども、聊か左様にては御座なく候、元来御心底をも能く存じ候、人数などの儀、兎や角となさるべき儀は、之あるまじく候間、薩摩の様になど、御越しなさるべしとは、神以て存ぜず候、御家中の者共、路頭に立ち候処、御不便に思召され候の由、其段は少しも御心遣に及び申さず候、御家中の者、残らず拙者方へ預り、扶持仕るべく候、とかく此問より心底を残さず、申談じ候処、今にしかと御領掌之なきは、此方よりたばかり候て、何角申し候様に、思召され候やと存じ候、少しも左様の儀之なく候間、其段偽之なき由、又御家中の者共預り、扶持申し候事、変改仕るまじき由、神文相認められ、委細に大村善長へ仰含められ、御返しなされ候、宗茂清正に開城を約すいかにも念を入れられたる儀なり、此上は異儀に及ばず、御下城なさるべき由、御意なされ候処、家老中其外、清正の御心底、連々存ぜざる儀に候、此上ながらたばかられぬれば、是非に及ばず候と、申し候時、殿様仰出され候は物には場合ある事なり、此上に兎や角いへば、身命をかばひ候様に、きたなく聞え候間、唯御下城なさるべく候、今度江上にて相働き候者共へ、御感状下されず候間、急度吟味致し、申上げ候様にと、仰付けらる、十二月二日に、何れも御感状下され候、御家中の者共、家具等夫々に片付け申し候様に仰出され、三日の朝、飯後、清田又兵衛・立花吉右衛門・戸次治部・足達勝右衛門・由布五兵衛有限数十時但馬村尾安之丞・森下備中・十時摂津・同甚右衛門・十時太左衛門・十時新右衛門・立花兵庫・本庄久馬之助・吉弘善兵衛・堀七郎兵衛、此外侍廿一人召連れられ候て、蒲船津へ御出てなされ候、宗茂清正を信頼す前に御家中侍中、皆申し候は、瀬高門の内へ相備へ罷在り、自然の儀御座候はゞ、押出し、一筋に御供仕るべき由申し候、殿様より、曽て以て入らざる儀に候、清正、毛頭左候のむさき巧、之ある仁にて之なく候間、心安く存ずべき由、仰付けられ候、瀬高門御出て遊され候処、田頭中に御領内の庄屋・百姓、オープンアクセス NDLJP:87百四五十人相控へ居り申し候、御通り遊され候道中に罷出で、いか様の儀御座候とも、御下城遊され候儀、御無用に存じ奉り候、領民開城を悲み宗茂を慕ふ筑後四郡の百姓共、今度の儀に御座候間、一命を差上げ申す事、侍中に少しも劣り申すまじく候、斯様に申上げ候事御承引なく、御出でなされ候とも、全く出し奉るまじく候と、声を揃へ申上げ候、殿様御馬を立てられ、申上ぐる処、思召し届けられ、御悦び思召し上げられ候、御領内の諸人の為めに、御開城なされ候、少しも替りたる事、あるまじく候、皆共心安く存じ候へと、御直に御意なされ候、百姓中声を上げ、泣き申し候、又御意なされ候は、左様に皆申す如くなされ候ては、御為めに宜しからず候間、皆共帰れ帰れと、仰下され候時、泣々御通路を立退き申し候、此時罷出で候大庄屋・小庄屋にかけ、六七人余、其外は常の百姓共、御城近き村々より、御下城の儀、聞付け、我先へと参り集りたる者共なり、後に奥州より御入部遊され候時、右罷出て候庄屋共、皆御尋ねなされ、生残り居り申し候には、銘々御詞下され候、内田玄恕申し候は、肥前勢の首を見候にも、皆扱に成り申すべき印と相見え候、烽火のろしの色も扱なり、別条之あるまじと申し候故、皆心安く存じ、玄嘉へ、蒲池の城の儀は、和泉大功の疵、未だ平癒之なき間、清正へ其段仰遣され候間、清正の了簡次第に仕るべく候、参河玄審事事は、御城に残り、清正より参り、請取り申し候者へ、引渡し候様に、仰渡され、御出でなされ候、清正宗茂を迎ふ清正も御近習侍十七八人計りにて、橋の上まて御出向なされ、御挨拶なり、清正は五位、殿様は侍従にて御座候に付、常々の御あひしらひも、御慇懃なる事なり、此時も常に替らず、御挨拶なされ候に付、清正御家来衆、さすが立花殿なり、如何なる強気の大将にても侍にても、少しは気後れ仕るべき処なるに、平生に微塵変らるゝ気色之なきは、実に常の大将にてはなかりけりと、皆感じ奉りけり、殿様へは御供週り、上下五十少し余りにて、肥後高瀬の様に御座なされ候、瑞松院様には、清田又兵衛・古庄宮内、御供仕り参り候様にと、仰付けられ候、宮永様御供仕り、何方へ如何様に立退き申すべき由、誰にても心付き候仁、之なく候、尤も家老中へ、能き様に仕り候へと計り、仰付けられ候、十時摂津一人存寄り、嫡子八右衛門へ、御供仕り候様に、申付け候処、八右衛門申し候は、此節に及び、女姓の御供仕るべき儀、是非なき由申し候、摂津申し候は、今まて御家御相続、偏に宮永様御家人共の罷有る故なり、今度上方御陣の御供にオープンアクセス NDLJP:88も、其方は嫡子なれども、遣さず、留置きたるは、三代相恩の宮永様、御行末覚東なく、自然の時、御供仕らせ候はん為めなり、いやに存じ候はゞ、摂津御供仕るべく候と、申すに付、八右衛門異儀なく御供仕り、肥後腹赤に御座なされ候、

一、同日、久末村の前、黒ころもと申す広みの田頭に、黒田如水・鍋島加賀守、本より清正御参会なされ、清正御家来加藤美作・柳川城番に仰付けられ候、則ち参河〈薦野零河が男吉右衛門は、左近将監宗茂君の姉婿なり、因つて立花を名乗れり〉三人の前に罷出て、            美作へ引渡し申し候、加賀殿参河へ申され候は、今度不慮の鎗候て、左近殿大勢の人数損じ、各へも残念に存ぜらるべき由、申され候、参河申し候は、仰の如く、不慮の儀に候へども、左近将監殿、馬を出されたるにても之なく候、家来和泉一人罷出て候、和泉手の者共は、和泉に相代り、大勢死申し候、組頭をさへ大切に仕り候、まして左近将監為めに死申す事、少しも残念に存ぜず候、家来たる者の、主人の為めに死に候事、いかに残念に候はんや、おかしき田舎侍故、殊の外主歎き仕り候と申し候、加賀守殊の外赤面なり、是は隆信〈龍造寺〉島原にて戦死の時、其家人にてありながら、加賀守死をぬすみて、逃げて帰りたる事を、其儘返答に以て参りたり、如水御心中に、殊の外感心なされ、申す所をぬかさぬ剛の者と思召し、筑前御拝領の後、参河事、肥後に居り候へども、清正へ仰遣され候て、筑前へ御呼びなされ候なり、〈参河曽孫、筑前に黒田を名乗、今本名に復す、一万二千石、立花平左衛門七千石立花勘左衛門、〉

清正如水薩摩へ出陣一、翌日清正・如水両旗にて、肥後通り、薩摩へ御出陣候、加賀守へも、一同に向はるまじくやと、御両人仰せられ候へども、加賀守は肥前より、船にて参るべき由申し、帰陣なり、両人の衆仰せられ候は、肥前よりは、信濃守向はれ、然るべきかと仰せられ候へども、承引之なくて申され候は、尤も左様に仕るべく候へども、江上にて大勢人数を損さし候間、帰陣致し、船より参るべき由申され候、是は柳川にて少し計りの取合を仕られ、関東への口塞ぎ、最早是にて能しと存ぜらるゝ内存と、如水・清正も仰せられ候、十月二十日より、青木四郎丸に、加賀守も在陣仕り居り申され候、清正・如水には帰陣と申され候へども、其夜より翌日まで、柳川越迴りに、侍中より預り置き候諸道具、悉く押取り仕り、罷帰り候故、侍中の預け置き候諸道具、皆紛失仕り候、主人龍造寺の国を盗み、飽足らずやありけん、此度の働こそ、いと便なけれ、其年より翌年までは、筑後国中は清正政勢を執行はオープンアクセス NDLJP:89れけり、

一、清正・如水両旗にて、薩摩の内まで、御出陣候処、内府様より、島津事、先立て御味方に参るべき由、申越し候間、両家の人数をも引入れ候様にと仰下され、各帰陣なり、清正薩摩へ宗茂を誘ふ此時、清正殿様へ仰せられ候は、薩摩表へ出陣仕り候、貴様にも御慰ながら、御同道仕りたく候、御人数召連れられ候はゞ、夫々に知行をも下されずしては、成り難かるべし、玉名郡残らず支配なされ候様との儀なり、殿様少しも御承引之なく、頃日まで別心なき島津方へ、某唯今の仕合に罷成り、何故合戦の結構仕るべくや、少しにても、関東への忠節振を仕り候へとの儀に御座候や、左様の儀、努々存寄も之なく候、玉名郡の儀、上より下され候はゞ、兎も角も仕るべくや、貴様より給り候はゞ、肥後国一国にても、望に御座なく候との御返答なり、此以後、今度清正色々になされ候て、殿様を肥後に御住居なさるゝ様になされ、御家中の侍共も、其儘にて差置かれ、以来殿様を幕下になさるべしとの御所存と、御推量遊され、翌春早々御上洛なさるべき由、清正へ仰談ぜられ候へども、関東の聞えも如何に候間、先づ当年は御逗留なされ然るべしと、清正達て仰せらるゝに付、慶長五年十二月より、同七年の春まで、高瀬に御座なされ候、宗茂高瀬に留る此節松延庄屋・本郷村庄屋両人、侍中は戦死さへ仕られ候、百姓にても、能き時計りの地頭にて、之なしと申し候て、人夫を入れ、俵子を運ばせ候故、両人共に罪科に行はれ候、其子孫今に庄屋仕り、少し知行下され候、風計も、此節自分に船を御用に立て候故、御腰物下され候、船頭にて之ありたるなり、肥後より御登りなされ候時、世間打続き物騒に御座候故、大名も困窮なさるゝ時節に候、況して殿様は御浪人の儀故、賄銀如何なさるべしと、皆申し候処、小野和泉、銀二十貫目差上げ候、小野和泉の献金殿様へも思召し寄りなく、銀子如何仕り、所持致し候やと、御尋ねなされ候、和泉申し上げ候は、数年御役儀仰付け置かれ候に付、御領内の者共、色々の音信仕り候、相役中は遠慮仕り、音信受納仕らず候、拙者儀は音信を返し申さず候、其子細は、返し候へば、人のちなみ薄く罷成り候に付、悉く受納は仕り候へども、自分の用に遣ひ申すべきには、冥加の程いかゞと存じ、少しの物にても、放却仕り候て、集め置き候を差上げ候、尤も方々御陣中組の者共、難儀に及び候時、右の銀を少し宛、取らせ申し候が、其残是程御座候を、差上げ候由申し候、殿様甚だ御感心なされ、将又此オープンアクセス NDLJP:90時始めて、和泉が常の人にてあらさる事を、皆人合点仕りけり、昔殿様伏見・大坂に御座なされ、和泉へ仰下され候は、御家中の者共御仕置の事、何事に依らず、御耳に立て申すに及ばず候、町人・百姓の変は、申すに及ばず、侍の上にても、存寄に任せ、申付け候様にと仰下され候に付、いか様の和泉なれば、斯程まで御意に相叶ひ候やと、嫉み申す者多く、立花弾正を始め、原尻宮内・十時伝右衛門・京都兎角兵衛抔一味仕り、だしぬき候て、和泉を殺し申すべしとも仕り、又は和泉所へ押寄せ、打取り申すべしなどゝ、度々仕り候、是程に致し候へども、殿様より和泉は御懇意残らざる儀、諸人不審に存じ候に、今度の仕合を見候て、扨は殿様御目がね強く御座候ての儀と、存じ当り候、此時代の銀二十貫目は、殊の外重宝と仕り候、大原の直盛の刀、銀二十匁と申し候を、高直なる物などゝ申し候て、取り申す者之なく候、銀五匁計りの馬は、西国中乗迴りも苦しからざる、よき馬にて之ありたるなり、是を以て了簡仕るべき事なり、

宗茂上洛一、高瀬より御登りなされ候時、御供大勢は御無用の由、清正より仰付けられ、諸人存じ候通りに、侍十六人・上下廿八人にて、御立ちなされ候、尤も此内清正より御供仰付けられ候両人、谷崎権太夫〈森下義太夫弟なり〉・嘉悦助六、〈後に平馬と申す、〉清正より、当時の儀に候間、大坂へ少しも御逗留御無用になされ、京都・伏見へは、御勝手次第に御座候様にとの儀なり、清正御家来両人は、京都より御暇下され罷下り候、京・伏見にて、御出入仕り候町人共、御馳走に御宿仕るべき由、申し候へども、其所には御座なされず、方々なされ、山科・伏見・京都に御座なされ候、御無人には御座候、朝夕の御料理等も、時により、殊の外御難儀遊され候事多く御座候、或時仕るべき様之なく、ざうさい差上げ候へば、入らざる汁かけ、食に仕上げ申さずとも、只上げ申さでと、御意なされ候、皆々涙を流し申したる由にて候、此時分加賀大納言殿より、愛宕山長床坊か八幡滝本坊かへ御内意候て、前田氏宗茂を招がんとす殿様加賀へ御越しなされ候はゞ、十万石進ぜらるべしとの事なり、兎角の御返詞をば仰せられず、憎い奴共が、腰は抜けながら、万づの事を申すと仰せられける故、右段申上げ候坊主、殊の外に迷惑仕り候、大徳寺か妙心寺の出家衆かまで、申し来り候とも申し候、両説分明ならず候へども、此事申されたるは、慥なる事にて、其節御前に罷在りたる衆の物語に候へども、其沙門の名を慥に承り置かず、残念なり、オープンアクセス NDLJP:91〈万づの事と仰せられたるは、去々年、柳川開城の時、島津殿より種子島を進ぜらるべく候間、加賀を一つにして、凡そ二百万石に近き、大きなる腰抜なりとの恩召と相見えたり、其上加藤清正も、肥後国王名郡を進上すべき由、御申し候尤も清正は志操正しき大将にて、余人には準じ難けれども、高義清操宗茂には下れり、〉

宗茂江戸に至る一、京都にて、江戸へ御下向なさるべき由、御意之あるに付、何れも申上げ候は、左様の儀は、清正へ御相談遊され、其以後の儀に遊され、然るべき由、申上げ候処又御意なされ候は、清正も柳川開城の扱こそ仕るべく候へ、今此身の上の事まで、如何清正存ずべく候や、此上の儀は、仰合せらるべき道理にあらずと仰せられ、弥〻相極められ候て、京都御立ち遊ばされ候、御供の侍中、路銀之なく、御前にも金銀御座なく候故、道中の御難儀、言語に絶し候事共なり、御供中道々巡礼仕り、漸く駿府まで御著なされ候、肥後に罷在り候侍中より、御機嫌伺に、清正御使者に差越され候、大脇左太夫と申す仁、関東へ罷通り候を相頼み、銀十枚進上仕り候、京都にて関東へ御下向の由承り、持参仕り、駿府にて差上げ候故、それより江戸までは、少し緩々と御供仕り候、駿府より本多佐渡守殿へ仰越さるゝは、去年以来在京仕り、洛場方々遊山仕り候、関東未だ一覧仕らず候間、見物の為め罷下り候、御城下駿府まで罷著き候間、追付御在江戸遊さるべく候条、自然御咎め御座候はゞ、其時までと、御覚悟なされ候由に候、宗茂の覚悟戸塚へ御著なされ候時、佐渡守殿よりの御返詞に、たかた宝勝寺へ御入り遊され候様にと計り、申し来り候故、何れも存じ候は、京都より御下向の儀、両御所様御機嫌の程も、御構ひなされず、押付けて御下向故、定めて御切腹たるべくと存じ、各御供の用意仕り候人数十一人なり、何れも書載するに及ばず、諸人存じ候通りなり、宝勝寺へ御入りなされ、御草臥れなされ候由にて、御行水遊され前後不覚に御寝なされ候処、佐渡守殿御出てなされ、御自分御事、秀忠様へも御懇意に思召し上られ候へども、大御所の思召如何と、思召し上げられ、兎角の御沙汰遊されず候、其上本多平八方、いかゞ仕りたる事に候や、御自分御事、伏見以来入魂の事に候へども、立花は憎い働仕りたりと、度々申し候故、誰人にても御取合成り難く候、去り乍ら最早両御所様共に、貴様御別儀なき段は、具に聞召し届けられ候間、少しも子細之あるまじき由にて、兵類・塩・味噌等遣され、之を進じ候故。御供中も安堵仕り候、〈此間三箇年計りか、此文面にては、即時の事の様に、聞え侍るなり、〉則ち佐渡守殿より土井大炊殿へ御内談候て、大炊殿より平八殿へ御相談候処、敵に強き者は、味方にも強く候の間、御取合苦しかるまじき由、仰せらオープンアクセス NDLJP:92れ候故、則ち内府様御耳に立て、御目見相済み、秀忠様へも御目見相済み、其日堪忍分と御座候て、棚倉一万石下され候、其後赤楯下され候儀、諸人存じたる通りなり、柳川の旧領に復す尤も御在江戸、御浪人の間、三四年も御座候、其後又柳川先知御拝領遊され御入部の時、立花七左衛門、赤楯の山を切りあらし、御迷惑に及び候処を、十時与左衛門、道中より遣され、首尾能く断申述べ、別条なく候、黒田筑前守殿・細川越中殿より、御迎に大坂まで、船余多差越され候上、越中守殿より御乗船一艘御音信、鍋島信濃守殿よりも、御迎船進ぜらるべきの由候へども、御断仰遣され候故、参らず候、筑前守殿の船は、御礼計り仰遣され、御供にても御乗せなされず、是は大津御帰陣の時の首尾故かと、皆申し候、是より以後、筑前守殿と、さのみ御親みなされず候、鍋島殿上へ仰上げられ、御入部の御祝儀に、柳川へ参られ候、終日の御酒盛にて、御打送りの草鞋酒にて御座候、先年清正へ御預け置きなされ候侍中、肥後より帰参仕り御礼として、立斎様肥後へ御越しなされ候、忠広も柳川へ御出でなさるべしとの儀に候へども、御断にて、御使者計りなり、〈忠広御名代中山周防、〉吉弘嘉兵衛・小野〔三池カ〕佐兵衛両人は、忠広御貰ひなされ候故、則ち進ぜられ候、尤も佐兵衛は、関ヶ原前に、養父和泉と不和にて、肥後に参り居り候て、清正より二百石下され候、柳川案内能く仕り候とて、千石になり申し候、今度何れも罷帰り、柳川へ参りたき由、願ひ候へども、御留めなされ候、此度鍋島殿参られ、御振舞の上にて、江上にて、先年御紋附の幟、私方へ取置き候、返進仕るべしとの事なり、殿様仰せられ候は、夫れに及び申さず候、折を以て、申請けらるゝ儀も、これあるべしとの儀なり、

一、小野若狭に三千石下され候、和泉一世大切の御奉公計り申上げ候儀、御失念なしとの儀なり、由布壱岐へも、若狭に三千石遣され候間、同高に仰付けらるとの儀なり、壱岐申し候は、御浪人の間、艱難の御奉公相勤め候て、若狭故に三千石取りては、有難くなしと申し候段、聞召し上げられ、御尤に思召し上げられ候間、下されまじとの御意なり、瑞松院様より色々に仰上げられ、拝領仕られ候、是は大坂御陣の時、振悪しく候故と、聞え申し候、若狭は小野作兵衛子なり、作兵衛は和泉養子婿なり、若狭は実は和泉為めには孫なり、作兵衛は本名森下なり、備中親弟なり、

オープンアクセス NDLJP:93一、蘆野玄嘉〈参河事〉は筑前に罷在り候、嫡子吉右衛門妻は、紹運様御息女なり、殿様より、吉右衛門死後に御呼びなされ候へども、筑前より御帰りなされず候、玄嘉・十時源兵衛など、筑前へ参り候者共は、肥後より帰り申し候者共、先知滅り申す儀承り、罷帰り候、

一、巧網新助咄に、肥前多々良川の大簗御見物に、屋形御出の時、豊前の国侍より、御馳走の能、住吉にて之あり候、宗茂幼時の沈著原田が家来と田水相模と、無礼の相論にて、手負・死人余多之あり候、此時宗茂様は、御幼少にて神妙の御所体、諸人感じ奉り候と申し候間、野上紹鉄に相尋ね候へば、咄し申し候、喧嘩に付、見物の諸人混乱仕り候、諸大名の桟敷乱立ち候、道雪様御供中も、御座所を存ぜず候処、由布源五兵衛一人、御前の御座なさるゝ処を存じたる由、申され候て、何れも引連れ参り候て、舞台に上り、戸次道雪は何方に御座候や、由布源五兵衛是に罷在り候と、呼ばはり候時、道雪様は足達宗円〈対馬にて之あるべき由、休真咄なり、〉一人召連れられ候て、屋形の御桟敷へ御入りなされ、騒動を御静め御座なされ候、此声御聞きなされ、源五兵衛御免候、此方へ参り候へと、御意なされ候に付、何れも屋形御桟敷近く参り、警固仕り候、此時紹運様は御越し之なく候、弥七郎様〈宗茂様の御幼名〉計り御出でなされ候、諸家の桟敷乱立ち候へども、弥七郎様御桟敷計り、少しも騒ぎ申さず候、道雪様御覧遊され、弥七郎様御器量の程感じ思召し、一向御養子の御望遊され候、田北相模は、田北紹哲の弟にて、屋形近習の侍なり、

一、十時与左衛門、赤楯より罷帰り、御代官衆へ断り、首尾能く申述べ候由、申上げ候に付、七左衛門へ御目見仰付けられ候、与左衛門奏者仕り候、七左衛門退出の跡にて、十時内匠〈三弥事、〉・立花民部、其外若き衆居り申し候に、人は筋による物なり、親・祖父の名を汚し候はぬ覚悟を能く仕るべき由、御意なされ候、何れも相立ち候跡に、戸次法印御前に出で申され候に、今日御安堵なされ候、山奉行衆申分にて、七左衛門たゞ召置かれ候事、御成りなさるまじく思召し上げらるゝ処、与左衛門、首尾能く埓明け参り候故、別条なしとの御意にて、後御咄に、法印、七左衛門祖父中務が実父、御存知あるまじと仰せられ候に付、法印申上げられ候は、紛なく道雪様御舎弟と計り存じ候由、申され候、御意に、〔統カ〕連、戸次の名字に塵を付け候間、大友中務の素性戸次の一類に、左程未練なる者之なく候が、中務と鎮連は、如何様の巣オープンアクセス NDLJP:94守にて、臆病に之あり候やと、不審に存じ候処、有馬伊賀が姉、宗雲様へ、いそと申し、御奉公仕り居り候、是は前廉田原紹恩が妻にしたる女なり、此いそが夫関甚太夫が能く存じ、申聞け候、中務、実は紹恩が弟なり、其子細は、中務が母懐姙になり候時、正光院殿〈此所しかと承り得ず、とかく御名なり、〉申され候は、女子ならば、母に添ひなせよと、申付けられ候、扨産仕り候に、其子女なり、折節照恩が親の妻も、産仕り候が、男子なり、是は又嫌年の子にて候間、男子ならば、即刻人にくれ候様と申すに付、由緒ある者共、互に沙汰なしに、替へられたるが、中務なりと御咄なり、法印申され候は、初めて承り候、大友統連の素性統連は親にも祖父にも違ひ、心も剛に、おしたても能く、利根に御座候と申したるが、惜しき事にて御座候と計り、申上げられ候、御意に、統連は違ひたるが、道理にて候.是は実は旧杵刑部が子にて候、其次子は今に居り申し候や、幡堂寺に統連が乳母の子了覚〈名しかと御覚え遊されざる由仰せられ候〉とか申して居り候、是ならでは、只今存じたる者、之あるまじく候、中務が事も、鎮連不覚悟の後は、御沙汰遊され候儀、却て聞え悪しく、思召し上げられ候に付、誰へも御語りなされず候、法印へも、沙汰は無用に仕られ候様にとの御意なり、其後、法印幡堂寺に参られ候節、右の出家尋ね申さるゝ所に、いかにも御咄の通りに、統連乳母の子、名も御覚の通り、了覚と申し居り候に、統連の事尋ねられ候に、何として御存じ候や、いかにも旧杵刑部子にて、戸次鎮連、初子男子を得申され候処、一月も過さず、其子死申に付、中務妻殊の外歎き申され、旧杵刑部本妻と妾と、同月に産を仕り、何れも男子にて之あり候を、中務方へ妾の子を窃に乞ひ候て、鎮連の養子に仕られ候と、語り申し候由、法印咄なり、七左衛門は、豊後落去の時、鎮連より薩摩へ人質に参られ候段、御聞き遊され、御当家へ御寄せなされず候故、肥後へ参り、父子共に、又内に居られ申し候、首尾候て、肥後より奥州へ参られ、殿様へ召使はれ候なり、

一、棚倉にて、川村右衛門に次郎兵衛、二百五十石にて召抱へられ、大坂御陣の御供に、召連れられ、土井大炊殿へ御使に、右の次郎兵衛遣され候処、誰の陣か、木屋の前を通り候へば、近く之あるに付、断申し候へども、通し申さず候、之に依つて其木屋を迴り、田の中の様子乗迴し参り候処、口三間程の堀に行きかゝり候間、引返し乗懸け、城をよく馬に見せ候て、又乗懸け、其儘一散に飛ばせ、御使相オープンアクセス NDLJP:95仕舞申し候、最前通し申さゞる家中の上下、其外、近辺の木屋よりも、大勢見物仕り居り申し候処、皆々肝を潰したる由に候、本書の通り、御陣中振能く、柳川御入部の時、百五十石加増下され、召仕はれ候、御歩行並と之あり候、実にては之なく候、八流の乗方、隠なき名人にて御座候由にて候、

 

立花遺香大尾

 
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。