祓除と貨幣の関係

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我邦上古の習俗中ハラヒなるものが重要なるものと看做されてあつたことは誰も皆知つて居る所であります。然し此習俗が經濟上に關係深きものなる可きことは餘り認められて居らぬ樣であります。尤も專門史家の中には疾くに此點に思及ばれた人は無論あることゝ思ひます。私の知つて知る所では故橫山由淸氏の如きは慥かに其一人であるかと存じます。其證には同氏の『日本上古賣買起源及貨幣度量權衡考』〈學藝志林明治十二年四月〉なる論文中に左の一句があります。

『上古罪過ある者に祓物を課して其罪を贖はしめ海山の幸を相易へしことなとも即交易の義なり』

依て考へますに既に本居宣長氏も『今俗に物を買たるアタヒを出すを拂ふとも、拂ひをするとも云は、祓除の意にあたれり、又これをスマすも云ふ、スマの意にて祓除の義に通へり』〈古事記傳六之卷三十七〉と說いて居られます。平田篤胤氏も『古史傳』〈六の二十三〉に本居氏の說を引いて居られます。其他同じ樣なる說明を繰返へしたるものも尠くはない樣でありまして『俚言集覽』〈下の百三十六〉等にも『ハラヒ。直を出すを云、濟すと云意なり即祓除の義なり」と致してあります。併しまた『古言梯』の頭注等に拂と祓とは活用が異なる由を記してもありますから、全く同源と云ふ譯ではありますまいが、兎に角兩者の間には餘程關係があるらしく考られます。本居氏の說明を見ますに『凡そハラヒに二あり、其一は伊邪那大神の阿波岐原のミソギの如し、一は此のハラヒの如し、是れ罪犯ある人に科せて物ハラヘツモノと云、書紀に見たり、天武卷には、此を祓柱とかけり〉を出しアガヘするなり、かゝれば其事も意も二別なるに似たれど、本は一なり(中略)、犯罪を解除るも、穢汚を淸むる禊と全同し』〈記傳九之卷三葉〉とありますから、波良比は贖罪の事、祓具とは贖罪の科と解す可きかと存じます。自ら犯せる罪によりて得たる債務(理想上の)穢汚によりて被れる債務(同)を決濟することを總べ稱してハラヒと申したものと見て差支ない樣であります。書紀の一書に『自爾以來。世諱着笠蓑以入他人屋內。又諱負束草以入他人家內。有犯之者。必債解除。此太古之遣法也』とありまして、飯田武鄕氏は必債解除の一句を說明して『物をイタして贖はする法有つる也、(略)令集解に債徵財也とありて、今も云語なり』と申して居られます。即ち罪犯も汚穢も共に一の債務 Schuldigkeit であつて波良比の法によつて之を濟す習俗となつて居つたことと考へられます〈本居氏記傳九の二、『穢は即罪なり、罪は穢なること前の阿波岐原に云へると併せ考ふべし云々』とあり。〉

若し右の愚考が太過なきものと致しますれば、祓除なる習俗は我邦上古の宗敎的硏究に重要な一事たるのみならず、また經濟史の硏究上にも甚だ肝要にして看過す可からざる事柄かと考へらるゝのであります。波良比は元と罪と穢をはらふと云ふ義に用られ、延て一切の債務を決濟する支拂のことをも言ひ、ハラヘツモノ贖罪の料の意より及んで仕拂の要具の事となつたとすれば、同時に罪を贖ふ『アガフ』と物を購ふ『アガフ』との間にも何等かの關係があるのではないかとの考を惹起さしむるのであります。即ち橫山氏が祓物を出すこと交易の一起源ならんと申されたは餘程卓見であるかと思ふのであります。

之を西洋の經濟史に就て考へますに、神への貢獻から延て君主への調貢が財の流通交換の一起源を爲したことは、今日殆んど動かす可からざる定說となつて居る樣でありまして、ビユヒアー先生の如き全く交換なき、流通なき自足經濟と云ふことに大に重きを置て說かるゝ學者も、如此一方的仕拂が交換の起源となると云ふことは認めて居られます。

依て思ひまするに祓除の習俗は交換賣買の事と關係ある如く、また貨幣の起源及發達に就ても甚だ密接なる關係を有して居るのではありますまいか。貨幣は交換の要具・價値の尺度として起つたと云ふ舊說には、今日歷史的硏究を重ずる學者は餘り信服して居らぬ事は、今更繰返へすまでもないことでありまして、演繹的に今日の發達した貨幣經濟の世に養はれた頭を以て、唯だ只だ理屈責めに貨幣の本質と起源を說くことの非なるは凡そ進步した學者は皆認めて居ります。貨幣は現今に於ても仕拂要具たること、其起源も亦仕拂要具たる事に存することに就ては、餘程守舊的な考を持て居る人の外は一樣に認めて居ることで、今更喋々するのは遼東の豕でありますが、私は我邦祓除の事賞は殊更に此仕拂要具たるの實を證明する力があることかと考へるものであります。

獨逸に就ては言語の發達の上から餘程的確に此證明が立つことゝ思います。拉丁系統の貨幣なる語 money, monnaie, moneta 等は價値 value, valeur, valore と同じく此點に於ては餘程不便てある樣に思ひます。獨逸系語の Geld, gelt の方が餘程長い歷史を含んで居て、之に付て其昔を偲ぶに大に便利であります。

さて獨逸語の Geld に就てはグリム氏の字書に實に詳しい硏究が載せてありまして、貨幣の事を論ずるものは是非參考を要することゝ思ひます。今其一二節を引て見ますれば、

"Geld" 2) ursprünglich religiösen hintergrund zeigt es in der bedeutung opfer.

dargebrachtes opfer und zugleich gottesdienst überhaupt.
b) mit dem religiösen gebrauch wird ursprünglich zusammenhängen der gebrauch im rechtsleben (war ja der priester zugleich der rechtskundige) zuerst vielleicht als wergeld.
eigentlich der ersatz für einen erschlageenn, den der thäter und seine sippe der beschädigten sippe zu leisten hatte, womit der weg der blutrache abgeschnitten und friede und sühne gewonnen wurde.
der begriff von wergelt erweiterte sich früh zu dem von schadenersatz für persönliche ver letzung überhaupt.
auch der mann selbst als 'gelt' gegeben.
c) ganz früh erscheint auch schon die bedeutung 'abgabe': leistung an den herrn.
3) die weitere entwickelung geschah im gemeindeleben und verkehrsleben, immer mit 'gelten' hand in hand.
a) abgabe an den herrn, an den eigentümer, die behörde, u. a., census, gelt.
b) ebenso dann von allerhand andern gebühren, die zu entrichten sind, an gericht, amt, behörden.
c) lohn, eigentlich gegenleistung für einen dienst.
d) lohn oder gegenleistung für gelieferte arbeit oder waare.
e) daher auch für kosten.
f) auch die zahlung hiess einfach gelt.
g) gelt als schuld.

h) gelt als wert.

右は飛々に一部分を集めたものですから、委きことを知らんとする方は宜しく原書を一覽あらむことを希望致します。

近來ハーン氏は『農業の起源』と云ふ書、『經濟的勞働の起源』と云ふ書等に於て、經濟行爲の起りと宗敎との關係の甚だ密接なることを說て居られますが、貨幣の起り及發達に就て宗敎との關係は殊更に密接なるものあることは、グリム氏の右の考證に依ても一端を窺ぶことが出來る次第であります。

さて私は我邦上古の生活に於てまた貨幣と宗敎及法制との間に密接なる關係あること祓除の習俗之を證することゝ考ふるものであります。wergeld に丁度該當するやうな習俗は之を我邦に見ることは出來ぬのでありますが、人身殊に人體の一部を祓具に供したことはタナスエノヨシキヲヒモノ・アナスエノアシキヲヒモノとて手の爪・足の爪等をハタること〈素盞嗚尊の條にあり〉又た以唾爲白和幣。以洟爲靑和幣〈書紀一書〉とありて、唾や洟もニギテ即ち祓具としたことが察せられますし、進んでは多米氏系圖に『志賀高穴太宮御宇・・・・。爾時天皇御命贖乃人乎、四方國造獻支』とありて人間を祓具に供へたこともあるやに考られます。萬葉集十七、造酒歌『中臣の太詔詞言いひはらへアカフイノチも誰か爲にれ』とあるなども參考になることゝ思ひます。後世に及んでは祓除をなさしむると云ふは、損害賠償グルム氏の ersatz-loistung, schadenersatz と云ふもの〉の意に用ゐられたることもあるようてす。即ち孝德紀に

復有被役之民路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰何故任情炊飯余路强使祓除。復有百姓就他借甑炊飯。其配觸物而覆。於是甑主乃使祓除。如是等類愚俗所染。今悉除斷勿使復爲。

とあるを看ますれば餘程普く行はれて居つたかと察せられるのであります。

さて祓具と云ふ語の外にニギテと云ふ語とミテグラと云ふ語とあります。二者共に天照太神天石屋戶に隱れ玉へる條に出でゝ居ります。即ち古事記に『於下枝取垂シラニギテ靑丹寸手而。此種種物者。布刀玉命フトミテグラ登取持而』とあり。書紀には『下枝懸靑和幣〈和幣。此云尼抧底〉白和幣。相與致其祈禱焉』とあるのであります。本居氏說に〈記傳八卷四十三葉〉ミテグラは何物にまれ神に獻る物の總名なり、諸の祝詞などを見て知るべし。名の義はまづ古へ神に獻る物及人に贈りなどする物を、凡てクラと云りと見ゆ〈後世の語に人に物を與るをクルと云も是より出たることなるべし〉とあります。彼の素盞嗚尊が科せられたるチクラオキドの『クラ』も其意なるべしとも論じてあります。而て『凡てミテグラを取持ことは此時の例の隨に後の御代々々まで忌部氏の職業なり』〈四十四葉〉とありまして、古語拾遺に廣成は此事を詳く記して忌部家の古の盛況を追懷してあります。此によりて想像を旋して見ますに、忌部氏は始祖太玉命が御幣を執持つ役を爲して以來、代々祓具及一般の獻貢物を司る役目を世襲して居つたことかと思ひます。其獻貢は始めは專ら祓除即ち贖罪の Opfer たる祓具(祓柱)に就き、後には一般に神へ獻る凡ての御幣を收納するので、即ち一の Kirchenfiskus を司つて居たものが、後に御幣は神に獻るのみでなく、皇室に獻るもの即ちグリム氏の第三に揭げたる〉 abgabe 調『みつぎ』の事に移り來つて、而して忌部氏が又た之をも司つて齋藏の長官は同時に大藏の長官となり、 Kirchenfiskus に兼ねて Hoffiskus をも與ることになつたことかと思ひます。而して此忌部氏が司る御幣に中るもの、即ち神及君への進獻品として多く用ゐられたものが貨幣として廣く用ゐらるゝものとなつたと想像すれば、忌部氏はまた貨幣の事にも關係があつたものかとも思へるのであります。

我邦上古には貨幣の事を何と申して居りましたか、獨逸の『ゲルド』の樣に遠く遡つて考へ得可き語は兎に角ありません。『ゼニ』『カネ』等は拉丁系統の monnaie, argent と同じく遙か後世の鑄貨時代に起つた語でありませう。併し私の唯一寸思付いた處では和幣の『ニギテ』は『ニギタへ』の約であるにしろ、ないにしろ初は成程ユフの事のみを稱したでせうが、後には必ずしも木綿のみならず、其代用品をも指して稱へたかと思ふのであります〈唾洟の事は勿論として〉而して書紀の筆者が『ニギテ』に充つるになる漢字を以てしたのは必ず偶然ならざることかと思います。成程後世の祝詞等には祓具には種々なるものを載せて居りますし、又天石屋の段にも和幣以外に進獻したものは樣々ありますが、取分け其中に就ても白靑兩種の和幣即ちユフと麻の二は重要なるものであつた樣に見へます。即ち『カヂ』の木の皮を織つたもの又は織らざる纖維其儘のものと麻との二品は私を以て見ますればミテグラとして常に用ゐられたるが爲め、又後には貨幣としても用ゐられたのではあるまいかとの想像を逞しくして見たい氣が致すのであります。『ハラヘツモノ』として多く用ゐられた此の『ニギテ』は又 Zahlungsmittel 初めは皇室及其他所領の君主への獻貢に、後には一般に債務決濟(ハラヒ)に充て用ゐられたのではありますまいか。『カヂ』は後世布に織ること已み專ら紙を作るに用ゐられましたが、紙錢と云ふものがあつて、神へ獻ける用に供せられたことは其昔ユフが和幣として、而して又仕拂要具として用ゐられたことゝ何等かの關係はないでありませうか。

參考 箋注和名抄曰。紙錢。加美勢邇。勢邇賀太。今伊勢神宮河原獻用錢切幣。佛家祭諸天亦用紙錢。
猶古史傳十の一神衣祭、神衣部に就ての記述を參考す可きか。
黑川眞賴氏 日本織物說云。『從來の草皮を用ゐて紡織するを常とせり、其徵をいはゞ古語拾遺に云々。是れ・・・・神前に供する所のものは麻布カヂ布なるを、是に至り更に其紡織並に精美を盡して獻進せしを見る可し』云々 國書刊行會本第三、三百八十八頁

以上申述ぶる所は極めて杜撰にして又甚だ獨斷的な考でありまして、專門歷史家から見られましたらば、唯一笑に附するの外値なきことであらうと存じます。又私は國語の知識もなく言語學等に就て全く門外漢であります。唯此方面に於ても我國史を經濟的に觀察すること、又其反對に經濟學上の爭論を解決するには我邦の歷史は必ず大に參考とする必要のあること等の一端を窺ひ得る樣に思ふ餘り、斯くの如き詰らぬ考を公けに致す次第であります。何卒歷史專門家諸君に於て少しは此方面に指を染められたいものです。然れば私の右の卑見が根本的に打破せらるゝ位は少しも厭ふ所ではないのであります。猶右認めた外少々は調べて見たのてすが何分纏りが付きませんから、追ての機會を待つことゝ致します。  (六月五日記す)

追記 本稿を草し了りました所へ偶然に敬友內田文學博士から『貨幣の起源』本誌百八十號の別刷の惠送を受けました、依て早速一讀致しました處、私の考と餘程近き御說もある樣に拜見しました。就て思ふに私が橫山由淸氏のみをあげて、內田博士の事を申さなかつたは手落でありまして、博士も確に卓見の名を享けらる可きことゝ思ひます。專門史家中博士の如き御論のあるを知るは私の甚だ心强く感ずることであります。依て私の愚考も之を博士の御說と比較せられたならば讀者に於ても大に御參考となることゝ思ひます。唯私の切望する所は博士が數年間中絕せる右稿の後部を一日も早く公けにせられて、我々門外漢の蒙を啓かれたい事であります。博士の御論と愚考と違つて居る點に就ては、其以前に於ても、機會がありましたならば、御示敎を得たいものであります。此稿は博士の尊文を拜見する前に脱稿致したのでありますから、彼の延曆の太政官符中の大祓・上祓・中祓・下祓(四十四、五頁)のことに付ては少々私に考もあり乍ら申述べてありません。(六月十九日追記す)
右一文『國家學會雜誌』第二十四卷第七號に揭載したるもの、前の坐考と併せ見られんことを乞ふ。

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