真田大助の死

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元和三年五月七日、豊臣家の武運傾(かたむ)いてさしも栄華の影を止(とど)めず、頼みの大阪城さへ今は危(あやう)しと見えた時であつた。
其朝(そのあさ)、城方(しろかた)の飛将(ひしょう)真田(さなだ)佐衛門佐(さえもんのすけ)幸村(ゆきむら)は城を出て茶臼山(ちゃうすやま)に陣を取つた、毛利(もうり)豊前守(ぶぜんのかみ)勝永(かつなが)は天王寺表(てんのうじおもて)へ進んだ、大野(おおの)主馬介(しゅめのすけ)治房(はるふさ)は岡山表(おかやまおもて)に進んだ、茶臼山を西とし天王寺を中(なか)に岡山を東(ひがし)として人数(にんず)を立て、寄手(よせて)の徳川勢十三万人に迫つたのである、城方の計画は城中七万人の数を尽して打つて出(い)で秀頼公(ひでよりこう)の出馬を乞(こ)ふて、乾坤一擲(けんこんいってき)、勝敗を今日の一戦に定めやうと云(い)ふのであつた。夫(そ)れは幸村の建策(けんく)で、諸将に異議もなく秀頼公も其(園)覚悟で戦(いくさ)の手配は既(すで)に定められてある、今は秀頼公の出馬を待つばかりとなつた。
昨日(きのう)の戦(いくさ)に城方では後藤又兵衛(ごとうまたべえ)、木村重成(きむらしげなり)、薄田隼人(すすきだはやと)等(ら)の驍将(ぎょうしょう)枕(まくら)を並べて討死(うちじに)してゐる、城方の士気も衰へてゐる、目に余る徳川方の大軍を引受(ひきう)けては籠城に希望(のぞみ)も無い、勝敗を一戦で定(き)めやうとするのも此外(このほか)に道が無いからで、夫(そ)れほどまでに城の運命は迫つてゐるのであつた。
だが、此(この)一戦、大勢(たいせい)はもう徳川方の利(もの)と見えてゐる、兵数(へいすう)も徳川方が遥かに多い、城方に頼むところは、只(ただ)駈引(かけひき)と気と、である、而(そう)して秀頼公の出馬は全軍の気を引立てるだけの力を以(もっ)てゐる、士卒(しそつ)も「今日が死に時である、生きて逃げるとも日本の内には片足も止められぬ」と覚悟してゐる、其覚悟に秀頼公の出馬とある、衰へた士気も自然に振(ふる)ふ事となる、さうして真田幸村の智(ち)は軍(いくさ)の駈引に無双の力を現はす、其(その)智と其の(その)気とで或(あるい)は勝つかとの一縷(いちる)の望みも出来てくる、だが秀頼公の出馬が無くば敗軍の後(のち)を受けた城方の気は緩む、諸将の駈引も中心を失ふ、統一もつかなくなる、恁(こ)うなつては幸村の智も及びもつかぬ、滅亡の悲運に任せる外(ほか)はない。
茶臼山に出た幸村は恁(こ)う考へてゐた、幸村が絶えず城の方(かた)をふり返るのも其為めであつた。
其時陣所(じんしょ)見廻(みまわ)りとして大野(おおの)修理亮(しゅりのすけ)治長(はるなが)が来た。
「上様(うえさま)には最早(もはや)、桜の御門までお出(い)でなされた、戦(いくさ)の首尾は如何(いかが)、お問合(といあわ)せに参つた」と修理は云ふ。
「天下の事は今日一日(いちにち)が分目(わけめ)でござる、上様御出馬(ごしゅつば)とあれば味方軍気(ぐんき)も百倍と存ずる、御覧あれ、敵との間は六七町ぢや、軍(いくさ)も只今(ただいま)始まらう、只今船場(ふなば)に明石(あかし)掃部助(かもんのすけ)が備へてござるが、あの人数を此山(このやま)の蔭(かげ)から一町先(ちょうさき)に出しまする、夫(そ)れを合図に此手(このて)も合戦に及ぶ次第でござるから最早兎角(とかく)の間(ひま)は無い、上様には早々(そうそう)御出馬を願はねばなりませぬぞ」と幸村は焦(いら)つた声で云つた。
修理は快諾して馬に鞭(むちう)つて帰つた。
時は過ぎた、明石掃部は幟(はた)を絞(しぼ)り蔭に沿(そ)ふて静かに茶臼山の横手(よこて)から先に出た、幸村が正面から敵にかゝれば掃部は横から敵陣を衝崩(つきくず)す手筈であつた、而(そう)して幸村は敵の忠心、徳川家康公の本陣へ衝進(つきすす)む筈で其手(そのて)を崩せば勝利の見込みに十に一ぐらゐはあると幸村は考へてゐた。
幸村は更(さら)に城の方を顧(かえりみ)る、城中桜の門には秀頼公が、父太閤の北条征伐に用ゐた時の儀容(ぎよう)を其儘(そのまま)に緋縅(ひおど)しの鎧(よろい)に錦の直垂(ひたたれ)を着け、床几(しょうぎ)に靠(よ)つて城外の形勢(ありさま)を瞰下(みくだ)してゐた、城外の味方は雀躍(こおどり)して喜んだ、秀頼公は城方(しろかた)尊敬(そんけい)の中心である、中心動いて士気振(ふる)ふ。
だが、だが、門を限(かぎ)りにして秀頼公の、本陣は進まなかつた、徳川方は既に火蓋(ひぶた)を切らとしてゐる、戦期(せんき)は刻一刻(こくいっこく)と迫つてゐる。
幸村は手を翳(かざ)して眉(まゆ)を顰(ひそ)めた、城中には兎角軍議に茶々を入れたがる奥向(おくむき)がある、其為(そのため)に是まで幾度(いくたび)軍機(ぐんき)を誤まつたかも知れぬ、性懲りもなく又(また)もや奥向から出馬を遮(さえぎ)つたのではあるまいか――、とは幸村の懸念であつた。
懸念は遂に事実となつた、秀頼公は依然(やはり)動かぬ、大事(だいじ)の際(きわ)に何(なん)の躊躇(ちゅうちょ)、遠くして仔細(しさい)は分らぬが、大略(おおよそ)の光景(ありさま)は幸村の胸に読み得られた。振いかけた士気も稍(やや)白(しら)む。
「是非もない」と幸村は嗟嘆(さたん)。
彼は前歯の欠けた口を屹(きっ)と結んだ、其面(そのおもて)には深い覚悟と此際(このきわ)にも動ぜぬ沈着の色とを湛(たた)へて、子息の真田(さなだ)大助(だいすけ)を呼んだ。
「大助、そちとも別れねばならぬぞ」。
「は」と大助は不審の眼を父に注ぐ。
「大事は去つた、最早及ばぬ、父はこゝにて討死ぢや、其方(そち)は城内(しろ)に帰つて上様御前途(ごぜんと)を見届けい」。
「えい、惜(お)かせられ」と大助は声に恨(うらみ)を有(も)つて「父上の討死後(あと)に見て大助何(なに)とて城へ去(い)にまする、死すればお供にと予(かね)て覚悟を定(さだ)めてござりまする」。
「其の覚悟も折によれぢや、可(よ)う聞かう」、と幸村は大助の手を握つて「予(よ)は一言(いちごん)の義によつて上様お味方に参じた、一身(いっしん)もとより君に捧げてある、されど豊臣御家譜代(ふだい)でない故(ゆえ)城中には予の心知(し)らんう輩(やから)のある兎角は悪(あ)しう推(すい)して万一二心(ふたごころ)有(も)たぬか、と予を疑ふ者さへある、見よ見よ秀頼様御出馬のないも大方(おおかた)其輩(そのやから))の弁口(べんこうであらう。
さればこそ予は其方(そち)を帰す、其方上様お側(そば)にあらば、誰が予の心の疑はうぞ、其方城に帰らば父への孝、父の心の証(あかし)も立つわ」。
大助は黙(もく)して凝予(じっ)と考へた。
「得心(とくしん)であらうの」と幸村は手を放した。
「父上」と大助は幸村の鞍(くら)に取(とり)ついた。
「其方(そち)にも似ぬ、未練ぢやのう」と穏(おだや)かに幸村は叱(しか)つた。
「大助は未練ぢや、不得心でござりまする」と大助は欷歔(すすりあ)げた、さしぐむ涙は瞼に光つた。
「父上、大助が胸も、ちとは汲ませ、合戦(かっせん)此方(このかた)片時もお傍を離れぬ大助にござりますぞ、今(いま)討死の際(きわ)逃げたりと人に云はるゝも口惜(くや)しうござります、父上の心の証は討死にて立ちまする、大助が名は何処(どこ)に立ちまする」。
「愚かや大助、帰れと云ふは生きよと云ふにあらず、落城明日(あす)にも迫(せま)つつる、父とて子とて逃るゝ事か、上様お側に死ぬがそちの役ぢや恁(か)くてこそ予が義も立ち、そちが名も立つとは知らぬか、討死の遅速(ちそく)を争ひ、暫時(しばし)の別れを惜しんで何(なん)にする、父に導かれずば死ねぬ其方(そち)にでもあるまじ、最後まで予が心、其方が告げずば誰(たれ)が上様に聞(きこ)え上(あ)ぐる、父子供(とも)にこゝに死して誰(たれ)告(つ)ぐる人なくては切ぬけて逃延(にげの)びたりと云はるゝも、其疑(そのうたが)ひの解くる日は無し、恁(か)くても其方は不得心か」。
「疾(と)くまゐらぬか」と厳(おごそ)かに云つて幸村は鞍にすがつた大助の手をもぎ放した。馬は一揺(ひとゆる)ぎして間(あいだ)が隔たる。握り合つた其(その)刹那(せつな)の手と手との温(ぬく)みが父子の別れであつた。
しみじみと大助は父の顔を見た、
「さらば冥途(めいど)にて又会ひまする」。
「おう、冥途に待たうぞ」と幸村も名残惜しげに打目戌(うちまも)つた、日(ひ)は正午を過ぎて曇る日に蒸し暑く、軈(やが)て大風の吹く前の静けさが一陣に満ちてゐた、幸村四十六歳、大助弱齡(じゃくれい)十六歳であつた。


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大助陣(じん)を去る頃、戦(たたかい)は既に開かれてゐた、凄(すさ)ましい銃声が四方に聞えてゐた、茶臼山、天王子、毘沙門池、岡山に亘(わた)る戦線には敵、味方入乱(いりみだ)れて戦つてゐた。
此(この)最中に何事ぞ、徳川方の使者が城に入つて来た、和睦の使(つかい)であつた。
和睦の二字を先(ま)づ耳を傾けたのは秀頼公の母君淀殿であつた、淀殿はさすがに女性(にょしょう)である、天地を揺(ゆす)る鬨(とき)の声、火薬の響、且(か)つは此頃(このごろ)の味方の不利に、気を打たれてゐた折柄(おりがら)である、和睦は淀殿に取つて大旱(たいかん)の雲である。
和睦は此方(こなた)から云ひたい事、夫(そ)れを敵から申込む、――勿怪(もっけ)と見たのが淀殿である、勝色(かちいろ)の敵に和睦の要は無い、要の無いに和睦と云ふ、夫れを眉唾(まゆつば)ものだと疑ふだけの余裕は無かつた。
淀殿は母である、秀頼公とて母の意見を斥(しりぞ)け兼(か)ねた、決戦の覚悟はおぞくも挫(くじ)けた、今(いま)敵の首将家康公の陣と睨(にら)み合つてゐた大野主馬治房、速水(はやみ)甲斐守(かいのかみ)(守久(もりひさ))は秀頼公の使の命(めい)によつて城に引返した。
無残や夫れが遠目(とおめ)には、城中に異変あつて逃入つたと眺められた、徳川方は鬨をあげて一斉(いっせい)に進む、城方はたぢろく。
此時(このとき)秀頼公はまだ桜門(さくらもん)に胡床(こしょう)に靠(よ)つて戦(いくさ)の樣を見渡してゐた、大助が其前に着いた時は大野速水の二将が引返した時であつた、其後からは城方の兵が雪崩(なだれ)を打つて退(しりぞ)いて来た。又(また)其後からは敵方が追い迫つて来た。
秀頼公は嚇(かっ)と怒つた、和睦の使は味方の気を挫(くじ)く詭計(てだて)と分つた。
「最後の一戦、予(よ)が出るであらう」と突立(つきた)つた、だが此(この)覚悟はもう遅かつた目の前には退く味方が殺到する、浮足(うきあし)立(た)つては馬を進める余地もない、さればとて最早(もはや)頽勢(たいせい)を盛返(もりかえ)す事は出来ぬ。城外にある味方の苦戦が思ひやられたが、夫れを救ふ手段(てだて)もない。
無念の拳(こぶし)を握つて秀頼公は本丸千畳敷に引返した、大助も後より従つた、人々の顔には絶望の色が蒼(あお)ずんだ、徳川方は既に門々に逼(せま)つた。
場内に火を放つた者がある、折悪(おりわる)や風は其前(そのまえ)から烈(はげ)しく吹き出してゐた。火の手は処々(しょしょ)にあがる、城中乱(みだ)れて諸門(しょもん)は敵の手に打破(うちやぶ)られる。
本丸では狭間(さま)に銃砲を配るべき遑(いとま)も無かつた。軍兵(ぐんぺい)は多くても徒(いたず)らに狼狽(うろた)へてゐる、名を得た人々は引返(ひきかえ)し返(かえ)し合(あわ)せて口々に悪戦したが、勝に乗つた敵は岩打(いわう)つ潮(うしお)のやうに押寄せて隙を求めて乱れ入る。
千畳敷からは矢(や)叫(さけ)び、砲(つつ)の音、燃えおつる櫓(やぐら)の音が手に取るやうに聞かれた、而(そう)して遠く近くに起る鬨の声は一城を揺(ゆす)る。
秀頼公は奥の御所へ入つた、其後へ七十一歳の老将郡(こおり)主馬(しゅめ)が戦ひ疲れて帰つて来た彼は千畳敷の片隅に具足を解(と)き正しく押並べて奧に向つて一礼した後、脇差(わきざし)で腹に突立てた、郎等の成田(なりた)兵蔵(ひょうぞう)も腹を切つた、真野(まの)蔵人(くらんど)、中島(なかじま)式部(しきぶ)も傷に喘(あえ)ぎながら来て主馬の骸(むくろ)と押並んで刀(やいば)に伏(ふ)した、広い千畳敷の処々は血に彩(いろど)られた、而(そう)して彼方(あち)此方(こち)の隅には追はるゝやうに人々が往来(ゆきき)した。軈(やが)て薄い炎の舌が何処(どこ)からとなく移つて隅々に煙(けぶり)が走つた、千畳敷の人は去つて淋しく捨てられた骸の上に炎が覗(のぞ)いた。
と、老母、妻子を連れて迷ひ込んで来たのは毛利(もうり)河内(かわち)であつたが、炎に追はれてすぐ立去つた。
秀頼公の馬廻(うままわ)り野々村(ののむら)伊予守(いよのかみ)、堀田(ほった)図書(ずしょ)は傷を負ふて帰つて来たが、火に遮(さえぎ)られて千畳敷にも入れず、本丸と二の丸との間に並んで割腹した。
此時(このとき)秀頼公は奥の御所に静かに最後の時を待つてゐた。
津川(つがわ)左近(さこん)が太閤以来の馬験(うましるし)を捧(ささ)げて南表(みなみおもて)から帰つて来た、左近は近頃(ちかごろ)讒言(ざんげん)の為に秀頼公の前を遠ざけられてゐたが、今日(きょう)は撰(えら)ばれて馬験を預つてゐたのであつた。
彼は馬験を正しく押直(おしなお)して手をついた。
「御馬験(おうましるし)を岡山へ立てましたけれど、後口(あとくち)より崩れ立つて一戦にも及ばず味方は総敗軍となりました、私(わたくし)儀(ぎ)は先陣討死が本意と思ひましたれど、御馬験を敵の手に渡すが口惜しくこれまで持つて参りました」と云(い)つた。
秀頼公は頷いた、其面(そのおもて)は白く蒼(あお)ずんでゐた。


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「上様、世は今を限りと思召切(おぼしめしき)り、恐れ多き事ながらお覚悟大切(たいせつ)にござります、敵は早(はや)大手(おおて)を攻破(せめやぶ)り二の丸へ押込みましてござりまする」と今木(いまき)源右衛門(げんうえもん)が云つた。
「もとより覚悟である、其方(そち)は天主へ参つて切腹の坐を設(つく)れ、予は母上と共に軈(やが)て参るであらう」と秀頼公は鬱(うっ)した声であつた。
源右は去つた。
あたりの諸道具は焼草(やきくさ)として次第に天主閣へ運ばれた、秀頼公は一切の取片付(とりかたづけ)を黙つて、打目戌(うちまも)つた、而(そう)して源右が帰つて来て「用意整のひました」と云ふのを聞くと、軽く笑つて帳(ちょう)の内(うち)の淀殿の前に出た。
「母上、御一緒に」と咡(ささや)いた。
「天主へとか」と淀殿は悲痛の声を圧(お)しつけるやうに絞つて「待ちませうぞ」と涙を浮べる。

:「いや、いや腹切るは急ぎませぬん、何とて死なせませう、天下の武将、太閤様世取りをさう手易うは死なせませぬ」と淀殿は首をふつて泣伏した。

「時まてばのう、時まてばのう」と身を顫(わなな)かせて女性の執拗(かたいじ)、此期(このご)になつても、最後の我子の為に後日の策を夢(ゆめ)んでゐるので、狂ふたやうな其耳には時の勢ひ、物の道理も聞分かぬのであつた。
「母上、どの時を待ちまする、運命極(きわ)まつた今、秀頼既(すで)に思極(おもいきわ)めてをりますぞ、母上にはまだ永らへて悲しい後を見らるゝ思召((おぼしめし)か」。
気強く云つて面(おもて)を背(そむ)けて秀頼公は淀殿の手を執(と)つた、帳(ちょう)を出ると秀頼北(きた)の方(かた)も後に従つた、北の方(かた)も後に従つた、北の方は敵方家康将軍の孫娘、秀忠御焼けの姫である。
其後(うちろ)に局女房、小姓、近臣が従つた、最後に真田大助が従つた、其他五六百人は何時(いつ)となく散じてゐた。
天主閣には既に今木源右が焼草籠めて火をかけるばかりに用意してあつた。
大野修理が南表から駈つけて「お覚悟早(はよ)うござります、味方今方(いまがた)軍(いくさ)を盛返(もりかえ)しえござりまする」と告げた。
「いや、いや、敵(てき)既(すで)に二の丸に籠入(こめい)つてをりますぞ、盛返したとは僻目(ひがめ)でござらう」と修理に快からぬ津川左近が云つた。
「先(ま)づ暫時(しばし)」と老功(ろうこう)の速水甲斐守が手をあげて「先陣破られても後陣の盛返す例(ためし)は毎度ある事、暫時お覚悟はお持ちあるやう」と云つた。秀頼公も頷いて天主を下つて月見の櫓に移つた、だが万一のの頼みも空(くう)となつた、敵精は愈(いよい)よ迫つて見下(みおろ)せば二の丸に渦まいてゐる、西天の残日は焰焰(えんえん)の中に惨(いた)まし光を漂はせてゐる、櫓にも瞬く間に火が絡(から)まる、淀殿は一足先に東の櫓に移る。
幸村の陣に加はつてゐた渡辺(わたなべ)内蔵助(くらのすけ)が血に塗(まみ)れて秀頼公の前に踽(よろめ)き出た、中途(ちゅうと)我邸(わがやしき)へ立寄つて来たので左右の手には幼い子供の手を牽(ひ)いてゐた。
「内蔵は重傷(おもで)にござりまする、最早お供は叶(かな)はづ、お先を仕(つかま)つりまする」。
苦しげに別れを告げて、内蔵助は子供を刺殺(さしころ)し、己(おのれ)も十文字に腹を切つた。
秀頼公についてゐた内蔵助の母昌栄尼(しょうえいに)も刃に伏す、其介錯(そのかいしゃく)は今木源右衛門であつた。
秀頼附(つき)老女(ろうじょ)お茶(ちゃ)、侍女(こしもと)お愛(あい)は源右に綣(すが)つて手を合せた、源右は心得て二人を刺殺した。
「予(よ)、一人の為に皆の恁(こ)うなるが。不便(ふびん)である」と秀頼公は凝乎(じっ)と人々の死骸を見た。
淀殿のゐる東の櫓へ移ると、こゝにも赤ずんだ黒煙(くろげむり)が、立浪(たつなみ)のやうに崩(くず)れ入(い)つてゐた。
秀頼公は本丸朱山楼(しゅざんろう)の下蘆田廓(しもあしだくるわ)に火を避けた。
大助も夫(そ)れに従つた、大助は客将の子息、近臣でも小姓でも無い、直ちに秀頼公の側に従(つ)く事(こと)は出来ぬ、で彼は間(あいだ)は隔てながら影の形に従ふ如く廓に移つた、秀頼公は廓の糒倉(いいくら)深く移つた、大助は其出口(そのでぐち)に止つた。日は暮れかけた。
後れて城に入つた人が、幸村討死した、と告げた、大助は淋しく笑(え)んだ儘(まま)口も開かず、藁(わら)を敷いて倉中(そうちゅう)に坐つた、首には母から贈つて来た水晶の珠数(じゅず)をかけてゐた。
黄昏(たそがれ)の樹間(このま)を通して彼方(かなた)の火の手が空に開いてゐる、火の粉は樹間(じゅかん)に乱点(らんてん)する、風が熱い気を吹き送る、煙が渦(うずま)く、其間(そのあいだ)を士卒が足疾(あしばや)に去り又(また)来(きた)る。
奥の方から速水甲斐守が手招きをした、其傍(そのそば)には大野治長もゐた、毛利豊前も居た、其他勇将(ゆうしょう)驍士(ぎょうし)もゐた。
「大助殿」と甲斐は近々と顔を見て「昨日(きのう)は武勇の組打(くみうち)して逞(たくま)しう振舞(ふるま)はれ痛手まで負はれたとのう、――流石(さすが)は真田殿御子息、甲斐感服仕(つかま)つる、さてのう」。
と世にも可憐(いと)しげに甲斐は優しい語調であつた。
「最早(もはや)上様御武運(ごぶうん)も尽き戦(いくさ)も果てました、で其許(そのもと)も退散のされてのう、否(いな)、其許(そのもと)忠義上様にも可(よ)う知られてある、ぢやが、旧臣譜代さへ逃走(にげはし)る今の折柄(おりがら)ぢや、客分の真田殿御子息が上様御供(おとも)最後までさるゝに当らぬ儀ぢや、と云ふも上様始め其許(そのもと)武勇を惜しまれてぢや、で甲斐より人を添へて其許を真田(さなだ)河内(かわち)殿へ送らうと存(ぞん)ずる」。
真田河内守は大助の叔父、今は敵方に加(くわわ)つて寄手(よせて)の中にゐるのである。
だが大助は首を振つた。
「甲斐殿お言葉、大助身に取りいかう迷惑に存じまする、大助こゝに参りましたは父幸村申付けけ、上様ご前途(せんど)見届けて腹切れと申渡された故でござりまする、さなくば疾(と)うに父上諸共(もろとも)討死しましたのぢや」と屹(きっ)とした。
「否(いな)、其儀(そのぎ)ぢや、真実(まこと)は上様も、徳川殿と和平を結ばれたでな、明日(あす)にも上様には御出城なさる筈ぢや、で、其許(そのもと)一人切腹にも及ばぬ儀ぢや」。
「なれども大助も上様御出城をお見届け致しまする、其上にて大助は父上との盟(ちか)ひ、冥土(めいど)の父に追及(おいつ)き申しまする」。
潔く云つて元の座に返つた。
「武勇の血脈(けつみゃく)恐ろしきものぢや」と甲斐は感嘆した。


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日は全く暮れて櫓楼(ろろう)を焼く火は愈(いよい)よ凄く天を焦した。
大助の傍には郎等青木(あおき)清左衛門(せいざえもん)が侍してゐた、清左は信濃の出生、幸村譜代の臣、力(ちから)七八人を兼(か)ね、脚(あし)は一昼夜に三十里を往来(ゆきき)して疲(つかれ)を覚へぬと云(い)ふ勇士であつた。
幸村が慶長五年から紀州高野山に籠居した時、清左は幸村の奥方と、嬰児の大助とを預つて信州津鏡(つがね)の山奥に隠れてゐた。
山奥に十四年間清左は猪鹿(しししか)を猟して市に売り、僅(わず)かの料(しろ)を得て大助を養育してゐた、春秋二度には紀州を訪づれて幸村の安否を尋ね、大助の生長を告げもしてゐた。
大助は殆(ほと)んど清左の手に育てられた。
七、八才の頃には獲物を売りにゆく清左の後を慕(した)ふてよく泣いてゐた、清左が猪鹿を提(さ)げ、大助を背負ふて山谷(さんこく)の難所を超え五里七里の道を市に下る日(ひ)も屡々(しばしば)あつた。
恁(こ)うして去年の慶長十九年になつて、清左は大助を連れて紀州に着き、次で幸村と共に大阪城に入つたのであつた。
主従とは夫(い)へ、大助に取つて清左は父同様で、清左から見ると大助は子同様の慈愛を有(も)つてゐた、手塩にかけた十六歳の若武者を眼に入れたいほど可憐(いと)しむのである。
幸村が大助と別れる時、殊更(ことさら)清左を撰(えら)んで大助に従はせたのも其為(そのため)であつた。
親(した)しい中の主従は今、静かに坐して外の火の手を見ては秀頼公の最期の時を待つてゐた、速水甲斐守は、和睦が整つたと云つた、明日にも秀頼公御出城と云つた、が、大助も清左も夫(そ)れを信じなかつた、何(いず)れも今宵(こよい)の中(うち)に「上様御生害(しょうがい)」と云ふ悲しいたよりが奧から漏れる事と推(すい)してゐた。
奧には速水、大野や、毛利豊前、同長門などの面々が額(ひたい)を鳩(あつ)めて密義を凝(こ)らしてゐるらしかつた。
「清左」と大助は密(ひそ)やかに呼んだ、朧(おぼ)ろに奧から照る灯(ともし)の中(なか)に荒木清左衛門は手をついて髯面(ひげつら)をさし延(の)べた。
「なう、清左、大助は若年故(ゆえ)、父上にも最後に未練でもあつてはと思はれたであろ、其方(そち)を附添(つきそ)わしたのも見苦しくば刺殺せとの思召(おぼしめし)さうな、されば大助切腹すれば介錯は其方(そち)に頼まうぞ」。
「いかにも介錯は清左が仕(つかまつ)る」と大助を見た、豊かな頰(ほほ)、紅(くれない)の唇、凛々(りり)しい目鼻立(めはなだ)ちに面(おもて)の薄紅(うすくれない)、生々(いきいき)とした若衆(わかしゅ)の姿の、血に塗(まみ)るゝ様がまざと清左の目先(めさき)にちらついた。
「さて、其後(そののち)にぢゃ、大助は其方(そち)に頼みたい事がある」と大助は思ひ込んだ風情であつた。
「いや、お覚悟は大慶(たいけい)でござりまする――が、はて、死後のお頼み?」
「大儀(たいぎ)の無心(むしん)じや、如何(どう)あらうかのう」。
「ふむ、お頼み無心、心得ませぬのう」と清左は六つかしく眉を動かして、又(また)「ほゝう」と笑(わら)つた。
「然(そ)うでござつた、実(げ)にもご幼少の折には負(お)うたり抱(だ)いたりしてお育て申した清左ぢや、此期(このご)になつてお頼みと仰(おお)せらるゝからには、多分(おおかた)、お腹召(め)された後々(のちのち)までも、昔のやうに清左に負はれて死出(しで)三途(さんず)の道に去(い)なう、とのお心ぢやな」。
「否(いや)」と大助は心苦しげに僅(わず)かに笑(え)んで「いかにも大助は久しう我儘(わがまま)云ふて、其方(そち)に数々の難儀をさせた、山奥から其方に負はれて市に出た事もありと覚えてある。
されば去年上(のぼ)つて父上に会うたる折、我等(われら)母上の御介抱は云はねど、清左が丹誠(たんせい)にて恁(こ)う成長致しました、と申しあげた、其時(そのとき)父上も、幸村は父なれど夫程(それほど)の介抱はせず、清左が恩情は父母に勝るぞと仰せられた、其方(そち)に受けたる恩、百に一つも報(むく)ぬが我等は残念ぢや。
されど今は及ばぬ、其上(そのうえ)に其方に頼みのある、我儘は許せ、我等も最早(もはや)其方の教へで冥途の旅の一人立(ひとりだち)、淋しいとは思はぬ、さて大儀の頼み外(ほか)ならず、我等切腹した後(のち)は、其方は疾(と)う疾(と)う城を出で……」。
「何(なん)とござる」と清左は大(だい)の目を瞋(いか)らして大助を睨(にら)んだ。


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「清左に城を出(で)いとぢやな、御父、子の討死外(そと)にして此(この)清左何処(いずこ)へ参ると思はるゝ、介錯の刀其儘(そのまま)に主従の骸(むくろ)串刺(くしざし)ぢや、死出(しで)の山路(やまじ)に殿(との)に追(お)つつき、お身様(みさま)御最後恁(こ)う恁(こ)うと注進(ちゅうしん)するが清左の役ぢや、出城(しゅつじょう)八幡(はちまん)なりませぬぞ」。
「待て」。
「否(いな)、聞く耳の有(も)ちませぬ」と清左は掌(たなそこ)で耳を塞(ふさ)いだ。
「これまでぢや」と大助は清左に向つて手をついて恭々(うやうや)しく一礼した。
耳を塞いで、清左は不審の目を張(は)つた。
つと離れて大助は肌を脱ぐ、其手(そのて)は早くも腰刀(こしがたな)にかゝつた、腹切(はらき)る覚悟と清左は見たので、彼は慌(あわ)てゝ耳の手を放(はな)すと其儘(そのまま)、大助に飛付(とびつ)いたのである。
「えい、短気も折によりまする、上様の御生害(ごしょうがい)見届けもせで……」。
大(ふと)く毛(け)ぶかい清左の腕を、大助は優しく払はうとしてはらと涙を落した。
「大助一生の終(おわり)に大切の頼みするに、其方(そち)が聞くまじと耳塞(みみふさ)ぐ故ぞ、切らせい」と肩を揺(ゆす)つてせき上げた。
凝乎(じっ)と見た清左の目にも涙があつた。
「おう」と唸(うめ)いて彼は四辺(あたり)を顧(みか)へつてこみ上(あぐ)る悲憤に腹を波打たせた。
「是非もない、今年まで十六年、清左お望みに背いた事は無い。今日限(かぎ)りのお頼みなりや――」。
「聞いて呉(く)るゝか」。
「お恨みが残念ぢや、兎(と)も角(こ)う仰(おお)せられい、ご切腹の後の大儀とやら、疾(と)う疾(と)う仰せられい」。
いずれは死すべき大助である、後の事は別として、清左には清左の腹(はら)があつた、守育(もりそだ)てた大助の最期の不足を見るに堪へなかつた。
大助は漸(ようや)く刀を収め肌を合せた。
「清左聞届(ききとど)け呉れて満足ぢや」と姿を正した。
其(その)喜(よろこ)びを見るにつけても清左は又(また)不安が湧く、主(しゅ)の幸村には死後(しにおく)れる、こゝで又大助を見殺しにして家なき犬(いぬ)同様にのそと城を出る、武士(さむらい)として夫(そ)れが成るかと思ふのであつた、だが、分別(ぶんべつ)盛(ざか)りの彼は夫(そ)れを色にも見せなかつた、「何(なん)なりと仰せられい、清左もお身様の意地には魂負(こんま)けのし申したよ」と神妙に微笑(ほほえ)んだ。
「別儀にあらず、我等(われら)頼みと云(い)ふは母上の事ぢや」と大助は云つた。
「むゝ母様の」。
大助の母は幸村の妻で、其人は去年の秋、信州から供(とも)も連れず、女の一人旅で、狂女(きょうじょ)の体(てい)を装(よそ)うて、途中の災難も切(きり)ぬけ、無事に紀州の高野山道に着いてゐた。
今は幸村の兵術の弟子、郷士(ごうし)大会(おおえ)の孫四郎(まごしろう)の家に身を寄せてゐる、其事は去年孫四郎の消息で知れてゐたが、幸村は城中へも迎へず対面も許さなかつた、大助も父の許しがなくて一度も会はずにゐた。
大助は今、其母を思ふのであつた。
「母上はのう、女性(にょしょう)の事ぢや、父上も、大助も討死と聞かせたら、此世の中に最早(もはや)頼みもない、其時(そのとき)こそ真(まこと)の狂女(きょうじょ)にならせられう、大助、死後の心残りはこれ一つぢや。
万一(まんいち)、心乱(こころみだ)れて世に彷徨(さまよ)はせられたら、大助が母は信州より狂い出(い)で住所(すみか)もなし、真田も死後の外聞を思はぬか、苦しき討死、不覚悟(ふかくご)ぢや、あの体(てい)を見よ――と、世の人の口の端(は)にもかゝるであらう。
斯(か)くては父上の恥辱此上(このうえ)もない、先祖への不孝、大助死後の無念である。其方(そち)に出城(しゅつじょう)を望むんも其為(そのため)ぢや、頼(たの)むはこゝぢや、其方何(ない)とぞして紀州に落ち、母上お供して故郷へ去(い)んで呉(く)れ、御一生(ごいっしょう)の介抱、其方の他には頼む者の無い」。
「むう」と力なく清左は首垂(うなた)れた。
「大助一念、今生(こんじょう)の頼みをさめ、清左かうぢや」。
と大助は坐を退(さが)つて手をついた。
「勿体(もったい)なうござる」と清左は抱くやうに寄り添ふて大助の手を引上(ひきあ)げた。
「しかと、しかと清左お受けを致しまする、さりとはお身様、孝と云ひ、義と云ひ、可(よ)うも左程に大人びられた、お育て申した清左も面目(めんぼく)、嘻(うれ)しうござる、嘻しうござりまする」。
彼は悲しさ嘻しさ取りまぜて涙に咽(む)せて、其涙(そのなみだ)の目にしみと大助を見た。
「とは云へ、左程に生れさせたを世にも立てず、十六歳の一期(いちご)が残念にござる、誰(たれ)見(み)て呉れる人もなきか、真田大助誰(た)が育てた、青木清左を賞(ほ)めて呉れ」。
武骨の男が又(また)、泣いた。
しめやかな主従の物語りに夜は深(ふ)けわたる、廓の外は物騒がしく、物の焼くる音(おと)崩(くず)れる響、炎の煽(あお)り、遥かに鬨(とき)の声もあがる近くには不穏(ふおん)な人のどよめきもする、糒倉(いいくら)の奧秀頼公の座所(ざしょ)には人々の咳(しわぶき)の漏るゝのみ折々(おりおり)出(で)てゆく人は敵への使者か、其面(そのおもて)には悉(ことごと)く悲痛の色が深い。
五月八日の暁(あかつき)が来た、敵勢(てきせい)既に本丸に入つて、廓の外を馬の嘶声(いななき)、人の動揺(どうよう)、甲冑(かっちゅう)の音が重く広く取(とり)まいてゐた。
敵方の使者が入つて来た、味方の使者が出て行つた、使者は時々往復した。
「御和睦(ごわぼく)か」と云ふ声がちらと聞えた、軈(やが)て奧がぞめいて、一団の女中の群が外へ出た、其中(そのなか)に葵の紋の打かけを深く頭に蔽(おお)うた女性があつた、問ふまでも無く秀頼公の北の方千姫であつた。
千姫は家康公の孫、秀忠公の愛姫、夫(そ)れを家康方へ渡すとなれば、或は和睦か――、との思ひが大助の胸に浮んだ。
「愈(いよい)よ御和睦か、此期(このご)に於(おい)て何故の和睦」と大助は思つた、清左も思(おもい)は同じであつた、主従は黙して顔を見合せた。
時は経つた、使者は又往復した、何事かの起る前の様に不安な気が倉内(そうない)に満つ。
と、俄(にわ)かに表が騒(さわが)しく、おどろと貝(かい)の音(ね)がする、銃声(じゅうせい)二度三度して弾丸の一つは倉内を貫いた、奥に絶望の唸きが起つた。
「御和睦破(やぶ)れたり」。
声なき声が大助の胸に響いた、大助は莞爾(にっこり)として藁(わら)の上に押直つた、清左は奥を透(す)かして膝を立てた。
奧から速水甲斐が出て大助を招いた。
此時(このとき)、奧では焼草を積んで生残つた人々が秀頼公の前に居並んでゐた、主従男女、大助までも加へて僅(わず)かに三十六人であつた。
秀頼公はつくと人々を見た。「予は太閤の子、天下を知るべき身であつた、今は天運極(きわ)まつて昨日(きのう)までは十万の大将たりし今身(いまみ)に添ふはこればかりの人となつたよ」。
凝乎(じっ)と見(み)て一人(ひとり)一人(ひとり)に声をかけた。
「修理(しゅり)は予の介錯、豊前は幼(おさな)き者、女共の介錯せい」。
最後に恁(こ)う云つた、太閤より譲られ薬研藤四郎(やけんとうしろう)の刀を腹に突立(つった)てた、年二十三才、修理が後(うちろ)に廻(まわ)つて介錯する。
淀殿は物狂はしく悲運を呪(のろ)ふたが軈(やが)て同じく修理の手に介錯された、次々に割腹の骸(むくろ)が並んで女房衆では大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)、饗場局(あえばのつぼね)、宮内卿局(くないきょうのつぼね)、おあいの方、右京太夫(うきょうだいふ)、お玉(たま)などが無惨の枕を並べる、小姓衆の中には大助が交(まじ)つて腹を切つた、介錯は毛利豊前守勝永であつた。
青木清左衛門は大助の一瞥(いちべつ)を最後の名残として溢(あふ)るゝ涙を拳(こぶし)に払つて、大野修理から敵方へ送る使(つかい)の中に交(まじ)つた、炎(も)え上(あが)る廓を後(あと)に城を去つたのであつた。

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