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癩者の父

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癩者の父󠄁


東條耿一


 私(わたし)が癩(らい)の宣吿(せんこく)を受(う)けたのは十六歲(さい)の時(とき)である。しかしもう其(そ)れより二三年(ねん)前(まへ)、癩性(らいせい)斑紋󠄁(はんもん)が私(わたし)の顏(かほ)に出(で)てゐたし、右足(みぎあし)には炬燵(こたつ)で燒(や)いた水泡󠄁(すゐほう)の疵(きず)があつた。父(ちゝ)は私(わたし)の顏(かほ)の斑紋󠄁(はんもん)を氣(き)にして、私(わたし)の顏(かほ)さへ見(み)れば、むつつりと、しげしげ見(み)つめる。私(わたし)が學校󠄁(がくかう)から歸(かへ)つて、まだ鞄(かばん)も下(おろ)さないうちに、私(わたし)を日向(ひなた)に連󠄁(つ)れて行(い)つて、斑紋󠄁(はんもん)の出(で)てゐる所󠄁(ところ)を手(て)で押(お)してみたり、抓(つね)つてみたりする。時(とき)には針(はり)で突(つゝ)ついて痛(いた)くはないかと訊(き)いたりする。客(きやく)が來(き)てゐる時(とき)でも、食󠄁事(しよくじ)の時(とき)でも、父󠄁(ちゝ)は何氣(なにげ)なささうに注意(ちうい)深(ふか)く私(わたし)の顏(かほ)に視線(しせん)を注(そゝ)ぐ。床(とこ)についてからでも、ふと眼(め)を覺(さ)ました時(とき)など、じつと覗(のぞ)き込󠄁(こ)んでゐる父󠄁(ちゝ)の眼(め)にぶつかつて、ぞつとした事(こと)も度々(たび〳〵)であつた。母(はゝ)は、私(わたし)の斑紋󠄁(はんもん)が背(せ)や臀(ゐしき)の方(はう)へ移(うつ)るやうにと神賴(かみだの)みをして、私(わたし)にも信心(しんじん)を起󠄁(おこ)す樣(やう)にとすゝめた。この間(かん)、塗布藥(とふやく)を用(もち)ゐたり生姜湯(しやうがゆ)で罨法(あんぽふ)したりしてゐたが、何(なん)の效果(かうくわ)もなかつた。私(わたし)は家(いへ)から二里(り)ばかり離(はな)れた社(やしろ)に、寒󠄁(さむ)い頃(ころ)であつたが二十一日間(にちかん)、夜(よ)の明(あ)け切(き)らぬうちに二里(り)の道󠄁(みち)を往復(わうふく)し始(はじ)め、寒󠄁寒󠄁(さむ〴〵)と星(ほし)の耀󠄁(かゞや)ふ社頭(しやとう)に霜(しも)の凍(こほ)りついた土(つち)に兩手(りやうて)をつかへ、斑紋󠄁(はんもん)の快癒(くわいゆ)を泣(な)いて祈願(きぐわん)したのであつた。が高等(かうとう)小學校󠄁(せうがくかう)を卒業(そつげふ)した時(とき)、私(わたし)は癩(らい)を宣吿(せんこく)されたのである。

 その頃(ころ)、父󠄁(ちゝ)は五十何歲(なんさい)かの職工(しよくこう)であつた。私(わたし)に高等(かうとう)小學(せうがく)を修了(しうれう)させるのは並大抵(なみたいてい)の事(こと)ではなかつたに違󠄁(ちが)いない。縣立病院(けんりつびやうゐん)で診斷(しんだん)を濟(す)ませて歸(かへ)ると、父󠄁(ちゝ)は聲(こゑ)を顫(ふる)はせて慟哭(どうこく)した。私(わたし)も泣(な)き母(はゝ)も泣(な)いた。父󠄁(ちゝ)は私(わたし)を斬(き)つて自分(じぶん)も腹(はら)を切(き)ると云(い)つてきかなかつた。若(も)し母(はゝ)と姉(あね)が居合(ゐあは)せてくれなかつたら、どういふ羽目(はめ)になつてゐたであらうか。

   ふたりめの癩(らい)者とわれの知(し)りしとき聲(こゑ)にいだして哭(な)きし人(ひと)はも

   父󠄁(ちゝ)の棄(す)てし刀(かたな)つめたく冴(さ)え返󠄁(かへ)る燈(ともしび)小暗(をぐら)き疊(たゝみ)の上(うへ)に


 次男(じなん)の兄(あに)が發病(はつびやう)したのは、私(わたし)がまだ幼少(ようせう)の頃(ころ)であつたらしい。私(わたし)が七八歲(さい)の頃には、兄(あに)の病勢(びやうせい)は大分󠄁(だいぶ)進󠄁行(しんかう)して、頭髮(とうはつ)も眉毛(まゆげ)も殆(ほとん)ど脫落(だつらく)し、その上(うへ)潰瘍(くわいやう)しきつた顏(かほ)は、どす黑(ぐろ)く光(ひか)つてゐた。手足(てあし)にも繃帶(ほうたい)を卷(ま)いてゐた。終󠄁日(しうじつ)隱(かく)れて住(す)んでゐたやうである。それも長屋(ながや)住居(ずまゐ)の二間(ふたま)しかない家(いへ)のことである。兄(あに)はいつも三疊間(でふま)の方(ほう)に居(ゐ)た。板(いた)の間(ま)に、うすべりを敷(し)いたきりの細長(ほそなが)い室(へや)で、父󠄁(ちゝ)が兄(あに)の爲(ため)に設(まう)けた小(ちひ)さな爐(ろ)が切(き)つてあつた。奧(おく)に一間(けん)の戶棚(とだな)があり、客(きやく)のある場合(ばあひ)には、眞夏(まなつ)でも兄(あに)は溲甁(しゆびん)替(かは)りの德利(とくり)を抱󠄁(かゝ)へ込󠄁(こ)んで、この戶棚(とだな)の中(なか)にひそんでゐた。長居(ながゐ)の客(きやく)や、飯時(めしどき)になつても歸(かへ)らない客(きやく)があると、兄(あに)はよく戶棚(とだな)の中(なか)で咳(せき)ばらひをしたり、羽目板(はめいた)をどん〳〵足(あし)で蹴(け)つたりした。母(はゝ)はおろ〳〵して、わざと咳(せき)を二(ふた)つ三つしては、もう少(すこ)し辛棒(しんぼう)〔ママ〕してくれと合圖(あひづ)をするのであつた。時(とき)には、どうも鼠(ねずみ)が騷(さわ)いで困(こま)るんですよと、などゝ立上(たちあが)り、戶棚(とだな)の兄(あに)を小聲(こごえ)で宥(なだ)めすかすのであつた。

 母(はゝ)が一番(ばん)氣(き)をつかふのは兄(あに)の便(べん)の事(こと)であつた。便所󠄁(べんじよ)が隣家(りんか)と共同(きようどう)なので、母(はゝ)がまづ先(さき)に行(い)つて、人(ひと)の居(ゐ)ないのを確(たしか)め便所󠄁(べんじよ)の入口(いりぐち)に母(はゝ)が見張(みは)りに立(た)つ。それでも母(はゝ)の留守(るす)の間(あひだ)に便所󠄁(べんじよ)へ立(た)つて、うつかり隣家(りんか)の子供(こども)に見つかつたこともあつたのであらう、或時(あるとき)、隣家(りんか)の子供(こども)が私(わたし)に、おめえンちには變(へん)な人(ひと)が居(ゐ)るんだなア、あれや誰(だれ)だい? と訊(き)くのであつた。その時(とき)、私(わたし)は眞赤(まつか)になつて否定(ひてい)した事(こと)だけは覺(おぼ)えてゐる。當時(たうじ)の私(わたし)は兄(あに)がどんな譯(わけ)で隱(かく)れてゐるのか判󠄁(わか)らなかつた。勿論(もちろん)癩(らい)など判󠄁(わか)らう筈(はず)もない。兄(あに)は十日(か)に一度(ど)位(くらひ)行水(ぎやうずゐ)をした。裏庭(うらには)に板(いた)や筵(むしろ)で圍(かこ)つた小屋(こや)の樣(やう)な中(なか)で、母(はゝ)と姉(あね)が人眼(ひとめ)を憚(はゞか)りながら、兄(あに)を盥(たらひ)に入(い)れて洗(あら)つてやるのを折々(おり〳〵)見(み)かけた。兄(あに)の身體(からだ)は異樣(いやう)な臭氣(しうき)がし、體(からだ)にはいつも虱(しらみ)がわいてゐた。うつかり姉(あね)や他(ほか)の兄達󠄁(あにたち)が、家(うち)の中(なか)が臭(くさ)くてやりきれないなどゝ愚痴(ぐち)をこぼさうものなら、兄(あに)はすさまじい權幕(けんまく)で怒鳴(どな)り散(ち)らした。そんな時(とき)、母(はゝ)は泣(な)いて兄(あに)にあやまるのであつた。また兄(あに)はよく私(わたし)に內密(ないみつ)で買物(かひもの)を賴(たの)んだ。私(わたし)はこの兄(あに)を憐(あはれ)に思(おも)つてゐたらしく、兄(あに)の云(い)ふ事(こと)は何(なん)でもよく聞(き)いてやつた。私(わたし)が菓子(くわし)を買(か)つて來(く)ると、兄(あに)は其(そ)の中(うち)の幾(いく)つかを、にや〳〵笑(わら)ひながら私(わたし)に吳(く)れた。私(わたし)は平󠄁氣(へいき)でそれらの菓子(くわし)を喰(く)ひ、また兄(あに)の相手(あひて)にもなつて遊󠄁(あそ)んだ。その頃(ころ)、家(いへ)では泥棒(どろぼう)を飼(か)つて置(お)く樣(やう)なもんだ、其處(そこ)いらにうつかり物(もの)も置(お)けやしないと、姉(あね)や小(ちい)さい兄達󠄁(あにたち)が騷(さわ)いだ。私(わたし)は、斯(こ)の樣(やう)な兄(あに)との交󠄁涉(かうせふ)のうちに、兄(あに)の病氣(びやうき)を感染(かんせん)してゐたのであらう。

 その頃(ころ)の父󠄁(ちゝ)はよく酒(さけ)を吞(の)んだ。仕事(しごと)の歸(かへ)りに定(きま)つて居酒屋(ゐざかや)で吞(の)んで來(く)る。兄(あに)や姉(あね)が仕事(しごと)から歸(かへ)つて來(き)ても、みんなが夕飯(ゆふはん)を濟(す)ませても、父󠄁(ちゝ)の膳(ぜん)だけがいつも爐(ろ)の傍(そば)に据(す)ゑられてあつた。七時(じ)になり、八時(じ)になつても父󠄁(ちゝ)の姿(すがた)が見(み)えないと、母(はゝ)はぶつ〳〵云(い)ひ乍(なが)ら門口(かどぐち)まで何度(なんど)も行(い)つたり來(き)たりする。兄達󠄁(あにたち)はさつさと遊󠄁(あそ)びに出掛(でか)けて了(しま)ひ、殘(のこ)るのは母(はゝ)と姉(あね)と私(わたし)、それに小(ちひ)さい妹(いもうと)と隱(かく)れてゐる兄(あに)の五人(にん)だけである。こんな晚(ばん)に私(わたし)と母(はゝ)で父󠄁(ちゝ)を迎(むか)へに出掛(でか)けると、父󠄁(ちゝ)は寄(よ)りつけの居酒屋(ゐざかや)にゐるか、路傍(みちばた)に吞(の)んだくれて倒(たふ)れてゐるか、誰(だれ)かに連󠄁(つ)れられて來(く)る途󠄁中(とちう)であつたりして、小(ちひ)さい私(わたし)と母(はゝ)が兩脇(りやうわき)から五體(たい)の自由(じいう)を失(うしな)つてゐる父󠄁(ちゝ)を背負(せお)ふやうにして歸(かへ)つて來(く)るのである。父󠄁(ちゝ)は家(いへ)に歸(かへ)ると、直(す)ぐまた酒(さけ)を所󠄁望󠄂(しよもう)するので、母(はゝ)がたしなめると、父󠄁(ちゝ)は激(はげ)しい語氣(ごき)で怒(おこ)りだすのである。はては摑(つか)み合(あ)ひとなり、若(わか)い頃(ころ)から苦勞(くらう)ばかりの母(はゝ)は、直(す)ぐ逆上(ぎやくじやう)してヒイヒイと云(い)ふ騷(さわ)ぎに、小(ちひ)さい私(わたし)と妹(いもうと)が、泣(な)きながら必死(ひつし)になつて、父󠄁(ちゝ)の足(あし)や母(はゝ)の袖(そで)に取(とり)縋(すが)つて、右(みぎ)にもまれ、左(ひだり)に轉(ころ)がされながら、何(なん)とかして二人(ふたり)の爭(あらそ)ひをやめさせやうとする。これは殆(ほとん)ど每夜(まいよ)のやうに續(つゞ)いた。隣同志(となりどうし)の人達󠄁(ひとたち)も、始(はじ)めのうちこそ、飛(と)んで來(き)て仲裁(ちうさい)もしたが・・・・。こんな騷(さわ)ぎの後(あと)で、父󠄁(ちゝ)は定(きま)つて三疊間(でふのま)へ行(ゆ)き兄(あに)に毒舌(どくぜつ)を吐(は)いた。

「お前(まへ)みたいな業(ごふ)さらしが居(ゐ)るから、家中(うちぢう)してこんな苦勞(くらう)をせにやならん、さつさと早(はや)く死(し)んでしまはんかい」


 兄(あに)は默(だま)つて頭(あたま)を垂(た)れてゐるだけであつた。


 ある年(とし)の秋(あき)淸潔法(せいけつはふ)施行(しかう)が濟(す)んで間(ま)もない頃(ころ)の事(こと)であつた。大掃除(おほさうぢ)の日(ひ)には、兄(あに)も家(いへ)に潛(ひそ)んではゐられないので、結飯(むすび)を持(も)つてまだ夜(よ)の明(あ)けぬうちに、四五里(り)奧(おく)の深山(みやま)に隱(かく)れる。そして掃除(さうぢ)が濟(す)み、とつぷり日(ひ)が暮(く)れてから歸(かへ)つてくるのである。或日(あるひ)、學校󠄁(がくかう)から歸(かへ)つて來(く)ると、父󠄁(ちゝ)が小(ちひ)さな裏庭(うらには)にせつせと穴󠄁(あな)を掘(ほ)つてゐる。穴󠄁(あな)はかなり大(おほ)きく深(ふか)いもので、スコツプで土(つち)を揚(あ)げてゐる父󠄁(ちゝ)の頭(あたま)が、地面(ぢめん)とすれ〳〵のところに動(うご)いてゐる。こんな大(おほ)きな穴󠄁(あな)を掘(ほ)つてどうするの? と私(わたし)が穴󠄁(あな)の緣(ふち)から覗(のぞ)き込󠄁(こ)んで尋󠄁(たづ)ねると、父󠄁(ちゝ)は私(わたし)を見上(みあ)げ、一瞬(しゆん)怖(おそろ)しい眼(め)をして睨(にら)んだ。

「がきの知(し)つたこつちやない。あつちへ行(い)つてゐろ!」

 私(わたし)は驚(おどろ)いてこそ〳〵と離(はな)れた。この穴󠄁(あな)は四五日(にち)の間(あひだ)そのまゝにしてあつた。

 或夜(あるよ)、物音󠄁(ものおと)に私(わたし)はふつと眼(め)をさました。周圍(しうゐ)が何(なん)となく騷(さわ)がしい。布團(ふとん)の中(なか)からそつと覗(のぞ)くと、ほの暗󠄁(ぐら)い十燭燈(しよくとう)の光(ひかり)の中(なか)に、父󠄁(ちゝ)は爐端(ろばた)に拳󠄁(こぶし)をつくつて默坐(もくざ)してゐる。傍(そば)に母(はゝ)が背(せ)をまるめ、袖(そで)を嚙(か)んで忍󠄁(しの)び泣(な)いてゐる。そしてその向(むか)ふ側(がは)の三疊(でふ)の方(はう)では小(ちひ)さい方(はう)の兄(あに)と姉(あね)が、病氣(びやうき)の兄(あに)のどす黑(ぐろ)い二(に)の腕(うで)に繃帶(ほうたい)を卷(ま)いてやつてゐる。私(わたし)は背(せ)すぢがぞく〳〵して布團(ふとん)の中(なか)にそつともぐり込󠄁(こ)んだ。

 翌󠄁日(よくじつ)私(わたし)が學校󠄁(がくかう)から歸(かへ)つてくると、裏(うら)の穴󠄁(あな)はきれいに埋(うづ)められ、新(あたら)しい土(つち)の匂(にほ)ひがしてゐた。後(のち)になつて父󠄁母(ふぼ)の話(はなし)を盜(ぬす)み聞(ぎ)きしたところから想像(さうざう)すると、あの夜(よ)、父󠄁(ちゝ)は兄(あに)と合意(がふい)の上(うへ)、金棒(かなぼう)で兄(あに)を殺害(さつがい)し、死體(したい)は裏(うら)の穴󠄁(あな)にこつそり埋葬(まいさう)する段取(だんどり)になつてゐたらしい。ところが父󠄁(ちゝ)の一擊(げき)を受(う)けると、兄(あに)が急󠄁(きふ)に悲鳴(ひめい)を上(あ)げたので、隣家(りんか)の人(ひと)が駈(か)けつけて來(き)た。この一件(けん)があつてから、父󠄁(ちゝ)は押默(おしだま)つて暮(くら)す日(ひ)が多(おほ)くなり、一層(そう)酒(さけ)の量(りやう)を增(ま)していつた。

 これに類(るゐ)した事件(じけん)は、これだけではなかつた。或時(あるとき)は兄(あに)の首(くび)に石(いし)を結(むす)びつけてやり、山中(さんちう)の沼(ぬま)に身(み)を投(とう)じさせようとした。投身(みなげ)はしたが死(し)にきれず、他(ほか)の兄達󠄁(あにたち)が見(み)かねて沼(ぬま)に入(はひ)り、溺(おぼ)れかけてゐる兄(あに)を助(たす)け上(あ)げたのださうである。或時(あるとき)は首(くび)をくゝらうとし、或時(あるとき)には鐵路(てつろ)に飛込󠄁(とびこ)んだが跳(は)ねとばされて目的(もくてき)を達󠄁(たつ)しなかつた。

 父󠄁(ちゝ)の焦燥(せうさう)と懊腦(おうなう)が日每(ひごと)に增(ま)してきた。私(わたし)が十歲頃(さいころ)、或日(あるひ)兄(あに)は突然(とつぜん)姿(すがた)をくらました。その後(ご)、兄(あに)からの消󠄁息(せうそく)で、身延山(みのぶさん)の療養所󠄁(れうやうじよ)に居(ゐ)るのが判󠄁(わか)つた。私(わたし)の家(いへ)にかすかな光(ひかり)がさしそめたのは、それから四五年(ねん)の間(あいだ)であらうか。倂(しか)し私(わたし)の發病(はつびやう)となつた。父󠄁(ちゝ)は十六歲(さい)の私(わたし)によく言(い)〔ママ〕つた。人間(にんげん)に生(うま)れて人並(ひとなみ)の身體(からだ)を持(も)てず人並(ひとなみ)の生活(せいくわつ)も出來(でき)ない者(もの)は、生(い)きてゐても本當(ほんたう)に詰(つま)らぬ、生(い)きてゐる資格(しかく)がない、長(なが)く生恥(いきはぢ)を晒(さら)すよりは、一思(ひとおも)ひに死(し)んだ方(はう)がましだ。死(し)ぬには一分(ふん)とはいらない、剃刀(かみそり)で一寸(ちよつと)咽喉(のど)を切(き)れば萬事(ばんじ)が解決(かいけつ)される、お前(まへ)にやる勇氣(ゆうき)がなければ、父󠄁(ちゝ)が咽喉(のど)を切(き)つて手本(てほん)を示(しめ)さう。さういふ時(とき)の父󠄁(ちゝ)は、靜(しづ)かな口調(くてう)で、しげ〳〵と私(わたし)を視凝(みつ)めながら云(い)ふのである。私(わたし)は腹(はら)の底(そこ)まで胴震(どうふる)ひするほど怖(おそろ)しかつた。夜(よる)もゆつくり落着(おちつ)いて寢(ね)てゐられなかつた。

 私(わたし)には何(なん)の希望󠄂(きばう)も張(はり)もなかつた。といつて自殺(じさつ)をする程󠄁(ほど)つきつめない。私(わたし)に唯一(ゆゐいつ)の救手(すくひて)は、町(まち)に別居(べつきよ)して映画館(えいぐわくわん)の音󠄁樂手(おんがくしゆ)をしてゐた直(す)ぐ上(うへ)の兄(あに)で、時々(とき〴〵)町(まち)へ連(つ)れて行(い)つては御馳走(ごちせう)を食󠄁(く)はせ、映画(えいぐわ)を見(み)せてくれた。時(とき)には山(やま)や野(の)に連󠄁(つ)れて行(い)つて慰(なぐさ)めてくれた。私(わたし)は別(わか)れとなると、いつも泣(な)きながら、早(はや)く家(うち)へ歸(かへ)つて來(き)てと賴(たの)んだ。

 この樣(やう)な日々(ひゞ)が三月(みつき)、半󠄁年(はんとし)と續(つゞ)く間(あひだ)に、身延(みのぶ)から神山(かうやま)の復生病院(ふくせいびやうゐん)に移(うつ)つてゐた兄(あに)から便(たよ)りがあつて、病氣(びやうき)ならすぐ來(く)る樣(やう)にと云(い)つて來(き)た。その年(とし)の秋(あき)に私(わたし)は父󠄁(ちゝ)につれられて復生病院(ふくせいびやうゐん)に入院(にふゐん)したのである。途󠄁中(とちう)も父󠄁(ちゝ)は死(し)を決意(けつい)し、私(わたし)を道伴󠄁(みちづれ)にしようとしたが、思(おも)ひ餘(あま)つて諦(あきら)めた、と後(あと)で退院(たいゐん)して、母(はゝ)から聞(き)かされた時(とき)、私(わたし)はひやりとした。御殿場(ごてんば)と復生病院(ふくせいびやうゐん)の間(あひだ)の道程󠄁(みちのり)がもつと長(なが)いか、私達󠄁(わたしたち)の神山(かうやま)行(ゆ)きが夜間(やかん)でゞもあつたら、どうであつたらう。

 復生病院(ふくせいびやうゐん)に於(お)ける私(わたし)の生活(せいくわつ)については、私(わたし)がドルワル・ド・レゼー師(し)から受洗(じゆせん)した事(こと)と日常生活(にちじやうせいくわつ)が私(わたし)の生涯(しやうがい)に消󠄁(き)えぬ印象(いんしやう)を與(あた)へた事(こと)だけを記(しる)して置(お)かう。然(しか)し私(わたし)は、斑紋󠄁(はんもん)のすつかり取(と)れた顏(かほ)を是非(ぜひ)見(み)たいといふ父󠄁母(ふぼ)の願(ねが)ひで、一年(ねん)足(た)らずで復生病院(ふくせいびやうゐん)を去(さ)らなければならなかつた。顏(かほ)の斑紋󠄁(はんもん)さへ消󠄁(き)えればもう癩(らい)はなほつたつもりで喜(よろこ)んでゐる單純(たんじゆん)な父󠄁母(ふぼ)。私(わたし)は內心(ないしん)淋(さび)しく人並(ひとなみ)の勞働仕事(らうどうしごと)に從事(じうじ)することになつた。それに私(わたし)にとつて最(もつと)も苦痛(くつう)であつたのは、仕事(しごと)が濟(す)んでくた〳〵に疲(つか)れ切(き)つてゐる身體(からだ)に大楓子油(だいふうしゆ)の注射(ちうしや)を打(う)つ事(こと)であつた。日曜󠄁(にちやう)と特別(とくべつ)の差支(さしつか)へのない限(かぎ)り、定(きま)つて打(う)たねばならぬ事(こと)は、餘程(よほど)强(つよ)い意志(いし)の力(ちから)が必要󠄁(ひつえう)であつた。まして長屋住居(ながやずまゐ)の小(ちひ)つぽけな家(いへ)に、人眼(ひとめ)を避󠄁(さ)けてやるのである。大楓子油(だいふうしゆ)を湯(ゆ)に溶(と)かしてゐる所󠄁(ところ)へふいに客(きやく)があつたり注射(ちうしや)をしてゐる最中(さいちう)に隣家(りんか)の人(ひと)が入(はひ)つて來(き)たりして、隨分(ずゐぶん)とあわてふためく事(こと)もあつた。また仕事(しごと)の最中(さいちう)に、注射(ちうしや)のしこりが痛(いた)かつたり、時(とき)には化󠄁膿(くわのう)したりして、同僚(どうれう)の者達󠄁(ものたち)にも變(へん)に思(おも)はれた事(こと)が少(すくな)くなかつた。それでも三年(ねん)ほどはどうやら續(つゞ)けたが、病氣(びやうき)も別(べつ)に變(かは)りはなかつたし、それに自分(じぶん)一人(ひとり)だけが痛(いた)い思(おも)ひをして注射(ちうしや)し乍(なが)ら生(い)きる事(こと)に倦(あ)いて來(き)た。敎會(けうくわい)にも行(ゆ)かなくなつた。こんな疲(つか)れた氣持(きもち)は私(わたし)を自棄(やけ)にし、刹那的(せつなてき)享樂主義者(きようらくしゆぎしや)に仕立(した)てていつた。私(わたし)は酒(さけ)を吞(の)み、女(おんな)と遊󠄁(あそ)ぶ事(こと)を覺(おぼ)えた。

 そして二三年(ねん)ばかり經過󠄁(けいくわ)した。私(わたし)の顏(かほ)にはまた斑紋󠄁(はんもん)が浮(う)いて來(き)た。私(わたし)の怖(おそ)れてゐた來(きた)るべき時(とき)が遂󠄂(つひ)に來(き)たのであつた。私(わたし)は密(ひそ)かに死(し)を決(けつ)してゐた。復生病院(ふくせいびやうゐん)の思(おも)ひ出(で)も、洗禮(せんれい)の日(ひ)の感激(かんげき)も、私(わたし)の中(なか)からいつか消󠄁(き)え失(う)せ、世(よ)を疎(うと)み自嘲(じてう)する心(こゝろ)がそれらに替(かは)つてゐた。

 その頃(ころ)妹(いもうと)が發病(はつびやう)したのであつた。またしても父󠄁(ちゝ)の苦悶(くもん)、母(はゝ)の悲嘆(ひたん)。私(わたし)はたゞ酒(さけ)を求(もと)めて巷(ちまた)をさまよつた。そして徵兵検査(ちようへいけんさ)の濟(す)んだ春(はる)、誰(だれ)にも默(だま)つて自殺行(じさつかう)に出(で)たのである。


 私(わたし)と妹(いもうと)が現在(げんざい)の療養所󠄁(れうやうじよ)に落着(おちつ)いてはや八年(ねん)に近󠄁(ちか)い。主(しゆ)はいつ如何(いか)なる場合(ばあひ)にも、いと深(ふか)き罪人(つみびと)をも棄(す)て給(たま)ふことはない。主(しゆ)は私(わたし)の中(うち)にも人並(ひとなみ)の孝心(かうしん)といふ溫(あたゝか)いものを育(はぐく)み給(たま)う〔ママ〕た。

 私(わたし)はかつて父󠄁(ちゝ)に改宗(かいしう)を勸(すす)めたことがある。復生病院(ふくせいびやうゐん)から歸(かへ)つた當時(たうじ)にも折(をり)にふれては救靈(きうれい)のことを、基督(キリスト)のこと、敎會(けうくわい)のこと等(など)について、わかりやすく說(と)いたが、うんあの耶蘇(ヤソ)のことか、といつたきりだつたし、母(はゝ)も亦(また)、私(わたし)が持(も)つてゐる十字架(じか)やメダイユを見(み)て、家(うち)には先祖(せんぞ)からの神佛(かみほとけ)が祭(まつ)つてあるのに、といふ始末(しまつ)であつた。その後(ご)、私(わたし)自身(じしん)敎會(けうくわい)を離(はな)れて了(しま)つた。

 こちらに來て、私(わたし)もカトリツクに復歸(ふくき)してみると、また老(お)いた父󠄁母(ちゝはゝ)のことが氣(き)になつてならない。惠(めぐ)まれなかつた生涯(しやうがい)だけに、救靈(きうれい)の方法(はうはふ)を是非(ぜひ)講(かう)じてやらなければならぬと思(おも)つた。私(わたし)はまた父󠄁(ちゝ)に對(たい)して長文󠄁(ちやうぶん)の手紙(でがみ)をかいた。父󠄁(ちゝ)からは何(なん)の返󠄁信(へんしん)もなかつた。私(わたし)は重(かさ)ねて手紙(てがみ)を書(か)いた。その父󠄁(ちゝ)も胃癌(ゐがん)で今(いま)は重湯(おもゆ)も飮(の)めない。醫師(いし)は既(すで)に餘命(よめい)幾何(いくはく)もないと宣(せん)してゐる。若(も)し神(かみ)の存在(そんざい)が考(かんが)へられず永世(えいせい)と云(い)ふものが我々(われ〳〵)に約束(やくそく)されてゐないとしたら、私(わたし)は父󠄁(ちゝ)を思(おも)ふに忍󠄁(しの)ひ〔ママ〕ないであらう。私(わたし)は主(しゆ)の御前󠄁(みまへ)に額(ぬか)づいて祈(いの)るばかりである。それだけが私(わたし)に與(あた)へられた唯一(たゞひと)つの道󠄁(みち)であり孝心(かうしん)である。


 神(かみ)は眞實(しんじつ)にて在(ましま)せば、汝等(なんぢら)の力(ちから)以上(いじやう)に試(こゝろ)みられることを許(ゆる)し給(たま)はず、却(かへつ)て、堪(た)ふる事(こと)を得(え)させん爲(ため)に、試(こゝろ)みと共(とも)に勝󠄁(か)つべき方法(はうはふ)をも賜(たま)ふべし。(コリント前󠄁・十ノ十三)


  三人(にん)の癩(らい)者(しや)の父󠄁(ちゝ)と生(あ)れまして心(こゝろ)むなしく病(や)みたまひけむ

  ふたゝびは生(うま)まれることなしうつし世(よ)に仕(つか)へる時(とき)よつひにあらぬかも

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