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癩者の父

提供:Wikisource


の父󠄁


東條耿一


 わたしらい宣吿せんこくけたのは十六さいときである。しかしもうれより二三ねんまへ癩性らいせい斑紋󠄁はんもんわたしかほてゐたし、右足みぎあしには炬燵こたついた水泡󠄁すゐほうきずがあつた。ちゝわたしかほ斑紋󠄁はんもんにして、わたしかほさへれば、むつつりと、しげしげつめる。わたし學校󠄁がくかうからかへつて、まだかばんおろさないうちに、わたし日向ひなた連󠄁れてつて、斑紋󠄁はんもんてゐる所󠄁ところしてみたり、つねつてみたりする。ときにははりつゝついていたくはないかといたりする。きやくてゐるときでも、食󠄁事しよくじときでも、父󠄁ちゝ何氣なにげなささうに注意ちういふかわたしかほしせんそゝぐ。とこについてからでも、ふとましたときなど、じつとのぞ込󠄁んでゐる父󠄁ちゝにぶつかつて、ぞつとしたこと度々たびであつた。はゝは、わたし斑紋󠄁はんもんゐしきはううつるやうにとかみだのみをして、わたしにも信心しんじん起󠄁おこやうにとすゝめた。このかん塗布藥とふやくもちゐたり生姜湯しやうがゆ罨法あんぽふしたりしてゐたが、なん效果かうくわもなかつた。わたしいへから二ばかりはなれたやしろに、寒󠄁さむころであつたが二十一日間にちかんらぬうちに二道󠄁みち往復わうふくはじめ、寒󠄁寒󠄁さむほし耀󠄁かゞやしやとうしもこほりついたつち兩手りやうてをつかへ、斑紋󠄁はんもん快癒くわいゆいてきぐわんしたのであつた。が高等かうとう小學校󠄁せうがくかう卒業そつげふしたときわたしらい宣吿せんこくされたのである。

 そのころ父󠄁ちゝは五十何歲なんさいかの職工しよくこうであつた。わたし高等かうとう小學せうがく修了しうれうさせるのは並大抵なみたいていことではなかつたに違󠄁ちがいない。縣立病院けんりつびやうゐん診斷しんだんませてかへると、父󠄁ちゝこゑふるはせて慟哭どうこくした。わたしはゝいた。父󠄁ちゝわたしつて自分じぶんはらるとつてきかなかつた。はゝあね居合ゐあはせてくれなかつたら、どういふはめになつてゐたであらうか。

   ふたりめのらいとわれのりしときこゑにいだしてきしひとはも

   父󠄁ちゝてしかたなつめたく返󠄁かへともしび小暗をぐらたゝみうへ


 次男じなんあに發病はつびやうしたのは、わたしがまだ幼少ようせうころであつたらしい。わたしが七八さいの頃には、あに病勢びやうせい大分󠄁だいぶ進󠄁行しんかうして、頭髮とうはつ眉毛まゆげほとん脫落だつらくし、そのうへ潰瘍くわいやうしきつたかほは、どすぐろひかつてゐた。手足てあしにも繃帶ほうたいいてゐた。終󠄁日しうじつかくれてんでゐたやうである。それも長屋ながや住居ずまゐ二間ふたましかないいへのことである。あにはいつも三疊間でふまほうた。いたに、うすべりいたきりの細長ほそながへやで、父󠄁ちゝあにためまうけたちひさなつてあつた。おくに一けん戶棚とだながあり、きやくのある場合ばあひには、眞夏まなつでもあに溲甁しゆびんかはりの德利とくり抱󠄁かゝ込󠄁んで、この戶棚とだななかにひそんでゐた。長居ながゐきやくや、めしどきになつてもかへらないきやくがあると、あにはよく戶棚とだななかせきばらひをしたり、目板はめいたをどんあしつたりした。はゝはおろして、わざとせきふたつ三つしては、もうすこ辛棒しんぼうママしてくれと合圖あひづをするのであつた。ときには、どうもねずみさわいでこまるんですよと、などゝ立上たちあがり、戶棚とだなあに小聲こごえなだめすかすのであつた。

 はゝが一ばんをつかふのはあにべんことであつた。所󠄁べんじよ隣家りんか共同きようどうなので、はゝがまづさきつて、ひとないのをたしか所󠄁べんじよ入口いりぐちはゝ見張みはりにつ。それでもはゝ留守るすあひだ所󠄁べんじよつて、うつかり隣家りんか子供こどもに見つかつたこともあつたのであらう、或時あるとき隣家りんか子供こどもわたしに、おめえンちにはへんひとるんだなア、あれやだれだい? とくのであつた。そのときわたし眞赤まつかになつて否定ひていしたことだけはおぼえてゐる。當時たうじわたしあにがどんなわけかくれてゐるのか判󠄁わからなかつた。勿論もちろんらいなど判󠄁わからうはずもない。あには十に一くらひ行水ぎやうずゐをした。裏庭うらにはいたむしろかこつた小屋こややうなかで、はゝあね人眼ひとめはゞかりながら、あにたらひれてあらつてやるのを折々おりかけた。あに身體からだ異樣いやうしうきがし、からだにはいつもしらみがわいてゐた。うつかりあねほか兄達󠄁あにたちが、うちなかくさくてやりきれないなどゝ愚痴ぐちをこぼさうものなら、あにはすさまじい權幕けんまく怒鳴どならした。そんなときはゝいてあににあやまるのであつた。またあにはよくわたし內密ないみつ買物かひものたのんだ。わたしはこのあにあはれおもつてゐたらしく、あにことなんでもよくいてやつた。わたし菓子くわしつてると、あにうちいくつかを、にやわらひながらわたしれた。わたし平󠄁氣へいきでそれらの菓子くわしひ、またあに相手あひてにもなつて遊󠄁あそんだ。そのころいへでは泥棒どろぼうつてやうなもんだ、其處そこいらにうつかりものけやしないと、あねちいさい兄達󠄁あにたちさわいだ。わたしは、やうあにとの交󠄁涉かうせふのうちに、あに病氣びやうき感染かんせんしてゐたのであらう。

 そのころ父󠄁ちゝはよくさけんだ。仕事しごとかへりにきまつて居酒屋ゐざかやんでる。あにあね仕事しごとからかへつてても、みんながゆふはんませても、父󠄁ちゝぜんだけがいつもそばゑられてあつた。七になり、八になつても父󠄁ちゝ姿すがたえないと、はゝはぶつなが門口かどぐちまで何度なんどつたりたりする。兄達󠄁あにたちはさつさと遊󠄁あそびに出掛でかけてしまひ、のこるのははゝあねわたし、それにちひさいいもうとかくれてゐるあにの五にんだけである。こんなばんわたしはゝ父󠄁ちゝむかへに出掛でかけると、父󠄁ちゝりつけの居酒屋ゐざかやにゐるか、路傍みちばたんだくれてたふれてゐるか、だれかに連󠄁れられて途󠄁中とちうであつたりして、ちひさいわたしはゝ兩脇りやうわきから五たい自由じいううしなつてゐる父󠄁ちゝ背負せおふやうにしてかへつてるのである。父󠄁ちゝいへかへると、ぐまたさけ所󠄁望󠄂しよもうするので、はゝがたしなめると、父󠄁ちゝはげしい語氣ごきおこりだすのである。はてはつかひとなり、わかころから苦勞くらうばかりのはゝは、逆上ぎやくじやうしてヒイヒイとさわぎに、ちひさいわたしいもうとが、きながら必死ひつしになつて、父󠄁ちゝあしはゝそでとりすがつて、みぎにもまれ、ひだりころがされながら、なんとかして二人ふたりあらそひをやめさせやうとする。これはほとん每夜まいよのやうにつゞいた。隣同志となりどうし人達󠄁ひとたちも、はじめのうちこそ、んで仲裁ちうさいもしたが・・・・。こんなさわぎのあとで、父󠄁ちゝきまつて三疊間でふのまあに毒舌どくぜついた。

「おまへみたいなごふさらしがるから、家中うちぢうしてこんな苦勞くらうをせにやならん、さつさとはやんでしまはんかい」


 あにだまつてあたまれてゐるだけであつた。


 あるとしあき淸潔法せいけつはふ施行しかうんでもないころことであつた。大掃除おほさうぢには、あにいへひそんではゐられないので、むすびつてまだけぬうちに、四五おく深山みやまかくれる。そして掃除さうぢみ、とつぷりれてからかへつてくるのである。或日あるひ學校󠄁がくかうからかへつてると、父󠄁ちゝちひさな裏庭うらにはにせつせと穴󠄁あなつてゐる。穴󠄁あなはかなりおほきくふかいもので、スコツプでつちげてゐる父󠄁ちゝあたまが、地面ぢめんとすれのところにうごいてゐる。こんなおほきな穴󠄁あなつてどうするの? とわたし穴󠄁あなふちからのぞ込󠄁んで尋󠄁たづねると、父󠄁ちゝわたし見上みあげ、一しゆんおそろしいをしてにらんだ。

「がきのつたこつちやない。あつちへつてゐろ!」

 わたしおどろいてこそはなれた。この穴󠄁あなは四五にちあひだそのまゝにしてあつた。

 或夜あるよ物音󠄁ものおとわたしはふつとをさました。周圍しうゐなんとなくさわがしい。布團ふとんなかからそつとのぞくと、ほの暗󠄁ぐらい十燭燈しよくとうひかりなかに、父󠄁ちゝ爐端ろばた拳󠄁こぶしをつくつて默坐もくざしてゐる。そばはゝをまるめ、そでんで忍󠄁しのいてゐる。そしてそのむかがはの三でふはうではちひさいはうあにあねが、病氣びやうきあにのどすぐろうで繃帶ほうたいいてやつてゐる。わたしすぢがぞくして布團ふとんなかにそつともぐり込󠄁んだ。

 翌󠄁日よくじつわたし學校󠄁がくかうからかへつてくると、うら穴󠄁あなはきれいにうづめられ、あたらしいつちにほひがしてゐた。のちになつて父󠄁母ふぼはなしぬすきしたところから想像さうざうすると、あの父󠄁ちゝあに合意がふいうへ金棒かなぼうあに殺害さつがいし、死體したいうら穴󠄁あなにこつそり埋葬まいさうする段取だんどりになつてゐたらしい。ところが父󠄁ちゝの一げきけると、あに急󠄁きふ悲鳴ひめいげたので、隣家りんかひとけつけてた。この一けんがあつてから、父󠄁ちゝ押默おしだまつてくらおほくなり、一そうさけりやうしていつた。

 これにるゐした事件じけんは、これだけではなかつた。或時あるときあにくびいしむすびつけてやり、山中さんちうぬまとうじさせようとした。投身みなげはしたがにきれず、ほか兄達󠄁あにたちかねてぬまはひり、おぼれかけてゐるあにたすげたのださうである。或時あるときくびをくゝらうとし、或時あるときには鐵路てつろ飛込󠄁とびこんだがねとばされて目的もくてき達󠄁たつしなかつた。

 父󠄁ちゝ焦燥せうさう懊腦おうなう日每ひごとしてきた。わたしが十歲頃さいころ或日あるひあにとつぜん姿すがたをくらました。そのあにからの消󠄁息せうそくで、身延山みのぶさん療養所󠄁れうやうじよるのが判󠄁わかつた。わたしいへにかすかなひかりがさしそめたのは、それから四五ねんあいだであらうか。しかわたし發病はつびやうとなつた。父󠄁ちゝは十六さいわたしによくママつた。人間にんげんうまれて人並ひとなみ身體からだてず人並ひとなみ生活せいくわつ出來できないものは、きてゐても本當ほんたうつまらぬ、きてゐる資格しかくがない、なが生恥いきはぢさらすよりは、一思ひとおもひにんだはうがましだ。ぬには一ふんとはいらない、剃刀かみそり一寸ちよつと咽喉のどれば萬事ばんじ解決かいけつされる、おまへにやる勇氣ゆうきがなければ、父󠄁ちゝ咽喉のどつて手本てほんしめさう。さういふとき父󠄁ちゝは、しづかな口調くてうで、しげわたしみつめながらふのである。わたしはらそこまで胴震どうふるひするほどおそろしかつた。よるもゆつくり落着おちついててゐられなかつた。

 わたしにはなん希望󠄂きばうはりもなかつた。といつて自殺じさつをする程󠄁ほどつきつめない。わたし唯一ゆゐいつ救手すくひては、まち別居べつきよして映画えいぐわくわん音󠄁樂手おんがくしゆをしてゐたうへあにで、時々ときまちれてつては御馳走ごちせう食󠄁はせ、映画えいぐわせてくれた。ときにはやま連󠄁れてつてなぐさめてくれた。わたしわかれとなると、いつもきながら、はやうちかへつててとたのんだ。

 このやう日々ひゞ三月みつき半󠄁年はんとしつゞあひだに、身延みのぶからかうやま復生病院ふくせいびやうゐんうつつてゐたあにからたよりがあつて、病氣びやうきならすぐやうにとつてた。そのとしあきわたし父󠄁ちゝにつれられて復生病院ふくせいびやうゐん入院にふゐんしたのである。途󠄁中とちう父󠄁ちゝ決意けついし、わたし道伴󠄁みちづれにしようとしたが、おもあまつてあきらめた、とあと退院たいゐんして、はゝからかされたときわたしはひやりとした。御殿場ごてんば復生病院ふくせいびやうゐんあひだ道程󠄁みちのりがもつとながいか、私達󠄁わたしたちかうやまきが夜間やかんでゞもあつたら、どうであつたらう。

 復生病院ふくせいびやうゐんけるわたし生活せいくわつについては、わたしがドルワル・ド・レゼーから受洗じゆせんしたこと日常生活にちじやうせいくわつわたし生涯しやうがい消󠄁えぬ印象いんしやうあたへたことだけをしるしてかう。しかわたしは、斑紋󠄁はんもんのすつかりれたかほ是非ぜひたいといふ父󠄁母ふぼねがひで、一ねんらずで復生病院ふくせいびやうゐんらなければならなかつた。かほ斑紋󠄁はんもんさへ消󠄁えればもうらいはなほつたつもりでよろこんでゐる單純たんじゆん父󠄁母ふぼわたし內心ないしんさびしく人並ひとなみ勞働仕事らうどうしごと從事じうじすることになつた。それにわたしにとつてもつと苦痛くつうであつたのは、仕事しごとんでくたつかつてゐる身體からだ大楓子油だいふうしゆ注射ちうしやことであつた。日曜󠄁にちやう特別とくべつ差支さしつかへのないかぎり、きまつてたねばならぬことは、餘程よほどつよ意志いしちから必要󠄁ひつえうであつた。まして長屋住居ながやずまゐちひつぽけないへに、人眼ひとめ避󠄁けてやるのである。大楓子油だいふうしゆかしてゐる所󠄁ところへふいにきやくがあつたり注射ちうしやをしてゐる最中さいちう隣家りんかひとはひつてたりして、隨分ずゐぶんとあわてふためくこともあつた。また仕事しごと最中さいちうに、注射ちうしやのしこりがいたかつたり、ときには化󠄁膿くわのうしたりして、同僚どうれう達󠄁ものたちにもへんおもはれたことすくなくなかつた。それでも三ねんほどはどうやらつゞけたが、病氣びやうきべつかはりはなかつたし、それに自分じぶん一人ひとりだけがいたおもひをして注射ちうしやながきることいてた。敎會けうくわいにもかなくなつた。こんなつかれた氣持きもちわたし自棄やけにし、刹那的せつなてき享樂主義きようらくしゆぎしや仕立したてていつた。わたしさけみ、おんな遊󠄁あそことおぼえた。

 そして二三ねんばかり經過󠄁けいくわした。わたしかほにはまた斑紋󠄁はんもんいてた。わたしおそれてゐたきたるべきとき遂󠄂つひたのであつた。わたしひそかにけつしてゐた。復生病院ふくせいびやうゐんおもも、洗禮せんれい感激かんげきも、わたしなかからいつか消󠄁せ、うと自嘲じてうするこゝろがそれらにかはつてゐた。

 そのころいもうと發病はつびやうしたのであつた。またしても父󠄁ちゝ苦悶くもんはゝ悲嘆ひたんわたしはたゞさけもとめてちまたをさまよつた。そして徵兵検査ちようへいけんさんだはるだれにもだまつて自殺行じさつかうたのである。


 わたしいもうと現在げんざい療養所󠄁れうやうじよ落着おちついてはや八ねん近󠄁ちかい。しゆはいつ如何いかなる場合ばあひにも、いとふか罪人つみびとをもたまふことはない。しゆわたしうちにも人並ひとなみ孝心かうしんといふあたゝかいものをはぐくたまママた。

 わたしはかつて父󠄁ちゝ改宗かいしうすすめたことがある。復生病院ふくせいびやうゐんからかへつた當時たうじにもをりにふれては救靈きうれいのことを、基督キリストのこと、敎會けうくわいのことなどについて、わかりやすくいたが、うんあの耶蘇ヤソのことか、といつたきりだつたし、はゝまたわたしつてゐる十字架じかやメダイユをて、うちにはせんぞからのかみほとけまつつてあるのに、といふ始末しまつであつた。そのわたし自身じしん敎會けうくわいはなれてしまつた。

 こちらに來て、わたしもカトリツクに復歸ふくきしてみると、またいた父󠄁母ちゝはゝのことがになつてならない。めぐまれなかつた生涯しやうがいだけに、救靈きうれい方法はうはふ是非ぜひかうじてやらなければならぬとおもつた。わたしはまた父󠄁ちゝたいして長文󠄁ちやうぶん手紙でがみをかいた。父󠄁ちゝからはなん返󠄁信へんしんもなかつた。わたしかさねて手紙てがみいた。その父󠄁ちゝ胃癌ゐがんいま重湯おもゆめない。醫師いしすで餘命よめい幾何いくはくもないとせんしてゐる。かみ存在そんざいかんがへられず永世えいせいふものが我々われ約束やくそくされてゐないとしたら、わたし父󠄁ちゝおもふに忍󠄁しのママないであらう。わたししゆ御前󠄁みまへぬかづいていのるばかりである。それだけがわたしあたへられた唯一たゞひとつの道󠄁みちであり孝心かうしんである。


 かみ眞實しんじつにてましませば、汝等なんぢらちから以上いじやうこゝろみられることをゆるたまはず、かへつて、ふることさせんために、こゝろみととも勝󠄁つべき方法はうはふをもたまふべし。(コリント前󠄁・十ノ十三)


  三にんらいしや父󠄁ちゝれましてこゝろむなしくみたまひけむ

  ふたゝびはうままれることなしうつしつかへるときよつひにあらぬかも

この著作物は、1942年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。