療養所文芸の暗さに就いて

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療養所文芸の暗さに就いて

多磨全生園  於泉信雄

 私は今迄に幾度となく療養所内の文芸があまりにも暗過ぎるといふ言葉を耳にしてゐた。偶々たまたま日戸修一氏の「療養所文芸への希望」(「山桜」昭和十一年十一月号) といふ一文を読みその理論の根底が又もその「暗さ」にあることを識り、局外者の我々文芸に対し屡々陥り易き誤謬に就いて一言述べ、且その暗さの依つて来る源ママ因を究明してみたいと思ふ。

 私の先づ言ひたいことは我々の文芸に対する社会人の認識が余りに単純且安易なものであるといふことである。それらの理論が常識の域を一歩も出てゐないやうな場合が多々あるやうに思はれる。そしてそれらの人々は我々の文学を癩文学といふ既定概念の上に据へてごうも疑はず、それより自己の理論を演繹えんえきし人道的道徳的且理想的観点に立つて、傍観者としての態度を改めず我々の文学の中に一歩も這入つてこないばかりか、自己反省もせず、何の苦しみもなく、いや自己の苦悩は棚に上げて置いて我々に接してくるやうに思はれてならない。これは私一個人の偏見だらうか。大たい癩文学といふ概念そのものからして至極危かしいものである。果してそのやうな文学の位置が文学論上許さるべきものかどうかさへ疑問である。

 社会人が我々の文学を観る眼は、一人の紳士が路傍の乞食を見る眼と同じ同情や憐愍の情のみが先に立ち、その内にある共通普遍の人間性を認めることを忘れてはゐないだらうか。確かに我々は種々の方面から社会人に対して憐みを乞ふたり同情を欲してゐるかも知れぬ。が文学の領域にまで斯の如き態度を推し拡げられたくはない、我々が文学するといふことは一般社会人が文学するといふことと少しも変りはないのである。只我々の肉体が癩に罹つてゐて限定された生活を余儀なくさせられてゐるといふに過ぎない。その意味に於ける「癞文学」なる定義ならば或は許されるかもしれない。

 て「暗さ」であるが「人間世界から受ける癩患者への不当な感情的憎悪が我々の文学を暗く、時には陰惨なものにしてゐるに違ない」と断定した日戸氏の見解は余りに適外れの為暫く措き、我々は自分を捨てられない所に我々の持つ根本的な苦悩があるのだといひたい。我々は如何にしたらこの限られた療養所内の生活を自己のものになし得るか、そして如何なる方法に依つて自己をこの生活の中にうち建てる事が出来るだらうか、といふことに腐心してゐるのである。我々の文学は、我々がこの生々しい現実にぶつつかつてゆく苦闘史である。その「暗さ」は絶望観や自我の喪失に依つて醸し出されるのではなくして、実に我々のこの苦悩の故であり、血みどろな苦闘の必然的結果である。そして如何なる意味からもこの「暗さ」は排斥される性質のものではなくむしろ良き指導の許に助長されて然るべきことであると思ふ。我々の中の一人として、希望ある、光溢れた生活を克ち得たいと願はない者はないだらう。明るく朗かに人生を讃美し謳歌したいのは当然の事ではある。が然し我々はその春を頒へる前にどうしても解決しなければならない重要な問題に今突き当つてゐるのだ。それは日に日に腐敗してゆく肉体を抱へ、頽廃と無気力の泥沼に呻吟するこの現実の貌を如何にするかといふことだ。がそれにも拘らず我々の一番おそれてゐること、それは我々が癩病でありながら癩病を忘れること、療養所に居り乍らその療養所を忘れること、籬の内に居り乍らその籬を忘れること即ち我々が現在生きてゐるこの現実を忘れてはしないだらうか、といふ事である。そしてそれは現実への敗北であり、自我の喪失ともなるのである。我々は斯くなることを極度に警戒してゐるのである。どうして「平面的感傷や厭世的絶望に逃避して、その心的世界を唯一のものであると信ずる」ことが出来るだらうか。我々の生活はこの現実とかい離した時その意義を失つてしまふのだ。「能ふ限りの苦痛な経験からのがれ淡い空想の世界へ住む」などといふことがどうして出来やう、我々はより大きな苦痛を欲してゐるのだ。苦悩は天才の特権であるといふ、我々はまだまだ苦しみが足りない、壁に頭をぶつつけるどたん場までゆかなければ駄目だ。

 ドストエフスキイやニーチエを引き合ひに出す迄もない、我々は我々の手で我々の途を伐り拓いてゆかなければならない。我々の文学が「暗い」といふのも決して自我を捨てて絶望やニヒルの世界に迷ひ込んでゐるからではない。或る時は我々の頰にもシニカルな色が濃く現はれることもあるだらうし又デイレツタンテイズムに陥ち入つてゐることもあるだらう。だがそれはまだ我々の生活に光がない為である。いや光がまだ探し求められない為に外ならない、約言すれば我々は暗黒時代ともいふべき世紀末的苦悶のうちに蠢めいてゐたのでもある。がこの 一、二年間に於ける療養所文芸の動きは我々に仄かなる光明を暗示してゐるかのやうにも思はれるのである。徐々にではあるが順当な発展を遂げつつあるやうである。一ツの転換期乃至過渡期と見ても差しつかへないだらう、今迄の政策的、機関的文芸から脱出してそのへゲモニーは我々の手に収められてゐる、そして自己の文学として力強い意欲を見せるやうになつてきた。しかしまだ我々のものとなつてからの文学した期間は極くわずかのものでしかない。我々はまだまだ自己認識自己検討に費した労力は充分とは云へないのである。一部の人々の間に見られるこの態度がやがては療養所文芸に携はる一般の人々にまで浸透し、真に我等の文学を建設する日が、近き将来と言ひたいがまだ途はくらい、しかし必ずやその目的の達成せられん日の来ることを疑はないのである。我々の生活は苦闘の連鎖であるといふ。仮令たとえ我々の前に明るい陽光の照る日は来なかつたにしろ、我等がそれを追求し意欲してゆく生活態度は決して無意味なも のにはならないであらう。

 「暗さ」を取り除くことのみ汲々としてはならない、余りに「光」を求むることのみに急であつてはならない。我等は深長なる考慮のもとに不断の思索を怠らず、しつかりと大地を踏みしめて、この現実を凝視しその中に自己の真の貌を発見してゆかなければならない。「汝の立つ所を深く掘れ。そこに必ず泉あり」と教へるニーチエの後に従いて、真摯なる人生探究者として、あらゆる障碍に挫けず我等の途に踏み出すべきであらう。そして人間本然の貌に立ちかへり、内部生命から迸り出る真の要求に向つて進むべきである。  (十一月二十五日、記)

「山桜」18巻12号 (一九三六年十二月)


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