甲乱記

 

甲亂記

 
目次
 
 
木曽義昌は義仲廿二代の後裔義昌は信玄の女婿義昌の逆心武田勢出陣義昌の陳情勝頼に就いての批判勝頼、木会に出陣碓氷峠合戦武田勢贄川に退く義昌、援を信長に乞ふ勝頼諏訪に退陣武田勢平屋に防戦下条九右衛門等織田に降参下条信氏の忠節小笠原信峯織田に降参下伊奈衆も降参飯田城中の狼狽飯田落城武田逍遥軒落去大島の城将大和入道の庭訓信玄の先見葛山瀬名等の最期穴山の最期勝頼新府帰陣織田信忠高遠城に降参を勧む城将仁科信盛の返状小山田奮戦小山田の決心其武者振信盛小山田の忠戦を賞讃す信盛、最後の酒宴小山田備中守自尽信盛自尽小山田大学助自尽城兵悉く戦死す勝頼新府落去新府城を焼く勝頼夫妻栢尾に到着
 
勝頼、駒飼に籠る小山田叛逆甘利・大熊・秋月等逆心信茂の平生秋山の凶悪最後まで随従の忠臣勝頼と麟岳跡部尾張守の意見土屋惣蔵の意見小山田の詩歌監物入道の和韻勝頼の不明土屋右衛門尉以下の奮戦信勝の負傷信勝の奮闘信勝自尽河村下総守の殉死勝頼の室自尽勝頼自尽下曽根逆意下曽根逃走信豊自尽恵林寺快川和尚の大善知識恵林寺炎滅快川和尚以下焼殺さる快川和尚の態度附録

 
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解題
 
甲乱記 二巻
本書は、武田勝頼滅亡の事蹟を記したるものなり。内容は、木曽義昌の反心により、勝頼木曽へ出張、尋いで信州諸方の反心続出、更に一族家臣等の謀叛あり、内憂外患交〻起り、遂に織田信長の為めに悲惨の最期を遂げ、さしもの弓矢の豪族も天運尽き、一朝滅亡に帰したる次第を記したるものなり。 村山徳淳の書目解題略に云、オープンアクセス NDLJP:4

撰人の名氏を著さず。此の書は、武田勝頼滅亡の事を記せり。其の事実、甲陽軍鑑と異同あり。序跋なし。正保三年刊本。

国書解題に云、

甲乱記 一巻 春日摠次郎

正親町天皇の天正十年壬午(二二四二)武田勝頼の亡滅を記したるものなり。木曽義昌逆心の事、勝頼公向木曽出張の事、小笠原下条並伊奈衆逆心の事、飯田・大島両城自落の事、梅雪斎謀叛並勝頼公諏訪を引退かるゝ事、高遠の城没落の事、勝頼公新府中へ落ちらるゝ事、小山田出羽守心替並勝頼公最期の事、武田相模守最期の事、武田一族並家僕の面々生害の事、恵林寺炎滅並織田信長の事等の十一目より成る。正保三年丙戌(二三〇六)出版。春日摠次郎は高坂弾正昌信の臣なり。

以上の解題により、本書の大要を知るべし。但し村山氏の書目解題には、撰人の名を著さずと記したれども、国書解題に、春日摠次郎とあるを以て、同人の作と見るべし。そは本書巻尾に、更に兵法に関して記する所のものを添へ、其の奥に高坂弾正内春日総二郎と記せればなり。本輯採収の本も、正保三年版に拠れり。オープンアクセス NDLJP:6
 

  大正五年五月 黒川真道 識

 
 
例言

、甲乱記は、原本片仮名なるも、悉く平仮名に改めたり。且つ行文中、反読の箇所と読下しの箇所と相錯雑し、通読に晦渋なるを以て、是等は悉く読下しに改め、全巻を通じて語格を正し、仮名遣を一様ならしめ、又原本の特徴文字は、之を改竄することなく、原本の儘を存して、振仮名を施したり。

 
 
 
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甲乱記 
 
木曽義昌逆心の事
木曽義昌は義仲廿二代の後裔茲に、故帯刀先生義賢の嫡孫、木曽前左馬頭朝日将軍義仲より廿二代の末葉に、伊予入道義昌といふ名家あり。抑〻武田徳栄軒信玄、智仁勇の三徳を以て、甲斐・信濃、其外、近国を、掌握に治めらるゝに依つて、彼の義昌も、流石、源家の嫡流たりと雖も、世に随ふ習なれば、信玄の幕下に属し、殊に婚姻を結んで親子の盟浅からず。義昌は信玄の女婿然る所に、信玄遠行以後、当主勝頼、代をつかさどり、聊か遺恨の旨もありけるにや。勝頼に対し怨念を含んで、内々、織田信長の方へ、密計の仔細ありけれども、世の人、未だ之を知らざる所に、朝夕身辺に召仕はるゝ茅村左京進といふ者、天正十年正月廿七日の暁、只一人忍びて、甲州の新府中に馳せ参じて、土屋右衛門尉に対し、密に披露オープンアクセス NDLJP:150せしむるは、義昌の逆心義昌、去年秋の頃より、逆意を存じ企てられ、信長へ条々申送られ、時宜落着せしめ、去る二十日、信長の朱印下り、信濃境の雪も、漸く消えば、手出のはたらきあるべきに、議定候と、証拠分明に申しければ、勝頼も、不実には思はれけれども、既に斯くの如き大凶を聞きながら、油断あるべからずとて、翌日廿八日、大手の大将として、武田勢出陣武田相模守信豊并、山県三郎兵衛尉・今福筑前守・横田十郎兵衛尉、都合其勢三千余騎、信州の府中筋を木曽に向つて相働く。又搦手の大将として、仁科五郎信盛并諏訪越中守・同伊豆守、其外、諏訪・高遠の衆二千余騎、上伊奈口より相働き、大手・搦手諸共に、木曽近辺迄討詰むると雖も、彼の谷の事は、海道無双の大切所にて、一夫爰に瞋れば、万卒躊躇せしむる程の所なるに、殊に残雪未だ消えず、馬蹄も更に通はざれば、各〻徒に在陣せしむ。然る所に、木曽より茅村三郎左衛門・山村七郎右衛門を以て、義昌の陳情陳じ申さるゝは、緩怠の筋目ありて、茅村左京進に、折檻を加へ候処に、闕落せしめ候。定めて其元へ参じ、我等隠謀の由、讒訴し申し候か。厳密に御糺明を遂げらるべき処、是非に及ばず。境目に至りて、信豊御出陣の事、段驚入り候。言新しき申事に候へども、信玄の御代より当代に至る御芳情、更に忘るべきにあらず。殊更、昆弟の好をなす事、年久し。其上、度々の大誓詞・血判蔑如せしめんか。彼といひ是といひ、甲陽に対し毫髪も疎意を存せず。時節を以て涯分忠信を抽んで、両代の厚恩を謝すべしと存ずる計りなり。剰へ、何の遺恨によつてか、叛逆を企て御敵対に及ぶべく候はんや。乖企なきの御行、穏便の御沙汰に候はゞ、世の為め人の為め、仁政たるべきの由、寔に慇懃に陳訪に及ばるゝと雖も、是は真実にあるべからざるの儀、上方よりの人数を、谷中へ招ぎ入るゝ間の、当座の計議にて候などとあるを、信と得心ある事、是ぞ極運の至なる。縦ひ、返忠の者ありて、告げ知らせ申すとも、先づ其色を顕さずして、深く隠密ありて、幸ひ、木曽より陳訪の旨あらば、勝頼に就いての批判縦ひ偽りて申すとも、先づ其意に任せ、却つて懇切を加へ、怨をば恩を以て報ぜられば、自然に又帰伏する事もあるべきに、叛く者をば之を遠ざくとは是なり。事を破る事は易くして、事を保つ事は難きと申す古賢の誡の如く、心を削り志を約して、事に無為に従ふとなれば、先づ、分国中に風波を立てず、オープンアクセス NDLJP:151其内に府中の仕置、又大敵を引請けらるべき構へ、兼ねて調談を遂げ、軍兵の事は申すに及ばず、牛堅・馬洗・厩養の徒、土民に至る迄も、撫育の哀憐をたれ、就中近年相甲御辜負なり。時の難易を知り、運の窮逹を見る時分なれば、先非を悔い先規の如く、西上州并に駿州を、半国も謙譲ありて、混空、氏政へ降参を請はるゝに於ては、縦雖深慨恨之意趣降者脱之といふ古文に任せ、又は信玄以来、骨肉同胞の好と申し、殊に当時連枝の御因浅からざれば、争か小田原にも、思召し直されざる事あるべくや。太公望曰、以少撃衆以弱撃強之具は、必得大国与隣国之助と申せば、前々の如く、相・甲御合体ありて、相互に水魚の契をなし、車の両輪の如くならば、輒く信長も思ひ企つべけんや。又幕下の諸卒も、勝頼を思ひ侮るべけんや。然れば則ち、自然に国家も安泰に定まるべきを、結句、木曽を態と敵に執立てらるる儀は、何事ぞや。縦ひ、千騎・万騎の軍兵を立て遣して攻むとも、輒く討ち破るべき地形にあらざるの由、兼ねて、各〻存知の所なるに、楚忽に人数を立て懸けらるゝ事、却つて乱を招くに似たり。或る兵書に曰、不干戈所は、抛財宝之と見えたれば、策を帷幄の中に運してこそ、勝を千里の外に決せらるべけれ。斯くの如きの計策の道にもあらず。只兎に角に、武運漸く傾きて、敗亡あるべき先表なりと、眉を顰むる智臣も多かりけり。
 
勝頼公木曽に向つて出張の事
二月二日、勝頼出馬の意趣は、兎角して日数を送る内に、上方の人数を、木曽谷中へ取入れ、又下伊奈口へも、美濃・尾張の凶卒乱入に付いては、後悔すとも、其益あるべからず。六韜に曰、涓々不塞将為江河、栄々不救炎々奈何。両葉不去将斧柯勝頼、木会に出陣先づ義昌、人数微なる時、退治を加ふべしとの行に付いて、木曽近辺塩尻と号する地に、暫く鳥を立てられ。諸方へ調儀に及ばれ、先ず烏井峠うすゐたうげを堅めたる敵を、追払ふべしとて、今福筑前守を始として、三千余、烏井峠へ打向ふ。彼の峠と申すは、雲一片に聳えたる高山の、然もけはしきに、樵夫の通道かよひみち、一筋より外はなし。下は氷柱、鏡の如くなるに、雪は未だ消えやらず。短兵急に進むとも、登るべきやうもなオープンアクセス NDLJP:152く、息をつき居たる所を見すまして、碓氷峠合戦敵は案内者といひ、山路に馴れたる者共が、猿の梢を伝ふが如く、山々・峯々へ取上りて、鉄炮を打ち矢を放つ事、雨の降るよりも、猶ほ繁し。是に漂ふ所へ、切先を調そろへて切つて懸る。なにかはたまるべき。皆谷底へ捲り落されて、半死半生の者、数知らず。前に立ちたる者は、斯くの如くなれども、後なる味方は、懸合ひて助くべき道もなし。只余所の嶺や尾崎に立連つて、手に汗を握りて、見物してぞ居たりける。是に敵は気を得て討つて懸る。然れども、逞兵鉄騎の勇士共が、命を限に戦ひければ、敵を遥の嶺まで捲り上せて、今は角と見えける所に、兼ねて構へ置きたる敵、峯の彼方より、横なる細道を伝ひ来て、横入に切つて懸る。暫くは戦ひけれども叶はずして、宗徒の兵を始として、数百人討たれければ、味方、引色に見えける所に、搦手より廻りける諏訪越中守・同伊豆守・秋山紀伊守、一面に突いて懸り、敗軍の味方を助けけり。敵も爰を破られては、叶ふまじと思ひ、味方も是にて切負けなば、引くべき方もなし。只討死を限に火を散らし、巳の刻の始より申の刻の終迄切合ひけり。味方は、名を後代に惜む一騎当千の兵なり。敵は木曽山家の賊徒なりしかば、終には戦ひ負けて、峯より下へ追崩さる。武田勢贄川に退く然りと雖も、続いて打入るべきやうもなければ、本陣へ打返り、奈良井・贄川に陣を取つてぞありにける。斯かる所に、木曽義昌は、全く逆意を含まざるの由、種種、陳ぜらるゝと雖も、更に承引なく、剰へ、次第々々に諸卒を立て重ね、殊に勝頼出馬の由を聞き届く。義昌、援を信長に乞ふ此上は力及ばずとて、信長へ助勢を請はる。是に依つて、信長の長男城介信忠を大将軍として、滝川伊予守・川尻与兵衛尉・森正三以下、其勢三万余騎、信州下伊奈口へ発向す、又木曽筋へは、織田源五・遠山豊前守・美濃の三人衆・根来衆、以上三万騎、木曽谷中へ乱入の由、方々より凶を告ぐる事、櫛の歯を引くが如くなれば、味方の動揺限なし。さらば、先づ此口を差置いて、取出二三箇所築き立て、人数少々残し置き、勝頼諏訪に退陣勝頼は諏訪に至つて引退き、彼の表に於て、凶徒を待請けて、興亡の一戦を遂ぐべきの由、評定ありて、暫く諏訪の上原に在陣とぞ聞えける。
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小笠原下条下伊奈衆逆心の事
既に、織田城介信忠、三軍の衆をつかさどり、平屋・波合に攻入るの由、告げ来れば、勝頼公の催促に随つて、小笠原掃部大夫信峯・下条伊豆守信氏・子息兵庫介信昌を始めとして、武田勢平屋に防戦其外、郡中の諸卒三千余騎、平屋に於て防戦す。爰にて、敵の模様を聞けば、何十万といふ数も知らず、雲霞の如くなどといひ訇りければ、いつしか、味方の心忽に変ず。爰に下条が親類に、下条九右衛門といふ一族あり。又譜代の家来に、原民部・熊谷玄蕃といふ者あり。彼の三人の者共、同じ役所にありけるが、下条九右衛門申しけるは、抑〻甲州の様体を聞くに、木曽謀叛顕るゝ以後、信州・上州の諸侍、悉く造説最中の由批判す。是に因つて、勝頼、塩尻にも忍ばずして、甲府迄退散すとも申し、又諏訪に在陣とも聞ゆ。斯くの如くならば、我等迄も、討死すべき事は必定せり。下条九右衛門等織田に降参此節、城介殿へ返忠せば、伊奈郡は過半恩賞に申請くべく、侍は渡者なれば、いざ此由を豆州に申し進めばやと、申しければ、両人共に、異議無く同意して、信氏、父子に密談す。豆州は、此由を聞いて、累年甲州の御恩を以て、子孫共に栄華を極む。下条信氏の忠節只今大敵の向ふと聞いて、命の惜さに、年来の芳恩を忘るべけんや。節に莅んで、心の変ずる事は、勇士のせざる事なり。爰にて、命を限に攻戦ひ討死を遂げ、往年の厚恩を報じ、名を後代に残すべし。面々は、何となりとも、覚悟に任せ候へ。信氏父子に於ては、無二に思切つたる由、荒らかにいひければ、彼の三人の者共、興醒顔にして陣屋へ立帰り、此上は我れ人の身命大切なりと覚悟して、己が親類縁嫁の者共に、触れ廻りければ、与党の凶徒、四五百人に及べり。此由を伊豆守聞いて、敵の為めに討死せんは、尤も本意なり。さなうして、家来の者共の手に懸り、我等父子が首を、見上にせられんよりは、是より引廻し、勝頼の眼前にて、討死を遂ぐべしとて、平屋より取つて返されけり。扨こそ、平屋・波合口、最前に破れて、三日路ある大切所を、足をも穢さずして、敵は下伊奈迄ぞ打入りける。小笠原が家中の小勢にて、大敵に向ふべき事は、蚍蜉大樹を動かし、蟷螂龍車を遮るが如し。迚も相叶はざる物故に、憖なる軍せんよりも、城介殿へ降参申さんと、一味同心して、信峯へ申入オープンアクセス NDLJP:154るゝ。同心ならば尤なり。若し同心なくんば是非無しとて、親類被官一同に信峯へぞ申しける。小笠原信峯織田に降参大夫聞いて、末代まで、弓矢の家の恥辱とは思はれけれども料簡なくして、心ならず城介殿へ降参す。之れを聞いて、一騎合の下伊奈衆小笠原・下条さへ斯くの如し。下伊奈衆も降参況んや我等が分限として無用の義理立とて、旗を巻き甲を脱いで、悉く敵の人数に馳せ加はる間、敵は日を逐つて、外龍の勢をなし、味方は日に随つて、蟄龍の思をなす。さて此末も、如何なり行くべき世の中ぞと、あやぶまぬ者はなかりけり。
 
飯田・大島両城自落の事
伊奈郡は、肝要の境なるに依つて、高遠・大島・飯田とて、三の城を抱へられ、高遠には仁科五郎信盛、大島には日向大和入道宗英、飯田には仁科越前守、斯くの如く在城す。敵既に、下伊奈に向ひ乱入の由、聞えければ、飯田へは小幡因幡守・舎弟五郎兵衛尉・波多源左衛門尉以下五百人、加勢を為して指移さる。城中寄合の衆なれば、各〻々々に来つて、相互に下知を聞かず。大将一人にて成敗するさへ、総劇の時調はざるは、常の習なり。況んや取集めたる人数なれば、一決せざるも理なり。只今の体にて、大敵を請け、当所の籠城、頼みがたくぞ見えたりける。既に明日未明に、敵押寄すべしと聞ゆ。殊に、案内者の小笠原・下条魁の由申しければ、城内色めき渡り、騒がしき事限なし。飯田城中の狼狽先づ城下の宿中を、敵に焼かれぬ先にとて、自ら放火す。其日の夜半計りに、矢倉の番衆申しけるは、敵は夜詰に寄せ候やらん。城の廻、鉄炮の火、際限なく見え候と申しければ、各〻櫓へ上り見るに、寔に何程といふべき数も知れぬ鉄炮なり。之を聞き、外曲輪に小屋を懸けたる地下人共、悉く我先にと逃げ出づる。是に城中騒ぎ立つて、すはや、城内に手替の者ありといふ程こそあれ。我もと落行く者は多けれども、立留りて役所を守るといふ者は、一人もなし。彼等に引立てられて、具走・甲を捨て、弓・鉄炮を堀谷へ取捨て、赤裸になつて、北を指して引いて行く。夜明けて之を見れば、鉄炮の火と覚しきは、自焼せし時、馬糞に付きし火の未だ消えずして、此方彼方に見えしなり。昔、源平の戦の時、群れ居るオープンアクセス NDLJP:155鷺に肝をけし、水鳥の羽音に驚き、敗軍せしなどといふ事は、語り伝ふれども、馬糞に脅かされ、城を明けたりといふ事は、定に珍しき敗軍なり。飯田落城偏に武運尽くる所は、歎きても猶余りあり。又大島へは助勢として、逍遥軒・安中七郎三郎・小原升波守・依田能登守、其外都合七百人差移さる。元来城は堅固なり。兵楯・兵糧・鉄炮・玉薬は不足なし。殊に逍遥軒を始めとして、宗徒の兵千余人楯籠る間、爰にて如何なる強敵なりとも、一防は防ぎ留むべしとぞ見えたりける。去る程に、敵には、定めて勝頼発向せらるべし。さもあらば、五度も十度も手痛き合戦あるべしとて、兵議兵談専らなり。然れども、一人も寄せ来らず。剰へ、飯田の城自落して、散々に逃げ倒されければ、其儘、彼の城へ乗移り、明日大島へ押寄すべしと聞えけり。其夜、大島の城に楯籠る地下人、千計りもあるらんと覚しきが、悉く敵の方へ返忠して、外曲輪に火をかけたりける間、城中の人々、一時も保つべき様なく、武田逍遥軒落去最先に逍遥軒、城を忍んで、落ち給ふと騒ぎければ、城主大和入道、子息二郎三郎を近づけて、逍遥軒落ち給へば、此城とても抱へ難く思ふなり。愚老が事は、数代の御恩を蒙りし事他に異なり。当城を預り申す事、数十年に及ぶ。只今、事に臨んで引退くとも、後栄幾ならんや。大島の城将大和入道の庭訓老後の思出に、此城を枕として、腹を切り君恩を報ずべし。汝は甲州へ馳せ参じ、大将のなり給はん様に、兎も角も罷りなれ。少しも未練なる覚悟を構へ、降参不義の族に同意して、不忠を企つべからず。御眼前に於て討死を遂ぐべきこそ我が方への孝行なるべけれ。草の陰にて、之れを嬉しと思ふべしと、様々に庭訓を残す所へ、同名被官共数百人来つて、逍遥軒を始めとして其外悉く、早疾に落ち給ふ。勝頼の御大事之に限るべからず。御油断にて候とて、押して取つて馬に打乗せ、多くの敵を退撥つてぞ落ちたりける。
 
梅雪斎謀叛勝頼諏訪を引退かるゝ事
勝頼は、暫く諏訪に滞留ありて、敵、襲ひ来らば、塩尻峠・有賀峠を前に当てゝ、防戦を遂げ、家の安否、一戦の内に定むべしと、群議同趣に定め、軍場并に路次の順道を巡見し、敵を相待たるゝ所に、二月廿七日、甲州より飛脚到来す。仔細を尋ぬれば、オープンアクセス NDLJP:156一昨廿五日の夜、穴山殿の御簾中・御息達、悉く闕落と申す。模様を精しく相尋ぬるに、江尻より勝れたる兵四五百人、迎に差越し引取る所を、古府中の地下人・町人等、二三百人相集り、押留めんと恐る跡に続きけるを、取つて返し、是非なく切散らし、二三十人討殺す間、其外の者共、四角八方へ逃げ去り候間に、相違なく下山迄、迎へ執るの由申しければ之を聞き給ひて、勝頼を始めとして、一門家老の人々、中々茫然として、只呆れたる計りなり。木曽下伊奈衆、敵になるさへ、一大事と思はれけれども、駿州の事は、梅雪斎斯くましませば、先づ心安く思はれける所に、是さへ敵になり給へば、中流に舟を覆し、一瓢波に漂ひ、暗夜に灯消えて深更に向ふが如し。此梅雪斎の事は、武田の門楣として、殊に勝頼の為めには、兄弟の因あり。玆に因つて、頼もしく思はれ、駿州の守護に職し、江尻に在城して、駿州国の諸士民迄に尊敬せらる。何の不足あつてか、只今怨讐の思をなし、総領の家を没倒し給ふぞや。意趣もなく、亦遺恨もなし。唯欲心に義理を替へたる者なるべし。梅雪斎の覚悟、斯くあるべきを、信玄の先見兼ねて信玄、見給ひけるとかや。先年、駿州蒲原の城、本意の砌、彼の地を梅雪斎に預けられけるが、或時、信玄仰せられけるは、穴山は我が婿なり甥なり。別心はよもあらじと思へども、彼の心底を能く窺ひ見るに、第一欲深くして、扨又、空をもかけるべき程の、早雄の血気の勇者なり。果ては当家の怨となるべし。但し、信玄一代の内は、逆心相叶ふべからず。子孫の為め大切の由あつて、程なく蒲原の城を召し返されて、聊も心赦なかりつるに、信玄遠行以後、三州長篠に於て、勝頼疎忽なる一戦をして、勝利を失ひ、山県三郎兵衛尉・内藤大和守・馬場美濃守を始めとして、宗徒の勇士三千余騎討たせ、から命を助かりて帰陣以後、誰も駿州に差置かるべき人なくして、此梅雪斎に、江尻の城を預けらるゝ事、偏に野干を野に走らせ、籠鳥を山に放つが如し。信玄の眼が少しも違はず、今度、敵になり給ふ事、誠に奇特なりし事共なり。遠く先蹤を尋ねば、際限無し。先づ近く喩を執るに、去ぬる永禄年中の頃、駿州没落の刻、葛山備中守元氏・瀬名中務大輔信真・武田上野介信友・朝比奈駿河守以下、信玄へ返忠して、代々の主君今川上総介氏真を没倒し、数箇所の所領を安堵し、一期の間を、安楽に暮さんとせしが、天命地オープンアクセス NDLJP:157慮に背き、葛山瀬名等の最期葛山元氏は、漸く三年の内に隠謀露顕して、信州諏訪の郡、高島の湖水の波に、一門悉く沈み果つ。又瀬名信真は、譜代の家人共に背かれ、懸命の地を召放され、貧窮孤独の身となつて、道路に袖をひろげぬ計りの体になり果つ。我れのみならず、先祖累代の名迄汚され、又上野介は、長篠一戦の刻、臆病第一の名を蒙り、其儘所帯持別れ、隠遁の身となりて、諸寺・諸山を囉斎して、光陰をぞ暮されける。然れども、武田の累葉たるに依つて、今度の一乱の砌、一類尽く滅亡す。朝比奈駿河守計り、恙なかりけるが、是も近年、大病を請けて病の枕に沈みしが、此戦中に、是も一門悉く卑夫の鏃に懸り相果つ。因果歴然の道理、今以て驚くべからず。此梅雪斎も、之を眼前に見ながら、総領の家を崩し、望の如く所帯を取つて、一世を富栄え、栄華を尽さんと企てられけれども、天罰遁るゝ所なくして、勝頼生害以後、未だ百日を満さずして上洛し、信長身を没するの刻、駿州へ逃げ下るとて、勢多の橋詰にて、穴山の最期田夫野人の手に懸り、屍を他邦の巷に曝し、名を湖水の浪に流す。修因感果の程こそ悲しけれ。されば、末世澆季の世とはいひながら、死を善道に守る者は少くして、名を利路に失ふ者多ければ、此後も亦、如何なる不当猛悪の者がありて、何事をか仕出さんずらんと、心置かれぬ人もなし。斯くては、爰計りの防戦も大切なり。勝頼新府帰陣又甲州の様もいぶかしとて、二月廿八日、諏訪を立つて、新府中へ帰陣あり。初の程は、七八千もありつると覚しき人数、路次中、何方にてか落失せけん。府中へ着き給ふ時は、纔に千騎にも足らざりけり。
 
高遠の城没落の事
高遠の城には、勝頼の舎弟仁科五郎信盛、去年より在城なり。今度加勢として、小山田備中守・同弟大学助・渡辺金太夫を差移さる。飯田・大島自落の後、敵は弥〻勇猛の気を振ひ、高遠近辺迄押寄せたり。城介信忠より、使に僧を仕立て、城中へ差越さる。其書状に曰、

織田信忠高遠城に降参を勧む信玄時勝頼、毎度構表裏神慮、対信長不義之擬迫唯。依之今度為退治、為討手。信忠向当国進発処、木曽・小笠原・下条以下、其外信オープンアクセス NDLJP:158州一国中の士卒、悉令降参。殊飯田・大島令自落処、其城于今堅固相抱段、寔神妙之至也。勝頼者、昨日諏訪引退之処、為小山田屋裏者共、討而可出之由申来。然則、憑誰何迄可籠城哉。早速遂出仕、於忠節者、所領之儀者、宜所望。先為当座之褒美、黄金百枚可出之者也。

 二月廿九日  信忠

       高遠城中

仁科五郎信盛、此書状を披見して、小山田備中守・同大学助、其外各〻召出され、此状、如何有るべきと、御談合あり。備中守進み出で申しけるは、是は御調談に及ばざる事にて候。我等、当城へ罷移り候刻、命をば、早や勝頼へ進じ置き候。其上、飯田・大島の臆病者共が、敵末だ寄せ来らざる先に、城を明渡し逃げ来り、年来の武勇の名を失ひ候。之をさへ口惜しく存ずるに、又当地を敵に誑かされ、明け退くべく候哉、他の面々は如何とも候へ。備中兄弟に於ては、鑓の柄の折れ、太刀の柄の摧くるを限に戦つて討死を致し、甲州の武士の名を揚げんと存じ候と、潔くいひければ、信盛〔もカ〕笑坪に入り、誰も左様にこそとて、返状を認め候。其状に曰、

城将仁科信盛の返状芳札披閱得其意候。如仰、信玄以来対信長遺恨重畳。因茲漸残雪融者、尾・濃之間、勝頼動干戈、可鬱憤存詰候処、遮而当国御発向、啐啄同時候。当籠城衆之儀者、一端一命勝頼之方武恩候。不不当不義之臆病成輩。早々可御馬候。信玄以来鍛錬之武勇之手柄之程、可御目候。恐々謹言。

 二月廿九日 高遠籠城衆

   織田城介殿

返札を調へ、使僧に相渡し、出家の身として、斯様の使などは仕給はぬ者なり。仏の使として、文珠・維摩の室へ入り給ふには、抜群に劣りたる次第なり。今度計りは、大慈悲を以て命をば助くるなり。但し、験なくては加何に候間、耳鼻を所望申すべし。重ねて御出ならば、御頸を給はり申さんとて、彼の僧の耳・鼻をそいでぞ帰しける。件の僧は、辛き命を助かり、首のまはりをさすり帰りて、一々に語りけオープンアクセス NDLJP:159り。信忠、殊の外腹を立て、につくい族原やつばらはからひかな。さらば、押寄せて、一人も洩さず討殺せとて、三万余騎を三手に分けて、城の三方へぞよせかけける。城中の人々は、之を見て、待設けだる事なれば、なじかは少しも動転すべき。静まり返つて居たりけり。小山田備中守、信盛へ参りて申しけるは、命を全うし運を開かんと思ふ時こそ、城をも堅く守り、用心をも仕るべけれ。我も人も、今日を限の命なれば、城構も用心も、入らざる事にて候。先づ我等、城外に罷向ひ、一合戦仕るべく候。殿は是に御まし候て、御見物候へ。拙夫罷帰つて後、御自害あるべう候。冥途の御供申し候はんと申し置き、含弟大学助・渡辺金太夫を左右に相随へ、究竟の軍兵五百人召供し、大手口へぞ討つて出でける。小山田奮戦寔に思ひ切つたる有様は伝へ聞く張良・樊会が勢も、是には過ぎじとぞ見えたりける。さて、敵の備、程近くなりしかば、大音声を揚げて名乗りけり。城介殿、当国へ御進発の由、承り及ばれ、勝頼の方より御押として、身不肖に候へども、小山田備中守、同じく弟に候大学助を、差置かれ候といふ儘に、七八千控へたる真中へ、只一文字に切つて入り、面も振らず戦ひけり。流石の大軍なりしかども此小勢に切立てられ、右往左往に散乱す。備中守兄弟は、馬は本より達者なり。打物は上手なり。四角八方へ切つて廻る。此太刀影に当る者、切つて落されぬはなかりけり。敵之を見て、あれ程の小敵に、切負くる事の有るべきかとて、中に取籠め討たんとしけれども、機変磐控、百鍛千錬の兵共が、爰に紛れ彼処に別れ、切り抜けては囲を出で、懸け通りては備を破り、馬の息のきるゝ程戦つて、又本の城際へ引き退きて、暫く息をぞ休めける。備中守、各に申しけるは、小山田の決心大将を見知らざる程こそ、葉武者共とは軍をしつれ。先に黒の馬に、紅の房懸けて、白地の金襴の母衣着に、唐の頭懸けたりし若武者こそ、正しく城介殿とは見つれ。迚も死なん命を、城介殿に懸合はせ、引組んで討死してこそ、名を末代に残し、閻魔の庁の訴にもせんずれ。いざや方々、今一軍せんとて、今度は態と指物をも取捨て、其武者振立物をも抛捨ながすて、死生不知の兵共、城介殿の備へ、只一面に切つて入る。又信忠の方にも、軍の鍛錬の者ありければ、御馬に乗替へ縨着を着替へ参りける程に、城衆は、之を見知らず、孫呉が再誕の行を得、蕭何・韓信が術を得たるオープンアクセス NDLJP:160兵共、死狂する軍なれば、数千騎の敵を、四方へばつと切り靡けて見れども、信忠の運や強かりけん。終に見え給はず。備中守は、本意を失ひ、又、敵の中へ懸け入り、命を限りに戦ひけれども、大軍、凌ぐに難ければ、終には戦負け、五百人の兵も、残り少なに討ちなされ、殊に股肱と頼みける渡辺金太夫も討たれ、其身も鉄石ならねば、深手七八箇所負ひ、弟の大学助も、半死半生になりしかば、又城中へ立帰り、仁科殿に対面す。信盛小山田の忠戦を賞讃す信盛心よげに宣はく、今日の軍の体、項羽、高祖七十余度の戦、越王勾践、呉王夫差会稽山の軍も、是に如くべけんや。一段の目醒にてこそ候へ。其方計りに軍をさせ、見物せんは、余りにいひ甲斐無し。且は身の上の恥辱、且は時に当つて面目を失ふ。信盛も一軍して見んとて、既に討つて出でんとす。備中守、こはそも何事にて候ぞ。我等が事は、足軽の後にて候へばこそ、軍をば仕り候へ。大将と申すは、士卒に軍をさせ、節に莅み事窮れば、尋常に御腹を召され候こそ、是又、大将の御役にて候と、鎧の草摺に、兄弟の者取附きて押留め申す。然る所に、敵は早や、大手・搦手一同に、諸方の坂口より攻上げ、二三の曲輪迄、乱入の由申しければ、さらば最後を急がんとて、本城の櫓に上り給へば、盞を持参す。信盛、盃を取つて、三度傾けさせ給ひ、小山田備中守へ思指申さる。信盛、最後の酒宴小山田、御盃を請けて申しけるは、恐ながら、年来如何計り望を懸け申しつれども、終に相叶はずして、今日頂戴申す事、今生の妄執相晴れ候と戯れけり。是は彼の備中守、年月信盛に心を懸け参らせ、朝夕恋し床しと通ずる文の数、早や千束にもなりつらんと思へども、終に篠の一夜の露の間の御情もなくして過ぎしが、先世の盟、尽きざるにや。今度高遠へ、敵寄せ来るとありし時、誰をがな、加勢に差移すべきと、勝頼宣ひけれども、何れも聞かず顔してありつるに、此備中守、望みて罷移り、年来の望を達するのみならず、後世迄の契をこむる事、浅からざりし機縁かな。さて備中守、元より大酒なれば、大盞を差請け、七八盃傾け、恐入り候へども、仁科殿へ捧げ申す。信盛、盞を控へ快げに打笑ひ、年月の酒宴より、今日一入、面白く興あると覚えたり。肴はなきかと宣ひければ、備中守、御肴こそ候へとて、一尺七八寸もあるらんと覚しき脇差の、いかにもだびらなるを抜き出し、草摺を畳み上げて、小腹に突立てて、弓手より妻手オープンアクセス NDLJP:161へきりと押廻し、小山田備中守自尽其脇差を抜いて、仁科殿の御前に差置き、其身はうつぶしになつてぞ死にたりける。信盛、此脇差を取つて、あらめづらしの肴やとて、腹に突立て、十文字に搔切り給ひ、其盞と脇差を、信盛自尽小山田大学助に差され、其儘、畏まる体にて死に給ふ。大学助、此盞を取つて、差請け十盃計り呑み干し、さて脇差を取つて、胸より小腹迄押下し、北枕にぞ倒れける。小山田大学助自尽さる程に、城中に残る兵共、大将達は早や自害し給ふ。いざ切つて出で、討死せんといふ儘に、先づ我が妻子共を、悉く切殺し刺殺し、屠所の如く引き散らし、城の内に火を懸けて、切先を双べてわつといひて切つて出て、二三の曲輪迄、込入りたる敵を、大手迄切り出す。敵亦取つて返し、討たるゝ味方を蹈越え、噇といひて切つて入り、切つて出づれば込み返し、込み返せば切つて出で、城兵悉く戦死す七八度迄戦つて、若干敵を亡し、一人も残さず討死したる志、ためし少き事共なり。

 
勝頼新府中落の事
高遠の城にて、討洩らされたる者共十人計り、赤裸になりて新府中へ逃れ参じ、昨日、高遠落去の体、一々申しければ、勝頼を始めとして、各〻仰天少からず。彼の城の事は、元来堅固の地なり。楯籠る人数には、仁科五郎信盛を始めとして、小山田備中守兄弟、其外随一の兵千余人籠め置きぬ。矢楯・糧物・鉄炮・玉薬不足なければ、定めて此地にて、二十日も三十日も相支ふべし。其内に、当城の普請も漸く出来し、又軍の詮議以下、落着すべしと評定ある所に、案の外、一日・二日の内に、高遠落居の由、聞き給ひて、力を落し給ふも理なり。さては爰にて、大敵を請くべき事も大切なり。何方へも一旦引退き、北の方を始めとして、各〻妻子共を隠し置き、心安く防戦を遂ぐべしと、談合ありけれども、兼ねて支度なき事なれば、渇に莅んで非を鑿り、軍を見て矢を作ぐに異ならず。跡部尾張守申しけるは、当国には都留の郡ならでは、谿谷嶮岨にして、大敵を引請けらるべき地形はなく候。幸、小山田出羽守参上の間、召出され御尋ねあるべく候哉と、申されければ、尤もとて、小山田を御前近く召寄せられ、仰せ出されけるは、当地に於て、防戦を遂ぐべしと思へども、普請も未だ成就せオープンアクセス NDLJP:162ず。櫓の一間もなければ相叶はず。其方在所の都留の郡は、境内堅固にして、逐蓋ちくがい相応の地の由、左もあらば、郡内へ引退き、各、妻子共を差置き、敵襲ひ来らば、勝沼辺へ討つて出で、雌雄を決し一戦を遂ぐべし。然らば則ち、武田の家の興亡は、畢竟、小山田出羽守所存にある由、精しく御掟あれば、畏つて申しけるは、仰せ出さるる如く、都留の郡の事は、分内狭く候へども、諸境いかにも堅固にして、嶮道溢路を抱へ候間、輒く敵の打入るべき所にても候はず、其上味方、心を一にして、武恩の為めに身命を捨て、防ぎ戦ふ程ならば、などや御運を開かせ給はぬ事候べきやと、頼もしげに申しければ、勝頼を始めとして、諸大名并に近習の衆迄も、皆色を直し、気を詰めける人々、無剛臆気進退とは、此事なるか。さらば、小山田は先づ今日罷帰り、明日半途へ御迎に参るべきの由、仰せ合され、必ず当家一門の身命は、其方に相任せらるゝの由、御掟ありて御盞を下さる。其時出羽守、御盞を頂戴申し、三度傾けける時、勝頼、朝夕腰を離さず差し給へる伊勢光忠と申す御腰物、并に御自愛ありし奥州黒といふ馬に、金覆輪の鞍を置き下されけり。小山田、面目を播し退出す。其座に次居なみゐたる諸待申しけるは、代々御譜代の家僕、忠臣・義士余多ありとは申せども、斯かる御一大事の時は、小山田ならでは、先途の御用に罷り立たず。天晴冥加の者かなと、羨まぬ人はなかりけり。明くれば三月三日、既に新府を立ち出で給ふ。兼ねては夫馬三百匹・人夫五百人出すべしと.国中へ触れられけれども、早や一国中騒ぎ立つて、地下人悉く山野に逃げ迷ふ間、馬一匹も夫一人も来らず。こはそも如何すべきと、周章て騒ぐ事限なし。勝頼新府落去北の方も、兼ねては御輿にてとありけれども、輿舁一人も参らず。さてあるべきにあらざれば、怪しげなる夫馬一匹尋ね出し、草鞍をしき、是に打乗らせ奉る。夢なるかな。昨日迄は仮初の御方違・御物詣などにも、十丁・二十丁の輿を舁き並べ、百騎・二百騎の騎馬を前後にうたせ、巍々堂々の御粧なりしが、今斯かる御消息ありさま、御心の中、推し量られて良なり。之を見る者、巷に立つて、盛者必衰の理に、袖を絞らぬはなかりけり。其外、数百人の女房達、仮初のあるきにも、土をだに蹈まぬ足に、はきも習はぬ鞋をはき、菅の小笠を傾けて、涙と共に立ち出で給ふ。目も当てられぬ有様なり。昔、菅家御左遷の時、須磨に於て、駅長オープンアクセス NDLJP:163驚時変改、一栄一落是春秋と、作り給ひし時の御心、斯くやと思ひ知られたり。遠く異朝を尋ぬるに、安禄山潼関の軍に、官軍忽に打負けて、玄宗皇帝、自ら蜀の国へ落ち給ひし時、六軍、翠花に随つて劒閣を経しに異ならず。近く本朝を按ずるに、寿永の秋の頃、木曽義仲に攻め落され、平家の一門、悉く都を落ち給ふも。斯くやと思ひやられたり。資財・雑具は、道路に引散らし、夫に別れたる女房、親に離れたるおさなき者共が、辻々に立ち迷ひて、声も惜まず泣き悲しむ有様は、中々語るに詞なし。敵は早や、跡より追懸け来るなどと騒ぎければ、𠍒ころぶともなくたふるゝともなく、泣く龍地が原迄、歩み着かせ給ひ、跡を顧み給へば、新府城を焼く早や城には火懸り、作双べたる宮殿楼閣、只雲一片に焼上る。秦の代亡びし時、咸陽宮一旦の煙も、斯くやと思ひ知られたり。又北の方を見渡せば、年月住馴れし古府中諸士の宿所、金門銀戸・堂社・仏閣、甍を双べたる宿中見送るにも、是や限と打眺め、涙を流さぬ人もなし。善光寺を通る時、御供の男女、手を合せ、南無西方極楽世界の教主弥陀如来、本願誤り給はずば、我等を十万億土迄迎へ取らせ給へ。南無阿弥陀仏と申す声も、時に当つて哀なり。されば、御供の上臈・女房達は、敵よといふ声の恐ろしさに、只夢路を辿る心地して、是迄は漸く歩み給へども、足はかけ損じ、流るゝ血に藁沓も、朱にぞ染まりける。縦ひ、敵には捕はるゝとも、是より末へは、一足も叶ふまじとて、此木の下、彼草の上に倒れ伏し、泣き叫ぶ声を聞き給ふ勝頼夫婦の御心の中、思ひ遣られて哀なり。勝頼夫妻栢尾に到着漸く其日は、栢尾といふ山里へ着かせ給ひ、怪しげなる土民の蝸屋に、柴引結び宿らせ給ひけり。御供の人々も、木の蔭岩の狭間に、薦を張り筵を敷いて、泣き伏してぞ居たりける。楽尽きては悲来る。天人すら猶ほ五衰の火に逢へり。況んや人間に於てをや。哀なりし次第なり。
 
甲乱記
 
 
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甲乱記 
 
小山田出羽守心替勝頼最後の事
栢尾へ着かせ給ひて、待たれけれども、小山田出羽守、御迎に参らざりければ、爰は余り無用心なりとて、勝頼、駒飼に籠る夫より駒飼といふ山家へ、引籠らせ給ふ。其夜、人質とて召され置きし小山田が母、行方知れず闕落す。小山田叛逆夫れよりして、すはや、小山田敵になるといひければ、上下惑乱して、扨は郡内へ入る事、叶ふべからず。さらば天目山へ入らんとて、田野といふ所まで、辿り行き給ひければ、天目山の地下人と、甘利左衛門尉・大熊備前守・秋山摂津守合属して、甘利・大熊・秋月等逆心此地へは入れ申すまじとて、鉄炮を打懸け、矢を放つ事、軒端を過ぐる雨よりも猶ほ繁し。此はそも何とせんと、周章て騒ぐ事、中々申すも愚なり。頼む木の下に、雨漏る心地して、誰を頼み何所へ行かんとも覚えず、只呆れたる計りなり。寔に猛虎の檻に籠り、冥鴻の翅をそがれたる心地して、下々の女童などは、泣くより外の事ぞなき。去る程に、小山田は、己が館に立帰り、郡中の用心、厳重に下知をなし、路次には新関を居ゑ、番衆を置きて、更に往還を留む。抑〻此小山田出羽守信茂は、代々武田の家臣として、君恩更に少からず。信茂の平生年来は武勇をも励まし、如之、若年の昔より、文道を嗜みて、文武共に欠くる所なし。自誉し自讚する体なり。是に依つて、世俗の批判も同前にして、さりとは、文武共に已達の者なりといはれし甲斐もなく、世間之毀誉者、不善悪、人間之用捨在貧福といふ。誠なるかな、元来不当不義の人なれども、富貴に就いて、世上に称名せられし者なり。寔に窮鳥入懐則ち、狩人も赦して不之とこそ申すに、況んや、譜代相伝の主君、事危急に及んで、嬰児の乳母を頼むが如く、打頼み給ふに、一夜の程に心を変じ、還つて怨心を含む事は、何事ぞや。大行之道能摧事、若比人心是夷路也。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流也。人の心の変覆、甚だ道にあらずと雖も、小山田が今度の企、古今共に様少き事共なり。人の望む所は、オープンアクセス NDLJP:165名利の二なりと雖も、利は一日の利にして、名は万代の名なるに、縦ひ信長より、一国・二国の恩賞を蒙り、千顆万顆の金玉を与ふとも、夢幻泡影の世の中に、利欲心に義利を替ふべくや、穢き者の心中かなと、悪まぬ者ぞなかりける。世、澆季に及ぶと雖も、未だ地に堕ちず。天罰忽に当つて、勝頼生害以後、十三日と申すに、城介殿へ召出されて、押へて取つて刺殺さる。我のみならず、七十に余る老母、年頃相馴れし妻、八歳になる男子、三歳になる女子共に、皆刺殺さる。纔に十三日生き延びんとて、梟悪の名を末代に流し、嘲を万人の舌頭に残す。果報の程こそ悲しけれ。斯くて、小山田、叛逆といふよりして、朔日迄は、四五百人もありつる御供の衆、何の間にか落ち失せけん、今は百計りぞ残りける。涯分身に替り命に代らんと、忠節立をし、広言を吐きし近習重恩の者共、秋山摂津守を始めとして、悉く落ち失せけり。彼の摂津守といひし者、親は元来尾張の国の者なりしが、信玄の御時、尾州より牢人して、御扶持を蒙りけるが、如何なる善縁をや、甲州に蒔き置きけん、子孫共に繁昌す。小牧新兵衛といひし者なるが、信玄の膝下に召使はるゝに付いて、本名を改めて、秋山新兵衛と召されけり。其後、彼の摂津守を設けける。勝頼の代になりて、弥〻芳恩浅からず、是は彼の者の母、勝頼の御母堂へ、奉公申せし御妻といひし女房衆の腹より、出生したりし故にや依りけん。文もなく武もなく、欲心強盛にして、人の愁悪を以て、身を楽む不当仁なれども、数箇所の所領を給はつて、傍若無人に召使はれければ、親しき友は之に差ひ、疎む人は之を猜む。縦ひ、千騎が一騎になる迄も、随逐し奉り、御先途を見届け参らすべき者の、命の惜しさに、人より先に駈落す。実に命の捨て難くば、最後の御供をこそ申さずとも、せめて剃髪染衣の姿にもなりて、会下山林の栖をもし、亡君の御菩提を弔ひ奉るべきも、又是、一の忠孝なるに、秋山の凶悪逃げ去るさへあるに、結句敵の方へ内通して、天目山へ攀上り、此方へ取入らせ申さじと、自ら鉄炮を打ち矢を放つ事、前代未聞、人面心獣の輩なりと、嘲らぬ者もなし。主君の御罰も、対当しけるが、二十日の内に、城介殿より生害を加へられ、道路の辻に於て切殺さる。屍は路頭に横はれば、蹈越え通る行旅の客、慚愧してこそ通りけれ。斯くの如く、随分頼もしき恩顧の者共、次第々々に落ち失せて、今迄残オープンアクセス NDLJP:166る者とては、最後まで随従の忠臣土屋右衛門尉・舎兄金丸助六郎・舎弟秋山源三・跡部尾張守・河村下総守・安西伊賀守・安倍加賀守・小山田式部少輔・小宮山内膳・小原下総守・弟丹後守・秋山紀伊守・弟善右衛門尉・神林刑部少輔・多田久三、此外、大龍寺長老麟岳和尚并円首座、彼の麟岳と申すは、勝頼の近き親属たるに依つて、分国中の僧俗・貴賤、崇敬申す事、他に異なり。茲に因つて、寺門の繁昌、又双びたる禅室もなし。此芳恩を謝せんとや、此の別迄同道なり。勝頼と麟岳勝頼、大龍寺へ仰せられけるは、此難苦の内迄御見届け、中々申達し難き御芳情なり。元来、出家の御事なれば、別なる仔細あるべからず。是より御退き候て、只御情には、我等父子・夫婦の後生善所の追善を頼み奉ると、頻に仰せらければ、麟岳の御返答に、師資の盟浅からざる上、殊に門葉捨て難く候へば、此節に莅んでは、僧俗の差別あるべからず。冥途黄泉迄も同道申し、師資の契約を違ふまじく候と、無二に思ひ切つたる挨拶なり。然る所に、敵は早や近づくと動揺しければ、跡部尾張守の意見跡部尾張守申しけるは、小山田心替の上は、郡内へ御入り候はん事は、不通に叶ふべからず。如何様にも、地下人を計策して、天目山へ御入り候て、一往世間の模様をも御覧あるべく候やと、申されければ、土屋、自余の出言をも相待たず、進み出でて申しけるは、土屋惣蔵の意見若輩の申す事、出角には候へども、斯様の時は、老若に依るべからず。只、心の剛なるを以て、御信用候へ。尾張守申さるゝ様、一段未練に存じ候。斯くの如くなる無分別の御意立おんこゝろだて故にこそ、今斯様の御身ならせ給ひ、既に御家破滅に及び候なれ。よく御分別も候へ。数代の家僕小山田出羽守は、敵になり、天目山の地下人にさへ背かれ給ふ不運にては、如何なる鉄城鉄山に、楯籠らせ給ふとも、御運を開かるべしとは覚えず候。侍は死すべき所にて死せざれば、必ず恥を見るとこそ申し候へ。定めて、御存じ有るべく候。御当家の曩祖八幡太郎義家の御直文にも、侍りたる者は死死べき所を知るを肝要と遊ばされ候。御筆の跡、今こそ思ひ知られて候へ。縦ひ、小勢にてもあれ。新府中に蹈み留つて、敵寄せ来らば、命を限に戦つて、矢尽き弓折るれば、一門一所にて、尋常に御腹を召されてこそ代々の武田の名をも顕し、殊に信玄以来の武勇の程をも、残させ給ふべけれ。不当仁の小山田を御憑あつて、是まで逃げ来り、卑夫の鏃に懸りて、御一門の屍を山野に曝さオープンアクセス NDLJP:167せ給はん事、後代迄の御恥辱とは、思召されず候や。時の運に依つて、軍の勝劣はあるものにて候へば、戦つて負くる事は、更に恥に似て恥に非ず。只戦ふ可き所にて戦はず、死す可き所にて死せざるを、矢弓の家の瑕瑾とは申し候へ。或書に曰、見進不進、云臆将、見退不退、云闇将と、然れば、合戦の進退は、竟畢分別工夫に依ると存候。尾張守分別、率爾の御申しにて候。此節に位み申す事は、所詮なき儀に候へども、又胸臆に韜むも、無念にて候へば、申し出づるなり。先年、越後国に於て、景虎と喜平次と争競の刻、一両輩の面々、欲心に耽り黄金にめで、景虎に対し、不義の擬故はからひに、悪名を天下の人口にのせ、嘲弄を諸人の舌端に残す。是に依つて、相甲御骨肉の好を避け、相互に怨敵の思をなさるゝに依り、終には斯かる世の中になり果て候。御時刻到来すと申しながら、且は一両人の邪欲に依つて、今度小山田を始めとして、各〻恩顧の侍、見放し申す事も、併、此儀に依り候。敵は余所にはなきものをと、一度は怒り、一度は悲み、涙を流して申しければ、尾張守、一言の返答にも及ばず、赤面して平伏す。又去る二月、諏訪に御在陣の砌、小山田が所より御宿監物入道が方へ、小山田の詩歌

汗馬忽々兵革辰 東西戦鞍轟𨕙垠 世上乱逆依何起 只是黄金五百鈞

すな金を一朱もとらぬ我等さへうす恥をかく数に入る哉

   返事

甲越和親堅約辰 黄金媒介訟神垠 佞臣屠尽平安国 可惜家名換万鈞

うす恥をかくは物かはなべて世の寂滅するも金の所行よ

監物入道の和韻御宿監物入道方より、斯くの如き韻を和し返答に及ぶ。又如何なる者かしたりけん、跡部尾張守の陣屋の前に、高札を立てて

無常やな国を寂滅することは越後のかねの所行なりけり

いといこれ妹脊あふ夜の中ならで国に別の鐘の音ぞうき

かねゆゑに真黄に恥を大炊助尻をすべても跡部なりけり

オープンアクセス NDLJP:168斯くの如く上下万人、此乱逆は、只一両人の重欲の深き故なりと、各〻批判す。古人云、義勝欲則栄、欲勝義則亡。又欲変じで万般の禍となると、古賢の遺誠、明鏡なり。帝範に曰、叢蘭欲茂秋風破之、王者欲明議人蔽之と、信なるかな。勝頼、随分正直・廉潔にして、慈悲第一の大将なり。勝頼の不明然れども、臣下の奸曲を知り給はざりければ、其禍、果して国家に及ぶ。国を保ち家を安んぜん大将は、家臣の忠・不忠を知り、賢・不肖を知り、賞罰厳重にして、理非分明ならん事是第一なり。然る所に、早や小屋の地下人、悉く逆心す。跡より敵は追詰むる。是は籠の内の鳥、網代の氷魚にして、遁るべき方もなければ、爰元に於て御自害あるべきに議定せり。是に依つて安西伊賀守・秋山紀伊守を御使として、北の方へ申させ給ふ様は、一門運命、今日を限の御事なり。女房の御身なれば、御自殺に及ぶ可からず。幸、是より小田原へ順道も宜しく候へば、如何にもして送り届け参らすべく候。年月の程、思召忘れずば、我等が後世菩提を弔ひ給ひ、貞女の心を失ひ給ふなと、細々とぞ仰せ遺されける。北の方、此由を聞き給ひて、さても、是程にうたてしき事をば承るものかな。前世の縁浅からざれば、夫婦の契是深し。同じ木蔭に宿り、同じ流を汲むも、他生の縁とかや。篠の一夜の情にだにも、命を捨つ。捨てらるゝは、妹背の中なるに、増してや申さん、相馴れ参らせて、今年早や七年になると覚えたり。縦ひ小田原へ越えたりとも、おくれ先立つ世の習なれば、御身は末の露と消え給はんに。自らは、本の雫と残りても何かはせん。元より夫婦は、二世の契と申せば、爰にて共に自害して、死出の山・三途の川とかやをも、直に手に手を取組みて渡り、後の世までの盟をこめんこそ、本意なれとて、少しも御退き給はん色はましまさず。其後、御局を近づけて宣ひけるは、年月は、男子にても女子にても、一人の子のなきことを、我も人も悲み、神や仏に祈を懸けつるに、今はようぞなかりつる。幼き者などあらば、猶一人のものおもひとなるべきにと、かき口説き語り給ふぞ哀なる。縦ひ子はなしとも、なからん跡をば、定めて小田原にてぞ弔ひ給ふべき。如何様にも、古郷へ文を越したく思ふとぞ、仰せられける。さて御供の衆も、此方彼方にて、皆落ち失せ、是ま迄、早野内匠助・劒持但馬守・清六左衛門・同弟又七郎計りなり。彼等を召し寄せられ、仰せ出でオープンアクセス NDLJP:169られけるは、各〻散々になり行く所に、面々是迄御供申す事、如何計り嬉しく御召さるるなり。迚もの事に、小田原へ御文を越したく思召す。如何にもして届け参らせよ。御最後の御供申したるよりは、いか程嬉しくあるべしと、打頼ませられければ、彼者共、涙を押へて申しけるは、妻子を捨て、此際まで御供申す事は、御最後を見届け申さん為めなれば、是より罷帰る儀、努々あるまじきなりと、頻に申上げければ、是より小原田へ返す事、別の仔細にあらず。女の身なれば、如何なる所、如何なる形勢にて、空しくなりたらんと、各〻思召すべければ、此最後の体をも知らせ申さん為め、又早雲寺より、代々弓矢の家なれば、女ながらも、きたなき自害はなかりつると、皆々へよく申上ぐべしとて、御文認めて渡し下されければ、彼の四人の者共、力及ばず、御文を請取り申しけり。此御文の上巻うはまきに、髪少しきり、巻き添へさせ給ひて、御歌あり。

   黒髪の乱れたる世ぞはてしなき思に消ゆる露の玉の緒

斯様に遊ばされけるとぞ承る。彼の四人の内、劒持但馬守申しけるは、旁々は御意に任せ、小田原へ御文を持参申さるべし。我等が事は、御最後の御供を申すべし。せめて一人なりとも、御供申さゞらんは、相州への聞えも、余りにいひ甲斐なく思召すべければ、但馬守こそ、よく御供申しつれと、妻子共に語り給へとて、各〻同意に討死しける心操、誉めぬ人こそなかりけれ。斯くありける所に、勝頼公より御使あり。御座所へは、鉄炮しげく参り候間、少し引き退きて、岩陰にまし候へとの御使なり。北の方、仰せられけるは、身を惜み命を惜む時にこそ、矢・鉄炮をも厭へ。一時も早く消えばやと思ふ露の身なれば、岩陰に隠れても、何かせんとて、立去り給はず、思召し切らせ給ひたる様体、御女房ながらも、寔に強健なる御心中かなと、兵共弥〻勇み進みけり。然る所に、敵は早や細き橋のあるに渡り、二三騎懸り来る。土屋右衛門尉、真先に立塞り、二人張に十二束、よつびいひてしばし堅めてひやうと放つ。矢坪は少しも違はず、胸板より、後の総角の金物際迄射出し、矢先、白々と見えしが、馬より真倒に噇と落つ。夫に続きたる兵等、土屋を目懸け走寄りければ、二の矢を番へて放つ。是も甲の真向に㗶咤と中れば、橋より下へぞ落ちたりける。オープンアクセス NDLJP:170土屋右衛門尉以下の奮戦其後、土屋は差詰め引詰め、散々に射ける間、矢庭に究竟の武者十七八騎射落し、矢種尽きければ、太刀押取つて、二三百騎控へたる真中へ、面も振らず切つて入る。土屋に続く侍には、安西伊賀守・小山田式部丞秋山源三・小宮山内膳、其外、名を金石に類へ、命を塵芥に比する兵共、今日を限の戦なれば、身をなきものにして、切つて廻る有様は、漢・楚八箇年の戦を一時に集め、呉・越三十度の軍を百倍せり。纔の小勢なりしかども、死狂ひをする軍なれば、数千騎の敵を、東西南北へ切り散らす。爰に又、勝頼の嫡男太郎信勝、生年十六歳となり給ふが、勝頼に立双び、切つて廻り給ふ風情は、只籬の花に戯るゝ胡蝶の如し。斯くある所に、あやなくも、いづくより放つ鉄炮にてかありけん。信勝の負傷股の辺に中りければ、其儘、父勝頼の御前へ参り、我等は手負ひて候なりと、申させ給ひ、名残惜しげに立ち給ふを見て、勝頼宣ひけるは、一人死にて、一人残る浮世ならばこそ、後会其期の遅速もあるべけれ。我も汝も諸共に、今日討死すべき命なれば、何か名残の惜しかるべき。痛手ならば、其にて腹を切れ。薄手ならば、敵の中へ切つて入り、討死を極めよと、諫め給へば、相心得候とて、又切つて出で給ふ。信勝の奮闘今度は大龍寺と御供申さんとて、麟岳と同心に切廻り給ふ有様は、昔、奥州衣川にて、義経の下知として、弁慶が軍しつる勢も、斯くやと思ひ知られたり。猛勢の敵を、縦横無礙に追捲り、表に進む兵を、四五騎切つて落し、又本の所へ引退き、暫く息を休め給ふ。麟岳、各〻に向つて宣ひけるは、今日信勝殿の御働、中々目を驚かし申すなり。古の源九郎義経・木曽義仲の振舞も、是に替るべけんや。遖、能き大将軍にて渡らせ給ふものを、御果報の程の拙さよと、さめと泣き給へば、之を聞きける勇猛の士、気を失ひて、鎧の袖をぞ濡されける。太郎殿見給ひて、皆臆したるか。旁々は、松樹の千年も終には是朽ちぬ。槿花一日の栄も、同じ事なり。百年の歓楽を極めんも、又信勝が十六年の齢も、思へば夢の戯なれば、全く命惜むべからず。只妄念ともなるべきは、新府中に蹈留つて、信長を待請けて討死す可きものを、臆病者共の意見に依つて、是迄逃れ来り、野人の手に懸り、屍を山野に曝す事こそ、何より以て口惜しけれ。賊徒の手に懸らんより、麟岳と差違へば、信勝自尽冥途迄の導引を憑み奉らんと、互に脇差を抜き持ち、刺違へてぞ死にオープンアクセス NDLJP:171給ひける。河村下総守は、信勝御幼少の時より、奉公申せし御因なれば、河村こそ御供申し候へとて、腹十文字に搔き切つて、御死骸に抱き付きてぞ、伏したりける。君臣の礼儀浅らずと、誉めぬ人こそなかりけれ。河村下総守の殉死去る程に、北の方は、大手に軍始まると聞き給ひてより、西に向つて、念仏高らかに百遍計り申させ給ひ、勝頼は、何所におはするぞ。自らは早や自害申すなり。急がせ給へ。待ち申すなりといふ御声を、最後の御詞として、氷の如くなる脇差を引抜きて、御心元に突立て、又二言とも宣はで、衣引きかつぎふし給ふ。勝頼の室自尽君一日之恩妾百年之身とは、斯様の事をや申すべき。さて御上臈、之を見て、自らも御供申すなりとて、我と笛を突通し、北方の御足に取りつきてぞ死し給ふ。斯かる所に、勝頼は敵四五人に渡り合ひ、前後も知らず戦ひ給ふ所に、秋山紀伊守、走り参りて申しけるは、御前は早、御自害候と申しければ、さらばとて取つて返し、北の方の伏し給ふ枕元に立寄り、衣引除けて御覧ずれば、雪の如くなる御膚、はや血に染まり、紅顔翠黛御粧も、何の間にかは色消えと、槿の露萎れたる風情にて伏し給ふ。昔楊貴妃、馬嵬が原にて、安禄山が為め殺され給ふ時、かんざし、地に落ちたりしを、見給へる玄宗皇帝の御悲も今、身の上にしらせ給ふ。勝頼の御心中、思ひやられて哀なり。流石、強健勇将の勝頼も、又二目とも見給はず、涙に暮れ心の乱れ給ふも理なり。良〻ありて、落つる涙を押へて、御髪を我が御膝の上にかき上げて、生きたる人に物をいふ様に、さても此乱、不慮に起りつれども、さりともとこそ思ひしに、終に立て直さずして、頃の襟さへ、如何計り浅ましく思ひしに、竟には懸る泪に沈みて果てさせ給ふ事こそ悲しけれ。不運なる者に相馴れて、悪縁にひかれ給ふも、前世の宿業なれば力及ばず。暫く御待ち候へ。死出三途をば、我れ手を取つて、引越し参らせんとて、北の方の御腹につき立て給ふ脇指の柄も身も、あけに染りたるを、衣のはしにて押拭ひ、白く清げなるを膚押しはだぬぎ、勝頼自尽腹十文字に搔破り、腸を抓んで四方へ投げ捨て、北の方と同じ枕に伏し給ふ。誠に不生不滅の心とは申しながら、又一念五百生、繋念無量劫の業なれば、泥犂の底迄も、同思の炎にや焦がれ給ふらんと哀なり。斯くて小宮山内膳、走り出でて申しけるは、大将は早、夫婦共に御自害候。誰が為めに、軍をばし給オープンアクセス NDLJP:172ふと喚ばはりければ、土屋・安西之を聞いて、人切つたるが面白さに、大将の御供に逃れけるこそ口惜しけれ。いざや旁々、最後の一軍して、腹切らんといふ儘に、猛勢の中へ切先きつさきを双べて切つて入り、万人死して一人残り、万師破れて一陣になる迄も、一足も引くまじき戦なれば、屍は戦場に横たはり、血は流れて溷漉の川を作す。寔に帝釈修羅の闘諍も、是に過ぎじとぞ見えたりける。元来今日を限の軍なれば、一人も残らず討たれにけり。天正十年三月十一日、如何なる日なれば、新羅三郎義光より以降、廿八代の後胤大膳大夫勝頼公の代に当つて、武田の一門、悉く亡び果て給ふ窮運の程こそ、不思議なれ。

 
武田相模守最後の事
武田相模守信豊は、勝頼と竹馬の昔より、一家の内にも、別して盟約を厚くし合体し給ふ。玆に依つて、勝頼政務の内も、万事、只彼の相模守の計らひたり。然る間、分国中の貴賤上下、勝頼同意に執し申す事、他に異なり。既に明日、新府を引退かるべきに、議定しける時、勝頼、相模守を喚び給ひて、宣ひけるは、年来、信州の儀を、信豊へ譲与せしむべき其企ありながら、兎角して遅延す。時節に莅んで所詮なくは候へども、信州を一円に与へ申すなり。早々、信濃へ越えらるべく候。佐久郡小室の儀は、然るべき堅固の城郭といひ、殊に上州の小幡上総介は、其方属縁たり。又信玄の代より、忠臣の人なれば、今以て異儀あるべからず候。彼の在所の儀は、信州に隣り候間、小幡・真田・内藤を始として、佐久郡の人衆召具せられ、急ぎ小室へ相移られ候へ。万一信長、勝頼が跡を求めて、甲州へ乱入に付いては、上信の人数を催し、後詰の備を頼入候の由、堅く御諚なり。其時、相模守申されけるは、信州の儀給はり置き候事、先づ以て、今生の本望後生の思出、何事か之に如かんや。但し当家の運命、尽き果て候はゞ、縦ひ、信州へ罷移り、上・信の人衆を催促し候とも、士卒の心和せずんば、労して功なく候。只何方いづかた迄も御供申し、御一大事を見届け、天運の程を相待つべく候。努々罷越すまじきの由、強く御返答候処、重ねて勝頼宣ひけるは、芳情の所は感悦せしむと雖も、一門一処に落ち行くべき事は、計略の少きに似オープンアクセス NDLJP:173たり。枉げて勝頼下知に、任せられ候へと、再三仰せられける間、信豊、此上は力に及ばず、兎も角も下知に応ずべきの由、領掌あつて、上信の人衆召連れられ、佐久郡へ越え給ひけり。さて小室へ、使者を以て仰せ届けられけるは、当国の儀、勝頼より給はり置き候。証文歴然に候間、先づ其地へ相移るべきの由、仰せ遣され候所に、下曽根返答申しけるは、御下知に於ては是非なく候。尤も御移り候へ。本城も相渡し申し、我等は二三の曲輪へ罷出づべきの由、相違無き返事なり。彼の下曽根、内々逆意を含み、下曽根逆意偽りて申しけるを、信と頼まれける事、是相州の運命の尽くる所なり。既に小室の根小屋迄、打詰めらるゝ所に、更に城を渡し申すべき模様はなく、剰へ、逆心の企、露顕しける間、信豊、各〻に向つて宣ひけるは、下曽根相偽つて申しけるを、信用せしめ是迄来る事、偏に信豊が窮運の至なり。所詮、命を白刃の上に縮め、怨を黄泉の下に酬いんにはしかじ。とても遁れざる所なり。さらば、城中へ攻入り、尋常に討死を極めよと、下知し給ひ、信豊、真先に進み給ひける間、葛山右近・甘利右衛門を始として、義心金石の兵共、切先を双べて切つて入る。城中の者共、俄の事なれば、周章て騒ぐ事限なし。爰の坪の下彼の内へ、迯げ迷ふ者共を、追詰め追詰め切殺し突殺し、数百人討捨て給ふ。下曽根逃走下曽根も逃げ口を失ひて、堀谷をころび落ちてぞ、逃げたりける。此相模守は、元来武勇に於ては、武田一門の内にも、無双の猛将たりしかば、信玄以来、毎度手柄を顕し、度々の高名、世に隠なし。既に最後の軍なれば、更に近づく敵、一人もなし。築地の隠、へひの下より弓・鉄炮を調そろへて、鉄炮ずくめにぞ放ちける。信豊自尽信豊、無類の勇者なりと雖も、其身鉄石ならねば、痛手七八箇所負ひ給ひけり。迚も助かるまじき程を知り給ひて、腹十文字に切り、浅間の畑と消え給ふ心中の程こそすさまじけれ。
 
武田の一族家僕の面々生害の事
大敵襲ひ来ると聞けば、一族家老の衆、一味同心して、一所に蹈留つて、大将を囲み防ぎ戦ひ、其上、箭鋒尽き果てば、皆一同に腹を切つて、代々の武恩をも謝し、武名を後代迄も残してこそ、君臣の礼儀もあるべきに、心々思々に逃げ散じ、或は他州オープンアクセス NDLJP:174の溝壑に、屍を曝すもあり。或は降人になりて出で、非職・凡下の手に懸り、家名を白骨の上に失ふもあり。寔に、無運の尽き果つる程こそ悲しけれ。先づ逍遥軒信綱は、甲州鮎川原にて討たれ、一条上野介信龍は、同州市川にて討たれ、葛山十郎信貞并に小山田出羽守信茂は、善光寺にて刺殺され、今井肥前守・子息総一郎・岩手右衛門尉は、甲州南山にて誅せられ、今井左近大夫・山県三郎右衛門尉は、郡内に於て討たれ、加藤丹後守父子三人・小山田掃部助・同佐渡守は、武州に於て討たれ、今福築前守は、高遠にて誅せられ、大熊備前守・朝比奈兵衛大夫・諏訪越中・同名伊豆守は、諏訪に於て討たれ、日向大和入道・同子息次郎三郎は、其身の在所村山に於て自殺す。朝比奈駿河入道は、駿州蒲原にて討たれ、今福丹波守・同息善十郎は、同州村松にて自殺す。同刑部右衛門は、甲州小尾をひに於て討たれ、甲州古府中に於て生害の衆、曽根河内守并に老父上野入道・同子息掃部助・釣閑斎・同子息長坂筑後守・左衛門大夫長延寺・跡部越中守・秋山摂津守・同老父万可斎・市川十郎右衛門、斯くの如く在々所々に於て、鵜鷹の𩚵ゑばを打つ様に、対殺さるゝと雖も、人の敵を執らずして、骸骨を路径に曝し、嘲哢を末代に残す。無念なりし次第なり。此外、武田の氏族并に近習の衆、生きたる甲斐はなけれども、偶〻命を助かる侍も、身命の保ちがたさに、或は心に赴かず発心して、濃き黒染に身を窶し、一鉢を手に持つて、行脚に出づる人もあり。或は商人に姿を替へ、運流を肩に県け、荷懸駄かけだに鞭を打行く人もあ様々、形を窶し様を変へ、古郷を離れ妻子を捨て、逆旅に赴く分野は、浮雲の富貴忽ちに、蟻穴の夢と醒めにけり。是等は、せめて行き慰む方もありなまし。物の哀を留めしは、捨置かるゝ妻子・男に別れたる後室・子に後れたる老母の体、中々申すも愚なり。誠に杖柱とも頼みたる妻や小供は、自ら秋の木の葉の散りに、己が様様成行くは、世を浦風に離れたる海士の拾舟よるべなく、身の置処のなき儘に、露の緑を打憑み、深山の奥に忍びつゝ、隠れてありける者共を、爰の山より掲捕り、彼所の谷より引出し、年頃も盛に、姿もさもありぬべきをば、邪見放逸なる者共が、押へ捕つて妻になし、貞女の心を奪ひければ、王昭君が胡国の夷に捕はれしに異ならず。又富貴の中にかしづき立てし子息をも、不当放埓なる者共に、奴婢従の如くに駈け使はオープンアクセス NDLJP:175れ、黄頭郎が悲をなす。齢も傾き盛も漸く過ぎ行く女性をば、財を皆奪取り、其儘虚空に追出す。爰に四十余の女房ありけるが、是も左もありぬべき人の、妻か母にてあるらんか。年月召使ひし下人共は、一人も身に添はず、財宝は悉く取尽され、衣裳だに剥ぎ取られければ、膚を隠すべき様もなく、一日の露の命を助かるべき体もなし。只身を離れざる者とては、七歳になる男子と、三歳になる女子と計りなり。暫が程は、善光寺の縁の下か、上条の地蔵室のはたりを、泣き明し呼び暮しけるが、早や食事を断つ事、二三日に及びければ、斯かる浮世に存生ながらへて、さのみに物を思はんより、急ぎ命を捨草の、花咲くことのあるべきかと、惜しからぬ世なりせば、仮の宿に仮初も、心を留めて何かせんと、只一筋に思切り、憑を懸けし弥陀仏、迎へ取らせ給へと、西に傾く有明の月の名残と諸共に、二人の子供を先に立て、泪と共に迷ひ出で、笛吹川にのぞみつゝ、男子を後に負ひ、女子をば前に抱きて、南無阿弥陀仏と唱ふる声共に、深淵の中へぞ飛び入りける。斯くの如く相果てたる者共、其数を知らず。数楽極兮哀情多と、武帝の秋風の辞の末、今こそ思ひ知られたれ。当国の事は、六十年に余り、七十年に及びて、富貴国豊なりしかば、乱世といふ事は、余所の事にのみ聞きなし、殊に信玄の代には、隣国他郡を攻め靡け、隣の宝を取入れ、男女牛馬を追捕して、如何計り他の人民を苦ませし其酬、忽に来り、今度不慮に乱逆の世となりて、貴きといひ賤きといひ、共に此愁に逢へり。悲いかな義を守り討死を遂げし義臣は、長く修羅の奴となりて、多劫の間、苦を受けん。傷いかな戦死を免れし敗卒は、飢寒の歎を身に請けて、今生より餓鬼道に流転す。現世・未来共に、此苦患、身を責むる過去因果の程こそ悲しけれ。過去の因を知らんと欲せば、其現在の果を見て道理を分別し、又世上の盛衰を勘弁したる輩は、此逆乱を幸、然るべき善知識と覚えて、永く厭離穢土を出で、寂莫無人の扉を閉ぢて、傾求浄土の外、他事なく亡君の菩提を弔ひ奉るもあり。又煩悩の綱に繋がれ、穢土を未だ離れざる族は、利欲を求めて、貴人・高人に嬌諂し、世上を貪つて、生涯を断送せんと企つるもあり。各〻不同なり。百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の宝なれば、何を是とし何を非とせん。万事人間一夢の中なれば、是も亦可ならんか、其も亦可ならんか。
オープンアクセス NDLJP:176
 
恵林寺炎滅織田信長の事
恵林寺甲斐国謙徳山恵林寺と申すは、貞和年中の頃、征夷大将軍尊代卿御建立、夢窓国師の開闢の梵場なり。殊に近年は、武田徳栄軒信玄墳墓の地として、七堂伽藍再造、悉く事終つて、金を鏤め玉を琢き、善尽し美尽す。堂塔に頭甍を双べたり。頃の住持をば、快川和尚とぞ申しける。信玄逝去の時、乗煆の導師なれば、勝頼尊敬の上は、貴賤上下答拝し奉る体、釈尊出世成道の如し。殊に去年、帝都より天子震翰の綸旨を成し下され、大通智勝国師と号せらる。彼の国師号の事は、近年断絶の所、此和尚、快川和尚の大善知識絶えたるを続ぎ廃れたるを興し、寔に仏法繁昌、福智円満の大善知識かなと、世間の渇仰、耳目を驚かせり。然りと雖も、時の横災をば遁れ給はざりけるにや。恵林寺炎滅今度甲乱の刻、悉く炎滅せしむ。其濫觴を尋ぬるに、川尻与兵衛所より、使者を以て申し達せらるゝは、今度勝頼父子生害せしむる所、理なくして死骸を取り、追善致さるゝ事、次に江州佐々木中務大輔并に上使成福院・大和淡路守、寺中に隠し置かるゝ条、奸謀の事、次に寺家へ小屋銭を懸けらるゝの条、欲心深き事、右三箇条、沙門の本意に背かるゝ段、甚だ以て軽からずと述べられけり。国師御返答には、勝頼父子の事、当寺の檀那、殊には国主たるによつて、遺骨を拾ひ追善いたす事、又佐々木中務・井上使、衆中に隠し置くの由、又小屋銭の事、愚僧全く存ぜざるとの御挨拶なり。使者申しけるは、さらば、寺中をさがし申さんといふ。尤も掲し候へとありければ、武士、寺中へ執り入り、さて御出家は、各〻山門へ上り給へと申しければ、信と心得、国師を始め奉り、我もと上り給ふ。喝食若衆達迄、悉く上りけり。快川和尚以下焼殺さる其後、梯をはづし、門前よりも草屋を壊ちて、山門の下に積み重ね、それに火を付けたりけり。猛火、次第に焼上りけれども、国師は少しも騒ぎ給はずして、長禅寺の長老高山和尚に問うて曰、三界無安、猶如火宅何所廻避。答曰、覿面露堂々。又問、作麼生是堂々底。答曰、滅却心頭火自涼。快川和尚の態度其後国師は、結跏趺坐又手当胸して、綿密の工夫の外、更に他事なし。其外、若僧達は刺違へ、炎の中へ飛入つて、死するもあり。或は柱に抱き付きて、其儘焼死するもあり。或は五人・三人抱き合ひて、共に死オープンアクセス NDLJP:177するもあり。又喝食若衆達は、出家に取付きて、喚き叫ぶ有様は、焦熱・大焦熱の炎の罪人も、斯くやと思ひ知られたり。前世の業因をば、如何なる有知高僧の尊宿も、遁れ給はざりけるにや、哀なりし次第なり。焼静まりて後、此焼骸を数ふるに、国師を始として、紫衣の東堂五人・黒衣の長老九人、総じて僧達七十三人・少人十一人、以上八十四人、焼炭の如くなる死骸、是に重恵せり。折節、魔風烈しく吹き立てければ、仏殿・僧堂・庫裏・客殿・総門・鐘楼・廊閣・衆寮・東司に至る迄、一宇も残らず、一炬の焦土となりて、千仏泥土に混じ、万巻風雨に翻る体、更に短筆に述べ難し。其胸四海を呑み、舌九河を巻く信長も、亦因果の感ずる所の者遁れざりけるにや。恵林寺法滅以後、未だ百日に満たずして焼滅し、川尻も没命すとぞ聞えける。此の起る所を精しく尋ぬるに、去春信長、太刀を抜かず大弩を発せず、甲・信・駿三箇国を、纔三十日の内に手に入れ、則ち帰洛あつて、弥〻武威巷夷に雷動す。然る所に、信長の甥織田七兵衛といふ者あり。彼の舅明智十兵衛といふ者あり。此両人密談せしめ、不慮に逆意を顕し、稲麻竹葦の如く、信長の館を取捲き、四方より兵火を放つて、一人も洩さず、悉く焼殺すとぞ聞ゆ。抑〻此信長は、武衛の家として、尾張国清須に一城を守り、纔かの所領を知行せしが、如何なる生前の果報ありてか、一期の間、栄華を極むるのみならず、位四品を超え、三公に列し、殊に威風を、天下に発すべき善苗にてやありけん。去る永禄三年の夏の頃、今川義元を討取つてより以降、濃州の一宮・江州の六角・越州の朝倉、其外、五幾・七道の諸大名并に隣国・他国の諸士・比叡山・大坂迄没倒し、又今度武田の一門、悉く退治せしむ。然れば則ち、海内に於て誰ありてか、信長に向つて、鋒を帯し楯突くべしと思ひしに、禍藩籬の内より出で、信長・信忠・信房父子三人共に堕命す。獅子一吼すれば則ち、百獣悩乱すと雖も、死すべき時刻到来すれば、身中の虫、獅子の肉を食ひ破ると聞く。其の如く、信長も亦、正しき猶子に殺され畢んぬ。然れば織田七兵衛は、叔父乍らも父の敵たるに依り、信長を討つて、累年の宿望を散ず。明智十兵衛は、主君乍ら遺恨あるに依つて、信長を弑し、往年の本望を達す。然る所に、信長の息伊勢の国司織田三七并に柴田修理亮・羽柴筑前守已下相談して、件の七兵衛・十兵衛に対し、劒鋒を動かし合戦に及ぶの刻、天繾廻避すオープンアクセス NDLJP:178るに所なく、彼の両人共に闘諍して死亡す。去る程に、国司三七両将は、父兄の怨を誅し、則ち亡父の追善に備へらるゝ孝行の程こそ有難けれ。さても有為転変の世といひながら、武田勝頼は信長に亡され、信長は七兵衛明智に滅され、七兵衛・十兵衛は、国司三七に罰せらる。譬へば、天を仰いで唾を吐くが如く、我れ人を亡せば、人又我を害す。まことに因果は車輪を廻らすが如し。或人の連歌に、

   むくいのほどをたれかのがれん

とありしかば、

   草枯らす霜又今朝の日に消えて

と付けたりとかや。待言句を待つに及ばず、因果歴然の道理、彼の両句の趣向に明らけし。兎に角に、有待の壊身の習、誰か生者必滅の理を歎かざらんや。卵生・胎生・湿生・化生含霊の属、何れか死を免れん。斯くの如く目前の境界を見ながら、或は驕を窮め或は欲を恣し、天道を恐れず、人中を親まず、後生善所を願はず、未来の苦患を思はず、徒に雅意に狂ひ、光陰を送る事、浅ましからずや。恐るべし。恥づべし恥づべし。

 

附録右、甲乱の始終、愚眼に見聞く所も、兼ねて高坂弾正が、若輩の我等に語り聞かせる所、十の内、八九は当れり。其故は、勝頼公の御心底、諸士の御使なされ様、軍の備に到るまで、古信玄入道殿に、前後相違せり。故殿は、治まりたる時は、文を以て弥〻掟を正しくなさる。これ全く世間に翫ぶ文にあらず。此文の心をよく会得せば、死に到る迄、弓矢に不義の名を取らじ。吾が家の事のみにあらず。弓箭に携はる程の者は、心懸に依つて、之を知るべしと、故殿、常々夜話の次に語り給ふ。誠に末代にも有り難き大将かなと、御物語りの度々、魂を驚かし侍る間、万代武家の重宝と思ひ、汝に語るぞと、高坂物語り申し候間、跡先続かず候へども、覚を有増あらまし書付げ申候。

 

  △治まりたる世には、文を以て弥〻治むといへり。

文者聞也  非書語  文之備色  方岡之陣取○

オープンアクセス NDLJP:179八陣に記す方岡と、形は一にして心は天地を隔つ。此心を以て、新地に城をも取り、縄張をもなされ候也。

  △乱れたる時は、武を以て速かに治むといへり。

此武といふに付いて、種々の兵論を遊ばさる。故殿、山本勘介といふ名誉の兵を、天文十三年三月十二日に召抱へられ、則ち其夜、御席近く召寄せられ、馬場・高坂を相伴として、其御席にあり。其時、信玄宣はく、斯様の事申し出すも、人をかしく思ふらん。併、侍は身貧にしても、先祖の功をあげていふを、武家の名誉とす。今某身不肖なりと雖も、曩祖八幡殿より、遂に絶えず継ぎ来る家に、恥辱をつけざるは、尤も当家の崇神八幡大菩薩の御加護と存じ、旦夕昼夜に、心を責め、悪を憎み正をたゞし、家の子・郎等を思ふ事は、我が手足よりもまさり侍り。其故は、吾が身手足不調ふとゝのひにしても、よき郎等を持つ時は、心にかなはぬ事なし。是に付けても、吾が心といふもの程、重宝なるもの、外に何かある。能き郎等を竟むるも、心より発り、国を治め民を服するも心にあり。漢の高祖も、囘天の力ありと宣ふも、心の会得と見えたり。又心は信なり。仮初にも、偽を以て家子・郎等・親類・朋友と交る時は。天の責遁るゝ所ある可らず。併、敵に向つての偽は偽に似て偽にあらず。敵の非常を、策を以て討ち、万民を安くせんが為めなりと宣ふ。其後一巻の書を披きて、各が前に差置き、又宣ふは、勘介は新参といひ、今夜初といひ、旁〻用捨すべき事なれども、予が愚なる眼にても、見所あるにより、旧功の者に劣らず思ふ程に、苦しからぬぞ。見よとの上意にて、各〻謹んで頂戴仕り、拝見仕るに、諸方への御備の行、粗〻記し給ふ。

     △越国の謙信公と御合戦の時は、大だゝい、

 春日の備、椿日大明神を表す、

 先、推斧備〈[#図は省略]〉大将陣​御跡​​馬立​​不馬​

 一、風を見切る事

 一、武略なしの事

オープンアクセス NDLJP:180 一、陰を陽に開き治むる事

     △風を見切る事

北は寒風を主り、南は暖風を主る。春夏秋冬の心得あり。

     △武略なしの事

此武略なしといふ事につき、種々の兵論を遊ばされ候。既に北越の謙信・甲陽の信玄とて、鳥の両翼・車の両輪の如くなる大将として、さし定まる武略は、敵も味方も、手馴れし所なり。然れば見及の策は、武略と少し心替ると、物語りあそばされ候。能く感じて知るべきなり。

     △陰を陽に開き治むる事

天地陰陽、物毎に渡る事、人畜共に知る所なり。爰にいふ陰陽は、機前にあり、尤も時の変化に、数多の品あり。然りと雖も、一の当る流を勘へ戦ふこと第一なり。

     女〈[#図は省略]〉

 △上方信長公は、巴の陣を心よくなされ候に付、其心得あり。

      〈[#図は省略]〉

右の備の時は、二の備大切なり。

      〈[#図は省略]〉 先△遊軍​△遊軍​​ ​​△遊軍​○本陣

 △徳川家康公は、小囘よくなされ候に付、其心得あり。

      〈[#図は省略]〉

信玄公曰、家康は年も若輩にして、しかも小身なりと雖も、信長には遥に優り、第一利直を専に嗜む大将なりとて、一入念を入れ給ふなり。

右の備の時は、戦を治め備を堅く守る口伝なり。

此物語は、高坂、日頃は殊更に秘蔵して、終に口外に出さず。まして書留め置くこともなかりし。然るに勝頼公、其家を継ぎながら、故信玄入道殿の遊ばされやうをオープンアクセス NDLJP:181も結句手ぬるきやうに仰せられ、大悪・大佞・大欲無道のものの申す事を、よきと心得、分別工夫をも少しは弁へ、信玄公の御時より、物毎に念を入れたる家老共は、なきが如くになされ、御側へも寄せられず、我儘なる御働故、武田の御家運、此四郎殿にて尽きし事、前業のなす所とは申しながら、誠に本意無く存じ、紅涙抑へがたく如件。

 ​高坂弾正内​​   春日総二郎​​ ​

 
甲乱記大尾
 
 

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