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田村麻呂伝

 
オープンアクセス NDLJP:17
 
田邑麻呂伝
 
大納言坂上大宿禰田邑麻呂者、出前漢高祖皇帝、廿八代至後漢光武皇帝、十九代孫孝霊皇帝、十三代阿智王、率一県同姓百人、出漢朝本朝、応神天皇二十六年也、有勅、給大和国檜前地之、一名英智王、阿智王十一代孫贈大納言勲二等苅田丸之二男也、宝亀十一年将監、延暦十四年、征夷将軍正四位下近衛中将越後守、同年二月、兼木工頭、同二十年十一月、叙従三位、同二十二年二月、任刑部卿〈中将如元、〉同二十三年正月、補陸奥出羽按察使、同二十四年、任参議、弘仁元年、叙正三位、任中納言、同年九月、任大納言〈先此兼近衛大将、今如元〉同二年五月二十三日薨、于時年五十四、即日賜絁六十九疋〈常例五十九疋、更加一十疋、〉調布一百一段、〈常例、〉商布四百九十段、〈常例三百九十段、更加一百段、〉

米七十六斛、〈白米三十八石、黒米三十八石、常例五十一石、更加二十五石、〉役夫二百人、〈左右京各五十人、山城国愛宕郡百人、〉栢原天皇第八皇子葛井親王者、大納言女従四位下春子女御之所生也、仍殊加賜之、天皇不事一日、同五月二十七日、大舎人頭従四位下藤原朝臣縵麻呂、治部少輔従五位下秋篠朝臣全継、就大納言第、読贈従二位宣命、同二十七日、葬於山城国宇治郡栗栖村〈今谷呼為馬背坂、〉時有勅、調備甲冑兵仗釼鉾弓箭糒塩合葬、向城東窆、即勅監臨行事、其後若可国家非常事、則件塚墓、宛如皷、或如雷電、爾来蒙将軍号而向凶徒時、先詣此墓誓祈、大将軍身長五尺八寸、胸厚一尺二寸、向以視之如偃、背以視之如俯、目写蒼鷹之眸、鬢繋黄金之鏤、重則二百一斤、軽則六十四斤、動静合機、軽重任意、怒而廻眼、猛獣忽斃、咲而舒眉、稚子早懐、丹欵顕面、桃花不春而常紅、勁節持性、松色送冬而独翠、運策於帷帳之中、決勝於千里之外、武芸称代、勇身踰人、辺塞閃武、華オープンアクセス NDLJP:18夏学文、張将軍之武略、当轡於前駆、蕭相国之奇謀、宜鞭於後埀(乗イ)      終

  明治三十四年十月校了

 
 

この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。