コンテンツにスキップ

血盟団事件判決文

提供:Wikisource


判 決

無職、日召事井上昭(当四十九年)

無職     古内栄司 (当三十四年)

無職     小沼正  (当二十四年)

無職     菱沼五郎 (当二十三年)

無職     黒沢大二 (当二十五年)

東京帝国大学法学部学生四元義隆(当二十七年)

無職池袋正釟郎(当三十)

東京帝国大学文学部学生久木田祐弘 (当二十五年)

東京帝国大学法学部学生田中邦雄(当二十六年)

国学院大学神道部学生須田太郎(当二十七年)

京都帝国大学文学部学生田倉利之(当二十七年)

京都帝国大学法学部学生森憲二(当二十四年)

京都帝国大学法学部学生星子毅(当二十七年)

建築設計監督、 彰道事伊藤広(当四十七年)

右被告人井上昭、同古内栄司、同小沼正、同菱沼五郎、同黒沢大二、同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅に対する殺人及被告人伊藤広に対する同幇助被告事件に付当裁判所は検事木内曽益、同岸本義広関与審理を遂げ判決すること左の如し

主文

被告人井上昭を無期懲役に処す

被告人古内栄司を懲役十五年に処す

被告人小沼正を無期懲役に処す

被告人菱沼五郎を無期懲役に処す

被告人黒沢大二を懲役四年に処す

被告人四元義隆を懲役十五年に処す

被告人池袋正釟郎を懲役八年に処す

被告人久木田祐弘を懲役六年に処す

被告人田中邦雄を懲役六年に処す

被告人須田太郎を懲役六年に処す

被告人田倉利之を懲役六年に処す

被告人森憲二を懲役四年に処す

被告人星子毅を懲役四年に処す

被告人伊藤広を懲役三年に処す

但被告人古内栄司、同黒沢大ニ、同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅、同伊藤広に対し孰れも未決勾留日数中五百日を各右本刑に算入す

押収物件中ブローニング小型三号拳銃四挺(昭和七年押第ニ〇四号の七同年押第四六九号の一三八及四〇)並白鞘刀一ロ (同年押第四六九号の四三)は孰れも之を没収す

訴訟費用は全部被告人等の連帯負担とす

理由

第一、被告人井上昭は

群馬県利根郡川場村に於て医師好人の四男に生れ同県立前橋中学校を経て明治四十二年東洋協会専門学校に入学したるも のにして幼少の頃より父の薫陶郷土の気風等により報国仁俠の精神を涵養せられたるが生来懐疑的性格にして長ずるに及 び漸次自己の本体善悪忠孝の標準等に付疑問を懐き之が解決を求めて師長の教を仰ぎたるも結局自己を満足せしむるに足 るものなく煩悶の末現在の教育道徳等は総て支配階級が無自覚なる一般民衆を制縛し搾取するの欺瞞的絡繰に他ならずと 為し自暴自棄に陥り明治四十三年八月同校第二学年を中途退学し死を決して満洲に渡り南満洲鉄道株式会社社員たる傍ら 陸軍参謀本部の牒報勤務に従事中偶々南満公主嶺に於て曹洞宗布教師東祖心に接し其の鉗鎚を受け初て一道の光明を認め たるも間もなく同人と別離するに及び再び懐疑の人と為り大正二年北京に到り大総統袁世凱の軍事顧問陸軍砲兵大佐坂西 利八郎の許に同様牒報勤務に従事し日独戦争に際しては天津駐屯軍附軍事探偵と為り功に依り勲八等に叙せられ其の後山 東革命奉直戦争等に関与し大正七年暮頃以降天津等に於て貿易商を営み尚傍ら牒報勤務に従事し居りたるところ宇宙人生 等に付深刻なる疑雲に閉されたるを以て之が解決を為し自己一身の安心を確立し更正を図らんとして大正九年暮頃帰国し たり而して当時の我国情を見て社会主義者の増加支配階級の横暴無自覚等頗る憂慮すべきものあり此の儘放任し置くべき に非ずと思惟し加ふるに其の頃在満当時の盟友木島完之に邂逅し同人より我労働運動は悉く社会主義者の指導下に在りて 寒心に堪へざるを以て蹶起して之を排撃し労働運動を指導せよと慫慂せられたるも前記の如き心境に在りたる被告人は自 己の安心確立を第一義と為し大正十一年春頃より郷里なる川場村の三徳庵に籠り独坐して日夜法華題目を唱し自己修養に 専念したる結果宇宙全一の真理を体得し自覚安心を得たりとして大正十三年九月初旬上京したり其の頃偶々日蓮の教義に 関する著書を繙読し該教義は自己の体得したる境涯を理論的に説明したるものなることを識り驚喜して之が研究を志し身 延山其の他に於て法華経日蓮の遺文集及日蓮に関する講演著書等により同教義の研究を為したる結果前記境涯の誤なき ことを証悟し小我の生活は自己の本体即宇宙の真理に反するものと為し日蓮の教義と自覚安心を得たる自己の肉体とを武 器として自ら国家革新運動に参加せんと決意し予て知合なる高井徳次郎と共に護国聖社を結成し又在満当時の盟友前田 虎雄等を援けて建国会の創立に関与する等国民精神作興運動に奔走し居りたるが当時国家革新を唱導せる人々と交るに及 び其の多くは非現実的なる口舌の士に非ざれば単なる不平家煽動家にして身命を惜まず其の衝に当るべき人物なきを知り 被告人自ら人物を養成し夫等の者を率ひて之が実行運動を起さんと決意し之が為には他人をして信頼を置かしむるに足る徳性を涵養せざるべからずと為し 大正十五年夏頃より静岡県駿東郡原町なる松蔭寺に赴き山本玄峰に参禅し昭和二年五月頃 高井徳次郎の依頼に依り同所を辞し茨城県東茨城郡磯浜町岩船山通称ドンドン山に於て自己独自の加持祈禱に従事し 同年十一月前記川場村に引揚げ爾来農村の疲弊状態を視察したる結果之が救済は単なる物質的給与のみを以て其の目的を達成することの困難なるを覚り 益々時弊の根本的刷新の必要なることを痛感するに至りしが昭和三年暮頃高井徳次郎に再び懇請せられて 茨城県東茨城郡磯浜町字大洗東光台に建立せられたる立正護国堂に籠り昭和五年十月頃迄同所に起居するに至れり

当時被告人は、宇宙人生観として宇宙震万象は同根一体絶対平等即宇宙全一にして差別相其の儘全一絶対なり 故に人間は差別相に於ては分離対立したる存在なりと雖其の本体に於ては其の儘宇宙と一如合体したる存在なることを悟り 差別相に於ける自己のみに執着したる小我の生活を為さず自己は比の身此の儘大衆なることを自覚し大衆と苦楽を共にする 大我の生活即菩薩道に立脚する報恩感謝の生活を為さざるべからずと観し

国家観として我国体は国祖神に在します天照大神の御精神にして大神が 天孫に授け給へる三種の神器は大神の御精神たる 人類最高の智徳武を表象し而も 大神御一方の御精神の具現なれば大乗仏教に所謂体相用三位一体の関係に在り 即是宇宙の真理を表現したるものなり故に大神の御精神たる我国体は宇宙の真理其のものにして天壌と共に窮り無し 而して歴代天皇は三種の神器を天壌無窮の御神勅と共に受継ぎ給ひ 天照大神の御精神を御承継在らせられ唯一絶対の元首として国家の中心を為し国民と不二一体に在しますと共に 国民の大御親に在せらるゝが故に一身に主師親の三徳を具する現人神に在しまし国民は神人一如の 天皇の赤子にして大御宝なるが故に天皇の御精神を以て各自の本質と為し依て以て君民一体一国一家の万邦無比なる理想国体を成す左れば我国体は 君民の間に何ものゝ存在をも許さず国民は天皇の下に一人として其の処を得ざるものなく国家全体の幸福を目的として各自其の地位を守り 分を尽し何等矛盾撞着なく自己の未完成を畏れず憚らず未完成を未完成として愈々精進し日に新に日に日に新に創造的発展を遂げ国家と共に完成せんことを 念願せざるべからず即国民は孰れも日本人として日本天皇国を生活して国体に帰一し以て理想国家の光輝を発揚し 延ては之を全世界に及ぼし四海同胞万邦一家の理想社会を建設し世界人類永遠の平和を招来せざるべからず即是日本精神なりと観し

我国状の批判として支配階級たる政党財閥特権階級は腐敗堕落し国家観念に乏しく相結託して私利私慾に没頭し 君民の間を阻隔し目前の権勢維持に努め事毎に国策を誤り為に内治外交に失敗し就中農村の疲弊都市小中商工業者 及労働者の困窮を捨てゝ顧ず幾多の疑獄事件は踵を接して起り国民教育は其の根本を個人主義に置き国体の絶対性に付何等教ふるところなく 智育偏重に流れ徳育を忘れ延ては国民思想の悪化を馴致する等政治経済思想教育外交等所有方面に極端なる行詰を生じ 此の儘放置するに於ては国家は滅亡の他なく此の深刻なる行詰は明治維新以来の支配階級が建国の本義を忘れを徒に西洋文明に陶酔し 其の模做に終始し彼の個人主義を基調とする資本主義の如き宇宙の真理に反する差別相対の原理を以て国民生活並国家組織制度の指導原理と為したるが為にして 資本主義に内在する矛盾欠陥は余す所なく我国の本質を覆ひ去り人文愈々開けて道義日に衰へ内外共に混乱紛糾の極に達し遂に昭和維新を要望する国民的血の叫と為りたり 然るに世に所謂学者宗教家の類は概ね気概なく此の現状を目前にしながら支配階級に阿諛迎合して自己の利害打算に汲々たるに非ざれば 拱手傍観して何等為すところなく又近時資本主義の修正原理として勃興したる社会民主主義国家社会主義乃至共産主義の如きも 畢竟する所差別相対の原理より離脱せず徒に支配階級と対立抗争を事とし却て混乱紛糾を助長する滅亡道にして到底此の行詰を打開すること能はずと為し 革命観として斯る行詰を根本的に打開し国運の進展を計らんには宜しく我国の本質に適合せざる差別相対の原理を排斥し 宇宙の真理其の儘なる日本精神を指導原理として此の行詰の淵源たる無自覚なる支配階級を日本精神に覚醒せしめ以て国家組織制度を改革し 一方国民教育を改善して国体教育を徹底せしめ制度及教育の両方面より国民を指導し本質形式俱に世界の模範国家と為し以て 日本天皇国を生活せざるべからず斯の如く国家革新即所謂革命は天壌と共に窮り無き我国家の発展過程に於て其の本来の発展力を阻害し 民衆の幸福を毀損する組織制度を廃棄し我国体に適合したる組織制度を樹立して国家本来の発展力を展開せしめ 民衆の幸福を招来せしめんとする必然的行為にして真に国家民衆の幸福の為にする仏行なり 而して旧組織制度を廃棄することは破壊即否定新組織制度を樹立することは建設即肯定にして而も破壊なくして建設は在り得ず 究極の否定は即真の肯定なるが故に破壊即建設不二一体なり故に革命を行はんとする者は深く自己を内省し先づ日本精神に覚醒し国家民衆の幸福を幸福とし 其の苦悩を苦悩と為す大慈悲心を有すると共に革命は 天皇の赤子として日本天皇国を生活する唯一絶対の道なりと自覚し革命を生くるの境涯を体し 苟も革命を事業視し之に依る権勢地位名誉等の報酬を期待すべきものに非ずと確信し居りたり

而して被告人は我国家は既に単なる論説に依て救済せられず実践あるのみと為し其の手段として当初先づ宗教的に育成せられたる四人の同志を獲得し 之等の者と共に農村に入り農事の手伝を為す傍ら農民を日本精神に覚醒せしめて国家革新の必然を説き一箇月に一人が一人の同志を獲得する 所謂倍加運動に依り三箇年の後に巨万の同志を獲得し之を糾合して上京し政府議会等に対し革新の実行を迫らんと計画し 同志は 一、成るべく従来社会運動に関与せざりし真面目なる人物 二、成るべく宗教的信仰を有する者若は宗教的鍛錬を経たる者少くとも革新運動に対して宗教的熱誠を有する人物 三、以上の条件に合せざるも人間として素質の純真なる人物 四、革新運動に身命を惜まざる確固たる信念に安住せる人物 五、大衆的喝采を受くることを快とする弁論者に非ざる人物 六、他人の保護によると否とを問はず成るべく自活し得る人物 匕、現在他の思想団体政治団体と関係を有せざる人物 八、成るべく係累少く一 家の責任軽き者なるか或は夫等を超越せる人物なること 等の各条件に適合せる者の把持する理論には重を置かず選定獲得することゝ為し爾来同志の獲得に努め 昭和三年暮頃より昭和五年九月頃迄の間に被告人古内栄司同小沼正同菱沼五郎同黒沢大二を始め 照沼操、堀川秀雄、黒沢金吉、川崎長光等所謂茨城組同志を獲得すると共に昭和四年十二月頃夙に国家革新の志を抱懐し海軍部内に於て熱心に之が啓蒙運動を為し居りたる 当時霞ヶ浦海軍飛行学校学生たりし海軍中尉藤井斉と相識り爾後肝胆相照して同志と為り次で昭和五年初頃より同年九月頃迄の間に 藤井斉より啓蒙せられたる当時海軍少尉古賀清志海軍少尉候補生伊東亀城同大庭春雄同村山格之等所謂海軍側同志を獲得したるが 其の間藤井斉より数次ロンドン海軍条約締結の結果対外関係の危機切迫し西暦千九百三十六年の交に於て我国は未曾有の難局に逢着すべく 挙国一致此の難局に当らんが為国家革新の急務なることを力説せられ茲に於て社会情勢再認識の必要を感じ昭和五年八月頃群馬栃木東京等を巡歴して 国民大衆の生活状態を視察し識者の意見を聴きたる結果国家の危機急迫し民衆の生活苦悩深刻にして革新を要望する声都鄙に充満し既に論議の秋に非ず 速に革新を断行せざるべからずと為し従来の倍加運動の方法を以てしては此の焦眉の急に応ずる能はざるのみならず之が実現の暁には大衆運動たる当然の結果として 官憲と大衆との衝突を惹起し流血の禍福大なるものあるに想到し斯る結果を招来するは自己の革新精神に反するものとして該計画を抛棄したり 而して事態は斯の如くなるに拘らず真に一身を賭して困難危険なる現状打破の任に当る者なく而も被告人等同志は自ら権力及金力を有せず 且言論機関は総て支配階級の掌握するところなるのみならず言論等の合法手段によりては彼等に何等の痛痒を感ぜしめ得ざるを以て 被告人等同志に於て自ら支配階級覚醒の為非合法手段に訴へ現状打破に従事し以て革命の捨石たらんと決意し且藤井斉より現状打破の具体的方法 及之が決行の時期の決定同志間の連絡並国家革新運動に関する情報の蒐集等の各事項を一任せられて昭和五年十月頃立正護国堂を去て上京したり

爾来被告人は昭和六年十月頃迄の間に被告人四元義隆同池袋正釟同久木田祐弘同田中邦雄同田倉利之等所謂学生組同志及藤井斉より啓蒙せられたる 当時海軍中尉三上卓海軍少尉山岸宏等所謂海軍側同志を夫々獲得し且被告人古内栄司等と連絡を執り昭和五年十一月頃より昭和六年二月頃迄の間に 被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二及川崎長光を同年十月初旬被告人古内栄司を孰れも上京待機せしめ其の傍ら 後記其の一の(一)の如く同年四月頃海軍側同志に対し非合法運動に使用すべき拳銃の調達を命じたる他同年六、七月頃被告人古内栄司の斡旋により 愛郷塾長橘孝三郎と東京市内某所に於て会見して深く同人の人格識見に傾倒し其の後同人は昭和維新成就の暁に於ける新組織制度の建設に 有用欠くべからざる人物にして非合法的現状破壊運動は其の任に非ずと思惟し同人に対し破壊完成後に於ける建設に当るべきことを勧告し 又上京以来国家革新運動の一般情勢に注視すると共に一方従来藤井斉と親交あり革新運動に従事し居りたる西田税及其の背後に在りて志を同うせりと目され居りたる 陸軍部内の青年将校と提携し同人等を自己の革命精神を以て誘導せんことを企図し昭和六年八月下旬明治神宮外苑日本青年館に於て被告人等民間及海軍側同志と 西田税一派との会合を開き他方藤井斉をして当時革新運動を為し居りたる大川周明一派の動静を探索せしむる等諸般の活動を為し居りたるものなり

被告人古内栄司は

栃木県芳賀郡中川村に於て農哲太郎の長男に生れ敬神崇祖の家風裡に育ち十六歳頃居村の疲弊に伴ひ生家倒産したる為 家族と共に水戸に移住し労働に従事して家計を助くる傍ら准教員養成講習会を出て茨城県東茨城郡吉田小学校に奉職し 次で大正八年茨城県立師範学校に入学し大正十二年三月同校卒業後同県結城郡石下尋常高等小学校結城尋常高等小学校等に訓導として奉職し 其の間漸次現在の教育自己の本体等に付疑問を懷き苦難の道を歩み人生を極め尽さんことを決意し全身全霊を挙げて努力し来りたるものなるが 一時病の為退職し之が静養中日蓮主義等の宗教書を渉猟し一道の光明を認め昭和三年十月頃同県那珂郡前浜尋常小学校訓導に復職し 偶々同年十二月父の死に際会して貧富の懸隔より生ずる社会的矛盾を痛感するに至りし折柄其の頃立正護国堂に於て 被告人井上昭を識り爾後数次同被告人に接し其の指導を受け法華題目の修業に専念したる結果深く同被告人の人格思想に共鳴し 教育勅語は真に宇宙の真理即我国体を其の儘表現したるものにして此の勅語の御精神に適合せざる現在の国家組織制度を改革し以て天壌無窮の皇運を扶翼し奉るは 天皇の赤子たるものゝ責務なりと為し被告人井上昭より日栄なる居士号を受け其の同志と為り更に同志を獲得せんとして昭和五年一月頃より 被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二を始め前記茨城組の青年を糾合して御題目修業を主唱し自ら之が指導の任に当り 同青年等を夫々被告人井上昭に紹介して同志たらしめ次で被告人井上昭の上京後前記同志の青年等を夫々上京せしめんことを策し居りたるところ 偶々予て知合なる日本国民党書記次長鈴木善一よりロンドン海軍条約問題に関連し決死隊を募集し来りたるを好機と為し被告人小沼正等と謀り之に応募せしめて 同年十二月頃より昭和六年二月頃迄の間に被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二及川崎長光を各上京せしめ其の後同年三月頃同郡八里尋常高等小学校に転勤し 同年八、九月頃迄の間数回に亘り愛郷塾長橘孝三郎を訪問し同人を通じて同塾生中より数名を同志に獲得せんと努力し又前記の如く橘孝三郎をして 被告人井上昭と会見するに至らしめたるが同年十月初旬に至り被告人井上昭の命に接し直に教職を辞し革命の捨石たらん と決意して上京したるものなり

被告人小沼正は

茨城県那珂郡平磯町に於て漁業梅吉の五男に生れ父の厳格母の慈愛及郷土の水戸勤王の遺風裡に成長し大正十五年三月同郡平磯尋常高等小学校を卒業し 直に大工の徒弟となり其の後東京市内等に於て店員として雇はれ居りたるが其の間社会人心頽廃し尊王の念日々に薄らぎ行く実状を見聞し 又強大なる資本を有する者は種々の特権を有し弱小なる企業者を極度に圧迫し為に小中商工業者の間に簇出せる幾多の惨状等を体験し社会人生に疑惑を懐くに至り 且病を得たる為悶々として昭和四年六月頃より帰郷し居りたるもの

被告人菱沼五郎は

同郡前渡村に於て農徳松の三男に生れ平和なる家庭及郷土の水戸勤王の遺風裡に成長し昭和四年十月岩倉鉄道学校業務科を卒業したるが 翌昭和五年五月頃東上線池袋駅に就職せんとしたるに鉄道業務に致命的なる紅緑色盲の為就職不能と為り自己及父兄の期待を裏切り将来の希望を失うと共に 斯る致命的欠陥を有する者を入学せしめたる学校当局の無責任を憤慨して営利主義も亦極れりと為し延ては社会人生に対し疑惑と煩悶を懐くに至りて郷里に在りたるもの

被告人黒沢大二は

同村に於て農忠之衛門の二男に生れ敬神崇祖の家庭及郷土の水戸勤王の遺風裡に成長し大正十四年頃同郡前渡尋常高等小学校卒業後家事の手伝を為し 郷党青年の信望を集め居りたるが親しく農村の疲弊及政党政治の弊害が純真なる農村青年を毒する等の実状を見聞し憂慮し居りたるものなるところ 右被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二の三名は昭和五年二月頃より同年五月頃迄の間に夫々被告人古内栄司に指導せられて御題目修業を始め 日蓮の教義等を通じ漸次国家社会問題を研究するに至り同年六月頃同被告人と共に立正護国堂に到り被告人井上昭より 被告人小沼正は日召被告人菱沼五郎は日勇被告人黒沢大二は日大なる居士号を受け爾後被告人井上昭同古内栄司の指導の下に益々修業に精進し 深く被告人井上昭の感化を受け就中被告人小沼正は其の頃茨城千葉東京等を行商し農村の疲弊都市細民の困窮状態を具に視察したる結果 被告人井上昭の許に於て自己を鍛錬し国家民衆の幸福の為一身を供養し以て国家革新に邁進せんと決意し同年七月頃より立正護国堂に起臥し 被告人井上昭より親しく其の薰陶を受け被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二は孰れも被告人井上昭の人格思想に共鳴し其の同志と為りたるものにして 被告人井上昭の上京後前記の如く被告人古内栄司と謀り日本国民党の決死隊募集に応じ同年十二月頃より昭和六年二月頃迄の間に革命の捨石たらんと決意して 順次上京し同党本部に起居し同年六月頃狩野敏の主宰せる行地社に転じ其の後被告人小沼正は郷里等に於て自己鍛錬に努め被告人菱沼五郎同黒沢大二は東京市内に於て 自動車運転助手と為り辛苦を嘗めて孰れも待機し居りたるものなり

被告人四元義隆は

鹿児島市南林寺町に於て会社員嘉平次の二男に生れ明治維新勤王家の血を享け

被告人池袋正釟郎は

宮崎県都城市姫城町に於て農清次の長男に生れ孰れも幼時より父の薫陶及郷土の気風等により武士道精神を涵養せられて成長し 共に大正十四年四月第七高等学校造士館に入学したるものなるが在学中学生の赤化無気力巧利的気風及教育の無権威等を慨歎して 日本精神の涵養を目的とする七高敬天会を組織し、昭和三年四月被告人四元義隆は東京帝国大学法学部に入学し 被告人池袋正釟郎は自ら教育家と為り教育界を改善せんと志して同大学文学部に入学し相次で法学博士上杉慎吉が主宰し日本主義を標榜せる七生社同人と為り 同博士の死後安岡正篤の経営に係る金鶏学院に入り同人の指導を受けて修養に努め居りたるもの

被告人久木田祐弘は

中華民国広東省広東に於て官吏祐俊の長男に生れ十二歳頃父の死に際会する迄父母と共に海外に居住して祖国意識を強め 其の後一家を挙げて鹿児島県日置郡伊集院町なる母の実家有馬家に引取られ其の敬神尊王の家風裡に成長したるものなるが 同家の扶養を受けたると生来の固疾とにより人生の負債者たるの感を懐き国家社会に報恩するところあらんと期し 昭和三年四月第七高等学校造士館に入学し七高敬天会同人と為り昭和五年十二月頃当時鹿児島聯隊に勤務し夙に国家革新の志を有し居りたる陸軍中尉菅波三郎を識り 被告人田倉利之と共に其の指導を受け漸次国家革新を志すに至り同校卒業に際し一度革命起らば共に之に投ぜんことを誓ひ昭和六年四月東京帝国大学文学部に入学し 七生社同人と為りて修養に努め居りたるもの

被告人田中邦雄は

鳥取市西町に於て質商団蔵の四男に生れ平和なる家庭に育ち松江高等学校を経て昭和五年四月東京帝国大学法学部に入学し七生社同人と為りて修養に努め居りたるもの

被告人須田太郎は

福島市大字福島に於て農幸太郎の六男に生れ平和なる家庭に育ち昭和五年四月国学院大学神道部に入学し同学内に組織せられたる日本主義研究会会員と為りて 修養に努め居りたるもの

被告人田倉利之は

鹿児島市下龍尾町に於て教育家紋蔵の長男に生れ父の感化に依り尊王の精神を涵養せられて成長し昭和三年四月第七高等学校造士館に入学し七高敬天会同人と為り 前記の如く被告人久木田祐弘と共に菅波三郎の指導を受けて漸次国家革新を志すに至り同校卒業に際し一度革命起らば共に之に投ぜんことを誓ひ 昭和六年四月京都帝国大学文学部に入学し同学内に組織せられたる日本主義思想の研究を目的とする猶興学会同人と為りて修養に努め居りたるもの

被告人森憲二は

朝鮮群山府に於て米穀商菊五郎の長男に生れ父の敬神崇祖と叔父森田清允の国粋思想等の感化を受けて成長し第六高等学校を経て昭和六年四月京都帝国大学法学部に入学し 猶興学会同人と為りて修業に努め居りたるもの

被告人星子毅は

熊本県鹿本郡稲田村に於て農進のニ男に生れ父の敬神と郷土の菊池家勤王の遺風を受けて成長し第五高等学校を経て昭和五年四月京都帝国大学法学部に入学し 猶興学会同人と為りて修養に努め居りたるもの


なるところ被告人四元義隆同池袋正釟郎同久木田祐弘同田中邦雄同須田太郎同田倉利之同森憲二同星子毅は孰れも我現下の国状を眺め 建国の精神日に疎ぜられ政権慾に燃ゆる政党利権慾に渇する財閥権勢慾に汲々たる特権階級は孰れも腐敗堕落し相結託して私利私慾に趨り 之が為には国利民福を蹂躪して顧ず為に内治外交は失敗に続くに失敗を以てし外国威を失墜し内帝国議会は其の権威を失ひ選挙界は腐敗し 幾多の疑獄事件は相次で起り国民大衆は疲弊困憊の極に達し教育界は萎微沈滞し教育家は身を以て子弟を教導するの人格識見気慨なく 教育の根本たる徳育は全然無視せられ就中高等教育は徒に洋学を偏重し修身済世の精神教育を等閑に附し為に学生は忠君愛国の念を失ひ 其の就くべき途に迷ひ或は軽佻浮薄なるアメリカ思想に惑溺して享楽に趨り或は不逞なる共産主義思想を信奉して我国体の変更を企つる等国民生活の不安動揺 甚しく此の禍根は明治初年以来の支配階級が西洋唯物文明に陶酔して移植に努めたる資本主義的政治経済組織の矛盾欠陥に由来するものにして 速に君民一体忠孝一本の我国建囯の精神に則り之が根本的改革を為すに非ざれば国家の前途真に憂ふべきものあり 而も言論文章等の合法手段を以てしては到底之が改革は望み難しと為し其の実行運動の指導者を求め居りたるが 被告人四元義隆同池袋正釟郎は偶々昭和五年暮頃被告人井上昭を識るに及び深く同被告人の人格思想に共鳴して其の同志と為り 被告人四元義隆は昭和六年二月頃福岡に於て九州帝国大学教授河村幹雄と会談したる結果我国は其の本質上不滅なりと雖之を不滅ならしむるは吾人の努力に在り との確信を得益々国家革新の決意を鞏固ならしめ 被告人池袋正釟郎は其の頃一死報国を決意したる以上就学の要なしとして退学し 被告人久木田祐弘は昭和六年六月頃被告人四元義隆の紹介により 被告人田中邦雄は同年九月頃被告人久木田祐弘の紹介により各被告井上昭を識り 被告人田倉利之は同年十月頃被告人久木田祐弘の通知により上京して被告井上昭に接し孰れも同被告人の人格思想に共鳴して其の同志と為り 被告人須田太郎は同年暮頃被告人井上昭を識り爾後同人と交るに及び其の人格思想に共鳴し昭和七年一月末頃同志と為り 被告人森憲二同星子毅は共に昭和六年十月頃被告人田倉利之を識り互に国家革新に付共鳴するに至り 被告人星子毅は同年十二月頃被告人田倉利之と共に上京して其の紹介により 被告人森憲ニは昭和七年一月中旬頃被告人田倉利之の紹介により被告人田中邦雄を識り同被告人と共に上京して其の紹介により孰れも被告人井上昭を識るに及び 同被告人の人格思想に共鳴したるも未だ自己の修養足らざるを自覚し爾後益々自己鍛錬に努め居りたるものなり

斯して被告人須田太郎同森憲二同星子毅を除く以上の被告人等は順次結合すると共に前記海軍側並茨城組の同志を加へ 被告人井上昭を中心として国家革新を目的とする一団を形成し之が実行運動に従事することゝ為りたるが昭和六年十月頃に至り我国状を眺め 外に於てはロンドン海軍条約の失敗に加ふるに満洲事変勃発を契機として国際情勢頓に悪化し対外関係の危機切迫すると共に 内に於ては旧態依然として支配階級たる政党財閥特権階級は私利私慾に耽り自己一身の安逸を貧り国民大衆の深刻なる経済的苦難を捨てゝ顧ず 為に国状騒然として将に我国は所謂危急存亡の秋に遭遇し此の儘推移せんか滅亡の他なく斯る現状を打開し国家を累卵の危より救ひ内国民大衆の要望に応へ 外西暦千九百三十六年の国際危局に際し挙国一致の実を挙げ以て 日本天皇国の真姿を顕彰せんが為には国家革新は一日も忽に為すことを得ず 此の情勢に伴ひ国内に国家革新の気運横溢し之を口にする者多数輩出するに至りしが彼等の多くは現在の財閥又は特権階級と結託して既成政党を打倒し 之に代りて政権を獲得せんとし又は民衆の不安動揺に乗じ之を煽動利用して自己の野望を遂げんとするが如き不純なる意図を懐き国利民福を顧ざるの点に於ては 支配階級と何等択ぶところなく真に国家民衆の悩を悩とする被告人等は到底彼等と其の行を共にすること能はず固より現代の如き複雑多岐なる国家組織制度を改革することは 一朝一夕の業に非ず其の成就を看る迄には革命せんとする者と革命せられる者との間に幾多流血の惨禍を繰返し孰れも革命の犠牲者として 破壊裡に斃るゝことは蓋し必要の数にして被告人等同志のみの行動により直に国家革新を成就せしむることは之を望むべくして達し得られざるところなりと雖 現下の情勢上国家革新は不可避必然且焦眉の急を要するを以て被告人等同志は思想も成敗も恩愛も一切を超越し日本天皇国を生くる唯一絶対の道として 自ら革命の犠牲的捨石と為り支配階級の最も尊重する彼等自身の生命を脅威し相俱に現状の破壊に斃れ以て支配階級をして 自衛上已むを得ず反省し革新の挙に出でざるを得ざらしむると共に愛国諸団体の自覚結束奮起及国民大衆の覚醒を促し 昭和維新の気運を促進せざるべからずと為し且被告人等少数の同志及武器により最大の効果を収むるには現在の政治経済機構の中枢を為す政党財閥特権階級の巨頭を 暗殺するの他なしと決意し只管其の機会を窺ひ居りたり 其の後被告人井上昭は夙に前記菅波三郎に指導せられて国家革新の志を有し居りたる陸軍士官候補生篠原市之助同八木春雄同中島忠秋等を識り 同候補生等が国家革新に付焦慮し居るを察知し同候補生等に対し自己の革命精神を説き軽挙盲動を誡め置きたるが 同候補生等は同年暮頃より数回被告人古内栄司同四元義隆同池袋正釟郎と接したる結果同被告人等の革命精神に共鳴し 昭和七年二月下旬頃に至り被告人等と共に蹶起し革命の捨石たらんと決意したるにより被告人四元義隆同池袋正釟郎等は同候補生等の決意を 被告人井上昭に報告したる上同候補生等をして前記古賀清志と連絡を執らしむべく斡旋したり

而して是より先昭和六年暮頃に至り被告人等は従来多少の連絡ありたる西田税及菅波三郎等一派の態度に慊らざるものあり 加ふるに支配階級の暴状益々甚しく所謂弗買の如き売国的行為を敢てして恥ざるの実状を呈し到底之を坐視するに忍びず 一日も速に政党財閥特権階級の巨頭暗殺を決行するの他なしと為し 昭和七年一月九日夜被告人井上昭同古内栄司同四元義隆同池袋正釟郎同久木田祐弘等は海軍部内の同志古賀清志、伊東亀城、大庭春雄 及其の頃同志と為りたる海軍中尉中村義雄等と共に当時東京府豐多摩郡代々幡町代々木上原千百八十六番地所在成郷事権藤善太郎方の一室に会合し 国家革新の実行方法に付協議したる結果被告人井上昭一派の民間及海軍部内の同志のみを以て同年二月十一日紀元節を期し政党財閥特権階級の巨頭を暗殺せんこと等を決定し 被告人四元義隆をして之を地方在住の海軍部内の同志に伝達せしむることゝし各其の準備に着手し 被告人四元義隆は同年一月十一日頃東京を出発して呉佐世保鎮海舞鶴等に在る海軍部内の同志を順次歴訪し右協議の結果を伝達し 京都に在りたる被告人田倉利之同森憲二を舞鶴に招致して同様伝達し尚被告人田倉利之をして被告人星子毅に之を伝達せしめ 茲に於て被告人森憲二同星子毅は其の頃被告人井上昭等が国家革新の実行方法として政党財閥特権階級の巨頭暗殺を計画せることを知り 之に参加して革命の捨石たらんと決意したり 而して同年一月三十一日被告人井上昭同古内栄司同池袋正釟郎同久木田祐弘同田中邦雄及前記暗殺計画を知り革命の捨石たらんとして 其の頃同志に加はりたる被告人須田太郎は古賀清志、中村義雄、大庭春雄等と共に右権藤善太郎方附近にして同人の管理に係り当時被告人井上昭が起居し居りたる 所謂空家内に集合協議し被告人四元義隆は未だ帰来せざるも当時海軍部内の同志中上海事変の為出征する者続出したるにより 前記協議に従ひ二月十一日を期し決行するときは海軍部内の勢力を二分することゝ為る為被告人等民間側同志のみを以て先づ暗殺を決行し 海軍部内の同志及其の他の同志は被告人等決行の後を受け出征者の凱旋を待ち蹶起すること被告人井上昭は計画実行に付 指揮統制の任に当り他の同志に於て暗殺実行を担任すること若し被告人井上昭に於て活動不能と為りたるときは各自臨機の処置を執るべきこと 暗殺実行の方法として約十人の同志と後記其の一の(一)の如き十挺の拳銃を以て集団的行動を執るは非効果的なるにより一人が一人を殪すこと 暗殺の目標人物として政友会犬養毅、床次竹二郎及鈴木喜三郎民政党若槻礼次郎、井上準之助及幣原喜重郎財閥三井系池田成彬、団琢磨、郷誠之助 三菱系各務謙吉、木村久寿弥太、岩崎小弥太特権階級西園寺公望、牧野伸顕、伊東巳代治、徳川家達及警視総監を選定し 尚財閥たる安田系住友系及大倉系より各一名宛を選定すること直ちに各自の担当人物の動静偵察に着手し決行は同年二月七日日曜日以後に於て為すべきこと等を決定し 次で被告人井上昭より各自の担当すべき人物は同被告人に於て決定すること 秘密を守る為同志間に於ても各自の担当人物に付語り合はざること 目標人物の動静を探索し暗殺を為し得る見込付きたる後被告人井上昭の許に拳銃を受取りに来るべきこと 目標人物は必ずしも死に致すを要せざること目標人物以外の警官等に対し危害を加ふべからざること 暗殺は可及的地味に決行すべきこと 暗殺決行後其の理由を明瞭ならしむる為成敗に関せず自殺すべからざること等周到なる注意を与へたり 而して其の前後に於て

其の一、被告人井上昭は

(一)昭和六年四月下旬頃東京市小石川区原町金鶏会館に於て海軍側同志に対し国家革新の実行運動に使用すべき 武器の調達方を命じ其の結果同年五月頃当時東京府豊多摩郡代々幡町代々木なる所謂骨冷堂に於て 伊東亀城よりブローニング小型三号拳銃一挺及実弾数十発を受取り次で同年八月下旬頃東京市本郷区駒込西片町二十二番地なる被告人の妻方に於て 三上卓の手を通じ藤井斉が入手したる同型拳銃八挺実弾八百発を受取り之等を明治神宮表参道同潤会アパートなる前記菅波三郎方に隠匿し 昭和七年一月十日之を海軍側同志をして前記空家に運搬せしめ更に同年一月三十日頃右空家に於て 大庭春雄よりユ二オン型拳銃一挺及実弾を受取りて各之を保管し置き

(二)昭和七年一月三十一日会合直後之に出席したる被告人等を前記権藤善太郎方附近にして同人の管理に係り 当時被告人四元義隆等の起居し居りたる所謂寮の一室に順次一人宛呼び寄せ被告人古内栄司に池田成彬を 被告人池袋正釟郎に西園寺公望を被告人久木田祐弘に幣原喜重郎を被告人田中邦雄に若槻礼次郎を被告人須田太郎に徳川家達を各暗殺すべく命じ 翌二月一日右空家に於て被告人四元義隆に対し前示協議の結果を告知し且同被告人をして牧野伸顕の暗殺を担当せしめ又 右協議に加はらざりし被告人小沼正同菱沼五郎同黒沢大二に対しては被告人古内栄司をして夫々招致せしめ 被告人田倉利之同森憲二同星子毅に対しては被告人久木田祐弘をして上京を促さしめ同年二月二日頃より六日頃迄の間に右空家に於て夫々会見し 右協議の結果を告知したる上被告人小沼正に井上準之助を被告人菱沼五郎に伊東巳代治を被告人黒沢大二に団琢磨を 被告人田倉利之に被告人四元義隆の補助として牧野伸顕を被告人森憲二に犬養毅を暗殺すべく各命じ 尚被告人星子毅に対しては武器足らざるが故に京都に於て拳銃を調達したる上犬養毅、床次竹二郎、鈴木喜三郎、若槻礼次郎、井上準之助、幣原喜重郎の 中関西方面に遊説に赴きたる者を暗殺すべく命じ更に同月四日頃被告人久木田祐弘の担当を変更して同志間の連絡を執るべきことを命じ 又同月三日頃被告人池袋正釟郎に同月六日頃同小沼正に同月七日頃同田中邦雄に同月九日頃同須田太郎使用の分として同久木田祐弘に 夫々ブローニング小型三号拳銃各一挺実弾十数発宛を同月九日頃被告人四元義隆に同型拳銃二挺実弾五十発を夫々交付し

(三)同月九日迄前記空家に於て同志の指揮統制に当り居りたるが同日被告人小沼正が井上準之助を暗殺したるより身辺の危険を感じ 翌十日残余の拳銃及実弾を大庭春雄をして其の頃同志となりたる当時東京府豊多摩郡代々幡町代々木上原千百八十九番地海軍大尉浜勇治方に運搬隠匿せしめたる上 在満当時の盟友本間憲一郎の紹介により当時同府同郡渋谷町常盤松十二番地天行会道場頭山秀三方に移り爾後同年三月十一日迄同所に隠れ 其の間後記其の六の(四)(五)の如く被告人四元義隆より被告人田倉利之同森憲二同星子毅をして関西遊説中なる若槻礼次郎を暗殺せしむることとし 被告人須田太郎を京都に派して其の旨伝達せしめたること及被告人菱沼五郎をして鈴木喜三郎次で団琢磨の各暗殺を担当せしめたること等の報告を受け 之を承認したる等同志の指揮統制に当りたる外数次前記古賀清志と会見し海軍側同志蹶起に関し同人に対し前記候補生等と連絡を執るべきこと 武器は大川周明より入手すべきこと等諸般の方途を授け

其の二、被告人古内栄司は

(一)同年一月三十一曰池田成彬の暗殺を担当し同年二月四日より同月十二日迄池田邸附近なる東京市麻布区飯倉片町十七番地中島幸太郎方に止宿し 其の間数次同区永坂町一番地なる池田成彬邸神奈川県中郡大磯町なる同人の別邸及同人の勤先なる東京市日本橋区室町二丁目一番地三井銀行附近を徘徊して 其の動静を探索したるも遂に暗殺決行の機会を捉ふることを得ず

(二)被告人小沼正が井上準之助を暗殺したる為同年二月十二日より同月二十六日迄前記浜勇治方に潜伏し居りたるが其の間 (イ)同月十四日頃右浜勇治方に於て被告人四元義隆同田中邦雄と協議の上同田中邦雄をして団琢磨を暗殺せしむることを決定し (ロ)同月十六日頃浜勇治を当時東京府北豊島都滝野川町字馬場五百十二番地国井善弥方に隠れ居りたる被告人黒沢大二の許に遣はし 其の附近なる蓬萊軒に於て被告人菱沼五郎同黒沢大二に対し更に指令ある迄外出せざる様伝達せしめ (ハ)同月十七日頃浜勇治方に於て被告人四元義隆と協議し当時神奈川県下に於て衆議院議員選挙に立候補し居りたる鈴木喜三郎を被告人菱沼五郎をして 又当時関西方面遊説中なりし若槻礼次郎を其の頃京都に立帰り待機中なりし被告人田倉利之同森憲二同星子毅三名をして夫々暗殺せしむべく決定し 同日直に被告人須田太郎を当時東京府北豊島郡板橋町元滝野川ニ千四百二十一番地被告人伊藤広方に遣はし同所に隠れ居りたる被告人菱沼五郎に右指令を伝達せしめ 次で翌十八日頃被告人須田太郎を京都市左京区田中門前町四十三番地勝栄館に遣はし被告人田倉利之同森憲二同星子毅三名に対し右指令を伝達せしめ 且之が実行の用に供する為ブローニング小型三号拳銃一挺実弾十二発を交付せしめ (ニ)其の後被告人菱沼五郎に於て鈴木喜三郎の暗殺に失敗するや更に同月二十四日頃右浜勇治方に於て被告人四元義隆と協議し 同菱沼五郎をして団琢磨を暗殺せしむべく決定し被告人四元義隆をして同菱沼五郎に之を伝達せしめ

(三)同月二十六日頃より当時東京府豊多摩郡大久保町西大久保三百四十三番地陸軍中尉大蔵栄一方に潜伏し同月二十七日頃前記大磯町に赴き池田成彬別邸附近を徘徊して 同人の動静を探索し

其の三、被告人小沼正は

同年二月二日井上準之助の暗殺を担当し爾後周到なる探索を遂げたる上同月六日被告人井上昭より前記の如く拳銃一挺(昭和七年押第二〇四号ノ七)実弾四十八発を受取り 直に茨城県東茨城郡磯浜海岸に到り之が試射を為し次で同月九日正午頃井上準之助が同日夜東京市本郷区駒込追分町百番地駒本小学校に於ける 衆議院議員候補者駒井重次の選挙演説会に出演することを知るや同夜七時頃前記拳銃を携へ右小学校通用門前に到り井上準之助の来るを待受け 同人が午後八時頃右通用門前にて自動車より下車し通用門を入りたる際同人の背後に迫り所携の拳銃を以て其の背部を目懸けて三発連射し為に弾丸は同人の胸腹部に命中し 遂に同人をして同日午後八時二十分頃東京帝国大学医学部附属病院に於て胸腹部重要内臓器の損傷に因り死亡するに至らしめ以て暗殺の目的を遂げ

其の四、被告人菱沼五郎は

(一)同年二月四日伊東巳代治の暗殺を担当したるも同月九日被告人小沼正が井上準之助を暗殺したる為同月十二日より前記伊藤広方に潜伏し居りたるが 同月十七日に至り同所に於て前記の如く被告人須田太郎より鈴木喜三郎を暗殺すべき旨の指令を伝へられて之を承諾し即日神奈川県川崎市に到り 鈴木喜三郎推薦演説会の日程を調査し翌十八日当時東京府豊多摩郡渋谷町省線渋谷駅前某喫茶店に於て被告人四元義隆よりブローニング小型三号拳銃一挺実弾六発を受取り 之を携帯して直に鈴木喜三郎の推薦演説会場なる川崎市宮前小学校に到り鈴木喜三郎の来場を待受け居りたるも同人が出演せざりし為暗殺決行の機会を捉ふることを得ず

(ニ)翌十九日より被告人伊藤広の斡旋に依り更に当時東京府北豊島郡巣鴨町宮下千六百八十ニ番地大概豊方に移り潜伏し居りたるが 同月二十七日頃東京市小石川区駕籠町日本皇政会に於て被告人四元義隆より団琢磨を暗殺すべき旨の指令を受けて之を承諾し 爾後当時東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町原宿三百四十四番地なる団邸及同人の勤先なる前記三井銀行附近を徘徊して同人の動静を探索したる上 同年三月三日当時東京府北豊島郡巣鴨町市電大塚終点附近なる梅喫茶店に於て被告人四元義隆よりブローニング小型三号拳銃一挺 (昭和七年押第四六九の一)及実弾十六発を受取り翌四日千葉県船橋海岸に到り該拳銃の試射を為し同月五日午前十時頃右三井銀行附近に到り 団琢磨の出勤を待受け午前十一時二十五分頃同人が同銀行表玄関前にて自動車より下車し表玄関の石段を上りたる際同人の右側より其の右前面に出で 右拳銃を同人の右胸部に押当てゝ射撃したる為弾丸は同人の右胸部に命中し同人をして間もなく同銀行内に於て心臓創傷に因る大出血の為死亡するに至らしめ 以て暗殺の目的を遂げ

其の五、被告人黒沢大二は

同年二月六日頃団琢磨の暗殺を担当したるも未だ其の準備に着手せざるに被告人小沼正が井上準之助を暗殺したる為同月十日より前記国井善弥方に 同月二十二日頃より右大槻豊方に潜伏し其の間同月十三日頃雑誌キング一月号に依り団琢磨が三井銀行に勤務し居ること及其の面貌を知りたるが 同月十六日頃前記の如く浜勇治より被告人古内栄司の伝言を聴き更に三月一日頃被告人菱沼五郎に於て団琢磨の暗殺を担当し居ることを知りて 自己の担当変更したるものと思惟し別に指令の来るを待ちつゝありしところ前記の如く同月五日被告人菱沼五郎が団琢磨を暗殺したるより 即日前記伊藤広方に移り同月八日迄同所に潜伏し其の後同所を出て諸所を転々し

其の六、被告人四元義隆は

(一)同年二月一日牧野伸顕の暗殺を担当し直に東京市芝区三田台町なる内大臣官邸附近に到り状況を偵察したるが警戒厳重にして自己一人にては暗殺決行困難なりと思惟し 同月六日頃被告人井上昭と協議の上被告人田倉利之をして補助せしむることゝし同月十日頃前記の如く被告人井上昭より交付を受けたる拳銃及弾丸を被告人田倉利之に渡し 同被告人をして右内大臣官邸附近なる同市同区同町一丁目二十七番地三田ホテル事原田タツ方に止宿せしめて牧野伸顕の動静を探索せしめ

(二)同月九日被告人小沼正が井上準之助を暗殺するや官憲の捜査厳重と為りしより東京の地理に暗き被告人田倉利之同森憲二が東京に留るは全線暴露の危険ありとし 被告人井上昭の命により同月十二日被告人田倉利之同森憲二に対し一先づ京都に立帰り待機すべき旨を命じ

(三)前記其の二の(二)の(イ)の如く同月十四日頃浜勇治方に於て被告人古内栄司同田中邦雄と協議の上同田中邦雄をして団琢磨暗殺を担当せしめ

(四)前記其の二の(二)の(ハ)の如く同月十七曰頃浜勇治方に於て被告人古内栄司と協議し被告人菱沼五郎をして鈴木喜三郎を 被告人田倉利之同森憲二同星子毅三名をして若槻礼次郎を各暗殺せしむることを決定し被告人須田太郎をして夫々之を伝達せしめ 其の頃之を被告人井上昭に報告して其の承認を得尚前記其の四の(一)の如く同月十八日省線渋谷駅附近なる某喫茶店に於て被告人菱沼五郎に対し ブ口ーニング小型三号拳銃一挺及実弾六発を交付し

(五)前記其の二の(二)の(ニ)の如く同月二十四日頃浜勇治方に於て被告人古内栄司と協議し被告人菱沼五郎をして団琢磨を暗殺せしむることを決定したる上 前記其の(四)の(二)の如く同月二十七日頃日本皇政会に於て被告人菱沼五郎に対し団琢磨を暗殺すべき旨を命じ其の頃被告人井上昭に之を報告して其の承認を得 次で同年三月三日市電大塚終点附近なる某喫茶店に於て被告人菱沼五郎に対しブローニング小型三号拳銃一挺実弾十六発を交付し

其の七、被告人池袋正釟郎は

(一)同年一月三十一日西園寺公望の暗殺を担当し同年二月三日被告人井上昭よりブローニング小型三号拳銃一挺実弾二十五発を取り之を携帯して 同日静岡県庵原郡興津町に到り其の頃富士川沿岸に於て右拳銃の試射を為し同月二十七日迄同町清見寺に滞在し其の間同町内に在る西園寺公望の別邸 坐漁荘附近を徘徊して其の動静を窺ひ

(二)同年三月五日西園寺公望の入京するや東京市芝区新橋駅に到り警戒の状況を視察したる上同人退京の際を擁し之を暗殺せんとして其の機会の到来を待ちつゝありしが 其の目的を遂ぐるに至らず

其の八、被告人久木田祐弘は

(一)同年一月三十一日幣原喜重郎の暗殺を担当し同年二月三日頃東京市本郷区駒込上富士前町二十三番地なる幣原邸附近を徘徊して其の動静を探索し

(二)同月四日頃被告人井上昭より連絡係を命ぜられ爾後同月十三日頃迄の間同志間を往復して連絡の任に当り又同月九日被告人井上昭より同須田太郎に於て使用すべき ブローニング小型三号拳銃一挺実弾二十五発を受取りたるも同被告人に之を交付すべき機会を得ず其の儘所持し居り同月十日被告人田中邦雄より 同被告人が所持せし同型拳銃一挺実弾四十六発を預り同月十二日頃右拳銃二挺及実弾を浜勇治に交付し

其の九、被告人田中邦雄は

(一)同年一月三十一日若槻礼次郎の暗殺を担当し同人が東北方面遊説に赴くことを探知し之を宇都宮に擁して暗殺せんと企て 之が実行の用に供する為同年二月七日頃被告人井上昭よりブローニング小型三号拳銃一挺(昭和七年押第四六九号の四〇)実弾五十発を受取り 同月十日頃東武線草加駅附近に於て之が試射を行ひたるも若槻礼次郎が同月九日被告人小沼正の為暗殺せられたる井上準之助の葬儀委員長に選ばれたる為 東北方面遊説を延期したることを知るや一先づ右拳銃及弾丸を被告人久木田祐弘に預け同月十三日右井上準之助の告別式場たる東京市赤坂区青山南町三丁目青山斎場附近に赴き 警戒の状況等を視察し

(二)翌十四日頃前記浜勇治方に到り被告人古内栄司同四元義隆と協議したる結果若槻礼次郎の暗殺を中止し団琢磨の暗殺を担当することに決し 浜勇治より再び前記拳銃及実弾の交付を受け

(三)同月二十一日頃前記天行会道場に於て被告人井上昭同古内栄司と協議したる結果自ら床次竹二郎の暗殺を担当し其の後友人なる 東京市本郷区根津藍染町十八番地田村清長方関根三子雄をして床次竹二郎に対し書状を以て面会を申込ましめ只管暗殺決行の機会を窺ひ居りたるも 遂に其の目的を達するに至らず

其の十、被告人須田太郎は

(一)同年一月三十一日徳川家達の暗殺を担当し同年二月四日頃より徳川邸附近なる当時東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町千駄ヶ谷五百二十六番地深沢長太郎方に止宿し 同町千駄ヶ谷三百三十番地なる徳川邸附近を徘徊して其の動静を探索したる上二月十一日徳川家達参内の途を擁し之を暗殺せんと為したるも 拳銃を入手し得ずして其の機会を失し

(二)前記の如く被告人古内栄司同四元義隆の命を受け同月十七日頃前記伊藤広方に赴き被告人菱沼五郎に対し鈴木喜三郎を暗殺すべき旨の指令を伝達し 更に翌十八日頃前記勝栄館に赴き被告人田倉利之同森憲二同星子毅の三名に対し関西地方遊説中なる若槻礼次郎を暗殺すべき旨の指令を伝達し 且之が実行の用に供する為ブローニング小型三号拳銃一挺実弾十二発を交付し

其の十一、被告人田倉利之は

前記其の六の(一)の如く被告人四元義隆の補助として牧野伸顕の暗殺を担当し同年二月十日頃被告人四元義隆より拳銃二挺実弾五十発を受取り 牧野伸顕の居住せる内大臣官邸附近なる前記原田タツ方に止宿し爾後右官邸附近を徘徊して牧野伸顕の動静を探索し居りたるが 同月十二日前記其の六の(二)の如く被告人四元義隆より待機を命ぜられて一先づ京都に立帰り

其の十二、被告人森憲二は

同年二月六日頃犬養毅の暗殺を担当し爾後東京市麴町区永田町総理大臣官邸同区内山下町立憲政友会本部及同市四谷区信濃町なる犬養邸附近を徘徊して 同人の動静を探索し居りたるが前記其の六の(二)の如く同月十二日被告人四元義隆より待機を命ぜられ一先づ京都に立帰り

其の十三、被告人星子毅は

同年二月六日頃被告人井上昭より其の一の(二)の如く京都に於て拳銃を調達したる上犬養毅、床次竹次二郎、鈴木喜三郎、若槻礼次郎、井上準之助、幣原喜重郎の 中関西地方遊説に赴きたる者を暗殺すべき旨の指令を受け翌日直に京都に立帰り予て知合なる京都帝国大学学生住川逸郎同大学武術道場専属巡視矢羽田慶造に付 拳銃を調達せんとしたるも入手することを得ず

其の十四、被告人田倉利之同森憲二同星子毅は

同年二月十八曰前記の如く勝栄館に於て被告人須田太郎より当時関西地方遊説中なりし若槻礼次郎暗殺の指令を受け且之が実行の用に供する為前記拳銃一挺 (昭和七年押第四六九号の三八)及実弾十二発を受取りたる上京都市電百万遍停留場附近路上に於て三名協議の結果被告人森憲二に於て 島根松江市に急行し同地に若槻礼次郎を擁して之を暗殺することゝし即日被告人森憲二は実弾を装填したる右拳銃を携帯して同市に赴き 翌十九曰松江駅附近松江劇場に於ける演説会場入口及松江駅等に於て決行せんとし其の機会を窺ひたるも遂に其の目的を果さずして帰洛し 次で若槻礼次郎が同月二十一夜京都駅発東上することを知り被告人田倉利之同森憲二には協議の上之を京都駅に擁撃せんとし 被告人田倉利之は右拳銃を同森憲二は其の所有に係る短刀一口(昭和七年押第四六九号の四三)を各携帯して京都駅に到りたるも 又其の機会を失したるより被告人田倉利之は同森憲二同星子毅と協議の上同月二十六日頃右拳銃を携帯して単身上京し 爾後若槻邸附近なる東京市本郷区駒込上富士前町十九番地福田金一方に止宿し数次同区同町百二十九番地なる若槻邸附近を徘徊して 其の動静を探索し居りたるも遂に其の目的を遂げず以て被告人井上昭同古内栄司同小沼正同菱沼五郎同黒沢大二同四元義隆同池袋正釟郎同久木田祐弘 同田中邦雄同須田太郎同田倉利之同森憲二同星子毅は共謀の上犯意を継続して井上準之助及団琢磨を順次殺害したるものなり

第二、被告人伊藤広は

千葉県香取郡栗源町に於て農愛治郎の二男に生れ家庭並郷土の敬神崇祖の民風を享けて成長し明治四十四年築地工手学校建築科を卒業し建築設計業を営み居りたるが 昭和四年秋頃より今泉定助に師事して日本精神の鍛錬究明に努めたる結果

一、大日本天皇国の皇謨に基き 天皇親政の大義を宣昭す

二、天皇政治の天則に悖る不色分子一切の掃払を期す三、天皇意思並国体観念を明徴にし民心の統一を期すことを綱領とする教化団体日本皇政会を組織し 其の本部を東京市小石川区駕籠町今泉定助方に置き自ら同会の理事として事業部を担任し皇化運動を為し居りたるものなるところ 昭和七年二月十四日頃より予て知合の被告人井上昭同古内栄司等が国家革新を図らんとし之が手段として政党財閥特権階級の巨頭暗殺を計画し 被告人小沼正が其の同志の一人として同年二月九日井上準之助を暗殺したるものなること被告人菱沼五郎同黒沢大二が孰れも被告人井上昭等の同志にして 官憲より捜査を受け居り之が逮捕せらるゝに於ては被告人井上昭の右計画が挫折するの虞あることを知りながら

(一)被告人菱沼五郎を同年二月十二日より同月十九日迄当時東京府北豊島郡板橋町元滝野川二千四百二十一番地なる自宅に次で 同月十九日より同年三月五日迄予て知合なる大槻豊に依頼して当時同府同郡巣鴨町宮下千六百八十二番地なる同人方に秘に止宿せしめ 尚同年三月五日被告人黒沢大二が被告人方に遁れ来るや同月八日迄同人を前記自宅に潜伏せしめ

(二)同年二月十四日頃より同年三月初旬頃迄の間数回に亘り前記天行会道場に在りたる被告人井上昭及前記浜勇治方に在りし被告人古内栄司と 被告人菱沼五郎同黒沢大二等との間に於ける連絡を執り以て被告人井上昭等が計画したる前記第一の政党財閥特権階級の巨頭暗殺を容易ならしめて 之を幇助したるものなり

(証拠証明省略)

法律に照すに被告人井上昭、同古内栄司、同小沼正、同菱沼五郎、同黒沢大二、 同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅の判示第一の所為は 刑法第百九十九条第六十条第五十五条に該当するを以て其の所定刑中被告人井上昭、同小沼正、同菱沼五郎に対しては無期懲役刑を選択処断すべく 其の余の被告人等に対しては各有期懲役刑を選択し其の所定刑期範囲内に於て被告人古内栄司同四元義隆を各懲役十五年に 被告人池袋正釟郎を懲役八年に被告人久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之を各懲役六年に 被告人黒沢大二、同森憲二、同星子毅を各懲役四年に夫々処すべく 被告人伊藤広の判示第二の所為は刑法第百九十九条第六十条第五十五条第六十二条第一項に該当するを以て其の所定刑中有期懲役刑を選択し 同法第六十三条第六十八条第三号に則り法律上の減軽を為し其の刑期範囲内に於て同被告人を懲役三年に処すべく 被告人古内栄司、同黒沢大二、同四元義隆、同池袋正釟郎、同久木田祐弘、同田中邦雄、同須田太郎、同田倉利之、同森憲二、同星子毅、同伊藤広に対し 同法第二十一条に依り各未決勾留日数中五百日を夫々右本刑に算入すべく 主文掲記の押収物件は本件犯罪の用に供し又は供せんとしたるものにして被告人等以外の者に属せざるを以て同法第十九条第一項第二号第二項に依り 之を没収すべく訴訟費用は刑事訴訟法第二百三十七条第一項第二百三十八条を適用して全部被告人等の連帯負担とす 依て主文の如く判決す

昭和九年十一月二十二日

東京地方裁判所第一刑事部

裁判長判事藤 井 五一郎

判事 居 森 義 知

判事 伊 能 幹 一

この著作物は、日本国の旧著作権法第11条により著作権の目的とならないため、パブリックドメインの状態にあります。同条は、次のいずれかに該当する著作物は著作権の目的とならない旨定めています。

  1. 法律命令及官公󠄁文󠄁書
  2. 新聞紙及定期刊行物ニ記載シタル雜報及政事上ノ論說若ハ時事ノ記事
  3. 公󠄁開セル裁判󠄁所󠄁、議會竝政談集會ニ於󠄁テ爲シタル演述󠄁

この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。