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漱石山房の秋


 夜寒よさむの細い往来わうらい爪先上つまさきあがりにあがつてくと、古ぼけた板屋根の門の前へ出る。門には電灯がともつてゐるが、柱に掲げた標札の如きは、ほとん有無うむさへも判然しない。門をくぐると砂利じやりが敷いてあつて、その又砂利の上には庭樹の落葉が紛々ふんぷんとして乱れてゐる。

 砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると、これもまた古ぼけた格子戸かうしどほかは、壁と云はず壁板したみと云はず、ことごとつたに蔽はれてゐる。だから案内を請はうと思つたら、まづその蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴ベルボタンを探さねばならぬ。それでもやつと呼鈴ベルを押すと、明りのさしてゐる障子が開いて、束髪そくはつつた女中が一人ひとり、すぐに格子戸の掛け金をはづしてくれる。玄関の東側には廊下があり、その廊下の欄干らんかんの外には、冬を知らない木賊とくさの色が一面に庭をうづめてゐるが、客間の硝子ガラス戸を洩れる電灯の光も、今は其処そこまでは照らしてゐない。いや、その光がさしてゐるだけに、向うの軒先のきさきに吊した風鐸ふうたくの影も、かへつて濃くなつた宵闇よひやみの中に隠されてゐる位である。

 硝子戸から客間をのぞいて見ると、雨漏あまもりの痕と鼠の食つた穴とが、白い紙張りの天井てんじよう斑々はんぱんとまだ残つてゐる。が、十畳の座敷には、赤い五羽鶴ごはづるたんが敷いてあるから、畳の古びだけは分明ぶんみやんではない。この客間の西側(玄関寄り)には、更紗さらさ唐紙からかみが二枚あつて、その一枚の上に古色こしよくを帯びた壁懸けが一つ下つてゐる。麻の地に黄色に百合ゆりのやうな花をぬひとつたのは、津田青楓つだせいふう氏か何かの図案らしい。この唐紙の左右の壁際かべぎはには、余り上等でない硝子戸の本箱があつて、その何段かの棚の上にはぎつしり洋書が詰まつてゐる。それから廊下に接した南側には、殺風景さつぷうけい鉄格子てつがうしの西洋窓の前に大きな紫檀したんの机を据ゑて、その上にすずりや筆立てが、紙絹しけんの類や法帖ほふでふと一しよに、存外行儀よく並べてある。その窓をあました南側の壁と向うの北側の壁とには、ほとんど軸のかつてゐなかつた事がない。蔵沢ざうたく墨竹ぼくちく黄興くわうこうの「文章千古事ぶんしやうせんこのこと」と挨拶をしてゐる事もある。木庵もくあんの「花開万国春はなひらくばんこくのはる」が呉昌蹟ごしやうせき木蓮もくれん鉢合はちあわせをしてゐる事もある。が、客間を飾つてゐる書画は独りこれらの軸ばかりではない。西側の壁には安井曽太郎やすゐそうたらうの油絵の風景画が、東側の壁には斎藤与里さいとうより氏の油絵の艸花くさばなが、さうして又北側の壁には明月禅師めいげつぜんじ無絃琴むげんきんと云ふ艸書さうしよ横物よこものが、いづれもがくになつてかつてゐる。その額の下や軸の前に、或は銅瓶どうへいに梅もどきが、或は青磁せいじに菊の花がその時々で投げこんであるのは、無論奥さんの風流に相違あるまい。

 もし先客がなかつたなら、この客間を覗いた眼を更に次のへ転じなければならぬ。次の間と云つても客間の東側には、唐紙からかみも何もないのだから、実は一つ座敷も同じ事である。唯此処ここは板敷で、中央に拡げた方一間はういつけんあまりの古絨毯ふるじゆうたんほかには、一枚の畳も敷いてはない。さうして東と北の二方にほうの壁には、新古和漢洋の書物を詰めた、無暗に大きな書棚が並んでゐる。書物はそれでも詰まり切らないのか、ぢかに下のゆかの上へ積んであるかずも少くない。その上やはり南側の窓際に置いた机の上にも、軸だの法帖はふでふだの画集だのが雑然とうづたかり上つてゐる。だから中央に敷いた古絨毯も、四方に並べてある書物のおかげで、派手はでなるべき赤い色がわづかばかりしか見えてゐない。しかもそのまん中には小さい紫檀したんの机があつて、その又机の向うには座蒲団が二枚重ねてある。銅印どういんが一つ、石印せきいんふたつ、ペン皿に代へた竹の茶箕ちやき、その中の万年筆、それからぎよく文鎮ぶんちんを置いた一綴りの原稿用紙――机の上にはこのほか老眼鏡ろうがんきやうが載せてある事も珍しくない。その真上まうえには電灯が煌々くわうくわうと光を放つてゐる。かたはらには瀬戸火鉢せとひばちの鉄瓶が虫の啼くやうにたぎつてゐる。もし夜寒よさむが甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉ガスだんろにも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机のうしろ、二枚重ねた座蒲団の上には、何処どこ獅子ししを想はせる、脊の低い半白はんぱくの老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本たうほんの詩集をひるがえしたりしながら、端然たんぜんと独り坐つてゐる。……

 漱石山房そうせきさんぼうの秋のは、かう云ふ蕭條せうでうたるものであつた。


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