『清須合戦記』(きよすかっせんき) - “天文年中織田彦五郎等、主家斯波氏を押領せしを以て、同苗信長之を討滅せし事を記せり” -『改定史籍集覧総目解題』より
【 NDLJP:338】
清須合戦記
足利将軍尊氏天下兵馬ノ権ヲ執ラレケル頃其氏族斯波高経尾張国ヲ領ス
〈足利尾張守家氏ノ孫ナリ号玉泉寺殿〉其子治部大輔義将洛ノ二条勘解由小路武衛陣ニ居ス仍テ武衛家ト称ス其子従三位左兵衛督義重其子右兵衛督義淳其弟従三位義郷其子治部大輔義健ニ至代々尾張越前両国ノ守護ニ補セラル越前ヘハ甲斐氏ヲ下シ尾張ヘハ織田家ヲ遣シテ守護代トセラレケル長禄四年義健卒シテ嗣ナシ其族大野修理大夫カ子義敏ヲ継嗣トシ斯波左兵衛佐ト称ス然ルニ甲斐朝倉織田等カ徒義敏ト不合シテ廃之渋川左兵衛佐義紀カ子義廉ヲ迎ヘテ斯波ノ家督トス是ヨリ義敏義廉互ニ争テ乱ヲ発シ洛中物念ナリシ応仁元年二月義廉管領ニ補セラル然ルニ山名細川カ凶乱発リテ義廉山名宗全ニ与ス是ヨリ天下大ニ乱レテ合戦止時ナシ文明五年宗全及細川勝元死シテ京師軍ヲ統ル大将ナカリシカトモ両党猶対陣シテ相闘フ同九年十一月諸軍各京ヲ去テ自領ノ国々ニ帰ル義廉於此尾張国清須城ニ入レリ其子左兵衛督義良其子治部大輔義達ト称ス永正十一年八月大河内備中守貞綱カ援兵トシテ遠江国へ進発シ引間城籠ラレシカ御
本マヽ下軍 破シ降ヲ乞テ帰国セリ
〈敵ハ今川氏親也〉是ヨリ威衰へ其子義統ニ家督ヲ譲テ大永元年卒セラル義統治部大輔ニ任セリサレトモ家風衰ヘテ家老織田大和守入道常祐其弟因幡守国政ヲ盗執リ常祐天文ノ初ニ死シテ其養子彦五郎信友家ヲ続ケル天文二十三年ノ頃義統ノ家人簗田弥次右衛門某名古野弥五郎ト謀リ織田信長ニ申シ通シテ彦五郎ヲ誅セントス義統モ守護ハ名ノミニシテ彦五郎専逆威ヲ振フ事ヲ悪ミ信長ト内々心ヲ合セラレシトカヤ簗田名古野先登トシテ信長ノ兵士七百余騎ト共ニ清須城ヲ攻シサレトモ彦五郎カ人数強クシテ城ヲ抜ニ由ナク一旦和ヲ講シ軍ハ散シケリ義統ハ本丸ニ居給フテ面ハ彦五郎ヲ援ル体ナリケレトモ信長ト内通ノ事アレハ彦五郎終ニハ殺サレナント風聞アリケリ同年七月十二日義統ノ若君堀江ノ辺へ河狩ニ出ラレ家人過半供シケレハ彦五郎能時分ト思ヒ己カ家人織田三位房坂井大膳亮河尻左馬助河原兵助等ニ示シ合セ急ニ本丸ヘ取カケテ攻ケル森刑部少輔政武同掃部助丹羽左近柘植宗花同朋善阿弥等内外ニ走リ回テ敵数多討取其身モ各戦死ス賊徒猶重リテ攻寄シカハ舘ニ火ヲカケ義統ヲ始旧老ノ臣一族三
十カ千 余人一同ニ腹カキ切ツテ失ニキ十余代相続ノ高家一時ニ亡ヒラレケルコソ悲シケレ若君岩龍丸ハ河辺ニテ此ヲ聞直ニ名古屋へ遁レテ信長ヲ頼レケレハ先天王坊ニ入レマヒラセラル其弟君ハ生捕ニナラレシカ兎角シテコレモ名古屋ヘ遁ラレシ去程ニ信長彦五郎カ逆意ヲ
本マヽ声 シ勢ヲ集テ同七月十八日清須ヘ押シ寄ラル先手ハ柴田権六勝家足軽頭ニハ安孫右京進忠頼藤江藤蔵大田又助木村源五郎芝崎孫三郎山田七郎五郎天野佐左衛門等許多ノ兵士我先ニト進ミケリ城兵ハ山王口へ出張テ禦キ闘シカ究竟ノ名古屋勢ニ追マクラレ四方ヘ敗北シ或ハ追討ルヽ者数百人ナリシ乞食村誓願寺前ニ相交テ防キケル賊モ終ニ追立ラレテ一同ニ城ニヽケ入城ノ兵討レシ者ニハ河尻右馬允織田三位房雑賀修理進原源左衛門尉安食九郎兵衛八牧平四郎高北伝次古沢七郎左衛門尉等ヲ初八十余人ナリ御方義理ノ吊合戦ナリケレハタレカハ残ルヘキ武衛恩顧ノ諸侍面モフラス攻撃ケル其中ニ田宇彦市トテ義統サシモ寵愛ノ童生年十七歳ナリシカ謀叛ノ
【 NDLJP:339】張本三位房ヲ打取ケル頓テ本城ヲモ攻ラルヘカリシニ緒川ノ城主水野氏ヲ駿州今川家攻ラルヽ由聞ヘシカハ大兵ヲ国境へ入テハ一大事ナリト信長思案アリテ一先外舅斎藤山城入道ヲ頼名古屋ノ留主ヲ請給ヘリ天文二十三年正月斎藤カ家人安藤伊賀守ヲ大将トシテ甲山安
本マヽ斉 熊沢物取等都合一千余人ノ兵士名古屋ニ到着セリ同二十日志賀因幡ノ両郷ニ陣トラセ翌日頓テ信長ハ堺川へ出馬アリテ村木ノ城ヲ攻取駿州勢ヲ追ハラヒ給ヒテ凱陣アリケル同二月清須ノ家老坂井大膳和ヲ乞ヒ織田孫三郎信光ヲ城へ移シ彦五郎ト両守護代ト仰クヘシト申ケレハ信長ハ密議アリテ和睦ニソ成リニケル同四月十九日信光清須へ移リ入南丸ニ居セラル翌二十日大膳カ兄坂井大炊助ヲ城中ニシテ誅セラレシカハ大膳ハ城ヲ落テニケ去リケル彦五郎モ叶ハシトヤ思ヒケン近習五六輩ヲ召連紛出ント支度シケル間ニ兼テ相図ノ狼煙ヲ揚ラレケレハ信長頓テ出馬アル名古屋勢我先ニト清須ヘ馳来リテ本城ヲ取巻頓ニ攻撃ケレハ彦五郎近臣マテ討セ独身トナリ密ニ城ヲヌケ出神明前焼残リシ在家ノ屋上ヨリ逃ントシケルヲ天野佐左衛門鑓ヲ以突落ス森三左衛門頓テヲサヘテ首ヲ取ニケル先祖代々ノ主君ヲ弑セシ天罰ナリ諸人ミコラシニセヨトテ御城門ノ端ニ首ヲ掛ケラレシトカヤ斯テ信長ハ須ノ城ニ移リ義統ノ若君岩龍殿元服ナサシメ武衛治部大輔義銀
〈或ハ右兵衛佐〉ト称シ本丸ニ居マヒラセ尾張屋形トテ崇敬アリケリ永禄四年三州ノ吉良屋形義安ト会盟ノ儀ヲナサシメ万ニ筋目ヲタヽシ給ヒシニ今川家吉良ノ尾州ヘ属セシヲ憤リ軍ヲ催吉良ヲ攻シカハ義安出奔シテ清須へ来リテ客食セリ同年当国戸田庄ノ高家石橋左馬頭義忠河内城服部左京亮ニ与シテ武衛吉良ニ内通シ信長ニ叛逆ス此事露顕アリシ程ニ信長腹立アリテ恩知ラスノ愚人トモナレハ一々首ヲ刎ヘケレトモサスカ家筋主筋又ハ由アル高家ノ果ナレハ命ハカリヲ助クルソトテ武衛吉良石橋三人ヲ三方へ追放タレケル足利家ノ裔近年高家ノ人々モ甚微々ナリシカ此ニ至リテ三家一時ニ浪人トナラレケル石橋ハ服部ヲ頼テ長島へ遁レラレシニ幾程ナク落城セシカハ伊勢へ遁レ河州ニ漂泊シ薙髪シテ三松軒ト称セシ元亀ノ頃畠山昭高ニ依様々罪ヲ謝セラレシカハ
本マヽハ 地ヲ授ラレシトキコヘシ義銀ノ弟義長ハ
〈或ハ義冬〉三州中山庄ニ隠居セラレシカ後ニ織田信雄ニ仕ヘテ津川玄蕃允ト称セシ
【或書曰玄蕃允ニ右衛門佐入道謙入トシテアリト云又津川紋太郎法者アリ是三松軒伯父ト云々】同年ノ秋信長上洛シ将軍家義輝公ヘ参勤ヲ遂尾張守護職ヲ拝セラル是ヨリ尾張ヲハ一円ニ進止アリケルソ目出度アリケル
以塙本一校了 近藤瓶城
明治三十五年一月以大学本再校了 近藤圭造
この著作物は、1901年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)80年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつ、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。
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