浅草文庫

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浅草文庫[編集]

 板坂卜斎の浅草文庫は、寛永時代のものにて、ここに記さんとするは、明治七年の文庫なり。

 この年、始めて地方官会議を東京に開くはずにて、九月十日を限り出京するやうに、各地方官に通達せり(正院第八十一号達)。だが、その議場に充つべき適当の建物なく、幸ひ文部省所管、湯島の書籍館の閲覧室は、議場に代用し得べければ、七年七月三十一日に、書籍館の所蔵図書を、浅草蔵前なる須賀橋に近きもと米倉地内に移し(明治九年二月免許、明細東京全図、浅草御蔵の南東隅に、文庫とあるところ)、これを博物館所属浅草文庫と称し、八年十一月十七日より、借覧人規則を定め、公私の借覧を許せり。

 十五年二月の『うきよ』第一二二一号に、「浅草文庫は、東京職工学校とせらるゝに付、右文庫の書籍は、残らず本省へ引渡され、追々は、図書館へ移さるゝよし」とあれば、十五年までは、蔵前にありしなり。

 これより先、湯島にありし聖堂の文庫は、明治に入りても、もとの司書係星野寿平といふ者、丹念に整理し、目録を作り、十四万六千何百巻かを調べ上ぐ。その新製目録は、ただ経史十集の四部に分類するのみならず、外題の字画引き、音引き、倭音引き、外題の字数引きの五種を作りしは、なかなかの丹精なりし。後の女子師範学校の前に、大建物が出来、ともかく、ここにて、誰にも読ませるやうになりをりしなり。

 浅草は、御蔵のあとにて、後の高等工業学校のところ、そこに四棟の土蔵を建てて、書庫とせり。浅草文庫の蔵書銅印の文字は、三条実美の版下にて、書庫の鬼瓦の文字は、それの放大なり。いつれも博物館長、町田久成好事の業なり。

 ずつと後年の話なるが、その文庫の鬼瓦が、上野の寛永寺に伝はり、内二枚は、大槻如電翁に転伝し、如電翁それを、浅草伝法院に寄附して、現存す。

この著作物は、1943年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物はアメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。