【 NDLJP:6】
解題
浅井物語 六巻
本書は、江州浅井氏の祖先浅井新三郎重政より筆を起し、其の子忠政に至り、父に続ぎて武功を彰し、主家京極氏と対抗するに至るまでの事蹟を記したるものなり。
内容、最初浅井氏の祖新三郎重政、京極氏の旗下に属し、追々信用せられ、京極氏の重臣上坂治部大夫に重用せらるゝに至るまでの事蹟と、当時上坂治部大夫は、京極氏の重臣として武威を振ひし事蹟とを記し、治部大夫死去に及びて、重政の子新三郎忠政に至り、遂に上坂氏を追ひ払ひ、玆に浅井氏勢力を振ふことゝなりたり。上坂氏之を京極氏に訟へしも、其の効無く、忠政、上坂氏の拠るところの今浜の城を攻め落し、小谷山に城を構ふ。是に於て京極氏、兵を以て攻むといへども克つ能はず。浅井氏武威益振ふ。京極氏止むを得ず之と和睦するに至る。浅井氏是より繁栄すと筆をさしおきたり。
因云、忠政の子新三郎堅政、堅政の子新三郎助政といふ。助政の子新九郎久政、久政の子新九郎長政といふ。長政に至り、織田氏の為に滅されたり。されば本書は、浅井長政の祖先二代の物語にして、然も浅井氏に於ける全盛時代の事蹟を記したるものなり。
本書寛文二年版を採収す。
大正四年十二月 黑川眞道 識
目次
【 NDLJP:162】
浅井物語 巻第一
第一 浅井備前守先祖の事
【浅井氏家系】浅井備前守長政の先祖を、委しく尋ぬるに、後花園院の御宇嘉吉の頃、三条の中納言政氏公、勅勘を蒙り、左遷の身となり、佐々木京極に預けられ、郷北浅井郡丁野村に籠居して、年月を送り給ふ。妻女を語らひ、男子一人出来給うが、三歳の春の頃、勅勘を許され召返され、上洛し給ふに、程なく煩はせ給ひ、生死無常の習とて、終に失せさせ給ふ。いたはしや御子息、母上に養育せられ、十一歳の頃、母に向ひて宣ふは、人の親は、父母とてこれあるに、我等の父は、何となり行き給ふぞや。母上之を聞くよりも、兎角の御返事もなくして、涕ぐみ給ひしが、やゝありて、されば汝が父は、洛陽三条の中納言殿、勅勘を蒙り、此所におはしゝ時、汝を儲け、程なく召
【 NDLJP:163】返され給ひ、汝をもやがて呼上すべしとありしに、程なく世を早うし給ふ故、自らの今迄養育して、成人させしなり。是こそ父の
記念とて、来国光の脇差を取出し、渡し給へば、父の記念と聞くよりも、涕を流し給ひけり。斯くて十三歳の春、京極三郎殿、鷹狩に出で給ふ折節に、近々と立寄り申されけるは、某幼少に候へ共、御身いかやうの名字をも下され、いかやうにも召使はるべき旨、申されければ、京極殿聞き給ひ、御辺は未だ若年なるに、神妙の次第かな。さり乍ら御辺の父は公卿なり、何として某などの、召使ひ申すべくや。御賄の程をば申行ふべし。名字の儀は、御辺の住み給ふ所、浅井郡なれば、これを名字に参らすると宣へば、忝なしとて、頓て浅井新三郎重政とぞ名乗りける。後には新左衛門とぞ申しける。重政の子息、浅井新三郎忠政とぞ申しける。後には新右衛門尉と号す。忠政の子息三人あり。嫡子新三郎堅政、次男新七郎と号す。これは三田村家へ、養子にぞなりにける。三男新八郎これも大野木家へ、養子にぞ参られける。嫡子新三郎堅政の子息、四人あり。嫡子をば浅井新次郎、後には名字を代へ、赤尾駿河守と申しけり。次男をば浅井新三郎助政、後には備前守と号す。三男浅井新介、後には大和守と号す。四男浅井新六郎、後には五郎右衛門と号す。又浅井備前守助政。子息四人あり。嫡子浅井新三郎、次男浅井新九郎久政、後には下野守と号す。三男、宮内少輔と号す。四男をば僧になし、侍者とぞ申しける。浅井下野守久政子息浅井新九郎長政、後には又備前守と号す。備前守長政、子息四人あり。嫡子万福丸・二女秀頼公御母儀・三女将軍家光公御母儀・四女京極若狭守御室、後に常高院と号す。
第二 上坂治部大夫先祖の事
【上坂景重先祖】去程に、上坂治部大夫景重の先祖は、梶原平蔵景時二男平次景高、其子平八兵衛景信、牢々して郷北に来り、京極殿を頼み、坂田郡上坂村に居住す。平蔵景時より廿四代に当つて、上坂平兵衛尉景家の子息平次郎景重とぞ名乗りける。其時の京極殿は、宇多の天皇より十代佐々木源蔵秀吉が嫡子佐々木三郎盛綱より、九代京極三郎高家、後には官山寺殿とぞ申しける。上坂平次郎、十三歳にて元服して、京極殿へ
【 NDLJP:164】奉公に参り、幼少の時分より利発なるにより、京極三郎殿御気に入りて、側を離れず召使ひ給ふ。翌年平次郎十四歳の時、佐々木六角弾正少弼と、郷州愛知川に於て合戦の時、粉骨の働、鑓付首討取り、其後又脇を合せ、度々の軍功比類なきによつて、いよ
〳〵屋形の気に入りて、家老のものを乗越え、万事平次郎次第になりぬ。頓て改名いたし、上坂治部大夫景重とぞ名乗りける。
第三 上坂治部大夫、京極殿名代仕る事
或時京極三郎殿、上坂治部大夫を呼寄せて、密に宣ひけるやうは、汝を頼むべき仔細あり、同心に於ては、申付くべしと宣ひければ、治部大夫、兼て我等幼少の時より、御奉公仕り、今斯様に御取立ある上は、何様の御用にも立ち申すべしと、朝夕の存念に候へば、いかやうの儀にても、仰を背き申すまじと、申上げければ、三郎殿、斜ならず悦び給ひて、いやとよ、別の仔細にあらず。我等郷北の意見をいふと雖も、佐々木六角は大名なり、我等は小身なれば、明暮の戦に利を得る事なく、空しく月日を送る事、無念の次第なり。汝我が名代を仕り、郷北の侍共・近習・外様の者までも、汝心の儘に召使ひ軍功を遂げ、向後汝分別次第、万事仕置仕るべし。汝心に叶はざる事あらば、我に申聞くべし。諸事頼むと宣へば、治部大夫承りて、首を地に付け申上げけるは、只今申上ぐる如く、何様の御用にも、罷立つべしと存ずる上は、御諚を背き申すまじと、覚悟仕りて候へども、此儀に於ては、御免なさるべき旨、其上郷北の諸侍、何として私の下知に付き申すべくや。四方の聞えもいかゞしく候。是非とも御免なさるべき旨、涕を流し申上げければ、三郎殿聞召し、さればこそ、汝左様に申さんと思ひ、前かどに、口を堅めてあるなるに、斯くは辞するぞや。諸侍の儀は、汝が下知に附くやうに、申付くべくぞ。其段違乱する者あらば、国中を払ふべくぞと宣ひける。治部大夫も、両三度迄辞退申されけれども、たつて宣ふなれば、是非を申上ぐるに及ばず、御請をこそ申しけれ。三郎殿、斜ならずに喜び給ひて、郷北の諸侍・近習・外様を呼寄せ宣ひけるは、某年もより、万事苦労になる故に、我等名代を、上坂治部大夫に申付くる間、彼を我等と思ひ、軍功をも頼入ると宣へば、何も
【 NDLJP:165】畏り存ずるとて、異儀申す者もなうして、座席をぞ立ちにける。親しき者共寄会ひ、口ずさみしけるは、京極の家、この時尽く、他家に渡し給ふ事、前代未聞と唱へける。斯くて治部大夫、名代仕りければ、いよ
〳〵門前に、市をぞなしにける。郷北の人人、靡かぬ者もなかりけり。
【上坂景重の勢威振り】斯くて坂田郡上平に、京極殿の御館を建て、近習の人々家を作り立て、三郎殿移徙ありて、京より役者を呼下し能をさせ、めでたかりける事共なり。治部大夫は、上坂村に城郭を構へ、郷北の仕置をこそしたりけれ。上坂村に、上坂伊賀守といふ侍あり。先祖を尋ぬるに、多田の満中より廿六代の後胤上坂伊賀守と申しけり。上坂治部大夫と両上坂にて、一門の二百人余もありしが、今は治部大夫が威に恐れ、伊賀も、治部大夫へ出仕す。一門はいふに及ばず、治部大夫が下知につくなり。
第四 浅井新三郎、己高山木の本に祈誓をかくる事
去程に、浅井新三郎、未だ若年の時、つく
〴〵と物を案ずるに、侍たらん者の子孫は、天下をも心懸け、せめて一国の主ともならずして、徒に月日を送る事、無念の次第かな。何卒案を廻らして、北郡をも攻めて、我手に入れたしと、朝夕思案を巡らしける。さればとよ昔より、仏神に祈誓かくる、習なれば、爰に木の本の地蔵大菩薩は、龍樹菩薩の御作、三国伝来の尊容、本師附属の大導師、今世後世を引導し、衆生済度の御誓願、今以て私なし。歩みを運び祈誓せば、などか成就せざるべきと、跣の
行にて、百日の日詣をし給ひける。已高山は、伝教大師の御草創、延暦年中に、唐より帰朝し給ひて、然るべき地に、一寺を結ばゝやと思召し、畿内近国を尋ねさせ給ひしが、然るべき地なしとて、郷北伊香の郡に来て、彼山を御覧じて、一院を建立し、観音の像を安置して、已高山とぞ号し給ふ。誠に大慈大悲の御誓願、衆生済度の御方便なり。是へも参詣し、祈誓申さんとて、又百日詣ぞし給ひける。
第五 浅井新三郎、上坂治部大夫所へ奉公に出づる事
【 NDLJP:166】
【上坂六角】合戦永正五年の春の頃、浅井新三郎、上坂治部大夫景重へ奉公に出づる。本より才覚ある者なれば、治部大夫気に入りて、新三郎十五歳の秋、六角殿と取合ひありし時、治部大夫軍に打勝ちて、敵を追払ひし時、高宮兵介と名乗り、新三郎と鑓を合する時、兵介鑓を打捨て引組みて、新三郎を取つて押へ、既に首をかゝんとせし時、下より脇差にて、草摺を引上げ、二刀刺し通せば、さしもに剛なる兵介も、弱りける所に、新三郎が郎党、主を討たぜじと駈付き、兵介を取つて引退け、首取り給へと申しければ、得たりとて首を打落し、治部大夫に見せければ、若年の者の、比類なき働とて、感じ給ひけり。其後も度々の軍功をぞ励ましける。或時治部大夫、佐和山表へ出張ある所に、六角方に中原安芸守、山の片陰に人数を隠し置き、敵を相待つ所に、治部大夫、向ふ敵を追払ひ、勇みに勇んで追懸くる所を、中原、鬨をどつと作り、横鑓に突懸れば、足をもためず敗軍す。六角勢是に力を得、我先にと取つて返し追つかけたり。治部大夫も、既に危く見えし時、新三郎、磯山の手先の陰に、討死を極め隠れ居て、よき時分を見計らひ名乗りかけ、長刀を水車に廻して、切つて懸る。後より大橋善次郎、浅井新次郎と名乗り、続いて突懸り、敵味方、爰を先途と防ぎ戦ひける所に、治部大夫之を見て、浅井討たすな者共、返せ〳〵と下知し、尤も先懸けて進まれければ、何れも取つて返し、敵を難なく追払ひ、上坂へぞ帰陣し給ひける。今度浅井新三郎が働、侍たらん者は、手本にせよと宣ひけり。治部大夫帰陣しては、陣中の苦労を慰めんとて、諸侍を呼集め、次第を追うて振舞ひ給ふ。百の遊乱さま〴〵なり。陣中にて、手に合ひたる者には、朱椀・朱折敷にて振舞ひ給ふ。後れを取りたる者には、黒折敷・黒椀にて振舞ひけり。誠に諸人に貌をまぶられける事、生きたる甲斐ぞなかりける。何れも座席を立つ時は、治部大夫立出で、今度各の働、誠に神妙なり。一命を軽んじ給ひ、軍忠浅からずと宣ひけり。其しな〴〵によつて、褒美家恩を宛行ひ給ふ。総じて治部大夫は、仁義礼智正しくして、京極殿を敬ひ奉り、諸侍へ礼儀をなし、万民を助け給ふ故、上下諸共に、従はぬ者はなかりけり。
浅井物語巻第一終
【 NDLJP:167】
浅井物語 巻第二
第一 佐々木六角殿と上坂治部大夫和睦の事
斯くて佐々木六角殿と上坂治部大夫、佐和山表に於て、互に長陣を張りて、日々夜夜の迫合、討っつ討たれつして、利を得る事なかりけり。治部大夫、侍共に向つて宣ふは、誠に年中に、五度七度の取合にて、面々も我等も、心に油断なし。此度は是非佐々木六角を討ち申すか、我等腹を切るか、二つに一つと極むる間、各の軍功、頼み入ると宣へば、何れも尤の儀にて候、我々共も、討死を相極め、無二の忠節いたすべしと、申されければ、治部大夫、斜ならず喜びて、さらば酒を進めんとて、乱舞をぞし給ひける。此事、六角方へ聞えければ、家老の者共を呼集め、此事いかゞあるべきと、評定取々なる所に、平井加賀守、進み出でゝ申すやう、先づ此度は無事を繕ひ、御人数を入れられ、重ねて猛勢を以て、上坂の城へ押寄せ、治部大夫を討たん事、何の仔細候べき。此度治部大夫、討死を極め罷向ひ、無二の合戦候に於ては、此方の人数も、大半討たれ申すべし。其上昔より、少敵とて侮るべからずと、申候へば、各何と御分別候と、申しければ、後藤左衛門尉進み出で、平井申さるゝ儀、尤と存ずる旨申しければ、六角殿宣ふは、さあらばいかやうにも、面々分別を以て、無事を繕ひ給ふべき旨、宣ひければ、平井重ねて申しけるは、小倉将監は、治部大夫と一門なれば、彼を召され、能々御含められ遺され、尤と存ずる旨申しければ、さらばとて、小倉を呼寄せ、後藤申されけるは、今度永々の取合にて、軍勢も疲れたり。敵方もさぞあらん。御辺は、治部大夫一門の事なれば、何卒無事を繕ひ、互に勢を入る様に、才覚あるべき旨、申されければ、将監承りて、相調へ申す事いかゞに存ずる間、此儀御免候へと申しければ、いや
〳〵左様の儀でなし。和睦の事は、兎角互の事なれば、疾々罷越さるべしと、申されければ、さらば罷越し、治部大夫が心中をも承るべしとて佐和山に行きて、治部大夫に見参して、此由斯くと語れば、治部大夫申しけるは、誠に少弼
【 NDLJP:168】殿と、年来相戦ひ候へども、終に勝負を遂げず、無念の次第故、此度は無二の軍を遂げ、討死を極めたる間、左様の事は、中々存寄らぬ事と、申されければ、将監、物に慣れたる者なれば、少しも腹立の気色なく、小声になりていふやうは、我等の儀は、御辺の紋をも汚しゝ上は、毛頭悪事は申すまじきぞ。此度六角方、殊の外長陣に、草臥れたると見えたり。御辺の存命に無事を調へ、向後軍なきやうに、相定むべしと、申されければ、治部大夫、此度は兎角討死と極むる間、御辺とも今生の暇乞にて候。はや
〳〵帰へられ候へと、あらゝかに申しければ、さらばとて座を立ち、家老共を近付け、此儀いかゞと語れば、家老も長陣に草臥れ、此段治部大夫の為め宜しき事とて、将監と相具して出で、治部大夫に向つて、噯の筋目、将監申されければ、家老の者共、此度は将監殿宣ふ通になさるべしと、申しければ、治部大夫、何れも対陣に、草臥れたりと覚ゆるなり。其儀ならば、兎も角もと宣ひければ、将監斜ならず喜びて、早早立帰り、後藤に斯くと申しけり。此度の無事、早速に相済み候事、偏に御辺の智略深き故と感じけり。上下おしなべて、喜ぶ事限なし。頓て南北の境に膀示を立て、愛知川の河より南は、六角少弼領分、河より北は、京極の領分と、互に状を取交し、六角殿は、石寺へ馬を入れられければ、治部の大夫は、上坂に帰陣し給ひけり。
【京極六角和睦】斯くて治部大夫、京極殿へ参り、南北和睦の筋目、具に申上げければ、京極殿、斜ならずに思召し、今に始めぬ事なれども、此度は□□の軍功宜しき故、我等思ふやうに無事調へ、一入大慶なりとぞ感じ給ひける。上下諸民おしなべて悦び合へる事限なし。
第二 上坂治部大夫法体の事
去程に、南北無事になりければ、郷北の諸侍、朝夕乱舞にてぞ暮しける。さて又治部大夫、つく
〴〵物を案ずるに、はや年も過半たけければ、法体し、後世に心を寄せばやと思案して、京極殿へ、法体の儀訴訟しければ、京極殿聞召し、汝左様になりては、大将に誰をか定むべき。先づ今度はさしおきて、養子をも仕り、宜しき時節に、法体をいたし候へと、宣へば、承りて、御諚尤に候へども、法体仕るとも、軍出来るに於ては、前々の如く御名代仕り、敵を追払ひ、国の仕置をも仕るべし。且又養子の儀
【 NDLJP:169】は、御前へ伺ひ、頓て相究め申すべし。其段御心安かるべき旨、申上ぐれば、京極殿、斜ならずに悦び給ひて、兎も角も其方次第と宣へば治部大夫喜悦して帰宿いたし、髪を下し、法名泰貞斎とぞ号しける。
【上坂景重法体】上坂信濃守も法体して、清眼と号す。上坂修理亮も法体して、了清と号すなり。泰貞斎、愚意を廻らすに、今斯様になる事、偏に京極殿御取立故なり。此御恩いかでか報ずべき。せめて御息を一人申下し、我等名跡を譲るべしと思案して、京極殿へ、此由斯くと申上ぐれば、いかやうとも、汝所存次第と宣ひければ、斜ならず喜びて、御子一人申請け、即ち治部大夫と号す。上坂の城に居ゑ置き、我身は、夫より一里余り西南に、今浜といふ所に、城を拵へ籠居す。斯くて泰貞斎、娘一人ありけるが、浅見対馬守は、文武の達者なればとて、婿にこそしたりけれ。法体して、春向軒と号す。尾上村に、城を拵へ居たりける。泰貞斎、今一人筋目正しき者を見立て、今浜の城を譲り、両人して、京極殿に忠節を励まし、我跡も立つやうにと思はれければ、此事、美濃国の屋形土岐殿伝聞き、内縁を以て申さるゝは、御辺養子望の由を承る。好む所の幸かな。我等子供の中、何れなりとも一人、御辺の望次第に遣すべし。同心に於ては、悦着たるべしと宣へば、泰貞斎申されけるは、土岐殿などの御息を、我等養子には勿体なしとて、同心せざりけり。此由土岐殿へ申しければ、さては是非いやには聞えず、此上は幾度も申遣し、泰貞斎望の如くにいたすべき旨宣ふ。今浜へ立越えて、土岐殿存分、具に語れば、さても冥加なき事共かな。さり乍らいかでか我等養子に仕るべしと、両三度迄辞しけれども、達つて申さるゝ故、是非に及ばず。其儀ならば御息を、郷北辰が鼻の川端に捨て置かれ候はゞ、我等若年より、毎夜々々廻り仕る間、見付け拾ひ申すべしと、固く約束して使者を返す。此由土岐殿へ申しければ、さても義深き侍かな。さあらば望の如く、郷北辰が鼻に捨置くべしと遣しけり。泰貞斎、例の如く夜廻りして、御息を見付け斜ならず喜び、我等年来の望を、仏神の憐れみて、捨置かせ給ふかとて、頓て相具し立帰り、囲繞渇仰し給ひけり。辰が鼻の川淵の辺にて、拾ひたる子なればとて、其名を淵子と名付けたり。斯くて十三歳にて元服して、上坂兵庫頭と号す。其後年長けて、泰貞斎は、今浜の内に隠居して、城を嫡子治部大夫に渡し、我が身は念
【 NDLJP:170】仏修行に心を入れ、月日を送りけり。誠に泰貞斎、若年より京極殿に出頭して、度々の軍功、其誉、世に越え、末々まで果報人とて、諸人羨まざらぬはなかりけり。
第三 上坂泰貞斎病死の事
永正十二年の冬の頃より、泰貞斎煩ひ出し、次第々々に弱り行けば、一門家老の者共を呼集め、某病気重り、はや末期に罷成候なり。死後にも、我等仕置の如く、治部大夫を敬ひ、郷北の主と崇むべし。兵庫頭は治部大夫を我主と思ひ、随分忠を尽すべし。治部大夫も、兵庫守に情をかけ、万事相談して、国の仕置を仕るべしと、宣ひけり。其後治部大夫、兵庫守を密に近付けいふやうは、郷北の侍共、何れも心変は之れあるまじ。但し浅井新三郎は、若年の時より、懇に召使ひしが、才智人に勝れ、案深き者なり。度々の軍功数多あり。軍の差引、彼が申す所一つも違はず。立身をもさせたく思ひつれども、汝等が為めに、行末悪しかるべしと思案して、家恩をも行はざりけれども、不足の気色もなく、いよ
〳〵忠功を尽すなり。兎角見届け難き者なり。彼に心を許すべからず。さり乍ら、前々に違ふ事も無益なり。懇に召使ふべしと申されけり。次第に弱りければ、浅見春向軒を近付けて、兄弟の者共は、未だ若年なり。御辺万事計らひ、家老の者と相談して、我等仕置の如く、頼み入り候ぞ。兄弟の者共も、春向軒を、我等と思ひ申すべしと申されけり。永正十三年三月九日、行年五十三歳にて、念仏数返唱へ、終に果敢なくなりにけり。
【上坂泰貞斎病死】治部大夫・兵庫頭一門の人々は、こはいかにとて歎きけり。さてあるべきにあらざれば、葬礼こまやかに取行ひ、よく
〳〵弔ひ給ひけり。
第四 浅井新三郎助政謀叛智略の事
斯くて上坂泰貞斎死去の後、上坂治部大夫に、浅井新三郎、よく奉公いたすと雖も、泰貞斎に変り、万事隔つるやうにせられ、次第に外様になりければ、新三郎つく
〴〵と思案して、泰貞斎死去、幾程も過ぎざるに、我儘を振舞ひ、酒宴のみにて暮し、行末には
引裾るとも、早幹が陳に侍らはゞ、他人の国となさん事無念なり。いかに
【 NDLJP:171】も案を巡らし、治部大夫を追払ひ、郷北を我儘にすべしと案ずれども、小身なれば、斯様の大功思立つ事、誠に蟷螂が斧なり。さり乍ら軍の習なれば、大軍を小勢にて打勝つ事、今代にては細川律師・赤松父子、昔は源の義経・義仲其例数多あり。併ら百分一に足らざる勢にて、思立たんも覚束なし。さり乍ら未だ、うひ
〳〵しきに、治部大夫の行儀悪しきを幸にして、
【浅井新三郎隠謀】此度思立たずば、何の時か期すべきと、縦ひ八十にて果てたるとも、何の仔細のあるべきぞ。某今年廿三歳にて、討死し侍らんこそ、骸の上の面目なり。是非に思立つべしと、舎兄の浅井新次郎に、此由密に語りければ、以ての外の気色にて、御辺は気の違ひ候か、我々兄弟三人の勢、僅に五六十騎に過ぐべからず。其小勢にて、治部大夫を亡さん事、九牛の一毛より猶も劣れり。三田村・大野木は一門なれども、よも同意あるまじきぞ。此儀固く無益なりと申しければ、新三郎、さらぬ体にもてなし、さて又三田村が館へ行き、あらまし斯くと語れば、御辺は気の違ひて、左様の事を申すか。今治部大夫を、諸侍敬ひ候に、勿体なき心中かなと、制しければ、新三郎思ふやう、さては同心之れなしとて、又大野木が館へ行き対面して、此旨密に語れば、さて
〳〵御辺は、大腹中なる事を申さるゝ物かな。三田村我々、御辺に同心いたし候とも、治部大夫が人数には、百分一もあるべからず。中々左様の事は、思寄らぬ事、骸の上迄人に笑はれんも恥辱なり。先づ時節を待ち給へ、又時分もあるべし。先づ治部大夫気に入るやうに、よく奉公し給へと、申しければ、新三郎は立帰り、さても三田村大野木は、甲斐なきものかな。彼が一味に於ては、勢の七八百はあるべし。又我等因みし者相語らはゞ、都合千一二百騎もあるべきに、治部大夫が勢とても、五六千には過ぐべからず。彼奴原を追散らす事、何の仔細のあるべきと、歯がねをぞ鳴らしける。さあらば大橋善次郎は、互に幼少よりの朋友なれば彼に申聞かすべしと、善次郎を密に呼び、此儀いかゞと語れば、善次郎聞きて、さても能く思立ち給ふかな。治部大夫未だうひ
〳〵しき内に、
追立てずんば、いつの時をか期すべきぞ。内々御辺と相談いたすべしと、所存ある所に、能くいひたる物かなとて諾しけり。新三郎斜ならず喜びて、誠に前廉より、御辺は頼もしく存ぜしが、いよ
〳〵頼むと語りければ、善次郎申すやう、御一門なれ
【 NDLJP:172】ば、大野木・三田村殿には、知らさせ給ふまじきかと、申しければ、其儀にて候、彼等に斯くと語りければ、気色を違ひ、我等を物狂などと申し、中々同心なしといひければ、善次郎申すやう、御一門にて候へども、思量少なき腰抜共かなとて笑ひけり。此事洩れ聞えぬ先に、一時も早く思立ち給へ。御辺兄弟三人・我々手勢、都合百五六十騎はあるべし。今少し不足なり。伊部清兵衛は軍功も其隠なし。御辺も我等も、他事なき間なれば、頼みて見んといひければ、新三郎、兎も角も御辺の分別次第とありければ、頓て善次郎、清兵衛方へ行き対面して、只今参る儀、貴殿偏に頼み申す仔細あり。いかやうの事にても、同心あらば申すべしといひければ、清兵衛聞きて、御辺の御用ならば、一命をも参らすべしと申す。清兵衛、善次郎が手を取つて、間所へ行き、早々語り給へと申せば、其儀とよ、我等も浅井新三郎に頼まれ、一命を軽んじ候と申せば、さては如何なる事ぞや、疾々とありければ、されば新三郎逆心を企て、治部大夫を追払はんとの所存なり。貴殿を偏に頼む旨申すなり。清兵衛聞きて、内々は我等、左様に思立ち、貴殿と新三郎とを、頼むべしと存ずる所に、さてははや、新三郎の若輩者に、先をかけらるゝ事無念なり。未だ若年の分として、斯様の事を思立つ事、兎角侍の頭をもいたすべき者なりと感じけり。さて何なりとも我等に於ては、先駈を仕り打破らん。心安く思召せ。斯様の事、延々にては悪しかるべし。明後日は、是非打立つべしとぞ申しける。善次郎、斜ならず悦びて、新三郎に申聞かせんと、暇乞して立ちにけり。新三郎に、様子具に語れば、さても頼もしき心中かなと、喜ぶ事限りなし。彼がいふ如く、明後日、是非に於て取懸くべしと催しけり。
浅井物語巻第二終
【 NDLJP:173】
浅井物語 巻第三
第一 浅井新三郎逆心を企て、上坂へ押寄せ乗取る事
斯くて清兵衛・善次郎両人の者共、新三郎が館へ行き申しけるは、明後日の軍の手立、いかゞ思ひ給ふぞや、様子具に承るべしといへば、新三郎申しけるは、先づ我等存分申すべし。悪しき所は、能きやうに御差図頼み入るなり。先づ明日悉く用意仕りて、日暮れなば、五つ時分に城近く忍び寄り、物見を遣し、彼の城の出入見計らひ、告げ来るに於ては、上坂村に忍入り、百騎の勢を隠し置き、相図の言葉次第に、我等手前へ馳せ参る旨を申含め、御辺両人は、新次郎を召連れられ、残百三十騎の勢にて、上坂村いかにも近き在所へ押寄せ、家々に火をかけ、鬨をどつと作り給へ。其時城中驚き、取る物も取敢ず、我先にと駈出づべし。よき時分を見計らひ、又鬨を揚げ給ふべし。然らば兵庫頭も打つて出づべし。さあらんに於ては、御辺達百騎の勢を連れ、敵の中へ紛れ入り、上坂の城へ駈入り給ふべし。新次郎は三十騎の勢を率し、次なる村に駈入り、又火をかけ鬨を作り、其後何方へなりとも引取るべし。我等は能き時分を見計らひ、敵の帰るやうにして、城中へ紛れ入り、門を堅めたる奴原・番所々々の者共、一々に斬つて捨て、頓て門を打堅め、手詰々々を申付け、敵帰るものならば、射立て斬立て候はん。御辺達、随分早く城の中へ駈入り、共に防ぎて給はれ。若し兵庫頭が勢、駈出でんものならば、上坂の城へ押寄せ、侍共の家々町屋、悉く焼払ひ、様子を見計らひ攻入るべし。敵堅うして叶はずば、丁野村へ引籠るべし。敵猛勢を以て攻来らば、めさます軍して、其上は運次第と快く語れば、二人の者共、さて
〳〵新三郎の軍の手立は、樊噲・張良・韓信・太公望、我朝の源義経・楠正成と申すとも、これにはいかで優るべき。斯様の
方便ならば、郷北は、廿日の中には切取るべし。序を以て、京極殿を追散らし、行々は天下に旗を立つべしと、両人
【 NDLJP:174】の者共感じければ、新三郎も喜びけり。去程に永正十三年八月廿三日の戌の刻に、二百三十騎の勢を率して、丁野村を立ちて、
【上坂新三郎兵を挙ぐ】上坂の城へ押寄せ、相図の如くに新三郎は、百騎の勢を連れ、田の中に伏隠れ、浅井新次郎・伊部清兵衛・大橋善次郎三人の者共は、百三十騎の勢を連れ、上坂近き在々へ忍び入り、家々に火をかけ、鬨をどつと揚げたりけり。上坂の城には、これは如何なる事やらん。何なる者の謀叛ぞや。定めて泰貞斎が言置きし浅井新三郎にてぞあるらん。此者が手勢之れありとも、五十か三十かならではあるまじき、急ぎ駈向ひ、生捕にせよやとて、逸雄の若武者共、我先にとぞ馳出でける。兵庫頭も、上気なる人なれば、頓て駈出で給へば、城内には人数をも残さず、二千余騎の者共、我劣らじと駈出でたり。新三郎は其紛に、百騎の勢にて、城内に駈入りければ、門番・矢倉々々の番・役所々々の者共、これは如何にと、防ぎ戦へども、一々に射倒し斬伏せければ、防ぐ事叶はずして、我先にとぞ落行きける。
【上坂新三郎等上坂城を乗取る】斯くて清兵衛・善次郎も、百騎を引具して、城内へ駈入りければ、新三郎、斜ならず喜びて、門々役所々々を堅め申付け、帰る敵をぞ待ちたりける。浅井新次郎は、次なる郷に忍び入り、火をかけ鬨をどつと作り、行方知らずに引取りけり。上坂勢は之を見て、さればこそ小勢なるぞ、敵一人も残さず討取るべしとて、彼村へ押寄せけれども、一人も敵なし。所の者を近付け尋ねければ、武者と思しき者三十人計り馳せ来り、家々に火をかけ鬨を揚げ、行方知らず帰り給ふと、申しければ、さても悪き奴原かなとて、上坂の城へ帰り入らんとせし所に、城内より究竟の射手共差詰め引詰め散々に射ける間、上坂勢に、手負・死人数多出来ければ、是にや怯みけん、浅井が不意の
方便に当つて、さては早や、敵に此城を乗取られけるこそ無念なれ。この儘攻むべしと宣へば、上坂信濃守申しけるは、いやとよ何の方便もなく、むざと攻寄せなば、又敵に追立てらるべし。諸人の嘲も候べし。先づ引取り給ひ、今浜にて、治部大夫殿と御談合候て、明日押寄せ攻め給はゞ、何の仔細の候べきと、申しければ、皆此儀に同じて、今浜指して引きにけり。清兵衛・善次郎、此由を見るよりも、臆病なる奴原を、一々に斬つて捨てよと、門を開き駈出でんとす。新三郎之を見て、さしもに剛なる御辺達、左様の事はし給ふべからず。大勢の中へ
【 NDLJP:175】斬つて出づる物ならば、一端は敗北すとも、物慣れたる者取つて返し、附入にせられては悪しかりなん。今夜の勝負は、我々存分なり、静まり給へと、制しける。両人の者共、尤なりとて笑ひ止まりけり。斯くて上坂勢、今浜指して落行きければ、治部大夫は驚き、是はいかにと尋ねければ、今夜の次第、斯くの通りと申せば、無覚悟なる次第にて、城を早速乗取らるゝ物かなと、あらゝかに怒りけり。扨
明日廿四日の早朝に、浅井新三郎助政逆心仕り、上坂の城を乗取る由、其隠なければ、新三郎と知音の者共、さても大気なる者かな。いで此度の軍なれば見継がんと、浅井新六郎・同新分・伊部助七・丁野弥介・田部助八・尾山彦右衛門尉、彼等六人、其勢二百余騎計にて、上坂の城へ駈付け、新三郎に対面して、御辺大儀を思立ち給ふものかな。朋友なりし因に、討死せんと参りたり。斯様の事思立つならば、など我等共に知らせ給はぬぞ。日頃の御情、相違したりと申せば、新三郎、さて
〳〵早速、是へ駈付け給ふ事、弓矢の御情、あげて数ふべからずと喜びける。大野木・三田村の人々も、此由を聞きて、扨も
〳〵新三郎は、大腹中の者かな。我等共の意見をも用ひずして、上坂へ押寄せ、城を乗取るなり。定めて一両日に、今浜より押寄せ攻めらるべし。とても遁れざる事なれば、上坂へ馳着き、新三郎と一所に、討死いたすべしとて、八百余騎の勢を連れ、上坂へぞ赴きける。新三郎に対面ありて、御辺は、我々共制せしをも聞入れず、早速思立つものかな。定めて今明日中に、今浜より押寄すべし。随分働き討死をいたすべしと語れば、新三郎申しけるは、さて
〳〵両人、是迄馳着き給ふ事、忝なしと喜びて、此上は幾万騎にて寄せ来るとも、一々に
追散らさんと喜びける。大野木・三田村之を聞き給ひ今に始めぬ新三郎のがさつかなとぞ笑はれける。
第二 上坂治部大夫、上坂へ押寄せ給ふ事
斯くて今浜の、城にて、軍の評定とり
〴〵なり。上坂掃部頭、進み出で申されけるは、兎角時刻移りては悪しかりなん。世間の人の習にて、古きを捨て新しきに附くものなれば、御家中にも、新三郎に心を通はす者多かるべし。勢の附かぬ先に、一刻も早く押寄せ、蹈潰し給へと申しければ、一門家老、此儀いかゞと評定す。浅見春
【 NDLJP:176】向軒は、浅井が謀叛を聞くよりも、子息対馬守を近付け、定めて今浜には、軍の評定取々にて、定まる事あるまじきぞ。敵に勢の附かば悪しかりなんと存ずるなり。早早今浜へ行き、治部大夫を諫め上坂に押寄せ、新三郎討つべき事尤なりとて、取る物も取敢ず、手勢五百余騎引具して、今浜へ駈付け、治部大夫に対面して、何とて御油断候ぞ、一刻も早く押寄せ、新三郎其外籠城したる奴原、討取り給へと、申されければ、京極殿を始めとして此儀に同じ、我先にと打立ちけり。今日の軍の侍大将には、上坂信濃守・同掃部頭・浅見対馬守、右三人にぞ極りける。斯くて永正十三年八月廿五日の早天に、今浜勢都合六千余騎を率し、上坂の城へ押寄せけり。春向軒、治部大夫に向つて申されけるは、敵は小勢なれば、難なく乗取るべし。さり乍ら浅井新三郎は、手早き者なれば、叶はじと存ずるならば、万事を捨て、御旗本へ突懸り申すべし。軍に馴れたる者共、御旗本に残し置かれ然るべし。我等も後備に立つべし。斯くて城近くなりければ、手組をして、城を大取巻にぞしたりける。清兵衛・善次郎二人の人々、大野木・三田村を呼寄せて、敵はや大取巻にして候ぞ。此方の城の持口を、御定め候へと、申しければ、新三郎に問ひけるに、新三郎聞きて、今日の軍の
方便は、無二の軍こそよく候へ。取巻かれては、中々次第々々に小勢にて悪しかりなん。一番合戦は、清兵衛・善次郎し給へ。二の目は我等、三番は、大野木・三田村殿を頼み申すなりとぞ申されける。三田村・大野木聞きて、それは荒気なり。先づ敵の様子を見計らひ、よき時分に、切つて出でんと、申されければ新三郎重ねて申されけるは、軍の時分は、只今こそ能き時分なれ。図を抜かしては叶ふまじ。早々御出で候へと申しければ、善次郎・清兵衛尤とて、勢を引具して、門の側にぞ控へたる。敵近々と攻寄せければ、新三郎敵の様子を見計らひ、時分は能きぞと門を開き、一度に鬨を作り懸け、喚き叫んで斬つて懸れば、敵一支も支へずして、蛛の子を散らすが如くに、我先にと敗北す。味方は是に勢ひ、我先にと討出でければ、上坂掃部・
口分田彦七両人の者共、鑓を横たへ穢き者共かな。敵に味方を合すれば、十分一もなきぞ、返せ返せと罵り、討死は爰なりと、喚き叫んで突懸かれば、清兵衛・善次郎も心は猛く勇めども、此勢に追立てらる。新三郎之を見て、鬨を噇と作り、面も振らず切つて懸
【 NDLJP:177】れば、上坂掃部・口分田彦七の人々、爰を先途と防ぎ戦へども、新三郎に追立てられ、旗本指して引きにけり。新三郎は其勢を以て、旗本指して突懸かれば、旗本騒動して、我先にと落ちにけり。浅見春向軒之を見て、穢き奴原かな、討死せよと、呼ばはつて、横鑓に突いて懸る。是は武勇の名人とて、はや引色に見えければ、後に控へたる大野木・三田村、続いて押寄すれば、さしもに剛なる春向も、今浜指して引きにけり。新三郎、何処迄か遁すべきと、喚き叫んで追討に討ちければ、春向軒も、既に討たるべう見えし所に、浅見新七・堀屋弥七、取つて返し討死す。
【上坂治部大夫敗軍】此間に春向、落延び給ひけり。新三郎之を見て、春向軒を討洩らす事の無念さよ。さり乍ら味方の勢も疲るべし、長追しては悪しかりなんと、勢を全うして、上坂の城へ引きにけり。今日の軍に、敵百八十騎討たるれば、味方も卅八騎ぞ討たれける。今日新三郎軍の方便、古今稀なる働かなと、上下諸共に感じけり。
第三 上坂治部大夫軍に打負け、重ねて評諚の事
去程に、治部大夫軍に打負け、今浜の城へ引籠り、敗軍の士卒を集め、頓て上坂に押寄せ、此度は無二の合戦を遂ぐべしとて、方々へ廻文を遣し、猛勢を催しけり。此事上坂の城へ告げ来れば、善次郎・清兵衛申すやう、此の勢を以て、明日未明に、今浜へ押寄せ、平攻に攻むるならば、はか
〴〵しき矢一つも射出し、打出づる者もあるまじく、大略は落行くべし。一々に討つて捨つるものならば、治部大夫も、此紛に落行くべし。追討に討取るべきに、何の仔細の候べき。打立ち給へと申しければ、新三郎、尤にて候へども、今浜の城も丈夫に拵へ、堀深くして土居高し。其上浅見春向軒候へば、物馴れたる者なれば、味方堀にひたる程ならば、能き時分を見計らひ切つて出づるものならば、味方の勢も、今日の軍に疲れ、一支も支へずして、追立てられん事疑なし。さあらば味方は小勢なり、敵は大軍にて、勢ひ懸つて、此城を乗取られては悪しかりなん。先づ一両日は、士卒をも休め、敵の方便をも見計らひ、重ねて勝負を決すべしと、申しければ、二人の者共又申すやう、いや
〳〵軍は、機を抜かしてはいかゞ、打立ち給へと、申しければ、助政聞きて、謀も宜しく候へども、春
【 NDLJP:178】向軒は物に馴れたる剛の者なれば、今日の軍に出でず、荒手を七八百も残し置くべし。彼者共、打出で戦ふものならば、味方は疲れたる勢なれば、敗北せん事疑なし。此度は御思案候へと、申しければ、兎角御辺次第と申しけり。去程に、今浜の城には、敗軍の諸勢、方々より集まる程に、又大勢にぞなりにける。春向軒、進み出でて申しけるは、一時日の軍に、浅井新三郎に追立てられ、誠に無念の次第かな。重ねての戦に、人数の立てやう大事なり。彼者は軍立変にして目早し。味方の虚を見て切つて懸り、大利を得んと存ずる者なり。此方旗本には、上坂信濃守を置き、治部大夫と我等は、勝備になりて、彼が方便を見て、突懸るべしと申されけり。物馴れたる者共は、尤とぞ同じける。又若武者などは、左様に敵に怖ぢては、軍に勝つ事よもあらじ。味方の人数に、敵の勢を合すれば、五分一ならでは之れなきに、新三郎打出でたらば、大勢にて取園み討取らんに、何の仔細の候はんと、申す人も多かりけり。此儀上坂へ告げ来れば、新三郎さればこそ春向、軍の方便こそ由々しけれ。此上は彼が軍勢を見届けずば、城よりは出づべからずとぞ申定めける。
第四 今浜勢上坂面へ出張りて備を立つる事
永正十三年九月三日の卯の刻に、六千五百余騎を率し、上坂面へ押寄せけり。一番備は上坂修理亮、二の目は口分田彦七、三番は旗本上坂信濃守、両脇備、左は治部大夫人数、伏隠れ居る。上坂掃部頭、武者奉行なり。右は浅見春向軒父子、是は浅井新三郎微敵なれば、頭の方より押包み、討取らんとの方便なり。然る所に新三郎、自身物見に出で、敵の方便を大方推量し、爰は我等も方便を相謀るべし。今日の一番は、我等仕るべし。二の目は善次郎殿・清兵衛殿致さるべし。大野木・三田村殿は城の内に、備を立て給ふべしとて、助政五百余騎の勢を率し、城外へ駈出で、鏑を揃へ、差詰め引詰め射させける。上坂勢も之を見て、
矢衾作りて、散々にぞ放ちける。新三郎は射立てられ、少しく色めく所に、修理亮鬨を作り、真黒になりて切つて懸るに、一支も支へずして、次の備迄颯と引く。跡なる彦七、勢を抜かすな者共とて、喚き叫んで切つて懸る。いよ
〳〵浅井支へ兼ね、城内へ逃籠る。上坂勢、続いて
【 NDLJP:179】駈入らんとせし所に、春向軒使者を立て、深入して悪しかりなん、早々引取り給へと、両度迄制しければ、彦七は、何とて左様に臆し給ふぞ、是へ押寄せ給へ。此勢城内へ攻入らば、定めて新三郎は討取るべきぞ、いざさせ給へといひけれども、春向軒、達つて無用と申さるゝ故、上坂勢引退きにけり。清兵衛・善次郎、此由を見るよりも、是こそ軍の時分なれ、跡をくるめ給へといひて、既に駈出でんとせし所を、新三郎鎧の袖を控へ、尤にも候へども、あの春向、未だ荒手にて控へたり。一旦は切崩し候とも、重ねて悪しかるべしとて、二人相具して、上坂の城内へ引入りければ、上坂勢も、今浜の城へぞ引取りける。今浜の城にて、口分田彦七申しけるは、今日の軍は、春向の制し給ふ故、浅井を討取らずして、無念なりとぞ申しける。春向宣ひけるは、浅井は若輩に候へども、心も剛に智恵深し。殊に軍の色を見て、方便を色々に巡らし侍るぞや。昨日城中へ駈入り給ふならば、味方は過半討たるべし。向後とても、浅井との軍は、能くしめて弓矢を取り候はずば、味方の勝利はあるまじとこそいはれけれ。
浅井物語巻第三終
【 NDLJP:179】
浅井物語 巻第四
第一 上坂治部大夫、京極殿へ訴訟の事
去程に、上坂治部大夫は、浅見春向軒を相具して、上平の館へ行き、浅井新三郎逆心の通り、一々申されければ、京極殿聞召し大きに驚き給ひ、兵庫頭といふ不覚仁、左様に新三郎に計られし事、前代未聞の次第なり。且うは又御辺も、彼の城へ押寄せ、即時に誅罰せられずして、今迄遅滞ありし事も、武勇の程覚束なしと、仰せければ、春向軒進み出で、軍の始終、助政が方便、具に申されけれども、中々憤頻にして、聞入れ給はず。春向軒重ねて申されけるは、往事をば思はざれと承る。此上は御旗を向けられずば、叶ふまじと存ずるなり。さあらんに於ては、治部大夫先登し、無二の勝負を決すべき所存の由、達つて申上ぐれば、さらば家老共に、相談ある
【 NDLJP:180】べき旨仰せられ、人々に、此儀如何とありければ、何れも是非の即答、難渋せられし所に、大津弾正少弼申しけるは、御誅戮延々にては悪しかるべし。浮世の中の習にて、旧好を捨て、新恩に附くものにて侍れば、一刻も早く御出馬ありて、春向申上ぐる如く、治部大夫に軍を
魁めさせ、上坂へ押寄せ、浅井を討たん事、踵を巡らすべからずと、事もなげにぞ聞えける。
錦折右近将監申すは、大津殿の謀も、尤に候へども、斯る折柄は、人の心区々に候はん。北郡の殿原にも、新三郎に心を通ずる者も候べし。先づ郷北へ廻文を遣され、其請に応じ、勢の多少を試みて、御出馬尤たるべしとの由なり。何れも此儀に同じける。治部大夫今浜へ帰り、又上坂へ押寄せたり。助政も足軽を出し、矢軍少々して、懸けつ返しつあしらひける所に、今浜勢、真黒になりて切つて懸れば、新三郎、兵を
円めて楯籠る。兎角して日を暮らしければ、今浜勢寄合ひ語りけるは、此間の軍の体を見るに、浅井は、先度の合戦に手を負ふか、討死をしけるか。さもなきものならば、斯様に軍の体あらじといふもあり。いやいや屋形の御腹立を聞きて、城中の勢共落失せて、斯く延々とはあるやと、申す者も多かりけり。上坂の城へ押寄する事、一図こそ能かんなるに、評諚々々にて極まらざる事、泰貞斎死去の後は、諸事不合にして、相定まらざる事、気毒千万と、浅見春向軒呟き乍ら、先づ御一左右迄は、人馬の足を休めんとて、尾上へ帰城したりけり。
第二 浅井新三郎智略を巡らし今浜の城を攻落す事
浅井新三郎は、伊部清兵衛・大橋善次郎を近付けて、浅見父子は、屋形の出陣迄とて、尾上へ帰りぬ。其外の諸勢も、一左右を待つて居り、城々に休息し、今浜には、然るべき者も之れなき由、告げ来るに依つて、すつぱを遣し、様子を見届くる所に、実説なり。誠に願ふ所の幸かな。此折柄に智略を巡らし、今浜の城を乗取るべしといへば、両人聞きて、能き謀にて侍るぞや、軍功の者は、虚罰するにありと、大公望も伝へたり。早く思慮然るべき旨申しければ、新三郎、さては手配仕らんとて、先づ清兵衛殿は、五百余騎にて、新次郎を具せられ、夜の内に、今浜近き村の藪の陰、田の中に
【 NDLJP:181】伏隠れ居給ふべし。大橋殿も、夫より二三町も引退き、堤の下・畔の中に、深く隠れ居給ふべし。我等は八百余騎を二手に分け、また仄暗き早朝に、彼城へ押寄せ、鬨を噇と揚ぐるならば、城中より之を見、敵は小勢と侮つて駈出でん。其時は矢軍少少して、跡なる備と一つになるべし。さあらば敵勝に乗りて追懸けんか。それをも妨ぎ兼ぬる体にもてなし引取り、堤などを見計らひて小楯にして、蹈止め戦はゞ、定めて治部大夫駈出づべし。其後へ大橋殿は、大手口に火を懸け、喚き叫んで押寄せば、城中の者共は門を堅め、爰を先途と防がんを、伊部、搦手より攻入り給はゞ、城は心安く乗取るべしとぞ計らひける。去程に永正十三年九月廿一日の午の刻計に、伊部・大橋の人々は、上坂の城を出で、差図の如く、今浜の近辺に、旗・指物を巻き持たせ、深く忍びて居たりける。浅井新三郎は、八百余騎を引率し、未だ寅の刻なるに、城際へ押寄せて、鬨の声をぞ揚げたりける。城中には思寄らざる事なれば、殊の外騒動して、様々敵に出抜かれけるぞや。此小勢にて取囲まれば何とせん。先づ此城を落ちて、重ねて大勢を催し、攻寄せんといふもあり。いやとよ、助政を討たんには、孫子・呉子を大将として攻むるとも、一刻にはなるべからず。爰をさへ堅固に保つならば、春向軒も馳着くべし。上平よりも、御加勢のなき事はあるまじきぞ。今少しの間なり、丈夫に防ぎ戦へとて、上坂修理亮・同掃部助、走廻り下知しければ、城中暫く静まりける。上坂八郎右衛門は、敵の様子を見んとて、櫓へ上りけるに、折節小雨降り、朝霧深うして、敵分明に見えざりければ、城外へ忍び出で、勢の多少を、見届け、敵は僅に千の内なり。周章する間に、町屋へ放火すべきぞ。はや御勢を出されよ、追散さんと、申しければ、逸雄の若者共、我先にと駈出づれば、修理亮大音揚げて、周章てゝ事を仕損ずるな。大敵を恐れず、小敵を欺かずと、申伝へ侍るぞ。敵を侮つて、不覚し給ふな。我が下知次第に駈けよとて、一千余騎を左右に立て、敵軍を見渡せば、無下に小勢なり、駈付け追つ散らすべう思ひけるが、待て暫し、助政は、軍法宜しき敵ぞかし。いかなる方便もあるらんと思案して、人数を備へて待つ所に、浅井討手を揃へて馳向ふ。修理亮も鏑を並べ差詰め引詰め散々に射る。新三郎討立てられて色めく所を、修理亮、備を乱して突懸れば、浅井勢一
【 NDLJP:182】支も支へず、次の備へ颯と引く。修理之を見て、今一揉み揉んで敵を追立て、討取れや者共と、喚き叫んで切つて懸れば、爰を先途と防ぎ戦ふ所に、治部大夫、真黒になりて駈出づれば、浅井勢、爰をも
追立てられけるが、小楯を取つて蹈止まり、互に命を惜まず、火花を散らして戦ひけり。斯りける所に、宵より隠れ居たりし大橋善次郎、今浜の町へ駈入り、家々に放火をすれば、折節風は烈しく、狼煙天を覆ひければ、城中の者共、こは如何にと騒動しけるを、上坂信濃守、老武者にて、物に馴れたる人なれば、諸卒にいひけるは、定めて是は助政が、宵より忍を入れて町屋を焼き、城中騒動せん所を、不意に城を乗取らんとの謀なるべし。小勢にてあらんに、様子を見て切つて出で、一々に討取るべし、少しも騒ぐべからずと、下知しければ、はや善次郎馳着きて、散々に射る。城中よりも射手数多、木戸口へ駈出で、鏑を揃へて差詰め引詰め射たりけり。互に爰を先途と戦へば、鎬を削り鍔を割り、偏身より汗を流し、何れ隙ありとも見えざりけり。上坂治部大夫は、軍の下知して居たりしが、後を見れば、狼煙天に覆うたり。こは如何にと戦ふ所に、浅井新三郎爰にあり、治部大夫殿に、見参せんと名乗り懸け、面も振らず八百余騎、切先を並べて切つて懸れば、上坂勢、此勢に追立てられ、我先にとぞ落行きける。上坂修理亮蹈止め、敵は小勢ぞ、悪し穢し返せやとて、大音揚げて下知すれども、返す者なかりければ、治部大夫を介抱し、尾上を指してぞ落行きける。浅井新三郎は、治部大夫を追払ひ、敵百三十騎討取り、手合よしと悦びて、直に今浜へ押寄せて、鬨を噇と揚げたりける。去程に伊部清兵衛も、搦手より攻入りければ、城中の者共、防ぎ戦ふと雖も、多勢に無勢叶はずして、皆散々に敗北す。助政は思ふ儘に城を取り、勝鬨を噇と揚げ、悦ぶ事は限りなし。
【浅井新三郎今浜の城を乗取る】斯くて浅見春向軒は、今浜の煙を見て大きに驚き、浅井は武略の上手なれば、忍び入れて町屋に放火するか、又手過にてやあるらん、疾く見て参れとて、
斤候を遣しけるが、春向思案して、若し味方の者共に、新三郎に心を通じ、敵を城内へ引入るゝか、いか様大事のあるらんとて、我身も甲冑を帯し、士卒も皆用意して、
左右を遅しと待つ所に。
斤候馳せ帰り。今浜落域仕り、大将を始め今浜勢、是へ敗北の由、申しければ、さて
〳〵無念の次第かな。此新三郎の若者に、両度迄追落
【 NDLJP:183】され、治部大夫是へ退き来る事、前代未聞の次第なり。治部大夫・兵庫頭は、油断せらるゝとも、修理亮・信濃守、斯様に不覚すべしとは、夢にも思寄らず、我等休息せし事も懈怠かなと、後悔して居られける。
良ありて治部大夫、百騎計にて、尾上の城へ落ち来れば、春向軒出向ひ、是へ
〳〵と請じけり。治部大夫も修理亮も、軍の始終具に語られければ、春向は、誠に天運の程、兎角申すに及ばれずと、いやすげなうぞ答へられける。敗北の人々は、定めて浅井勝に乗り、明日は是へ押寄すべし、持口を定められよとありければ、春向答へて、明日敵寄せ来らば、此狭き所へ引請け、時分を見合せ駈出でば、味方の勝利疑なし。浅井は軍立の功者なれば、左様の働は侍るまじとぞ申しける。
第三 新三郎今浜の城を乗取る旨京極殿聞き給ふ事
上坂八郎右衛門・浅見新八郎は、密に尾上を忍び出で、上平へ参り、今浜落城の旨、委細に大津弾正に語れば、是は
〳〵と驚きて、さても治部殿は、不覚にも侍るとも、春向軒・掃部助の両人、斯く老耄し給ふ事、誠に不思議さよと、いひければ、浅見新八郎、ればとよ運の拙さは、両人共に、居城に休息たる由申しければ、天命の上は、有無の仔細に及ばずとて、京極殿の御前へ参り、此由具に申上ぐれば、其治部大夫・兵庫頭の不覚者、泰貞斎死去して幾程も経ざるに、あの助政の若者に、度々追立てられ、剰へ両城迄乗取らるゝ事、言語に絶ゆる所なり。春向・掃部も、敵を前に置き乍ら、休息の儀も油断なりとて、殊の外なる御腹立にて、さらば家老共を早く召せと、宣へば、賀州宗愚・黒田甚四郎・隠岐修理・多賀若宮参りければ、京極殿御前近く呼寄せ、此儀如何にと、仰せければ、何れも評定とり
〴〵なり。多賀新右衛門尉進み出でゝ、浅井は度々の軍に打勝ち、両城迄を乗取り、強勇の敵なり。味方は数度敗北して、機を失ひてあるなれば、御領分の内にても、浅井に心を通はして、逆心の者も侍るべし。先づ御判を遣され、勢の多少を御覧じて、いかにも弓矢をしめて遊ばされ、然るべき旨申しければ、皆此議に同じける。若き人々は、左様に延々なる御出陣に候はゞ、敵は
【 NDLJP:184】日々に多くなり、味方は日々に臆すべし。御家人の内には、屋形を背き奉りて、助政に組する者は、一人も侍るまじ。兎角早速に押寄せられ、平攻にするものならば、即時に敵は亡ぶべしと、爽に申しける。古老の仁申されけるは、それは卒爾候べし。多賀殿の評議然るべしとて、触状をぞ廻しける。
第四 郷北の諸勢廻文に依つて御請申さるゝ人数の事
郷北の諸士、屋形よりの廻文を拝見し、御請申す人々には、高野瀬修理亮・山崎源八・多賀右近・高宮次郎左衛門・土田兵助・多賀新右衛門・黒田甚四郎・土肥次郎左衛門尉・樋口次郎右衛門尉・新庄弥八郎・富田新七・香取庄介・勝田孫八郎・下坂甚太郎・狩野弥八郎・伊吹宮内少輔・伊井平八郎・中山五郎左衛門尉・小足宮内大輔・細井甚七・大炊新左衛門・野村伯耆守・同じく肥後守・口分田彦七・阿閇参河守・同帯刀・同万五郎・熊谷次郎・同新次郎・安養寺河内守・渡辺監物・八木与藤次・今井十郎兵衛尉・同孫左衛門尉・同四郎左衛門尉・同次郎左衛門尉・今村掃部助・井口宮内少輔・筧助七・尾山彦七・千田伯耆守・磯野源三郎・同右衛門大夫・西野丹波守・赤尾与四郎・東野左馬助、御左右次第に馳参るべき旨、各請判ありければ、京極殿御覧じて、此勢にて、浅井を討取らん事、何の仔細かあるべきとて、喜び給ふ事限なし。
浅井物語巻第四終
【 NDLJP:185】
浅井物語 巻第五
第一 浅井新三郎、上坂・今浜両城を破却し小谷山に城を拵ふる事
去程に、新三郎、
倩物を案ずるに、数度の軍に打勝ち、剰へ両城迄乗取ると雖も、北郡の諸侍一人も参らざるは、京極殿を、偏に恐るゝと覚えたり。爰にて大勢に、取籠められては悪しかるべしと思案して、大野木・三田村・伊部・大橋を近付けて、此儀如何にと評定す。善次郎遮つて申しけるは、いざとよ浅井殿、郷北の諸侍、何万騎候とも、能き大将のなき上は、さのみ心悪うも候はず、右往左往に押寄するを、能き時分を見計らひ、駈出づる程ならば、風に木の葉で侍らんぞ。大勢の奴原を、上平の道すがら、追討にせん事、何の仔細も候まじ。御心安く思召せし、事もなげにぞ語りける。人々は手を打つて、大橋殿の謀は、快くこそ侍れとて、大きに興を催しける。新三郎打聞いて、いやとよ大橋殿、左様に敵を侮り候へば、油断の心侍るぞ。勝つて甲の緒をしむると、申伝へて候ぞ。誠に名言にて候。似ぬ事には侍れども、龐涓は孫𬛜を侮つて、馬陵の樹下に死したり。賢将猶然り。治承の宗盛は、仲綱を直下に見て、永く天下の乱をなせり。愚将又是なり。大聖の孔子すら、暴虎馮河の詞あり。呂尚が書にも、内を調ふるを本にすと見えたり。春向といふ老軍の侍れば、如何なる方便も候べし。よく
〳〵思慮候へと、小声になりていひければ、大野木・伊部・三田村〔
〈大橋脱カ〉〕思案して、仰尤にて候かな。誠に上坂も今浜も、地形平夷にして、澗谷の防なく、域郭麁濶にして、壁塁頼み難し。大勢に囲まれ候はゞ、如何に悔ゆとも叶ふまじと存ずるなり。先づ爰を引払ひ、小谷山に城郭を構へ、楯籠るものならば、京極殿大勢にて寄せ給ふとも、嶮岨の防ぎ一つあり、水の手よし、是に山峯崎ち続いて、
伏かまりを置くにも便よし。天の時は地の利に如かじと侍れば、いかなる方便も候べしと、いひければ、新三郎、尤も由々しき企かな、我等も左様に存じ候と
【 NDLJP:186】て、早速に今浜・上坂の両城を破却して、小谷へ勢を引取りける。頓て隣郷の百姓共を集め、城を拵へ、誠に昼夜の境もなく急ぎける。
【新三郎小谷山に城を築く】新三郎は、人々を近付けて、只今普請の最中を幸と心得、春向軒、攻寄すべしと覚えたり。此方にも、其用心をいたすべし。伊部殿・大橋殿は、小谷山の後の
嵩に控へ給へ。敵押寄せ候はゞ、定めて普請の人夫共を、追払ふべきか。其時嵩より一文字に駈付け、無二の合戦し給へ。我等は丁野山と、虎御前山の間に勢を伏せて、敵の働を見、横合に突懸るものならば、敵を追散らさん事は案の内と、申されければ、何れも此の儀然るべしとて、其用心をしけれども、敵寄せざれば、さて止みぬ。静に城をぞ拵へける。
第二 上坂治部大夫今浜に帰り城を取建つる事
去程に、上坂治部大夫は、浅井新三郎、小谷へ引取る由を聞き、急ぎ今浜へ立帰り、民百姓を呼集め、埋れたる堀を浚ひ土手を築き、夜を日に続いで急ぎければ、春向軒、治部大夫に申さるゝは、只今此城は何の為めの普請ぞや。新三郎助政は、数度の軍功ありと雖も、京極殿の威光に恐れ、郷北の士大夫一人として、彼に随順せざる故に、小谷山へ引籠り候なり。此儀を屋形へ言上して、片時も早く押寄せて、勝負を決すべき事なるに、治部大夫殿・兵庫頭殿こそさあるとも、家老の面々は、何とて斯様に油断ぞやと、言葉荒に申さるれば、治部大夫打聞きて、尤も至極に侍れども先づ足懸を拵へて、軍の懸引をも仕るべしと存ずるなりと、仰せければ、春向答へてそれは敵、国へ攻入る時の御用意には然るべし。只今は事変つて候なり。斯くゆるゆると候はゞ、小谷の城も出来ぬべし。早速に退治は、思寄り侍らざるぞ。彼が途中にある内に、少しも早く人数を出されて、御一戦候はゞ、疑なく本意を遂ぐべしと、再三申されけれども、治部大夫も老軍も、一円同心せざりし故、歯嚙をしてぞ帰りける。春向軒は、夫より直に上平へ行き、黒田甚四郎・隠岐修理亮に、此由語りければ、何れも同意にて、先づ今浜を取立てゝ、其上にて御退治然るべしとの評定なり。大津弾正・若宮兵介進み出で、春向申さるゝ如く、一時も早く御誅伐然るべし。助政思ふ儘に、城を拵へ候はゞ、北郡の諸士も、多くは彼に与すべし、御大事是
【 NDLJP:187】なりと、言葉を残さず申せども、面々合点なき故、春向余りに気をせきて、屋形の御前へ参り、此旨斯くと言上しければ、其方の申すやう、尤も宜しく候なり。さり乍ら今浜の城も近日出来する間、其時出勢あるべき由、仰せらるゝの上なれば、力及ばず、春向軒は尾上に帰城せられけり。
第三 京極殿病死の事
斯りける所に、京極殿俄に業病うけさせ給ひ、日夜に重らせ給ひければ、近習・外様に至る迄、残らず御館に詰めたりける。上坂治部大夫も馳来り、家老共と相談して、京都より名医を呼下し、種々看病しけれども、定業なれば叶はずして、永正十四年二月十六日に終に空しくなり給ふ。
【京極殿病死】御一族下々迄、こは如何にと歎き悲み、涙にくれて居たりしが、さてあるべきにあらざれば、御葬礼いと細やかに取しつらひ、法名官山寺殿と号しける。生死無常の習程、果敢なかりける事ぞなき。御家督をば、嫡子三郎殿継がせ給ふ。頓て御落髪ありて、理覚斎とぞ申しける。北郡の諸侍、続目の御礼申上げ、囲繞渇仰したりける。斯く中陰旁にて、愁傷の折柄にて、軍の議定もなかりければ、春向、上平へ参り、家老の面々を近付けて、斯様に軍を延引するならば、御大事目の前なり。屋形は若き御大将なれば、各御差図候へとて、能き侍大将を一人仰付けられ、片時も早く浅井御退治候へ。緩々と御治世候はゞ、京極家の御滅亡疑なしと、涙を流し申されければ、家老の面々も、尤といふ人もあり、いやとよ、あの新三郎、何程の事を仕出すべき。官山寺殿の御薨逝、幾程も立たざるに、軍の評議も然るべからずと、申す人もありければ、春向重ねて、左様に侮り給へども、数度の軍に、味方何れも打負けて、あの小身なる助政に、両城迄攻落され候ぞや。幕下に属する御家人共、義を金石に守ればこそ、敵は小谷へ引籠りて候へ。新三郎が城も、やう
〳〵出来候はんか。定めて此方の油断を見て、夜討にも仕候べきか。其時は何と悔ゆとも益あるまじ。片時も早く御征伐あれかしと、再往強ひて申されける。然る所に、多賀新右衛門進み出でゝ申しけるは、春向の異見の段、一々道理至極にて侍るなり。片時も早く御出陣然るべし。此体に候はゞ、当家の御大事、
【 NDLJP:188】只今なりと、ありければ、家老の面々も、多賀が言葉に驚きて、兎やせん角やあらましと、談合評定区々なり。此旨理覚斎聞召し、春向軒・新右衛門が申す所神妙なり。急ぎ郷北の諸勢を召せと、仰せければ、北郡の御家人共、我先にとぞ馳せ来る。
第四 京極殿、小谷へ押寄せ給ふ事附諸勢心変の事
去程に、京極殿は、永正十四年五月十一日に、八千余騎を引率して、小谷へ押寄せ給ひける。
【京極勢小谷城を攻む】先づ一番には、磯野右衛門大夫・子息源三郎・千田伯耆守・子息帯刀・東野右馬助・赤尾与四郎、以上其勢九百余騎なり。侍大将には、磯野源三郎とぞ定めける。此源三郎と申すは、又なき剛の者、大力の強弓にて、十七束をぞ引きたりける。三年竹の節近なるに、大すやきを打すげて、四町面を射通しけるとぞ聞えし。二番は、井口宮内少輔・今村掃部・西野丹波守・阿閇参河守・渡辺監物、都て其勢八百余騎。三番は、安養寺河内守・今井十郎兵衛・同孫左衛門尉・熊谷次郎・同新次郎・月瀬新六郎・小足掃部・同宮内少輔・中
村〔
〈山カ〉〕五郎左衛門尉、是も諸卒は八百余騎。四番には、狩野弥八郎・勘田孫八・伏木・富田・下坂・新庄。五番には、土肥次郎・伊吹宮内少輔・百堀次郎・多賀新右衛門尉・多賀右近・山崎源八郎・土田兵助・馬場等を始めとして、何れも勢は八百余騎。六番は旗本なり。京極殿の御一門、上坂の御一族、家老・近習を始めとして、其勢二千五百余騎。左の脇は上坂治部大夫一千余騎。右の脇は、浅見春向軒・子息対馬守、是も一千余騎とぞ聞えける。浅井新三郎は之を聞き、伊部・大橋を近付けて、京極は大勢を引具して、段々に備を立て、押寄せ給ふと承る。二三段の備にてあるならば、何卒
方便を運らして、追散らすべしと思へども、其猛勢に囲まれば、心は猛く勇むとも、討たれん事は必定なり。とても天命是迄ぞや。いざ華やかに討死せん。先づ清兵衛殿と善次郎殿は、五百余騎を引率して、大嵩・虎御前山の陰に旌旗を巻き、深く伏して居給ふべし。敵此城を取巻く時、伏せたる旗を差上げて、鬨を噇と作りかけ、静々と寄せ給へ。敵軍之を見て、思ひ寄らざる事なれば、備々も騒ぐべし。定めて各を討たんとて、駈向ひ侍らん。其時分を見計らひ、大手
【 NDLJP:189】の門を押開き、少しも猶予の心なく、切つて懸り候はゞ、一先づ追崩さで候べきか。其上に討死致さんは、弓矢の面目にて候はずや。如何に
〳〵とありければ、清兵衛善次郎も、宜しき方便に侍るとて、皆此議にぞ同じける。斯りける所に、海北善右衛門・赤尾孫三郎は寄合ひて、四方山の話をし、酒飲みて居たりしが、海北差寄りて、事の心を案ずるに、弓馬の家に生れては、名を後代に残さんこそ、本意にて侍れ。縦令万年の齢を保ちても、名を埋みては何かせん。さても浅井助政は、文武二道の名将なり。彼が幕下に属して、晴々しき軍して、討死をしてこそ、弓矢の面目たるべけれと、小声になりていひければ、いしく申させ給ふものかな。誰もさこそとありければ、海北手を取りて、いざさせ給へといひしかば、願ふ所の幸とて、赤尾・海北諸共に、村山甚次郎・赤尾小四郎を打連れて、小谷の城へ馳入りける。新三郎対面して、こは如何に海北殿。こは如何に赤尾殿。屋形近日、大勢にて押寄せ給ふと承る。各御手にて、討死せんと思ひしに、是迄御出ありし事、今世後世の芳志とて、斜ならず喜びける。倩夫れ惟れば、邦有
㆑道則、賢人進佞人退。邦無
㆑道則反
㆑之矣。存亡の前表爾なり。阿門参河守は、子息万五郎を近付けて、京極殿数千騎にて、近日小谷へ押寄せ給ふと雖も、軍備不合にして定まらず。春向、文武の達人にて、毎度諫言を加ふと雖も、家老の面々我威に募り用ひず。力及ばぬ次第なり。口惜しさよとぞ語りける。万五郎承り、さる事に侍るぞや。此体に候はゞ、捗々しき方便も候まじ。さても浅井助政は、若輩に候へども、良将にてあるなれば、彼が手に与しなば、終には運を開くべし。さ候はぬものならば、華々しき軍して、討死してこそは、弓矢の思出、何か苦う候べき。片時も早くといひければ、我もさこそといふ儘に、家子郎等八十七騎引具して、小谷勢へぞ加はりける。浅井此由見るよりも、阿閇殿の御出は、千騎万騎に超過せり、軍神の冥助これぞとて、城中の上下おしなべて、喜ぶ事は限りなし。
第五 浅見春向軒軍異見の事
さる程に浅見春向は、子息対馬守を先として、五百余騎を引率して、上平へ馳せ参
【 NDLJP:190】り、家老衆に対面し、軍の
行を問ひければ、先づ勢をば五段に備へ、其次は旗本なり。浅見殿と治部殿は、両脇備と語りける。春向軒思案して、尤の軍立に侍れども、新三郎助政は、常ざまの敵には事変り、種々の方便も候はんぞ。今度猛勢にて攻寄せ候へば、十死一生とこそ存ずべけれ。愚老愚案を運らし候に、味方詰寄せ候はゞ、門を開いて駈出づるか、又小谷への道すがら、山陰に
伏を置くか、御旗本を心懸け候べし。先づ我等存ずるは、一二の備は能き将一人宛に、葉武者共を遣され、三番備には、郷北にても誉ある者を置き、磯野源三郎・千田伯耆守は、古今稀なる勇将に侍れば、三番備の両脇を押すべし。其父子は浮武者にて、味方の虚実を見計つて、弱き所へ馳付けば、不意の行には乗るべからず。各如何にとあれば、尤といふ人もあり、前のを能しといふもあり、評定決断せざりしを、多賀新右衛門・大津弾正進み出で、愚案を運らし候に、春向の御謀、然るべし。浅井が敵の虚実を見る事、掌を指すが如く侍れば、不思議の方便も候べしといひければ、何れも此議に同じける。新三郎助政は、伊部・大橋の人々に、八百余騎を差添へて、虎御前山にぞ伏置きける。阿閇父子・海北善右衛門・赤尾孫三郎は、二百余騎を引具して、城の東の山陰に、深く隠れて居たりける。城内には新三郎、五百余騎にて待懸け、押寄するものならば、門を開き駈出でゝ、討死せんと定めたり。又春向思ひける様は、浅井は、定めて途中に伏を置き、不意の勝利を期すべしと、
斥候を繁く遣しければ、伊部・大橋を見付け、様子委しく聞届け、さればこそとて用心す。清兵衛・善次郎も、斥候の者に行逢へば、詮なき事に思ひ、小谷の城へ帰り、此由新三郎に語れば、さは春向が、軍に念を入るるなり。さあらんに於ては、敵を近く引請けて、阿閇・赤尾が左右を聞きて、駈出づべしとぞ議したりける。斯くて五月十一日、未だ寅の一点に、京極三郎殿、数千騎を引率して、小谷近くぞ寄せられける。新三郎聞くよりも、急ぎ櫓へ登り、敵陣を見たりける。誠に段々の備にて、先陣、既に攻寄すれば、後陣、後に控へたり。浅見父子の人々は、手勢と思しくて、四五百騎少し引延びて備へけり。如何様是は某が、駈出づるものならば、横鑓に突懸り、後を取切り、討つべしとの手立なりと思案して、櫓より飛んで下り、人々を近付けて、春向が備の体を見てあれば、卒爾に出でゝは
【 NDLJP:191】悪しかるべし。城を堅固に守れとて、持口をこそ定めけれ。
浅井物語巻第五終
【 NDLJP:191】
浅井物語 巻第六
第一 海北善右衛門・赤尾孫三郎・阿閇参河守、敵陣へ駈入る事
斯りける所に、阿閇参河守・海北善右衛門・赤尾孫三郎は、助政今や駈出づると相待てども、其儀なければ、敵はや城を取巻きしかば、いざや面々駈出でんとて大音揚げ、赤尾・海北・阿閇父子是玆にあり、傍輩たりし因に、寄合ひや見参せん。弓矢取る身の習ぞや、討死せんといふ儘に、二百余騎を魚鱗に立て、大勢の中へ駈入れば、上平勢は之を見て、一支も支へず我先にとぞ逃行きける。野村伯耆守・口分田彦七蹈止め、敵は小勢ぞ、
悪し穢し返せとて、切先揃へて切懸れば、互にひしと喰合せ、追っつ返しつ、火出づる程にぞ揉うだりける。赤尾孫三郎は長刀にて、馬武者三騎切落
【 NDLJP:192】せば、海北善右衛門も、能き敵二騎ぞ討取りける。此勢に恐れて、少し色めく所を、其所をさつと駈抜けて、井口・今井が控へたる山田へ、すぐに発向す。敵味方入乱れ、暫し蹈止め戦ひけり。赤尾・海北が手にかけて、敵十二人討取りて、難なく敵を追散らし、小谷の城へ帰り入る。新三郎出向ひ、只今の振舞は、馮異・卞荘子
〈[#「馮異・卞荘子」は底本では「馮異卞・荘子」]〉も斯くやとて、驚目して讚めければ、皆人々も感じける。敵は弥〻押寄せて、幾重ともなく取囲み、我れ先にと攻入らんとす。城中には之を見て、持口を堅め、爰を先途と防ぎけり。赤尾孫三郎・海北善右衛門・大橋善次郎三人は、浮武者にて、縦横に馳り巡り、軍の下知をぞしたりける。浅井新三郎は伊部清兵衛も、同士卒を励ませば、容易く攻入るべきやうもなく、寄手対陣取りて、日数を送りける程に、城中にも寄手にも、軍にぞ仕疲れける。
第二 浅井夜軍の事
去程に助政は、人々を招き寄せ、密に談合したりしは、此中の対陣に、敵方は草臥れて、油断の様に見えさうぞ。此方にも弓など、余りに繁く射さすまじく候ぞ。疲れたる体にもてなさば、いよ
〳〵敵軍撓むべし。さあらんに於ては、様子を能々見届け、夜討にせんとぞ議したりける。各きつと目合せて、誰も斯くこそ存ずるなれ。大敵を討たんには、夜軍に如く事なしと、昔より申伝へ侍るとて、皆尤と同じ。さらば味方に触れんとて、合言葉をぞ定めける。北風吹くといふ時は、一度に切つて懸るべし。南風烈しといふ時は、城中へ引取れよ。谷かと問はゞ、味方は、山と答ふべし。敵・味方の印には、天目ざいを、綿嚙に付けて置け。歩武者の印をば、羽織の後に縫付くべし。脇差の印には、白紙にて三引龍の鞘巻せよと、言含めて、夜討の用意ぞしたりける。城中には、態と弱りてもてなしける。上平勢之を見て、敵は早や草臥れて見え候ぞ。磯野源三郎を大将にて、諸人数の中よりも、精兵を勝つて、北なる嵩へ攀登り、敵を
最下に見下して、散々にぞ射たりける。源三郎が射ける矢は、壁櫓をも射通せば、城中には倦み果て、板楯・持楯・突並べて、其陰にこそ居たりけれ。寄手いよ
〳〵力を得て、揉みに揉うでぞ攻めたりける。城中にも、防矢射て抱へけ
【 NDLJP:193】る。浅井は態と日を暮らし、斥候を出し見せければ、馳せ帰りて申すやう、敵方の人々は、今日磯野が大弓にて、城中難儀しけるにや、殊の外に弱りしとて、夜廻の番も侍らず。御旗本は酒宴にて、諸勢喜び勇み、油断の旨をぞ語りける。新三郎は之を聞き、能き時分と喜びて、明夜は必ず切つて出で、無二の勝負を決すべしと、伊部・大橋・赤尾・阿閇を呼寄せて、此由斯くといひければ、人々は聞くよりも、天の与ふる時節なり。尤と諾しける。新三郎は手分せんとて、大橋善次郎・赤尾孫三郎に、二百余騎を差添へて、宵より山田の東の谷を下り、八島村へ忍び入り、夜半計りになるならば、家々に放火して、時を噇と揚げ給へ。斯りけるものならば、尊照寺に在します京極殿の旗本は、上を下へと騒ぐべし。備々の勢共も、周章て候はゞ、太刀・刀をも取敢ず、
繋馬に乗り鞭打つべし。其時我等、切つて出づるものならば、一足も敵は耐ふるまじ。蹈止めて取囲まば、打物の続く程は戦ふべし。討死して候はゞ、伊部・大橋・大野木・三田村・阿閇父子の人々は、屋形の旗本へ馳入りて、討死し給へといひければ、何れも涙を流し、さて
〳〵由々しき方便かな。大将たらん謀慮には、斯様に一図に極めてこそ、一戦に勝利を得てんとて、感心してぞ居たりける。赤尾孫三郎・大橋善次郎は、はや
〳〵暇申すとて、二百余騎を引具して、静に城をぞ出でにける。阿閇参河守父子・浅井新次郎・同新助は三百余騎にて、助政大手を駈出づるものならば、搦手より発向せん。三田村・大野木は、助政敵と戦はゞ、横鑓に懸くべし。伊部清兵衛尉は、三百余騎を引しめて、城を堅固に守るべし。新三郎駈出でば、定めて春向後を取切りて、城中へ攻入らんか。其時は清兵衛、無二の軍、期すべしと、手合をこそしたりけれ。斯くて永正十四年六月十三日、夜半計の事なるに、海北善右衛門・赤尾孫三郎、八島村へ忍び入り、家々に放火して、鬨を噇とぞ作りける。寄手之を見て、夜討が入りてあるやらん、又は謀叛人かと騒動す。海北善右衛門・赤尾孫三郎は、二百余騎を図形に備へ、面も振らず切つて懸る。上平勢、闇さは暗し、思寄らざる事なれば、弓よ太刀よといふ所を、矢庭に十七八騎斬伏せられ、残る者共、何地を指すとも知らずして、我先にとぞ落行きける。海北・赤尾が者共は、合言葉・合印を、兼て極めし事なれば、二十騎三十騎、
爰彼へ馳散りて、思ふ儘に攻付け、数多
【 NDLJP:194】の敵をぞ討取りける。新三郎助政は、八島村の放火を見て、八百余騎を左右に立て、揉みに揉うで駈出づれば、浅井新次郎・同新助・阿閇父子の人々も、搦手より馳着きて、同じく鬨をぞ揚げたる。寄手は之を見て、弓取る者は矢を知らず、太刀一腰を、二人して争ふもあり。繋馬に打乗りて、馳せ出でんとするもあり。上を下へと騒動して、矢一つをだに射ずして、我先にとぞ落行きける。新三郎
追懸けて諸卒に下知していひけるは、只突捨てよ、首ばし取るな若者とて、追討にこそしたりけれ。春向は之を見て大音揚げて、味方の奴原に、恥ある者がなければこそ、斯様に汚き負をすれ。安養寺・熊谷殿はおはせぬか、返せ
〳〵と、呼ばはれども、返す者こそなかりけれ。春向父子は、五百余騎を鶴翼に連ね、浅井が勢に切つて懸れば、新三郎も、魚鱗になりてぞ戦ひける。孫子が伝へし所、呉子が秘する所を、互に知りたる事なれば、春向、陽に開いて囲まんとすれども、囲まれず。助政、陰に閉ぢて破らんとすれども、破られず。子の半より寅の一点まで、討ちつ討たれつ、
追っつ追はれつ、火出づる程戦ひければ、誠に千騎が百騎、百騎が十騎になる迄も、果すべき戦とは見えざりしに、城中に残りたる伊部清兵衛之を見て、三百余騎を、半分は残し置き、百五十騎を左右に立て、横合に突立てければ、春向は疲れ武者、伊部が荒手に追崩され、叶はじとや思ひけん、勢を円めて、尾上へこそは引取りけれ。斯くて清兵衛も助政も、城中へこそ引取りけれ。京極殿は、家老共を引具して、静々と退き給ふ所を、赤尾・海北は大将と目懸けて、透間もなく追付きたり。上坂掃部・同八郎右衛門之を見て、平治の景安は、義平に討たれ、元暦の継信は、教経が鏑に死す。君恥かしめらるゝ
則ば、臣死すといへり。景春・景久玆にありといふ儘に、取つて返し、火出づる程にぞ戦ひける。上坂掃部は、赤尾孫三郎に渡り合ひ、真甲かけて打つ太刀を、孫三郎、得たりやと請流しければ、余る太刀にて、小手の
外を、したゝかにこそ切らせけれ。されども赤尾事ともせず、引取る太刀に附入りて、内冑を丁と突く。突かれてゆらゆる所を、馳せ寄せむづと組み、上を下へぞ返しける。されども赤尾は大力、終に掃部を討ちてける。八郎右衛門も、善右衛門に馳せ合ひ、互に鎬を削り、暫しは勝負も附かざりけり。海北飛懸り、景久と引組んで、取つて押へける
【 NDLJP:195】所を、下より脇差を抜き、二刀迄突きけれども、鎧の上なれば、海北終に首をぞ取りたりける。京極殿は其
間に、虎口を遁れて落延びける。伊部・八郎右衛門、二人の侍なかりせば、助り難き命なり。海北・赤尾の人々は、京極殿を討洩らし、助政に馳付きて、此由斯くと語れば、斜ならず喜びて、此度勝利を得し事も、御辺達の働なりとぞ感じける。上平勢を、三百八十討取れば、味方も、卅七騎ぞ討たれける。
第三 浅見春向軒上平へ行き、重ねて軍評定の事
斯くて浅見春向軒は、上平へ参り、家老に向ひていひけるは、今度は誉ある御家人共、矢一つをだに射出さずして、追立てられ候事、誠に無念の次第なり。愚老も助政と、刺違へんと思ひしを、伊部清兵衛に追立てられ、是迄遁れ参る事、老後の面目失ふ事、人の上にて候はゞ、いと言甲斐なく侍らんか。身の上に候へば、能く命は惜しく候とて、涙ぐみてぞ申されける。扨も上坂掃部・同八郎右衛門は、泰貞斎に、幼少より附添ひ候故、軍の事も、功者にて候ひしに、今度屋形の御大事に代り候は、弓矢取つての面目かな。誠に殊勝に候とて、また落涙ぞしたりける。人々も之を聞き、皆尤とぞ感じける。斯くて軍の評諚は、如何に
〳〵と問ひければ、隠岐修理亮進み出で、未だ其沙汰も侍らず。屋形は若き御大将に候へば、各評諚遂げられ、然るべく御計らひ候へとこそ申しけれ。多賀新右衛門・大津弾正差寄りていひけるは、今度は諸勢を二手に分け、早速に押寄せて、一刻攻にするならば、助政を討たん事、案の内に侍らんと、以前の負に腹立ちて、歯嚙をしてぞ居たりける。黒田甚四郎・若宮兵助・錦折右近は、一刻攻はせらるまじ。度々の軍に打勝ちたる敵なれば、下々まで機を呑んで、陽盛に侍らんぞ。卒爾に押寄せ候て、又追立てらるゝものならば、長き弓矢の恥なるべし。其上屋形の御大事も、目の前にて侍らんぞ。重ねての軍をば、いかにも重く計らるべしとぞ議せられける。多賀・大津聞きて、尤のさげすみに候へども、浅井勝に乗りて、是へ押寄するものならば、如何に後悔いたすとも、叶ふまじといひければ、黒田・若宮之を聞き、夫は願ふ所の幸かな。上平の道すがら、
詰々に伏を置き、前後を遮り候はゞ、味方の勝利に侍らんと、評諚一図に極まらず、取々に
【 NDLJP:196】こそ聞えけれ。春向は之を聞き、いや
〳〵助政は、左様の方便に乗るべからず。郷北の諸勢半分も三分一も、彼が幕下に属せずば、押寄する事は候まじ。重ねても小谷へ、人数引請け申すべきぞ。今度発向候はゞ、何卒方便を変へるか。さらぬものならば、不意に押寄せて、一刻攻に仕るか。先づ軍を取延べて、彼が手立を見計らひて、御出陣候か。此外は候まじと申さるれば、修理亮之を聞きて、郷北勢の外に、又加勢あるべく候や。如何なる方便と問ひければ、春向、さればとよ、別の事には侍らず。六角殿は、古、御兄弟の御末なり。御大事に候へば、御頼みなされても、何か苦しう候べき、隠岐殿とこそ語られけれ。面々は之を聞き、尤といふもあり、今迄国を争ひて、敵味方にてあるものが、今更頼むもいかゞしと、申す人もありければ、春向達つて申されけるは、各の評諚も、至極して候へども、当家の御難儀、此時に侍るぞ。侍が侍を頼む事、
往昔も今も例多し。先づ御頼み候て、叶はざるものならば、又謀も有之べしと、再往強ひていひければ、皆此議にぞ同じける。
第四 京極理覚斎、佐々木弾正少弼殿へ加勢を乞はるゝ事
斯くて評定極まり、京極殿へ、此由委細に申しければ、尤と仰せられ、即ち多賀新右衛門・河瀬壱岐守を使者として、
【京極、六角に援を求む】六角殿の御内なる平井加賀守・三蛛新右衛門を御頼ありて、御遣されけるやうは、家来浅井新三郎と申す者逆心を企て、小谷山に楯籠るに付きて、誅戮の為め発向の所に、不慮に敗北の段、嘲弄の人口を塞ぎ難し。是れ更に当家の恥辱なり。且つは又近日征伐せしむべしと雖も、北郡の士卒、以前に屈懼して、早速攻伏せ難し。此上は六角殿の御太刀影にて、凶徒を打破り、愚意を達せんと欲す。御出勢に於ては、且つは先考の
好、且つは当家の面目、何事か是に如かんや。右の旨宜しく演説を仰ぐべしとぞ書かれける。平井・三蛛、即ち披露したりければ、弾正殿聞召し、家老共を近付けて、此儀如何にとありければ、京極殿と此方、敵味方に候て、常に不和に侍りしを、先年上坂泰貞斎、無事を調へ候より、軍はなく
【 NDLJP:197】候へども、京極家の破滅こそ、願ふ所の幸かな。北郡をも御手に入れ申さん事、珍重なりといふもあり。いや
〳〵昔より、御連枝の御末にて、今斯く宣はせ給ふを、御見継ぎなされずして、浅井に追落され給はんは、当家の御恥辱にて侍らんと、申す人も多かりけり。衆議区々なる所に、後藤但馬守進み出でゝ申すやうは、先づ京極・六角とて、
最牛角なる御家の、斯様に頼み給ふ事、当家の面目、何か是に優さるべき。其上御一門の目の前にて、浅井に討たさせ給はん事、天下の嘲、御名の恥、何か苦しう候べき。急ぎ加勢を遣され、助政誅戮なされん事、世間の聞えも然るべしと、言葉を残さず申しければ、六角殿も人々も、道理至極と同心して、頓て出勢あるべき旨、御返事ありければ、多賀・河瀬立帰り、京極殿へ、此由具に申上げければ、上下おしなべ喜びける。北郡へも、此旨斯くと触れ知らせ、一左右次第に、馳参るべき由を、仰出されければ、郷北の諸侍、何れも是に
勢ひ、御一左右遅しと待ち居たり。
第五 佐々木弾正殿御扱にて和談の事
去程に弾正殿、御家中に、此事猶も隠れなければ、我も
〳〵と出立ちける。さも華やかなる有様なり。然る所に、弾正殿思召しけるやうは、浅井は名に負ふ者なれば、並の事にては、相叶ひ難し。其上新三郎は、
遉公家の人なれば、此度は、某如何様とも相計らひ、
【上坂浅井和睦】兎角和談いたさせ申すべしとて、夫よりも弾正殿は、頓て和談の書状書認め、京極殿へ御遣しあり。又浅井の方へも、其通り爾々とありければ、別儀なくして、終に和睦に相極まり、其後は相変る事なくして、末久しくぞ愛で給ふ。斯る目出たき御事とて、各珍重に思召し、末繁昌とぞ栄えける。
浅井物語巻第六大尾