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津木門七

提供:Wikisource


津木門七於泉信夫

「ふむ! 奴は何故自殺なんかしたんだらう。忌まいましい。」

 津木門七が首を縊つたといふ報せを受けた時,私の腦裡に瞬間こんな考が閃いた。

 慥かに憎惡の故に違󠄁ひない。畜生! が併し、其の時私は酷󠄁く周章てゝ了つたことも事實である。前󠄁のやうな理念は、ほんの纔かの間、泛んだだけで、すぐ消󠄁滅してしまつたのである。私はどうしたものだらうと當惑した。が孰れにせよ、現場へ行かねばなるまい。で私は急󠄁いで部屋へ引き返󠄁した。「今何時頃だらう?」私はふとそんな事を考へた。消󠄁燈してからもう可成時間は經過󠄁してゐる。併し、私はそれが酷󠄁く氣懸りであつたにも拘らず、今時計を仰いで見る餘裕はない、と獨りめてしまひ、故意に自分を急󠄁き立てゝ、夢中で表へ飛び出した。

 戶外そとは眞の闇だつた。駈け足で庭をつ切り、道󠄁路へ出る途󠄁端、私は激しく物に蹴躓いた。私の身體は殆ど前󠄁に轉倒せんばかりに蹣跚めいたが、辛くも身を支󠄂へ、闇の中につ立つた時、私は今にも泣き出しさうな氣持になつてゐた。私は、私の顏がベそをかいてゐるのを感じた。耐らなく不安な、心もとないそして何か、とんでもない過󠄁失を仕出かした時のやうな 酷󠄁く慘めな感情󠄁が、全󠄁身を蔽ひ盡し、何事か恐ろしい暗󠄁示に銳く胸を衝かれた。私は餘程󠄁引き返󠄁さうかと思つた。が私はやはり步き始めた。そして何時しか又󠄂駈け足になつてゐた。

 私は何も考へたくなかつた。しかし私の頭には、種々雜多な想念が無闇と湧きあがり、それらが勝手氣儘に罵り合ひ、喚き合ひ、果ては摑み合ひでも始めたかのやうに思はれる程󠄁混亂して來た。頸筋は途󠄁徹もなく重くなり、胸は呼吸切れで苦しくなつた。

 眞暗󠄁なので、今自分がどの邊を走つてゐるのか、さつぱり見當がつかない。段々走る事が恐ろしくなつて來た。

 その時、私の瞳󠄂にちらと灯かげが映つた。それはすぐ消󠄁えた。しかし私はそれを見て吻つとした。暫らママくして今度は明󠄁瞭りと、そしてそれが懷中電燈であることを私は識つた。

 然、私の背後で、誰かゞ叫んだ。そして眞黑い影が私を追󠄁ひ拔いて行つた。私はもう駈けなかつた。納骨堂への入口がすぐ前󠄁に在つた。闇を透󠄁かして仄白く敷石が見える。その先の濃い藪蔭に提燈の灯が搖いでゐ、人影もそれと判󠄁別出來た。

 私は柔かい濕つた土を蹈んで、その方に進󠄁んだ。津木門七の體は旣に木から卸されてあるらしく、それを圍んで人塊が、何か小聲で囁いてゐる。

 私がもう五六步で其の場に着くといふ頃、然その塊の中から圖方もなく大きな叫び聲が湧き上つた。

「おい!」

 幾分顫えを帶びてはゐたが太く、重い聲でそれは再び繰返󠄁された。人影がそれに連󠄁れてざわめきだした。私は急󠄁いで駛り寄つた。

 その時、門七は呼吸を吹き返󠄁したらしく、四つの提燈と懷中電燈が、彼の顏と、はだけた胸とを大きく照り出して居た。

 彼はんやり眼を開けた。その瞳󠄂は何物かを探し覓めるやうに四圍を見迴はしてゐたが、急󠄁に眼眸まなざしは激しく、燃えあがるやうに一點に集中した。とそれは、忽ち驚愕と絕望の織り交󠄁つた、極度に緊張した線に變貌した。

 然、門七は「うむゝゝゝゝ」といふ呻き聲と共に、その兩手をきあげ、上半󠄁身をあげて、何かに挑み掛らうとする姿勢を採󠄁つた。がすぐ、一人の男が、彼を押へ付けて了つた。

 私には、もうそれ以上彼の姿體を凝してゐるるママことは出來なかつた。私の胸は或る强大な力で緊めつけられたやうに息苦しくなり、それと共に居堪らママない憂愁と悲哀とに囚ヘられてしまつた。

 暫らママく、がやと口々に何か喋り合つた後で、門七の體は、監督らしい大男の背に乘せられた。男は、すぐ、すたと輕さうに步き出した。それは、少しも人間を背負つてゆくといふ感じはなかつた。

 人々は、その男の後に跟いて、ぞろ步き出した。各自てんでに何か聲高に話し乍ら、中には門七を蔑むやうな口吻を漏らすもゐた。

 私は、その人々に耐らなく嫌惡を感じ、その場の雰圍氣に居堪らママなくなつた。私一人が何故か、飛び離れた、別個な存在であるかのやうな强い寂寥感に襲󠄂はれ、窖へでも陷ち込むやうな不氣味な戰慄と恐怖心とを拂ひ除けることが出來なくなつたのである。

 私は、とある木蔭に身を避󠄁けた。私の前󠄁を五つ六つ、黑い人影が通󠄁り過󠄁ぎた。

(門七は、きつと狂人病棟へ連󠄁れてゆかれただらう。そして、あの陰鬱な、じめとした監禁室へ抛り込󠄁まれるのだらう。門七は、死に損つた門七は、其處で一體何を識󠄂るだらうか。)

 私は、そんな事を次々にと考へてゐた。人々の列は途󠄁絕えた。地の底からいて來るやうな、跫音󠄁だけが何時迄も聞えてゐた。

 私は、門七に關する次のやうな未定稿を持つてゐる。



 それは九月になつたばかりの、或る蒸しい日の午後だつた。三時近󠄁くなつて、信吉は午睡の夢から醒めた。夢といつても至極曖昧な、眠る前󠄁に頭にあつた事が、その儘夢に續いたり、少しは眠つたのではあらうが、醒めても、まだ夢の續きを見てゐるやうな氣がして、變に頭が重かつた。

 信吉は、强い陽を避󠄁ける爲に手拭で頰被りをして、ぶらりと表へ出た。眩暈めくるめくやうな陽光が、かさに乾ききつた庭土の上にはねつ返り、燃えるやうな火氣が、むつと肌に感じられた。

 信吉は凉を追󠄁うて、垣添ひの小徑に出た。其處は櫟や楢の木蔭こきになるので幾分凉しかつた。時折、生ぬるい風が頰に觸れて通り󠄁過󠄁ぎた。信吉は何處か恰好の草叢はないかと尋󠄁ね步いた。と暫らママくして、行手の木蔭から男の低い唄聲が漏れてくるのに氣付いて、立ち佇つた。彼はその儘で凝つと、その聲に耳をてゝゐたが、急󠄁に唄ひ手に興味を覺え、聞えてくる方へ徐々のろと步きだした。

 大抵、男の唄ふ歌は卑俗た流行歌か、端唄に限られてゐるのに、珍らしく、その唄つてゐるのは、彼も薄々覺えてゐる小學校唱歌の一つだつた。低い聲でゆつくり唄つてゐる歌を聞いてゐるうちに、信吉は或る泌々とした懷しさを感じてきた。彼がその木蔭の後に步み寄つた時、唄聲は歇んだ。

 彼は首を伸ばして、人の姿を求めた。

 太い二三本の松と櫟の葉で陽蔭になつた草の上に腰を下してゐるのは津木門七だつた。次いでその傍に、妹の雪󠄁子を認めた時、信吉は門七を見出した時、最初感じた奇異の念は霧散して、それに替つて和やかな情󠄁愛を意識し、羨望の想ひさへ加つて、信吉を强く牽きつけた。

 彼は門七の妹である雪󠄁子が、白痴であることを疾うから聞き識󠄂つてゐた。そして彼女を門七は大變可愛がり、その小さな掌を執つて每日のやうに散步に出懸ける。それも餘り人眼につかない場所󠄁を撰んで連󠄁れ步く。

 誰か人に出會つた時など、門七の貌には、それとなく匿してはゐるが、慥かに羞恥と憎惡の表情󠄁が現はれる、そして挨拶もそこに立ち去つてゆく、等々の事を聞かされる每に信吉は、成︀程󠄁と分つたやうに頷き、門七の氣持も推察出來、同情󠄁を寄せたりするのだつたが、信吉は後になつて、その淺薄な理解を酷󠄁く恥ぢなければならなかつた。

 雪󠄁子が入院して以來、面と向つて門七と話す機會のなかつた信吉には、不自然にも、雪󠄁子に對する好奇心を露骨に現はして、門七に接近󠄁することは、何か氣がとがめ、今迄何んでもなく遊󠄁びに行けた門七の部屋へも、自然と行きにくゝなり、偶に顏を合はせても、深く立ち入ることが出來ず、竟、雪󠄁子が來てから旣に一月にもならうとする今日まで、彼は自分の欲求を滿足させることが出來ないでゐた。そして信吉はただ人の噂話により、門七が酷く變󠄁つた人間になつたなどといふことを識つたのみで、ぷす燻つてゐる內心に焰を消󠄁すまでもなくかき立てるでもなく、漫然と取りとめのない日を過󠄁してゐた。


 信吉と門七とが相識つてから、もう三年になる。門七は信吉から約一年遲れて、此の療養所へ入院して來たのであるが、來て半󠄁年程󠄁してから、信吉の働いてゐた印刷所󠄁へ出ることになり、それ以前󠄁にも逢へば輕い挨拶位交󠄁してはゐたが、親しく話すやうになつたのはそれからであつた。

 信吉は門七と親しくなるにつれ、彼の複雜なる顏の表情󠄁には酷󠄁く愕ろかされた。彼は決して只一つの感情󠄁を現はすといふことがなかつた。その顏には、常に二つの相反する、全󠄁然違󠄁つた表情󠄁が交󠄁互に現はれ、それが實に微妙に銳く交󠄁錯するので、少し迂濶にしてゐると、圖方もなく間の惡い眼に逢はされるのだ。

 彼の相貌は決して特異なものではなかつた。き出た顴骨の下は、段がついて落ち凹み、そのまま、削󠄁つたやうな頣までの線、滅多に櫛も入れぬ蓬髮、それもちゞれ毛なので左程󠄁醜いものではない。廣い額の下に細いよく色の變る眼、顏の割合に大きく岩ママ丈󠄁な鼻柱と幾分空󠄁を向いた鼻孔、厚ぼつたい艷々した唇はやゝ受け口になつてゐるが、しかし、白く透󠄁き通る皮膚の色に、處々這つてゐる靜脉の靑く浮󠄁きあがつて、全󠄁體としては、靜かな、おつとりした感じを與へてゐた。

 彼は絕えず、その情熱的な唇に微笑を湛え、細い眼に柔和な色を見せて初對面の人には應對するので第一印象が大好いのである。が鳥渡狎れしい態度で話しかける途󠄁端、その細い眼は銳い詰問と蔑の矢に變り、唇の微笑は嘲笑となり、相手を酷󠄁く、どぎまぎさせるのを信吉は識つてゐた。そして信吉には分つたやうな門七の正體が、段々時が經つに連󠄁れ判󠄃らなくなり、ぞつとする恐怖を感ずることもあつたが、牽かれる强い魅力だけはぐん增してゆくのだつた。

 二人の交󠄁遊󠄁は、一時消󠄁滅してゐた創作會が新らママたな會員によつて再組織され、二人共そのグループとなつた事に由つて、一緊密になつた。

 その會は週󠄁一度會合があり、會員の作品を朗讀し、それを批判󠄃し合ふのが主なる目的󠄁だつた。新しい會員と云つても、その殆どは、院の機關紙上でその作品に接したことのある連󠄁中ばかりだつたので,嚴密に言へば門七だけが、他の人々に全󠄁く未知な新顏だつた。

 信吉は、或る日の會合で始ママめて門七の作品を聽かされとき、その作家的󠄁才能に尠からず驚嘆させられた。他の人々にとつて、實に陳腐なものに思はれ、埃にまみれて顧󠄁みられなかつたやうな院內の物象を捉へて、實に生々とした、鮮やかな筆致で描いてゆく門七の作品は、此の院內に長く生活し、物事に對する銳い感受性を喪はれ、灰󠄁色の單調な生活に全󠄁身を溺れ切つてゐる常連󠄁には、到底望むことの出來ない水々しい――そんな形容が許されるなら――ものに思はれた。信吉は、不知不識のうちに自分の眼が鈍くなり、經の麻󠄁痺と同樣、銳い感性の喪失感に、今乍ら驚らママかされるのだつた。

 それ迄に信吉は、幾つか誌上に發表もし、又󠄂會合で賞讃された作品を持つてゐた。そして心窃かに、他の連󠄁中の萎縮した、病い頭腦を輕蔑してゐたのである。

 其の後暫らママくして,會員全󠄁體のコント集が機關誌上に發表された時、自ら快心の作と恃んでゐた自作が、門七のに較ベ、酷󠄁く見劣りのしてゐることを、まざと見せつけられ失意落膽する前󠄁に、先づ門七の天分に、强い羨望の念を留め得なかつた。

 二人は殆ど每日のやうに顏を遭󠄁はせて、長いこと、色々と話し合ふのだつた。それは主に文󠄁學哲學に關する抽象的な論議が多かつたが偶には、泌々とした身の上話や過󠄁去の生活體驗などを語り合ふこともあつた。

 門七は話術󠄁に巧みだつた。信吉は二三ケ月のうちに、その境遇󠄁の全󠄁貌を割合明瞭りと識ることが出來た。

「俺が父󠄁を知らないといふことは、實に不幸だつたよ。」

 門七は、よくさう云つた。そしてその後で必ず、話は、彼の母の不甲斐なさに落ちていつた。

「母がもつと、確乎しつかりしてゐたら、俺も、こんな卑屈な、意氣地なしの人間にはならなかつたかもしれない。」

 さう言つて彼は狡󠄀さうに微笑することもあつた。

 門七には妹が二人あつた。そして父󠄁の死後十二の門七を頭に三人の兄妹は、母に連󠄁れられて、母方の叔父󠄁の家に寄寓し、彼は其處から小學校へ通󠄁ひ、中學へ通󠄁つたのである。二つ下の妹は尋󠄁常を卒ると、すぐ或る會へ働きに遣󠄁られた。

「女はあれでいゝ。お前󠄁は男なんだから、確かり勉强して、出世して吳れなくては困る。」

 門七が妹に對する不滿を母に當てると、四十にはまだ二三年間のある彼の母親は、氣弱󠄁い、おどおど聲で、それでも勵ますやうに言ひ分ママけをするのだが、

「ぢや、俺も學校󠄁へなど、やって貰はなくてもいゝ。」

 と駄々を捏ねる門七に、母は、もう泣き出すのだつた。

 末の妹は全󠄁くの白痴だつた。生れて間もなく腦膜炎を患ひ、幸ひ生命は取りとめたものゝ、それ以來、全󠄁くの廢人になつてしまつた。

 門七にとつて、一番屈辱に思はれるのは母の態度だつた。彼女はまるで下婢のやうに、朝󠄁から晚まで働き通した。そして出入りの商人からまで、そのやうな態度で接しられることに對して、平氣でゐられる母を、門七は恨めしくも又󠄂情󠄁なく思ふのだつた。なんといふ屈辱だらう。卑下の仕方なのだらう。さうまでして叔父󠄁の歡心を得なければならないのだらうか。それ程󠄁までにしても、俺は擧校󠄁へ行かなければならぬだらうか。

 門七にも、母の氣持は分り過ぎる程分つてゐた。倂し、いくら分つても、其の事は彼にとつて堪らない屈辱であることに變りはないのだ。彼の憤懣は次第に內訌して、徐々にその型は變貌していつた。彼が文󠄁學や哲學に味を覺えたのもその頃で、中でもプロ文󠄁學は彼の趣向を極度まで行きつかせてしまつた。會運󠄁動のなんであるがママ、朧ろ乍らも彼の對象となりつゝあつた時、彼は發病した。

「俺は、癩病など、少しも不幸だとは思はない。」といふ彼の言葉も、あながち高踏だとは言へなかつた。

 がそのうちに、療養所󠄁の生活に必須なる、激烈な麻󠄁痺性、執拗な中毒性を感じ始め、その怖ろしさを信吉に話すやうになつてから、門七は徐々に、今迄掩ひ隠󠄂してゐた性格の或る面を露骨に現はすやうになつた。それは長い歲月󠄁に亘つて彼の內部に培はれて來た、厭人的󠄁傾向、孤獨趣味、又󠄂人に對して冷笑白眼する强い性格だつた。

 彼は會合へも顏を出さなくなり、體の調子も餘りよくなく、經痛などに時々罹るので仕事も罷めてしまつた。

 門七が餘り出步かないやうになつてからも信吉はよく、彼の部屋へは出懸けてゆき、消󠄁燈したのも忘れて談笑した。

「俺は、いつも言ふが、癩病が少しも恐ろしいと思はぬし、又󠄂嫌でもない。只厭なのは癩病だといふ意識なんだ。此奴は實に恐ろしい。いくら人間が威張つて見た所󠄁で此奴にかゝつたら一たまりもなくまいつて了ふよ。一人の人間を土臺から引つくり返󠄁してしまふんだ。」

「俺は義足や盲目になんとも思はぬ。只俺が失ひたくないのは、足や眼ではなくて、『俺は人間だ』といふ一つの觀念だけだ。これだけは死ぬるまで失ひたくないよ。」

 門七は其の頃熱心に自殺に就いて話した。併し、信吉には、そのやうな問題は、差し當の餘り必要はないものと思はれた。彼はまだ自分を、それほど、ぎりぎり決着の土壇場に陷ちたものとは思へなかつた。今すぐ解決しなければならぬ問題など、一つもなく、中途󠄂半󠄁端な煮え切らぬ、もやもやとした不安が、意識出來るだけで、それを解剖して、一つ一つ俎上にのせ、料理するだけ、まだ整理されてゐないのだつた。といつて、その事を素直に肯定するだけの餘裕は、彼にはなかつた。何かと自慰めいた言遁れを考へ出すのだつたが、その劣情󠄁もすぐ顧󠄁みられ、忸怩たる思ひを秘かに嚙みしめ、自虐󠄁に似た快感を味ふことさへあつた。


 院內特有の速󠄁早い噂によつて、彼の末妹が入院して來たことを聽かされた時、信吉は、何か非常に空󠄁恐ろしい運󠄁命的󠄁なものを感じたのである。そして、今眼前󠄁に門七と雪󠄁子とを認めた信吉は、まるで重大な祕密の席上を垣間かいま見る時のやうな、或る不安と、灼きつくやうな探査の眼とを感じてゐた。信吉はじつと息を殺し、彼に發見されないやうに木蔭に身を潜めた。

 唄ひ畢つた門七の顏を暫らママく呆んやり、何か待ち受け顏で、眺めたママゐた雪󠄁子は、何時迄も唄ひ出しさうにない彼の唇に、然その丸々と太った掌を持つていつた。そして門七が周章てゝ身を引くのを素早く、その唇を抓りにかゝつた。彼女の顏には實に滑稽な眞劍味が泛んでゐた。門七は顏一杯に微笑を綻らママばせて、柔かくその手を拂ひのけ、「よし、よし」と頷いてみせた。彼女の要求が彼には嬉しいのであらう。

 やがて、彼は靜かに唄ひだした。心持ち仰向いたその眼眸まなざしは遠く虛空󠄁に注がれ、色々に變化する唇は、艶々としたその色と相俟つて雪󠄁子を宇ママ頂天にしてしまつた。そして尙、傍で一心に聽き入つてゐる雪󠄁子を識つて、彼の心は例へやうのない欣びで一杯になり、それは、やがて凡てを忘れた、唄つてゐる自分も、聽いてゐる雪󠄁子もゐない、只底低く顫えを带びて靜かに流れるメロディーだけが、生あるものゝ如く、呼吸づいて、四邊一杯に充ち溢れていつた。

 雪󠄁子は、ぽかんとその可愛いゝ唇を開け、その眼は、歌詞につれて色々に變化する彼の口邊を眤つと見詰めてゐた。

 細く餘韻を殘して、彼は唄ひ熄んだ。纔かの間、深い沈默があらゆるものゝ上に掩ひかゝつた。がすぐその靜寂は、雪󠄁子の鈍狂とんきやうな叫び聲に被られ、彼はまた「もつと唄へ」と門七の唇を抓りにかかつた。言辭をあやつれない雪󠄁子の、その舉動は、見てゐるは酷󠄁く憐憫の情󠄁を催させるものがあつた。

 彼は暫らママく輕くその手をあしらつてゐたが、そのうち眼についたらしい草花を一輪摘んで、雪󠄁子の前󠄁に出した。すると彼女の關心は凡てその方に奪はれ、渡された花への興味で雪󠄁子はそれを弄り始めた。門七はその傍に長く寢べり、雪󠄁子の手許を親しげに眺めてゐたが、やがて仰向き、明るい空󠄁が眩ゆママいのか靜かに眼をつぶつた。

 信吉はそつと其の場を離れた。程󠄁よい所󠄁へ來て立ち止つた時、彼は急󠄁に哭き出したい程󠄁の寂寞を覺えた。

「津木門七! 津木門七!」彼はさう小聲で呼んでみた。そして眤つと聽き耳を聳てた。雪󠄁子の譯の分󠄁らぬ叫び聲も、門七のそれらしい聲も聞えては來なかつた。


 それから屢々信吉は二人の此のやうな狀ママ景を垣間見ることがあつた。大抵午後の日盛りが多かつた。が偶には黃昏時の畑徑に、手を執つて步いてゐる姿を遠󠄁く望むこともあつた。そして、そのやうな時の門七は、言ひ知れぬ平󠄁安と滿足を、慥かに感じてゐたに相違󠄁ない。それは彼等二人だけが感受し得る、溫い、人生の深奥に潜んでゐる或る一面の、否最高の感情󠄁ではないだらうか。信吉はさう思ひ乍ら彼等の姿に見惚れることが度々あつた。

 しかし、信吉には、彼等二人の中に割つて這入り、自分も彼等同樣の愉快を味はうとする欲求を敢然と遂󠄂行することは、到頭たうとう最後まで果し得なかつた。信吉には彼等二人がたまらなく羨しいものに思へた。併しその反面門七を甘い感傷家として輕蔑しやうと試みた。がかさかさに乾き切つた彈力のない自己の心情󠄁を顧󠄁みたママ時、彼は、何んママでもいゝ眞劍に泣けたら、と泌々と思ふのだつた。

 九月も過󠄁ぎ十月に這入ると、急󠄁激に気溫が低下し、朝󠄁晚冷え々々とした寒󠄁氣さへ身に泌むやうになつた。遽てゝ袷が取り出され、冬︀襯衣が用意される。

 氣候の急󠄁變で、病室では死亡が激增した。一日に二つも三つもの葬式が行はれることも珍らママしくはなかつた、「逝󠄁去」を報せて鐘の音󠄁をきゝ乍ら、今のやうに病院生活を想ふこともあつた。

 そして、その月󠄁の末、或る霙まじりの雨の朝󠄁、第五病棟から擔ぎ出された擔架の上には急󠄁性肺炎でぽつくり生命を喪つた雪󠄁子の小さな屍體が戴せられてあつた。白い消󠄁毒衣は着てゐるが、これ も患者の附添夫に擔がれた擔架は、纔かの見送󠄁り人に戍られて、靜かに解剖室の方へ進󠄁んで行つた。その列の後から頸垂れて踉いてゆく門七の姿󠄁を、信吉は病棟の蔭から、凝つと見送󠄁つてゐた。



  雪󠄁子の葬儀には私も列席した。屍體解剖室に隣接した狭い安置所󠄁は、少女舎の子供達󠄁で一杯に埋め盡されてゐた。私は一番最後に、燒香すべく佛前󠄁に出た。そして香をあげ、靜かに冥默合掌した。「白痴の死」私の頭にはその事が鮮やかな色彩󠄁を帶びて泛びあがつて來た。私には雪󠄁子に親しく接する機會のなかつたことが熟々不幸なことに思はれた。そして此の泥沼のやうな、不健康な療院生活にあつて、彼女の死を、心から悲しめる、そして限りなく美しいものとして、哀惜するのだつた。

 雪󠄁子の一七日ひとなぬかの供養が禮拜堂で營まれた翌󠄁日、門七は遺骨を携へて歸宿した。それから四月󠄁目私は門七からの手紙を受けとつた。


「六時頃家へ著いた。家といつても叔父󠄁の家である。母は俺を見て泣いて喜んだ。そして妹の死を知つて、又󠄂泣いた。由子は俺の顏を眤つと見てゐるだけで何とも言はない。叔父󠄁夫婦は一寸顏を出したきりで、すぐ見えなくなつた。

 俺は以前俺が居た二階の四疊半󠄁へ行つてみた。凡てが丸つきり變つてしまつてゐる。坐る場所が見當らなくて弱󠄁つた。母が蒼蠅󠄁いのですぐ寢た、眠れやしない。そして俺は熟々此處は俺の來る所󠄁ではないと思つた。俺には今迄居た療養所󠄁以外何處にも居る所󠄁はないのかと思ふと堪らなく慘めな氣持になつて了つた。君の事を思ひ出したので筆を採󠄁つたが、別に書くことも餘りない。

 なんだか變な手紙になつたが、讀み返すのも臆劫なのでこの儘出す。何もすることなんかないのだが、少しも落ちつけない。又󠄂會ふ迄、さやうなら。」

 私は、その文󠄁面から、彼の惠まれない家庭を色々に想像し、癩の家庭の例外なく陰慘なのに、運󠄁命的な呪詛をさへ感じた。

 門七が歸院した翌󠄁日、私は夕頃、彼を訪れた。彼は珍らママしく氣乘りを見せて、遂󠄂に消󠄁燈する迄語り合つた。そしてその晚彼が特に熱をもつて喋舌つた言葉の中で、次のやうな言葉を彼が自した――それは未遂󠄂に終󠄁つたのだが――後で私は强い印象を伴󠄁つて思ひ返󠄁された。

「俺には、何一つ信用出來る思想がないんだ、みんな出鱈󠄁目に見えるんだ。只俺に信ずることの出來るのは、自分の力だけなんだ。それも至極危いものだらうけれど、まだ望󠄁がある凡てのことを、只一つのことをやり遂󠄂げる可能性が、俺の中には藏されてゐると思ふ。それだけだ。俺の賴り得るのは。それを高める爲に、否自分に識らせしむる爲には、俺は俺の生命をも賭けて、少しも惜しいとは思はない。」

 そして、彼がこのやうなきつめた思想を抱󠄁くやうになつたのは、私には、雪󠄁子の死が原因してゐるやうに思はれた。門七は凡ての人間を否定した揚句、白痴の雪󠄁子に人間の最も純なる生を見出し、それを信じ、そして强く彼女を愛し、それに由つて彼は支󠄂へられてゐたのであらう。その支󠄂柱を失つた門七が當然の勢として、今度は、自己の力を恃みにし、その結果、彼は死を企てたのではないのだらうか。彼は自己の力を、どうしても實際に働かせて、それを識る迄は、安心出來難かつたのに相違󠄁ない。言ひ換へれば、彼は自分󠄁をにまでしやうと敢て冒險したのではあるまいか。がそれは、よく人の爲し得る所󠄁ではない。彼は失敗した。そして今の彼は、狂人病棟の一室に危險人物として監禁されてゐる。

 私には、何故か彼を病室に見舞ふことが躊躇された。何か物怖ろしい豫感に胸を緊められるやうな氣がしてならなかつたのである。

 その翌󠄁日は雨が小止みなく降つてゐた。それは二日降り續き、三日目の午後になつて、やつとあがつた。


 私が狂人病棟に、門七を訪ふたのは、その三日目の暮れ方だつた。

 私は長い、綺麗に拭き込󠄁まれた廊下を、爪先立てゝ靜かに步いていつた。監禁室は一番奧にあり、その厚い扉󠄁には、中程󠄁に太い鐵棒の嵌つた横󠄂に細長い窓が切つてあつた。

 私はその窓を覗き込󠄁み乍ら進󠄁んだ。門七は北側の奧から二つ目の室にゐた。私は扉󠄁をそつと押してみた。鍵は下りてゐなかつたのですぐ開いた。

 門七は私を認めると、ゆつくり薄團の上に起󠄁きあがり、其處で最初の線が會つた。

 彼はニツと微笑した。私はほつと胸の塊が解れるやうな安心を覺え、彼の薄團の傍へ胡坐をかいて坐つた。

 門七の顏は思った程󠄁憔悴してはゐなかつた。幾分窶れは見えたが、その頰には生々とした紅味が顯れ、私の來訪を欣んでゐるさまが明瞭りと見てとれた。とは云ヘ、やはりいつもの卑屈と倨傲は、顏の何處かに不調和な表情󠄁となつて、こびりついてゐたが、それを押しのけた顏全󠄁體を領してゐる別の、今迄見訓れない緊張と悅樂えつらくの色が、彼の顏を全󠄁然違󠄁つたものにしてゐた。暫らママく、二人共默つて對座してゐた。

 門七は、然、兩手を頭上にあげ、胸を外らして、「アヽヽヽツ」と大きく欠伸をした。そして、その手をすぐ卸ママさず、まるで體操でもするやうに調子をとつて、上下左右に振り始めた。何をするのだらうと怪訝に思ひ乍ら見てゐると、すぐ、ばたんと抛り出すやうに手を卸し、「ふヽヽヽツ」と溜息を大きく吐いた。と急󠄁にくるりと私の方に眼を轉じ、話し掛けた。

「君は僕が自殺したことを羞しく思つてゐるとでも想像してゐただらう。いや隠󠄂さなくつてもいいよ。」

 さう言つて、門七は鳥渡意味ありげに微笑した。が急󠄁に語調をあらためて、眞面目な顏付きになり、

「しかし、僕は實際そんな事を少しも羞しいとは思つてやしないんだ。噓ぢやない。

 僕は此處へ入れられてから熟々考へたんだ。俺の自殺失敗は決して偶然ではなかつたんだ。俺には、どうしても死ねない或る物があつたんだよ。まだ壽命があるなんていふのとは意味が違󠄁ふ。俺には只何んママとなく、さう感じられたんだ。

 この感じが實に不思議なんだ。非常に靈妙な事なんだ。俺には、まだ明󠄁瞭りと言ひ表はすことが出來ないが、謎めいたものなんだがそれが酷󠄁く强い感銘を俺に與へたといふことだけは、君も否定しないでくれ。

 俺は今、實に落ち着いた氣持でゐられるんだ。俺はもう何も考へやしない。そして只この心の內奧から、全󠄁然今迄考へたことも、經驗したこともない、別個な新しい感情󠄁が湧あがつて來て、それに全󠄁身を浸󠄁らせきつてゐる、といつた狀態なのだ。安心して任せきることの出來る溫い或るものを、俺は持つてゐるのだ。それは、俺が考へることを止めたと同時に俺の內に芽︀生えたものだ。そして、俺はこの情󠄁感が、眞に生の欣びではないかと思つてゐる。

 俺が、首を縊り損ぬママたといふことなんか、宛で、ひと事のやうにしか思はれないよ。俺は春の來ることを實に長いこと待ち望󠄁み、又󠄂自ら、それを得やうと、隨分努力した。がその努力が却つて惡かつたのかもしれない。

 といつて、今の俺が、以前󠄁と全󠄁然別な人間になつたといふのではない。只今の自分には今迄少しも氣付かなかつた、その存在を思はぬ方向に求めてゐた、新しい世界が展けて來たやうに思はれるのだ。俺の內心に、何か新しいもの、素らしいものゝ芽生が營まれ始めて來たやうに思はれるんだ。

 君にも分つて貰へるといゝのだが。少しの誇張もなく僕はそれを言ふことが出來るんだ。

 それがどうして俺に與へられたか、又󠄂それが何んママといふ言葉にはまるものか、俺には明󠄁瞭りと言へないんだが。」

 門七は、さう言ひ切つたまゝ、疲れたのか荒く呼吸を彈ませ乍ら、私の顏を眤つと見詰めたまま、心配さうに、その唇を顫はせてゐた。

「それは泉だ。それは今迄乾草に掩はれてゐた淸冽な泉なんだ。それを君は探し出したんだ。誰から貰つたものでもない。君自身の手で、探し出したんだ。」

 私は、宛でものに憑かれでもしたやうに、さう斷定した。私の斷定は或は間違つたものかもしれない。が其處には少しの疑惑も逡巡もなかつた。それは盛り上つた水が、器から澪れ落ちるやうに、自然の勢で私の口から出たものである。

 さう言つてから私は、どたりと其儘後に倒れた。兩手を組んで頭を支󠄂えて、眼を冥つた。そして顳顬をついて、じいんと熱いものが湧きあがつたママ來るのを、快よいものに感じてゐた。

(全生病院)

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