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永山事件第一次控訴審判決

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窃盗、殺人、強盗殺人、同未遂、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件 東京高等裁判所 昭和五六年八月二一日第二刑事部 被告人 少年N


       主   文

原判決を破棄する。 被告人を無期懲役に処する。 原審における未決勾留日数中五〇〇日を右本刑に算入する。 押収してある、ジヤツクナイフ一丁(押収品目は登山ナイフ。当庁昭和五四年押第六七九号の2)、米国貨弊九枚(同号の75)を被害者ジユリアナ・カンラパン・タムバオアンに、白布袋一枚(同号の38)を被害者辻山光機に、腕時計一個(同号の37)、時計バンド二本(同号の39)を被害者伊藤正昭の相続人に、それぞれ還付する。


       理   由

本件控訴の趣旨は、弁護人鈴木淳二、同大谷恭子(連名)、弁護人三島駿一郎、同新美隆、同早坂八郎(連名)及び被告人がそれぞれ提出した各控訴趣意書(同第一補充書及び同第二補充書を含む。被告人の控訴趣意は、右弁護人五名共同作成の控訴趣意書要旨と題する書面に基づき陳述された部分)に、これらに対する答弁は、検察官鈴木芳一が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。 被告人の当審において陳述された控訴趣意の要旨は、多岐にわたるが、これらは、(イ) 不法に公訴を受理したとの主張、(ロ) 理由のくいちがいの主張、(ハ) 審理不尽、訴訟手続の法令違反の主張、(ニ) 違法性阻却事由の存在を理由とする事実誤認の主張、 (ホ) 責任性阻却事由の存在を理由とする事実誤認の主張、(ヘ) 法令適用の誤の主張、(ト) 量刑不当の主張に整理することができる。 被告人の控訴趣意のうち(イ) 不法に公訴を受理したとの主張について 所論は、要するに、被告人の母が当時五歳の被告人を捨去り、刑法二一八条の罪を犯して憲法一一条、二五条違反の生存を強い、次兄が一二歳未満の被告人を同法一八条、二七条に違反して酷使し、親、兄その他の者の差別のため教育を受ける権利を侵害され、国家が被告人の親に対する普通教育を受けさせる義務の懈怠を教師ら公務員の不作為によりなして同法二六条に違反し、人格形成過程に重要な影響を与え、一七ないし一九歳の被告人が二二歳と詐つて沖仲士、土方として雇用して貰つたのに、保護観察所はこれを黙認し、職場においては同法一四条に違反した差別を受けたのであつて、同法第三章国民の権利及び義務の何たるかを弁識し、成年社会人としての善悪弁別判断を認知し、同法二五条の権利を保障される人格形成過程の中で社会人となり、互恵的にその義務を果すことが人間としての快感原則に合致していると判断できる存在者と自覚してこそ日本国民であるところ、国家は、被告人に日本国民たる要件を保障しなかつた等の憲法違反を犯し、かつ、本件各犯行当時の精神状態が自然人に近かつた被告人は、国内法の及ばない自然人的存在で異邦人であるから、国家は、被告人に対して裁判権を有せず、原審は、不法に公訴を受理したものである、ということにあるものと解される。 そこで記録に基づいて検討するに、被告人は、我国籍を有する父A、同母Bの四男として我国で出生し、生れながらにして我国籍を取得した国民であつて、本件は、すべて国内において行なわれたものであるから、我国が被告人に対し刑事裁判権を行使しうることは多言を要しないところである。従つて、被告人が我国民でないことを前提として裁判権の不存在を主張する所論は、その前提を欠き、失当として排斥を免れない。 論旨は理由がない。 被告人の控訴趣意のうち(ロ) 理由のくいちがいの主張について 所論は、要するに、本件各犯行の動機を、「被告人が当時いわゆるゴーゴーに耽り金員に窮していて窃盗の動機があること、」「金員に窮していて」と認定する一方、「被告人の本件各犯行は、被告人が上京後、職について一応社会生活を三年以上も送つたのちに行なわれたものであること、上京後は転職を繰返したが、常に就職の機会は与えられており、職なく食うに困つてやむなく犯した犯行ではないこと」と認定した原判決は、理由に自家撞着がある、というのである。 そこで記録に基づいて検討するに、原判決が「(被告人の経歴及び本件各犯行に至る経緯)」において、「金員にも窮して、後記罪となるべき事実第一のとおり在日米海軍横須賀基地に盗みに入り、」と、「(罪となるべき事実)」第四において、「同月二六日夜函館市内に到着したが、所持金も殆んど消費して残りわずかとなつたので、所携の前記拳銃でタクシーの運転手を射殺して金を奪おうと決意し、」と、同第五において、「当時既に所持金が二〇〇円余りしかなかつたため、右運転手を拳銃で射殺し金を奪つて逃げようと決意し、」と、「(弁護人の心神喪失又は心神耗弱の主張及びこれに対する当裁判所の判断)」 (以下「対主張判断」という。)の二、2において、「各犯行の動機・目的をみると、……或いは金員に窮して金品の奪取を目的とする犯行であつたり、」と、同じく三、1において、「被告人の本件における米軍基地への侵入は、被告人が窃盗目的で行なつたものであること(そのことは、被告人が当時いわゆるゴーゴーに耽り金員に窮していて窃盗の動機があること、……)」と、同じく三、4において、「被告人は、横浜へ帰ろうとして札幌から函館まで来たものの、所持金がわずか一〇〇円くらいとなり、それから先の旅費等にも窮したために、タクシーの運転手を殺害してその売上金を強奪することを思いついたこと、」と、同じく三、5において、「当時所持金が約二〇〇〇円しかなく金員に窮していて、運転手から金品を強取しようという利欲に発した計算もしたものであること、」と、同じく三、6において、「被告人は本件第六の犯行当時、金員に窮しており、……犯行前には所持金わずか一二〇〇円となり、これで五月一日の給料日までもたせる必要があつたこと、」と、それぞれ認定判示した反面、「(量刑の事情)」三1において、「被告人の本件各犯行は、被告人が上京後、職について一応社会生活を三年以上も送つたのちに行なわれたものであること、上京後は転職を繰返したが、常に就職の機会は与えられており、職なく食うに困つてやむなく犯した犯行ではないこと、」と説示しているため、一見矛盾しているとみられないではないが、前記各犯行動機に関するものは、各犯行直前における当面の所持金が少なく、金員に窮していたことを認定したものであるのに対し、量刑の事情における説示は、被告人の上京後の生活の流れを巨視すれば、被告人には就職の機会があり、原判示第五の犯行後も飲食店に就職し、生活保護制度もあるのであるから、職もなく、食にも窮するほどの極限状態に追い込まれていたゆえの各犯行ではない旨を説示したものと解することができるから、矛盾はないというべきであつて、原判決に理由のくいちがいがあると主張する所論は、採用しがたい。 論旨は理由がない。 弁護人三島駿一郎、同新美隆、同早坂八郎(以下「弁護人三名」という。)の控訴趣意第一、被告人の控訴趣意のうち(ハ) 審理不尽、訴訟手続の法令違反の各主張について 弁護人三名の所論は、要するに、原判示第二、第三の事件発生後、広域重要事件一〇八号として全国的な共同捜査体制が確立し、原判示第四の事件前には、東京プリンスホテルでの遺留ハンカチの販売先、足跡、京都事件の被害者の供述内容、遺留ナイフから検出された指紋により、犯人は外国人と交際もしくは外国生活をした者または米軍基地で窃盗事件を犯した者と推測され、一七、八歳の少年ということが判明し、原判示第五の事件ころには、使用拳銃がレームRG一〇型にほぼ間違いないといわれるようになつたと写真入りで新聞報道されていたから、昭和四三年一一月一七、八両日にわたる静岡市内における窃盗、放火、詐欺未遂等一連の犯罪(以下「静岡事件」という。)は、同事件の捜査で収集された指紋、目撃者の証言等によつて一〇八号事件の犯人を特定するのに充分であつたにも拘らず、犯人かくしをし、被告人が原宿事件を起すまで犯人は一切不明とされ、静岡事件を利用して少年法改悪を図るため、警察側が作為的に被告人を泳がせたもので、これがなければ、原宿事件は生じ得なかつたのであつて、右事件を立証するための弁護人請求の証人の取調をすべきであるのにこれを却下した原審の訴訟手続には審理不尽の違法があり、原宿事件の公訴棄却の申立を理由がないとした原判決は、明らかに判決に影響を及ぼすべき訴訟手続の法令違反がある、というのである。 被告人の所論は、要するに、捜査当局が静岡事件につき、被告人を尾行し、一〇八号事件の犯人と同一であることを見定めた上、射殺できるまで泳がせ、刑法一〇三条等に該当するまでのことをした違法捜査を立証するための重要証人の請求を悉く却下した原審は、審理不尽であり、同法一〇三条に該当する違法捜査をし、静岡事件の三菱銀行における二階トイレの改造と高木証人の偽証、静岡県警等による指紋調書紛失、預金通帳の額面偽造、印鑑紛失、新印鑑偽造、現住建造物放火、警察官殺人未遂の揉消工作等、公務員による同法一〇四条該当行為を隠蔽し、少年法改悪に利用するため、静岡事件につき被告人を放置して原宿事件に至らしめ、同事件を起訴したものであるのに、同事件の公訴棄却の申立を却下した原審の訴訟手続は、同法一九三条に違反し、憲法三七条に違反するものである、というにあるものと解される。 そこで検討するに、原審で取調べられた静岡事件関係の書証、検察官請求証人川口本一の証言、検察官、弁護人双方請求証人北野一男の証言、弁護人請求証人高木忠雄、一毛憲二の各証言によれば、警察官による被告人の尾行は認められず、原宿事件の生起まで静岡事件及び右一〇八号事件の犯人で判明していたとは認められず、更にその余の弁護人、被告人各請求にかかる証人を取調べても、右以上の事実が判明していたとは認めがたい経過が明らかであるから、これらの取調請求を却下した原審の措置は正当であつて、何ら審理不尽の違法はない。また、捜査官ないし関係人に刑法一〇三条、一〇四条に該当する行為または偽証があつたと認めるべき証拠もまた存しない。従つて、弁護人の主張に応えて、警察官が被告人を尾行した事実は認められず、警察当局が被告人の逮捕に至るまで、一〇八号事件の犯人が被告人であると特定することができなかつたと認められるから、警察当局が被告人を犯人であることを知りつつ逮捕せず泳がせておいたことを前提とする弁護人の公訴棄却の申立は理由がないとして、これを採用しないとの判断を示した原判決は、結局正当であつて、原審の訴訟手続に法令の違反はないといわなければならない。 各論旨は、いずれも理由がない。 弁護人三名の控訴趣意第三 訴訟手続の法令違反の主張について 所論は、要するに、昭和五一年六月一〇日の第四八回公判期日に先立つて行なわれた準備手続で、西川裁判長から審理の運営方針が説明され、訴訟関係人の合意を得たが、昭和五一年九月二一日の第四九回公判期日以降の原審裁判長の訴訟指揮権行使は、右合意を破壊し、訴訟指揮の一貫性を欠き、被告人、弁護人の実情を無視した公判期日の指定をし、防禦権、弁護権の行使を妨害し、刑訴法一条、二七三条、二七六条の趣旨に違反し、第五五回公判期日以降に鈴木弁護人ら三名の弁護人を辞任するのやむなきに至らしめ、被告人の弁護権を侵害したのは、同裁判長の指揮権濫用の結果であり、第五七回公判期日以降の訴訟指揮は、被告人の防禦権の行使を意図的に無視排除すると見るほかはないほど違法不当であり、昭和五三年五月一七日、同年六月八日の準備手続の実情その後の公判期日の実情は、被告人と三名の国選弁護人との間に、信頼関係はなく敵対関係となつていて、弁護権の保障はなく、被告人自身の防禦権すら弁護人の名において侵害されていたから、国選弁護人の選任命令を取消すか、解任の措置をとるべきであつたのにこれをせず、被告人に対し形式的に陳述の機会を与えて手続を進行したのは実質上その機会を奪つたに等しく、原審の訴訟手続には判決に影響を及ぼすべき訴訟手続の法令違反がある、というのである。 そこで原審記録に基づき検討するに、裁判所の構成が再度替つたため、被告人に対し、本件の進行に関する裁判所の基本的態度、公判手続更新についての考方を直接伝える趣旨で、更新前の段階である昭和五一年六月一〇日、交替した西川裁判長から、更新手続の説明等がなされたが、同裁判長は、被告人、弁護人らに対し、静岡事件を起訴して貰うとか、起訴しないまでも同事件の内容を裁判所に調べて貰いたいということは、裁判所の権限外のことで不可能である旨、静岡事件が被告人による犯行であることを警察が承知していたとすれば、何故その段階で検挙しなかつたのか、それには何か特別な意図があつたのかという点を調べて貰いたいということであれば、更新手続の終了後に取調をすることを考慮する用意がある旨、更新手続の中で過去の審理と違うことを持込むことはできない旨、検察官の起訴状朗読後の被告事件に対する陳述として、被告人が静岡事件を犯し、警察が看過し、その後の事件を自分に犯させるような形になつたというような意見を述べることは差支えないが、更新手続中の求釈明は許されない旨等を説明したものであつたことが認められ、同日の第四八回公判期日では、右準備手続の要旨告知のみで終了したこと、更に裁判所の構成が替り、裁判長が原審裁判長となり、昭和五一年九月二一日の第四九回公判期日で、更新手続に入り、検察官の公訴事実の要旨が陳述された直後、弁護人は、静岡事件の釈明を求め、裁判長から公判手続更新後の問題である旨いわれてもこれに従わず、被告人も加わつて執拗に要求、異議を申立て、裁判長の適法な訴訟指揮に従わず、被告人の陳述後、弁護人は、同日の手続の打切を求め手続の進行に協力せず、期日指定についての裁判長の求意見に応じなかつたため、裁判長は、やむなく次回以降の期日を昭和五一年一〇月二〇日、同年一一月一〇日、同月三〇日、同年一二月八日と指定したもので、右期日の間隔、回数、本件が昭和四四年五月二四日起訴され、同年八月八日の第一回公判から既に七年余を経ており、かつ、本件事案の内容からみて審理にかほどの長期を必要としたとは考えられない状況であつたことにかんがみると、右期日指定に何ら違法不当の点はなく、弁護人は、昭和五一年一〇月一二日各指定期日の取消請求を求めたが、その理由を疎明する資料はなく、ことに鈴木主任弁護人は、昭和五〇年九月一〇日選任され、第四九回公判までに一年余を経ていたのであるから、訴訟の準備も進んでいたと推認されるのであつて、昭和五一年一〇月二〇日の公判期日の取消請求を却下した原審の措置は相当であり、防禦権、弁護権の行使を妨害したとは認められず、その後になした昭和五一年一一月一〇日、同月三〇日の既指定公判期日の各取消決定、その後の公判期日を昭和五二年一月一八日、同年二月二日とした期日指定、更にこれに続く公判期日を同年三月一日、同月一六日、同年四月五日、同月二六日とした期日指定もまた相当と認められるから、右措置に刑訴法一条、二七三条、二七六条違反のかどはない。更に昭和五二年四月二六日の第五五回公判期日後である同年五月二三日鈴木、早坂両弁護人が、同月二四日中北弁護人が辞任したが、右各辞任が同裁判長の訴訟指揮権の濫用によると認むべき証左はないから、これを前提とする被告人の弁護権侵害を主張する所論は採用できない。そして本件が必要的弁護事件であるため、裁判長は、昭和五二年五月三〇日被告人に対し、回答期限を国選弁護人の選任を求める場合は昭和五二年六月一五日とし、私選弁護人を選任する場合は同年七月一五日とし、同日までに弁護人選任届を提出されたい旨の弁護人選任に関する照会書面を発送し、昭和五二年六月一日被告人に送達されたが、被告人は、同月一三日私選弁護人を選任する旨の回答書を裁判所に提出したものの、同年七月一五日までに弁護人選任届が提出されなかつたため、更に同裁判所は、昭和五二年七月二五日被告人に対し、同年八月二〇日までに弁護人選任届を提出すべきことを命じた書面を、裁判所書記官に命じ作成発送させ、同書面は、同年七月二六日被告人に送達されたが、同期限までに弁護人選任届が提出されなかつたため、同裁判所は、昭和五三年三月一六日にいたり、漸く弁護士会の推せんを得て秋知和憲、青柳孝夫、内藤義三各弁護士を国選弁護人に選任し、昭和五三年五月一七日、同年六月八日各準備手続をしようとしたが、被告人の暴言等に基づく退廷命令等のため実効を挙げず、国選弁護人の熱心な準備、弁護活動にも拘らず、第五八、ないし第六〇回各公判期日に被告人は、暴言を弄し、あるいは訴訟指揮に従わず、退廷を命ぜられ、第六一回公判期日に被告人は、弁護人席に足をかけ弁護人に暴行を加えようとする行動にまで及び、暴言を弄し、裁判長を侮辱する言辞を発して法廷の秩序を乱し、裁判所の職務の執行を妨害し、かつ、裁判の威信を著るしく害したため、退廷を命ぜられ、弁護人の要請で再入廷を許されたが、再度弁護人に暴言を浴せて退廷を命ぜられ、昭和五三年一二月一九日監置一五日に処せられ、第六二回公判期日には訴訟指揮に従わず、第六三回公判期日には弁護人に暴言を浴せてそれぞれ退廷を命ぜられ、第六四回公判期日には裁判長から弁護人に対し、被告人質問を促がしたところ、被告人は、「この弁護人では被告人質問はできないんだ。」といつた上、傍聴席に向つて演説を始めたため、裁判長から注意を受けるや、「国民に向つて言つているんだよ。」、「お前みたいな犯罪者に向つていつている暇はないんだ。」と許しがたい侮言を弄したため退廷させられ、第六五回公判期日には、検察官、 弁護人、裁判長に暴言を吐く等して退廷させられ,第六六回公判期日にも裁判長の再三の発言禁止命令を無視して弁護人、検察官を詰つたため退廷を命ぜられ、最終陳述の機会を与えられたが、検察官、弁護人を詰るに止らず、検察官に対し、「二等親まで必らず追及していく、誘拐だろうが、殺人だろうが、そういう意味でお前ひとりが生きているんじやないんだぞ。」と聞捨ならぬ発言をし、事件に対する最終陳述を自ら放棄したもので、以上にかんがみると、被告人の自ら招いた法無視により防禦権行使を放棄したと認めざるを得ないのであつて、国選弁護人の名において防禦権が侵害されたとは到底認められず、国選弁護人の選任命令の取消、解任を相当とすべき事由は一点も存せず、実質上被告人の陳述の機会を奪つたとはいえないから、原審に訴訟手続の法令違反は、毫末も存しない。 論旨は理由がない。  弁護人鈴木淳二、同大谷恭子(以下「弁護人両名」という。)の控訴趣意第一の二 事実誤認の主張について 所論は、要するに、原判示第一の事実について、被告人の同判示犯行が窃盗の目的であつた旨記載された被告人の昭和四四年四月九日付、同月一二日付(二通のうち、いずれを指すか不明であるが、九枚綴の分と認める。)(控訴趣意書中、調書の特定不完全のものは、推認して特定しておく。)各司法警察員に対する供述調書(以下「員面調書」という。)、同月二七日付検察官に対する供述調書(以下「検面調書」という。)(一〇枚綴の分と解される。以下日付の同じものは枚数のみ記載。被告人の本件に関する供述調書は、すべて昭和四四年中の作成にかかるものであるから、以下月日のみ記載)の三通は、その内容が顕著に異り、四月一二日付員面調書以外は所持金の額、使途方法が述べられておらず、三笠公園で眠りからさめて、急に所持金が少ないことに気付いたということも不自然であり、当時ベトナム戦争中で、これに伴う諸事情から基地内の警戒が厳重であつたから、所持金が少なくなつたとの理由のみで危険を犯して侵入したとは考えられず、拳銃は、ソツクスに入れられていたのに、四月一二日付員面調書(一二枚)では、「けん銃は布で上から巻いてあつた」と供述しており、被害者方につき「何となく留守のように思われて」(四月一二日付員面調書、九枚)、「電灯もついていなくて留守のように思われたので」(四月二七日付検面調書)との記載は、当時の客観的事情に照らして合理的な疑いがあり、被告人の右捜査官に対する供述は信用し得るものではなく、四月一二日付員面調書(一二枚)に被害者方の図面が添付されてはいるが、既に昭和四四年四月八日に被害者方の捜査がなされており、夜間一度入つただけの家屋の外形を覚えているとは考え難いから供述の信用性を高めるものではなく、右各供述調書を証拠として、本件の動機目的を認定した原判示第一の内容は、信用しがたい。更に、被告人が真実金員に窮していたとすれば、ガソリンスタンド、売店に侵入し得たはずであること、当初から窃盗の目的があつたならば、基地から出た後に同所に近接した場所で寝たという行動をとり得ないこと、撮影機を換金しないで投棄していることにかんがみれば、被告人が窃盗目的で本件を犯したと認定した原判示第一は、事実を誤認したものであり、真実の動機、目的は、自暴自棄になり、射殺覚悟で密航するか、基地内で大きな犯罪をやつて掴ろうとしたものである、というのである。 そこで先ず、所論指摘の被告人の捜査官に対する供述調書の信用性につき検討する。所論指摘の供述調書の内容は、若干の記憶違いや記憶の忘失したと思われる点が認められるけれども、被告人が取調べられた当時における記憶に基づく、具体的、詳細、かつ、理路整然としたものであり、原審における審理経過及び原審で取調べられた関係各証拠によれば、被告人が昭和四四年四月七日現行犯人として逮捕されて同日取調を受け、身上、経歴、拳銃窃取の経緯を供述したため、翌八日被害者を取調べて供述調書を作成し(検察官請求甲一の8、不同意撤回)、同日被害者方で同人の説明を徴し、同人方を見分して間取及び当時の家具配置状況に関する見取図を作成しているので、被告人の供述がこれとそごする場合は、更に確認の問を発したと推認されるところ、拳銃を包んだ物についてそごする点は、そのまま供述調書に記載されており、玄関、勝手口の軒灯を点灯したままであつたのに、「なんとなく留守のように思われて」、「電灯がついていなくて留守のように思われたので」と記載されている点も、被害者方のたたずまいや、室内に点灯されていなかつた点からする被告人の認識判断を供述したものと解され、被告人の供述した限度で供述どおり録取したことを証するものであつて、被告人が犯行当時認識し、行為し、取調を受けた当時記憶していた事実に関する任意の供述を素直に録取したと認められ、当時の所持金の額、使途について所論指摘の供述調書にその記載がないことも、被告人の供述した限度で無理なく取調が行なわれたことを窺わせるのであつて、右各供述調書に不自然、不合理な点は認められない。その他所論にかんがみ記録を精査しても、所論指摘の被告人の捜査官に対する供述調書の信用性を疑うべき証跡は認められない。従つて、所論指摘の各供述調書の信用性の欠如を前提とする事実誤認の主張は、採用しがたい。 次いで調査するに、原審で取調べられた関係各証拠(石川義博作成のN精神鑑定書に記載された被告人、関係人と面接して得たとして報告する被告人の経歴、本件各犯行当時及びその前後の事情に関する事実を叙述した部分は、事実認定の証拠として取調べられたものではないから、被告人の経歴、罪となるべき事実、その前後の事実を認定するための資料たり得ないものである。新井尚賢作成の被告人N精神鑑定書についてもまた同じ。)によれば、原判決が「(罪となるべき事実)」として認定判示した動機、犯意は、優に是認することができる。すなわち、右各証拠によれば、 (一) 被告人は、幼時から家庭的、経済的に恵まれず、地域社会的環境も良好ではなかつたため、被告人にとつては辛苦に満ちたと感ずるのもやむを得ないと思われる生活を余儀なくされ、小学生ころからの家出、怠業、中学生ころからの人生に対する悩み、中学校卒業後の就職、離職を経て、昭和四〇年九月出入国管理令違反を犯し、兄C方に身を寄せ、就職したが、同年一一月窃盗未遂を重ね、不処分決定を受けた後、転職を繰返し、昭和四一年八月下旬ころ自殺目的で日光に赴いたが保護されて忠一に引取られたものの、程なく横須賀市に出たこと。 (二) 被告人は、昭和四一年九月四日から翌五日にかけて在日米海軍横須賀基地(以下「基地」という。)に不法に侵入し、同月五日夜、同基地内の材木置場事務所、同基地施設部造園課建物内で各窃盗未遂を、同基地内の消防学校事務所、自動車部品販売所で各窃盗を重ねた末、米国人に捕えられ、我国の警察官に引き渡されて緊急逮捕され、勾留された後、横浜少年鑑別所に送致されたが、右勾留中横須賀警察署代用監獄で勾留中の斎藤則之に対し、日本の警察ほど甘くない米軍により発見され銃火器で射殺されることを覚悟して基地に侵入した、旨を語つたことが認められるが、基地内での各犯行にも拘らず、米軍は、被告人を裁判に付さずに射殺するがごときことはせず、被疑者として我国警察官に引き渡すものであることを、身をもつて体験していること。 (三) 被告人は、昭和四三年一〇月初旬ころには沖仲士をし、夜は主として映画館で睡眠をとるという定職のない、住居不定の状態にあり、自衛隊入隊を志して受験したが、犯罪の前歴があるため不合格となり、自棄的になつており、金員にも窮していたことが窮われ、現実に基地内に侵入して、Jストリート四三番三二三ハウスのマニユエル・サンタマリア・タムバオアン方でジユリアナ・カンラパン・タムバオアン(氏名については、なるべく発音に忠実に表示した。従つて、原判決は被害者方を「マニエル・S・タンボアン」方と、被害者名を「ジユリアン・カンラバン・タンボアン」と表示するが同一人物である。)管理の拳銃一丁、実包約五〇発、ジヤツクナイフ一丁、八ミリ撮影機一台、ハンカチ二枚、米国貨弊十数枚を窃取したこと。窃取後同所で就床ないし休息した証跡はなく、基地内で射殺を招くがごとき急迫し、不正、重大な権利侵害をなす行為に出た証跡もなく、基地から脱出後、隣接の三笠公園内の屋根だけの建物内で睡眠していること。同犯行後撮影機を関内駅近くのドブ川に捨てたことは、窃盗目的を否定する事由とはならないこと。 (四) 被告人は、昭和四三年一月九日神戸港に碇泊中の仏国船タチアナ号に不法に侵入し、同船が同月一一日横浜、名古屋を経由アフリカのダカル港に向け出港するに伴い、本邦外地域に不法出国しようとした罪を犯し、神戸出港後横浜港に到着する前に船員に発見されたが、ナイフで手首を切つたこと。 以上の事実を認めることができ、これに反する被告人の検察官に対する五月二四日付供述調書は、他の関係各証拠に照らして措信しがたい。 右事実によれば、被告人が曽て自殺を企てたことがあり、本件犯行当時射殺されるに至ることがあるかもしれないとの懸念を懐いていたことを否定し去ることはできないけれども、射殺されることを求め、または射殺されることを容認して、右被害者方に侵入したとは到底認められないのであつて、射殺もあるべきことは、意識の深層に留めていたに過ぎないと認められ、窃盗をする内心の決定をし、これを実行すべく意思発動をして右被害者方に侵入して、右窃取行為に及び、実行後基地から脱出しているのであるから、本件が窃盗目的に出たものであることは至極明瞭であるというべきである。従つて、「自暴自棄となり、金員に窮して、……第一、前にも盗みに入つたことのある在日米海軍横須賀基地で金品を窃取しようと企て、」と認定した原判示第一に事実の誤認はないといわなければならない。論旨は理由がない。 (なお、弁護人両名の所論のうち、原判決の対主張判断において説示した部分を事実誤認として争う点がみられるのであるが、右控訴の趣意は、原判示第一の罪となるべき事実の認定を事実誤認として争うものであるから、対主張判断の説示部分が犯罪事実を認定したものでも、犯罪事実認定の所以を敷衍説示したものでもなくて、責任性阻却事由または法律上の刑の減軽事由たる事実、すなわち、被告人が本件当時心神喪失または心神耗弱の状態にあつたか否かの点についての説示をしたものであることに加えて、所論が責任性阻却事由または法律上の刑の減軽事由の存在を争う趣旨であることは全く窺われないから、右主張の点は、事実誤認の主張としては採り上げる要はないものと解せられる。以下原判示罪となるべき事実の認定を争う個所における同種主張につき同じ。) 弁護人両名の控訴趣意第一の三 事実誤認の主張について 所論は、要するに、原判示第二の事実について、船尾忠孝医師ら作成の鑑定書によつて認められる創傷は、被告人の四月一三日付(図面三枚添付)、四月一四日付各員面調書と四月二七日付検面調書(一九枚)で自白した狙撃態様では、客観的に生じさせ得ないのであり、拳銃に左手をかけて狙撃した点について右員面調書と検面調書では全く異つた内容が述べられ、その変転理由が明らかになつていないので理解しがたく、犯意につき右各調書の内容は変転し、とりわけ検面調書における被告人の殺意を認めた自白は、極めて不自然であり、ホテルに入つた理由、逃出そうとした理由が四月一三日付員面調書から検面調書にみられるように変つており、被害者が懐中電灯を所持していたのに右各調書ではその所持の事実さえ曖昧であり、本件現場に至る途中で弾丸をこめ、急に六本木で下車した心情が述べられておらず、四月一三日付員面調書(図面一枚添付)における犯行前の映画の題名、逃走経路が四月二九日付、五月八日付各員面調書で訂正されており、犯行に至る過程での被告人の内心の動きが表現されていないこと等があつて信用性に合理的な疑いがあるから信用することができない。更に、前記鑑定書によれば、被害者の左上頬骨弓部から射入し、右後頭葉に達して止まる盲貫射創と左側頸部から射入し、項部左側から射出している貫通射創の二個の創傷があり、これらは被害者の左側でわずかに前方よりの所から銃器の発射により生じたもので、創口の性状その他から判断し遠射によつて生じたものと推定されるというのであるから、銃弾は、被害者の左方より水平に飛んで来たことになるのであり、原判決が認定する被告人の姿勢で被害者が向い合って立つていた態様では、右創傷は生じえないのであつて、被害者にジャンパーを後から掴まれて前のめりに転んで拳銃が落ち、座つた姿勢で拳銃を拾い、懐中電灯に向けて射つたが、一発目に弾を入れてなかつたことを忘れた被告人は、ハンカチを巻いているためと思い、立ち腰になつて右ハンカチを取捨て、逃げる態勢で懐中電灯の光をめがけて射つたけれども、被害者は倒れず、五、六米逃れたところで更に一発射ち、相手が倒れたというのが真の犯行態様であり、逃げることに夢中になつていた被告人は、被害者が携帯し被告人の顔を照らしてサーチライトの光をめがけて射つたのであつて、逃げながら立つた姿勢で被害者の頭部に狙いをつけ得る状況にはなく、的としては小さい頭部を殺意をもつて狙撃したとは理解しがたく、被告人の四月一三日付員面調書(図面一枚添付)は、殺意につき全く記載がなく、四月一四日付員面調書も未必の殺意さえも存在していなかつた記載となつており、確定的殺意はもとより、未必の殺意もなかつたというべきであるから、傷害致死として認定すべきであるのに拘らず、殺人罪と認定した原判決は、事実を誤認したものである、というべきである。 そこで先ず、所論指摘の被告人の捜査官に対する各供述調書の信用性につき検討する。右各供述調書の内容に若干の記憶違いがあることは、被告人の四月二九日付、五月八日付各司法警察員に対する供述調書で訂正されているとおりであるが、記憶違いのあることは責められないことであり、むしろ後の調書により訂正されたことにより、前の取調が無理なく行なわれ、被告人のその当時における記憶どおりの供述が録取されたことを証するものであるから、供述調書全体の信用性を失うことにはならず、若干の記憶の忘失した点がそのまま素直に録取されていることは、四月一四日付司法警察員に対する供述調書に「ガードマンは……手には懐中電灯のような物を持つていたような気がします、ついていたかどうか忘れました。」と記載されていることにより明らかであるが、信用性を損うほど曖昧とはいえず、六本木で下車した理由は、四月一三日付司法警★員に対する供述調書(図面一枚添付)に記載されており、所論指摘の各供述調書の内容は、大筋において前後に矛盾はなく、被告人の各取調当時における記憶に基づく具体的詳細なものであり、取調の進むにつれて内容が変遷するのも、その当時の記憶または質問に対する応答の限度等に基づくものであるからやむを得ないところであり、被告人が述べない事柄が記載されないのは当然であつて、右各供述調書に不自然、不合理な点は認められない。その他所論にかんがみ記録を精査しても、所論指摘の被告人の捜査官に対する各供述調書の信用性を疑うべき証跡は認められない。 次いで調査するに、原審で取調べられた関係各証拠によれば、原判決が「(罪となるべき事実)」第二として認定判示したところは、正当として是認することができる。所論にかんがみ若干補足説明を加える。右各証拠によれば、 (一) 被告人は、原判示第一の犯行後、基地隣接の三笠公園内の記念艦三笠の西方入口にある警備員のいる地点の見えない国際シツプサービス株式会社乗船待合所の東端より東方約八米の地点で猿島方面の海上に向け、窃取した拳銃で実包を約一〇発射撃し、発射時の反動を手応えで感得し、同銃が真銃であることを確認したこと。 (二) 本件実包は、目測でも直径が五粍以上のものであることが認識できるものであるから、人に向けて実包を発射した場合は、直径五粍の金属棒を人力で人体に刺込むよりも遥かに簡易、有効、強力であることが自明であり、右拳銃、実包が人を殺害するための道具であることは贅言を要しないものであること。 (三) 被告人は、昭和四三年一〇月一一日午前零時過ぎころ、さきに隠匿しておいた神奈川県横浜市中区桜木町二丁目一番地横浜市営ビルのガレージ西側の空地の地中から取出しておいた右拳銃に初弾部分の弾倉を空にして実包五発を装填し、銃身を原判示第一の窃取にかかるハンカチのうち一枚で巻き、更にビニール製網を同ハンカチの上から巻付け縛つた状態で携行し、東京都港区芝公園三号地東京プリンスホテル(以下「ホテル」という。)のプール入口からホテル管理者の許諾を受けないでその敷地内に侵入したこと。 (四) プールを見、芝生を漫歩した後、ホテル構内から出るべく、元に戻ろうとした同日午前零時五〇分過ぎころ、同僚の警備員金子省吾から不正仮眠室使用者と思われる三名が仮眠室の方へ行つたから見てきて貰いたい旨いわれ、ホテルA駐車場の警備室を出て仮眠室に向つた綜合警備保障株式会社派遣警備員中村公紀に見咎められ、「どこへ行くんだ。」といわれ、「向うへ行きたい。」と中村が上つてきた階段方向を指差したが、「向うには行けない。一寸来い。」といわれ、更に近付いてきたので、同人に捕まつては拳銃等の不法所持が発覚すると考え、逃走すべく後を向いたところ、同人にジヤンパーの後襟を掴えられたため、これを振払うや、前のめりに転んで尻もちをついたが、被告人を逃すまいと一、二米に近付いた中村と対峙する恰好となつたこと。同所は、暗がりであつたが、ホテル建物からの明り、中村携行の懐中電灯により同人の輪郭は判別し得たと推認されること。被告人は、中村に掴まつては、拳銃不法所持等が発覚し大変なことになると思い、ジヤンパー内ポケツトに隠した拳銃により同人を射殺してでも逃げるほかはないと考え、拳銃を右手で取出すなり同人に向け引金を引いたが、前記のとおり初弾部分の弾倉が空であつたため空撃となり、銃身に巻かれた右ハンカチ等を抜取つて捨て、拳銃で射撃すれば同人が死に至るべきことを認識しながら、同人の顔面に銃口を向け二回連続銃撃したが、その間の時間は、極く短いものであつたと推認されること。二回目の銃撃により、中村は倒れたこと。中村が着用していた上衣の左前の第三ボタン穴を中心とする上下約六糎、左右約一ないし一・五糎の部分と、右肩下からポケツト上までの間に点々と吐瀉物が付着し、ズボンの右ポケツト下に泥が付着しており、後記同人の倒れた位置、帽子の落下点、顔面の創傷等から前のめりに倒れた可能性が大であること。ジヤンパーの後襟首を掴まれてから空撃を含め三回目の引金を引くまでの間に、被告人が拳銃を取落した証跡がないこと。(なお、被告人の四月一三日付司法警察員に対する供述調書は、二通共冒頭に、「けん銃でガードマンを打ち殺した」旨の記載があり、四月一四日付司法警察員に対する供述調書には、「顔にあたれば大変なことになることは知つています」との記載があり、殺意を推測させるに足りるものである。) (五) これより先、ホテル宿泊客のマリナス・ダーク・ホールトマンが外出先で誘つた上村優子と共にタクシーでホテル玄関付近に着いた際、ガードマンがタクシー前を通つて右玄関に向つて左方階段を上つて行くのを目撃したこと、ホールトマンがタクシー料金を支払つた後、村上は、玄関からではホテルに入るのを拒絶されると考え、ホールトマンと共にホテル外周に出、プール東南の柵を乗り越え土手を上つて敷地内に侵入したとき、パチンという音を一回聞いたこと。しかしホールトマンは、右の音に気付かず、村上を連込むべき入口を求めてホテル本館南側付近に至つた同日午前一時一二分ころプール西側の庭で男が足元にプール方向に点灯した懐中電灯のある状態でいびきのような変な音を立て、仰向いたたまま両手を拳げ下げし倒れているのを目撃したこと。右状況は、男の足元にあつた懐中電灯の明りやホテル建物からの明りで判り、その男が服装からガードマンではないかと判つたこと。ホールトマンは、ホテル南側の非常階段を検分した後、右男の近くをホテル寄りに通つたとき、同人がかすかなうめき声を出し、寝返りするように背をホールトマンに向けて動いたこと。同人は、見付かつてはいけないと思い、前記階段を下りてホテルの外周に出、村上のいた所に戻り、連れ立つてホテル南口非常口に至つた際、巡回中の警備員後藤秀雄に発見されたこと。一方、同日午前一時二〇分ころ、館内警備担当の杉田和昭から南側非常口の防犯ベルが鳴つているから行くよう連絡を受けた金子が、中村の通つた階段を上つたとき、点灯したままの懐中電灯を認め、近付いて、中村が頭をホテルの方に、足をプールの方にし仰向けに倒れ、帽子が頭の先約三〇糎の個所に落ちているのを発見し、ホールトマンを同行して通りかかつた後藤に知らせ、同人と共に右懐中電灯で中村の顔を照らし、顔の出血を見たこと。その後の実況見分の際には、最初に懐中電灯を認めた地点にこれを置いたと推認されること。 (六) 中村は、ホテル本館東南角から東方へ七・八五米、石段降口西端から西方一五・一〇米の芝生上に、頭をホテル本館南側(西北方)に、足をプール(東南方)に向け仰向けに倒れ、頭部の西北方二〇糎の所に庇に血液付着の制帽が南方に向けて裏返しになつており、懐中電灯が東南に向け点灯のまま頭部から南々東約八〇糎の個所にあり、頭部の西方一・七米の個所に網袋で結ばれたハンカチがあり、中村を中心とした付近に合計約二一個の足跡が認められ、うち一三個は石膏で採取されたが、特に芝生の南東隅鉄柵際の地上に印刷された足跡はNo.7の1ないし3として採取されたこと。 (七) 被告人は、本件当時茶色革短靴を履いていたが、その後勤務したバンガードにこれを置いていたところ、同店従業員黒沢憲治から昭和四四年四月七日任意提出されて領置され、前記足跡No.7の2、7の3が右革靴の右、左足用に、一部の摩滅、欠損部位を除いては、それぞれよく類似性を有しているものと認められると鑑定されたこと。右足跡は、被告人がホテル敷地に侵入した際、印象されたものであること。 (八) 中村の創傷は、(1) 顔面の左上頬骨弓部において、射入口の大きさ〇・四×〇・三糎、射創管は右後方に向い、左側頭骨及び硬脳膜を射通して頭腔内に入り、次いで大脳左側頭葉及び同後頭葉を射通し、右後頭葉に達して止まる盲貫射創一個があり、本屍の左側でわずかに前方よりの処からの銃器の遠射により生じたものと推定され、(2) 鼻梁部において小打撲傷二個があり、表面が平滑で硬固な鈍器又は鈍体による軽い打撲ないし圧迫によつて生じたものと推定され、(3) 左側頸部において、射入口の大きさ〇・六×〇・四糎大、射創管は後方に向い、筋肉組織を射通して頭部左側から射出している貫通射創一個があり、同一銃器によつて生じたものと推測されること。死因は、右盲貫射創による脳挫傷及びくも膜下腔出血等に基づく外傷性脳機能障害と推定されること。(なお、船尾忠孝、斉藤銀次郎作成の鑑定書には、右各射創は遠射によつて生じたものと推定されるとの記載があるが、火薬反応検査の証跡がないので、右判断は、疑問である。) (九) 被告人の中村に対する銃撃当時における両名の位置、姿勢等は、中村が死亡してその供述が得られないため、被告人の供述その他の証拠により推認するほかはないが、被告人は、中村によつて見咎られて詰問され、中村の来た方向へ行くと指差し弁解したというのであるが、振返つて指差したという証跡がなく、中村は、その進んだ方向に被告人を認めて詰問したと認められるから、同人はホテル本館南側建物を、被告人はプールの方を向いて対峙したと推認され、逃げようとして背を向けた被告人は、その後襟首を掴まれ、右に回転してこれを振り払つたというのであるから、中村が右手に懐中電灯を持ち、左手で被告人の後襟首を掴んでいたとすれば,右のごとく振り払われたとき、左肩を斜前にした半身の体勢になる可能性があり、左手に懐中電灯を持ち、右手で前記襟首を掴えていたとすれば、一たんは右肩を斜前にする体勢になつたとしても、中村は、高校時代既に柔道二段となつていたほどで、左利きであつたとの証左がないから、被告人の右手を突出し左手をこれに添えた恰好を見て、左手の懐中電灯で被告人を照らし、左肩を斜前にして半身となり腰を落し、対兇器の構えをとつたことを推認し得ないではなく、してみれば、被告人が尻を芝生に着けた姿勢で射撃しても、右のごとき射創二個を容易に生ぜしめ得ること。以上の事実を認めることができ、これに反する第一回公判調書中被告人の供述記載部分(以下書証として取調べられた公判調書中の被告人、証人の供述記載部分は、便宜、原審公判廷における供述として摘示する。)は、他の関係各証拠に照らして措信しがたい。なお、被告人の四月一三日付司法警察員に対する供述調書(図面三枚添付)には、「この時ガードマンは私のえり首のところから手がはなれていまして一、二メートル位の間をとつてむかい合つたのでした。」との記載があるが、右は被告人が中村と正対した趣旨と解せざるを得ないというものではなく、向い合つたという大まかな供述に過ぎないと認められ、同調書添付のNo.3の図面は、犯行当時の写真ではないから、実相を図示したものとは認め得ず、右供述の趣旨を図示したに止まるものであつて、右認定を左右するものではない。右事実によれば、被告人は、中村から見咎められ、逃げようとして着衣の襟首を掴えられ、振り切つて前のめりに転んで尻もちをついて中村の方を向くや、同人が死に至るべきことを認識しながら、一、二米の至近距離にいた同人の顔の辺りに銃口を向けて二回狙撃し、同人の左側頸部に貫通射創及び左上頬骨弓部から右後頭葉に至る盲貫射創を負わせ、脳挫傷及びくも膜下腔出血等に基づく外傷性脳機能障害により死亡させたことが認められるから、これと同旨の認定をした原判示第二に事実の誤認はないといわなければならない。 論旨は理由がない。  弁護人両名の控訴趣意第一の四 事実誤認の主張について 所論は、要するに、原判示第三の事実について、被告人の京都行の理由につき同人の四月一四日付、四月一五日付(一五枚)各員面調書、四月二九日付検面調書、五月八日付員面調書は変転しているが、変転理由は述べられておらず、四月一四日付、四月一五日付各員面調書によれば、京都を一度見ておきたいという気持であることが認められるので、「東京に近いから横浜では危い」とか、「遠いところへ逃れようと思つた」とか記載された四月二九日付検面調書は検察官の独自の創作に過ぎないというべきであり、逃亡と京都見物とは両立し得ないばかりか、右検面調書でさえ「帰る汽車賃を残しておきたかつたので野宿でも仕方がないと思つておりました」と記載されているから京都までの逃亡とは決定的に矛盾しており、犯行態様につき被告人の四月一六日付第二回、同日付第三回、四月一七日付第五回各員面調書、四月二九日付検面調書は六発全部を発射したことを前提とした調書であるが、狙つた部位と発射弾数が変化しており、四月一六日付第二回員面調書では殺意を述べていないのに同日付第三回員面調書ではこれを述べ、同月一六日付第二回員面調書では弾丸が当つたか否かはつきりしないことが、四月一七日付第五回員面調書では、二、三発顔に当つたことになつており、四月二九日付検面調書では胸の辺りを狙つたのが二発であり、命中させるために近付いて顔面を射つたことが述べられているので、かかる変転をすることは理解しがたいことであり、右検面調書で逃げたい一心で全弾射つたとしながら、確実に命中させるため近付いて顔面を狙つたと供述しているのは、矛盾し、不自然であり、犯行直後現場に駈付けた福盛、久留二名の警察官の証言、事件直後の実況見分調書、被害者の受傷状況によれば、被告人が発射した弾丸は四発と認められ、右警察官らは最初の発射音らしいものを聞き、二、三分して連続的に二ないし三回の音を聞いているから、検面調書どおり被告人が当初胸の辺りを狙い、当らないと思つて付近いて顔面を狙撃したとすれば、胸の辺りを射つてから顔面を狙うまでの間にしばらく時間がかかるので、右警察官らが聞いた一回目は、胸の辺りを、その後連続して聞いたのは顔面を狙つたものと考えられるから、検面調書は、明らかに事実に反するものであり、また、被告人の右各調書では、被害者を「おじさん」、「夜警さん」、「おじいさん」とそれぞれ異つて呼称し、員面調書の「警官」が検面調書では「お巡りさん」となり、被害者の所持した懐中電灯が「電池」、兄Fが「F兄ちやん」となつており、四月一四日付員面調書と四月一五日付員面調書で横浜から小田原への汽車の利用方法が異り、四月一七日付第四回員面調書で夜遅く小田原から小田急に乗りながら新宿に朝着いたとなつており、四月一六日付第二回員面調書で被害者の誰何に答えた被告人が「あつちの方に行くのや」と述べたと記載され、被告人自ら語らなかつたことを示しているのであつて、被告人の右各調書は信用し得るものではないのに拘らず、これを証拠として「前記第二の犯罪を犯したため逮捕される危険を感じ、まだ訪れたことのない京都を観るためにも同地へ逃亡することとし」と判示し、前記第一及び第二の各犯行の発覚をおそれ、とつさに同人を射殺して逃走しようと決意し、隠し持つていた前記拳銃を取出して、いきなり同人の顔面、頭部を四回狙撃し、左側頭葉挫滅等により死亡させて殺害したと認定した原判決は、事実を誤認したものである。更に、本件現場付近は、それほど明るいものではなく、被告人には殆んど相手の頭部または胸部が識別し得なかつたと考えられ、暗闇で突然光を当てられた場合の経験則からも十分これを推認し得るから、被告人が命中させるため少し近付いて顔面を狙つたということは信用しがたく、被告人の発射した弾丸が四発であるところから、被害者は、初弾から負傷したため、逃げたり、回避しようとしなかつたと解されるので、被告人が被害者の胸の辺りを狙つた弾丸も顔面に当つていることになるのであり、ことさら頭部、顔面を狙つたとはいい難く、被害者から懐中電灯の光を顔に照らされ続け、曽て小学生のころ駅の売店で漫画本を盗んだ際、警察官により自白するまで電気スタンドを長時間顔に当てられたことを思出し、懐中電灯の光を目がけて射撃したもので、被害者の姿、格好を認識し得ず、同人を殺すことまで意識していなかつたもので、被告人の四月一六日付員面調書の「夜警さんが石畳の上にしやがみ込みましたが、その時は何も声も出さず、血もみていませんが、まだ生きていたと思います」との供述は、被告人の犯行時の心情を推認させるものであつて、被告人には本件犯行当時、殺意がなかつたものであるから、殺意を認定した原判決は、事実を誤認したものである、というのである。 そこで先ず、所論指摘の被告人の捜査官に対する各供述調書の信用性について検討する。右各供述調書の内容は、若干の記憶違いが認められるけれども、客観的事実と大筋において符合し、被告人の各取調当時における記憶に基いた具体的、詳細、かつ、理路整然としたものであり、逃亡目的と旅行観光目的とは矛盾するものではなく、両者の併存は不合理とはいえないものであり、逃亡とは、犯行地域に絶対戻らないということではないから、逃亡目的と従来長く稼働していた京浜方面にやがて戻るための運賃を残すための野宿の意思とは何ら矛盾するところはなく、むしろ被告人の供述したとおり素直にこれを録取したことが認められ、被害者を狙つた部位の供述の変転、殺意の供述記載の存否も、被告人の供述したとおり記載されたことを証するものであり、発射弾丸数は、本件犯行に至るまでの経緯を供述した四月一五日付司法警察員に対する供述調書を除き、予め装填しておいた六発全弾を発射したこと、ないしは犯行後薬莢を一つずつ抜出したところ六発であつた旨を一貫して述べており、いずれもその取調当時の記憶に基づいているものであることが看取され、質問の有無、質問に対する供述の存否、供述内容の具体性の程度の差異によつて供述調書の記載内容の異ることは当然であり、発射音を三、四回聞いたという福盛、久留両警察官は、本件全貌を目撃していたわけではなく、本件直前八坂神社東隣の公園北側道路で不審者二名の職務質問等をしており、被告人の拳銃射撃を予め知つて発射音を数えていたという事情にあつたわけではなく、右職務質問後同神社東北門方向へ歩いていた時の発射音が偶々三、四回というに過ぎないものであり、発射弾数は後記のとおりであるから、右両警察官の発射音に関する供述内容は、正確とはいえないものであり、人の職業、身分、年齢等による呼称を礼を失しない用語をもつてした質問、応答を書面に表わしたからといつて、何ら信用性に影響を及ぼすものではなく、懐中電灯を電池と記載した供述調書のあることは明らかであるが、懐中電灯を俗に懐中電池または電池という語で語られることは少ないわけではないから、用語の正確性に多少の難のある点を捉えて供述調書全体の信用性を云々するのは妥当ではなく、列車の利用方法、小田原発新宿着時刻の疑問も信用性に影響を及ぼすほどのものではなく、被告人は曽て大阪府で稼働していたことがあるから、被害者の質問に対し関西弁による応答があり得ないわけではなく、そうでないとしても、京都府警察本部勤務の司法警察員高木幸徳作成の供述調書の話し言葉がかなり関西風であることは、被告人の四月一七日付司法警察員に対する第四回供述調書中の、被告人と兄Fとの問答の記載にすら関西弁が使用されているので、取調官が疑いもなく日常使用している話し言葉が調書上滲出たに過ぎず、例えば、関西弁、鹿児島弁のみで供述した内容を、いわゆる標準語によつて供述調書を作成したからといつて、その供述調書の信用性が失われないのと同然であつて、所論指摘の各供述調書に不自然、不合理、矛盾、明らかに事実に反する点は認められない。その他所論にかんがみ、記録を精査しても、同各供述調書の信用性を疑うべき証跡は認められない。従つて、所論指摘の各供述調書の信用性の欠如を前提とする事実誤認の主張は、採用しがたい。 次いで調査するに、原審で取調べられた関係各証拠によれば、原判決が「(罪となるべき事実)」第三として認定判示したところは、正当として是認することができる。所論にかんがみ、若干付言する。右各証拠によれば、 (一) 被告人は、原判示第二の犯行は、横浜に逃走してから、ホテルで警備員が射殺されたことを新聞報道で知り、東京に近い横浜にいては手配が及ぶと危惧し、逮捕を免れるべく京浜地区から逃亡すると共に、曽て訪れたことのない、見物するところの多い京都へ行こうと思い、予め横浜で実包六発を装填しておいて拳銃、実包約三〇発、ジヤツクナイフ等を携帯の上、昭和四三年一〇月一二日ころ列車で京都に向い、翌一三日朝京都に着いてから市内見物等の後、更に同日午後一〇時過ぎころ、食事を終えて同市内をぶらつくうち、京都市東山区祇園町北側六二五番地八坂神社西門前に出たので、同門から野宿する場所を求めて境内を歩き回り、翌一四日午前一時三五分ころ、拝殿の南側から東側を回つて北側の本殿との間の石畳上に至るや、折柄境内を巡回していた同神社警備員勝見留治郎に後から、「ぼん、どこへ行くのや。」と呼止められて振返り、「あつちの方へ行く。」と本殿の向うの方(東方と思われる。)の茂みを指差したため、同人から「向うには何もない。おかしいやないか。」と叱るような口調で訝られた上、「わしはこの神社の者やが、お前どこから来たんや。」といつて離れようとしなかつたため、ナイフで脅かせば解放されると考え、ジヤンパー右ポケツトに入れたジヤツクナイフを取出し刃を二枚共出し、右手に擬して、「近付くと刺すぞ。」と脅かしたが、同人は、恐れもせず、肩から下げていた懐中電灯の明りを被告人に向けて照らしながら、「そんなことをしてもあかん。」「警察が直ぐそこにあるから行こう。」といつて同行の意向を強く示したため、警察に連れて行かれては、拳銃等所持が発覚し、原判示第二の犯行も露見するに至ることを恐れ、俄かに同人を射殺して逃走しようと決意し、右ナイフを左手に持ち替え、右手でジヤンパー左内ポケツトから、前記実包装填の拳銃を取出して、約一・五米離れた同人に銃口を向けたこと。 (二) その際被告人は、東方の茂みのある方を向き勝見と対峙としていたが、本殿正面中央部分の南面と拝殿北面との距離は約九・九米で、被告人らのいた地点(以下この項で「現場」という。)は、その中間の稍拝殿寄りであり、拝殿北側軒下には、東西両端に一五〇ワツトのスポツトライト各一灯、二〇ワツト電球入り提灯計二一個、同東側軒下に同種提灯計一九個、同南側軒下に同種提灯計三四個、同西側軒下に同種提灯計四二個が点灯され、現場から東南約八米の地点に二五〇ワツトの水銀灯一灯が点灯され、付近の植込内の南側に二〇ワツト電球入りぼんぼり計四個、北側に同種ぼんぼり三個が点灯され、現場の東方三〇米の地位の大神宮の表に同種ぼんぼり二個、現場のほぼ東方約三〇米の茂みの西表側に同種ぼんぼり一個、それから北方へ約七・三米、更に一二・八米の地点に同種ぼんぼり各一個が点灯され、この北端のものから北方約一・九米の地点に二五〇ワツトの水銀灯が一個点灯され、本殿正面(南側)軒下には六〇ワツトの電球入り大灯篭、二〇ワツト電球入り小灯篭各一個が点灯され、本殿東に続いて設けられた神饌所南側、東側には同種小灯篭計九個が点灯され、現場の西方約五〇米の大国社の南方に二五〇ワツトの水銀灯一個が点灯されており、現場に立つた人物は、同所の東南方優に二〇米を超えて隔つた地点にある斉館表からこれを見た場合、服装、年令、人相、背丈等を一見して区別、特定できるほど明るく見ることができ、前記東方茂みの入口からも、前記大国社の北東近くの地点からもそれぞれ右同様判別できるほどの明るさであつたこと。被告人は、現場周辺の照明によつて、同人から約一・五米離れて右茂み方面を背にして立つた被害者の年令、体格、人相、服装、持物等を、同人の懐中電灯の光にも拘らず明瞭に認識しているので、勝見も被告人の年令、体格、人相、服装、持物等を右問答の間にかなりの程度観察判別していたと推認できること。 (三) 被告人は、右手だけで拳銃を持ち、勝見の胸の辺りを狙つて二発発射したが、勝見は、「そんなことよさんか。」といつて、立つたままでいたこと。この際被告人が勝見の身体に異常を認めた事情が窺えないこと。銃火器の射撃は、銃身または銃床を固定し、または安定させるための脚等を装着した上、肩着け、銃把、握把の操作を堅確にしたつもりでも、射撃に習熟しない者の弾道は、発射時の反動により通常上方ないし斜上方に流れるものであり、照門、照星等により照準を合せずにする腰撓式の射撃では、相手を狙つたつもりでも、多少のずれ、標的からの距離等により命中しないことがあるのは経験則上明らかであるところ、被告人が勝見に対し、右のごとく銃口を向けた際、照門、照星により照準を合わせたことも、拳銃を安定させる方法をとつたことも認められないから、右射撃による弾丸が同人の肉体に命中せず、後記のごとくその被服の表地を貫いて同人の後方の茂み方向へ飛去つたと推認されること。 (四) 被告人は、中村公紀の顔を狙撃し、新聞報道で射殺されたことを知つていたのであるから、拳銃で人の顔の辺りを狙撃すれば、容易に生命を奪うに至るべきことを知りながら、勝見に拳銃弾を命中させるべく、同人に若干近付くて、同人の顔の辺りを目がけ、続けて四回拳銃を発射したところ、同人は、いずれかの手で防ぐ格好をしたものの、直ぐ腰を落してしやがみ込んだが、引金を引いてカチンという空撃音を聞き、実包六発全弾を発射し終つたことを知り、一気に前記茂みに逃込んだこと。 (五) 勝見の着用していたハンチングにつけられた六個の穿孔中、一線上に極く接近して並んだ四個は、表生地のみに存し、裏生地に全く損傷がなく、これらの孔は、ほぼ円形で、見かけの直径は四ないし五粍であり、中央の二個は相接して一個の長楕円形状に見え、同人の着用していた背広上衣には、左肩前部、左胸中央部、左前襟を一直線に貫く表生地のみに存する六個の穿孔があり、裏生地には殆んど損傷がなく、孔の直径は四ないし七粍で、右穿孔のうち左肩前部の穿孔周縁部に鉛が付着していたことが認められ、右各穿孔は、小口径の銃弾の貫通によつて生じたと推定すると鑑定されたこと。 (六) 勝見は、右銃撃により、(1) 右前頭後部を左稍前方から右稍後方に向つて射撃された貫通銃創(射入口の下右方に火薬粉粒の篏入創一個があり、周囲の付着物についての亜硝酸反応が陽性であるから近射)、(2) 左側頭を左前わずか下方から後右わずか上方に向つて射撃され、弾丸は頭蓋骨を貫通して左中頭蓋窩に侵入し、トルコ鞍の左側にまで達し、大脳の左側頭葉前極部を挫滅し、更に大脳、脳脚、脳橋、小脳にくも膜下出血を招来し、脳挫傷及び脳橋実質内出血を発生させた盲貫銃創(致命傷。射入口の周囲に火薬粉粒の篏入創があり、周囲の付着物についての亜硝酸反応は陽性であるから近射)、(3) 左側頬部を左下わずかに後方から右上わずか前方に向つて射撃された盲貫銃創(射入口の周囲に火薬粉粒の篏入創があるから近射)、(4) 右下顎部を右稍後下方から左稍前方へ向つて射撃した盲貫銃創(射入口の周囲に火薬粉粒の篏入創があるから近射)を受け、右(2)の銃創に基づく左側頭葉挫滅、大脳・胸脚・脳橋・小脳のくも膜下出血、脳挫傷により昭和四三年一〇月一四日午前五時三分ころ死に転帰したこと。 以上の事実を認めることができる。 所論は被告人の四月一六日付司法警察員に対する第二回供述調書九項中の「夜警さんが石畳の上にしやがみ込みましたが、その時は何も声を出さず血もみていませんが、まだ生きていたと思います」との記載部分を切断抽出して、被告人の殺意否定の根拠とするかのようであるが、同調書七項には優に殺意を認めるに足りる事実に関する供述が記載されているので、右主張は採用しがたい。 右事実によれば、被告人は、原判示第二の犯行による逮捕を免れるため京浜地区から逃亡する目的と共に、いまだ見たことのなかつた京都を観る目的をももつて、昭和四三年一〇月一三日朝京都に至り、翌一四日午前一時三五分ころ、八坂神社境内で勝見留治郎から怪しまれたため、ジヤツクナイフで脅迫し、逃亡を図つたが、警察への同行を迫まられたため、同人を射殺し逃走する決意をし、所携の拳銃で同人に向つて二発射撃したけれども、各弾丸が同人着用の被服表地を各貫通したに止まり、同人が倒れなかつたため、同人に若干近付き、その顔の辺りを四回狙撃して前記四個の銃創を負わせ、前記死因により同人を死亡させたことが明らかであつて、被告人の殺意につきこれと同旨の認定をした原判示第三に事実の誤認はないといわなければならない。 論旨は理由がない。 弁護人両名の控訴趣意第一の五 事実誤認の主張について 所論は、要するに、原判示第四の事実について、被告人の四月二二日付員面調書(一四枚)に記載された函館から札幌までの経緯を当時の時刻表に照らすと、函館五時五分発札幌行急行列車で小樽に着き、約三時間ホームにいて次の一二時三〇分発の列車で札幌へ向つたことになるが、乏しい所持金で網走へ行く途中、札幌を見ておこうとしたのであるから、急行料金を無駄にして小樽で降りたことや、次に乗つた列車に魚の行商人が乗込んだというのも、昼過ぎの列車に魚の行商人が乗込むことはありえないから、小樽下車、次の列車に乗つたとの記載は、理解しがたいものであり、被告人の四月二二日付員面調書(一四枚。弁護人両名の控訴趣意書に四月一二日付員面とあるのは誤記と認める。)の札幌から長万部に着いた経緯を前記時刻表に照らすと、一七時一五分札幌発急行に乗つたと思われるが、食事代にも困つて長万部までの切符しか買えなかつたというのであるから、急行に乗車しえなかつたと考えるべきであり、同時刻表によれば、長万部には二〇時三五分着であるから、住宅さえ寝静まつていたとは考えられず、長万部から函館までの約一一〇粁を盗んだ自転車で二晩もかかつて到着したというのは客観的事実に符合せず、右各供述調書は信用性がないのにかかわらず、これを証拠として本件までの行動を認定した原判決は事実を誤認したものである、というのであり、次に、「連絡船に乗り東京に戻る金がなく淋しい気持で歩いているときタクシーの走つてくるのを見て、金を奪うことを決意し、駅に向つて歩く中で殺害することを決めた」旨供述した被告人の四月二二日付員面調書(二四枚)及び五月三日付検面調書(二七枚)、「私はそれほど金に困つてせつぱつまつた気持で自暴自棄になつてしまつていた」と供述した同検面調書と「長万部から函館にくる途中でも金を奪おうと思つたこと、函館に行けば犯行を犯しても逃げるのが便利で容易であると思つた」旨を述べた被告人の五月二四日付検面調書とは、重要かつ記憶違いすることのない動機の点で変転、矛盾し、前者二通の強取の犯意、殺害の決意に至る心理が極めて不自然であつて、本件の動機についての供述の信用性を疑わしめるのに十分であり、本件の真相は、被告人が昭和四三年一〇月一九日兄Fから九、〇〇〇円を受取り、網走での自殺の決意を打明け、Fから「死ぬのなら熱海でもいいじやないか。俺の人生もこれで終りだ。」等といわれ、同日大宮駅から青森駅に向い、同月二一日午前零時三〇分発の青函連絡船、同日午後函館発の列車で森駅で下車し、自転車で小樽へ行き、同月二二日朝列車で札幌に着き、同月二四日網走に向うつもりが列車を間違え、苫小枚駅引込線で気付き、室蘭を経て同月二六日長万部に着き、普通列車で函館に向い、途中社会科学習小辞典に手記を記し、どうせ死ぬなら何か大きいことをやろうといつた考えが頭に浮び、同月夕方函館に着き、自動車荷台で寝た後、目覚めて駅へ向つた折、近付いてきたタクシーを停め、七飯と告げ、乗車後事件を起すならこのときだと思い、七飯に入つた後右折を指示し、一〇〇米進んだ地点で停車させ、この時以外に事件を起せないと考え、被害者に拳銃を発射し、後ドアから出られなかつたため、助手席に移動して出ようとした際、ハンドル前の小銭入れと被害者の胸ポケットから紙弊を盗り、助手席ドアから外に出て逃げたというものである。更に、被告人が昭和四三年一〇月二六日函館に着いた時点では、五月三日検面調書(二七枚)によると、上野から青森までの切符を買つて六、〇〇〇円残つたというのであり、その後の運賃、パチンコでの五〇〇円の儲け、食費等を考慮しても二、〇〇〇円以上所持していた計算になり、昭和四三年一〇月三〇日付実況見分調書に記載された助手席の足跡、泥の付着は、被告人がつけたものでないと認め得る証拠がなく、後部のドアが一寸位開いていたか否か合理的疑いがあり、十倉幸夫が聞いたパタンという三回の音は、被告人が二回後部ドアを開けようとした音、一回が助手席から出て閉める時の音と解され、右実況身分調書添付写真によると後部左ドアが開かないような障害物の存在しないことが認められるが、現場道路の傾斜状況、被告人の助手席への移動、ドアを閉める衝撃で車両が移動したことがあり得るのであり、運転席後に仕切板があるので、被告人が後部座席からフロントガラス寄りにあつたと考えられる小銭入れを左手で取ることは不可能と考えられるから、被告人が金員を奪う犯意を生じたのは、被害者を殺害した後というべきで殺人と窃盗と解さなければならないのに拘らず、「所持金も殆んど費消して残りわずかとなつたので」とした上、強盗殺人と認定した原判示第四は、事実を誤認したものである、というのである。 そこで先ず、所論指摘の被告人の捜査官に対する供述調書の信用性につき検討する。右各供述調書の内容は,被告人の各取調当時の記憶に基いた具体的、詳細なものであつて、捜査官の問に対し、供述した限度で記載されたものと認められ、小樽で下車し、改札口を出ず、同駅から魚行商人が乗込んだことを否定すべき証拠はなく、二〇時三〇分に着いた長万部が大都会の繁華街のごとき状況ではなかつたであろうし、地方都市の一〇月下旬の二〇時三〇分の通や街のただずまいはかなり寂寥たるものがあるから、被告人のその折の認識感想の供述記載は理解できないものではなく、長万部から盗んだ自転車で函館まで二晩を要したとの点も、被告人の供述する自転車の機能、構造の程度、走り続けたわけではないこと等を勘案すると、事実に反したものとは断じがたく、右各供述調書の内容を覆えすに足る事実認定上の証拠は不充分であり、動機に関する点も、心の動揺を窺知し得るものではあるが、矛盾するとはいいがたく、所論指摘の各供述調書には不自然、不合理、矛盾は認められず、その他所論にかんがみ、記録を精査しても、同各供述調書の信用性を疑うべき証跡は認められない。従つて、所論指摘の各供述調書の信用性の欠如を前提とする事実誤認の主張は採用しがたい。 次いで調査するに、原審で取調べられた関係各証拠によれば、原判決が「(罪となるべき事実)」第四として認定判示したところは、是認することができる。若干付言する。右各証拠によれば、 (一) 被告人は、原判示第二、第三の各犯行を重ね、京都から帰京して程なく、八坂神社の夜警が拳銃で射殺された旨の新聞報道を見て、生れ故郷の網走で自殺しようと決意し、昭和四三年一〇月一九日、当時東京都豊島区池袋一丁目一一四番地山本方に住んでいた兄Fを訪れ、二〇、〇〇〇円を無心し、理由を追及されて右各犯行を打明け、北海道で自殺する決意を告げたところ、同人から自首を勧められたが、「自首するなら死んだ方がましだ。」といつて断り、池袋駅西口の喫茶店サンチエで金策したFから九、〇〇〇円を受取つたが、右隣の客の拡げた新聞を覗き、右各事件の合同捜査の報道を見て逃げられないと思い、自殺の意を強め、青森、函館を経、死ぬ前に札幌を見物すべく、同月二一、二二両日にわたり札幌市内を見物等するうち、自殺の決意が動揺稀薄となり、京浜に対する懐しさが高じて帰京することにし函館に向つたこと。(被告人の札幌から函館までの経路が列車で長万部に至り、同所から盗んだ自転車を利用して函館へ向つたものか、札幌から岩見沢までの切符で列車を乗違え、苫小枚に至り、盗んだ自転車により室蘭を経て長万部に至り、同所から列車により函館へ向つたのか、いずれも裏付けるに足る証拠がないので決しがたいところであるが、いずれにせよ函館に戻つたことは明らかであつて、右経路の如何は本件に影響のないことである。) (二) 函館に着いたころの被告人の所持金は、僅少であつたため、所携の拳銃でタクシー運転手を射殺して金を奪おうと決意し、函館駅構内便所で実包六発を装填し、同日午後一〇時五〇分過ぎころ、同駅前付近路上から帝産函館タクシー株式会社勤務の斉藤哲彦運転のタクシーの後部座席に乗り七飯と行先を告げ、やがて同人から七飯に入りましたよといわれ、折柄目についた右へ曲る道路に右折するように指示し、同日午後一一時一三分ころ、道路両側に高さ四、五米の松等が立並び暗がりとなつていた北海道亀田郡七飯町大川一六四番地秋田吉五郎方付近で停車させたこと。被告人は、停車した際、斉藤が車内の明りをつけたように思うと捜査官に供述しているので、後記のごとく左後ドアを開けることにより室内灯が点灯されるように室内灯スイツチがセツトされていたから、斉藤によつて左後ドアが開けられたところ、被告人がこれを閉めたと推認されること。被告人は、停車するや、運転席背部の仕切板によつて、真後からでは狙撃できないため、座席左端に体を寄せ、体を左斜にして右手を伸ばし、約五〇糎の至近距離から同人の顔の辺りに狙いをつけ、開けたドアが被告人によつて閉められたため客席の方に、すなわち顔を左へ向けたと推認される斉藤の顔に二発連射し、同人に対し、右眼瞼左端部から右後頭極に達する盲貫射創、鼻翼部に貫通射創を各負わせ、同人がバツクレストに寄りかかつて動かなくなつた時、ブレーキペダルを踏んでいた力が弱まつて約一〇米後退して停車するや、ハンドル前のダツシユボード上の小銭入れ(在中約二〇〇円)を取るべく運転席に体を乗り出したところ、同人の左胸ポケツトの紙弊(約七、〇〇〇円)を発見してこれらを強取し、ドアの把手に指紋を残さないように左手の袖口内に手を引込め、袖口の部分で左後ドアの把手を開けて下車逃走し、斉藤をして翌二七日午前八時一五分ころ、右盲貫射創に基づく右硬膜下出血により死亡させたこと。(十倉幸夫が右射撃時刻ころ、バタンバタンと続けて二回車のドアが閉まるような音が聞え、暫く間をおいてバタンという音が聞えたというが、就床してテレビを見ていた際のことであるというのであるから、正確な記憶によるものか疑いがあり、被告人が開けられた左後ドアを一たん閉めた音と車内での二回の射撃音が右のごとく聞えた可能性があるといえるであろう。) (三) 右二七日午前六時三〇分ころ、起床し戸外へ出た秋田トモヱが自宅入口を塞ぐ状態で停つていた右タクシーを、更に運転席右ドアのガラスに頭をつけ顔面に出血している斉藤を見て、長男勝年に告げ、同人も同車助手席外から右同様の状態及び同車左後ドアが一寸位開いているのを認め、同日午前六時五五分ころ近くの大中山警察官駐在所巡査沢出金作に通報したこと。  (四) 同日午前八時五〇分ころから実施された警察官の実況見分当時、同車が当初停車したと思われる地点から右見分時の前輪停車地点までの路上には西南西方に左側約一〇・三米、右側約七・一米の同車のタイヤ紋様と一致するタイヤ痕が印象され、前部を東北東にし、車体を道路に対し若干斜めにしており、左前輪は、秋田方出入口東端に生えている落葉松に引掛け、後部は同出入口西端に置かれた岩石に接触して秋田方の出入口を塞いでいたが、各ドアの開閉を妨げる障害物のある状態ではなく、同車は四一年式トヨペツトコロナ函5あ一八ー二〇で車長約四・〇米の比較的小型の車であり、バツテリーは消耗していたが、スイツチに差込まれたキーは点火位置に、ヘツドランプは点灯位置に、ルームランプのスイツチは、左側ドアの開閉による点滅位置にあり、左後ドアは半ドアでも点灯する状態にあり、他車のバツテリーから電源をとり、接続すると、ヘツドランプ両側二個中外側の各一灯、社名灯が点灯し、左後ドアは半ドアでもルームランプは点灯し、イグニツシヨン兼スタータースイツチをスターター位置に倒すとエンジンが始動し、ハンドブレーキは走行状態にあり、チエンジレバーはニユートラルの位置にあつたこと。助手席シート左端部から五糎、バツクレスト側から一三糎の個所に泥の付着部一個所とシート左端から二八糎の個所に踵部が一五ないし一七糎程度斜に印象された足跡痕が一個あり、助手席側のラバーマツト上に不鮮明な、前向きの踵部と認められる足跡の一部があつたが、先着の右沢出巡査が運転席を開けると同席側ドアに寄りかかつた状態の被害者が転がり落ちるように感じたため、助手席側から車内に入り、被害者の肩に手をかけ、「どうした」と声をかけており、被害者を病院へ搬送するためパトカーに移す際にも、介添の警察官が助手席に入つていることから、右足跡痕等は、右警察官らによつて印象された蓋然性があること。 (五) 発射弾丸のうち一個は、被害者の右内眥部より打ち込まれ、その主力は右後頭極に達し摘出され、他の一個は、右タクシー運転席右前の三角窓のウエザースリツプに射込まれ、その上端より約九・五糎下の個所から摘出されたこと。 (六) 捜査官らが被告人の自白に基づき右車と同種の車を秋田方付近の当初の停車位置で、クラツチをニユートラルにして停車させ、ブレーキペタルから足を離すと、自然に秋田方まで後退し、背丈の小さい大倉末吉警視が後部座席から運転座背部の仕切板にも拘らず、運転席前のダツシユボード上の小銭入れを左右いずれの手でも取ることができ、その際運転手の左胸ポケツトに視線が落ちる恰好となり、後部座席左ドアに身を寄せ、長棒を稍左に顔を向けた運転手の鼻部に当てれば、その延長線は、運転席右の三角窓のゴム部の上部より約九糎位の処に到達し、運転手が更に左に顔を回せば長棒の尖端が運転手の右眼部に達し、後部座席のドア把手を上衣の袖口内に手を引込めて上に上げるとドアを開けることができたことを実験の結果得たこと。 以上の事実を認めることができ、これに反する被告人の原審公判廷における供述及び五月三日付(二通)、五月二四日付各検察官に対する各供述調書は他の関係各証拠に照らして措信しがたい。 右事実によれば、原判示第二、第三の各犯行により二名を射殺した被告人が生れ故郷の網走で自殺しようと考え、昭和四三年一〇月一九日兄Fに無心して九、〇〇〇円(原判示第四に「八〇〇〇円くらいもらい受け」とあるのは不正確である。)を調達し、同月二一日函館を経て札幌に至り、同日及び翌二二日の両日にわたり同所を見物するうち自殺の気を薄めて東京へ帰ることにし、同月二六日夜函館市内に着いたが、所持金も僅少となつたため、所携の拳銃でタクシー運転手を射殺して金を奪取しようと決意し、函館駅の便所内で実包六発を拳銃に装填し、同日午後一〇時五〇分過ぎころ同駅付近路上から斉藤哲彦運転のタクシーに乗車して七飯へ行くよう指示し、前記秋田吉五郎方前路上で停車させ、右拳銃で後部座席から斉藤の顔の辺りを二回狙撃し、同人の右眼瞼左端部に盲貫射創を、鼻翼部に貫通射創を各負わせてその反抗を抑圧し、同人管理の現金約七、〇〇〇円及び現金約二〇〇円在中の小銭入れ一個を強取し、同人をして翌二七日午前八時一五分頃市立函館病院で右盲貫射創による右硬膜下出血により死亡させて殺害したことを認めることができるのであつて、これと同旨の認定をした原判示第四に事実の誤認はないといわなければならない。 論旨は理由がない。 なお、被告人が社会科学習小辞典に鉛筆で手記を書入れた時期は、被告人の五月二四日付検面調書によると、札幌から長万部に向う汽車の中で書いたと記載されているから昭和四三年一〇月二二日ということになるが、右小辞典余白の「私の故郷(北海道)で消える覚(後)?で(帰)たが、死ねずして函館行のどん行に乗るこのone weekどうしてさまよつたのか分らない」との記載と矛盾するのであつて、この手記は、同月二六日長万部から函館行の普通列車内で書かれたものであり、右余白に記載された「私は生きるせめで二十歳のその日まで、罪を最悪の罪を犯しても、残された。」(三頁まで)、「日々を、 せめて、みたされなかつた金で生きるときめた。」(四~五頁)、「母よ、私の兄姉妹とよ許しは問わぬが私は生きる。寒い北国の最後のと思われる短かい秋で私はそう決めた。」 (六頁以降)という文章の句点にかんがみると、それまでに犯した東京プリンスホテル及び京都で犯した各罪を最悪の罪として心境をまとめ、「日々を」以下は、今後の気持を綴つたものであるから、「札幌から函館へ向う途中、所持する社会科学習小辞典の余白に、故郷北海道で消える覚悟で帰つたが死ねなかつたこと、せめて二〇歳まで最悪の罪を犯しても満たされなかつた金で生きると決めたこと等の趣旨の記載をなし、それまでの心理的葛藤を一応解決し、右のような決意をしたことが認められる」と、右手記を書いた時点で本件のごとき犯行を予定したような認定判示をした原判決(五〇丁表)は、事実を誤認したものである、というもので、原判決の「対主張判断」の中で説示した部分を指摘して事実誤認を争うのであるが、右の部分については、前記のとおり判断を加える必要のないものと解するのを相当とするのではあるが、後記説示に若干関連するので、便宜判断を示す。手記、日記等は、必ずしも当該行為、行動中に誌されるとは限らないものであつて、むしろ事後記載されることが多く、事実を正確に描写したとは限らず、多少の修飾、フイクシヨンを加えることも考えられるから、所論の手記から、これが札幌、長万部間の車中、長万部、函館間の車中、青森へ向う連絡船中またはその他の機会に認められたかは、にわかには決しがたいところであり、また右手記の趣旨が所論のごときものと解されないではないが、それにしてはかなり無理があり、ことに、「私は生きるせめで二十歳のその日まで、罪を最悪の罪を犯しても、」と読点で続いてはいるが、元来、和文に句読点はなかつたものであり、その後読点のみ付した時があり、右手記の「犯しても、」の読点が句点を意味すると解されないではなく、被告人は、本件当時一九歳三か月余であつたから、二〇歳までは最悪の罪を犯しても生きる旨の文章を倒置したと解することもでき、同文の後の「残された。」という文節は、形式上、動詞、受身助動詞、過去助動詞から成る述語のごとくであるが、そうだとすると、これに対応すべき主語がなく、同手記の全体を観れば、右の句点にも拘らず、むしろ「日々」の連体修飾語と解するのが素直であるということもできるのであつて、所論指摘の原判決の説示が誤であると断ずることはできないであろう。 弁護人両名の控訴趣意第一の六 事実誤認の主張について 所論は、要するに、原判示第五の事実について、被告人の四月二五日付員面調書、五月四日付検面調書は、強盗殺人の動機に関し、運転手から「あんた東京の人でしよう。」との言葉を媒介として、生かしておけないと思う心理状態と、金を奪う利欲心とが両立しないものであるのに拘らず、両立するように記載がなされているので不自然で、かつ、矛盾しているから信用性がなく、これらを基礎にして強盗殺人の動機を認定した原判示第五は、事実を誤認したものである。そして、本件の真相は、被告人が被害者運転のタクシーに乗り、何気ない会話をするうち、同人から「東京の人でしよう」といわれるや、被告人の身元が割れ名古屋のタクシー会社まで手配が及んでいるのではないかと思い、今度大事件を犯せば警察は間違いなく射殺するであろうが、射たれて死んでもいい等と思ううち、本件現場近くになつて殺意を懐き、拳銃を発射し、被害者の頭部からの出血を目撃して驚愕恐怖し、後部ドアから逃げ出し、暫く行つた所に停つていたトラツクの近くで薬莢四個を捨て、タクシーの所に戻つたところ、運転手の姿がないので、ドアの指紋をジヤンパーの袖で拭いた後、金を盗ろうと思い、白い袋を引張つて取り、路上に落ちていた座布団を二折りにしてシート上に置き、運転席前から時計を取つたというものであつて、昭和四三年一一月五日付実況見分調書によれば、座布団が下端を道路に着け、上端を出入口にもたれかけて置かれていたことが認められるが、被告人が座布団を二折りにしてシートに上げ、その上に体を置いて物色した後、外に出たはずみで、かかる状況になることは十分あり得ることであり、昭和四三年一一月五日付実況見分調書によれば、犯行現場と市電通との間に二台のトラツクがあり、被告人がトラツクの所から戻る途中で被害者と出会うはずであるのに会わなかつたのは、現場が真暗で被害者が打撲を受けていることから、道路に倒れたりしたためと、被告人が被害者に気付かなかつたためと推認されるのであるから、被告人が金員奪取の犯意を生じ、財物を窃取したのは、被害者を射撃した後で、殺人と窃盗として罪責を問われるべきであるのに拘らず、強盗殺人と認定した原判決第五は、事実を誤認したものである、というのである。 そこで先ず、所論指摘の捜査官に対する供述調書の信用性について検討する。右各供述調書の内容は、被害者から「あんた、東京の人でしよう。」といわれたのを契機に、同人を射殺して金員を奪おうと決意したというもので、殺人の意思と財物奪取の意思とが別異に生じたことを供述したものではなく、右両意思が結合した一個の意思となつていることを供述したものであるから、何ら不自然、矛盾のかどはなく、その他所論にかんがみ、記録を精査しても、右各供述調書の信用性を疑うべき証跡はないから、右各供述調書の信用性の欠如を前提とする事実誤認の主張は、採用しがたい。 次いで調査するに、原審で取調べられた関係各証拠によれば、原判決が「(罪となるべき事実)」第五として認定判示したところは、正当として是認することができる。若干付言する。右各証拠によれば、 (一) 被告人は、原判示第四の犯行後、横浜で沖仲士として稼働していたが、逮捕の危険を感じて名古屋へ行き働くことにし、昭和四三年一一月二日横浜市神奈川区神奈川通七丁目二四八の三の空地に埋め隠しておいた前記拳銃及び実包を取出し、実包六発を装填携帯し、現金約五、〇〇〇円を持つて名古屋に向い、翌三日から四日にかけて同市内見物等をし、翌朝の沖仲士の仕事を見付けるため同市中川区内路上を名古屋港に向い歩いていた同月五日午前一時二〇分ころ、八千代タクシー株式会社勤務の運転手伊藤正昭の運転するタクシーが近付き、同人から「どこへ行くの。」と声をかけられ、「港へ行く。」と答えると、同人が客席左側ドアを開けて乗車を勧誘するや乗車する気になり、同港へ向け走行中、同人から「港へ何しに行く。今行つても何もないよ。」といわれ、「港で働くんだよ。」と応答したが、同人が「あんた、東京の人でしよう。今晩どうする。」といわれるや、愕然とし、自己に接して東京の人と知られた上は、放置しておけば、東京、京都、七飯の各犯行を重ねた自己の足取等が右運転手を通じ警察に判明し逮捕されるに至らないとも限らないと考えると共に、パチンコの儲けを加えても三日間で費消した残所持金が、二、〇〇〇円位いで、当面確実な収入の目途が立つていなかつたことから、七飯における犯行と同様運転手を射殺して金を奪取逃走しようと決意し、市電江川線の走つている道路(以下「市電通」という。)を名古屋港に向い走る車内から、同市港区七番町中日自動車学校西南角付近を左(東方)に入る道路方向が暗くなつているのを認めて左折を指示し、約一八〇米東方に進んだ同町一丁目一番地株式会社竹中工務店名古屋製作所南側路上で停車させたこと。 (二) 被告人は、停車直後、背広内ポケツトから拳銃を取出し、客席の中央付近から右手で銃口を仕切板のない運転席に座つた伊藤の頭部等を目掛け、二、三十糎の距離から発射し、一時後を向いた同人が待つて待つてというのを黙殺して発射を続け、同人の右側頭部、後頭部、左前額部、左側頭部に各盲貫射創を負わせてその反抗を抑圧し、同人が助手席の方へ倒れるや、運転席右側ドア把手に吊り下げられた白布袋を奪取すべく、着衣の袖口を使つて客席左ドアを開けて下車し、同様の方法で外から運転席ドアを開けて同人管理の現金七、〇〇〇円余在中の白布袋を引張り紐を千切つて取り、更に同席前のダツシユボード上の腕時計をも手中にしてこれらを強取し、市電通りに戻り、更に名古屋駅方向へ逃走したこと。伊藤は、同日午前六時二〇分ころ、右射創によるくも膜下出血及び脳挫傷により死亡したこと。 (三) 被告人は、現場から逃走後、同市中川区四女子町二丁目四一番地岡田寿雄方材木置場に隠れ休んだ際、金員を抜いた右白布袋と時計バンドを捨て、弾倉から薬莢四個と実包二発を抜いて一時右薬莢を上衣ポケツトに入れ、右実包を他の実包を入れた小銭入れに納つたこと。 (四) 右に先立つ同月五日午前一時二十数分ころ、本件現場の東西に走る道路(以下「現場道路」という。)を東から西ヘタクシーを走行させていた富士交通株式会社の運転手中野進が現場に八千代タクシーの社名灯、スモールランプをつけ、運転席右ドアの半開となつているのを認め不審を感じ停車して検分すると、半開ドアから血の付着した席布団がずり落ち、運転席シート上に血様のものが付着しているのを見て、警察へ通報すべく、市電通りへ向つたが、その間被害者と会うまでは、他の歩行者とは会わず、市電通り手前約一五米の地点を西方に酔払いのように歩いて行く男を認め、同人に約一〇米接近したとき、伊藤松美運転のトラツクと擦れ違い、市電通り手前で血だらけの男を認め、乗車したまま助手席側窓から声を掛けると、男が同車の方へ倒れてきたので、左後ドアを内側から開けたところ、男はどつと倒込んできたこと。その男は被害者であつたこと。解剖時において被害者の左上眼瞼に皮下出血、上口唇右側、同左側、下口唇に各粘膜剥脱、下口唇左側稍下方、左手背基部に各表皮剥脱が認められたが、被害者が本件現場から中野進運転の車に倒込むまでの間に、道路上で倒れたと認むべき証跡がないから、右皮下出血、粘膜剥脱、表皮剥脱は、同車に倒込んだ際に生じたものと推認されること。中野は、被害者を自車に乗せ、非常灯を点滅させながら市電通りを北方へ走り、六番町交差点付近で追尾してきた八千代タクシーの運転手板倉良光に警察への通報を依頼し、中部労災病院に被害者を搬送したこと。板倉は、現場で被害者が乗務していたタクシーの前記状況とつり銭入れの紐が千切れているのを確認した後、警察へ通報したこと。前記伊藤松美は、トラツクを運転し、市電通りを中日自動車学校角で左折し、本件現場方向へ五、六米東進したところ、助手席の橋口勝美が現場道路南寄りを電車通りにふらふらと対向歩行する顔面、着衣を血濡らせた男を認め、更に東進したとき、前方約一〇〇米の地点に運転席側ドアを開けたまま駐車中のタクシーを認めたが、そのまま現場手前にある加藤運輸株式会社に入り、タイムカードを押すと午前一時三〇分であつたこと。 (五) 警察官が同日午前二時ころから実施した実況見分の結果によれば、現場道路上には被害者運転の車のほかに駐車車輌はなく、現場の東方約二七米の道路北側に地上約四米の位置に四〇ワツト二本の蛍光灯が、東方約六〇米の道路北側に一〇〇ワツトの外灯が各点灯され、現場南側直前のキリンビールと三菱重工業の空地の外灯は電球が損壊されて点灯されておらず、現場西南方約四〇米以上離れた個所に二〇ワツトの防犯灯が一個、その更に南方約四四米の地点に同種電灯が一個、少し南方の地点に二〇ワツト蛍光灯一個が各点灯され、現場西方約六三米の道路北側で地上約三・五米の個所に一〇〇ワツトの外灯一個、その西南西方向に宅見鋳造所入口の地上約二・八米の個所に一〇〇ワツトの裸電球一個が各点灯し、現場北方は、竹中工務店名古屋製作所の建物壁に接し一〇〇ワツト裸電球が約二〇米置きに五個あるも消灯され、西側の同建物の北側庇下に四〇ワツトの蛍光灯一個が点灯されている状況であるため、市電通りから現場道路への入口付近は明るいけれども、現場は暗く、折柄月は一四日位であつたが、一米位接近すれば人の顔が判る程度に過ぎなかつたこと。現場に停車していたタクシーはトヨペツトコロナ名古屋5く二七ー五三であつたこと。座布団が運転席から路上にずり落ち、その外側となつた表面の二個所に多量の血が付着しているが、その写真を仔細に観れば、同布団が二折にされたと認むべき血の付着状況ではないこと。左後部ドアは半ドアで、社名灯、ルーム、ナンバー、スモールの各ランプが点灯され、前照灯は消えており、自動車右側端、右後部ドア上方に血のついた指頭跡と思われる血痕が縦線状に三本付着し、この左側に横線状になつた血痕一個が残され、開放状態の運転席右側ドア内側の把手後部に二本に分れた先端の引き千切られた紐が垂下しており、同ドアガラス内側に横になつたような血痕が数個付着し、同窓枠下部中央より稍左側に血痕一個が付着し、右把手前方稍上部に長さ約四糎の血痕が左斜の形状で付着し、料金表示器が消灯状態で下げられ、料金二〇〇円を示しており、助手席左側に多量の血が付着し、裏返しに置かれた運転日報挟にも多量の血が付着し、同席バツクレスト下部に流出したような線状の血が付着し、マツトにも点状血痕があり、左後部マツト上に助手席シートから流出の多量の血がかぎ状に付着していたこと。 以上の事実を認めることができ、これに反する被告人の原審公判廷における供述は,他の関係各証拠に照らして措信しがたい。 右事実によれば、被告人が伊藤運転の前記タクシー後部客席に乗つた後、同人との前記会話の中で同人から「あんた、東京の人でしよう。今晩どうする。」といわれるや、放置しておけば東京、京都、七飯町における各犯行を重ねた自己の足取等が伊藤を通じて警察に判明し逮捕を招くに至りかねないと考え、所持金が二、〇〇〇円余りという不十分な状況であつたこともあつて、伊藤を射殺し金を強取しようと決意し、犯行に適した前記竹中工務店名古屋製作所南側路上までタクシーを走行させて同所で停止させ、同車中で伊藤の頭部等を後方から四回狙撃して前記四個の盲貫射創を負わせてその反抗を抑圧し、同人管理の現金七、〇〇〇円余在中の白布袋一枚、腕時計一個を強取し、同人を右射創に基づくくも膜下出血及び脳挫傷により死亡させて殺害したことを認めることができるのであつて、これと同旨の認定をした原判示第五に事実の誤認はないといわなければならない。  論旨は理由がない。 弁護人両名の控訴趣意第一の七 事実誤認の主張について 所論は、要するに、原判示第六の事実について、被告人の四月七日付、四月一〇日付、四月一五日付(七枚)各員面調書、五月五日付検面調書は、窃盗の犯意を懐いた時期、犯行に至る経緯につき四月七日付員面調書とそれ以降の調書とで異り、四月一五日付(七枚)員面調書以降に初めて所持金の額が述べられ、五月五日付検面調書で窃取を決意したときに妨害者への殺意さえも懐いたことが述べられ、内容が変転矛盾しているから信用性に疑いがあるのに、これら調書の信用性の疑いを無視して「拳銃の他にドライバー、皮手袋を持つて一橋スクール・オブ・ビジネスに至り、」とあたかも被告人が当初より窃盗の道具として右物を携行したかのごとく認定した原判示第六は、事実を誤認したものであり、更に、木村勝重、山口敏彦(同趣意書に「敏高」とあるのは誤記と認める。)、中谷利美、佐々木正男及び昭和四四年四月九日付一一〇番受理報告書によると、警備会社の管制室で一橋スクールの警報装置の異常発信を探知したのが四月七日午前一時六分、木村が事務室に電話したのが午前一時一三、四分ころ、木村から指示を受け現場に到着した中谷が山口に警察への連絡を依頼し、一一〇番が午前一時三七分から三八分の間に受理されているから、中谷が現場に到着したのは午前一時三五分ころと推認され、一方被告人は、事務室で物色し、ロツカーの所の電線を切り、更に物色しているとき電話が鳴り、五分位経つても誰も来なかつたから貯金箱から金を出しているとき玄関のドアが開けられたと供述しているから、電話が鳴つてから一五分以上物色していたことになるが、かかる行為に費したものとしては不自然であり、事務所の花壇側の窓が開閉可能な状態になつており、フロント脇の電線がすべて切断されていたことを併せ考えると、被告人が本件建物に侵入したのは、窃盗目的ではなく、自殺も自首も出来なくなつた最後の死場所としてであつて、このことは、被告人が昭和五二年三月一六日の公判期日で「原宿事件は自首的逮捕です。自殺を計つたのですがダメでした。それは、明治神宮の森のある所に座つて、こめかみに向けて三発撃つたのですが、しけつて発射できず、諦めて朝まで放心しておつたためできなかつたのです。」との供述に加え、逮捕当時小銭入れにあつた実弾一四発を検分すると、縁打痕が明瞭に刻されているのが二個、不明瞭ながらその形跡が認められるものが一個存することによつて一層明らかであり、被告人の四月七日付員面調書には殺意の存在を窺わせる記述がなく、四月一〇日付員面調書と五月五日付検面調書とでは殺意の生じた時期が変遷していながら、その理由が欠如しているから信用性がなく、昭和四四年四月一三日付実況見分調書、同月七日付遺留品発見報告書、同月一八日付発射弾痕(同趣意書に「弾丸」とあるのは誤記と認める。)捜査報告書、裁判所の検証調書、中谷の証言から認められる正面右側ドア下部についた弾痕、弾丸の落下していた位置、中谷と被告人とが向合つた位置にかんがみると、被告人に真実射殺の意思があつたのであれば、弾丸を中谷に命中させることは容易な状況であつたにも拘らず、中谷に命中しておらず、弾丸が中谷の右側を通過することはあり得ないことであつて、同人の右顎をかすめたといわれるものが弾丸でないことは明らかであり、中谷の拳銃で射たれて顎の右側にちくつと痛みを感じた旨の供述は、同人が佐々木に対し、犯人がピストルを持つているぞと告げたことさえ記憶しておらず、当時極めて興奮した状況にあつたことをも考慮すると、客観的事実と符合せず信用し得ないものであり、他に被告人の殺意を認定するに足る証拠はないから、建造物侵入と暴行と認定すべきであるのに拘らず、強盗殺人未遂と認定した原判示第六は、事実を誤認したものである、というのである。 そこで先ず、所論指摘の被告人の捜査官に対する各供述調書の信用性につき検討する。右各調書の内容は、被告人の各取調当時の記憶に基づいた具体的詳細、かつ理路整然としたものであり、被告人の供述した限度で録取したことが認められ、取調の進むにつれ、従前供述しなかつた点に触れるに至つた状況が看取されるから、その変遷は何ら異とするに足らず、矛盾、不自然、不合理なことではないのであつて、各供述の信用性を左右する事由は見当らない。その他所論にかんがみ、記録を精査しても所論指摘の被告人の捜査官に対する各供述調書の信用性を疑うべき証跡は認められない。従つて、右各供述調書の信用性の欠如を前提とする事実誤認の主張は、採用しがたい。 また、証人中谷利美の原審公判廷における供述は、若干の記憶の忘失した点、記憶違いの点はあるものの、同人の記憶している限りは、自己の体験事実を記憶に基づいて具体的、詳細、かつ、理路整然と素直に供述したものと認められるから、同人が一橋スクール・オブ・ビジネス(以下「スクール」という。)の門の辺りで佐々木正男に対し、相手はピストルを持つている旨をいつたか否か覚えていないと供述したことも、曽て経験したことのない、突然の拳銃による狙撃を受け、拳銃を持つた被告人と五〇糎位離れての警棒による渡合等、自己の生命にかかわる緊張の最中でのことであつたから、やむを得ないところであつて、右の点を抽出して中谷の供述全体の信用性を揺がすものとはいえず、その他記録を精査しても後記判断に反する記憶違いの点を除いては、同供述の信用性を疑うべき証跡は存しない。 次いで調査するに、原審で取調べられた関係各証拠によれば、原判決が「(罪となるべき事実)」第六として認定判示するところは、おおむね是認できる。所論にかんがみ若干補足説明を加える。右各証拠によれば、 (一) 被告人は、原判示第五の犯行後、横浜に逃帰り、横浜市磯子区東町六番地二〇号大聖院本堂横の積重ねられた敷石の辺りに拳銃及び実包を埋めて隠匿しておいたが、横浜で沖仲士をした後、昭和四三年一一月末ころ上京し、肩書幸荘に住んで、同年一二月四日からバー・スカイコンパに、同四四年一月八日から深夜喫茶店ビレツジ・バンガードにボーイとして勤務していたところ、同年三月中旬ころ無心に応じ五、〇〇〇円を送金してくれた母親からの信書に、警察官が被告人のことで二度許り訪ねて来た旨誌されてあつたため、心配になり、同月二九日ころ、右隠匿場所から拳銃等を掘出し、山下公園付近の海岸で、拳銃に実包六発を装填し、引金を六回引いたが、全弾不発であつたため、六発とも弾倉から出して残実包の入つていた小銭入れに納い、右幸荘に持帰り、錆びた銃腔、銃口をドライバーで擦り、銃腔、銃口に傷をつけたこと。被告人は、拳銃、実包が従前の犯行の重要な証拠であるため、これらを明治神宮の森に隠匿しようと思つていたところ、同年四月五日頭痛のため右バンガードを欠勤し、気分の良くなつた翌六日午後、右拳銃及び実包二二発のほか土を掘るためのドライバーセツトや革手袋、タオル等を携帯し、映画を見たりした後、同神宮、原宿周辺を徘徊等するうち、所持金もわずかとなり、次の給料日が五月一日であるため、他から財物を窃取しようと思い、夜更を待つべく、原宿駅宮廷ホーム前のビル建築工事現場で一休みし、同所で拳銃に実包六発を装填し、翌昭和四四年四月七日午前一時過ぎころ、侵入すべき建物を物色した末、東京都渋谷区千駄谷三丁目七番一〇号のスクール南側にあるコカコーラ自動販売機横の高窓の錠近くのガラスをドライバーセツト中のものを使つて抉つて割り、ドライバーでクレセント錠を外してスクール教室内に侵入し、玄関ホールを経て事務室カウンター中程のガラスを破つて同室内に入り、机、ロツカーを物色中、ロツカー把手から引かれた電線を認め同室内の鋏で同電線を切断したこと。 (二) 日本警備保障株式会社東京支社勤務の管制員木村勝重は、同日午前一時六分、スクールのセンター受信器の異状発信を認め、巡回担当員中谷利美、同佐々木正男に現場へ急行するよう指示し、同都新宿区花園町付近にいた中谷、同都世田谷区三軒茶屋にいた佐々木は、右指示によりそれぞれスクールに向つたこと。木村は同日午前一時一〇分ころ、スクールに架電したが、八回の呼出信号にも受話器が取られたとは認められなかつたので、電話を切つたこと。 (三) 被告人は、物色中机上の電話が鳴つたため、机下に身を隠し、暫く様子を窺つたが、同室東北隅の壁に取付けられたアラームシステムから下つていた電線を見て、鋏でこれを切断したところ、ショートして同鋏の要付近に焼焦げが生じたこと。 (四) 中谷は、スクール付近に到着し、スクール外周を点検中、事務所のロツカーのバタンという音を聞き付け、折柄スクール前で出会つた山口敏彦に一一〇番通報を依頼し、同人が午前一時三六分から一時三八分の間に一一〇番したこと。次いで中谷は、スクール玄関の錠を外して入つたこと。 (五) 被告人は、更に物色中、玄関ドアの開けられた音を聞き白色様に見えるヘルメツト、黒色様の制服を着用した警備員風の男が玄関に入るのを認め、事務室の東北隅に身を潜めたが、カウンター二番窓口のガラス戸の開いていた個所から同室内を点検した中谷に発見されて、出て来いといわれるや、逮捕されれば前記各犯行がすべて発覚し、極刑を受けるに至ると考え、右警備員を射殺して逮捕を免れようと決意し、同個所から右手で拳銃を出したため、後退りをした中谷に対し、約二米離れて向い合つた状態で一発同人の顔を狙撃したため、中谷は右顎部にちくつとした痛みを感じたこと。 (六) 拳銃は、銃腔、銃口の毀損のため、命中精度が若干低下したと推認されること、実包の吸湿により薬莢底の縁内部に塗付した炸薬(技術吏員徳永勲作成の昭和四十四年五月一日付鑑定書三の7中「雷管の起爆性能」とあるのは、不正確と認める。)の起爆力及び薬莢内爆薬の爆発力の低下及び被告人が照門、照星により照準を合わせたと認められないこと等により、右発射弾丸は中谷に命中せず、しかも飛力も弱かつたと推認されること。拳銃等銃器を発射した場合、銃口から若干の火薬粉粒の飛散することのあることは経験則上明らかであつて(なお、技術吏員山本惠三作成の鑑定書、記録一四八五丁、鑑定人医師教授小片重男作成の鑑定書、記録三八九七丁以下参照)、爆薬等の湿度の高いときは、火薬の急激な燃焼気化が弱く、不燃爆薬等の粉粒の飛散も多いと考えられるから、同粉粒が中谷の右顎付近に当つた可能性が高いと推認され、同人が前記のごとき程度の痛みを感じたとしても異とするに足りないこと。 (七) 被告人は、右カウンター窓から頭を先にして出、同人を逮捕すべく警棒で拳銃を打落そうとする中谷と激しく渡合い、玄関ポーチ階段付近で同人に右手を掴まれ、警棒により拳銃を叩落されたが、同人の手を振払つて、すぐ拳銃を拾上げ、階段下付近から中谷に向け発射し、鉄門扉を乗越えようとしたとき、応援に駈付けた警備員佐々木正男に向けて引金を引いたが不発に終り、道路に飛降り、北方に逃走しながら、追跡してきた同人に向け一回引金を引いたが不発に終り、宮廷ホームを経て明治神宮の林に逃込み、同所で弾倉を調べると、実包一発のみが残つていたため、更に実包二発計三発を装填しておいたところ、同日午前五時八分ころ、スクールから約三〇〇米離れた同都渋谷区代々木一丁目一番地同神宮北参道で強盗殺人未遂の準現行犯人、拳銃不法所持の現行犯人として警察官に逮捕され、その際実包三発装填の拳銃と実包一四発在中の小銭入れが押収されたこと。 (八) 昭和四四年四月一七日実施された弾痕等の捜査により、スクールの玄関南側の扉の北(中央寄り)の框内側の床面から約一八糎の個所にある塗料のはげた部分のほぼ中央に微量の鉛様物質が付着し、弾痕と思料されたこと。同月七日午前四時三〇分から実施された実況見聞の際、玄関内マツトのほぼ中央に先端のつぶれた弾丸一個が落ちており、同マツトの南端から約二五糎事務室寄りの床面上に弾丸一個が落ちており、階段上り口から道路寄り約五〇糎、階段北側から一・一米のコンクリート上に薬莢一個(1印)、階段上り口から道路寄り約六〇糎、階段北側から四・九米のコンクリート上に実包一発(2印)、移動鉄門扉のレール脇に薬莢一個(4印)、階段を三つ上つた所に給弾門扉破片一個、スクールの塀北角から北方一四米の全自交前路上に実包一発(7印)、右塀角から北方三四・九五米中野百世方前路上に実包一発(8印)が落ちていたこと。 (九) 被告人が前記のごとく大聖院の拳銃等隠匿場所から、これらを掘出し、海岸で六発試射したが、全弾不発であり、これを小銭入れに納つたというのであるから、本件犯行当時実包底面の縁に撃針痕の打刻された実包六発を含む実包二二発を所持していたものであるが、当庁昭和五四年押第六七九号の5の実包中白紙に包まれた三発(押収時拳銃に装填されていたもの)に撃針痕はなく、残一四発中撃針痕がそれぞれ一個刻された実包が二個あり、同号の62の撃殻薬莢中、前記1記のものには撃針痕が一個刻され、前記4印のものには撃針が二個刻され、同号の63の実包三発中、前記2印のもの及び7印のものには、それぞれ撃針痕が一個刻され、前記8印のものには撃針痕二個が刻されており、タイル張りのポーチないしこれに続くタイル張り階段付近で、前記のとおり拳銃が打落され、右タイル上に激しく落ちたことにより、給弾門扉が破折して階段下から三段目に遺留されていたこと、同門扉の破折により照門を手前にした場合の斜右上の弾倉内の実包等は脱落し易いことが鑑定により明らかであること、しかして被告人は、本件当時四回しか拳銃の引金を引かなかつたというのであるから、拳銃の照門を手前にした場合に、右回りとなる顕著な特徴を持つた本件拳銃の回転弾倉の右斜上に装填されていた、しかも既に撃針痕が一個刻されていた実包(装填された六発中の最終弾)が右給弾門扉破折の際に脱落して2印のものとして遺留押収された可能性を否定し得ないこと。被告人が拳銃を拾上げ二弾目を発射したとき、右斜上に回転し終つていた弾倉内の撃殻薬莢(1印のもの)が射撃の反動で階段下北に落ち、門扉上で佐々木に向け引金を引いた際、撃針痕が二個刻され右斜上に回転し終つていた弾倉内の二弾目の撃殻薬莢(4印のもの)が階段下南に落ち、逃走中、撃鉄を倒す等何らかの事情で回転した弾倉右斜上に回つた、既に撃針痕一個が刻されていた実包(7印のもの)が全自交前路上に落ち、更に、逃走しながら佐々木に向け引金を引いたため、既に撃針痕一個が刻されていたのに加えて新たに一個の撃針痕が刻され、計二個の同痕の打刻された不発実包が前同様何らかの事情により中野方前で弾倉から落下したと推認されること。実包が不発の場合、周章して撃鉄を倒すの挙に出ることは不思議ではないこと。元来の実包所有者または被告人が右以外の機会に実包を二度撃ちした証跡がないから、前述の試射により撃針痕各一個の打刻された六発の不発実包中、一発が二度撃ちの薬莢(4印)として、二発(2、7印)が本件当時縁打ちされないまま撃針痕各一個の実包として、一発(8印)が本件当時縁打ちされたが不発となつた二度撃ちの実包として遺留されたと推認され、前記一四発中、撃針痕と認め得るもの各一個の打刻された実包二発は、前記海岸での試射後、被告人が小銭入れに納つておいたものと推認されること。 以上の事実を認めることができ、これに反する被告人の原審公判廷における供述及び四月一〇日付、四月一五日付(七枚)各司法警察員に対する各供述調書、五月五日付検察官に対する供述調書並びに証人中谷利美、同佐々木正男の原審公判廷における各供述及び林一美に対する裁判所の証人尋問調書は、他の関係各証拠に照らして措信しがたい。 右事実によれば、被告人が原判示第五の犯行後横浜市内の大聖院境内に拳銃、実包を隠匿し、沖仲士をした後、昭和四三年一一月末頃から肩書幸荘に住み、深夜喫茶店のボーイとして働いていたが、同四四月三月末ころ右隠匿場所から拳銃等を右居室に持帰り、昭和四四年四月七日午前一時過ぎころ(原判示第六において「午前一時四〇分ころ」とスクールに至つた時刻の認定をしたのは、事実誤認であるが、判決に影響を及ぼす程度のものとは認められない。)、実包六発を装填した拳銃のほか、ドライバー等を持つて東京都渋谷区千駄谷三丁目七番一〇号のスクールに至り、その事務室で財物を窃取すべく物色中、警報装置の異常発信により日本警備保障株式会社管制員から指示を受けて駈付けた同社警備員中谷利美に発見され、逮捕されそうになるや、それまで重ねた各犯行が発覚することになるのを恐れ、同日午前一時四〇分ころ、同人を射殺して逮捕を免れようと決意し、スクール玄関内及びポーチ付近(原判決が「右スクール建物の玄関ホールにおいて」と認定したのは、不正確である。)で拳銃をもつて同人を二回狙撃したが、命中しなかつたため、殺害するに至らなかつたことが認められるのであつて、これとおおむね同旨の認定をした原判示第六に判決に影響を及ぼすべき事実の誤認はないといわなければならない。 論旨は理由がない。 被告人の控訴趣意のうち(二) 事実誤認の主張について 所論は、要するに、被告人の本件各犯行は、人間としての生存権を国家自らが否定した結果、その構成員の抑圧に対して抵抗権を行使したものであるから、違法性を阻却するのに拘らず、被告人を有罪とした原判決は事実を誤認したものである、ということにあると解される。 しかしながら、国民の権利は、すべて憲法を頂点とする実定法により定められているのであつて、実定法に根拠を有しない抵抗権なるものは認めることができないものであるから、主張自体失当といわなければならない。 論旨は理由がない。 弁護人三名の控訴趣意第二の二 事実誤認、法令適用の誤の主張、被告人の控訴趣意のうち(ホ) 事実誤認の主張について弁護人三名の所論は、要するに、新井鑑定は、被告人に対する問診において犯行に関する所見が殆ど得られなかつた致命的欠陥があり、被告人の捜査官に対する供述調書を全面的に採用しているところ、同調書は、被告人の真実体験し記憶している事実を述べていないから、犯行時の精神状態を判断しようとしても、精神医学的に正確な把握ができないので、客観的事実と符合ないし整合しない事実を前提として鑑定したものであるから、その内容と結論についての信用性が極めて乏しく、これに反して石川鑑定は、問診の時間、被告人との信頼関係に裏付けられて、被告人の幼児期、学童期、上京後の生活史をほぼ全面的に被告人の語る言葉によつて採取し、同鑑定人の経験に基づいて被告人の心理と犯罪との関係を分析したもので、その判断過程の信用性は高く、同鑑定人の前提として本件各犯行における動機、目的及び犯行の態様が客観的事実と合致しているのに拘らず、「新井鑑定によれば、被告人は当時まだ幼くて母との別離を知らず、明るくくつたくがなかつたとされている」という明白な誤謬まで犯し、被告人が原判示第一ないし第六の各犯行当時、自己の責に帰すべからざる環境の異常性によつて形成された性格と善悪を判断する道徳的規範を受容し得ない精神状態の下で本件各犯行を実行したもので、ことに人に向けて拳銃を発射させる行為とその結果の是非を弁別し、それに従つて行動する能力が欠如していたもので、被告人の原判示第六の犯行後、自殺を実行して引金を引いたのは、本件が間接自殺の企図に基づくものであることを明らかにしており、仮にこれらが認められないとしても、原判示第二ないし第五の各犯行は、右各能力が著るしく減退していたと解すべきであるのに拘らず、被告人が本件各犯行当時、右各能力を有しており、著るしく減退していたとは認められないと認定した原判決は、事実を誤認し、法令の適用を誤つたものである、というのである。 被告人の所論は、要するに、人類にとつての最高善は、全人類の解放であり、そのためにはブルジヨアジーとプロレタリアートの経済的土台の搾取と被搾取に根ざす敵対を止揚すべく、そのために少数政治を大多数の政治に変革すべく、そのためにブルジョアジーの政治支配をプロレタリアートの政治に転換し、人民の福祉経済を発展させるべく、プロレタリアートの立場に立つてブルジヨアジーと闘争すべく、そのために、その目的意識性をより高度化するためにプロレタリア階級意識を鍛練しなければならないという考えが最高善であつて、人間の理性はかかる基準に合致しないのであれば邪悪であるとするのが、合理的判断であるところ、被告人は、本件犯行時に、かかる合理的判断ができなかつたのに拘らず、被告人が本件各犯行当時是非善悪を弁識し、これに従つて行動する能力を有しており、右各能力が著るしく減退していたとは認められないと認定した原判決は誤りである、ということにあると解される。 そこで審按するに、精神鑑定は、意識ないし意思能力の存否についてなされることがあるが、その殆どは犯行当時における是非判断力、行動統制能力の存否、程度について、換言すれば、犯罪の成否、罪責の程度に関してなされるものであるから、鑑定の基礎となる犯行当時の事情は、厳格な証明に供し得る証拠に基いたものに依拠することが妥当であり、鑑定の特質から鑑定人の問診に対する被験者及び参考人の陳述内容も妥当なものである限り、これを鑑定の資料としても差支えないと解されるのであるが、それが著るしく厳格な証明に供し得る証拠と異り、または、矛盾、不合理等の認められる場合は、依拠資料別に検討を加えて各別に判断するか、鑑定人の立場で中正妥当と思料する事実関係を推定して判断するのが妥当であろう。例えば、酩酊による犯行当時の精神状態の鑑定において、厳格な証明に供し得る証拠による血中アルコール濃度がその理論値から中等度と認められるのに対し、鑑定人の問診に対する被験者の陳述によるそれが遥かに致死量を超えることとなる場合には、右の理由を明らかにして合理的妥当な飲酒量を推定して犯行時の酩酊程度及び精神状態を鑑定すべきがごとくである。そして被験者の脳器質検査、自律神経系機能検査、各種心理検査は、その精神状態鑑定の補助手段として貴重なものであるが、心理検査に狎れてことさらな応答をする者、検査を拒否する者、真撃に検査に応ずる者、心理学の学習をした上で何らかの意図をもつて対応する者らとの間には、検査結果にかなりの差異を生ずるものであるから、心理検査結果は、必ずしも絶対視することはできないものがあり、心理検査結果が低格でも正常な社会生活を営んでいる者は現実社会に少なくないことを注意すべきであり、各検査結果を参酌の上、犯行当時及びその前後等の客観的妥当な事情を基礎に鑑定をなすべきものであるところ、石川鑑定は、事実認定のため取調べられた証拠による客観的事実さえ否定ないし無視した点が少なく、同鑑定人の問診に対する被告人の応答内容のみを真実とし、これに立脚してなされたことが明白である。そして、被告人の幼少時の記憶のすべてが真実と断定し得る保障はなく、その後の生活の流れにおける事実関係もその裏付のないものは,にわかにこれを真相とは断じ得ず、ことに第三者の言動については、それらの者の吟味を経ず他の資料によつても推認し得ない限り、慎重な配慮を加え、合理的な取捨選択をすべきところ、その操作をした形跡がない。ところで、適法に取調べられた関係各証拠によつて認められる本件各犯行までの経緯、犯行の手段、態様、その後の被告人の動静等は、札幌から函館に至る経路、その間の事実関係につき、これを裏付けるに十分な証拠がないため、必ずしも判然とはしないものがある点を除いては、前叙詳細に補足説明したとおりであつて、被告人の捜査官に対する各供述調書は、大筋において客観的事実と符合しているところ、第一回基地侵入の際、米国人に発見された被告人が我国警察官憲に引渡され緊急逮捕されているので、米軍側が基地侵入、窃盗程度の行為者に対し、裁判を経ずに射殺する等しないことは、既に体験了知していることが明白であるのに拘らず、石川鑑定は、被告人が原判示第一の犯行当時は射殺されたらそれでもいいという心境であつたと説明し、これに疑問を提起し、ないし反問した事跡はなく、被告人が石川鑑定人に対し、八坂神社で被害者に拳銃を四発射つたとの陳述を採用した点は、六発全弾を発射したことが動かしがたい客観的事実であることに照し、真実でないことが明瞭であるのに拘らず、些も疑問を挟んでおらず、同じく七飯町で斉藤を銃撃し、タクシーが動かなくなつた後、車外に出てライトを消したとの陳述を採用しているが、どのライトか不明であるばかりか、前記判断のとおり主要なライトは切られていなかつたことが明らかであり、同じく原宿事件後、実包装填の拳銃の銃口を自分の側頭部に当てて三回引金を引いたとの陳述を採用した点は、前叙判断に照らし到底認め得ない等、証拠によつて認められる事実に著しく反する事実を鑑定の前提としているほか、石川鑑定に関する疑問は、原判決が対主張判断において詳細説示するとおりであつて(ただし、原判決三九丁裏に「新井鑑定によれば、被告人は当時まだ幼くて母との別離を知らず、明るくくつたくがなかつたとされている」と説示した部分は、同鑑定の内容を誤読したものと認められるが、判決に影響を及ぼすものではない。)、石川鑑定を細大洩らさず是として採用することは困難であり、本件全証拠によつて認められる被告人の資質、生活歴、本件犯行当時の言動、ことに原判示第二ないし第六の各犯行当時における各被害者との間の言動ないし同人らに対する行動、各犯行後の動静等にかんがみると、被告人は、本件各犯行当時、狭義の精神病に罹患していたとは認めることができず、情意面の偏りがある程度認められ、分裂病質ないし米国精神医学にいわゆる性格神経症状態にあつたことを認めるに吝かではないが、是非弁別力、行動統制能力は存在しており、右各能力が著るしく減退していたとは認められないから、これと同旨の認定をした原判決に事実の誤認はなく、法令適用の誤もないといわなければならない。なお、被告人の主張する是非善悪の判断基準は、独自の見解であつて認めることができず、これを前提とする所論は、採用しがたい。 各論旨は、いずれも理由がない。  弁護人三名の控訴趣意第二の一、被告人の控訴趣意のうち(ヘ) 各法令適用の誤の主張について 弁護人三名の所論は、要するに、死刑規定は、憲法三六条に違反するものであるのに、被告人に対し、刑法一九九条、二四〇条を適用した原判決には法令適用の誤がある、というのである。 被告人の所論は、要するに、刑法の死刑規定は、憲法前文、九条、一一ないし一四条、三一条、三二条、三六条、三七条、九七条、九九条に違反し無効であるから、被告人に刑法の死刑規定を適用した原判決には法令適用の誤がある、というのである。 そこで検討するに、憲法一三条は、「すべて国民は、個人として尊重され、生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と規定して、何人も自己と共に他人を尊重すべく義務付けているのであるから、他人の生命を尊重せずに、故意にこれを侵害した者が自己の行為につき、自己の生命を否定する刑罰を受けるべき責任を負うことを立法上当然予想しているものというべきであり、憲法三一条は、国民個人の生命も、法律の定める適正の手続によつて奪う刑罰を科し得ることを明らかにし、死刑の存置を想定是認した規定と解せられ、刑罰としての死刑そのものは、現在の法秩序のもとにおいてはやむを得ない刑罰であり、運用に公平性が保障されるかぎりにおいて憲法三六条にいう残虐な刑罰には該当しないと解されるのであつて、死刑を定めた刑法の規定が違憲でないことは、最高裁判所の確立した判例(最高裁大法廷昭和二三年三月一二日判決、刑集二巻三号一九一頁、最高裁第一小法廷昭和二四年八月一八日判決、刑集三巻九号一四七八頁、最高裁大法廷昭和二六年四月一八日判決、刑集五巻五号九二三頁、最高裁第一小法廷昭和二八年一一月一九日判決、刑集七巻一一号二二二六頁、最高裁大法廷昭和三〇年四月六日判決、刑集九巻四号六六三頁、最高裁第二小法廷昭和三三年六月二七日判決、刑集一二巻一〇号二三三二頁、最高裁大法廷昭和三六年七月一九日判決、刑集一五巻七号一一〇六頁等)であり、これと見解を異にすべきものとは認められず、憲法理念を宣明した憲法前文は右法条を是認したものであり、憲法九条から死刑を廃止すべきであると解すべき理由を見出すことはできず(前掲最高裁大法廷昭和二六年四月一八日判決参照)、憲法一一条は、憲法がいかなる理念に基いて基本的人権を保障することとしたかを宣明したものであるが、実定法上の効果を生ずるものではないのみならず、基本的人権の不可侵性が絶対のものではないことは、憲法一三条の規定から明らかであり、憲法一二条は、国民に対する基本的人権の保持義務と共に濫用禁止と公共の福祉のため利用すべき義務を示した道徳的指針、すなわち、自由または権利行使に関する国民の心構を示したものであつて、他人の生命を侵害した者に対する措置の根拠にこそなれ、この者に対する死刑規定ないしその適用禁止の根拠となる理由を見出し得ず、憲法三二条、三七条から死刑を禁止したと解すべき理由を見出すことはできず、憲法九七条は、基本的人権の歴史的由来を述べたもので、法律的具体的な効果を伴うものではなく、憲法九九条も道徳的、倫理的要請を抽象的に表現したもので、法律的効果が生ずるものではない上、これらから死刑を禁止したと解すべき理由を見出すことはできない。従つて死刑を規定した刑法の規定は、何ら違憲のかどはないというべきであるから、原判示第二、第三の各事実につき死刑を規定した刑法一九九条を、原判示第四ないし第六の各事実につき、同じく刑法二四〇条を適用した原判決に法令適用の誤はないといわなければならない。 各論旨は、いずれも理由がない。 弁護人両名の控訴趣意第二、弁護人三名の控訴趣意第四、被告人の控訴趣意のうち、(ト)  各量刑不当の主張について 各所論は、要するに、被告人を死刑に処した原判決の量刑が不当に重い、というのである。そこで調査するに、本件は、被告人が (1) 昭和四三年一〇月初旬ころ、原判示第一の基地内のマニユエル・S・タムバオアン方で同人の妻ジユリアナ・カンラパン・タムバオアン管理の拳銃一丁、実包約五〇発、ジヤツクナイフ一丁、八ミリ撮影機一台、ハンカチ二枚、米国貨弊十数枚を窃取し、 (2) 昭和四三年一〇月一一日午前零時五〇分過ぎころ、原判示第二のホテル敷地内で同判示中村公紀から見咎められ、逃走しかけた際、着衣の後襟首を掴えられ、その手を振り払つて転ぶや、同人を狙撃して逃走すべく、同人が死に至るべきことを認識しながら、一、二米離れていた同人の顔面に向け、右拳銃で二回狙撃して同人の左上頬骨弓部に盲貫射創を、左側頸部に貫通射創を負わせ、同日午前一一時五分ころ、同判示東京慈恵会医科大学付属病院で同人を右盲貫射創による脳挫傷及びくも膜下腔出血等に基づく外傷性脳機能障害により死亡させて殺害し、(以下「東京プリンスホテル事件」という。) (3) 昭和四三年一〇月一四日午前一時三五分ころ、野宿すべき場所を求め徘徊していた原判示第三の八坂神社本殿と拝殿の間の石畳上で、同判示勝見留治郎に訝られ、所携のジヤツクナイフを擬して脅迫し逃走を図つたが、同人から警察への同行を求められるや、同人を射殺逃走しようと決意し、所携の拳銃で同人を六回狙撃し、うち弾丸四発を同人の頭部、顔面に命中させて、同人の右前頭後部に貫通射創を、左側頭部・左側頬部・右下顎部に各盲貫射創をそれぞれ負わせ、同日午前五時三分ころ同判示大和病院で同人を左側頭部の盲貫射創に基づく左側頭葉挫滅、大脳等のくも膜下出血、脳挫傷により死亡させて殺害し、(以下「京都八坂神社事件」という。) (4) 自殺するつもりで渡道したが、その気も薄れて、東京方面へ戻ることにした昭和四三年一〇月二六日夜、拳銃でタクシー運転手を射殺して金を強取しようと決意し、同日午後一〇時五〇分過ぎころ、原判示第四の函館駅前付近路上から斉藤哲彦運転のタクシーに乗車し、同判示秋田吉五郎方前路上で同車を停車させ、同車後部座席から運転席の斉勝の頭部、顔面を拳銃で二回狙撃して命中させ、同人の右眼瞼左端部に盲貫射創を、鼻翼部に貫通射創をそれぞれ負わせてその反抗を抑圧し、同人管理の現金約七、〇〇〇円及び約二〇〇円在中の小銭入れ一個を強取し、翌二七日午前八時一五分ころ、同判示市立函館病院で右盲貫射創に基づく右硬膜下出血により死亡させて殺害し、(以下「函館事件」という。) (5) 京浜地区から離れ、名古屋で働くべく赴いていた昭和四三年一一月五日午前一時二〇分ころ、原判示第五の伊藤正昭運転のタクシーに乗車して走行中、同人と言葉を交すうち、同人から「あんた、東京の人でしよう。」といわれるや、前記各犯行の発覚と逮捕を恐れると共に所持金も十分でなかつたところから、同人を射殺の上金を強取しようと決意し、同判示竹中工務店名古屋製作所南側路上で同車を停めさせ、同日午前一時二五分ころ、同人の背後からその頭部等を四回狙撃し、同人の右側頭部・後頭部・左前額部・左側頭部に各盲貫射創を負わせてその反抗を抑圧し、同人管理の現金約七、〇〇〇円在中の白布袋一枚及び腕時計一個を強取し、同日午前六時二〇分ころ、同判示中部労災病院で同人を前記射創に基づくくも膜下出血及び脳挫傷により死亡させて殺害し、(以下「名古屋事件」という。) (6) 昭和四四年四月七日午前一時過ぎころ(原判示第六に、一橋スクール・オブ・ビジネスに至つた時刻を午前一時四〇分ころとあるのは、誤である。)から、実包六発装填の挙銃等を持ち、原判示第六の一橋スクール・オブ・ビジネスで金品を物色中、警報装置の異状信号により指令を受けて同所に駈付けた同判示警備保障会社勤務の中谷利美に発見され、逮捕されそうになるや、前記各犯行の発覚を恐れ、同人を射殺して逮捕を免れようと決意し、右スクール玄関ホール及びポーチ付近で(原判示第六に「右スクール建物の玄関ホールにおいて」とあるのは不正確である。)、拳銃をもつて同人を計二回狙撃したが、同人に命中しなかつたため、同人を殺害するに至らず、(以下「東京原宿事件」という。)

(7) 昭和四四年四月七日午前五時八分ころ、原判示第七の場所で拳銃一丁及び実包一七発を不法に所持した、 という事案である。 右のように、被告人は、窃取した拳銃を使用し、昭和四三年一〇月一一日東京プリンスホテルにおいて警備員中村公紀(当時二七年)を射殺したのを始めとして、同月一四日京都八坂神社において警備員勝見留治郎(当時六九年)を射殺し、同月二六日函館近郊の七飯町においてタクシー運転手斉藤哲彦(当時三一年)を射殺して現金約七、二〇〇円を強取し、同年一一月五日名古屋市内においてタクシー運転手伊藤正昭(当時二二年)を射殺して現金七、〇〇〇円余、腕時計一個を強取したほか、昭和四四年四月七日東京原宿駅近くの一橋スクール・オブ・ビジネスにおいて警備員中谷利美(当時二二年)を狙撃したが命中せず、強盗殺人の目的を遂げなかつたというものであり、わずか一か月足らずの間に東京、京都、函館近郊、名古屋の四個所において、合計四人の勤務中の警備員、タクシー運転手を次々に射殺した稀にみる兇悪事件として、当時新聞、テレビ、ラジオを通じて報道され、「連続射殺魔」と呼ばれてマスコミをにぎわした事件である。もとより捜査当局においても広域重要事件一〇八号として全国的な捜査の体制をとり、その逮捕に全力を投入したが、前記東京原宿事件の直後被告人の逮捕によつて漸く終結をみたのであり、右の逮捕がなければ更に犠牲者を増したかもしれない状況にあり、社会の耳目を聳動し、殊に夜間勤務の警備員、タクシー運転手を恐怖におとし入れた責任は、きびしく指弾されなければならない。また、東京原宿事件は幸いに殺害に至らなかつたけれども、その他の事件は被告人の犯行によつて、四人の貴重な生命が奪われ、特に東京プリンスホテル事件及び名古屋事件においては、いずれも二十歳台の春秋に富む真面目な独身の勤労青年の生命が失われたのであつて、被害者本人の無念さはいうに及ばず、最愛の息子を被告人の兇弾に奪われた両親の悲嘆は察するに余りがあり、事件後十有余年を経過した現在、なお被告人の提供する慰藉の気持としての印税の受領をかたくなに拒否し、それがせめてもの息子への供養である旨の言葉にその悲痛な親の心情がよく表現されていると認められるのである。しかも、被告人は本件犯行につき昭和四四年五月二四日起訴され、原審において審理を受けてきたが、昭和四六年六月一七日の公判期日において死刑の論告求刑を受けた後、当時の私選弁護人(第一次弁護団)を解任し、第二次弁護団は解任され、または辞任し、第三次弁護団は辞任し、第四次弁護団すなわち三名の国選弁護人の弁護を受けて、昭和五四年七月一〇日漸く判決宣告に至つたものである。起訴から判決まで一〇年余を経過しているが、その長期化は主として被告人の法廷闘争に原因があり、被告人の深層の心理において死刑への恐怖があつたとしても、それは到底許されない訴訟行為であつたとしなければならない。被告人には、量刑の事情として、前記のように極めて不利益な事情があつたけれども、また、後記のような有利な情状も少なからず存していたのである。被告人としては、すべからく弁護人の弁護のもとに適法な訴訟行為によつてその情状を法廷に顕出し、裁判所の判断を俟つべきであり、原審当時における被告人の行動はいかなる面から検討しても許すべからざるものといわなければならない。以上のごとき情状を総合考慮するときは、原審が被告人の本件各犯行に対する刑事責任として死刑を選択したことは首肯できないわけではない。 しかしながら、死刑はいうまでもなく極刑であり、犯人の生命をもつてその犯した罪を償わせるものである。このような刑罰が残虐な刑罰として憲法三六条その他の関連条文に違反するものでないことは、すでに最高裁判所の確定した判例であり、当裁判所も同様の見解であることはすでに述べたとおりである。しかし、死刑が合憲であるとしても、その極刑としての性質にかんがみ、運用については慎重な考慮が払われなければならず、殊に死刑を選択するにあたつては、他の同種事件との比較において公平性が保障されているか否かにつき十分な検討を必要とするものと考える。ある被告事件について、死刑を選択すべきか否かの判断に際し、これを審理する裁判所の如何によつて結論を異にすることは、判決を受ける被告人にとつて耐えがたいことであろう。もちろん、わが刑法における法定刑の幅は広く、同種事件についても、判決裁判所の如何によつて宣告される刑期に長短があり、また、執行猶予が付せられたり、付せられなかつたりすることは、望ましいことではないが、しかし裁判権の独立という観点からやむを得ないところである。しかし、極刑としての死刑の選択の場合においては、かような偶然性は可能なかぎり運用によつて避けなければならない。すなわち、ある被告事件につき死刑を選択する場合があるとすれば、その事件については如何なる裁判所がその衝にあつても死刑を選択したであろう程度の情状がある場合に限定せらるべきものと考える。立法論として、死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあつても考慮に価するものと考えるのである。そして、最近における死刑宣告事件数の逓減は、以上の思考を実証するものといえよう。 右の見解を基礎として、本件被告人の情状につき再検討を加えてみよう。まず、第一に、本件犯行は被告人が少年のときに犯されたものであることに注目しなければならない。本件犯行の中心をなすのは、昭和四三年一〇月一一日から一一月五日の一か月足らずの短期間に行なわれた四人の被害者に対する一連の射殺事件であるが、右の一過性の犯行当時被告人は一九歳の少年であつたのである。少年法五一条によれば、犯罪時一八歳に満たない少年に対しては死刑を科し得ないこととなつている。被告人は当時一九歳であつたから、法律上は死刑を科することは可能である。しかし、少年に対して死刑を科さない少年法の精神は、年長少年に対して死刑を科すべきか否かの判断に際しても生かされなければならないであろう。殊に本件被告人は、出生以来極めて劣悪な生育環境にあり、父は賭博に狂じて家庭を省みず、母は生活のみに追われて被告人らに接する機会もなく、被告人の幼少時にこれを見はなして実家に戻つたため、被告人は兄の新聞配達の収入等により辛うじて飢をしのぐ等、愛情面においても、経済面においても極めて貧しい環境に育つて来たのであつて、人格形成に最も重要な幼少時から少年時にかけて、右のように生育して来たことに徴すれば、被告人は本件犯行当時一九歳であつたとはいえ、精神的な成熟度においては実質的に一八歳未満の少年と同視し得る状況にあつたとさえ認められるのである。のみならず、かような生育史をもつ被告人に対し、その犯した犯罪の責任を問うことは当然であるとしても、そのすべての責任を被告人に帰せしめ、その生命をもつて償わせることにより事足れりとすることは被告人にとつて酷に過ぎはしないであろうか。かような劣悪な環境にある被告人に対し,早い機会に救助の手を差しのべることは、国家社会の義務であつて、その福祉政策の貧因もその原因の一端というべく、これに眼をつぶつて被告人にすべてを負担させることは、いかにも片手落ちの感を免れない。換言すれば、本件のごとき少年の犯行については、社会福祉の貧困も被告人とともにその責任をわかち合わなければならないと思われるのである。第二に、被告人の現在の環境に変化があらわれたことである。すなわち、被告人は昭和五五年一二月一二日かねてから文通で気心を知つた新垣和美と婚姻し、人生の伴侶を得たことがあげられる。同人については当審においても証人として尋問したが、その誠実な人柄は法廷にもよくあらわれ、たとえ許されなくとも被害者の遺族の気持を慰藉し被告人とともに贖罪の生涯を送ることを誓約しているのである。右のように誠実な愛情をもつて接する人を身近に得たことは、被告人にとつてこれまでの人生経験上初めてのことであろう。被告人は当審において本人質問に応じて供述したが、その際にも素直に応答し、その心境の変化が如実にあらわれているように思われるのである。第三に、被告人は本件犯行後獄中にて著述を重ね、出版された印税を被害者の遺族におくり、慰藉の気持をあらわしていることがあげられる。被害者のうち、東京プリンスホテル事件の被害者中村公紀、名古屋事件の被害者伊藤正昭の遺族は、前記のようにいまだこれを受領するにいたつていないけれども、函館事件の被害者斉藤哲彦の遺族に対しては、昭和四六年五月一八日から昭和五〇年八月一二日までの間に合計四、六三一、六〇〇円を、京都事件の被害者勝見留治郎の遺族に対しては、昭和四六年八月五日から昭和五〇年一月一〇日までの間に合計二、五二四、四〇〇円をおくつているのである。更に当審にいたつて、被告人と獄中結婚をした前記K子は、被告人の意をうけ、弁護人とともに、伊藤、斉藤、勝見の三遺族を訪れ、伊藤正昭の遺族は息子に対するせめてもの供養であるとして、金員の受領を拒んだけれども、K子に対してはこころよく応待し、激励の言葉すら述べていることが窺われるのである。また、中村公紀の墓参をして衷心から弔意を表し、現在受領を拒否されている伊藤正昭、中村公紀の遺族に対しても、将来その受領が認められるならば支払をするため準備し、K子、被告人ともども将来にわたつて印税をその支払にあてるべく誓約していることが認められる。被告人の一連の犯行によつて家族を失つた被害者の遺族の気持は、これらによつては到底償えるものではないけれども、K子のこれらの行動によつて、中村公紀の遺族を除く三遺族の気持は、多少なりとも慰藉されているように認められるのである。 以上のとおり、原判決当時に存在した被告人に有利ないし同情すべき事情に加えて、当審において明らかになつた更に被告人に有利な事情をあわせ考慮すると、被告人に対し現在においてもなお死刑を維持することは酷に過ぎ、各被害者の冥福を祈らせつつ、その生涯を贖罪に捧げしめるのが相当であるというべきである。  各論旨は、この意味で理由がある。 よつて刑訴法三九七条、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により自判する。 原判決が認定した事実に、原判決が適用したのと同じ罰条適用、科刑上一罪処理をし、所定刑中、原判示第二の罪につき有期懲役刑を原判示第三ないし第六の各罪につき各無期懲役刑を、原判示第七の罪につき懲役刑を選択し、以上は、刑法四五条前段の併合罪であるところ、同法四六条二項、一〇条により犯情の最も重い原判示第五の罪の刑で処断し他の刑を科さないこととして、被告人を無期懲役に処し、原審における未決勾留日数の右本刑算入につき同法二一条を、主文第四項掲記の原判示第一の罪の賍物であるジヤツクナイフ一丁、米国貨弊九枚の被害者ジユリアナ・カンラパン・タムバオアンへの還付、原判示第五の罪の賍物である白布袋一枚の被害者辻山光機への還付、同罪の賍物である腕時計一個、時計バンド二本の死亡した被害者伊藤正昭の相続人への還付につき各刑訴法三四七条一項を、原審における訴訟費用を被告人に負担させない点につき同法一八一条一項但書を各適用して、主文のとおり判決する。

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