坂本龍馬全集/千里駒後日譚/三回

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(三回)


◎此の屋敷で一月一杯居りましたが、京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎へによこして呉れましたから、丁度晦日みそかに伏見を立つて京都の薩邸へ這入りました。此時龍馬は創を負て居るからと籠にのり、私は男粧して兵隊の中にまじつて行きました……、笑止をかしかつたですよ。大山さんが袷と袴を世話して呉れましたが、私は猶ほ帯が無いがと云ひますと白峰さんが、白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持つて来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ。ソレを巻きつけ髷をコワして浪人の様に結び其上へ頬冠りをして鉄砲をかつひで行きました。処が私は鉄漿かねを付けて居るから兵隊共が私の顔を覗き込んで、御卿様おくげさまだなどと戯謔からかつて居りました。小松さんは遙る馬につて迎へに来て、お龍さん足が傷むだらうと私の鞋を解いて石でたゝひて呉れました。京都へ着くと西郷さんが玄関へ飛び出して、う来たお龍今度はお前の手柄が第一だ、お前が居なかつたら皆の命が無いのだつたと扇を開いて煽り立て、ソラ菓子だの茶だのつて大そう大事にしてくれました。つゞまり二月はここで暮し三月の三日一先づ薩摩へ行つては如何と西郷さんが勤めるので、小松さんの持船の三国丸へ乗つて私も一処に薩摩へ下りました。

逆鋒さかほこですが、山へ登たのは田中吉兵衛さんと龍馬と私と三人でした。(千里駒にはお龍が書生を伴ひて登山し逆鋒を抜き、後ち龍馬に叱られたりとあれど事実然らず)小松さんが霧島の湯治とうじに行つて居りまして私等も一処でしたが、或日私が山へ登つて見たいと云ふと、言ひ出したら聞かぬ奴だから連れて行つてやらうと龍馬が云ひまして、山は御飯は禁物だからコレを弁当にと小松さんがカステイラの切つたのを呉れました。此の絵(千里駒のお龍逆鋒を抜く図)は違つて居ます。鋒の上は天狗の面を二ツ鋳付いつけて一尺回りもありませうか、から金で中は空であるいのです。私が抜ひて見度う御座いますと云ふと、龍馬はやつて見よ六ヶ敷けりや手伝つてやると笑つて居りましたが田中さんは色を青くして、ソソレを抜けば火が降ると昔から言つてあるどうぞめて下さいと云ふ、私は何に大丈夫と鉾の根の石をサツと掻のけ、一息に引抜いて倒した儘で帰りました。

◎此の顔(龍馬伝の挿絵)は大分似て居ます。頬はモ少し痩せて目は少し角が立つて居ました。眉の上には大きないぼがあつて其外にも黒子ほくろがポツあるので、写真は奇麗に取れんのですヨ。背には黒毛が一杯生えて居まして何時も石鹸で洗ふのでした。長州の伊藤助太夫の家内が、ママ本さんは平生ふだんきたない風をして居つて顔付も恐ろしい様な人だつたが、此間は顔も奇麗に肥え大変立派になつて入らつしやつた、吃度きつと死花が咲いたのでせう、間もなく没くなられたと云ひました、コレは後ちの事です。

◎龍馬の歌もボツありましたが一々おぼえては居りませぬ、助太夫の家で一晩歌会をした時龍馬が、

行く春も心やすげに見ゆる哉
花なき里の夕ぐれのそら
玉月山松の葉もりの春の月
秋はあはれとなど思ひけむ

みました、私も退窟で堪らぬから

薄墨の雲と見る間に筆の山
門司の浦はにそゝぐ夕立

と咏んで、コレは歌でせうかと差し出すと、皆な手を拍つてうまいなんて笑ひました、ホホホヽヽヽヽヽ。龍馬が土佐で咏んだ歌に、

さよふけて月をもめでししづ
庭の小萩の露を知りけり

と云ふのがあります。伏見で江戸へ出立の時に、

又あふと思ふ心をしるべにて
道なき世にも出づる旅かな

と咏みました。私の歌ですか……ホホ蕪拙まづいですよ。伏見の騒動の当時咏んで龍馬に見せたのが一ツあります。

思ひきや宇治の河瀬の末つひに
君と伏見の月を見むとは

と云ふのです、龍馬の都々逸がありますよ、斯う云ふのです
 とんと登る梯子の真中程で、国を去つて薩摩同士(雪山按ずるに当時龍馬は姓名を変じ薩藩士と称して幕府の嫌疑を避け居たり。故に詩句の三巴遠を変じて薩摩同志とせるか)楼に上る貧乏の春(雪山按ずるにお龍氏も亦お春と変名し居たり。故に詩句の万里の秋を変じて殊更に春とせるか)辛抱しんぼしやんせと目に涙。
と云ふのです。小松さんの作つたのも一つ覚えて居ます。

西の国からおしゆの使ひ、風せう々として易水寒し壮士一たび去つて又還らず、ならにや動かぬ武士の道