坂本龍馬全集/千里駒後日譚/四回

提供: Wikisource
ナビゲーションに移動 検索に移動


(四回)


◎龍馬はソレは/\妙な男でして丸で人さんとは一風違つて居たのです。少しでも間違つた事はどこまでも本をたださねば承知せず、明白に誤りさへすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く/\せねばならぬぞと丁寧に教へて呉れました。衣物なども余り奇麗にすると気嫌が悪るいので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物ひとへものをきて出て戻りには白飛白しろかすりの立派なのを着て来ましたから誰れのと問ふたら、己れの単衣ひとへものを誰れか取つて行つたから、おれは西郷から此の衣物きものを貰つて来たと云ひました。長崎の小曽根で一日宿の主人等と花見に行く時お内儀かみさんが、今日はいのを御召しなさいと云つたけれど、私は平生着ふだんぎの次ぎのをて行きましたが、龍馬が後で聞いてヨカツタ/\と云つて喜びました。十人行けば十人の中で何処の誰れやら分らぬ様にして居れと常に私に言ひ聞かせ、人に軽蔑せられると云へば、れが面白いじや無いかと云つて居りました。

◎一戦争済めば山中へ這入つて安楽に暮す積り、役人になるのはおれはいやぢや、退屈な時聞きたいから月琴でも習つて置けとお師匠さんを探して呉れましたので、私は暫く稽古しましたが、あなたに聞ひて頂くならモ少し幼少ちいさい時分から稽古して置けば宜かつたと大笑でした。
あにさんは龍馬とは親子程年が違つて居ました。一ばんうへが兄さん(権平)で次がお乙女さん其次が高松太郎のママ、其次が又女で龍馬は末子です。龍馬が常に云つていました、おれは若い時親に死別れてからはお乙女とめあねさんの世話になつて成長ふとつたので親の恩より姉さんの恩がふといつてね。大変姉さんと中好しで、何時でも長い/\手紙を寄しましたが兄さんには匿して書くので、龍馬に遣る手紙を色男かなんかにやる様におれに匿さいでも宜からうと怒つて居たさうです。伏見で私が働いた事を国へ言つて遣ると云つて居ましたから、ソウしてはあなたが大変私にのろい様に見えるからお廃止よしなさいと止めました。姉さんはお仁王と云ふ綽名あだながあつて元気な人でしたが私には親切にしてくれました。(龍馬伝には「お乙女とめ怒って彼女を離婚す」とあれど是れ亦誤りなり、お龍氏が龍馬に死別れて以来の経歴は予委しく之を聴きたれど龍馬の事に関係なければ今しばらく略しぬ。されどの女丈夫が三十年間如何にして日月を過せしかは諸君の知らんと欲する所なるべし、故に予は他日を期しはしを改めて叙述する所あらんと欲す。請ふ諒せよ)私が土佐を出る時も一処に近所へ暇乞ひに行つたり、船迄見送つて呉れたのはお乙女姉さんでした。

◎私の名ですか、矢ツ張り龍馬の龍の字です。初めて逢つた時分お前の名のりよふは何う云ふ字かと問ひますから斯く/\と書いて見せると、夫れではおれの名と一緒だと笑つて居りました。
◎私の父は楢崎将作(千里駒に将監とあるは誤也)と云ふのです。青蓮院様の侍医でしたが漢学は貫名海岸先生に習つたのであの梁川星巌や其妻の紅蘭も同門でした。また頼三樹さんや池内大角(吉田松陰らと倶に斬らる)などゝも親密で私が幼少ちいさい時分には能う往来きして居ました。
◎長岡健吉(今井順静の変名)は龍馬が大変可愛がつて薩摩へも連れて行きましたが、朝寝をしてどうもならぬのです。処が犬が大嫌でしたから蒲団を被つて寝て居る時には、犬を枕元へ坐らせて置て揺り起すと、ヘイと云つて起き上り犬を見れば直ぐ又蒲団を引ツ被つて姉さん(海援隊の者はお龍を姉さんと呼び居たり)は悪るい事をする、なぞ云つて居りました。龍馬が長岡の様なキツイ顔付で犬が恐ろしいとは不思議ぢやないかと笑つて居りましたが、明治の初め東京で死んだのです。
◎野村辰太郎と与三郎(権平氏の女婿乃ち龍馬の甥に当る)と二人連で土佐を脱走して来たのです。丁度越前から二人来て海援隊へ入れて呉れと云つて居りましたが、野村と与三郎とは此処の隅ではペチヤ/\彼処の隅ではペチヤ/\とお国の事斗り話して居るので龍馬が大変腹を立て、お国の事は話さいでも知つて居る、天下を料理するものはどの国は斯様/\の有様、君の国は如何の風とか問ふたり聞ひたりしてこそ学問になるのだ。今越前から来て居るのをソツチのけにして置て自分勝手な話し斗りするとは怪しからぬ、と散々叱つて貴様の様な奴は役に立たぬから帰つて仕舞へと怒つて居りました。
◎忠広の刀、あれは兄さんが龍馬に、この刀が欲しいかと云ふから、欲しいと云へば、脱走せねばると云ふ、そんなら私も思案して見ませうと一旦返したさうですが、後に甲浦ママまで帰つた時、兄さんから龍馬に送つて呉れたのです。長州へ持つて来て見せました。

◎役者を一人かゝへた事があります。舞や踊りが上手でしたが、今日が踊り納だから一ツ踊つて、今日限り一切踊ることはならぬぞと踊らせました。後藤(象次郎)さんが、君の家来には役者も居るかと笑つた時龍馬が、役者も居れば花児こじきも居るが腸丈はらわただけは奇麗なぞと云つたさうです。白峰駿馬は越後の生れ、左柳高次は讃州志度の者で本名は浦田運次郎、高次と云ふのは龍馬がつた名です。

◎支那人の子を一人抱へました。父親は上海しやんはい辺の者で長崎へ商売に来て居て出来た子で名は矢ツ張り支那流の六ツか敷い名でしたが、龍馬が支那から日本へまで遙る/\来たのだからと春木和助と云ふ名をやりました。

三回 ↑千里駒後日譚 →五回