柿 の 木
―癩者︀の療養生活より―
東條 耿一
こないだ知人から貰つて庭󠄁の隅に植ゑて置いた柿の苗木が、今朝みるともう五分󠄁程󠄁にやはらかな芽︀をつけてゐる。私は根づいた事を確めて思はずほつとした。一木一草の類︀にも神︀に與へられた生命がある。それを枯らしてしまふのはすまなく惜しまれる。
この柿は知人が丹誠して接木したもので、まだ私の背丈󠄁にも足らぬが、成︀長した曉には見事な實を結んでくれることであらう。これを植ゑる時、この木に實がなつたところを見て死にたいわね、と妻がいつた。根下に水をやつてゐた妹は、――ほんとね、切角植ゑたんだから私は一つ位味をみなくちやつまんないわ、と相槌をうつた。
――まあ此の柿がなる頃には君達󠄁の方が納󠄁骨堂に納󠄁つてゐるよ。その時には俺がさんざん食󠄁つてから殘つたのを
供へてやるよ、まあそれを樂しみにしてるんだね。と恰度來合せてゐた友人が笑ひながら言つた。 ――さうかもしれん。然しそれでもいゝよ。と私も笑ひ乍ら答へた。すると友人は又󠄂いつた。
――だが何だつて柿なんか植ゑる氣になつたんだい。そんな先の長い物よりトマトや西瓜でも作つた方が、勝󠄁負が早くていゝぢやないか。
――いや勝󠄁負は遲くつても勝󠄁つた方がいゝよ。今これを植ゑて置けば、俺達󠄁が食󠄁へなくても、次の人達󠄁が食󠄁へるからね。
然しこの友の眼には、この小つぽけな苗木と、もう見る影もなく繃帶に󠄁包󠄁まれてゐる私や妻の姿を見較󠄁べて、憐れな事ともつまらぬ植樹とも映るのであらう。昨日まで讀書して居た者︀が、今日ははや眼帶をして暗󠄁黑の世界に呻吟しなければならない。かと思へば夕方まで元氣に働いてゐた者︀が一夜の疾患に足を切斷し、咽頭を切開しなければならない。まことに癩者︀の病狀は今日あつて明日を知らぬ激しい變り樣を示すが、それかといつて唯目前󠄁の事のみを追󠄁求し刹那刹那に生きるのは餘りにも蕪雜でありすぎる。
明日の生命は誰も知らぬ。目前󠄁に迫󠄁つてゐる死すら感知する事は出來ぬ。それ故にこそ却つて生きる事が貴く愉しいのである。遠󠄁大な計畫も樹てられ、希望󠄅も持てるのである。明日を望󠄅み得ないなら、尚のこと今日を生きる事はむづかしい。十年二十年先が考へられぬなら、目前󠄁五分󠄁間の事も考へられぬ筈である。 五分󠄁間も十年二十年の歲月も所󠄁詮は五十步百步である。明日の生命は知らずとも、明日のために今日を備へて生きるのは、人の踏むべき道󠄁であり、正しい心であつて明日を思ひ煩ふ心では決してない。
明日の爲に思ひ煩ふこと勿れ、明日は明日、自己の爲に思ひ煩はん、その日はその日の勞苦にて足れり。
私は柿の芽をあかず眺めた。この芽の一つ一つが愛の心の現れである。私が飽󠄁かずに眺めるのもまた愛の心からである。このひと時の私の生を、私はしみ〴〵貴く思ふ。