朝鮮王朝実録/1849年/7月12日/7

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日本語訳[編集]

礼曹が魂殿と徽定殿の祝式を儒臣と大臣で議論して啓告したが、

趙寅永:「純祖室を皇考と称して、孝子と称するに対して、明朝の嘉靖との礼論を謹んで閲覧すると、『兄の武宗、考を孝宗』とあり援用が可能です。翼宗室を皇兄と称し、孝嗣と称するは、これ景宗室の祝式、既に挙行した例があり、合わせて更論する必要はないでしょう。魂殿と徽定殿の祝式において先儒の議論を参考にすると、多くの系統を大事にし、序次にはこだわっていません。しかし歴代で施行した試しもありません。しかし、唐朝の宣宗だけは、敬宗·文宗·武宗室に対して、本来叔父で、甥の大統を継承したので、『嗣皇帝臣某昭告于』と称し敬宗·文宗·武宗室には廟号をのみを直接書いたということがあります。ですが、嗣臣某と称して敢の字を使わないのは、〈敢昭告于〉おかしいので、闕文に従ったものだと思います。国朝の祝式で高曾祖以上は、ただ廟号だけを書いて属称を使わないことから、旁照の一例になります」
鄭元容:「帝王の系統は重要な事だと考えています。ただし、弟として兄の後を成し、叔父から甥と継承され、王が諸父兄弟を臣に掲げることがあります。諸父兄弟として継承した者も、息子に祝式を受けます。そこで魯文公の春秋三伝を論じたところ、宋朝の真宗の尚書省集議では、世次にこだわらないようにと記されています。礼家で親族と親しくし、尊尊を傷つけてはならないことを意味します。しかし歴代の行典を調べてみますと、親族を序次しています。国朝の例では、英祖が景宗に、皇兄と称し、孝嗣と称したので、前例に従うとなると、翼宗室は礼を援用すれば、純祖の禰位に仕えるべきです。憲宗の叔姪の序次においては、唐朝の宣宗の礼院の祝式から見ると、文宗、武宗を敬って、『嗣皇帝臣某昭告』と称しましたが、但称の二文字から行列をつけておらず、先例に足るか分かりませんが、礼儀とは非常に大きいものであり、あえて質定して、答えることはできません」
権敦仁:「礼曹から請われた祝式の論議は、国朝では非常に稀なもので、歴代には、唐朝宣宗の故事があり国朝では英祖の例に従っていた例があるが、それはまだ古今の中間に位置し、一代の典礼を揃え、成すところにおいては、廷臣の蒙昧な所見では、あえて妄論するところではありません」
金道喜:「純祖室で皇考と称して孝子と称することと、翼宗室で、皇兄と称して孝嗣と称するに対して、すでに礼曹から援拠した啓辞がありましたので、深く議論いたしませんが、魂殿や徽定殿の祝式に関しては、旁照する先例がなく、唯一は唐朝の宣宗の、敬宗・文宗・武宗を敬う際『嗣皇帝臣某昭告』と称したが、全く根拠に基づいていない。また太祖廟の祝式で、高曾父以上は、廟号だけを書いて、親族関係の称号は用いませんでしたので、使わないほうが、適度ですが、重大な典礼なので、確定して言うことはありません」
朴晦壽:「礼家で要求する議論は、系統の承襲を重んじることで、歴代の典礼は、世次を中心に正し、当然前例に沿って純祖の禰位に対し、翼宗は皇兄と称されるべきです。また憲宗の祝式には、唐朝の宣宗の前例があるので、臣は一切所見はいたしません。」

次に奎章閣提学金学性・知春秋尹定鉉・奎章閣直提学趙秉駿・同春秋洪羲錫・李源益・李経在らは回答する前に自ら臆見だと主張して返答しなかった。

洪直弼:「叔父が甥の大統を承襲した例を史籍で調べると、周朝の孝王が先代の懿王に、唐朝の宣宗が武宗に行いましたが、我ら殿下は叔父にあたります。先儒は『孝王は叔父であり臣下で、君主は懿王である。親しい親族の尊敬を妨害するは、君臣の分義ある。嗣君が先君を尊崇するのは当然だが、叔父が甥を尊崇するのは考え難いことである』また先正の文元公金長生も『帝王家は承統を重んじるが、叔父が甥の大位を嗣いだとしても父子の道理に従うべき』とありますので、これは万世に維持される正義あります。たとえ父子の道理が必要とはいえ、親族関係の称号においては、兄弟叔姪の序次を使わないといけません。殿下が孝定殿で皇姪と称して、徽定殿では皇姪妃と称さなければならないようです。叔姪の名称は古礼にはありませんが、両夫子の定論があります。明朝成化帝の時に至って景泰帝を追復の諡冊で皇叔と皇侄と称したので、これは追って遵述する事があり、また綱目の唐朝の宣宗紀を上告してすると礼院で奏達の中に、穆宗・敬宗・文宗・武宗四皇帝への祝文でただ、『嗣皇帝臣某』と称されていたので、これは、今日の援證として使うだけのことです」
宋来熙:「王が入継することの意義は極めて厳重で、弟が形をなし兄叔父が継ぎ甥を継ぐ、承統になり次序」

原文[編集]

禮曹, 以魂殿徽定殿祝式, 儒臣大臣議啓, 領府事趙寅永以爲, “純宗室之稱皇考, 殿下稽孝子, 謹稽明嘉靖時禮論有曰, ‘兄武宗, 考孝宗,’ 可以援用。 翼宗室之皇兄殿下稱孝嗣, 卽我英廟於景宗室祝式, 爲我爲已行之禮也, 竝不必更論。 若魂殿徽定殿祝式考諸先儒之論, 多以繼統爲重, 不拘序次。 然而歷代未有能行之者。 惟唐宣宗, 於敬、文、武室, 本以叔繼侄, 而只稱嗣皇帝, 臣某昭告于, 則其直書廟號, 可推也。 旣稱嗣旣稱臣旣稱某, 而不書敢字, 無是理也, 或史有闕文然歟。 第我朝祝式, 高曾以上, 只書廟號, 而不書屬稱, 或可爲旁照之例歟。” 判府事鄭元容以爲, “帝王以繼統爲重。 雖以弟後兄, 以叔後侄, 其生時旣盡臣其諸父昆弟矣。 諸父昆弟之入繼者, 又爲之子爲父之服矣。 故魯文公事之《春秋》三傳所論及宋眞宗時《尙書省集議》, 皆以不當拘世次爲說。 此禮家所謂不以親親, 害尊尊之義也。 然稽攷歷代行典, 皆以天屬爲序。 且以我朝禮言之, 英廟之於景廟, 稱皇兄稱孝嗣, 今以從先之義, 於翼宗室, 援用此禮, 則於純廟, 當以禰位事之矣。 大行朝叔侄之序, 唐宣宗時禮院祝式, 於敬文武, 但稱嗣皇帝臣某昭, 告以但稱二字觀之, 其不加屬稱, 可知矣, 似當爲今日可據之例, 而禮節甚重, 不敢質對云。” 判府事權敦仁以爲, “今此禮曹所請祝式之議, 非但國朝創有之事, 亦歷代之所絶罕也。 歷代則有唐宣宗故事, 國朝有英廟朝已例, 而若其折衷古今, 備成一代典禮, 則非臣蒙蔀之見所敢妄論云。” 左議政金道喜以爲, “純宗室稱皇考殿下, 稱孝子, 翼宗室稱皇兄殿下, 稱孝嗣, 旣有禮曹援據之啓, 無容更議, 而若魂殿徽定殿祝式, 無他旁照之例, 惟有唐宣宗時祝式於敬、文、武, 但稱嗣皇帝臣某, 此或爲可據之禮耶? 且太廟祝式, 高曾以上, 只書廟號, 不書屬稱, 則今亦只書廟號, 不書屬稱, 似或合宜, 而係是莫重典禮, 無以的定云。” 判府事朴晦壽以爲, “禮家所論之說, 以承統爲重, 歷代已行之典, 以世次爲定, 今當從已行之典, 則純廟當爲禰位, 翼宗當稱皇兄。 大行朝祝式, 旣有唐宣宗時可據之例, 臣亦無他見云。” 奎章閣提學金學性, 知春秋尹定鉉, 奎章閣直提學趙秉駿, 同春秋洪羲錫、李源益、李經在, 幷以爲不敢臆對云, 祭酒洪直弼以爲, “以叔父繼侄, 歷選載籍, 推周孝王之於懿王, 唐宣宗之於武宗, 我殿下之於大行大王已矣。 先儒有云, ‘孝王, 叔父也, 臣也, 懿王, 兄子也, 君也。 親親, 不害於尊尊, 君臣之分, 固在也。 宗廟之禮, 嗣君拜先君, 非叔拜侄 也。’ 先正文元公臣金長生又云, ‘帝王家以承統爲重, 雖叔繼侄, 兄繼弟, 皆有父子之道,’ 斯爲萬世不易之正義也。 雖云有父子之道, 而至若屬稱, 則當用兄弟叔侄之序, 殿下之於孝定殿, 恐當稱皇侄於徽定殿, 恐當稱皇侄妃。 叔侄之名, 雖不見于古禮, 已有程、朱兩夫子定論。 逮皇朝憲宗皇帝, 追復景泰帝謚冊, 稱叔稱侄, 是爲所遵述者, 而又按《綱目》, 唐宣宗紀禮院奏祝文於穆、敬、文、武四帝但稱嗣皇帝臣某, 是亦可備今日援證也云。” 副司直宋來熙以爲, “帝王入繼之義, 至重至嚴, 雖弟繼兄叔繼侄, 只以承統爲序, 有父子之義, 無父子之名。 凡於倫屬之稱, 亦不可紊, 故英廟之於景廟, 稱皇兄稱孝嗣, 則翼宗室祝式, 似當援以爲據。 至於魂殿與徽定殿祝式, 果無的見於禮書, 而第按唐宣宗時, 於穆、敬、文、武四室褅祭祝文, 但稱嗣皇帝臣某, 宣宗之於穆宗, 弟也, 於敬、文、武, 叔也, 而通稱嗣皇, 則今亦通稱嗣王, 或爲可據, 而我朝則特加孝字於嗣字之上, 未敢詳其當初議定之意也。 昔文元公臣金長生, 嘗論此禮, 以爲, ‘當依《通典》, 自稱曰, 嗣皇某於先君, 亦當別稱號, 而今未有先儒定論, 不敢創說云,’ 與今日所値, 實無異同, 而先正之不敢創說者, 尤何敢率爾論列耶?” 大王大妃殿, 命皇姪皇姪妃稱號, 依儒臣議, 嗣王臣稱號, 依大臣議施行。


【太白山史庫本】1本1巻5章B面

【影印本】48本549面

先代:
1849年7月12日第六項
朝鮮王朝実録
1849年7月12日第七項
次代:
1849年7月13日第一項