朝鮮王朝実録/1776年/3月18日/1
日本語訳
[編集]大報壇の時享を停止する。これに先立って礼曹で皇壇の祭享を毎年3月上旬に日を決めていたが、成服が控えていた時期なので施行されていなかった。それでとっくに上旬が過ぎたので、禀命して行わなかった。右議政李溵進言:「皇壇の享事は、我らの主上殿下と大行大王の名を奉じ、すでに誓戒し、儀式の作法や準備を整えています。またこの祭享は毎年3月に行っています。匪風した明王朝のため、皇壇增儀の卜日は明朝崩壊の3月しかないのです。上旬は過ぎ去りましたが、期日はまだ残っております。喪礼補編を使って諸大臣と儒臣とで議論して、卒哭の前に皇壇祭享の奏楽する事が決まったのに大喪」
原文
[編集]己丑/停大報壇時享。先是禮曹以皇壇祭享, 每歲三月上旬卜日, 而成服前未及行事, 上旬已過, 稟命停行。 右議政李溵上箚, 略曰:皇壇享事, 我殿下奉大行大王之命, 旣誓戒矣, 又肄儀矣。 每歲一享, 必用三月者, 蓋寓風泉之感, 屋社之悲, 而皇壇增儀卜日註, 亦曰皇朝淪亡, 在於三月, 故用是月云。 旣非原定之日, 則不可以上旬之已經, 謂之過期也明矣。 雖以《喪禮補編》, 諸大臣儒臣獻議推之, 卒哭前皇壇祭用樂, 尙有論難, 則可知其雖在大喪, 不敢停廢, 而與戒令條所云, 殯後惟祭社稷之文, 無異也。 近日之禮係變節者, 輒命收議, 盛際故事, 於今復見, 臣不勝其贊歎。 而今此壇享, 亦係國家莫大之事, 則宜有一番博議, 務歸得當。 命問議時原任大臣諸臣, 議略曰: “國恤卒哭前, 皇壇行事用樂, 載於《喪禮補編》, 而顧今上旬已過, 揆以過時不祭之義, 不敢請行。” 又命弘文館博考, 弘文館啓言: “皇壇之禮, 實出義起, 經無可據。 惟郊社之禮最宜旁照, 《王制》曰: ‘喪三年不祭, 惟祭天地社稷, 越紼而行事。’ 註曰: ‘惟祭天地社稷者, 不敢以卑廢尊也。’ 《曾子問》曰, ‘天子崩未殯, 五祀之祭不行, 旣殯而祭。’ 伯程子曰: ‘天地社稷, 越紼行事, 似亦太早。 雖不以卑廢尊, 旣葬而行之亦可也。’ 叔程子曰: ‘旣言越紼, 則是猶在殯宮, 無由致齊。 安能脫喪服? 衣祭服縱天地之祀不可廢, 只使冢宰攝爾。’ 英宗初卽位有人問, 先生答曰: ‘居喪百事, 皆如常時, 於祭祀廢之, 則不若無廢爲愈也。’ 張子曰: ‘父在爲母喪, 則不敢見其父, 不敢以非禮見也。 今天子爲父之喪, 以此見上帝, 是以非禮見上帝也。 故不如無祭。’ 朱子曰: ‘正禮則當從橫渠論, 人情則伊川之說, 亦權宜之不能已者也。’ 《王制》《曾子問》似爲今日所可旁照, 而不侑不酢, 其禮當殺, 則儀節恐多窒礙。 程、張諸先生之論如此, 而朱子正禮權宜之議, 似或輕重於其間, 至於追行一節, 尤未見可據之禮。 惟《曾子問》, 孔子曰: ‘祭過時不祭禮也之章下註, 有禘袷大祭, 過時猶追之文。’ 而曾於甲申年皇壇享事, 不行於上旬, 而特行於本月十九日, 以寓風泉之聖念, 而似非可以援例者也。” 命遂停之。
【太白山史庫本】1本1冊4章A面
【影印本】44本562面