朝鮮王朝実録/哲宗実録/附録/行録

提供:Wikisource

日本語訳[編集]

明純王妃が行録を書記した。

大行大王は辛卯年(1831年純祖31年)6月17日午時(正午)に慶幸坊私第に誕降された。同日純元王后(聖母)の夢の中で永安府院君が現れ、子供を奉進され、『この子を善く育ててください』と言われた際、聖母は覚められ、不思議に考慮されて、この事を記録して冊櫃に保管されていた。己酉年(1849年哲宗即位年)奉迎する際、顔見ると儀表と龍顔は果たして夢の中で見たのと同じだったので、古くからの宮人は純祖の儀型に非常に似ていると賞賛した。2,3歳の頃から孝友に優れておられ、ある人が果物を献じることがあれば、必ず先に父の全渓大院君に進献し、余りを兄弟の懐平君·永平君に進饋した後、始めて味見した。また衣襨を進献されると、その度に懐平君·永平君に贈与して、自らは手作りの物を着た。

4歳の時、千字文を読んだ一節を聞くと、一を聞いて十を知るようなもので、筆畵は完好で、列聖朝の体法を習わなくても、自然な点があった。文章を読んで余暇に、多くの子供と群がって遊んで、道に迷って一人で歩き回ったところ、興仁門に至ったが、これを見た人はその容貌が、普通の者よりも異様に優れており、通行人が尋ねると、潜邸が良娣房である事が分かって奉じて帰宅させた。この時大院君から少々警責があったので、その後は門外に外出しなかった。事完陽府大夫人に龍城府大夫人に従った。完陽府大夫人の喪事を受けると、一日中哀慟しており、何度も殯室に訪れて永訣しようとしていたが、長者が入室を禁止させ、これを一生の遺恨とした。11歳に大院君の喪事を受けると、 体を密接にして慟哭し、その動きは礼法に合わせたので、これを見た人は感心していない者はいなかった。

14歳甲辰年(1844年憲宗10年)家中を喬桐に移し、10日後に再度江華に移動したが、船が海洋に至ると、突然大風が吹いて傾覆される状況になったので、人々は皆驚いて、慌てて顔色が変わった。しかし自らは家眷を上にして保護しながら、少しも驚いたり恐れている気配がなかった。少しすると、風が収まり波が穏やかになると、人々はお互いに祝いあって『これはすごく危険で、激しい風に見舞われたのに、それをうまく乗り越えられた。この船の中には、必ず天命を受けし方が乗っているのだ』と言った。江華は長年にわたって恩彦君が居停していた所であるが、毎回家人と接しても、過去の事について言及すると、かつてのように涙を流すことはなかった。己酉年(1849年憲宗15年)春から夏の間は夜になると、潜邸に光気が宿り、南山の烽台の上に見えており、奉迎する前日になってようやく光気がなくなっていたので、人々は龍興の兆候である事を理解した。奉迎する際に楊花津の江岸に、羊の群れが来て跪き、それはまるで迎えて問安の形状を成したので、これを見た人は不思議に思わない人はいなかった。

6月9日奉迎により入内し、冠礼を行って、続いて仁政門の寝殿にて即位した。その傍に、実がなったリンゴの木があったので、殯殿に薦新するように命じながら、『これは正に先大王が玩賞なさったことだから、たとえ容器に入れようとも奠需に回しなさい』と仰せられ、苑中の全ての果物の中で新たに熟したものは、すべての殯殿に薦新するように命じた。王は江都(江華島)の洞内に、かつて頑なしで悖戻した者がおり、酒に酔って門外で騒ぎを起こし、言辞が傲慢極まりなかったが、宝位に登極するに至って、下教することを、『無知の類に対して、今問題にする必要が何かあるのだろうか?』と発せられ、この問題は最終的には放置された。王が江都にいた頃、数人の留守が防守するために操切することが、あまりにも過酷なことであり、家人は非常に苦労したが、宝位に登極するに至って、その者の名前を承旨候補の前望に加えて、最終的に承旨に任命した。その者に公事を持たせて入侍するよう命じ、続いて召対した。その者が筵席から退くに至っては、王は『彼の奏対と文義について聞いてみると、決して故意に欲を見せることはなく、国法が然るものであった』と仰せで、その後は待遇を廷臣と同じものにした。己酉年に登極し、純元王后の慈愛は篤く、手厚く飲食と寝睡の手順を遵守して保護し、衣襨を進御するに至っても、必ず聖母自ら点検した。王は慈殿を遵奉して誠孝が隆盛し、居所は同じ宮殿で一緒に過ごし、飲食でも必ず同じ厨房をつかい、慈殿の体候が優れないときは、自ら薬と湯を持って、夜から朝まで蝋燭を明るくし、左右の扶護を女侍に任せた。そもそも進献があれば、聖母の内蔵に保管し、講筵や視事以外は一時も慈殿のそばを離れなかった。両殿に仕えるにおいては、敬いと孝誠を極めてたので、祥和な気が宮闈に溢れた。

丁巳年(1857年哲宗8年)純元王后が昇遐した際には、悲哀な気持ちで慕い、常膳を廃却した。復膳した後に水刺を扱うと、そのたびに啼泣しながら、『食事をする度に、必ず聖母と付き添って、聖母が食事を進御された後に、私が食事を食べていた。しかし今、どうして予一人で食べることができようか?』と言われ、涙を雨が降るように流していたので侍衛していた人々はとても仰ぎ眺めることができなかった。5ヶ月間廬幕に居住し、5時の哭泣を一度も廃止したことがなく、寒さを冒し動駕して下玄宮に親臨した。仁陵・綏陵・徽慶園の宅兆が不利だとして、何度も自ら看審して、最終的に吉地を得て遷奉した。乙卯年(1855年哲宗6年)夏月頃に夢の中で純祖が寝殿に臥しているところで純祖が下教し、『臥している処が高温になり、他の処に臥してくれ』として、眠りから覚めても玉音がなく、明らかにした。これで交河の旧陵は吉地ではないことを懸念して、数人地師を率いて、何度も直接看審して広州に宅兆を得ようとした。しかし、同年は山運が合わなかったので、翌年10月になって遷奉する事になり、中道で袛迎し、すぐに陵所に進んで自ら香を捧げた。この時、悲しんし哭泣の外観は、侍衛する諸臣達はとても崇められないほどだった。

丙辰年(1856年哲宗7年)大院君の緬礼を営む神人が夢に現れ進告し、『東に花山を探して遷奉すると吉があります』と言うので、次の日の地師に看審するように命じ、抱川の花山で吉地を得て大院君と完陽府大夫人を緬奉した。登極後、内厨の供上の饌需の中に贅沢な食物があれば、その都度却下して召し上がらなかった。また肉饌も喜ばず『予が肉を沢山食べるなら士庶人まで争ってお互いに恩恵を受けるために、六畜が必ず沢山傷つく。』とし、宮人が調理をよく煮ず、罪を得ている場合、寛大な許しを加えると下教と同時に『どうして料理の為に急に責罰を与えることがあるだろうか?』と言った。以前宮中で銀器を喪失した事があって左右が罪を受けると、『銀器の為に多くの人々を傷つけてしまうだろうか?』と言い、特命を下教し、別に銀器を作って、最終的に不問に付した。その後、再び銀器を喪失したが、王の下教が再び以前と同じ内容なので、宮人が皆寛大で盛大な徳を讃えた。薬院の進上する酪粥を停止するよう命じて、続いて下教することを、『この仕事は本当に古例であることや牛の乳がよく出ない、生畜が盛んにできないはずなのに、なぜこのような不利益な事をして禽獣に害を与えることをするのか?』と言われた。宮人が鳥や虫を倒すところを放すよう命じて言った、『一匹を捕らえ、傷をつけることを、これをどうしてもする必要があるのだろうか?』である。衣襨を倹約し、龍袍や法服以外は絹織の服を召さなかった。常に綿紬・綿布を着て楽しくして、『これは民から出てきたのだ。民が存在しない場合はいかに国を支えていくことができようか?』と言った。

壬戌年(1862年哲宗13年)春、各道の民擾(反乱)のために非常に驚き恐れながら、『これは方伯・守令が民を不能になるまで使うことに由来したのだ』と言って、寝食を廃止するに至った。大行大王の至仁・盛徳・嘉言・善行のうち政令に施行されて方冊に記載された者の赫赫と輝く功徳が人々の耳目に残っている。外庭の諸臣達は見聞きした事に基づき、10000分も讚揚することを期待することができるが、閭閻以前に苦労した事で宮禁で常時行っていた跡に至っては、外庭の諸臣達が知らないこともたくさんある。だから、ただ見聞きだけで記述するだけなのに、天地が崩れる悲しみにあって精魂が散らばって神識が昏迷して、記述する際に不足していることが多いので、さらに罔極ことこの上ない。

原文[編集]

明純王妃書下行錄。大行大王, 辛卯六月十七日午時, 誕降于慶幸坊私第。 是日, 純元聖母夢中, 永安國舅, 奉進一小兒以告曰, ‘善養此兒’, 聖母覺而異之, 因記其事, 藏于篋笥矣。 及己酉奉迎時, 日表龍顔, 果如夢中所見, 而老宮人, 感稱酷肖純廟儀型矣。 自二三歲, 孝友卓越, 或有人獻果者, 必先進于全溪大院君, 以其餘分, 饋懷平君ㆍ永平君, 而後始嘗之。 進衣襨, 則輒先贈懷平永平而手自衣之矣。 四歲, 讀《千字文》, 聞一知十, 筆畫完好, 如列聖朝體法, 亦不資肄習, 而有自然者矣。 讀書之暇, 從群兒出遊失路, 獨行轉轉, 至興仁之門, 見者異其容貌行止, 逈出凡常, 問知其在潛邸, 良娣房奉而還之。 大院君, 略加警責, 自是之後, 不復出門矣。 事完陽府大夫人, 如事龍城府大夫人矣。 及遭龍城府大夫人喪事, 終日哀慟, 屢欲面訣於殯室, 爲長者所禁, 而不得入, 平生爲遺恨矣。 十一歲, 遭大院君喪事, 哭踊哀毁, 動遵禮法, 見者莫不感歎焉。 十四歲甲辰, 全家徙喬桐, 十餘日後, 復徙江華, 船到大洋, 忽遇大風, 將至傾覆, 衆皆驚惶失色。 而上, 慰護家眷, 少不驚怖矣。 少焉, 風定浪息, 衆人相賀曰: “此本險津, 又遭惡風, 而竟得利涉, 舟中必有天佑之人云。’ 江華是恩彦君屢歲居停之地, 每對家人, 語到往事, 未嘗無泫然泣下之時矣。 己酉春夏間, 每於夜中, 有光氣見於潛邸, 南山烽臺上矣, 奉迎前日, 其氣始消, 人皆知爲龍興之兆。 及奉迎, 至楊花津江岸, 有群羊來跪, 爲迎候狀, 見者莫不異之。 六月初九日, 奉迎以入, 行冠禮, 仍卽位于仁政門寢殿。 傍有砂果結實, 命薦于殯殿曰, ‘此是先大王所賞玩者, 雖未滿器以爲奠需’, 凡苑果之新熟者, 亦皆命薦于殯殿。 上之在江都也, 洞中, 嘗有頑悖者, 酗酒作拏於門外, 言辭傲慢, 及御極, 敎曰, ‘無知之類, 今何必提起?’ 遂置而不問。 上之在江都也, 有一留守, 操切防守, 極爲苛察, 家人甚苦之, 及登寶位, 其人之名在承旨前望, 遂落點焉命。 持公事入侍, 因爲召對。 及筵退, 上曰, ‘聽其奏對與文義, 則決非故欲困我者, 國法然矣’, 自是之後, 遇待無異於諸臣矣。 己酉登極之後, 純元聖母, 慈愛篤至, 飮食寢睡之節, 念念保護, 至於進御衣襨, 亦必親檢。 上, 遵奉慈衷, 誠孝隆洽。 居處必同一殿, 飮食必共一廚, 其有不安節, 則躬親湯藥, 蚤夜洞燭, 左右扶護, 不委於女侍。 凡有進獻, 則置諸聖母內藏, 講延視事之外, 暫不離側。 事兩殿盡敬盡誠, 祥和之氣, 溢於宮闈焉。 丁巳純元聖母昇遐, 哀毁痛慕, 廢却常膳矣。 復膳之後, 對水剌輒泣曰, ‘每食必侍聖母, 聖母進御後, 予乃進食矣。 今何忍獨食乎。” 淚下如雨, 侍衛諸人, 不忍仰瞻。 五朔居廬, 五時哭泣, 未嘗或廢, 冒寒動駕, 親臨于下玄宮時矣。 以仁陵、綏陵、徽慶園, 宅兆不利, 屢次親審, 竟得吉地而遷奉焉。 乙卯夏間, 夢中, 純祖臥於寢殿, 起而下敎曰, ‘此臥處甚熱, 臥之于他處也’, 睡覺而玉音猶明明。 乃慮交河舊陵之非吉地, 因率諸地師, 屢次親看審, 占兆於廣州。 而以其年山運不協, 至翌年十月, 乃遷奉而祗迎于中路, 卽詣于陵所, 親進香。 顔色哭泣之哀慼, 侍衛諸臣, 不忍仰瞻焉。 丙辰, 營大院君緬禮, 夢有神人, 進告曰, ‘東尋花山而遷奉則吉矣’, 翌日, 命地師看審, 果得吉地於抱川、花山, 緬奉大院君完陽府大夫人。 御極之後, 內廚供上饌需, 或有奢味, 輒却而不御。 又嘗不喜進肉饌曰, ‘予若多食肉, 則至于士庶, 競相效之, 六畜必多傷損矣。’ 宮人不善烹飪, 當得罪, 曲加寬恕曰, ‘何忍以飮食之故, 遽加責罰乎?’ 宮中嘗失銀器, 左右當抵罪, 上曰, ‘豈可以一銀器而傷衆人乎?’ 特命別造而賜之, 遂勿問焉。 其後又失銀器, 而上敎復如是, 宮中咸誦寬仁之盛德焉。 命停藥院所進酪粥, 仍敎曰, ‘此事倘是古例, 牛不能亂, 則生畜不蕃, 何可以無益之事, 害及禽獸乎?’ 宮人輩, 或捕捉禽蟲, 則亟命放之曰, ‘捕一則傷衆, 是豈可忍乎?’ 儉於衣襨, 龍袍法服之外, 不御緞紗之屬。 常喜服綿紬綿布曰, ‘此出於民者。 無民, 何以爲國乎?’ 壬戌春, 以各道民擾, 大加驚惕曰, ‘此由於方伯守令之不能安民。’ 至於廢却寢膳焉。 大行大王至仁盛德嘉言善行, 施于政令, 書之方冊者, 赫赫焉在人耳目。 外庭諸臣, 以所聞所見, 庶幾贊揚其萬一, 而至於閭閻舊勞之事, 宮禁常行之蹟, 則外庭諸臣, 多有所不知者。 惟以斤聞見者記述, 而當天地崩坼之慟, 精魂遁爽, 神識昏迷, 記述之際, 遺漏者多, 尤爲罔極罔極。


【太白山史庫本】9本1巻1章A面

【影印本】48本668面

先代:
-
哲宗実録附録
哲宗大王行録
次代:
哲宗大王諡冊文