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日陰る

提供:Wikisource


日陰る

於泉信夫

「キタハラキトクスグ コイ。」の電報を受け取ったのは、明け方の六時だった。信作は朝食も摂らず、倉皇と家をたったが、のろくさい郊外電車に一時間半も揺られて、やっと病院についた時には、既に北原の遺骸は安置室に運ばれてあり、信作はそこで北原の死顔に接した。

 癩とはいえ、まだ軽症な北原の面貌は蠟細工のように冷たく透きとおり、やや開いている唇のあたりには、生前よく見馴れた皮肉な微笑が泛んでいるようで、長くは凝視出来なかった。

 掌を合わせ、瞑目したが、なんの祈りも湧かなかった。死とはこんなにも率爾たるものなのだろうか。信作は何か期待外れのした、軽蔑したいような腹立たしさを覚え、妙な感情の纏絡に苦しんだ。

 手拭をもとのように顔に懸け、一揖して安置室を出ると、信作は、屋根を覆うて亭々と立ち並ぶ松の梢󠄁を仰ぎ、いろいろの形に区切られた深い空に、暫らくの間、纏まらぬ感情を放散させていたが、やがて表に廻った。

 表は葬儀執行場になっていた。葬儀のすんだがらんとした部屋に四五人の友が、彼を待っていた。信作はそれらの人々の挨拶にいちいち叮嚀に応え、一緒になって歩き出した。信作はあまり口がききたくなかった。 がそれでも、なにかにと話しかけるのには、努めて受け応えを怠らなかった。

 北原のいた舎に上り、小一時間程茶を啜りながら雑談しているうちに、同じ電報で服部が上気した円い顔を現わした。服部は部屋に上りこむなり、上衣を脱ぎすて、手巾を出して顔中を拭きまわしながら信作に話しかけた。

鳴海なるみ、早かったな。」

「うん。だけど間に合わなかった。駅を降りると、馳足でやってきたんだが、あの坂の所で看護婦の飯沼さんに遭い、北原の死んだことをきき、がっかりしちゃったよ。それからゆっくり歩いて来た。急ぐだけ損だと思ってね。」

 信作は軽く笑った。服部は掌をうって笑った。一座は暫らくざわめいた。

「而し、こんなに早く死ぬとは思わなかったよ。この前来た時には、まだまだ一日や二日で死ぬとは思えぬ元気だったからなァ。」

「いや、どうせ死ぬなら、早い方がいいよ。苦しみが少いだけでもいいからな――。

 北原のやつ、今頃何処をうろついているかな。天国では入れまいし、地獄でも一寸手に負えんからなァ。 やはり懐手をしたまま、ふらふらしているんだろう。ははは……。」

 服部の冗談から座は弾み、北原が「癒ったら退室祝いに食うんだ。」と蔵っておいた見舞品の缶詰なども開けられ、二人は夕頃まで過し、晩飯の馳走になって病院を辞する頃は、もうすっかり黄昏れて、療舎には電燈の灯る刻限になっていた。

 夕靄の立ち罩めた雑木林を縫うて、細く続く白い径を、信作は、乾いた寂寥に黙々と歩いた。

 閑散な郊外電車に乗ってからも、信作は堅いクッションに凭れたまま、黙然と考え込んでいた。

「前科者同志の道行だね。」

 小声で囁く服部の諧謔にも、ただ歪んだ微笑を見せるだけだった――。

 信作は、服部や北原と同じ療舎に三年の病院生活を送った。口数の少い、どちらかと言えば内省的な、北国人特有の一徹な性格をもった信作には、北原に代るべき友は一人もいなかった。服部の明るい屈託なさを二人は愛し、三人は部屋の者とは違った空気を持っていた。服部は信作より半年程早く退院していった。それからは二人してその空気を戍り通した。

 信作は社会での生活に自信を持つことが出来なかった。ましてその寂寞とした不安にはとても耐えられぬと思った。が、幹子ができてから、二人での生活を社会の中に移し植えることにある希望がかけられ、それに病院での夫婦生活の不自由さも手伝い、二人は相前後して軽快退院したのである。間もなく東京の場末に二人は同棲するようになり、信作は服部の斡旋で或る器械製作場に勤めることが出来た。

 信作は一月か二月には必ず一度北原を尋ねた。千人以上も収容している病院の中に、一人の友もなく、只文学に専念している北原が真実気の毒であった。北原と語ることに由って信作の心も慰められた。幹子もそれを喜び、その都度、信作に手土産を持たせることを忘れなかった。その上幹子の友人に対しても一人一人言告けを頼み、それらの人々との交遊をいろいろと計った。幹子も屢々文通し、又彼女自身年に一度か二度出向いていったりした。時折一時帰省を得て出京する北原やその他の友人に対しても、幹子はあらゆる款待を惜しまなかった。

「私達も結局は、あの療養所に帰ってゆくんでしょう。左うすれば又あの人達にもお世話にならなければならないし、今のうちに出来るだけのことをしてあげるのが……。」

 幹子の気持は信作にも痛い程分っていた。そして今迄信作は努めてその幹子の心に沿うて生活をたててきたのである。

 不自由を忍んでの二階借りから今の借家住いに移り、家具や調度品も大分整備し、時々出て来る病友にも羞しくないもてなしができ、病院訪問の外にも、二人で一寸した散策に出られるという余裕もあった。それら生活の外延的方面に就いての計画は一切幹子が樹て、著々実行してゆく手腕には、信作も秘かに感心していた。

 家人に虚言を吐き、信作を追って退院した幹子は全く文字通り彼一人が頼りだった。信作はそういう幹子の心根が可憐でもあり、又彼女の暖かい性格に惹かされて、比較的平穏に暮すことが出来た。

 二坪か三坪に足らぬ狭い庭に池を造り、金魚や目高を放ち、花卉をあしらいなどして、夕饗の後、幹子と、縁に団扇に涼をとりながら、漫然と語り合う時など、信作は泌々とこれでいいのだと思うことが出来た。幹子の懐で眼を瞑ってさえ居れば、二人は幸福になれるのだ。そう思い幹子を愛撫した。

 而し、北原との交遊は、何時までも信作にそのような惰眠を許さなかった。北原を病院に訪い、病者の生活を眼のあたり直視した時、その熾烈な苦悩の焰は彼に反映し彼の心をゆさぶり、彼自身の生活に対する鋭い批判力をかきたてるのだった。

 療養所を終局の場所として、その上に建てられた社会での生活――確かにその生活は幹子の言う通り最も安全な方法であろう。萍のように、いつどうなるとも測り知れぬ病軀をもっている以上、根はやはり療養所におろすのが賢明である。しかし、それならば現在こうして営んでいる幹子との生活には、一体何んママの価値があるのだろうか――若し幹子の意見に従いそれを分析してみるならば、信作はそこからは、享楽虚栄、本能の満足、自己偽瞞等、あらゆる人間のもつ醜いもの以外には、何も見出すことが出来なかった。

 それなればどうすればいいのか――それは信作にもよくは分らなかったし、又強いて追求してゆくことに、漠とした不安と畏怖の念が伴い、躊躇された。

 北原が腸結核で入室する直前に、信作は彼からの手紙を受け取った。

「近く面会に来てくれるとのこと、嬉しくお待ちしている。自分は今下痢で臥床しているが、頭の働きは却つて冴えているようだ。

 僕は君にききたいのだが、君は生きてゆくことに就いて、最も重要なもの、それなしでは、生が全然無意味なものになってしまう、そういうものを忘れてはいないだろうか。僕は最近そのことばかり考えているのだ。それは固定した概念ではない。生と共に発展し、――いやそれ自身が生であるとも考えられるものなんだ。それは個人個人によって、まちまちな様相を帯びて現われる。がその根本は一つのものだ。僕はそれを生命の意志と称んでいる。

 若し、多忙と怠惰の為、生活の表面を上滑りしているようなことがあったら、君の為に実に遺憾である。 ――」

 それには前述の意味の如き事が書かれてあった。信作は北原を羨ましく、又妬ましくさえ感じた。幹子はそれを読み、

「私達も確かりしなくては駄目ね。」

 と、表面信作と一致したが、信作には、却ってそれがたまらなかった。

 北原の死は、信作に、北原への挽歌をうたう前に、彼自身の生活に対する反省と批判とを示唆した。それは信作にとって怖ろしいことだった。彼は激しい焦燥に、そっと窓外に眼を転じた。悉皆暮れ切った武蔵野の林を出て、電車は耕地らしい平原を駛っていた。

 信作の帰宅したのは、八時近くなっていた。膳を造って待っていた幹子は、玄関に彼の跫音をききつけると、急いで出迎えた。

「夕飯は食ってきた。」

 そう言い捨てると、信作は和服に替え、読みたくもない夕刊をとりあげた。幹子は素直に独り膳についたが、執拗にあれこれと、病院での容ママ子を問い糺すのに、信作は、

「黙って食えッ。」

 と奴鳴りつけた。呆気に取られた幹子は暫らく信作の顔を見戍っていたが、やがて俯向いて食べはじめた。信作は新聞を放り出し、戸外へ出たが、別に行く所とてなかった。近くの通りは縁日でもあるらしく、潮騒のような雑沓が、明るく渦巻きあがっている。腹をたてて飛び出したことが莫迦しくなった。幹子は勝手許にいた。なにもすることがない。なにをするのもいやだった。坐布団の上に長々と寝そべり、耳だけを聳てた。

「あら。もう帰って来ましたの。」

 幹子はエプロンの端で手を拭き拭き這入って来た。信作は幹子が傍に坐るのを待って、急に起き直り、荒々しくその頰に接吻した。

 幹子は、その行為に依って、燻った感情の蟠りが、きれいに洗いながされたかのように、朗らかな微笑をうかべた。而し、それは彼女が真裸になって彼の愛撫を受け入れる素朴な情熱ではなく、或る限度を堅く保っている、安易な、その意味で狡いものであることに信作は激しい嫌悪を感じていた。

 その晩、信作は幹子に今までにない激しさで、夫婦間の直接交渉を要求した。が、幹子の必死の抵抗に遭い、遂に断念した――幹子は妊娠を極度に警戒していた。分娩時の血の亢ぶりは病勢の急激な悪化に、決定的な影響を及ぼすからである。又産れる嬰児の将来を考える時、調節器の使用は彼等にとって道徳的な義務でもある。――此の理由を楯にとって幹子は決して許さなかった。病院を出る時二人はその事に就いて堅く誓った。若し不安だったなら、病院で断種の手術を受ければよかったのである。信作は大丈夫だと幹子に言い又手術を受けることを畏れてもいた。幹子は彼に手術を望んでいるらしかったが、強くはいわなかった――。

 調節器の使用は、信作も覚悟していたし、諦めてもいた。しかし、そうまでして続けている自分達の行為は、徹頭徹尾本能の満足にのみ終始している、頗るエゴイスチックなものになり、その醜褻さを思うことによって何時しか幹子との同衾にある憎悪を感じ、行為の最中にさえ動物的な欲望を制し切れぬ淫蕩な自分を、意識するようになっていた。

「あなたは、恐ろしい方だ!」

 長い無言の争闘の後、激しい恐怖と、強い衝撃に身を顫わせながら、瞭きり言った幹子の言葉は、信作を遣り場のない慚愧と焦躁に追い込んだ。

 翌日、信作は工場で一日中精密器械の製作に没頭した。根をつめた割に仕事ははかどらなかった。へとに疲れて工場を出た信作の頭は変に毒々しく冴え返っていた。

 帰途、信作は電話で服部を呼び出した。彼が下宿している八百屋の内儀さんは、すぐ服部を受話器の向うに立たせてくれた。

「おい、今晚暇か。」

「うん、今さっき帰って来たばかりなんだが、今夜はどうしようかと思案していたところさ。懐は寒いし、夜は長いってね。」

 服部は電話の中で笑った。その明るい声をきくと、信作は電話を掛けてよかったと思った。

「そりゃいい、どうだ一杯やりに行こう。以前お前に連れていって貰ったあそこがいいだろう。」

「へえ、こりゃ珍しい。で、又どうして、何かいい話でもあるのか。」

「よせやい。北原の供養か。」

 信作にも、そんな冗談が出た。

「じゃ、七時頃までにな。」

「よしきた。」

 ガチリと受話器を降し、服部との連絡が完全に断たれてしまうと、信作は何かある不安に突きあたった。服部と一緒に騒ぐことに淡い逡巡と後悔の念が胸を嚙んだ。信作は頸を振り、扉を排して舗道に立った。

 爪先を見つめたまま、信作はすたすた歩いた。


 紅や青のシエドを洩れる光線の交錯した黝い壁に、浮びあがっているくすんだ時計が八時をうつ頃には、もう服部は大分酩酊していた。熟柿のようにてかてかひかる顔を輝やかせて、のべつまくしたてているその唇端からは、だらしなく涎がながれ落ちていた。時々それを無造作に手の甲でこすりこすり服部はさかんに杯を傾け、気焰をあげた。

 まだ刻限が早いのか室内は割に閑散だった。彼等の陣取っている後の卓子には、会社人らしい三人連が、何か小声で話しながら飲んでいた。その外常連らしい酔漢が、窓際で女給と巫山戯ている。レコードが退屈そうに唸っている。

 服部の悪気のない一人機嫌に、女達もつりこまれてはしゃぎ立っていた。信作も何時になく酒量を過した。その上服部に無理矢理勧められた一杯のウィスキーが大分応えていた。が信作は酔えば青くなる性だった。女達は信作の気味悪く坐った眼先に辟易してか余り傍へは寄りつかない。そのうちに服部は十八番の蛮声を張りあげて「愛国行進曲」をうたい出した。女達もそれに和した。種々雑多な声が壁や天井にぶっつかりそれが一つの騒音となって四方からかぶさってくる。中でも服部の声はがんがん耳朶に響き、信作を圧倒した。

 信作は音痴だった。声を張れば調子外れになり、細いのでまるで泣いているようにきこえた。歌は好きなのでよく覚えた。それでも時折低唱する位で、人前では決して歌ったことがない。独りでうたっているところを人にきかれた場合など、女のように赤くなり、その憶病さに腹も立ったが、又情なくなった。

 が、服部の無邪気な唄声をきいているうちに、信作は無性にうたいたくなった。負けずに奴鳴り返してみたい、そんな反撥心も手伝っていた。而しまだ羞恥の念が根強く残っていた。信作は無闇と杯を重ねた。それにも拘らず、彼の頭は益々澄み徹り、コップや皿を振りまわしながら大口を開いてうたっている服部や女の姿が鮮明な陰影をともなって彼の眼底に烙きついてきた。到底自分にはあのようにはなれない。そう思うと信作は例えようもなく寂しくなっていた。どうしても酔痴れることの出来ぬ自分が呪わしくさえなった。哭き出したい衝動に馳られた。――しかしその衝動と共に、何物へとも分らぬ狂おしい反抗心が、鉛のように彼の心にしこってくるのを感じた。それは内部から彼をゆさぶり、もどかしさに、四肢をわなわなさせた。何かが吐けロを求めて体内を馳け巡っている。狂いまわっている……。

 信作はふと、卓子の端近く転んでいるウイスキーの瓶に、人の顔の映っているのを見止めた。それは極めて小さく、その上いびつに膨れあがっていたが、しかし明瞭りと彫り込まれていた。彼は眤っとその顔に見入った。そして、それが自分の顔であることを識ると、堪らない憎悪に、卒然立ちあがった。

 歌は「日の丸行進曲」に変っていた。女達はいつのまにか一人になり、頰紅と唇紅とを憎々しいほど濃く塗ったその年増女は、これも大分怪しくなった姿態で盛に手を振ってはうたっている。全然調和しない二人の声は妙に甲高い。信作は鳥渡躇らったが、思いきってうたに這入った。女は怪訝そうに信作の顔をみたが、すぐもとにかえり、しどろもどになった服部の酔態に笑いこけた。

 始めのうちは自分の声が、あまりに明瞭りきこえ、それが気後れとなった。が三節目頃から信作の声は段々高くなり、それと共に泣くような金切声になっていった。彼の声は決して聞く者に快い印象を与えるものではなかった。不自然に高かったり低かったりする調子外れの顫え声は、恰で自棄になって奴鳴りつけている神経質な女のようで、鋭く坐った眼と、青筋の浮いた額や顳顬の辺には怒気が漲り、引釣るように細く動く唇は蛭を思わせて不気味だった。

 信作は片手に杯を持ち、それをコツコツと軽く卓子に打ちつけながらうたっているうちに、いつしか四囲に対する危惧不安の念は流れ去り、浩然となることが出来た。彼はうたっている自分自身の姿すら思い浮べなかった。うたってやろうという心の緊張は、うたえたという充足になり、それもやがて淡れ、信作は只うたっているという快い安定と忘我の中に溺れていった。

 信作の瞼は軽く閉じられていた。詞はなんの意味もなく唇から流れ出る。それが快い顫律となって耳朶に響いてくる。――その循環する輪の流れの中で、信作の意識はバラバラに分散し、透明になり、そして膨れあがっていった。

 服部はうたに疲れ、ぐったり腰をおろした。そして信作を眺めた。肴核の既に尽きた狼藉たる卓上に、両手をしっかと構え眼をとじ、やや仰向いた信作の表情は不気味にも俊厳なものだった。が服部の酔眼はそれへの凝視に耐えず、ごろりと椅子の上に横たわるなり、忽ち睡魔に囚えられ、グウグウと鼾を立てはじめた。

 其の時、傍の卓子にどっと挙った喊声に、信作はぴたっとうたいやめた。そしてきょろきょろあたりを見まわした。その眼には何か重大な過失を犯した者のような濃い畏怖と絶望の色が宿っていた。そして危うく避ける幾人もの視線に突きあたると脅えたように腰を落し、周章てて帽子をかぶろうとしたが、帽子はその置いた所とは位置を変えていたので、なかなか見当らず、まごまごして、やっと探し出すと、今度は、女が持って来ておいた卓上のコップを取りあげ、透明な液体を息もつかず飲み乾した。一杯の水は彼を落ちつかせた。彼はゆっくり立ちあがり、服部に近づき、その肩をゆすった。

 服部は、悉皆参っていた。抱きかかえるようにして表に出たが、その腕の中で、又眠り痴けてしまう有様だった。

 思う存分好きな酒を飲み、いい気持になれば騒ぎたいだけ騒ぎ、そして、安心して眠ってしまう服部が、信作には羡ましくも又いまいましかった。やっと空車を拾い、階下の内儀さんにまで手伝わせて、二階につれ上げ、布団を引きずり出し、その中に服のまま転げ込んだ。服部は唇から涎れをたらしたなり、何か二言三言ぶつぶつ呟いたが、そのままいぎたなく眠ってしまった。

「どうもお騒せして……。」

「ほんとに、御苦労さんでした。」

 表に出ると、緊張したせいか、酔は薄ぎ、ただ頭のどこかがきりきり疼いていた。夜更の裏街は閑静そのままに、ひっそりしている。所々に点々と灯る暗い外燈の陰を、信作はポケットに両手をつっこみ、頸を垂れて歩いた。彼は時々思い出したように四囲を見た。産婆の広告燈が、眼に泌む赤さで、ポツンと宙に浮いている。仕舞い遅れた薬舗の電燈が白い帯のように通りに流れ出している。小さな物音が、いくつも寄り合って深い静寂を醸し出していた。建付けの悪い雨戸を洩れる黄色い光は徒らにもの佗しい。

 げき寂とした駅の構内に、轟音と共に走り込んで来た電車のヘッド・ライトは、爛々たる光鉾の中に、一瞬信作の姿を白金の明るさに照り出して通り過ぎた――。

 その晚、信作は家に帰らず、淫売宿で一夜を明した。堅い女の皮膚に、悔恨と寂寥を嚙みしめながら。


 翌る朝は、小雨が降っていた。濡れた舖道を信作は傘もなく、帰った。幹子は不安と、それの杞憂であることへの期待に、身を硬くさせて、彼を迎えた。

「昨晩は、どうなさいました……。」

「服部の家。」と咄嗟に嘘が浮んだが、急に強く思いかえし、

「淫売宿で宿ったよ。」

 そう言い放つと、何かさっぱりした気持になったが、

「嘘! ね、何処? 服部さんの所?」

「くどいな。夕は気がくさくさしたんで、淫売を買ってみたんだ。莫迦しい。」

 事実信作は、莫迦しかったし、またそんな所へ吐け口を持っていったことが、忌々しくもあった。

「頭が痛むんだ、布団を出してくれ。」

 幹子は少焉、疑念と畏怖のからみあった混惑のまま、彼を見戍っていたが、やがて信作の言葉が事実となって彼女の胸に喰い込んでゆくや、その恐ろしさに耐えられなくなり、布団を引き出し、服を脱ぎにかかっている信作の腕に、我武者羅にしがみついていった。信作はその手を強く払いのけた。が幹子は蹣跚きながら、又かじりついた。そして牛のように彼の胸に頭を押しつけて、哭いた。

「あなたは……。あなたは……」

 その姿体に信作は、強い憎悪と汚穢なものを感じ、荒々しく突きのけ、襯衣のまま布団にもぐり込んだ。ぺたんと俯伏したまま嘘唏いている幹子の声が、刺すように耳殻をうつ。信作はぐっと眼を閉じた。どきどきと脈うつ高い慟悸に全身を硬直させ、拳を握りしめた。幹子の声は絶え絶えに、いつまでも続いた。

「煩さいなッ――なにをいつまでも泣いているんだ。少しは眠らせてくれ。夕はちっともねやしない。」

「そんなこと知りません。勝手ですわ。」

 幹子は信作の声に、きっと起き直り、瞋恚に燃える眼を凝っと信作に注いだ。信作は黙って布団に顔を埋めた――。

 深い寂寥感がどっと突きあがってきた。誰が悪いのだ。俺か、幹子か、それとも二人共にか。否。否。誰も悪くはない。何も悪くはない。啻みんなが淋しいのだ。不幸なのだ。それを匿しあっている。欺きあっている――。

 信作は又眼を閉じた。ふと泣けそうな気がした。眼をしばたたいてみたが、瞼はかさかさに乾き切っている。涙など一向に出そうにない。

 被っている布団に息苦しさを感じ、彼は頭を投げた。幹子は簞笥の前に佇ち、何か調べているらしい。時々片手で鬢のほつれを搔きあげるその襟頸が白く透いて見え、憎々しいほど綺麗だ。先刻の取り乱した容ママ子は微塵もない。彼の脱ぎ捨てた服はきちんと衣紋竹に吊されて、長押に懸っている。彼は狭い部屋の中を見まわした。何もかもが整然とその場所を得て形付いている。鏡台、花瓶、人形、其れらは無言のうちに幹子を反映して、彼を威圧していた。「これだ。これが俺を窒息させるのだ。」

 信作は布団を撥ねのけ、

「おい、着物を出してくれッ。」

 振り向いた幹子の顔は、瞬間動揺したが、すぐ堅く立ち直り、素直に乱れ籠の中から畳んだ普段着をとり出し、羽織を重ね、彼の後にまわった。信作はその手から帯をひったくり、ぐるぐると巻きつけたが、さてそれからどうするという見当のつかぬ苛立たしさに、佇ったまま幹子の顔を見おろしていた。

 幹子は冷たく、その視線をそらし、

「なにをそんなに、私の顔ばかり見ていらっしゃるの。それよか、頭の痛いの、もういいのですか。」

 信作はその言葉に、剔るような残忍な憫笑と、侮蔑とを感じ、ぶるぶると全身をおののかせたが、むっと耐え、腰をおろし莨に火をつけ、一服喫んで――顔を顰めた。まだ顳顬のあたりはずきずきと疼き、後頭部は割れるように重い。

「痛いんでしょう。ねていらっしゃればいいのに、起きたって用もないんでしょう。」

 幹子の冷静な諦観のうちに、動物的な強い生活力が秘められており、それを意識的に糊塗する幹子のよそよそしい態度は、信作の神経には耐えられぬ刺戟であった。

 癩――その一線で、信作と幹子とは同体だった。それへの共通な恐怖が、今まで彼を長い間、怯懦の因とし、甘えさせていた。弱い自己、寂しい自己、儚ない自己、惨めな自己、それら凡ての貧困感を、その中に覆い匿して来た。而し、幹子にとって肉体的な疾病である癩は、信作にとって、精神的疾病であったのだ。何処に住もうが、何のような生活に居ろうが、癩は彼の中に到底消すことの出来ない烙印となって残っている。それから救われるには、啻彼が、もう一度人間として新らママしい自覚に到達しなければならない。癩を畏れてはならない。癩に甘えてはならない。新たな生命を自覚し得た時、癩は癩として、そのまま消滅するに違いない。そうなるには、その境地に到達するには、――

「あなた、もうお休みにならないんですか。頭が痛いんでしょう。お休みなさいな。……お休みにならないんなら、布団をたたみますよ。」

「うるさい。」 彼は突然、振り向きざま、幹子の頰を撲りつけた。あっと小さく呼んで蹣跚めく、頭といわず、顔といわず夢中で撲りつづけた。拳の両を避けて俯伏したまま、それでも凝っと耐えている幹子の剛情に、信作は堪らなくなり、傍にあった灰皿を取るなり、力一杯投げつけた。皿は幹子の頭にあたり、鈍い音とともに微塵に砕け散った。周章てておさえた白い指の間から、やがて真赤な血がにじみ出してきた。それは徐々に指間を伝わり、甲に赤い線を引いて、滴りおちた。幹子は凝っと痛みを耐えているのか、動かない。信作は後悔した。がすぐに後悔した自分に腹が立って来た。信作は大きく腕をふって戸外に出た。

 雨は止み、白く乾いた舗道には、黄色の薄陽が射していた。自転車に乗った小僧が、黙って、一直線に疾走っていった。

 信作は歩いた。が時々歩くことが厭になった。そういう時は立ち停った。が立っていても仕方がないので、又歩き出した。どの店にも客らしい人の姿は見えない。

 突然、紙をめくるように、日が陰った。街衢の相貌は一シンにして、暗欝となり、湿気を含んだ風が、颯と襟をかすめた。

 信作は、ゆっくりと歩きつづけた。物佗しい四囲の風光は、彼に昨晚宿った淫売宿を思い出させた。サイタ、サイタ、サクラガ、サイタ。黄色くくすんだ穢い壁に、幼い字でそんな文句が楽ママ書してあった。子供の字か、それとも子供と別れた無学な母親の手か。そんなことを、彼は夜っぴて考えていた――。ふと、その時、横手の露地からまぐれ出た一匹の犬に眼が留った。

 犬は尾を垂れ、何か物欲しそうな恰好で、下水板に鼻をこすりつけてくんくん嗅ぎながら、暫らく信作を同じ方向に跟いて来たが、何を思ったか、急に車道の中にふらふらとまがりこんでいった。が五六尺出たかと思う時、突然起ったけたたましい自動車の警笛に、憐れなほど吃驚仰天したかの犬は、尾をまるめ、ひらたくなって逃げ戻ったかと思うと、とある露地に、つと、その姿を匿してしまった。

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