日本海内竹島外一島地籍ニ編纂方伺
明治十年三月二十日
[編集]廿七日来
明治十年三月廿日
大臣 本局
参議
卿輔
別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件右ハ元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該國ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉此段相伺候也
指令按
(伺之趣)
書面竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事
明治十年三月廿九日
日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
[編集]日本海内竹島外一島地籍編纂方伺
御省地理寮官員地籍編纂莅檢之為本縣巡回ノ砌日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ別紙乙第二十八号之通照會有之候處本島ハ永禄中發見之由ニテ故鳥取藩之時元和四年ヨリ元禄八年マテ凡七十八年間同藩領内伯耆國米子町之商大谷九右衛門村川市兵衛ナル者旧幕府ノ許可ヲ経テ毎歳渡海島中ノ動植物ヲ積帰リ内地ニ賣却致シ候ハ已ニ確証有之今ニ古書旧状等持傳候ニ付別紙原由ノ大畧圖面共相副不取敢致上申候今回全島實檢之上委曲ヲ具ヘ記載可致ノ處固ヨリ本縣管轄ニ確定致候ニモ無之且北海百余里ヲ懸隔シ線路モ不分明尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ右大谷某村川某カ傳記ニ就キ追テ詳細ヲ上申可致候而シテ其大方ヲ推按スルニ管内隠岐國ノ乾位ニ當リ山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ本縣國圖ニ記載シ地籍ニ編入スル等之儀ハ如何取計可然哉何分ノ御指令相伺候也
縣令佐藤信寛代理
明治九年十月十六日 島根縣参事境二郎
内務卿大久保利通殿
乙第二十八号
[編集]乙第弐拾八号
御管轄内隠岐國某方ニ當テ従来竹島ト相唱候孤島有之哉ニ相聞固ヨリ舊鳥取藩商船往復ノ線路モ有之趣右ハ口演ヲ以テ調査方及御協議置候儀モ有之加フルニ地籍編製地方官心得書第五條ノ旨モ有之候得トモ尚為念及御協議候條右五條ニ照準而テ舊記古圖等御取調本省ヘ御伺相成度 此段及御照会候也
明治九年十月五日 地理寮十二等出仕 田尻賢信
地理大属 杦山栄蔵
島根縣
地籍編製係御中
原由の大略
[編集]磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周回凡十里許山峻険ニシテ平地少シ川三条在リ又瀑布アリ然レドモ深谷幽邃樹竹稠密其源ヲ知ル能ハス唯眼ニ觸レ其多キ者植物ニハ五鬣松 紫稱檀 黄蘗 椿 樫 桐 雁皮 栂 竹 マノ竹 胡蘿蔔 蒜 款冬 蔉荷 独活 百合 牛房 茱萸 覆盆子 虎杖 アラキパ 動物ニハ 海鹿 猫 鼠 山雀 鳩 鴨 鶸 鳧 鵜 燕 鷲 鵰 鷹 ナヂコアナ鳥 四十雀ノ類 其他辰砂岩緑青アルヲ見ル魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス鮑ヲ獲ルニ夕ニ竹ヲ海ニ投シ朝ニコレヲ上レハ鮑枝葉ニ着クモノ夥シ其味絶倫ナリト又海鹿一頭能ク數斗ノ油ヲ得ヘシ次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獣ヲ産ス永禄中伯耆國會見郡米子町商大屋(後大谷ト改ム)甚吉航シテ越後ヨリ歸リ颶風ヲ遇フテ此地ニ漂流ス遂ニ全島ヲ巡視シ頗ル魚貝ニ富ルヲ識リ歸國ノ日検使安部四郎五郎(時ニ幕名ニ因リ米子城ニ居ル)ニ彼趣ヲ申出シ以後渡海セント請フ安部氏江戸ニ紹介シテ許可ノ書ヲ得タリ實ニ元和四年五月十六日ナリ
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