日本文化の独立と普通教育
舎宅章 農業調度章 男女装束及資具章 機調度及織縫染事 馬鞍調度章 木工調度章 鍛冶調度字 田畠作章 諸食物調饌章 海河菜章
十巻本、廿四部、(百廿八類の細目は略す)
天地 人倫 形体 疾病 術芸 居処 舟車 珍宝 布帛 装束 飲食 器皿 灯火 調度 羽族 毛群 牛馬 龍魚 亀貝 虫豸 稲穀 菜蔬 果蕨 草木
廿巻本は三十二部に分ち、時令、楽曲、湯薬、官職、国郡、殿舎等の部が多い。この書は順の序にもある如く、その以前からある弁色立成、揚氏漢語抄、倭名本草、日本紀私記等を本として作られたのであるが、その目的は国語を本として国語に充つべき支那の文字を典拠ある倭漢の書籍から抽き出して類聚するといふことを主としたのである。俗に近く事に便にして、漢字を忘れた時に直ぐに捜し出せるやうにと作つたのであるから、その目的が既に新撰【NDLJP:205 】字鏡と異つて居つて、国語で表はされた知識を漢字で翻訳する主意である。それ故漢語の字音のまゝ、已に国語になつて居るものは磁石、礬石、沈香、浅香、香炉、錫杖などをばそのまゝに収めて居る。これによつても当時の上流貴族の学問の趨勢が、既に一種の変化を来してゐるといふことが分るのであつて、醍醐天皇の時代に古今集が出来たり、紀貫之などの国語の文章が出来たりしたのと、大体同じ趨勢の上に現はれて来た著述であるといふことが知られる。只併し乍ら此時はまだ主としてその国語の訳語として用ひた漢字も、多く支那の書籍に典拠のあるものを採つたのであるけれども、日本で出来た本でも、支那の文字との対訳に於て正確な典拠のあるものを多く抽き出したのである。
伊呂波字類抄、類聚名義抄 公家教育下 然るにその次の時代になると、国語を漢字で表はした語彙に編纂することゝして、単に漢字を便宜上借物として使用するだけであつて、典拠ある漢語に必ずしも限らぬ字書が現はれて来た。それは色葉字類抄、類聚名義抄の種類で、色葉字類抄は主に天養(西暦一一四四)より長寛(西暦一一六四)に至る二十余年間に編纂され、その後多少増補修正せられたのであつて、即ち日本で所謂院政時代の末期である。その編纂の体は左の二十部門に分け、天象 地儀 植物 動物 人倫 人体 人事 飲食 雑物 光彩 方角 員数 辞字 重点 諸社 諸寺 国郡 官職 姓氏 名字
いろはの四十七字の各字の中にその二十部門を各取入れるやうに組立てた。これが後世の節用集等まで継続した、日本語の字書としては最も便宜な方法として行はれたものである。類聚名義抄の方は菅原是善の纂修だといはれてゐるが、現存の書は主に仏者の必要から考へられたものゝやうで、全体を仏法僧の三部に分ち、その内容は仏法僧といふ意味に何の関係もなく、やはり玉篇等から来た偏傍の部類分けの仕方であつて、単に一字一字に出来るだけ国訓を詳しく入れたものである。鎌倉時代の仁治頃の写本から以後のものが伝はつてゐるので、平安朝の初期の面影は殆ど無いと云つても宜しい。これはその組立て方は新撰字鏡をもつと国訓の豊富なものにしたやうなもので、その時代精神を表はしてゐる点からは、色葉字類抄ほど著しいものではないが、只その時代に於て益々国訓の豊富を必要としたといふことだけはこれによつて分るのである。我々が今日から考へて興味を引くのは、日本の近代の字【NDLJP:206 】書は主としてこの二つの種類から成立つて居ることである。即ちその一種は色葉字類抄体がだん〳〵流れて節用集となつたこと。それから今一種は類聚名義抄のやうなものが、徳川時代に於てだん〳〵世俗通用の画引きの字引に変つて来たこと。この二つの国語字書が院政時代並に武家時代の初期より始まつて近代まで行はれたことが、歴史の時代と一致してゐるところが面白い。
庭訓往来 武家教育 これまでは大体に於て教育が貴族を主とした時代、即ち知識を盛つて居る教科書は支那輸入の書籍であつて、それと国訓との対訳を如何に利用するか、その仕方が段々漢字本位より国語本位に変つて来た経路を示すのであつて、以上挙げて来た字書類は字書だけでは教科書にはならぬので、教科書が別にあつてそれに従属して教育の用を便じた時代である。即ち以上が大体その前期の教育時代であつて鎌倉末期を極限とし、その以後は一大変化を生ずることになつた。即ちその変化は庭訓往来の出現によつて代表されてゐる。尤もこの往来といふものは由来は随分久しいものであつて、支那では六朝から唐の時代に書儀といふものが盛に行はれてゐた。日本ではその時代の代表として正倉院に光明皇后の御書の杜家立成といふものがあるが、その外にも之に類したものが行はれてゐたらしい。日本国現在書目録等にもその種類が数部挙げられてゐる。それが院政の頃になつて、明衡の雲州往来といふものから書儀の体裁が変化を生じて、それ以前は純漢文であつたのが、此頃から漢字を用ひた和様の文体が用ひられることになつた。即ちそれが新しい往来体であつたのである。併し明衡の往来はやはり主として公家貴族の往復文書の模範を示す為に書いたに過ぎなかつたが、庭訓往来がそれを主として地下、侍の必要から考へた往来とし、主に六位以下の人々の往復文軌範としたのが既に著しい変化である。これは伝ふるところによれば、当時の学者で学問の方から言つても古来の公家の学問たる漢唐の経学を一変して宋学を始めて唱へた北畠玄意法印の著作で、此人は後醍醐天皇その他天皇を繞る革命思想の公家達に尊信された新学の主唱者であつたが、往来の体裁に一大変化を加へた点に於ても教育上重大な結果を齎らしたのである。その一大変化といふのは、その体裁に於て公家の必要から地下、侍の必要に移つたといふのみでなしに、その内容に於て最も大なる変化を現はした。従来の往来は単に往復文書の軌範であつて、その中に当時必要な知識を悉く盛るといふやうなことはな【NDLJP:207 】かつたので、必要の知識は支那輸入の教科書が別に存在してゐたのであるが、庭訓往来に至つて往来の中に地下、侍に必要な知識の殆ど全部を盛つて、その外に教科書が無くても往来だけで当時に必要な普通知識を得られるやうに組立てたのである。この書は西暦一三二四年頃のものであるが、その中に盛り入れられた普通知識の項目を挙げるとざつと左の如きものであつて、
和歌 詩聯句 所領入部 田畠作物 館造作 樹木 市町興行 廻船 殖民{〈鍛冶、鋳物師、工匠、金工、染殿、綾織、蚕養、伯楽、牧士、炭焼、樵夫、檜物師、轆轤師、漆工、紙漉、唐紙師、笠張、簑売、船手、漁客、朱砂白粉焼、櫛引、烏帽子折、商人、沽酒、酢造、弓矢工、土器作、葺師、壁塗、猟師、田麻、獅子舞、傀儡子、琵琶法師、県御子、傾城白拍子、遊女、夜発、医師、陰陽師、絵師、仏師、摺縫物師、武芸、相撲、僧侶、修験、儒者、明法明経道学士、詩歌宗匠、管絃上手、声明師、検断所務沙汰人、〉 売買貨物 生物 塩肴 武具馬 馬具 織物 装束 楽器 政事 武家 儀式 仏寺 仏法〈禅、律、聖道、〉 法事 調度 飲食 点心 疾病
主に武家の必要なことが多く、即ち守護地頭たる人々の教科書兼字書として編纂されたのである。その中にも面白いことは武家が新しく城下町を形くる要素を詳しく述べて、その必要として集めるべき各種の職人やら人物を挙げて、小都会の要素を殆ど悉く含んでゐるが、その中に県御子、傾城、白拍子、遊女、夜発等まで挙げてあるのは、古代の殖民政策の模様を知るに足るものである。
この庭訓往来と殆ど同時に異制庭訓往来といふ書が出て居る。これは玄慧の兄弟で有名な高僧虎関禅師の作だと云はれてゐるが、この方にはその中に左の各種の部門の知識を含んでゐる。
戯論〈囲碁、双六、蹴鞠、相撲、〉 酒肴 茶 香 織物 珍宝 薬物 五穀 星占 兵法 武具 馬 馬具 内外典 書法 作文 詩賦 和歌 管絃 仏寺 画 器具 点心 法会
それから又、遊学往来といふものも同じく玄慧の作と云はれて、主に僧侶の教科書として作られた。この異制庭訓と遊学との二つの往来は庭訓往来に比べると、稍高尚な知識趣味を多く含んでゐるが、併し乍ら遊学往来は僧侶でも当時の碩学名僧などのやうな深遠な修学をする人々の必要から考へられたのではなく、大きな寺院等に集つて来てゐる、即ち叡山、三井寺、興福寺、さういふ処の衆徒に向つての教科書として作られたらしい。異制庭訓の方も中流の公家達の必要に応ずる如く作られたものであらう。此等の往来類は同時に行はれたので【NDLJP:208 】あるが、これによつて一面から観ると、日本の教育が漸々中流に広く及んで来て、それ等の人々は専門家の如く支那輸入の教科書に依る所の非常な高尚な知識を必要とはしないが、ともかく一般に知つてゐるべき課程が相当に殖えて来たので、成るべく簡易な教科書に依つてその知識を得やうとするやうになり、その中流の公家、大寺の衆徒、武家等が必要とする知識は、この新しい教科書によつて与へられるやうになつたのである。この教科書は即ち字書と合併したものであつて、その書き方には時々非常な奇抜な遣り方をしてゐることがある。例へば異制庭訓往来に織物とか珍宝等の知識を与へる往来として、それ等のものを最もたやすく集める手段としては偷盗に依ることが一番便利だと書いた。熟思身否運、立脱貧賤之禄、坐畳富貴之茵者、偷盗之事也といつて、其次に織物珍宝をならべ、不績之、不紡之、不織之して、山の如く貯へ、玉工でなくて塚の如く積み、医師でなくて薬品を泉の如く使ひ、農人でなくて五穀の倉を星の如く列ね、武家長者の如く兵器を持て居るのは偷盗に限ると大に礼讃した。勿論それはその次の返事の文に偷盗礼讃を反駁はしてゐるけれども、当時京都のやうな都などで都会に集つて来た富を野武士などの盗賊が掠奪する世相をその中に現はして居るところ等は、殆ど奇想天外といつても宜しい。要するにこの新しい教科書は日本の教育が支那の書籍から独立した時代を明かに劃したものであつて、この教科書が徳川時代の末年まで通じて一般に行はれた所以はここに存するのである。徳川時代には、庭訓往来は庶民教育にまで用ひられるやうになつたが、庶民等には稍高尚に過ぎるやうな文句なり知識なりが盛られてゐるのであるけれども、ともかく国語の上に盛られた知識を日本流に独立さした点が最も称讃すべき著作であつた。
尺素往来 公家教育の武家化 併しこの時はかやうな往来体の中に必要知識を盛つた教科書は、主として新しく興つた階級即ち侍とか中流以下の貴族、僧侶、さういふものに必要とせられてゐたのであるが、その後武家は益々勢力を得、足利以来、公家は益々衰微して来るところから、この教科書の体裁が公家にも応用されることになつたのが足利の中世即ち応仁文明の乱の頃である。勿論公家が古来の如く支那輸入の非常な深奥な難解な知識を以て教育されることの困難は、この以前よりだん〳〵感じられてゐたものと見えて、南北朝時代即ち北朝の延文(西暦一三五六)年間に亡くなつた洞院公賢の編纂したと称せられる拾芥抄といふものがあつて、これは部類によ【NDLJP:209 】つて九十九部に分けた簡明なエンサイクロペディアである。この書を見れば当時公家に必要な一通りの知識は悉くその中に含まれてゐる。公賢は官太政大臣にまでなつた人であるから、勿論これは上流の公家の為に作つたのであらうが、上流の公家さへも既にかゝる簡明の類書を必要とするやうになつて来てゐることがこれで分る。その後百余年を経ていよ〳〵公家も亦往来体の教科書によつて教育されることになつたので、その代表作は即ち一条禅閣兼良の尺素往来である。著作の年月も精密に調べれば分ると思ふので、その中に四月二日に日蝕の皆既があり、十月十四日の夜は月蝕があつたと書いてあるので推測することが出来る筈だが、まだ自分は調べてない。この尺素往来は前の庭訓往来の体裁を全く襲用したので、その中には公家に必要な知識を主として盛り入れてゐるが、武家全勢の時代であるから勿論公家も武家のことを知る必要が出来て来た処から、それ等の武家の知識をも取入れて居るので、当時の時代に相応した教科書と云つてよいものである。その項目は大体次の如くである。朝儀 武家儀式 鷹狩 茗品 香品 食味〈四足、二足、名酒、〉 囲碁 将碁 双六 祭礼 名馬 弓矢 甲冑 刀剣 勅撰歌集 物語 墨跡 梵字 経史詩文集 律令格式 蹴鞠 犬追物 笠懸 田楽猿楽 声明 舞楽 神楽催馬楽 医薬 合薬 天文 祈祷 本領 相論 武家官位 法師官位 廿二社 四ヶ大寺 八宗 五山 七堂 前栽 山水立石 器財 禅録 眠蔵雑具 和漢絵 屏風障子 絵具 請僧 粥汁 点心 茶子 本膳 菓子 布施物 葬礼 忌日
要するに此時代に於ては、公家の零落よりして、公家は復た前代の如く支那輸入の立派な教科書に依つて教育される力も便宜も無くなつて来たので、やはり武士式の往来体の教科書に依つて必要な知識を与へられねばならぬやうになつたのであつて、これは公家からいへば全くその階級の堕落であるが、日本式の教科書即ち普通教育の歴史よりいへば、こゝで上流から中流まで悉く国語本位、日本を主とした知識を本位にした教科書が完成したのであるから、教育の独立が殆ど完成したといつて宜しい。
庭訓往来以来、尺素往来までの時代を概観し、又尺素往来と殆ど同時若しくはそれより少し後までに出来た新札往来等を見ると、その文化の変遷を見る上に於て重要なことが殆ど悉【NDLJP:210 】く含まれてゐるので、例へば異制庭訓往来、遊学往来などからして既に聞香の流行してゐることを知ることが出来、尺素往来などの時代に至つては香は勿論、売薬の現出といふやうなことが分る。売薬の現出といふやうなことは文化の上より見た一種の世相であつて、支那の専門の方書或は本草書などを読んで、医術を学問的にやることは一般の需要に間に合はぬので、当時支那に於て盛に一般民衆の需要としてはやつて居た合薬の必要が現はれて来たのである。その他学問に於ても公家の従来やつてゐた漢唐の学問以外に宋学が入つたことも現はれて居り、又漢唐以来の諸道の学問が当時の戦乱によつて多く失はれた中に、僅に残つたところの書籍の名目なども見えてゐる。日本の文化が支那伝来の豊富に過ぎる知識を失つて、真に日本の当時に必要なものだけを僅かに保存し、それだけが日本の国民の必要な文化として残されてゐる状態が此頃の往来の上によく現はれてゐる。
此等の往来が当時一般に行はれ、時としては他国にまでも行はれたことも色々な証拠によつて分る。例へば文安年間に出来た下学集といふ僅に二巻の類書であるが、その序文には庭訓雑筆等の往来が当時行はれてゐたことが書かれてある。それが実語教、童子教、又は白楽天の長恨歌、琵琶行などとも共に行はれてゐると下学集に見えて居ることによつて、一面には中世以後、庶民教育の基礎を据えた寺小屋が既にこの時代に現はれてゐたといふことが考へられ、一面には又白楽天の詩等の如く昔は上流の人だけに読まれたものが、庶民にまで読まれるやうになつて居ることも推し測ることが出来る。明の成化五年に出来た朝鮮の経国大典といふ制度の書にもやはりこの庭訓、雑筆等の往来を、倭学の教科書として、訳司が習つて居ることを載せて居る、以てその広く行はれたことを知るべきである。
商売往来 庶民教育、普通教育の完成 これまでは大体足利時代までのことであつて、その教育には庶民も幾らか関係してゐるけれども、教育の目的はやはり武家までを主としたのであるが、その次の徳川時代になつて、全く庶民を目的とした教育が起り、その教科書も亦現はれて来た。その教科書中の最も重要な者は即ち商売往来である。これは往来の体裁としても既に著しい変化で、尺素往来まではまだ多少往来としての体裁を備へて居て、即ち往復文書の軌範であるが、商売往来は往来とはいひながら往復文書では全くなく、始めから終りまで一つの文章である。尤も往来の体裁を破壊したものが出来たのは、商売往来に始まつたのでなくて、足利時代の新札往来よりし【NDLJP:211 】て既にその傾向があるけれども、新札往来はまだその文の始めは年頭状の体裁を以て書かれ、終りは書状に普通な結語を以て止めた処は尺素往来と類して居るが、商売往来は更にその体裁を一変して、始めも終りも書状の体裁をなして居らぬ。これは多分徳川の中期即ち宝永から亨保頃までの間(西暦十八世紀の初期)に出来たらしいと云はれてゐるが、商人に必要な知識と文字とを悉くその中に盛り入れようと考へたので、先づ貨幣の事並にその真贋、穀物の事、その運賃、水運、口銭の事、飲食、文具、絹布、外貨、衣服、調度、染色、文様、武具、馬具、細工、唐物、和物、珠玉、陶磁、漆器、雑具、厨房具、薬種、香具、山海魚鳥等、商人が取扱ふべき以上の品物の名目を悉く列ね、商人の教育としては幼稚の時から先づ手跡算術を主とすると書いてあるが、算術といふことが教科書としての往来物にこゝに至つて始めて現はれたので、ともかく教育の要件は以上の項目に含ませ、その次は趣味の教育の項目として次の如く挙げてゐる。歌、連歌、俳諧、立花、蹴鞠、茶湯、謡、舞、鼓、太鼓、笛、琵琶、琴、
又その次には趣味が放漫に流れることを戒める項目として、
碁、将碁、双六、小唄、三絃
を始め、衣服、家宅を餝り、泉水築山、樹木、草花の楽のみに金銭を費すことは、無益の至、衰微破滅の基かといつて居る。さうして最後に商業道徳の項目を挙げ、高利を貪り人の目を掠める者は天罰を蒙り、重ねて訪ひ来る人稀なるべし、天道の働を恐るゝ輩は終に富貴繁昌、子孫栄花の瑞相なり、倍々利潤疑なし、仍て件の如しと、僅か千字余りの中に商人に必要な知識、趣味、道徳、悉く含んでゐるといふことは、実に簡明にして要領を得た、古今の教科書中の名著といふべきものである。この教科書には漢字制限などのことを少しも言はぬが、自然に漢字制限も行はれて居る。さうして最も不思議なのはかくの如き名著の作者が少しも分らぬことである。随分相当に知識を持つた人であるらしいので、今日の初等教育者でこの教科書中に含んでゐる名目の解釈を充分に為し得る人は、千人中一人も有るかと思はれる位である。その時代に相応した教科書を作つた手際は、実に驚くべきものと言はねばならぬ。これは全く庶民教育の為に考へられたので、こゝに至つて日本の教育は上流からして最も低い庶民、しかも徳川時代に於ては商人は四民中でも最も下の階級であつたのであるから、その最下級まで教育が及ぶことになつたので、普通教育の完全なる独立、完全なる普及を併せ示したものである。尤もその後になつて商売往来を真似て作つた諸職往来とか農人往【NDLJP:212 】来とか百姓来とかいふ種類のものも色々出来たが、皆商売往来を手本にして作つたものであるから、徳川時代の庶民教育の代表的教科書としては、先づこの商売往来を挙げねばならぬ。又その外にも地方的教育の必要から、京都往来といふものが延宝二年(西暦一六七四)に出来、引続き江戸往来、大阪往来といふやうなものまでも出来て、公家、武家の都、并に商業の都の必要知識を与へるやうになつてはゐるが、それ等をも皆加へて見ても、商売往来は最も普通知識の教科書として抽んでたものである。
以上に述べた如く日本の国語による普通教育の独立といふものは庭訓往来に始まり、商売往来で完成したといつてよいのであつて、日本が支那文化を受けて自国の文化の発達を始めてから、その教育の独立完成までには随分永い年数を費したので、殆ど千三四百年を経てゐるのであるが、その間各時期に於ける徐々にして且健実なる進歩の跡を顧ると、日本の国民性の完成の歴史がわかる処に興味もあり、其の歴史の回顧は我々に取つて極めて重要なことゝ云はなければならぬ。従来かういふ方面から日本の文化の独立を観察するといふことは、余り多く注意せられて居らぬので、自分は殊にかういふ研究の仕方をして見たのである。
(昭和五年三月九日木津公会堂にて京都府教育会相楽郡部会の為め講演)
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