日本女性美史 第二十話

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第二十話[編集]

淀君[編集]

豐臣秀吉とともに榮えて、その死後、歷史をつくる一女性となつたものは淀君である。
淀君の生ひ立についてはすでに、淺井長政の妻のくだりに述べた。淀の邸に秀吉と逢ふ瀨瀨を樂しんでゐた淀君は、秀吉の天下を取つたのちにいよいよ榮えた。ついでながら、ここに妹のことを記しておかうなら、小谷の方の二女は京極高次に嫁し、三女は德川秀忠の夫人となつた。
淀君の畫像が、京都の養源院にあるが、ほん物かどうか判然としてゐない。然し、母の小谷の方は絕世の美人で、父の長政がまた美男であつた。美人の父は美人型に出來てゐるもので、ほんとうの美男とは反つて勝家や秀吉のやうなのを云ふ。さればこそどちらも美人に好かれた。さて兩親の子だから淀君の美しさはまた格別である。淀君の眽を見てゐたので史上に名ののこつてゐる曲直賴道三の書きのこした配劑錄によると、彼女はしばしば氣がふさいで、目まひがして、胸がつかえて、食が進まなかつた。そしてよく頭痛に惱まされてゐた。一時代前なら物の化(け)と稱して御祈禱するところだが、淀君は總明だから科學の力にたよつた。然しどうも神經質で、自分で病氣を昂進させてゐたらしい。
天正十七年、鶴松を生んだが、三歲で夭折した。秀吉が文祿元年、朝鮮征伐をしたのは、そのうさ晴しのために、かねての計畫を早目に實行したのだと云ふ說まである。翌、文祿二年八月、淀君また男を生む。名は拾(ひろひ)。のちの秀賴である。
淀君は秀賴の養育に心を盡した。文章博士舟橋秀一をして貞永式目を手寫せしめ、且つ假名にてその註釋を書かせて秀賴に讀ませた。また、三略、藤原抄を秀賴のために手寫させ、貞觀政要、吳子、大學、聖德太子憲法などの講義を秀賴に聽かせたりした。このほか樵談治要、二十一代集の講義も聽かせてゐる。すべて秀賴、幼少年時代の敎育の仕方である。昔は子が賢こいと見たら非常にむつかしいものを覺えさせて親の方が滿足してゐた。淀君もそのやうな母の一人であつたらしい。
とかくするうち、秀吉も死に、關ケ原の戰も終つて、德川家康が將軍となつた。家康潮時を見て駿府に去り、秀忠が二代將軍となつた。これで世襲の基礎も成つたのだから、もう豐臣家の再興される望も無くなつたわけだが、淀君はそれでもまだ秀賴の天下人になる時を夢みてゐた。しかもそれは彼女一人の夢ではなかつた。天下いまだ豐臣家に心を寄せる豪傑少なからず、且つはおのれの不遇をかこちて、おのれ德川、今に見ろと心中に期するもの一、二に止まらなかつた。いかにいはんや、淀君は、秀吉が死にのぞんで家康に秀賴のことを賴んで安心したことを、まざまざと見て知つてゐる。かかれば淀君、秀忠將軍となつてのちもいやしくも家康に對してひけ目を感ずることなく烈々たる精神を藏ひてゐた。秀忠が將軍になつた時、家康は秀賴に上洛をうながしたが、淀君は頑として應じなかつた。もし强いて京都にお祝に行かせる氣なら、秀賴を殺して自害するとの決心まで示したので、家康も强いてとは云はなかつた。慶長十六年、家康上洛して秀賴との會見を求めた時も、淀君は容易に聽かなかつたが、加藤淸正、福島正則らが切にいさめたので、やつと二條城の會見となつた。
そのころ方々の社寺、修理のことに力をつくすや、淀君は請にまかせて社殿佛閣のための金を寄進した。一つはこれによつて、豐臣氏再興の祈願をこめたのであらうとの說もある。
その造營寄進の一つに大佛殿再興の大工事があつた。
慶長十九年、大佛の鐘銘文の末尾に「君臣豐樂、國家安康」と句を撰んだことは家康を怒らせた。自分の名前を二つに割つたのがいけないと云ふのだが、こんなめでたい句に使はれた冥加のほども考へればよいのに。しかも、ここは安泰よりも安康の方がすわりがいゝので、吳子と云ふ本にも「安康社稷」の用例がある。最も家康の云ひ分は、上の四字一句が「豐臣を君として樂しむ」の心をひそめ、次の一句で家康の胴體をまツぷたつに斬つたことになつてゐる、それとしか受けとれぬ、と云ふのだ。ちと橫着な解釋だが、この怒は前々からのいろいろの抒情因緣のつながりであつたので、且元いかに辯才に長ずるとも、もう、家康の肚はきまつてゐたのである。
それはさておき、豐、德、双方の間に交涉が重ねられ、片桐且元駿府に使して大に辯疎したが家康は聽かない。歸つた且元は三策を提示した。大阪城を退くか、(家康は秀賴がこの天下の名城にこもることをおそれた)秀賴が江戶に住むか、淀君が人質として江戶に行くか、である。どれか一つをとれば或ひは家康をして兵を用ひるにいたらしめなかつたかも知れない。
淀君はこの三策を見て怒つた。頭痛が起つた。どの一つとて命にかけて實行のできぬことばかりである。
然し彼女はどこまでも才に銳かつた。且元が尙も駿府に入つて交涉中、大阪城內女中切つての利け者、大藏卿局に外の局一人をそへて、家康の愛妾阿茶の局に談じ入れさせた。家康の應待甚だおだやかであつたので、大藏卿局はだまされとも氣付かず悅んだ。大藏枢卿局の方が先に大阪に歸つて、家康からの傳言として、「淀君は女のこと、秀賴は若年(と云つても、この年には二十を過ぎてゐる)なれば家康はちつとも心にかけておらず、安心あれ」と、復命したので淀君もすつかり安堵してゐた。そこへ且元最後の復命である。淀君はそのほか左右の小人ばらの、家康に踊らされてゐるにも氣づかず、良臣且元の獻策を根本的にとり上げず、反つて且元を害しようとまで計つた。淀君の單純にして小ざかしきこと凡そ知るべきのみ。
家康は決意して百三十萬の大兵を派し、大阪城を攻めさせた。秀賴につく大名とてはなかつたが、大阪城は秀吉の據城、もとより一朝一夕では落城しない。眞田幸村、木村重成ら力戰してよく防いだ。片桐且元は淀君をうらんではゐたが敵とする心もなかつた。ところが息子の孝利が家康方についたと知つて、自分も家康の軍に加はりもつぱら大砲を大阪城に擊ち込んだ。
淀君はみづから城中を巡視して、將士をはげました。この間、家康は城の容易に落ちないのを見て、京極宰相高次の母常光院、卽ち淀君の妹に、淀君へ降伏勸吿の手紙を送らせた。その文句が振つてゐる。家康は但馬、岩見の金銀山から金掘あまた呼び寄せてゐる、それらの金掘が着くとお城を地下から掘り崩す計略だから今のうちに和議を考へなさい、と。これはもちろん問題とされなかつたが、家康からの正式の和議條件の第一條は、秀賴の居城、領邑、前々通りとあり、その評定の最中、淀君のゐる鄰室に且元の擊ち込んだ大砲の彈が破裂して侍女を一人殺したので流石の淀君も戰意ひるみ、眞田幸村等の客將大〔ママ〕に反對したるも及ばず、遂に和議は成立した。
冬の陣の和議に反して大阪城外の堀は內、外とも埋められた。士卒數萬、一氣に埋めたのである。かくて、翌、元和元年の夏の陣となつた。夏の陣は豐臣方の慘敗であつた。淀君は秀賴とともに自害して果てた。秀賴二十四。淀君は四十五と云ふ說と四十三と云ふ說とあるが、どつちにしてもまだ美くしい盛であつた。

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