日本女性美史 第二十四話

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二十四話[編集]

江戶時代の女性(二)[編集]

八代將軍吉宗は學問をはげみ、儉約質素をすすめた。その治蹟は享保の治として稱えられてゐる。享保も二年のころはまだ元祿時代からの弊風がつたはつており、この年出版の「世間娘氣質」の一節に
「昔は女の烟草のむこと遊女の外はけがにもなかりしことなるに、今、烟草のまぬ女と精進せぬ出家は稀なり」
とある。
吉宗は先づ身をもつて質素の範を示し、進んで社會の風習改革につとめた。享保三年五月、令して町人男女衣服の華美をいましめ、九月、女子の銀櫛を禁じ、そののち、つぎつぎに、節句、祭禮の華美な飾物を禁じ、くり返して大名婦女衣服の金絲縫をはじめ、夜具、挾箱の覆いにいたるまで華美を嚴禁した。
當時若い男女の情死が流行してゐたのを概して、男女申合せて情死したるも一方存命ならば下手人、双方存命ならば双方とも三日間市中に晒したる上、非人とする、と定めたので、情死は一時その途を絕つた。
それほどに世は改まつたのに、吉宗、家重を經て家治の世ともなれば、再び奢侈情弱の風が一世にびまんした。大名が遊女を請け出した。津輕の藩士が情死し損ねて非人におとされた。凡そ德川幕府の武士は、少數の高祿を食む者をのぞいては、概ね微祿であつたのに、世間の奢侈は止まるところを知らず、わけても江戶住居の諸藩士は生活がなかなか苦しかつた。中、小の藩にあつては、或は藩札を亂發し、或は苛歛誅求したので、潘によつては百姓一撥に惱まされた。
かかる一面、町人の金持は、大名、旗本、御家人、武士一ぱんに金を貸して元利で大に儲けてゐた、主人の暴富につれて番頭手代の類も奢るやうになり、風儀は亂れる一方である。
享保のころ、一時さびれた歌舞技も盛り返し、役者も豪勢な暮しに耽り、作者、ひいきとの交遊ぶりも目に餘るほどであつた。而してこの世界の華やかさを、舞臺に、似顏繪に衣裳に陶醉する者は市井の女性であつた。役者模樣、役者染が流行した。女の外出に菅笠をかぶることはすたれて、色はなやかな繪日傘が愛用されだした。のちの世に江戶の浮世繪として千萬金に値するにいたつたものが、店頭にかけられて子女のなぐさみ用とされてゐたのである。鈴木春信、石川豐信、鳥居淸信など、いづれも家治將軍のこと、卽ち、寶曆から明和にかけて江戶に聞こえた浮世繪の作者であつた。
家治の下、老中田沼意次(おきつぐ)の惡政あり、賄賂公行した。武家は墮落し、町人いよいよ奢りつつあつた。次の家齋將軍の下、松平定信老中となつてまた儉約を勵行した。奢侈品の淸藏販賣を禁じ、淫靡の風俗を嚴禁し、たとへば錢湯における男女の混浴をとどめた。
定信の革新政治はその在職中から江戶市中の怪しからぬ落首によつて痛罵されてゐた。
白河(定信は白河の松平氏をつぎたる人)の淸きに魚のすみかねて元の濁りの田沼こひしき
にいたつては市井愚民の心もくさり果てたと申すべきである。されば定信、職を退くや反動的に世人またもや逸樂を追ふにいたり、文化、文政のころともなれば町人ますます奢るの風があつた。八百善で極上の茶を飮ませるとて、わざわざ玉川から水を取り寄せたとの風說の出たのもこの時である。京、大阪の風俗、文化、またこの弊風をならひ、大阪市中、男の繪日傘、錦繪などが流行の中に數へられた。
かくて、水野越前守の改革政治、それにつづく黑船の渡來、そして德川幕府の倒潰となるのであるが、この間の世のありさまを、女性の姿と生活を通じて見るとしよう。


森山孝盛(たかもり)と云ふ人の著はした「賤のをだ卷」と云ふ本がある。この人は寬政年中、幕府に仕へて小普請組頭から徒頭となり、更に目附に拔擢され、盜賊改加役を兼ねてゐた。國學に長じ、和歌をよくした。
この「賤のおだ卷」には、世事、風俗の變遷を面白く書いてある。自分のことを「翁」と書き、思ひ出話の形になつてゐるから、ここに書かれたる世相、風俗は、およそ八代將軍吉宗のころでもあらうか、奢侈の風尙ほ止まなかつた時代のことである。その中から、もつぱら女性に關するものの大意を記すこととしよう。
「翁の姉に當る人が、大久保伊兵衞(五百石)、大御番(普請關係の役坂井飛驒守組)と云ふ人の許へ嫁入した。道具の日の役遺、婚禮の腰迎(花嫁の輿(こし)を出迎ること)腰おくり(花嫁の輿について送つて行くこと)などの作法、さては聟入(むこいり)(始めて妻の生家に行くこと)舅入(舅が息子の嫁の實家を訪づれること)の時の太刀、馬〇〔一文字不明〕の取かはし、何もかも、當時の小身では文不相應のはでなことで、曾て見なかつたほどのものであつた。さて一年ばかりして、大久保氏に妾のあることがわかつたので、夫婦の仲が惡くなり、遂に當家からの申入によつて姉を取戾した。先方からは、道具はもちろん、(嫁入に持つて行つた)お土產金六十兩をつけて使者を立てて仲人のもとへ返して來た。さて、この結婚の仲人は翁の父の甥に當る一、卽ち翁のいとこであつたが、生憎不在だつたので翁の父がお預りすることにした。この時分は諸事はでだつたから土產金も一年もたつたのちだに全額戾つて來たが、當節(卽ち寬政年中)は夜目よりも土產金の多少を論じ、不緣で戾る時には、聟の方では成るべく返さないと口實を申立て、嫁の方では土產金の戾るかどうかの心配ばかりしてゐる。恥かしいことである」


「昔は女が帽子をかぶつて步いた。錦帽子は三四十以上の女がかぶるもので、若い女は白に紅のうらを付けてかぶつた。それを止める針は銀で、いろいろ意匠をこらし、ひいきの役者の紋を打たせて悅んだりした。また、櫛の前に倒れぬやうにと、櫛おさへと云ふものを差したが、これも銀で、役者の紋などを打たせたものである」
「昔の女は、外出のとき、かつぎと云つて、布で身覆ふて步いた。今でも京都では女はかつぎを着る。木にてわくを作り絹をかけるのである。昔は江戶でも流行したが、ある年、芝增上寺で、間(はざま)門三郞と云ふ者、女の眞似をしてかつぎをかぶり、法話を聽く聽衆の中にまじつて、松平伊豆守を狙つたので、それ以來、女のかつぎは停止となつた」
「寶曆のころ(家治將軍の初期)衣類の色はすべて丁子茶で、五寸模樣(模樣の一つ一つが差わたし五寺もある、と云ふほどの意)が流行した。櫛は朱塗の山形で橫に長かつた。子供は花かんざしを差したが、これは吉原の禿(かむろ)の頭を眞似たのである。象牙の櫛も流行したが、それには美しい蒔繪がついてとても綺麗であつた」


享保年間に(吉宗將軍の初期)出板された「とはずかたり」は大阪の儒者中井甃庵の著である。この中に、そのころの田舍女子の純朴なりしさまを思はせる佳話がある。大意をかかげる。
「播磨の國に孝女があつた。八十に餘る姑が病に臥して命且夕に迫つてゐた。孝女は早くからやもめになつて、二人の子を養つてゐたが、きわめて貧しいうちにも姑にはよく仕へて食膳もよくととのへて出してゐた。ある時、子の一人が、よその村の他人の山で柴を苅つたとて村人に縛られ、ひどい目に會はされ、果ては殺されようとしてゐた。孝女の村にそのことが知れたので、庄屋が心配して孝女の家に行き、わしも一緖に行つてあやまつてやるから、すぐに行かう、とせき立てると、孝女が泣きながら云ふことには、姑の命が今夜まで持つかどうかもわかりませぬ、子の捕へられた村まではとても遠うござりますれば、私のまゐりました留守に姑は死ぬかも知れませぬ、さぞ死ぬ時つらがることと思ひますと、とてもあの村まではまゐられませぬ、とのこと。庄屋は哀れがり、自分一人で出かけて、母親のことを話し詫びてやつとその子を返してもらふた」

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