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日本国民の文化的素質

 
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日本国民の文化的素質
 
 今日申します演題は「日本国民の文化的素質」斯う云ふ風な事を申上げることに致しましたのですが、私は此の問題は前から種々考へて居りますけれども、もう少し悠り考へを纒めようと思ひまして、今日迄何処でも之に就いて講演したこともありません。此の中の極一部分の事に就ては、多少言つたことはありますけれども、大体此の問題に就いては講演したことはありません、勿論まだ私の考へも十分はつきり纒まつて居ないのであります。又十分はつきりした詳しい材料の蒐集も出来て居りませんが、此の会が幸に杉浦先生の記念の会でありますから、兎に角斯う云ふ問題を、恐らく先生が生きて聴いて居られても、お叱りは蒙るまいと思ひまして、斯う云ふ問題の最初の講演を試みて見度いといふので、それで斯う云ふ題目に致しました。まだ十分考へを練つて居りませんから、定めし論旨にも支離滅裂の事があり、お聴き苦しい所もありませうし、御非難の点もあるかとも思ひますが、それは御遠慮なくお訊ねを願ひます。さうして私もだん之に関する考へを纒めて見度いと思ふのであります。

 此の数年前から考へましたことは、凡そ国民の文化的の素質、即ち或る国民が文化を持つべき素質があるかどうかと云ふ事を考へるに就て、之を吟味する方法が先づ第一に考へらるべきであるといふことであります。今日でも世界に色々な国がありまして、各々相当な文化を持つて居りますが、然し其の根本から自分の国で自分の文化を発生して居る国民と、でないものとがあると思はれます。日本などは時として此の後の方の、文化を持たない国民の様に誤解される傾きがあるのであります。現に日本には支那の留学生が沢山来て居ります、支那の留学生は盛んに日本に来て研究した揚句、往々にして軽蔑した考へを持つて居ります。それは何かと申しますと、日本は今日大いに進歩した国のやうに自惚れて居るけれども、日本と云ふ国は元来維新前迄は、自分の国即ち支那の文化を取り入れたのではないか、さうして明治以後になつてから欧羅巴の文化、殊に最近に於ては独逸の文化を丸呑みにして居るのではないか、何も自分の文化を持ち得ない国民で、少しもそんなに尊ぶには当らない、日本が非常に勢力が強くて盛んでも、若し之が亡びたら、後には何も残らない国であるが、自分の国は大したもので自分の文化を持つて居る、自分等の持つて居る文化は、今日の進歩して居る国、古来進歩したどの国に比べても決して劣らないものを持つて居る、其の点オープンアクセスNDLJP:192 で日本よりも遥かに自分等は優秀な国民だと云ふ事をいふ者が多くあるのであります。之は相当な理由のあることでありまして、日本の真の歴史、つまり真の文化の根本を知らずに日本の事を考へると、確に斯う云ふやうな考へになり得るのであります。然し私は左様ではないと信じて居るのであります。が、然しさうでないと信じた所で、それを立証すべき確かな事がなくてはならぬと思ひます。

 無理に之を立証しようとして、我国は二千何百年経つて居ると云ふやうな、有りふれた、日本人が普通に自慢する様な歴史を言つたのでは、さう云ふ支那人などの連中はなか承知しないのであります。さう云ふ事から私は先づ第一に、それでは世界に、文化を持ち得る国民と云ふものが、一体どう云ふ条件を備へて居るかと云ふ事を考へる必要があると思ひました。で、先づ其の点から云へば近い所で支那であります。私は沢山の国民の歴史を知つて居る訳でもありませんが、先づ支那の如きは文化を持つて居る国民であります。それから印度、印度はやはり之も誤解され易い国でありまして、今でも印度人は未開な様に思ふ人などがありますけれども、やはり立派な文化を持つて居ると思ひます。それから今日種々の国民より成る欧羅巴の文化で、今日の伝統を為して居るものはギリシヤ以来の文化でありますから、先づギリシヤ人の持つて居る文化と云ふ様なもの、又アラビヤ文化、ペルシャ文化と云ふ様なものもありますけれども、私はまださう云ふ国々の事を十分考究致しません。先づ私にわかる範囲の国民の事を考へまして、さう云ふ国々が文化の条件として持つて居るものが、どう云ふものであるかと云ふ事を比べる必要がある、所が夫等の国民は不思議にもやはり同じ様なものを持つて居ります。之は偶然ではないのでありませう。つまり文化国民と云ふものは、さう云ふものを必ず備ふべき必然の理由があるものと思はれます。それはどう云ふ事かと申しますと支那には丁度今から千九百年前に、其の当時迄あつた所の、凡ゆる書物の目録を書いたものがあります。其の大部分の書物は今日失くなつて居りますけれども、之からつまり今日の支那の文化と云ふものは伝統を引いて来て居るのであります。兎に角支那では前漢の末頃に、非常に立派な目録学者がありました、目録と云ふと古来の書物の名前を帳面に記する丈かの様に考へられますが、支那の当時の目録学と云ふものは、本の内容に依つて分類し、批評する所の一種の学問であります。其の学問を支那で其の当時考へた人があります。即ち有ゆる学問の総論を目録に依つてやる事を考へた人があります、私は其の人の学問を大変尊敬して居ります、それが有名な劉向、劉歆の父子であります。此の人達が当時オープンアクセスNDLJP:193 有ゆる本を見まして、さうしてそれを一括して批評したものがあります。即ち前漢書の芸文志の中にこの劉向、劉歆の父子の学問の大略が残つて居りますが、此時の目録には書籍を六種に分類して居ります。それは六芸、諸子、詩賦、兵書、数術、方技、斯う云ふ六種であります。六芸と申しますのは経書でありまして、其外を五種に分類して居りまして、それに又各々此の中が幾つかの細い部となりまして、それに依つて一々評論したのであります。支那人は兎に角当時之だけのものを持つて居た、今から殆ど二千年前に之だけのものを持つて居たので、之は支那人が今から二千年前に立派な文化を持つて居た一つの証拠であります。

 印度人はどう云ふものであつたかと申しますと、最初今の仏教などの興る前に、四吠陀と云ふものがあつたと云ふことであります。今でも其本はあるのであります、其の本は多くは宗教的に出来て居ります。支那の劉向、劉歆父子の時には宗教的ではなかつたのでありますが、印度の四吠陀は組織が全く宗教的に出来て居て、其の四つの内の半分通りは大体宗教に関したものでありますが、其の内の一つはやはり兵事、支那で云ふ兵書と同じ様に兵事に関したものでありまして、其の他の一つが六芸と同じ様な性質を帯ぶるものでありました。之は実は支那の前漢時代に比べまして、年代も古いし、それから記録もまだ十分に備つて居なかつた時でありまして、其の後に於きまして印度では、丁度やはり支那の劉向、劉歆の時代と同じ程度位の色々の学問が開けて来て、其の書籍も出来て来ました。印度では支那よりも本を用ひたのはむしろ余程後でありまして、其の前には学問を口で伝へて居たのでありますが、丁度支那の秦漢以前の様な状態を持つて伝へて来たのであります。ともかく仏教の興りました頃に五通りの分類の様なものが学問の上に出来ました。印度で之を五明と申しますが、声明、因明、医方明、内明、工巧明、斯う云ふ五種類であります。之が其の分類の仕方がぴつたりと支那とうまく合ふ訳には行きませんが、大体に於てよく合ふのであります。支那では方技、之が医方明に当ります、工巧明が数術に当るのであります。内明が印度で哲学の様なもので、大体に於て諸子、六芸に当ると思ひます。声明は声の方の学問でありますが、この声の方の学問と云ふのは、印度では声を大変に神聖なものと考へたから、斯う云ふものが出来て居りまして、之に音楽的な分子が含まれ、文法の様なものも含まれて居るのであります。其の後因明と云ふものが出来ました、これが論理であります。大体に於て兵書の部分を除けば印度の学問も支那の学問もやはり五つに分れて居て分類の間には、多少食ひ違ひがありますけれども、然し内容として持つて居るものは、全般から観れば殆ど同じものでオープンアクセスNDLJP:194 ある。支那の兵書の部分は印度では古い吠陀の方にあるのであります。斯う云ふものがつまり印度の文化の要素として考へられたものと思ひます。

 西洋の事は私詳しく知りませんけれども、或る時代から希臘のアリストテレスの考へが、近代迄永く続いて、ルネサンスの時代迄此の考へで学問の組立が出来て居りました。日本でもキリシタンが初めて渡つて来ました頃、支那の明の末に利瑪竇(マテオ、リッチ)と云ふお坊さんが西洋から来て、天主教を弘めましたが、其の当時に西洋から来た艾儒略といふ宣教師が支那で、西洋の学問全体に関する西学凡と云ふ冊子を書いて支那人に見せたものであります。其本は日本では徳川時代は禁書となつて居りました。当時は東洋人が西洋の学問の大体を知るには西学凡に依つて知つたのであります。之が十七世紀の初頃に支那で出来たのであります。つまり西洋の学問と云ふものは、アリストテレスの時に古代文化の総括が出来て、其の後に来たキリスト教の文明が混和して、一つの学問の大系を成したのでありますが、其の大要を最も早く東洋に知らしたのが其の西学凡であつて、之に載つて居る所に依ると学間を六科に分けて居ります、之に依つて全体の学問を観ることが出来るのであります。支那字で書いてありますが、一つは文科(勒鐸理加レトリカ)、それから理科(斐録所費亜フイロソフイア)、医科(黙弟済納メデチナ)法科(勒義斯レイス)、教科(加諾搦斯カノネス)、道科(陡禄日亜トロジア)、斯う云ふものであります。先づ文科、理科の二つから這入つて、それが第一歩の基礎学問であつて、其の後それが済むと医科をやるか、法科をやるか、教科をやるか、道科をやるか其の四つの中の一つを専修するとしてあります、之が西学凡の大意であります。其の内主に理科の所に於てアリストテレスの学問を大体に於て論じて居るのでありますが、然し文科と云ふのもやはりアリストテレスから来た所のものであると思はれます。文科はどう云ふものをやるかと云ふと、古賢の名訓、各国の歴史、各種の詩文、それから自分で文章をかき又議論をする事、之が即ち文法学、修辞学、さう云ふものであります。其の次に理科は大体に於てアリストテレスの時代の学問から来たので、最初にロジカ(落日加)を稽古する、其の次はフイジカ(費西加)を稽古する、其の次にはメタフイジカ(黙達費西加)、それからマテマチカ(馬得馬第加)を稽古する。それから其の後はエテカ(厄第加)を稽古する、それが即ちアリストテレスの学問の大意だと云ふことを云つて居ります。それだけが準備の学科でそれから、後はつまり専門になるのであります。専門は医科と法科と教科、この教科がキリスト教時代の学問であつて、羅馬教皇が定めた教中の法度で、今日の日本の大学等に、さう云ふものはありやう筈がありません。道科、之は今日オープンアクセスNDLJP:195 日本では神学と称して居るものであります。で、つまり此の中で最後の二つ、教科、道科と云ふものは、之はキリスト教が欧羅巴に入つてから後に、其の関係から出来た所の学問でありますが、前の四つは希臘以来欧羅巴で文化を有つて居る所の国民が、皆有つべき要素として有つて居た所の学問であります。微細な点に渉つて考へると、異つた種々の部分があるでありませうけれども、兎に角理科の中に含む所の落日加、費西加、黙達費西加、馬得馬第加、厄第加、斯う云ふものを必修の科程としてやつたと云ふことは、大体に於て支那や印度の学問の分類と自然に一致すると思ひます。さうして見ると、何処の国民でも文化を有つ国民が有つて居る所学問の大系は、大体同じものと云ふことが出来ます。

 そこで日本がさういふ文化に必要な学問を有ち得しや否やと云ふことを詮索するにはいかにすれば可いか、日本の様に外国の文化を始終受けて居た国民は、之を詮索するのは余程困難であります。日本は聖徳太子以後、平安朝の頃迄、支那の文化を丸呑みにして居た時の学問と云ふものは、恰も唐の代の学問でありまして、其の時代に於て之だけの条件が皆備つて居ても、それは支那の文化を丸写しにした条件が備つて居るのであります。日本国民はそれを伝へて理解したと云ふだけであつて、本来それを有ち得べき素質があるかと云ふことは断言し難いと思ひます。それから最近徳川時代になつて又支那文化の再輸入が殆ど三百年間続きました。其時に日本人が如何なる立派な学問をしてゐても、やはり支那の学問の殆ど皆鵜呑みであつて、日本国民でなくても真似をし得る国民なら出来る事でありますから、それでは文化を有ち得る国民と云ふ証明にはなりません。それでありますから外国の学問を丸写しにした時代では吟味が出来難い。そこで私は日本が昔の奈良朝、平安朝時代の支那人から受取つた所の文化を殆ど皆失つて、さうしてまだ徳川時代の支那文化の再輸入して来なかつた時代、日本が非常に戦乱に荒らされて暗黒の時代となつてゐた足利時代、特に応仁、文明以後に於て之を調べる必要があると思ひます。勿論さう云ふ暗黒時代は折角支那から輸入した多くのものを失つて居ります、其の当時の貴族の学者、例へば一条禅閣兼良と云ふ様な学者がありますが、さう云ふ人達は戦乱の為めに古来相伝の文化を失つたと云ふ事を非常に残念がつて居る。勿論当時古来相伝の文化を失つた事は悲しむべき事であつたに違ひありませんが、さう云ふ様に人から借着をして居た着物を皆脱いでしまふと云ふ時には、丸裸の姿を見るに極く好い時代であります。其の時代は日本が文化的素質を有つて居るかどうかと云ふことを見、さうして又それを吟味するに都合の好い時であります。

オープンアクセスNDLJP:196  然しそれを吟味するには一寸一通りの吟味の仕方では難しいのでありまして、色々な考へ様をしなければならない。私はやはり支那の事を考へる様に目録学の方から考へて見度いと思ひました。其頃の日本の目録としては本朝書籍目録と云ふのがありまして、之は仁和寺書籍目録とも申します。之は仁和寺にあつたものを写したからさう申すのであります。伝へらるゝ所に依りますれば、其の作者は清原業忠と云ふことになつて居ります。之は足利将軍義教の時の人でありますが、足利の世は此義教の時から不安定になりかけたのであります。此の人が赤松満祐と云ふ家臣に殺されてから、世の中が乱れかゝつたのでありますが、此の義教の注文で書いた目録だと云ふことになつて居ります。之は其の当時の目録を全部書いて居る訳ではありませんけれども、之に載つて居る目録の分類の仕方を見ると云ふと、大体此の当時に必要な書籍の程度が判ります。此の目録は神事、帝紀、公事、政要、氏族、地理、類聚、字類、詩家、雑抄、和歌、和漢、管絃、医書、陰陽、伝記、官位、雑々、雑抄に分類されて居ります。其中神事、帝紀、氏族、地理、和歌は日本固有のもので、公事、雑抄、管絃、雑々の中にも幾分固有のものがあります。之が前に申しました応仁の乱の前に当りますので、将に日本は支那から来た文化の着物を脱ぎかゝつて居りますけれども、まだ皆脱ぎ切つて居ない時であります。それでありますから、此の中には日本人が丸裸になつてから発見した所の文化的要素のみを見はしては居りません。之は一面には支那文化の伝来と、それから日本の古代から伝つて来た所の宗教上の儀式とか、色々な種類のものを其の中に有つて居りますが、文化国民が有ち得べき要素を、裸になつてから見出したと云ふ其の証拠は、此の目録に依つて見ることはできません。然し足利の乱世に於ても日本人がその古来相伝して来た所の文化をどれ程大事にして居つたかゞ判るのであります。さうして此の目録以後に新しく出来たものゝ中に文化的要素があれば、それが真の日本人が素ツ裸になつてから発見した所の文化であります。それがあるかどうかと云ふことでありますが、それが今日から考へると貧弱なものでありますけれども、有ることはあるのであります。其の有ると云ふ点が、甚だ我々にとつて心強いのであります。

 どう云ふ事かと申しますと、其の後、応仁、文明以後の乱世で、御承知の如く皇室は非常に衰微あそばされたのであります。数年前東山御文庫を整理される時に、私も取調員の一員を汚しましたが、御文庫に後奈良天皇の宸翰で、天文十四年八月二十八日の宣命案がありました、それは伊勢の大神宮に即位後二十年大嘗会を行はせたまふことも出来ないと云ふことオープンアクセスNDLJP:197 を謝せられた宣命であります。今の天皇陛下が皇太子であらせられた時に之を御覧になりました。それ程極端に困つて居られても、支那から伝来した文化の或るものを、どうしても手離されなかつたものがありますが、さう云ふものは例へば借着であつても、之れ一枚脱いだら凍へて死ぬからと云ふので手離さないものは、自分の作つたものと同様に値打があると思ひます。さういふものがあります。それから又其の他に本当に寒くて叶はないからと云うて、自分で拵へて着る着物がある、それが自分の本当の着物であります。それらがつまり日本人が暗黒の時代でも離さなかつた并びに生み出した所の文化であります。

 其の時にどうしてもさうなつて来ると、文化の中心になるのは帝室であります。帝室ではどう云ふものをどうしても離さずに持つて居られたかと云ふに、一つは歌道の伝授であります。古今集の伝授とか、伊勢物語とか云ふ様なものゝ伝授で、それから同じく必要なものは書道の伝授、音楽の伝授、之は神楽などの如く日本で出来た音楽もありますが、支那から伝来したものもあります。兎も角も斯う云ふものは、帝室が非常に困窮して居られる時でも御父子代々で御伝授になつて決して失はなかつたのであります。この歌道の伝授は応仁、文明の戦乱によつて、殆ど絶えんとしましたが、後土御門天皇はその秘説を伝へて居つた関東の武士、東常緑を京都に召されて、歌道を再興せしめられました、又書道の伝授、音楽の伝授などは皆帝室が基であります証拠は、御文庫の中に沢山に残つて居るのであります。さうして其伝授の至つて尊いことは、世の中に如何なる歌道なり書道なりに堪能な人がありましても、其の伝授の根本は皇室でなければ権威がなかつたので、伝授の中心は皇室にありました。一例を申しますと徳川時代に於きまして近衛家熙と云ふ人は書の名人で、東山、中御門御二代の天子に御手本を上げられました程でありますが、さう云ふ名人であつても、やはり其の伝授は皇室から受けて居る。さう致しますと云ふと、其の時の皇室は政治上の権力はないけれども、文化の上の権威だけは最後迄離さなかつたのであります。どんなに御衰頽の時でも、それだけは御父子で御相伝をなされ、それが門跡、公卿などに授けられ、始めて世の中に其の道の権威と云ふものが出来たのでありまして、皇室は最後迄文化の権威は握つて居られたのであります。其の他の事は其の学科の種類に依つて、皆公家達の家々に権限を任せて居ります。勿論それは皇室の配下である処から代々持ち来つた家業であります。例へば暦法、陰陽に安部家とか加茂家とか云ふものがあり、それが代々持つて居たのでありまして、其の家が其の学問を代々伝へて、さうして其の学問は其の家から伝授を受けなければ正しいオープンアクセスNDLJP:198 ものと云ふことにはならなかつたのであります。

 それから又丸裸の日本が文化の向上に、非常なる力を有つて居りましたのは、やはり神道の伝授です。此の時分の神道は、後の本居、平田といふ様な人達の時から見れば、俗神道といはれて居るものでありましたが、然し其の当時の文化の上に於て必要な程度の解釈はしられるだけのものを有つて居ります。それは先程申しました耶蘇教の方でも、教会法等は羅馬法王が人間の魂を預つて居る、其の為めに出来た教会の法律でありまして、此の法律を拒む者は、当時の国王でも何でも破門せられたのでありますが、どうもそれが間違つて居ると云ふので、西洋でも新教が出来ましたが、当時は其の教会法の下に服従しなければ正確な信仰といはれない。それと同じ様に日本に於ても、両部新道やら、唯一神道やらが如何に間違つてゐたかどうか知りませんけれども、兎に角其家の伝授を受けなければ正しいものとして承認されなかつたと云ふことは事実であります。それで神道は其の時分仏教の意味に於て解釈して、非常に考へ方が間違つてゐたと云ふ事は、徳川末期に神道を研究した人達の議論であります。これには種々の解釈の仕様がありませうけれども、其の当時に於いては、仏教が日本に於ける最上の哲学でありましたから、最上の哲学に依つて神道を解釈したのであります。徳川時代の初から神道を儒教で解釈した人もあります。それから国学で解釈する人もありましたが、足利時代に於て仏教に依つて解釈すると云ふことは、つまり仏教が思想上の最上の権威であつたからであります。さう云ふことで暗黒時代の神道と云ふものは、殆ど完成してそれを握つて居たのが吉田家でありまして、それを日本中の神主に伝授した、此の伝授を受けなければ神道の権威がなかつたのであります、それで之は特に当時に於いて発明された所の一つの学科であります。つまり日本の古事記とか、日本紀とか云ふものは奈良朝時代からありまして、祖先の編成された歴史と考へられて居つたのでありますが、平安朝頃までは、其の神代の記事に哲学的の意味をつける事はなかつたのであります。所が鎌倉の末期から足利時代に於て出来た神道は、特に日本紀の神代巻を仏教で解釈致しましたが、こゝで神道に哲学的意味をつける様になつた。そこで日本は初めて自分の国の歴史を出発点とした哲学を有ち得ることになりました。

 また和歌の方でありますが、和歌は即ち第一に国語の上に立脚致します所の文学であります。何れの国でも根本は其の国の国語が権威を持のが文化の要素であります。国民が自分の国の言語の法則を神聖なものと考へることが、之が国民の有つ文化の第一の要素でありまオープンアクセスNDLJP:199 すから、何処の国でもあります。日本では国語の文法上、之も後になつて、新しい国学者、加茂真淵、本居宣長と云ふ人達から考へれば、それは間違つた文法であつたに違ひありませんが、兎も角も日本に国語の文法があり、又用語の制限があつて、其の制限に反すれば歌にならないと云ふことは鎌倉時代からあつたのであります。それが暗黒時代を経て、一つの文化的権威になつて、歌は二条家とか冷泉家と云ふ所から伝授を受けなければ歌が詠めないことになつたのであります。

 又此の時代に於て最も貴ばれた本に源氏物語、伊勢物語があります。源氏物語は男女の関係を露骨に書いたもので、今日から見れば之を講読することは危険の様に思はれるものを、そんなに尊崇したと云ふことは不思議な様に思はれますけれども、そこに日本人が支那の道徳でもなく、印度の道徳でもない或る要求を満たしたものがあるからであります。殊に支那の道徳とは実にかけ離れた考へ方をして居る、伊勢物語にしても、男女の関係のだらしのない所を書いて居りますが、其の間に日本国民の偽らざる人情を書いてあると云ふ事を、日本人が尊びました。戦国の末から豊臣太閤の頃に亙つて、歌学で有名な細川幽斎に其の門下の宮本孝庸といふ者が世間の便りになる書は何が第一かと聞いた所が、それは源氏物語だと、それから又歌学の博学に第一のものはと問うた所が、それも源氏物語だと云つたと云ふことがありますが、それは表面男女関係のだらしのない小説の中に含むで居る深い意義を日本人が発見する様になつて、それを一種の日本文化と考へたのであります。之は今日から見れば色々な考へ様をしなければならない点もあらませうが、然し其の間に支那でもなく、印度でもなく、つまり日本人の偽はらざる性質、正直な性質を発見したのであらうと思ひます。それが後になつてから、加茂真淵、本居宣長と云ふ人達が支那の学問に反対して一種の自分の国の特別な性質、日本人の本当の尊い性質と云ふものを鼓吹する様になつたのも、さう云ふ事から流れを引いて居ると思ふのであります。然し世態の変遷もあり、今日では其の時分の思想を丸写しにして、其の儘に応用も出来ない様な点がありますが、兎に角従来の支那文化の外に、日本特有の文化の要素を有つてゐることをあらはしたのであります。それは丁度其の以前の南北朝時分に北畠親房の神皇正統記の中に、日本は神の国で支那よりも印度よりも、万世一系の皇室を戴いて居ると云ふ事が大変尊いと云ふことを云つたのと問題は異ひますけれども、同じく日本の国情の中に特別な発見をした点があるのであります。斯う云ふことは、寧ろ日本が支那文化の衣を脱いで、自分が丸裸になつてから得た所のものでありましオープンアクセスNDLJP:200 て、日本人は正直を尊び、ありのまゝなる姿を尊ぶことを特色とするやうになつたのでありますが、それが皆此の暗黒時代に他の国との関係を大部分失つた時分に出来て居ります。それがつまり日本人の一種の性質でもあり、一種の又文化の特質でもあります。之が日本人が自分で造り出した所の文化の素質です。

 日本の国語の法を発見する事、日本人の性質としての特別な点を発見する事、国体の特別な点を発見する事、さう云ふ事は鎌倉時代から足利時代の暗黒時代にかけて発見した事であります。それはやはり何処の国民でも皆文化ある国民は有たなければならない所の条件であります。さうして其の外に支那から伝へられて来た文化で、どうしても失つてならないものは、皇室なり公家なりが文化の権威として、非常な難儀をしながらも伝へて居るのであります。一条兼良などは応仁の戦乱の為に其の邸宅は何れ焼けると覚悟して、沢山の本を文庫にしまつて避難したのでありますが、果して兵火の為に第宅は焼けて、文庫は残りましたが、兵士等は庫に何か金帛などがあるだらうと思つて、庫から本を出して箱や何かを叩き壊して、火を付けて焼いたと云ふので、声をあげて哭いたといふことであります、さういふことで書籍の保存なども出来なかつた事を悲んで居ります。又其の当時楽の家で笙の秘曲を伝へて居た豊原統秋の書いた体源抄には、戦乱の間に其父と叡山に避難して伝授を受けたが、将来其伝を失つては不孝になるからとて此書を書いたことを述べて居ります。さういふ様に其の当時朝に夕をはからざる危難の間に、文化階級の人として、さう云ふものをどうしても失つてはならないと云ふ考へで、皇室なり公家なり、諸職の人々が一所懸命になつて暗黒時代にも保存して、それだけは日本がどんなに乱れても失はなかつたものであります。さうして残した所のこの文化は、初めはたとへ支那から来たものであつても、支那人でも日本人の様に懸命になつて残した歴史はないのでありますから、それに比べると日本人が其の文化を命懸けで残した事は、之は自分の文化と云つても宜しいと思ひます。支那から借りて着た着物でも、支那人が丸裸になる時に、日本人は其の一枚だけは兎に角脱がなかつたと云ふことは、それは日本人の物と云つて差支へないのであります。

 さう云ふことで其の当時、日本人が保存し、或は新しく造つたものをだん調べて見ますと、其神道、歌道、物語の伝授とか書道の伝授と云ふものは、即ち我邦の哲学でもあり文学でもある、即ち文科理科、西洋でアリストテレス以来伝来して来た所のものと同性質の者を含んで居るのであります。それから暦法、陰陽と云ふ様なものは、支那人が伝へて居た数オープンアクセスNDLJP:201 術、或は印度で云へば吠陀の中にあるもので、之も同じく日本人が暗黒時代に保存して居たのであります。但し以上の如き京都の文化と云ふものは、さう云ふ様に皇室が非常に衰微した時代に伝へられたのでありますからして、兵科に関するものはなかつたのであります。昔有名な八幡太郎義家は兵法を知らないと云ふので、大江匡房に就いて兵法を稽古したと云ふことがありますから、其の時分には兵法も公家が権威を有つてゐたのでありますが、足利の乱世には、この支那から伝来した兵法は多く失つたのですけれども、地方の武家が又学者達を聘んで、兵法の書を講じさせて聴くと云ふ所から多少は残つた点もあります。それが後になつて日本では天文、永禄から元亀、天正の頃になりますと、武家が各々自分の兵法を発明して、武田家は武田流、北条家は北条流と云ふのが出来ましたが、之も実は武田信玄の存生中に武田流が出来、北条氏康の時に北条流があつたのではなく、多くは其の家が亡びてから何々流と云ふのが世の中に現れて、一種の兵法学者の看板で飯を食ふ人間が出来たのであります。しかし兎に角其の頃には支那伝来のものゝ上に、日本人は特別な兵法を考へたのでありまして、殊に日本人は兵法と云ふ語を武術の意味に用ゐることになつて、それが得意であつて、大変な流行でありましたが、不思議なことにはそれが逆輸入でもありませんが、日本の武術は倭寇の為めに支那に伝はり、支那人の当時の著述(武備志の如き)に日本の武術の型やら説明やらを載せるやうになつたのであります。これは倭寇が支那へ押入る時に、その撃剣が支那人を驚かしたので、支那人が日本武術に注意する様になりました、これは従来永い間日本に支那文化を輸入したが、逆に日本の文化を支那に輸出した所の最初のものであると思ひます。其の外に又鉄砲があります、鉄砲は天文十一年かに葡萄牙人が種子島にもつて来たと云ひますが、日本で一種特別な狙撃の法が発達致しまして、其の狙撃の法は、朝鮮役の時大いに支那人を悩ましました。尤も石火矢や大砲は支那の方が日本人よりも進んで居りましたが、此の小銃で狙撃するのは日本人特有のものでありまして、朝鮮で七八年も永い間戦争して居る間に、朝鮮人が日本人から伝授されまして、それが後になつて支那人に大変調法がられた事があります。それは清朝の康熙年間、今から二百余年前に露西亜の有名なペトル大帝の時にシベリヤの、ネルチンスク、アルパジンと云ふ所で、支那の兵隊と衝突した、其の時に朝鮮人が鉄砲を撃つ事が上手だと云ふので、朝鮮人から銃手を呼び出して戦争させて居ります。それは即ち日本人が鉄砲に就いて特別な発達をしたものが朝鮮に伝はり、それが西洋人と戦争する様になつた不思議な因縁であります。それは最初西洋から渡つた武術であオープンアクセスNDLJP:202 りますけれども、日本人が一種の利用法で日本式な小銃の術をやつたのであります。それで京都で握つて居る文化の中には、兵科に関したものはありませんが、それは日本中一般に流布して居つたのであります。

 さう云ふ事で、兎に角印度なり支那なり西洋なりに於て文化の要素として数へられて居た条件は、日本の暗黒時代に有ゆる外国から輸入された文化の着物を脱いだ後に、新たに発明され、或は保存されて存して居たのでありますから、日本人は文化的要素を持ち得る条件を備へて居ると云ふ事は申す迄もないのであります。之が即ち日本国民は文化を有し得る国民と云ふ証拠にならうと考へられるのであります。

 もう少し之は吟味して、材料も十分にして発表すべきでありますけれども、兎に角之に就いて最初の意見の発表を此処でやらせて頂かうと思つて申上げたのであります。

(日本及日本人第百八十三号及第百八十四号昭和四年八月十五日及九月一日発行)

 
 

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