新体詩抄/新体詩抄序 (丶山仙士)

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新體詩抄序[編集]

唐の橫町の毛唐人が云ふには「大凡物不得其平則鳴艸木之無聲風撓之鳴水之無聲風蕩之鳴」云〻「人之於言也亦然不得已而後言其歌也有思其哭也有懷凡出乎口而爲聲者其皆有弗平者乎」と我邦にも長歌たの三十一文字たの川柳たの支那流の詩たのと樣〻の鳴方ありて月を見ては鳴り雪を見ては鳴り花を見ては鳴り別品を見ては鳴り矢鱈に鳴りちらすとも十分に鳴り盡すこと能はす何んとなれは古來長歌を以て鳴れるものなきにあらねともこは最と稀なることにして殊に近世に至りては長歌は全く地を拂へる有樣にて事物に感動せられたる時の鳴方は皆三十一文字や川柳や簡短なる唐詩と出掛け實に手輕なる鳴方なれはなり盖し其鳴方の斯く簡短なるを以て見れば其内にある思想とても又極めて簡短なるものたるは疑なし甚た無禮なる申分かは知らねとも三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り盡すことの出來る思想は線香烟花か流星位の思に過ぎざるべし少しく連續したる思想内にありて鳴らんとするときは固より斯く簡短なる鳴方にて滿足するものにあらす又唐風の詩を作り稍〻長と鳴るもの近來世間に尠しとせされとも抑も詩と云ふものは其意味も固より大切なれとも其音調の良否も又甚た大切なり夫れ變則者流の漢學者のママ唐詩を作るや固より平仄てふものありて其詩たる一通りは音律に叶ひたることは萬〻疑なしと雖も芥子坊主をして之を吁鳴らしめたらんには果して心地よき音調のものなるか將た破鍋を雷木にて叩くか如きものなるかは未た知るへからす盖し日本人に取りては支那流の詩は恰も瘂の手眞似若しくは操人形の手踊の如きものなり瘂に生れすして瘂の眞似をなし人と生れて人形の眞似をするもの又憫まさるへけんやそこで我等は連續したる思想内にある譯にもあらす心地よき音調を以て能く鳴ることの出來るものにもあらねとも全く三十一文字や堅くるしき唐詩の出來さる悔しさに何か一つと腕組したれとやはり古來の長歌流新體なとゝ名を付けるは付けたか矢張自分免許の鼻高てあたら西詩を惜けなく譯も分らぬ文句以て譯したものや尙ほ拙なをのかものせる長文句能く見れは

  新體と名こそ新に聞ゆれと
    やはり古體の大佛の法螺

法螺と知りつゝ古を我よりなさん下心笑止とこそは云ふへけれ法螺は我より始まれるものにあらぬはまたしもそ人のなさゝることゝては假令へ法螺てもなきそかし唯〻人に異なるは人の鳴らんとする時はしやれた雅言や唐國の四角四面の字を以て詩文の才を表はすも我等か組に至りては新古雅俗の區別なく和漢西洋ごちやませて人に分かるが專一と人に分かると自分極め易く書くのか一つの能見識高き人たちは可咲しなものと笑はゝ笑へ諺に云ふ蓼食ふ虫も好きなれは多くの人の其中には自分極の我等の美擧を賛成する馬鹿なしとせす安んそ知らん我等のちんふんかんの寢言とても遂には今日の唐詩の如く人にもてはやさるゝことなきを穴賢

明治十五年五月

丶山仙士外山正一識

柳南醒史書

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