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支那正統論考

 
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支那正統論考

 
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本篇は明治三十年三月發行の東亞學會雜誌第二號に揭載せられ、易姓革命の國にして、又分裂僭僞の朝廷も少からざりし支那には自然興るべき正統と閏位の說を評論せられたるものにして、和洋の事にも論及せられたれば、世の國體を論ずるものゝ必讀すべき卓說なり。

 

支那正統論考

 支那の正統の論は、漢︀代に始まり、宋代に至りて喧くなれり。唐堯の虞舜に讓り、虞舜の夏后禹に讓り、商王成湯の夏后桀を放ち、周の武王の商王紂を滅ぼしゝが如きは、皆前代終りて、後代之に繼ぎ、其の間に兩朝並び立ちて、國を爭ひし事なければ、正統論の興るべき由なし、支那には古くより、五德終始の說と云へる說ありて、「五行更る旺し、終始して相生ず。王者︀は五行の德に法り、其の革易は、必ず五行相生の序に從ふ」と云ひ、又齊の騶衍は、王者︀の革易は、五行相生には非ずして、五行相勝の序に從ふ者︀なりと云へり。五行相生の序は、木火土金水なりと云ひ、五行相勝の序は、木金火水土なりと云ひ、何れも取るに足らざる說なり。されども秦始皇は、五行相勝の說に依り、周を以て火德とし、水は火に勝つが故に、秦を水德と定め、漢︀の武帝も、此の說に從ひ土は水に勝つが故に、漢︀を土德と定めたりき。然るに「漢︀の高祖︀は赤帝の子なり」と云へる傳說あるが上に、劉氏は、堯の苗裔にして、堯は、五行相生の說に於ては、火德なりと云へるが故に、漢︀人は、遂に漢︀を火德と改め、木は火を生ずと云ふに依りて、直に周の木德を繼げりと爲せり。是に於て、秦は、木火の間にありて、五德の運に入らずとて、之を閏位として黜けたりき。これ、帝統の正閏ありと云へる始めなり。

 劉氏亡ぶるに及びて、漢︀土分れて三帝國と爲り、其の君各〻至尊と稱して相下らざりしが、晋の陳壽、三國志を作り、魏帝を以て正統の君と爲して本紀に列し、吳蜀を黜けて、其の君を列傳に下したり。其の後東晋の習鑿齒、漢︀晋春秋を著︀し、蜀漢︀を以て漢︀の正統を承けたる者︀と爲し、魏を黜けて、吳と同じく僭僞の國と爲したれども、其の說未だ大に世に行はれざりき。

オープンアクセス NDLJP:562 南北朝の際、支那又分れて二帝國となれり。兩朝皆國史ありて。宋書齊書は、後魏を黜けて、索虜︀魏虜︀と爲し、魏書は、宋齊を貶して島夷を爲したるが如きは、宋の司爲光の謂へる如く、「此皆私己之偏辭、非大公之通論也。」唐の太宗の時、南朝の梁書陳書、北朝の北齊書周書隋書を撰したるに、南朝の史に於ては、南を正として北を僞とし、北朝の史に於ては之に反し、恰も各朝の史官、自ら之を撰したるが如し。正ならば、正とすべし。僞ならば、僞とすべし。旣に正として、又之を僞とし、褒貶定らず、唐人にして、或は梁陳人となり、或は北齊周隋人と爲り、更に唐人たる定見なし。これ皆宋齊魏書の舊習に沿ひ、誤りて尊內卑外を以て紀傳の體と心得たるなり。然れども兩朝を帝として、敢て輕重を其の間に加へざるは、陳壽習鑿齒の偏論に愈れり、李延壽は、一人にて南史北史を撰したれば、兩朝の史官に代りて筆を執れるが如き書法を廢すべき筈なるに、これ又南北八部の舊史に依りて、之を增損したるのみにて、尊內卑外の書法を用ひたること、舊史に異らず、而して兩朝を帝として、敢て輕重せざることも、亦舊史に同じ。

 然れども唐人は、大抵三國に於ては、魏を正統とし、南北朝に於ては、北朝を正統として、敢て異議を挾む者︀なし。葢唐は隋に代り、隋は周に代り、周は後魏に代り、唐の高祖︀の父祖︀は、世々魏周に仕へたれば、魏周を正統とするは、勢然らざるを得ず。南北朝に於て北朝を正統とすれば、三國に於て魏を正統とするも、亦勢然らざることを得ざるなり。

 又五德終始の說は、漢︀魏以來諸︀儒の深く迷信したる說にして、魏と吳とは土德を以て漢︀の火德を承けたりと云ひ晋は、金德を以て魏の土德を承けたりと云ひ、南朝の宋齊梁陳は、五行相生の序に於て、各々水木火土なりと云へり。後魏の道武帝の時、群臣の奏に「國家承黃帝之後、宜爲土德」と有て、一たび土德と定めたりしが、孝文帝太和十六年に羣臣に命じて、五行の次を議せしめたるに、中書監高閭は、「晋承魏爲金、趙承晋爲水、燕承趙爲木、秦承燕爲火、秦之旣亡、魏乃稱制玄朔、且魏之得姓、出於軒轅、臣愚以爲宜爲土德」と云ひ、祕書監李彪著︀作郞崔光等は「神︀元與晋武、往來通好、至于桓穆、志輔晋室、是則司馬祚終於郲䣅、而拓跋受命於雲代、昔秦幷天下、漢︀猶比之共工、卒繼周爲火德、況劉石苻氏、地福︀世促、魏承其弊、豈可捨晋而爲土邪」と云ひ、司空穆亮等は、皆李彪等の議に從はんと請ひしに由りて、遂に改めて晋を承けて水德と定めたりき。其の後北齊と周とは、皆魏を受けて木德なりと云ひ、隋は、周を承けて火德なりと云ひしに由りて、唐の運歴を論ずる者︀は、皆唐は隋を承けて土德なりと云へり。されば唐人は、魏周を以て正統と爲すに非ずば、自ら正統の後を承けたりと稱することを得ざるなり。今歴代の五德相承の序を、諸︀儒の說に依りて列記すれば、左の表の如し。

 木德木生火 火德火生土 土德土生金 金德金生水 水德水生木

  大皡───炎帝───黃帝───少皡───顓頊───帝嚳───唐堯───虞舜───夏───商┐
 ┌─────────────────────────────────────────────┘
 │                 ┌─前後趙───燕────秦────後魏道武帝所定
 └周以上後魏所追定──漢︀───┬魏────晋┼後魏孝文帝 所改定─┬周────隋────唐───┬後梁
            └吳     └─宋┐   └北齊            └後唐───┐
                      └南齊──梁────陳              │
 ┌─────────────────────────────────────────────┘
 └後晋────後漢︀───後周───宋

オープンアクセス NDLJP:563 かくて魏と北朝とを正統とするは、唐人普通の說なれども、史學に精︀通せる劉知幾の如きは、世の五行家輩とは異にして、敢て一偏の論に局せず。其の史通稱謂篇に「論王道、則曹逆而劉順、語國祚、則魏促而吳長、但以地處凾夏、人傳正朔、度長絜短、魏實居多、二方之於上國、亦猶秦繆楚莊、與文襄而並霸、逮作者︀之書事也、乃沒吳蜀號諡、呼權備姓名、方於魏邦、懸隔頓爾、懲︀惡勸善、其義安歸」と云へるは、魏の正統を黜けたるには非ざれども、史家の偏私にして、稱謂の不敬なるを咎め、又其の探賾篇に陳壽が曹公文帝の罪惡を貶せざるを咎めて、さて「劉主地居漢︀宗伏順而起、夷險不撓、終始無瑕、方諸︀帝王、可比少康光武、譬以侯伯、宜輩秦繆楚莊、而壽評抑其所長、攻其所短、是則以魏爲正朔之國、典午攸承、蜀乃僭僞之君、中朝所嫉、故曲稱曹美、而虛說劉非」と云ひ、「習鑿齒之撰漢︀晋春秋、不以劉爲僞國者︀、此葢定邪正之途、明順逆之理耳」と云へるを見れば、陳壽の蜀を僞國としたるには、甚不服なりしなり。

 梁の太祖︀、盜賊より興りて、唐の位を簒ひたれば、後唐の莊宗は、大盜と看做して、朱溫と斥言し、梁帝などゝは云ふも更なり、梁主とすらも呼びしこと無し。梁を滅して帝位に陞るに及びては、自ら唐に繼ぎたりと稱し、梁をば有窮氏の夏を簒ひ、王莽の漢︀を簒ひしに比して、之を帝王には數へざりき。然るに宋の薛居正等、五代史を撰し、歐陽修、又新五代史を撰し、皆梁を帝として五代に列したり。修の論に「欲著︀其罪於後世、在乎不沒其實、其實嘗爲君矣、其實簒也、書其篡、各傳其實、而使後世信之、則其罪不可得而掩爾、使爲君者︀不得掩其惡、然後人知惡名不可逃、則爲惡者︀庶乎其息矣」と云へり。時に章望之、明統論を著︀して、修の說を駁し「魏は、天下を一にすること能はず、晋と朱梁とは簒奪を以て國を得たれば、何れも正統とすべからず」と云ひ、蘇軾、又正統論を著︀し、歐陽修に與して、章望之を駁し、「秦漢︀魏晋隋唐五代、皆正統なり」と論じ是よりして正統の論甚喧しくなれり。

 司馬光の資治通鑑を撰する時、其の僚佐劉恕、嘗て蜀を以て東晋に比し、漢︀の正統を紹がしめんと欲し、司馬光と力爭したれども從はざりし事、劉恕の子義仲の裒錄したる通鑑間擬に見ゆ。かくて通鑑魏紀漢︀中王即皇帝位の條の史論に「竊以爲苟不能使九州合爲一統、皆有天子之名、而無其實者︀也、雖華夷仁暴大小强弱、或時不同、要皆與古之列國無異、豈得獨尊奬一國、謂之正統、其餘皆爲僭僞哉云々、周秦漢︀晋隋唐、皆嘗混壹九州傳祚於後、子孫雖微弱播遷、猶承祖︀宗之業、有紹復之望、四方與之爭衡者︀、皆其故臣也、故全用天子之制以臨之、其餘地醜德齊、莫能相壹、名號不異、本非君臣者︀皆以列國之制處之、彼此均敵、無所抑揚、庶幾不誣事實、近於至公、然天下離析之際、不可無歲時月日、以識事之先後、據漢︀傳於魏、而晋受之、晋傳於宋、以至於陳、而隋取之、唐傳於梁、以至於周、而大宋承之、故不得不取魏宋齊梁陳後梁後唐後晋後漢︀後周年號、以紀諸︀國之事、非尊此而卑彼、有正閏之辨也、昭烈之於漢︀、雖云中山靖︀王之後、而族屬踈遠、不能紀其世數名位、亦猶宋高祖︀稱楚元王後、南唐烈祖︀稱吳王恪後、是非難︀辨、故不敢以光武及晋元帝爲比、使得紹漢︀氏之遺統也」と云ひて、正統に關する論難︀の衝を避けたり。此の論頗る公平なるが如し。然るに通鑑の本文を觀るに、三國南北朝五代の際、魏南朝五代は、啻に其の年號を用ひたるのみならず、其の君を帝と云ひ、吳蜀北朝の君及び五代列國の帝と稱するものは、皆某主と稱し、其の交戰の如さも、前者︀には征といひ、後者︀には冠といひ、初より正閏の別を立てたるが如き筆法を用ひたり。いかでか之を「彼此均敵、無所抑揚」と云ふべけん。

 朱熹は、春秋の義に本づき、舊史の書法を正して、前代君臣の事蹟を褒貶せんと欲し、資治通鑑に依りて、綱目を作れり。其の凡例に「凡正統、謂周〈起篇首威烈王二十三年、盡赧王五十九年、〉〈起始二十六年、盡二世三年、〉漢︀〈起高祖︀五年、盡炎興元年、此用習鑿齒及程子說、自建安二十五年、以後、黜魏年、而繫漢︀統、與司馬氏異、〉〈起太康元年、盡元熈二年、〉〈起開皇九年、盡大業十三年、〉〈起武德六年盡天祐︀四年〉」「僭國、謂乘亂簒位、或據土者︀、〈如漢︀之魏吳晋之漢︀趙諸︀燕二魏二秦成漢︀代諸︀凉西秦夏之屬內二秦以上爲大國、成瀬以下爲小國〉」、オープンアクセス NDLJP:564「無統、謂周秦之間。〈秦楚燕魏韓趙齊代八大國凡二十四年、〉秦漢︀之間、〈楚西楚漢︀三大國、雍以下爲小國、凡四年〉、漢︀晋之間、〈魏吳晋三大國、凡十六年、〉晋隋之間、〈宋魏齋梁北齊後周陳隋爲大國、西秦夏涼北燕後涼爲小國、凡一百七十年〉隋唐之間、〈隋唐魏夏梁凉秦定楊吳楚鄭北梁漢︀東以上、凡五年、〉五代、〈梁唐晋漢︀周爲大國、二蜀晋岐呉南漢︀吳越楚荊閩南唐殷北漢︀爲小國、凡五十三年〉」と云ひて、漢︀の魏吳二大國は、晋の五胡諸︀國と共に僭國と名づけ、南北八朝及五代は、皆當時割據の諸︀小國と共に、無統と名づけ、凡一百七十年、年號は、唯正統のみ、歲干支の下に大書し、僭國無統の世は兩行に細書し、帝と云ひ崩と云ふは、正統の君に限り、僭國無統の君をば、某主と云ひ、其の死は、僭國なれば卒といひ、無統なれば殂と云ひ、其の他義例極めて詳細にして、十九門百三十七條に至れり。故にその書法の嚴密なることは從來の諸︀史と、大に其の面目を異にし、朱熹の學を講ずる者︀は、之を以て深く春秋の法に合へりとし、綱目を重んずること、經典の如し。

 朱熹と同時に張栻、經世紀年を作り、朱熹の後、黃震、古今紀要を作り、皆魏を黜けて、蜀を帝とし、李杞は、三國志の魏を帝とするを嫌ひて、改修三國志を作り、蕭常は、更に續後漢︀書を作り、元の都︀經も、宋人に拘留せられたる間に、續後漢︀書を作り、明の吳尙儉謝陛は、季漢︀書を作り、何れも昭烈を尊びて正統の君と爲せり。

 朱熹の學盛に行はれてより、蜀を正統とし、南北朝五代を無統の世とすること、學者︀の通論と爲り、唯元の胡一桂が古今通要に、通鑑の魏を帝とするを可として、綱目の蜀を帝とするを否としたる、明の王褘が大事記續編に、蜀の年號を、魏吳と同じく分註に書きて、所謂無統の例を用ひたる、明の方孝孺張自勳等の秦晋隋にも正統を與へざる如きは、僅に例外の事にして、史を作る者︀も、史を論ずる者︀も、大抵綱目の義例を以て金科玉條と爲せり。

 然れども朱熹の所謂正統なる者︀は、支那を混一したる者︀を云へるにて漢︀唐の盛世と雖も、其の未だ混一せざる間は、無統の世に屬せり。故に周秦漢︀晋隋唐宋七代の間、其の兩代の間には、必ず多少の無統の世ありて、前代と後代と隔絕し一も接續する者︀なければ正閏の論は、さて置き、系統なる者︀更に存せざるなり。されば、綱目の正統は、其の實は、正統に非ずして、一統の世なり。其は猶後段に云ふべし。

 元の世祖︀、史臣に命じて、宋遼金三史を纂修せしめ、仁宗文宗の世、又屢詔して修撰せしめたりしが、義例定まらざるが爲に、其の書久しく成らざりき。或は宋を以て世紀となし、遼金を以て載記と爲さんと欲し、或は遼の國を立つるは宋の先に在るが故に、遼金を北史と爲し、宋の太祖︀より欽宗までを宋史と爲し、高宗以後を南宋史と爲さんと欲し、各々論を持して決せざりしが、順定の時に至り、丞相脫々等に命じて、宋遼金三朝を各一史と爲さしめ、其の書始めて成れり。葢遼金を載記と爲さんとしたるは、晋書の十六國載記の例に依り、遼金を北史となさんとしたるは、李延壽が北史の例に依り、三朝を各々一史と爲したるは、唐の梁陳北齊周隋書の例に依れるなり。晋書の載記は善からざるに非ざれども、遼金は皆堂々なる大國にして、五胡諸︀國の匹儔に非ざれば、之を載記に黜くるは、固より其の當を得ず。三朝を各々一史として、皆其の帝國たる實を全ふせしむるは、公平の見なり。但此の三史は、皆三朝の舊史に據りて、刪訂の十分ならざる書なれば、其の互に詆排することは、唐人の南北五史にも過ぎて殆んど北人の自ら撰したる宋齊魏書の偏辭に似たり。

 明は、漢︀人を以て、蒙古を逐ひて、國を建てしが故に、遼金元を貶黜すること殊に甚しくして、唐人の北朝を重んずるとは全く反對なり。陳經通鑑續編を著︀し、宋を以て正統と爲し、遼金を以て僭國と爲し、劉石慕容符姚の徒に比せり。又宋史本紀は、德祐︀帝に終りて、景炎祥︀興二帝を錄せざりしが、陳桎は朱熹が蜀漢︀を帝としたる例に倣ひて、二帝を正統の天子と爲し、至元十七年前なる蒙古諸︀帝は、其の名を指斥して、オープンアクセス NDLJP:565蒙古主某と云ひ、其の帝たることを許さず。其の商輅等の通鑑綱目續編、薛應旂の元資通治鑑、皆陳桎の書法に從へり。

 陳桱等の書は、何れも編年史なれども、柯維騏に至りては、紀傳の史までも遼金の獨立を嫌ひ宋遼金を合せて一史と爲し、宋史新編と名づけ、宋を以て主と爲し、遼金の事を附錄し、且宋末二帝を以て本紀に列したり。明史柯維騏傳には、此の書を評して、「褒貶去取、義例頗嚴」と云へれども、四庫全書總目は、元史の「本紀終瀛國公而不錄二王、及遼金兩朝、各自爲史、而不用島夷索虜︀互相附錄之例」を以て最も理ある者︀と爲し、維騏の之に從はざるを譏りて、其の書を存目に貶したり。其の論に云く「至於元破臨安、宋統己絶、二王崎嶇海︀島、建號於斷檣壞之間、偸息於魚鼈重置之窟、此而以帝統歸之、則淳維遠遁以後、武庚構亂之初、彼獨非夏商嫡家、神︀明之冑乎、何以三代以來序正統者︀不及也、他如遼起滑鹽、金興肅愼、並受天明命、跨有中原、必似元經帝魏、盡點南朝固屬一偏、若夫南北分史、則李延壽之例、雖朱子生於南宋、其作通鑑綱目、亦沿其舊軌、未以爲非、元人三史竝修、誠定論也、而維騏强援蜀漢︀增以景炎祥︀興、又以遼金二朝、置之外國、與西夏高麗同列、又豈公論乎、大綱之繆如是、則區々補苴之功、其亦不足道也己」と云へり。此論大に謬れり。淳維武庚は、未だ嘗て帝王の位に陞らず。いかんぞ宋末二帝に比すべけん。二帝は、微弱にして播遷すと雖、宋の羣臣奉戴して主とせる間は、宋帝に非ずと云ふべき理なし。遼金二朝は、宋と對等匹敵の國なれば、二朝の事蹟を宋史の附錄とすべからざるは、さる事ながら「受天明命」と云へる事はいかゞ。遼金皆天の明命を受けたらば、宋は所謂僭僞の國なるか。若又宋も遼金も皆天の明命を受けたりと云はゞ、天に代りて民に臨む者︀、同時に二人あることと爲りて、從來諸︀儒の主張せる正統の說は、根底より仆るべし。又朱熹の綱目は、李延壽の舊軌に沿へるに非ず、延壽は南北兩朝を皆帝としたりしに、朱熹は、之を列國と看做して、決して帝號を與へざりき。宋の隆︀盛なりしことは、漢︀唐に似たりと雖、國初より北朝と並び立ちて實に混一したることなければ、綱目の義例にては、所謂無統の世にて宋も遼金も、皆列國となるべし。若遼の占領せる燕雲十餘州は、彈丸黑子の地にして、宋の正統たるを妨げずと云はゞ、遼は、夷狄の例に入りて、高麗交趾と異ならず、南宋は、蜀漢︀東晋と同じく、微弱なれども、猶正統を紹ぎ、金と蒙古とは、强大なりと雖魏吳劉石慕容符姚と同じく、僭國たるを免︀れざらん。いづれにしても、綱目の義例に據れば、遼金皆天の明命を受けたりなどと稱すべき由なし。

 按ふに淸人の此の論をなすは實に已むことを得ざるに出でたるなり。淸の明に代りたるは、恰も元の宋に代りたるに似たり。其の人種を考ふれば、滿洲なる淸人は、女眞なる金人と、同種なり。契丹なる遼人は人種に於ては女眞蒙古の間にありて其の國を建てしは、金元二代の先驅を爲せり。契丹女眞を夷狄とすれば、滿洲も夷狄と爲り、金と元初とを僭國とすれば、淸の太祖︀太宗も、僭國の君と爲る。故續三通、各省通志の如き官撰の書を初として、之を尊崇すること、唐宋の諸︀帝に異ならず。これ皆本朝の祖︀宗を尊ばんが爲めに、前代に及ぼせるなり。

 然れども支那の學者︀は、古來の正統論に拘束せられ、綱目の義例を壞りて、兩帝並立を明言する勇なければ、編年史を作るに當りては、又遼金蒙古の諸︀帝を帝とすること能はず、高宗御批の通鑑輯覽、徐乾學の通鑑後編、畢阮の續通鑑の類︀何れも遼主某、金主集、蒙古主某と書きて、宋滅ぶるに及びて、始めて元の世祖︀を帝とせり。此の義列に據れば、淸の祖︀宗と雖、明統の存する間は僭君たるを免︀れず。故に明史に、淸の世祖︀順治元年明の毅宗の崩を以て明亡びたりとし、安宗紹宗永曆三帝は、其の帝號を除きて、福︀王唐王桂王とし、明統を十六年減縮せり。通鑑輯覽、通鑑綱目三編の類︀、皆然り。宋末二帝の情況は、恰も明末三帝に似オープンアクセス NDLJP:566たり。明末三帝を黜くれば、宋末二帝も黜けざることを得ず、遂に淳維武庚の譬を設けて、詭辯曲說を爲すに至れり。これ又明淸革易の年を早めんが爲に、其の論を宋元革易の際に及ぼせるなり。

 四庫全書總目に、陳壽の三國志を評して、「其書以魏爲正統、至習鑿齒作漢︀晋春秋、始立異議、自朱子以來、無不是鑿齒而非壽、然以理而論、壽之謬、萬々無辭、以勢而論、則鑿齒帝漢︀、順而易、壽欲帝漢︀、逆而難︀、葢鑿齒時、晋己南渡、其事有類︀乎蜀、爲偏安者︀爭正統、此孚於當代之論者︀也、壽則身爲晋武之臣、而晋武承魏之統、僞魏是僞晋矣、其能行於當代哉、此猶宋太祖︀纂立、近於魏、而北漢︀南唐、蹟近於蜀、故北宋、諸︀儒皆有所避、而不僞魏、高宗以後偏安江左、近於蜀、而中原魏地、全入於金、故南宋諸︀儒、乃紛々起面帝蜀、此皆當論其世、未可以一格繩也」と云へり。此の論、誠に妙なり。凡て古今の史論は、道理に基づくよりも、時勢に制せらるゝこと多し、其は晋宋の史家のみならず、かく論ずる總目の撰者︀も、時勢に制せらるゝ一人たることを免︀れず。明人の遼金元を抑ふるは、漢︀人を以て胡人に代りたるが故に、胡人を警敵視︀するなり。淸人の遼金元を揚ぐるは、胡人を以て漢︀人に代りたるが故に同類︀として贔負するなり。かゝる偏私の心を去りて公平に考察することは、外國人に非ざれば能はず。これ豈正統に關する論のみならんや。

 抑正統とは、何をか云ふ。統系の眞直に連續する事なり。朱熹の所謂正統は、正統に非ずして、一統の世なり。正統の統は、時間に關する語にして縱の連續なり。一統の統は、空間に關する語にして、橫の合一なり。朱熹の義例に從ふ者︀は、一統を以て正統と爲すが故に、兩國對立の世、兩代革易の際に於て、常に正統の所在を定むるに苦しむなり。我が皇國は、天祖︀より今上天皇まで百二十餘代、一系相承けて、亂賊の神︀器︀を覬覦せし者︀すら有らず、此の後千萬世と雖、亦此の如くなるべければ、これ正統の最も長くして世界に例なき者︀なり。其の間、不幸にして皇統二つに分れたる時は、正閏の別は起りたれども、嘗て統系の中絕したること無し。支那の如き革易頻︀繁の國にては、正統の絕ゆること屢なり。先づ唐虞夏商周は或は禪讓に由り、或は放伐に由り、國號は屢變じたれども、正統は長く連續したりしが、周亡びて、正統始めて絕えたり。秦の正統は、新に創まれる者︀にして前代の統を紹ぎたるには非ず。漢︀の秦に於けるも、亦然り。漢︀衰へて魏之に代りてより、陳に至るまで、姦雄代る起り簒奪相踵ぎ國の廣狹も屢變じたれども、其の國の繼續する間は、正統も絕えざるなり。正統は仁義の國に限らず。姦雄〈魏晋宋齊梁陳の如き、〉盜賊〈梁太祖︀明太祖︀の如き〉夷狄〈拓拔、宇文、耶律、完顏の如き〉孰れか正統たらざらん。我が正統の尊きは、正統の尊きに非ず、國體の尊きなり。國體尊からざれば、正統も尊ぶに足らず。昭烈は漢︀の中山靖︀王の後なりと云へども、國は新造にして、二世にして亡び、前に受くる所なく、後に傳ふる所なく、統なきに近し。然れども君子の無統は、姦雄の正統より尊し。

 支那の史家は、魏を帝とすれば、吳蜀を僞とし、蜀を帝とすれば魏呉を僞とし、同時に二帝あることを許さず。南北朝の世に於ても、五代及宋と遼金蒙古との間に於ても、皆然り。何故に二帝あるべからざるかと云ふに、支那人の意にては、天子は、支那一國の君主に非ず、天の明命を受けて、四海︀に君臨する者︀なれば、廣き世界に一人より外あらずと思へり。古語に「天無二日、土無二王」と云ひ、「溥天之下、莫非王土、率土之濱、莫非王臣」と云へるも、此の意なり。不幸にして天下分崩し、帝と稱する者︀二人以上ある時は、支那の史家は、其の中一人を以て、天命を受けたる者︀とし、又は一人も天命を受けたる者︀なくして、正統絕えたりと考ふるなり。然れども支那一統の時にても、其の天子は、固より一國の主にして世界の主にあらざるを、兩朝分立又は三國鼎峙の如き場合に其の一人を尊びて、天命の歸したる世界の主とするは、甚だ無理なる事なり。且三國の主は、本より君臣に非ず、各其國に帝として、勢力相敵したれば、統の有無に拘らず、後世よりも又は他國よりも、之を僭僞と名づけて、其の帝號を貶黜すべき理なし。

オープンアクセス NDLJP:567 劉石慕容苻姚の徒は、本皆晋國の臣にして、亂に乘じて、其の土に竊據したる者︀なれば、僭僞の國たること論なし。拓跋氏に至りては、北方より起りて、中原に據り、禍︀亂を戡定して、大國を開きたれば、支那を一統せずと雖、自ら正統の例に入るべし。周隋之に繼ぎて、南朝と對峙すること二百年、南北各々統ありて繼承し、軒軽すべきなければ、いかでか之を無統と名づけて、其の帝號を除くべけん。遼金元淸は皆塞外に國を建てて、後に中原に入り、其の形勢、稍後魏に同じく、本皆前代の叛臣に非ざれば、誰を憚りてか、之を僭國に貶すべけん。然るを屑々然として、宋を揚げて遼金元を抑へんと欲するは明人の偏見なり。元淸の祖︀宗は、宋明の諸︀帝と同時に帝號を享くることを得べしとすれば、彼の淸人の、筆を極めて宋末二帝明末三帝を貶するは、殆ど無益の勞にあらずや。

 然らば宋元の改革は、何れの年に在るか。宋元の際は、夏亡びて商興り、商亡びて周興りしとは異なり。元の太祖︀は、宋の孝宗の時に興り、寧宗開禧二年に帝位に陞り、宋の祥︀興帝は、元の世祖︀至元十六年に崩じて、宋亡び元の太祖︀の即位より宋の亡ぶるまで七十三年を歷たり。宋亡ぶる前に、元の祖︀宗は旣に金夏回々欽察諸︀國を平げて、古今無比の大國となりたれば、元朝は始より自立の帝國にして、宋の統を承けたる者︀に非ず。何ぞ宋元革易の年といふべき年あらんや。然るを明人は、區々たる江南又は嶺南の降附せざるに由りて、元の諸︀帝の帝號を貶せんとするは偏見も亦甚し。明淸の際は、殆ど宋元の際に同じ。元の宋統を受けざるを知らば、淸の明統を受けざるも知るべし。明淸の際に統の連續なければ、淸の世祖︀順治元年を以て明淸改易の年と定めんとする淸人の議論は、全く無用の辨なり。

 支那歷代の中、正統の朝即ち獨立帝國と稱すべきもの左の如し。秦蜀吳遼金元明淸の八代は、皆前後に連續せず。此等は、各其の一代の中に於て正統の繼承ありしのみにして、前に受くる所なく、後に傳ふる所なき者︀なり。細字を以て書きたる者︀は、正統の朝より分れたる支派なり。正統の外には、周末列國、秦末列國、晋の五胡十六國、隋末諸︀僭國、五代列國、元末諸︀僧︀國等あれども、皆略せり。

                                          ┌─後梁
 唐━━━虞━━━夏━━━商━━周 秦 漢︀━━━魏━━━晋━━━宋━━━齊━━━梁━┻━陳
                        蜀漢︀ 後魏━┳━西魏━━━周━━━隋
                         吳    └東魏───北齊
                 ┌─北漢︀
 唐━後梁 後唐━━━後晋 後漢︀━┻━後周━━━宋
       遼                金 元 明 淸

 因に云ふ、近世の人、支那の帝王を記するに、正統僭國の別なく、凡て其の廟號諡號を黜けて、某主某と其の姓名を稱する者︀あり。こは大日本史の書法に基きたるなり。支那人は、古より「士無二王」即ち世界に二人の天子なしと云へる妄想を懷きて、外國をば凡て夷狄と賤め、外國の君主に皇帝と稱する者︀ありとも、決して之を認めざる習慣なりしかば、皇國のことを記するにも、天皇の御事を倭王と云ひ、崩御を死と云ひ、いかにも無禮なる書方なれども、皇國の人は、其等の事に頓着せず、上下擧りて漢︀風を喜べる時代には、彼の國を華夏中國と崇び、其の國號を呼ぶには、大唐大明など云ひ習はしゝが、本居宣長氏は、戎國の王を天子など云ふまじきことを痛論し、水戶の大日本史は、務めて內外の分を正し 唐の太宗を唐主李世民、元の世祖︀を元主忽必烈など書き、其の崩をば殂と改め、日本外史も、之に傚ひ、明の神︀宗を明主朱翊鈞、朝鮮の宣祖︀を韓王李昭と云へり。これより內外を顚倒する弊風全く已みて、外國の君主を貶黜することを皇國に忠オープンアクセス NDLJP:568義なるが如く心得るに至れり。然しながら今日より考ふるれば、彼より無禮を加へたるに由りて、我よりも其の報復として、彼の天下を呼下しにせんと云ふは、いかにも大人げなき爲方なり。且報復ならば被害の度に相應せざるべからず。彼は我を夷狄として、天皇の崩を死と云ひたるに、我は、殂を以て之に報ひては、割の合はぬ咄なり。通鑑の書法にては、四海︀を奄有する者︀には崩と書き、分治する者︀には殂と書き、綱目の凡例崩葬の條には「正統曰崩、僭國之君稱帝者︀、曰某主姓某卒、無統之君稱帝者︀曰某主某殂、蠻夷君長曰死、盜賊會帥曰死」とあり。大日本史は、支那の天子を何と見たるか。僭國之君ならば、卒と云ふべし、無統之君ならば、上に天子なきなり。通鑑の分治者︀も、義同じ。天皇儼然として上にましませるに、分治無統の例を用ひば、支那の天子を帝とせざるのみならず、天皇をも認めざる事とならん。

 方今各國の交際益々親密になり、外國の君主の事を記するに、キングも、ロハも、シヤーも、スルタンも皆皇帝と譯して、天皇の御事を記するが如き尊敬の語を用ふる事となりたるに、支那の前代の帝王を記するにのみ、大日本史の筆法を用ふるはいかゞ。前代の帝王に關しては、何方よりも不足を訴へらるゝ氣遣なけれども、死人の屍を鞭うつが如きは、勇者︀の事に非ず、朝鮮國の先王の事も、日本外史の韓王李昖などは已めて、宣祖︀とか昭敬王とか云ふべきなり。これらは、今の王室の祖︀宗なれば李昭など云ひては今の王室に對して不敬なり。

 
 

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