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押絵の奇蹟


看護婦さんの眠っておりますすきを見ましては、つたない女文字を走らせるので御座ございますから、さぞかしお読みづらい、おわかりにくい事ばかりと存じますが、取り急ぎますままに幾重いくえにもおゆるし下さいませ。


 あれからのち、お便り一つ致しませずに姿をかくしました失礼のほど、どんなにかおぼし召しておいでになりますでしょう。どう致しましたならばお詫びがかないましょうかと思いますと胸が一パイになりまして、悲しい情ない思いに心が弱って行くばかりで御座いました。そうしてやっとの思いで一昨晩コッソリと帰京致しますと、すぐにあれからのちの新聞を二三通り取り寄せまして、次から次へと繰り返して見たので御座いますが、私の事につきましていろいろと出ております新聞記事と申しますのが又いずれ一つとして私の心を責めさいなまぬものは御座いませんでした。

 あの、丸の内演芸館で催されました明治音楽会の春季大会の席上で、突然に私が喀血かっけつ致しまして、程近い綜合病院に入院致しますと、その夜のうちに行方ゆくえ不明になりました事にきまして、新聞社や、そのほかの皆様から寄せて頂いております御同情の勿体もったいなさ。それから又、最後までお世話になっておりました岡沢先生御夫婦の親身も及びませぬ痛々しい御心配なぞ……そうして、そのような中に、とりわけても貴方様が、あの時からのち、心ならずも貴方様から離れて行きました私の罪をおとがめになりませぬのみか、かずならぬ私の事を舞台を休んでまで御心配下さいまして、いろいろと手を尽して私の行方をお探しになっておりますうちに、思いもかけませず私と同じように喀血をなされました。そうして同じ丸の内の綜合病院に、御入院になりまして、私の名前を呼びつづけておいで遊ばすという事を「処もおなじ……」という雑報欄の記事で拝見致しました時の心苦しさ……。そうしてそれと同時にあなた様と私とが斯様かように同じ運命の手に落ちて参りまして、おなじ病気にかかって同じように血を吐く身の上になりましたことが、けっして偶然でありませぬ事を思い知りました時の空怖ろしさ……。唯さえ苦しいこの呼吸いきが絶え入るまで、ハンカチを絞って泣きましたことで御座いました。

 こんなになりました上は、何をおかくし致しましょう。

 私はずっと前、まだ貴方様に直接のお眼もじ致しませぬうちから、あなた様こそ只今の歌舞伎界で一番お若い、一番のお美しい女形おやまの名優として、外国にまでお名前の高い中村半次郎様こと、菱田新太郎様でおいで遊ばすことを、蔭ながら、よく存じておりました。

 そればかりでは御座いませぬ。

 大変に失礼な申上げようでは御座いますけれども、そのあなた様が、私と同じ年の二十三歳でおいでになりますばかりでなく、今日まで一人も婦人をお近づけになりませずに、女嫌いという評判をそのままに立て通しておいでになりましたことも、よく存じ上げておりました。

 それで、もしか致しましたならば、貴方様は御自分でも御存じのない……ただ、広い世界に私だけが、タッタ一人で存じております或る不思議な運命の糸に縛られておいでになりますので、そのために、ほかの女性をお振り向きにならないのではないかしら。……言葉をかえて申しますれば、あなた様と御一緒の運命に結びつけられる女と申しますのは、この世にたった私一人きりなのではないかしら……と、毎日毎日心の底の奥深いところで、おそれ迷いながら、今日こんにちまで生き永らえておりましたことで御座いました。

 とは申しますものの、貴方様方のような名高いお方のお眼に止まりそうにもないつたないピアノ教師の身として、このような及びもつかぬ事を考えておりますことが、もしも他人にわかりましたならば、どんなにか笑われた事で御座いましょう。

 中村半次郎様こと菱田新太郎様を存じております日本中の女子は皆、おんなじ夢を見ているのだから心配する事はない。自惚うぬぼれの強いのにも程があるといって死ぬ程ひやかされた事で御座いましょう。

 何事も御存じないあなた様としても、私が突然にこのような事をお耳に入れましたならば、さぞかしビックリ遊ばすことで御座いましょう。

「あなた様の御運命を、ずっと前から人知れず、私だけが存じ上げておりました。あなた様からの結婚の御申込みを受けますものは、私という女よりほかにおりませぬでしょうことを、くり返しくり返し想像致しまして、ふるえ、おののきつつ月日を送っておりました」

 と申し上げましたならば、そんな事があり得よう筈はないと、すぐに思し召すで御座いましょう。あとからそのような作り事をして、結婚を避けようとしているのではないかと、お疑いになるで御座いましょう。

 けれども、このような場合に作りごとを申しましてどう致しましょう。

 忘れも致しませぬ、あの丸の内演芸館内の演奏場で、私は拙ないピアノの独奏を致しておりました二日目の事で御座いました。明治音楽会の幹事をしておられます松富さんが、楽屋の入口でヒョイと私の肩をおたたきになりまして、こんな事を云われました。

ぐちさん。シッカリおやんなさいよ。名優の菱田新太郎君が昨日きのうからたった一人であの一番うしろの席に来ておられるのですよ、新太郎君は女嫌いと西洋音楽嫌いで有名な人なんですからね。それが男嫌いで通っている、貴女あなたの演奏をききに来て、あなたの番が済むとサッサと帰って行かれるのですからね。たった今新聞記者が、その事を私に知らせてくれましたから、あなたはまだ、そんな事を御存じない筈だと返事をしておきましたがね。何でも大した評判になりかけているらしいですよ。ハハハハハ」

 これをうけたまわりました時の私の驚ろきは、どんなで御座いましたでしょう。今まで想像にだけ描いておりました貴方様と私との間の夢のように不思議な運命のつながりが、思いもよりませぬ晴れやかなところで、あまりにもハッキリと現実にあらわれかかって参りました恐ろしさに、私はもう夢中になってしまいました。病気と云って演奏場から逃げ出そうかしらとも思いましたくらい息苦しくなって、胸がドキドキ致して参りました。

 けれども、それまでの私は、お写真でしかあなた様にお眼にかかった事が御座いませんでしたので、せめてと目なりとも本当のお顔をお見上げして、この世のお名残なごりに致したいというような、やる瀬のない思いに引き止められまして、ワクワク致しながら「月光の曲」を弾いていたので御座いますが、そのうちに鳥打帽と背広を召して、大きな色眼鏡をおかけになった貴方様が、正面の入口からソッとお這入りになりまして、電燈の下の壁におりかかりになりました。

 そのお姿を楽譜の蔭からチラリと見ました時の私の胸の轟きは、どんなで御座いましたでしょう。その時にあなた様は急いでおでになりましたせいか、人に気づかれないように壁に身体からだをお寄せになって色眼鏡をはずして汗をお拭きになってから、ソッと私の方を御覧になりました。

 そのお顔をハッキリと眼には残しながら、死ぬかと思われるほどの不思議な驚きに打たれました私は、思わず気を失ってしまいまして、皆様に一方ひとかたならぬ御心配をかけました。それのみか、思いもかけませず喀血を致しまして、明治音楽会に一つしか御座いませぬ大切なピアノをよごしましたために、折角せっかくの演奏会が中止になりましたとの事で、ホントにどうしてお申訳もうしわけを致しましょうかと、思い出しては溜息を重ねているばかりで御座います。皆様は、それを私がねてから職業に熱心のあまり忍び包んでおりました病気のためとばかり思し召して、私の身にとりまして堪えられぬ程の御同情を賜わっておりますとの事で御座いますが、まあ、何という勿体ない事で御座いましょう。

 けれども、ほんとの事を申しますと、私が失神致しましたのは、そうした病気のせいではなかったので御座います。

 私はあの時に、色眼鏡をお外しになった貴方様のお顔を拝見致しますと一緒に、もすこしで、

「あっ。お母様……」

 と叫びそうになったので御座います。そんなにまで貴方様のお顔が私の亡くなったお母様に似ておいで遊ばしたからで御座います。

 もっとも、あなた様のお姿が、私のお母様にソックリでおいで遊ばすことは、予ねてから、色々な雑誌に出ております写真で、よく存じてはおりました。けれども、あのようにソッと私を御覧になりました愛情にみちみちたお眼づかいまでが、ソックリそのまま、私のお母様に生き写しでおいでになりましょうとは夢にも想像致しておりませんでしたので、失礼な言葉か存じませぬけれども、あの時貴方様は、私のお母様の生れかわりとしか思われなかったので御座います。

 私はもう、そう思いますと一緒に、私の運命が眼の前で行き詰まりかけておりますことがアリアリとわかりました。そうして、つい気が遠くなってしまいましたので、病気のせいではありませぬ事を、心から信じているので御座います。

 前にも申上げました通り、私は一生のうちに一度はキット、あなた様からの結婚のお申込みを受けますことを、ずっと前から覚悟致しておりましたので御座います。そうして、それと一緒に、その貴方様からのお申込みばかりは、たとい自分の心がどんなで御座いましょうともお受けしてはならぬ……と申しますような世にも悲しい、恐ろしい運命を持っておりますことをも、身に泌みてよく存じておりましたので御座います。


 そのわけを、只今からあなた様に、スッカリお打ち明けせねばなりませぬ私のせつなさ、情なさ、もう身を切られるようで御座います。とは申せ、世界中で唯お一人、そのわけを御理解下さる貴方様に、只一眼ひとめなりともお目もじがかないまして、このようなお手紙を差し上げられるような身の上になりました事を思いますと、このままにこの秘密を胸に秘めてあの世に旅出ちますよりも、私はどんなにか幸福で御座いましょう。

 そのわけの第一と申しますのは、現在あなた様と私とを、同じように苦しめております、この病気で御座います。わけても私の方のは私のうちの代々からお母様に伝わりましたものなので、もうとても助かる見込みはありませぬことで御座います。

 それから、その次のわけと申しますのは、申し上げたらビックリ遊ばすか存じませぬが、私の右の背中から、右の乳の下へ抜けとおっております刀の刺し傷で御座います。この傷のあとと、それにまつわっております私の生涯の秘密ばかりは、たとい生命いのちにかえましても他人様に気付かれまいと思いましたために、斯様かような病気になりましてもお医者様にも見せずに秘め隠して参ったので御座いますが、只今となりましては、もはや、あなた様にだけは、どうしてもお打ち明け申し上げなければならぬ時節が参りましたものと存じているので御座います。

 それから今一つ、あなた様にこの身をお委せ出来ませぬ一番大切な理由わけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。

 失礼とは存じますが、貴方様と私とは、この世に生れ出ました時から、赤の他人同志ではなかったように思われるので御座います。その証拠の一つとして貴方様は、前にも申し上げますように、私のお母様のミメカタチをそのままのお姿でいらっしゃるので御座いますが、一方に私の姿もまたあなた様のお若い時の御様子を、そのままに女になりました姿でおりますことを、まだ小さいうちからよく存じておりましたので御座います。

 こう申し上げましただけでも、あなた様には私の申しますことがいつわりで御座いませぬ証拠を、たやすくお気づき遊ばすで御座いましょう。そうして、すぐにも私を、血をわけた妹かと思し召して、どんなにか苦しみ遊ばすことで御座いましょう。

 けれども、どうぞ御願いで御座いますから、お心をお鎮めになって、これから私がしたためますことを、おしまいまで御覧下さいませ。

 そう遊ばしたならば、あなた様と私とは、かように両親のみめかたちを取りかえた姿になっておりますままに、もしか致しますとその間には、何の血すじのつながりもあり得ませぬことをハッキリと証拠立てられるようにもなっております事が、追々おいおいとおわかりになるで御座いましょう。そうしてこのような不思議な御縁で、あなた様と結びつけられようと致しておりますことは、世にもいまわしい悪魔の所業なのか、それとも神様の尊い思し召しなのか、よくわかりませぬままに悩み悶えております私の心持ちも、一緒におわかりになるで御座いましょう。

 私はあの演奏場で、あなた様のお顔をお見上げしますと同時に、ねてから想像致しておりました、あなた様と私との運命にまつわる、かような不思議な悩ましさが、もう眼の前に押し迫っておりますことを、マザマザと思い知りましたので御座います。


 御免遊ばせ。私はもう思いが乱れますばかりで、ただ取り止めもない事ばかり認めているようで御座います。

 とは申せ、いずれに致しましてもこのような貴方様と私とにまつわる不思議な因縁がハッキリとわかりませぬうちは、たとい貴方様と私との思いが、どのようになりましょうとも、あなた様のお手にこの身をお委せすることは出来ませぬ。それよりも私の姿が貴方様方のお眼に止まりませぬうちに、この病気で亡くなりました方が、かえって貴方様のおためと存じまして、そればかりを祈っておりましたのに、あのようなことになりまして、私は演奏場からすぐに程近い綜合病院へ運ばれましたので御座いますが、その遅くに看護婦のすきを見て貴方様が、私の病室へお忍び下さいまして、あのようなお言葉をお洩らしになりました時の私の嬉しさと悲しさ……。

「その病気はキット僕がなおして上げる。君さえ承知してくれれば君は僕の妻だ。僕は生命いのちも何もらないのだから。その証拠にサア接吻を……接吻を………」

 ああ。何という雄々おおしいお心で御座いましょう。何という御親切で御座いましょう。もし私があの時に気絶せずにおりましたならば、どのような事になっておりましたでしょうか。

 やがて、ひとりでに気がつきました時に、私の唇や頬に残っておりました貴方様のほのめきのおなつかしかったこと。悲しゅう御座いましたこと……。

 ああ。あの時に私は、どんなに泣きましたことか。何事も御存じないあなた様を、こんなにまでお苦しめ申し上げる私の罪深さ、運命の意地の悪さを、どのように怨み悶えて泣きましたことか。

 そのうちに夜が明けかかりますと、私は附添の看護婦さんの寝息を見すまして起き上りまして、高い熱のためにフラフラ致しますのを構わずに、身のまわりのものを纏めて病院を脱け出しました。それから演奏の時に着ておりましたものの上に被布ひふを羽織りましたまま汽車に乗りまして、故郷の九州福岡へ帰りました。そうして博多駅より二つ手前の筥崎はこざき駅で降りまして人目を忍びながら、私の氏神になっております博多の櫛田神社へ参詣致しまして、そこの絵馬堂えまどうに掲げてあります二枚の押絵おしえの額ぶちに「お別れ」を致しました。

 あなた様と私の運命にまつわっております不思議な秘密と申しますのは、その二枚の押絵の中に隠れているので御座います。私の背中と胸にあります突ききずと申しますのも、あなた様のお唇を安心してお受け出来ないようになりました原因と申しますのも、みんな、もとを申しますと、その二枚の押絵がした事なのでした。ですから私はその運命とお別れを致したいためにわざわざ九州まで参りましたので御座います。早かれ遅かれ助からぬ生命いのちと存じまして……。


 けれど、その二枚の押絵をあおのいて見ておりますうちに私は何かしら、或る気高けだかい力に引き立てられて行くような気持ちになりました。

 そのうちの一枚は八犬伝の一節で、犬塚信乃いぬづかしの犬飼現八いぬかいげんぱち芳流閣ほうりゅうかくの上で闘っておりますところで、今一つは阿古屋あこや琴責ことぜめの舞台面になっております。どちらも大きな硝子張りの額ぶちに入れてあります上から今一重ひとえ、頑丈な金網で包まれて、絵馬堂の西の正面に並べられているので御座いますが、それを見上げておりますうちに、これは、もしかしたら、その押絵の中にもっております、貴方様と私との運命を包む神秘の力が、今一度新しく、私の心に働らきかけているのではないかしらと思いましたくらい、私の身うちがゾクゾクと致して参りまして、何かしら不思議なお酒に酔っているような気持ちになってしまったので御座いました。

 その時ほどに運命の力というものをシミジミと嬉しく、楽しいものに感じましたことは私の一生のうちに一度も御座いませんでしたでしょう。

 この世の中に運命でないものは一つもない。ですから私はこの病気で死ぬものときまってはいないでしょう。

 もしかすると今一度、不思議と健康な身体からだになって、あなた様にお眼にかかるような事がないとも限りませぬ。

 そのような運命を知っておりますのはこの二つの押絵ばかり……その中でも、刀を振り上げている犬塚信乃と、琴を弾いている阿古屋の二人だけが、何もかもチャンと知っているので、その運命に、私のかよわい力がさからおうとしても何の役に立ちましょう。

 私はこうした運命の手にいだかれて、貴方様のお傍に参りましょう。そうしてお懐かしいお胸にすがって、今までの事をスッカリお打ち明けして、心ゆくまで泣かして頂きましょう。

 それが私のホントの運命なのでしょう。

 こんなような、七八ななやつの子供が夢みますような、甘えた、安らかな気持ちになりまして、うつつともなくウトウトしながら上りの汽車に乗ったことで御座いました。


 東京へ帰りつきますと、わざと、場末の名もないような小さな宿屋に泊りました。そうして前にも申上げましたように、そこであれからのちの新聞を読んだので御座いますが、その記事の中でも、とりわけて身を責められました貴方様の御親切の程……それは私の肉体と心につき纏うております世にも恐ろしい、不思議な秘密のすべてをあらわにしてお眼にかけましても、あとへはお退きになりそうに思われませぬお心のほどと、そのために急に重くおなり遊ばした御病気の事を承知致しますと同時に、あなた様と私との運命を支配致しております、あの押絵の神秘の力を、どのように空恐ろしく思い知りましたことでしょう。どのようにその新聞紙をいだき締めて泣き濡れましたことでしょう。

 そうして幾度思い返しましても、そうした運命にこの身を委せて、あなた様にお眼にかかって、この秘密をお打ち明けするよりほかに道はない。そうしたならば、あなた様と私の病気もおのずとなおってしまうのかも知れない。イエイエ、あなた様と私とが、かように同じ病気にたおれましたのは、そうした眼に見えませぬ運命の手が、自分勝手にあなた様から離れて行こうと致しました私を、ぜひともお傍へ引きもどすための、不思議な親切からしてくれたことかも知れない……というような果敢はかない、遣る瀬のない思いに胸をときめかせながら、いく度あなた様へ差上げるお手紙を書き直しましたことか。お恥かしい心と、つたない文章が気になりまして何枚ペーパを破り棄てましたことか。

 とは申せ、そうした私の思いは、おおかた高い熱に浮かされておりました私の、まぼろしでしか御座いませんでしたでしょう。私は間もなく現実に目ざめなければなりませんでした。

 そのようにして、いく度もいく度も貴方様に差し上げる手紙を書き直しておりますうちに、私はもう、もどかしくてもどかしくて堪えられないようになりました。すぐにも貴方様にお眼もじしなければ死んでしまいそうな思いに一パイになってしまいました。このままにお手紙を書いておりましたならば眼がくらんで、たおれるかも知れないと思うほど息苦しくなりましたので、すぐに宿の払いを済ましまして、他眼ひとめをさけて、あなた様の御見舞に伺うつもりで、すこしばかりの手荷物を纏めかけたので御座いましたが、そのうちに博多で求めました灰色のブランケットを畳んでおりますと間もなく、私は又も、二度目の喀血を致しましたので御座います。

 どうぞお許し下さいませ。

 その時に私は、毛布の上に突伏つっぷしながら、あなた様と私との運命が、みじめに打ちくだかれて行く姿をハッキリとまぼろしに見ました。青い青い、広い広い、大空か海かわかりませぬ清らかな、美しいものが、お互いに血をはきながらもシッカリと一ツにいだき合っている、あなた様と私の身体からだを吸い込もうとして、はるかの向うにピカピカと光りながら待っているのが見えました。そうしてあなた様と私とがズンズンとその方に吸い寄せられて行きますのが、何ともいえませず気持ちよく思われました。

 けれども、そのまぼろしが消えますと、私は一生懸命の思いで、やっと気を取り直しました。そうして息も絶え絶えの思いを致しながら、血のあとを包み消しまして人力車に乗って、この北里先生の療養院に参りましたが、もう私の生命いのちはないものと存じまして、無理をしてはならぬという係りのお医者様のお言葉をお受けはしながら、この紙と鉛筆をソット寝床の下へ忍ばせまして、看護婦さんのすきを見てはお手紙を書いているので御座います。

 この手紙をおしまいまで、お読みになりますれば貴方様は、すぐにあるタッタ一つの事を、お思い出しになるに違いないと思います。それはあなた様にとりまして何でもないほどに、よくおわかりになっていることかと思いますが、それをお思い出しになりさえすれば、すべての秘密を何の苦もなく解いておしまいになることと信じております。

 いずれに致しましても、あなた様と私との間にまつわっております不思議な運命の謎を解いて頂けますお方は、この広い世の中に、あなた様お一人しかおいでにならないので御座います。私は唯、そのたった一つの事を、あなた様にお尋ね致したくてたまらぬ思いに責められながら、そうした勇気を出し得ませぬままに、今日まで生き永らえておったようなもので御座います。

 とは思いながら、何から先に申し上げてよいやらわかりませぬ。この悩ましさをどう致しましょう。あせってもあせっても進みませぬこの筆のもどかしさをどう致しましょう。

 ああ。私は、あなた様の、あの熱い涙のお言葉と、お口づけを一生の思い出としてあの世に旅立ってはわるいので御座いましょうか。


 私はこの頃毎晩のようにあの押絵の夢ばかり見るので御座います。あの芳流閣の一番頂上の真青な屋根瓦の上にまたがって、銀色の刀を振り上げております犬塚信乃の凜々りりしい姿や、いかめしい畠山重忠の前で琴を弾いております阿古屋あこやの、色のさめたしおらしい姿を、繰返し繰返し夢に見るので御座います。それにつれて私のお父様の顔や、お母様の顔や、または生れてから十二年の間に住まっておりました故郷の家の有様なぞが、幻燈まぼろしのように美しく、千切ちぎれ千切れに見えて参ります。そうして眼が醒めますと、ちょうどその頃の子供心に立ち帰りましたような、甘いような、なつかしいような涙が、いつまでもいつまでも流れまして致しようがないので御座います。

 それは熱のためばかりではないように存じます。おおかた私の生命いのちが、もう残りすくなになっているせいで御座いましょう……とそう思いますと貴方様のお顔が一入ひとしおおなつかしく、又は悲しく思い出されまして胸が一パイになるので御座います。


 私の生家は福岡市の真中を流れて、博多湾に注いでおります那珂川なかがわの口の三角洲の上にありました。

 その三角洲は東中洲ひがしなかすと申しまして、博多織で名高い博多の町と、黒田様の御城下になっております福岡の町との間に挟まれておりますので、両方の町から幾つもの橋がかっておりますが、その博多側の一番南の端にかかっております水車橋みずぐるまばしの袂の飢人地蔵うえにんじぞう様という名高いお地蔵様の横にありますのが私の生家で御座いました。そのうちは只今でも昔の形のままの杉の垣根に囲まれて、十七銀行のテニスコートの横に地蔵様と並んでおりますから、どなたでもおでになればすぐにわかります。

 もっとも今から二十年ほど前に私たちが居りました頃の東中洲は、只今のように繁華な処でなく、ずっと西北の海岸ぎわと、南の端の川が二つに別れている近くに一並びずつしか家がありませんでしたので、私たちの家だけは、いつもその中間の博多側の川ぶちに、菜種なたねの花や、カボチャの花や、青い麦なぞに取り囲まれた一軒家になっておりましたことを、古いお方は御存じで御座いましょう。

 私の家は黒田藩のお馬廻うままわり五百石の家柄で、お父様は御養子でしたが、昔気質かたぎの頑固一徹とよく物の本やお話にあります。あの通りのお方で、近まわりの若い人たちに漢学を教えておいでになりました。それに生れつきお酒がお嫌いで、大の甘党でおいでになりましたので、私が十歳にもなりました時は、よほど胃のお工合がわるく、保養のためといってよく畑いじりをしておいでになりましたが、そのせいかお顔の色が大変黒くて、眉毛の太い、お眼の切れ目の深い、お口の大きい、武士らしい怖い顔のお方で御座いました。

 それに引きかえて私のお母様は世にも美しい、そうして不思議なお方でした。

 私のお母様は、只、生きるためにしか、お食事をなされぬように見えました。よくまああれでお身体からだつものと、子供心にも思わせられました位小食でした。又お母様は、

「あの一軒屋に居りながら、いつの間に見て御座るのか」

 と知り合いの人が感心しておりましたくらい髪なぞもチャンと流行風はやりふうって、白いものなぞをチョッとかけておられましたが、それが又、飾り気がないままにたとえようもなく美しく見えました。そのお母様を育てました乳母で、オセキという元気な婆さんは、そのころ大きな段々重ねの桐の箱を背負うて、田舎まわりの小間物屋をしておりましたが、お母様はその婆さんから折々油や元結もとゆいなぞをお買いになるほかは何一つ贅沢なものを手にお取りになるでもなく、かえってそのオセキ婆さんの方が、お母様のお作りになった絞りの横掛けや、金襴きんらんのお守り袋なぞを頂いて田舎で売ってもうけていたとの事でした。夏なぞは御自分でお染めになった紺絞りの単衣ひとえを着ておられるのが、ツキヌクほど白いお顔の色や、襟足や、お身体の色とうつり合ってホントにお上品に見えました。ある時私に、おまんじゅうを焼いて上げようと仰言おっしゃって、手拭をチョット姉さん冠りにして火鉢の前にお坐りになった、そのお姿のよかったこと、今に眼についております。

「あなたのお母様は絵のようだと申し上げたいが、絵よりもズウットズウットお美しい」

 とある人は申しました。

「女でさえ惚れ惚れする」

 と云って昆布売りの女が見かえり見かえり出て行ったこともあります。嘘か本当か存じませぬが、その頃の福岡の流行はやり歌に、

「みなさんみなさん、福岡博多で、釣り合いとれぬが何じゃいナ。トコトンヤレトンヤレナ。あれはぐち旦那と奥さん。中洲に(泣かずに)仲よく、暮すが不思議じゃないかいな。トコトンヤレトンヤレナア」

 というのがあったと誰からか聞いておぼえておりますが、教えた人は忘れてしまいました。

 けれどもお母様のホントの不思議と申しますのは、そんな事ではありませんでした。

「あなたのお母様は、私と同じ指を持っておいでになるのに、どうしてあのように不思議なお仕事が、お出来になるのでしょう」

 というのは、うちに来られる人のみんなが皆言う事でした。私のお母様は、そんなにまで人が不思議がる程、指先のお仕事がお上手なのでした。

 私が八歳の冬まで生きておいでになりましたお祖母ばあ様や、オセキ婆さんや、人様のお話によりますと、お母様は井ノ口家のたった一粒種で御座いましたが、七歳の時に御自分の初のお節句にお貰いになった押絵の人形をこわして見て、それを又作り直してひとり手に押絵の作り方をお覚えになったのだそうです。それからのち、お手習いが済みますと、人形の顔形や花もようなぞを鼻紙や草紙の端に描いて、いつまでもいつまでも遊んでおいでになりましたそうで、お友達なぞも先方から遊びに来られなければ、こちらからは進んでお出でになるようなことはありませんでした。そうして十歳位になられた時に、遊び事に作られた押絵の人形が評判になって売れて行きましたので、私のお祖父じい様やお祖母様がビックリなすったそうです。

 お母様はそれから十一になられますと、博多の小山おやまという所の母方の御親戚に当るお婆さんの処へ行って、機織はたおりいなぞをお習いになりましたが、そのお婆さんが名高い八釜やかまのお師匠さんでしたのに、お母様ばかりは何も云われませんでしたそうで、十四歳の時には、もうお師匠様と変らぬ位にお出来になりました。刺繍なぞもその頃から遊びごとに作られたのが、大人おとなのそれよりも綺麗でシッカリしていたという事で御座います。


 私のお父様が月川家から御養子にお出でになりましたのは、お母様の十五の年で、お父様のお年はたしか二十四歳でした。

 それから、これはお母様の事ですが、お母様が御婚礼をなすったあくる年の十六のお正月に、お仕事のお師匠様の処へ御年始にお出でになりました節、御親戚の事とてお師匠様はお雑煮ぞうにを出すからと用意をされました。その時にある人が板のような厚い博多織の男帯を持って来まして、これは今上方かみがたから博多に来ている力士の帯で、わざわざ博多へ注文して織らせて上方で仕立てさしたものだけれど、何だか結び目が工合が悪くて気に入らないから、又仕立て直さしたけれども矢張りいけない。博多織を扱いつけておられるこっちのお師匠さんよりほかに仕立て直して頂く処がなくなりましたから持って来ましたと申しました。するとお師匠さんのお婆さんが、それはよいところへ見えました。今ちょうど何でもお出来になる福岡一の美しい奥さんが見えているから、といってお母様に押しつけて仕舞われました。

 お母様は怖い、意地の悪いお師匠様のお言葉を背きもならず、その上に私のお父様が何でも負ける事がお嫌いなのを、よく御存じでしたので、もし、お断りしてお雑煮も頂かずに逃げて帰ったことが、あとでわかっては大変とお思いになりまして、泣く泣くお引き受けになりましたが、何度も仕立て直したものなので、その縫いにくい苦しさと切なさ。涙が出たとのお話で御座いました。けれども、ともかくも、お雑煮が出来るまでに仕上げて、早速持たせてお遣りになりましたところが、大変にそれが気に入りましたらしく、すぐに沢山の仕立て代を持たせてよこしたのをお母様はキッパリとお断りになりましたそうです。そうしたらその角力すもう取りは、そのあくる日に沢山の縮緬ちりめんとか緞子どんすとかを台に載せて、自分で抱えて人力車に乗ってお母様の処へお礼に来ましたので、そんな訳を御存じないお父様は大層お驚きになりました。そうして御自分で玄関へ出て来て、

「うちの家内はお前達のような者に近づきは持たぬ」

 と仰言ったのを、あとから出てお出でになったお母様がお引き止めになったので、やっと品物をお受け取りになりましたが、角力取りはお玄関で追い返されてしまいました。

「あれはお前を見に来たのに違いない。これから角力取のものなぞ縫うことはならんぞ」

 と、お父様はあとで大層お母様をお叱りになったそうです。


 それから今一つ、お母様が十八の年の二月に博多一番と云われております大金持ちの柴忠しばちゅう(本当は柴田忠兵衛)さんという人が自身でお父様に会いに来られまして、こんな事を云い出されました。

「今日お伺い致しましたのは、私のうちの娘の初の節句に是非ともこちら様の奥様の押絵を飾らして頂きたいと存じまして、その事をお願いに参りましたので御座います。それにつきましては、もう四五日しますと東京の千両役者で中村半太夫はんだゆう(あなた様のお父様で御座います。失礼な言葉づかいを何卒なにとぞおゆるし下さいませ)というのが博多に参りまして瓢楽座ひょうがくざで十日間芝居を致します。そのお目見得めみえ芝居の芸題は阿古屋の琴責めで、半太夫が阿古屋をつとめる事になっておりますから、その舞台を御覧になって、その通りの場面を五人組みに作って頂けますまいか。そのためには正面の一番よい桟敷さじきを初日から千秋楽まで買い切っておきますが、どうぞ充分に御覧下さいませ。下地の錦絵はここに持って参りました。この三枚続きですが芝居を御覧になりました上でどんなにお作りかえになりましても構いませぬ。又衣裳が御覧になりたければ楽屋へお出でになって手に取って御覧になっても構いませぬ。私が御案内を致します。まことに不躾ぶしつけでは御座いますが費用も手数も一切いといませぬから、どうぞ奥様の一世一代のおつもりでのちの世に伝えるものを頂戴致しまして、私の娘にあやからせて頂きとう御座いますが、如何で御座いましょうか」

 と、まごころめてのお頼みでした。

 しかし、厳格なお父様はなかなかお許しになりませんでしたそうです。阿古屋の琴責めという芝居は、どんな筋のものかとお尋ねになったり、楽屋は男でも這入って行けるものか、なぞといろいろお尋ねになりましたので、柴忠さんが説明をされまして、芝居というものは辻学問といって仁義道徳のおしえを籠めたものとか、役者は河原者というけれど東京の俳優はそうばかりではなく、よい役者になると礼儀の正しい立派な人間ばかりで、角力取りや何かとは格式の違うものとか、いろいろに言葉を尽しましたので、やっと、

「それでは見に行こう」

 と仰言ったそうです。

 それからお芝居が始まりますと、小間物売りのオセキ婆さんを呼んで留守番をさせて、お祖母様とお父様と、お母様と三人お揃いで三日の間瓢楽座へお出でになりましたが、その最初の日には中村半太夫という方が羽織袴を召して、お父様たちの御見物の席に見えて御挨拶をされました。そうして、

「私の舞台姿が福岡で名高い奥様のお手にかかるとは一生のほまれで御座います。何とぞよろしく……」

 と仰言って、お祖母様にはお茶器を、お父様にはお煙草盆を、又、お母様には紙入れを、それぞれお土産に下すったそうですが、それにはいずれも私のうち定紋じょうもんの輪ちがいの模様が金と銀とで入っておりましたので、お父様はビックリなすったそうです。そうして半太夫という方の御人品ごじんぴんに大そう感心をされまして「武士ならば千石取りじゃ」と人にお話しになりましたそうです。

 けれども、それから四五日目になりますとお父様は、

「俺はもう頭が痛くなりそうじゃ。お母様も最早もはやきになったそうじゃから、俺はお母様と二人で留守番をする。許すからお前はオセキ婆と二人で見て来い。柴忠の折角の頼みじゃから」

 と仰言ったそうで、それでもお母様はお遠慮をなすったのを、お迎えに来た柴忠さんから無理にすすめられて、あと三日ほど御覧になったそうです。そうして五日目を御覧になった時にザッと下絵をいて、六日目に今一度芝居を見て細かい処をお直しになってから、お仕事にかかられましたが、それから一週間目にはもう阿古屋の琴責めの五人組の人形が立派に出来上りましたそうです。その押絵人形は、阿古屋の髪の毛を一本一本に黒繻子くろじゅすをほごして植えてあるばかりでなく、眼のたまにはお母様の工夫でにかわを塗って光るようにし、緋縮緬ひぢりめんの着物に、白と絞りの牡丹を少しばかり浮かし、その上に飛ぶ金銀の蝶々を花簪かんざしに使う針金で浮かしてヒラヒラと動くようにして帯の唐草模様を絵刳えくみにした、錦絵とも舞台面ともまるで違った眼もまばゆい美しさの中に、阿古屋の似顔が、さながら生き生きとさしうつむいているのでした。それを、瓢楽座で日延べの二の替りを打っておいでになりました貴方のお父様が御覧になりました時、

「これは驚いた。自分が一番苦心をしている、昔の遊女の身体からだのこなしを、どうしてこんなに細かく見て取られたものであろう。この遊女の姿態こなしばかりは現在居る一番の錦絵描きでも描けないので、私のうちの芸の中でも一番むずかしい秘密の伝授になっているものを……あの奥さんは不思議な人だ」

 と云って舌を捲かれたという事で、今でも博多の人の噂に残っているそうで御座います。

 その阿古屋の琴責めの五人組の人形が、柴忠さんのうちの小さな本檜ほんひのき舞台に飾られました時の見物といったら、それは大変だったそうで御座います。申すまでもなくその時はお父様も、お母様も柴忠さんの処へおよばれになって、大層な御馳走が出ましたそうですが、その押絵を見るために態々わざわざ遠方から見えた御親戚や、お知り合いのお節句客の応対だけでも柴忠さんは眼がまわるほど、お忙がしかったそうで御座います。そうしてそんなお客が、お節句を過ぎてまでも、なかなか絶えそうに見えませんでしたので、しまいには柴忠さんも笑いながら、こんな事を云い出されたそうです。

「これはたまらぬ、いくら娘の祝いだというても、こんなに京大阪の旅人たびにんまで聞き伝えて見に来るようでは、今に身代限りになりそうだ。こんなに高価たかく付いた押絵があるものじゃない。何にしてもこれは井ノ口の奥さんが一世一代の精魂を打ち込まれた物だから、いっその事、娘の名前で氏神様に上げてしまった方がよかろう」

 という事になりました。それでその押絵を立派なビイドロ張りの額縁がくぶちに納めて、その上から今一つ金網で包んだ丈夫なものにして、櫛田神社の絵馬堂に上げられました。その額ぶちの中にはやはり本檜の指物細工さしものざいくで舞台が浮き出させてありまして、建具までも本物の通り手数をかけた雛形が使ってありましたので、その重かった事、四人とか五人とかで小半日かかって、やっと釣り上げる事が出来たそうで御座います。

 そのようなことで、お母様の評判が前にも倍して高くなりまして、それにつれて頼んで来るお仕事が又、前の倍ももっと上も来るようになりました事も申すまでもありませぬ。けれども、お母様はそれから間もなく、その年の暮近くに私をお生みになる事がおわかりになりましたために、八月からのちに来た注文はピタピタと断っておしまいになったそうです。


 私が生れます前後のお祖母様や御両親たちのお騒ぎになりようというものは、はたから見ていると、とても可笑おかしくてたまらぬ位だったそうで御座います。

「美人は子を生まず」とか「気嵩きかさの女には子種がすくない」とかよく云うようで御座いますが、私のお母様は両方を兼ねておいでになりましたので、お祖母様もこの事ばかりを御心配なすってよくそんな愚痴を仰言ったそうです。もっともお父様はそんな事に就いては黙っておいでになりましたそうですが「三年子なければ去る」というならわしが福岡にもありましたのに、かんじんのお母様がお家付きで、お父様の方が御養子でおいでになるので、お祖母様は、どうなさる事も出来なかったのでしょう。

 それでもお祖母様は、どんなにか初孫ういまごの顔を御覧になりたくておいでになったでしょう。

 お祖母様は、ですから時々御自分から進んでお母様をお連れになっては、お地蔵様だの、観音様だの、御神木なぞを拝みにお出でになったり、御符ごふ御神水ごしんすいなぞを取り寄せて、お母様にお戴かせになったり、色々とお苦心をなすったそうです。「お前、きょうは観音様の日だよ」とか「明日あしたはお地蔵様の何々だよ」とか仰言っては、月に二三度ずつお母様をお出しになったそうですが、その時はお母様もどんなにお仕事がお忙がしくとも「ハイ」と云ってお出かけになりましたそうです。お父様も朝晩神様や仏様に手をお合わせになるほかに、お祖母様がおすすめになる御符や神水なぞも、すなおにおいただきになりましたそうで、決して迷信なぞとは仰言らなかったそうです。

 そんなにして家中うちじゅうが子供を欲しがっておいでになりましたところへ、私というものが出来ましたのですから、そのお喜びはどんなだったでしょう。

 今まで黙っておいでになりましたお父様は、いよいよその年の八月に六月目の岩田帯いわたおびをお母様がなさるようになりますと、胎教というのをお初めになりましたそうです。それについては、どのような故事がありましたものか、よく存じませぬけれども、やはり漢学の方で支那から伝わった事で御座いましょう。今までお父様とお座敷におやすみになったお母様を、お台所の広い板の間の横に在るお茶の間に、たった一人でお寝ませになって、お父様だけがお座敷にお残りになり、又、お祖母様はお玄関の横の御自分のへやに、今までの通りにお寝みになるのでした。そうして、そのお母様がお寝みになるお茶の間の四方には、歴史で名高い人や、勇ましい出来事の絵なぞを一ぱいに貼りつけたり、額にしてけたりしてありますので、そんな絵や字なぞを、お母様が朝晩に見ておいでになりますと、お腹に居る子供が、そうしたお母様の気持ちから感化を受けまして立派な子供になりますのだそうで、それが胎教というのだそうで御座います。そんな絵や字は、私が大きくなりましてのちも、すすけたままお茶の間の四方に並んでおりましたので、楠正成の討死とか、白虎隊の少年の切腹とか、上野の彰義隊の戦争とか、日本武尊やまとたけるのみこと熊襲くまそを退治していられるところとかいうような、勇ましい中にも、むごたらしいような石版絵が、西郷様の肖像とか高山彦九郎の書いた忠の字とかいうものと一緒に並んでいるのでしたが、そんな絵や字を見まわしておりますと、お父様は私を、まだ生れないうちから男のときめておいでになったらしいことが、よくわかるので御座いました。

 それから、いよいよ私が生れる時が近づきますと、前に申しましたオセキ婆さんが泊り込みでお台所の板の間に床を取って寝ました。この婆さんは、私が五つか六つの頃まで生きておりましたが、大変に元気者の慾張り婆さんで、お父様はあまりお好きにならなかったそうですが、十人近くも子供を生んだ経験がありましたので、この時ばかりはお父様は何も仰言らずにお母様の介抱をお許しになったそうです。今でもよくおぼえております。眼の玉のギョロギョロする、肥った色の黒い女で、お母様のお話が出るたんびに、

「私が育てたんじゃもの……ナア御隠居さん」

 と云っては大きな口を開いて男のように笑うのでしたが、その頃の婆さんには珍らしくオハグロをつけていなかった事をよくおぼえています。人の噂によりますと柳町(遊廓)に奉公をしていたこともあるそうですが、その婆さんがやって来まして、お母様のお腹を一ト目見ますと、

「これは大きい。よっぽど大きな男のお子さんに違いない。日数ひかずもいくらか延びてお生れになるでしょう」

 と申しましたので、お父様は大変にお喜びになったそうです。けれどもこの婆さんの予言は当りませんで、生れた私は普通の大きさの女の子でした。只日数が一週間ばかり延びただけでしたそうですが、それでもお祖母様や、お父様は不平にお思いになるどころか、オセキ婆さんに手を合わせて、

「ああ。お蔭で安堵した」

 と仰有おっしゃって涙をお流しになった位だそうです。

 私が生れましたのは明治十三年の十二月の二十九日で、大変に雪の降る朝だったそうですが、ちょうどお祖母様もお父様も、もう生れるか生れるかというような御心配のために疲れ切っておいでになりましたので「いよいよ生れる時まで待っておいでなさい」とオセキ婆さんが申しますままに、お座敷のお炬燵こたつに当りながらウトウトしておいでになる間に生れたのだそうで、夜が明けてから子供の泣き声をおききになるとお二人ともビックリなすったそうです。けれどもオセキ婆さんは気の強い女で、急いで私を見にお出でになったお父様を、

「アッチへお出でなさい。今抱かして上げます。殿方は産所へお這入りになるものではありません」

 と叱りつけましたので、お父様は又慌ててお炬燵へお這入りになって、頭から蒲団をおかぶりになりました。そのために炬燵のやぐらが半分丸出しになって、その左右に、お父様の黒いおみ足がニュッと二本つき出ておりましたそうで、

「その御ようすの可笑おかしかったこと……」

 とオセキ婆さんがよく人に話しては笑ったという事を、ずっとあとになって、聞きました。


 私が生れましたあと先の事で、のちになって聞きましたことはまだいろいろあります。

 そのうちでも何より先に申上げなければなりませぬ事は、私が生れましてから間もなく流行はやり出しました手鞠歌てまりうたで、今でも福岡の子守女は唄っているそうで御座います。

「イッチョはじまり一キリカンジョ……

一本棒で暮すは大塚どんよ。(杖術じょうじゅつの先生のこと)

二ョーボで暮すは井ノ口どんよ。

三宝で暮すが長沢どんよ。(櫛田神社の神主様のこと)

四わんぼうで暮すが寺倉(金貸)どんよ。

五めんなされよアラずかしや。

七ツなんでも焼きもち焼いて。

九めん十めんなさらばなされ。

眼ひき袖引きゃわたしのままよ。

孩児ややが出来ても妾の腹よ。

あなたのおなかは借りまいものよ。

ぬしは誰ともおしゃらばおしゃれ。

生んだその子にシルシはないが。

思うたお方にチョット生きうつし。

あらイッコイッコ上がった」

 と申しますのですが、私が、このようなことを申しますのは如何かと存じますけれども、これはやはりお父様とお母様と、それから私のことを目当てにして当てこすったもので、お母様が帯を縫ってお遣りになった力士の名前や、押絵にお作りになった、あなたのお父様の事などを輪に輪をかけて噂したものでしょう。私のお父様は前にも申しますように色の黒い逞ましいお方で、どちらかと申せば醜男ぶおとこでおいでになったのに、お母様の方はまるでウラハラで、世にも珍らしく美しい方でしたので、いろいろな事を人が申しましたのも無理はないと思われます。


 お父様は、そんな歌が流行はやり出してからというもの、毎日のお墓参りや、方々の神様や仏様への安産の御願おがんほどきや、お礼参りのほかは、お母様を一歩も外へお出しにならなかったそうです。

 もっとも、お父様は平生から冗談口一つ仰有らぬ真面目なお方でしたから、このような歌のウラに隠してある本当の意味はおわかりにならなかったでしょう。只、御自分の事が云ってあるので、お気にさわったものらしく、そんな歌を意地悪るくうちの表に来て歌う子守女たちを、お父様がキチガイのようになって、お叱りになる声が川向うのお琴のお師匠さんの処までよく聞えたそうです。

 又、その頃の私のうちの暮し向きは、僅かばかり来る作米と漢学のお礼のほかはお母様の押し絵や針仕事で立てておられましたので、私が生れますあと先は御両親とも随分お辛い事が多かったろうと思いますが、そんな意味の事も、この手鞠歌にうたい込んでありますようで、誰が作ったものか存じませぬが、ほんとに憎らしくて憎らしくて思い出すたびに胸が一パイになります。

 けれどもそのせいかして、お母様は鳥目になるといっておセキ婆さんが止めるのも聞かずに、普通の人よりも早く髪を洗ったり、針仕事を始めたりなすったそうです。お父様もまたそれからのちというものは人が笑うのも構わずに、朝夕のお買物までも御自分でお出ましになりましたそうで、お母様はうちにジッとしてお仕事をしておいでになりさえすれば、お父様の御機嫌がよいので、お祖母様は大層お困りになったそうです。

 しかし、今になってよく考えてみますと、そうしたお父様のお心持ちが私にはよくわかるように思います。

 親の事をとやかく申しますのは心苦しい事で御座いますけれども、この事はハッキリと申上げておきませぬと、これからの先のお話が、おわかりにならぬと思いますから、包まずにしたためますが、私のお父様はそうした美しいお母様を一生懸命に働らかせて、お金をお貯めになる楽しみと、お母様を可愛がって、大切になさるお心持ちとを穿きちがえたようなお心持ちから、そんな風にしておいでになることが、物心ついてからのちの私の眼にも、よくわかっていたように思います。ですからお父様は、お母様がうちに居て、の眼も寝ずにお働らきになる姿を御覧になるのが何よりも楽しく、嬉しくおいでになるのでそのために御機嫌もよかったものと思います。

 とは申せ、又一方から考えますと私のお母様のお仕事好きが、その頃はもう普通の意味のお仕事好きを通り越していたこともいなまれないと思います。たといお父様の無慈悲な嫉妬深いお心が、お母様をどんなにか無理に押えつけて働らかせておりましたにしても、亦お母様が、どのようにお仕事好きでおいでになったにしましても、私が生れたのちのお母様のお仕事ぶりは、とても人間わざではないと人々が申しておりましたそうです。

 この事は只今私から考えてみますと、そうしたお母様のお心持ちがよくわかるように思いますので、つまりを申しますとお母様のお心は、私をお生みになりましてからというもの人間世界をお離れになって、ただ、お仕事の一つに注ぎ込んで、ほかの事(それが何でありましたかという事は誰にわからなかったろうと思いますが)を忘れよう忘れようとしておいでになったのではないかと思われるので御座います。

 何を申しましても私が生れましたのが阿古屋の琴責めの人形が出来ました年のしん師走しわすも押し詰まった日で御座いましたのに、それから一箇月半ほど経った新の二月の中旬を過ぎますと、もううちの事はもとより、旧正月の仕事としてほかから頼んで来る裁縫や袱紗ふくさの刺繍、縫紋ぬいもん、こまこました押絵の人形など、どんなにお忙がしくともお断りにならなかったそうです。これは私が物心ついてからのちも同じ事で、羽織、袴、婚礼の晴着と急ぎの頼みを、の眼も寝ずにお作りになるほかに、お父様の漢学のお稽古のあとで、近いあたりの娘さんが十人ばかりもお稽古に来られます。それを教えながらお母様は家内四人(お祖母様のも)の着物まで縫われますので、そのまめなことと熱心なことは、子供心にも感心する位で御座いました。夏の暑い夜、蚊に責められてもお構いにならず、冬の寒い日に手足をお温めになる暇もない位セッセとお仕事を励まれました。

 その頃町つづきの博多福岡では大変に押絵が流行致しましたので、町の大家なぞは、女のが生れますと初のお節句にはみんな柴忠さんのように、お芝居の小さな舞台を作りまして、その中に押絵の人形を立てますので、三人組なれば三円、五人組なれば五円と、向うから高価たかい値段をきめて頼みに来ました。お母様は、そんなにお金をかけては出来がわるいと云われましても、先方で聞き入れません。それにお父様が「出来るだけの加勢は俺がしてやる」なぞと仰言って、断るのをお好きになりませんでしたので、お母様は泣く泣く引き受けておられました。その頃はお米が一しょう十銭より下で御座いましたろうか。

「米が十銭すれあサッコラサノサ」

 という歌が流行はやっておりました位で御座いますが、そんなお金の事などは一切お父様がなすって、きょうはいくら、明日あすはいくらと駅逓えきてい局(その頃はもう郵便局と云っておりましたが、お父様は矢張りこんな風に昔の名前を云っておられました)にお預けになるので、お母様はほんとうにお仕事の地獄に落ちておいでになるようで御座いました。


 けれども、それでもお母様のお仕事は、ほかの処のより念が入っておりました。

 頭の毛は極く安いものでないかぎり黒繻子の糸をほごして一本一本に植えて、小さな指先まで綿をくくめて爪を植えて、着物もそれぞれの恰好にふくら味を持たせた上に、色々の模様を切りつけたものですが、その模様も一つ一つ織り目が合わせてありますために織り出したもののように手際よく見えるのでした。お正月の羽子板も大きなのになりますと板ばかりでなく、張り抜きにした上の方をり抜いて、戸障子や手水ちょうず鉢、石燈籠、植え込みなぞいう舞台の仕掛けものや、書き割りなどの模様を提灯ちょうちんの絵描きに頼むのですが、お母様はそれを御自分の押絵に合うように、お縁側に持ち出して、いろいろな胡粉ごふんで塗ったり乾かしたりしておきになりました。それから押絵の下絵は、お母様が錦絵を二十枚ばかり持っておいでになるのと、お弟子から借りてお写しになった沢山の下書きの中から生れて来るのでしたが、優しいのやいかめしいのが見ているうちに出来てくるその面白さ……。又は大きな大きな袱紗に、金や銀や五色の糸で縫い込まれた奇妙な形の花や蝶々が、だんだんと一つにつながり合った模様になって行くその美しさ……お父様は、そのようなお母様のお仕事を、丸い桐胴きりどうの火鉢の向うから私と一緒に御覧になるのが何よりのお楽しみのように見えました。時々は押絵の足につける竹などを削って御加勢なさるそのお優しさ。

 私はまたおとなしい方で御座いましたのか、あまり泣いたりなぞしたおぼえはありませぬようで、六つか七つにもなりますと、お母様から小切こぎれを頂いて頭の丸いお人形を作ったり、お母様が美濃紙みのがみにお写しになった下絵をくり返しくり返し見たりして余念もなく遊ぶのでした。そのうちでも、お母様の押絵のお仕事を見るのが何よりの楽しみで、お父様が畠のお仕事をなされながら、お母様をお呼びになるのが恨めしい位に思われました。

 ことに又、その中でも、お母様が押絵の人形の眼鼻口めんもくをお描きになる時にはきっと私を呼んで御自分の前に坐らせて、「右を向いて御覧」とか「左を向いて御覧」とか仰有って私の眼や、鼻や、口もとをシゲシゲと御覧になっては細長い筆の穂先をめて、火鉢のふちに幾つも並べてある人形の顔に書き入れておいでになるのでした。その顔はいろいろで、私に似ているのは一つもある筈は御座いませんでしたが、それでも毎日毎日見ておりますうちに、私は子供心にその中から自分に似た眼や鼻や口をやすやすとりだすことが出来るようになりました。それである時、お父様が畠へお出でになったあとで、

「これはあたしの眼よ。この口も……この鼻も、眉毛も……」

 と申しますとお母様は、

「よくわかるね。お前の顔は役者のように綺麗だから、お手本にしているのだよ」

 とおっしゃって、お笑いになりましたが、そのあとでお母様は急にうつむいて悲しそうな顔になられますと、涙をポトポトと火鉢の灰の中へお落しになりましたので、私も何だか悲しくなりまして、その後は一度もそんな事を申しませんでした。ハッキリとは、おぼえませぬが、お母様の鏡台を御自分の前にお据えになって、御自分の顔を御覧になったり、私の顔をお覗きになったりして、私の眼鼻立ちと御自分のとを一緒にして押絵のメンモクになすったのは、それからのちの事だったように思います。


 こうしたお母様はお正月のお人形をお済ましになりますと、もうそろそろ三月三日のお節句の人形にお取りかかりになるのでした。

 博多の店に二三軒中等物の約束があり、又田舎からも極安ごくやすものを二百でも三百でも出来るだけドッサリ頼んで参ります。又二月になりますと、上物じょうものを好み好みにわけて店から頼んで参りますので、二月も末になりますと、お母様のお忙がしさは眼に余るようで、徹夜をなさる事も珍らしくありませんでしたので、私はいつの間にかお父様のふところに抱かれて寝ている事が多いのでした。

 三月になって、やっと安心してお母様に抱かれることが出来ると思います間もなく、梅雨の間に機織はたおり、夜具の洗濯、一年中の晴れ着の始末をなさるのですが、その間にも裁縫や刺繍を頼んで参りました。そうして六月に入るとポツポツ八月のお節句の人形に取りかかられます。福岡の習慣として三月過ぎに生まれた女の子は八月に祝うのですけれど、何となくハズミがつきませぬので、お母様はさほどお忙がしくなかったようです。

 八月になりますと、もうお正月の押絵の用意ですが、その頃は今のようにボール紙がありませんので、お母様が屑屋くずやに頼んで反古紙ほごがみを沢山に買って合わせ紙というのをお作りになるのでしたが、それが又大変で、秋日のさすお庭から畠から、お縁側まで一パイに干してあることがよくありました。そんな時にお父様は、その頃まであったさしにつないだお金をお座敷に並べたり、又緡につなぎ直したりなさりながら、

「せめてその加勢でも俺に出来るとナア」

 とよく云われました。お父様の手は畠仕事で荒れておりますので、のりの付いた紙をお扱いになるとじきに引っかかったり、まつわり付いたりして、お母様がお一人でなさるよりもかえって手間取るのでした。

 私もお母様のお忙がしさを見るにつけて、お手伝いをして差し上げたいのは山々でしたが、どうしたわけか同じ指を持ちながら、お母様のような縫い針やお洗濯が一つも出来ず、ただ、字を書く事と、お琴を弾くことが人並外れて好きなだけでした。そうして毎日川向うの賑やかな川端筋にあるお琴の先生の処へ学校の帰りにお稽古に寄るのでしたが、そのお復習さらいをうちへ帰って、お父様とお母様の前でするのが又、何よりも楽しみで御座いました。お二人とも私を喰べてしまいたいほど可愛がっておいでになりましたので、私が弾くたんびにおめになっては、いろいろなお菓子を御褒美に下さるのでした。

「コヤツ(福岡の人は吾が児のことをよくこんなに申します)は俺のお祖母様の血すじを引いとるらしい。今にあの阿古屋のように琴が上手になるじゃろう。弾く手つきまでがあの押絵の通りじゃ」

 とお父様がよく仰有いました。

 けれども不思議なことに、お父様のそのような事を仰有るたんびに、お母様は、はかばかしく御返事をなさいませんでした。只「エエ」とか「ハア」とか弱々しい返事をなすって、あの淋しいような悲しいような微笑をなされながら、針や絵筆を動かしておいでになるのでした。時々は眼の中に涙を溜めておいでになる事さえありました。

 けれどもお父様はそんな事を一度もお気付きになりませんでしたようです。ただ私だけがとっくに気が付いておりまして、子供心にいつかはお母様にお尋ねしてみようみようと思いながらツイそのままになってしまいました。

 そのうちに私は十二歳の春を迎えました。お父様が三十八で、お母様が二十九におなりになりましたが、このころはもう余程うちの都合がよくなっておりましたらしく、お父様はうちの処々を修繕なすったり、犬や猫が畠を荒らさぬようにうちのまわりの生垣を取り払って、その頃流行はやり初めました赤い煉瓦の塀にしたりなすったので、何もかも見ちがえるように立派になりました。その中を親子三人で見まわりながらお父様は、

「なぜコヤツの下(私の妹か弟の事)が生れぬのじゃろか。今一人か二人か居らんと家が広過ぎるがなあ」

 と云われた事がありましたが、その時もお母様は何ともいえない暗いような冷たいような顔をなすった事を、おぼえております。

 うちがこのように立派になりましたにつれて、お母様も前のように安いお仕事ばかりをお引き受けにならぬようになりました。お稽古に来る近所のお弟子にお教えになるほかは、極く上等の押絵や刺繍のようなものばかりを作っておいでになりましたが、それでも中々沢山ある上に、手間の安い仕事の五倍も十倍もかかるような物ばかりなので、お忙がしくないように見えて、なかなかお骨が折れるのでした。その押絵のメンモクはやはり皆、私とお母様の眼鼻が入れまじっておりますので、上等のものであればある程、お母様は私の眼鼻をよけいにお使いになるので子供心にも不思議に思い思いしておりました。

 けれどもそのうちに、タッタ二度ほど、お父様のお顔をお使いになったことがありました。

 それはどちらも私が十二歳になりました春の事で――初めの時は、大阪の或る店から外国の金持ちに売るのだと申しまして、金の額ぶち入りの押絵を頼んで来たのでしたが、その時にお母様はいろいろ工夫をなされまして、外国の事だから、日本の人物よりはというので支那三国志の関羽、張飛、玄徳の三人を極く念入りにお造りになりました。それについてそのメンモクのお手本は錦絵の通りにしますと関羽が団十郎、張飛が左団次、玄徳が円蔵(でしたと思います。違っているかも知れませぬ)ということになっておりましたが、その錦絵はもうスッカリ鼠色にボヤケてしまった昔の版でありましたために、お母様のお気に入らなかったのでしょう。お父様に頼んで、火鉢の前に坐って頂いて幾つも幾つも顔を書きかえておいでになりました。その時に、

「俺は貴様の押絵になって外国へ行って異人どもを睨み殺してくれるのじゃ。……こういう風に……」

 と云いながらお父様が不意に立て膝をなすって、ヒンガラ眼をしてお母様をお白眼にらみになりましたが、そのお顔の怖ろしかった事……私もお母様もハッとして飛びのいたほどで御座いました。そうして、そのあとで三人が笑いこけました時の可笑おかしかったこと、私は死ぬかと思いました。

「まあまあ御覧なさい。筆が火鉢に落ちました」

 と云いながら、お母様が灰だらけの毛書けがき筆を火箸ひばしでお拾いになりましたので、三人は又涙の出る程笑いこけましたが、お母様がこんなに心からお笑いになるのを見ましたのは、後にも先にもこの時だけであったように思います。

 こうして顔が出来上りますと、それにひげや髪の毛を植えて、関羽と張飛は眉まで植えまして、お母様のお得意の浮き出し人形が出来上りますとそのいかめしさと立派さは眼もさめるようで、ことにその中でも張飛の眼は、お父様に生き写しのように思われました。それを聞き伝え云い伝えして見に来る人が又沢山にありましたが、その中にはあのお金持ちの柴忠さんも見えまして一生懸命に力んで感心をしながら、こんな事を云われました。

「どうも奥さんのお手並には今更ながら感心しました。失礼ですがこの前の阿古屋の琴責めの時よりもズンと名人におなりになったようです。つきましては、お忙がしうも御座いましょうが今一つこの通りのを作って頂いて博多ッ子の氏神の櫛田神社にあの阿古屋の琴責めと並べて奉納致したいと思いますが如何でしょうか。実を申しますとこの前の阿古屋のお人形をうちに置いておきますと、そのためのお客がうるさくてたまりませんので、娘の名前で櫛田神社に奉納したのですが、その当時はあれを見に来る人のために、お宮の賽銭さいせんが違ったと申す位で……イヤイヤ決してお世辞を云うのでは御座いませぬ。流石さすがに博多は諸芸の都だけあるとみんな、感心をしておりましたので……そこへちょうど私が櫛田様へ御願おがんを立てて運動に取りかかりました株式の取引所が、このごろ鰯町いわしまちの私の地所に来る事になりましたので、その御願ほどきのために奥様の押絵を上げましたならば神様もきっとお喜びになる事と思って伺いました次第です。よい錦絵が御入用なら何程でも取り寄せて差上げます。この頃は汽車というものがありますから、東京へ電報を打てば十日足らずで着きますから」

 というようなお話でした。

 その時のお母様のお喜びになった御様子は今でも眼に残っております。手をみ合せて顔を真赤にして、さも心配に眼を潤ませて、お父様の御返事を待っておいでになる物ごしが、まるで赤ん坊のようにイジラシク見えました。

 お父様は直ぐにお許しになりました。しかも大乗気の御様子で、

「奥(お母様のこと)はわしの顔を手本にしてこの三国志の人形を作ったのでナ」

 とその時の模様を大自慢でお話しになりましたので、お母様は恥かしがって真赤になったままお台所の方へ逃げておいでになりました。私もすぐにあとから追っかけて参いりましたが不思議なことにお母様は、いつの間にか青い顔におなりになって、台所の上り口に腰をかけてシクシク泣いておいでになりましたので私もビックリしました。そうしてどうなすったのかと思ってお傍へ行ってお顔をのぞき込みますと、お母様はもう大きくなっている私の身体からだを赤ん坊のように抱き寄せて、私の鼻のお化粧を鼻紙でお直しになりながら、

「私は錦絵さえいただけばお金なんからんのに、お父様はいつまでも慾の深いことばかり仰有って………」

 と、さも口惜しそうに唇を噛んでホロホロと涙をお流しになりました。その時にお座敷の方から、お父様と柴忠さんの大きな笑い声が聞こえて来ましたので、私も急に悲しくなりましてお母様と抱き合って泣いたことを記憶おぼえております。

 それから何日か経ちますと東京から大きなお菓子の箱みたようなものが、お母様のお名前で送って来ましたから、お父様が釘抜きと金槌で開いて御覧になるとどうでしょう。その中には錦絵が一パイに詰まっているのでは御座いませんか。

「まあ……これ……みんな絵ばかり……」

 と仰有って真青になったまま口紅の処を押えておいでになるお母様の小指がワナワナとふるえていたのを私はハッキリとおぼえております。

 その錦絵の美しかったこと……そうしてその紙と絵の具の匂いの何ともいえずなつかしう御座いましたこと……ちょうど夏になり口で十畳のお座敷のお縁が一パイに明け放してありましたが散り拡がった錦絵の色とにおいで、そこいら中が明るくなったように思いました。まずお父様が御覧になった絵を私が見てお母様にお渡しするのでしたが、三人共申し合わせたように溜め息をしては褒め、ほめては溜め息をしておりますうちに、ついお昼の御飯をいただくのを忘れてしまった位でした。

 その中には関羽、張飛、玄徳の三枚続きの絵が二三通りありましたが、みんなお母様のお持ちのと違って絵の具が眼のめるように美しくて、金や銀の色がピカピカ光っておりました。これをお母様がお作りになったらどんなにか綺麗だろうと思っておりましたが、お母様は案外にも、そんな絵の中から八犬伝の中で犬塚信乃と犬飼現八と捕方三人を描いた五枚続きのをおり出しになりました。

「私はこれを作って見とう御座います。そうしてこの屋根の瓦と、現八の前垂れを本物のようにして見とう御座います」

 とお父様に御相談をなさいました。

 お父様もその時に一寸ちょっと案外という顔をなすったようですが、

「ウン。それもよかろう。どれ見せろ」

 と仰有って信乃と現八の顔をウットリと見ておいでになりました。

 けれどもその信乃の顔を横からのぞき込みました時の私の驚きはどんなで御座いましたろう。

 その顔のすぐ横にある赤い小さな短冊の中には中村珊玉さんぎょくという四文字が書いてありましたので、あなたのお父様が御改名をなすったことを存じませぬ私は、別の人かしらんとチョット思ったので御座いました。けれども、それでもあの阿古屋の顔を左向きにして、男らしい長い眉をつけただけで、ソックリそのまま信乃の顔になることが子供心にすぐとわかりました。それと一緒に、お母様がその錦絵をおえらみになったホントのお心持ちが初めてわかったような……けれどもまた、あからさまにはわからぬような……不思議なような恐ろしいような……そうしてそのわけを打ち明けて、お母様にお尋ねする事も出来ないような息苦しい気もちに打たれて、私の小さな胸がどんなにワクワクと致しましたことでしょう。けれどもその時の私には、そんなにまで深く自分の気もちを考えてみるような力はありませんでした。ただ何かしら悪い事をしたのを隠しているような怖い怖い気持ちになって、お父様とお母様の顔を見上げる事も出来ないままに、お煙草盆の頭を傾けながら一心に、信乃と現八の顔を見比べていたように思います。

 もっともその時にもお父様は、何もお気付きにならなかったようでしたが、おおかたそれは、あなたのお父様のお名前がかわっていたせいで御座いましたろう。

「この瓦をどうして本物の通りにするか」

 なぞとニコニコして、お母様に尋ねておいでになったように思います。

 お母様はその日からその五枚続きの絵を雁皮紙がんぴしに写し取って、合わせ紙に貼り付けたり切り抜いたりして、お仕事にかかられまして五日目には立派に仕上ったのをくすのきの一枚板に貼り付けておしまいになりました。

 その楠の板は木目が雲のようになっておりまして、その上に芳流閣の金の鯱鉾しゃちほこと青い瓦とが本物のように切りつけられておりました。その金の鯱の前に片膝をついて刀を振り上げている信乃の顔は、お母様が私の眼や鼻をソックリ男のようにおきになりましたもので、それに向い合って身構えている現八の顔にはお父様の眼と鼻が生き生きと睨みかえっておりました。わけてもその現八の前垂れの美しかったこと……それはスッカリ本物の通りの刺繍をお入れになったので……こればかりで一寸四方いくらの値打ちがある。櫛田神社の絵馬堂に上げても盗まれぬように工夫せねば……と見に来た柴忠さんが云っておられたそうです。

 その押絵は、その春の末、博多で名高い山笠のお祭りのある前に櫛田神社の絵馬堂にあがりました。その額はやはり柴忠さんの工夫で厚い硝子張りの箱に封じた上から唐金からかねの網に入れて、絵馬堂の東の正面に、阿古屋の琴責めの人形と並んで上がったのですが、檜の香気かおりのために、何もかも真白になる程色が落ちている阿古屋の人形と見比べますと、ホントに眼が醒めるようで、一時は絵馬堂が人で一パイになるくらい評判が立ったそうで御座います。

 するとその評判をお聞きになったものかどうか存じませぬが、お父様は、忘れもしませぬ明治二十四年の五月二十四日のお昼前に、

「俺はちょっとその見物人を見て来る」

 と仰有って新しい飛白かすりの着物にいつもの小倉こくら角帯かくおびを締めてお出かけになりました。

 その日は太陽がカンカン照っておりましたが、お父様は、

「雨になるかも知れぬ」

 と云って大きな白ケンチウ張りの洋傘こうもりを持って、竹細工の山高帽を冠って、中足高ちゅうあしだかをお穿きになりました。私も行きたいと思いましたがお父様が、

「人が大勢居ると危ないから又連れて行ってやる。土産をうて来てやるから待っとれ」

 と云い棄てて川端を水車橋の方へお出でになりました。そのニコニコと歩いてお出でになった横顔を私は今でも眼の前に思い浮かめることが出来ます。


 お父様をお見送りしますと私は、お床の間に立てかけてあった琴を出して昨日きのう習いました「あおいうえ」のかえの手を弾きはじめました。お母様はお台所でおぐしを上げておいでになったようですが、私が「葵の上」を弾いて、「青柳あおやぎ」を弾いて、それから久しく弾かなかった「みだれ」を弾きますと指が疲れましたので、四角い爪をいじりながら西向きのお庭の泉水せんすいに咲いているお父様の御自慢の花菖蒲はなしょうぶをボンヤリ見ておりましたが、今までカンカン照っていたお日様に雲がかかったかしてフッと暗くなりました。お台所の物音も止んでいたように思います。

 その時に玄関の格子戸を荒々しく開く音がして誰か這入って来たようでした。私は何故ともなくハッとして立ちかけると間もなく、お父様がツカツカと這入ってお出でになりましたので私は又ビックリしまして、

「お帰り遊ばせ」

 と手をつかえました。このような事は今までに一度もありませんでしたので、いつもお帰りの時には玄関にお立ちになって、

「おお……今帰ったぞ」

 とお母様をお呼びになるのでした。

 お父様のその時のお顔はまるで病人か何ぞのように血の気がなくて幽霊のようにヒョロヒョロしておいでになったようです。そうして平生いつものように私の頭を撫でようとなされずに、ドスンドスンと私の琴をまたぎ越して、お床の間に置いてある鹿の角の刀掛かたなかけの処にお出でになって、そこに載せてある黒い長い刀のさやを抜いてチョッと御覧になりました。

 それを又元の処におけになると、今度は怖い怖い、今思い出しても身体からだの縮むような眼つきをしてジーッと私の顔を御覧になりましたが、やがて気味のわるい笑みをお浮かべになりながら、ふるえる私をお抱き上げになって、又お床の間の前に来てお坐りになりますと、やはり私の顔を見入っておいでになりました。口元が見る見るうちに、わななきゆがんでその大きな眼から涙をポロポロとお落しになりました。

 私は泣くには泣かれずに、唯、怖いような悲しいような思いで一パイになって、お父様の顔ばかり見ておりました。すると、お父様は何とお思いになりましたことか、突然に私を突き放しざま、私の左の頬を力一パイお打ちになりましたので、私は畳の上にひれ伏したまま、ワッと大きな声を立てて泣き出しました。私がお父様に打たれましたのは後にも先にも、これが初めてのおしまいでした。

「まあ……あなた……何をなさいます」

 という声が台所の方から聞えて、お母様が走ってお出でになる気はいが致しました。それで私は起き上ってお母様の方へ行こうとしましたが、いつの間にか私はお父様から帯際おびぎわを捉えられておりまして、息が止まるほど強く畳の上に引き据えられました。その拍子に私は、あまりの恐ろしさのためから泣き止んでしまったように記憶おぼえています。

 お母様はい上げたばかりの艶々つやつやしい丸髷まるまげに薄化粧をして、御自分でお染めになった青い帷子かたびらを着ておいでになりました。そうして手を拭いておられた紙を左手の袂に入れながらお座敷の入り口で三ツ指をついて、

「お帰り遊ばせ……まあ……あなたは何故そのようなお手荒いことを……」

 と云いながら私に近寄ろうとなさいますと、私の背後うしろから、お父様のお声が大砲のようにきこえました。

「……黙れッ。……そこへ坐れッ」

 お母様はビックリした顔をなされながら素直にお坐りになりました。そうして両手をつかえながら、

「ハイ……」

 と云い云い私の打たれた頬と、お父様のお顔とを見比べておいでになりました。けれどもまだ涙はお見せになりませんでした。

「もっとこっちへ寄れッ」

 とお父様は押しつけるように云われました。

「ハイ……」

 とお母様はしとやかにお進みになって、丁度十畳のお座敷のまん中近くまで来て又、三ツ指をおつきになりました。

 お父様は黙ってお母様の顔を睨んでおいでになるようでしたが、私はお母様の方に向けられて足を投げ出したまま、帯際をしっかりと捉えられておりましたので見えませんでした。

 お母様も一心に、お父様の顔を見ておいでになりましたが、その大きな美しい眼で二度ほどパチパチとまばたきをされました。

「……キ……貴様は……ナ……中村半太夫と不義をした覚えがあろう」

 というお父様の声が、間もなく私のうしろから雷のように響きました。私の帯を掴んでおられるお父様の手がブルブルとふるえました。

「あっ……まあ……」

 とお母様は眼を大きくして驚きさま、うしろ手をつかれましたが、たちまち膝の前に両袖を重ねてワッと泣き伏しておしまいになりました。

 お父様は黙ってその姿を見ておいでになる御様子でしたが、暫くして又今度は低い押しつけるような声で、静かに云われました。

「おぼえがあろうの……」

「エエッ……ぞんじがけもない……夢にも……マア」

 とお母様は青白い顔と、紅くなった眼をお上げになりました。

「黙れっ」

 とお父様のお声は又、雷のように私のうしろからはためきました。私の右の耳がジイーンと鳴る位でした。

「おぼえがないとて証拠があるぞッ」

 お母様はそう云われるお父様のお顔をジッと御覧になりながら、飛白かすりの前垂れの上に両手をチャンと重ねて、無理に気を落ちつけようとしておられるようでしたが、その悩ましくも痛々しいお姿を私は死んでも忘れますまい。けれどもお母様のお声はいつもと違って、ふるえてカスレておりました。

「……ど……どのような……」

「黙れ黙れッ。どのようなとは白々しらじらしい……あの櫛田神社の犬塚信乃の押絵の顔は誰に似せて作ったッ」

 お母様は長い長い溜め息をホーッとなされました。静かに私の顔を見ながら云われました。

「そのトシ子にせて作りました」

「そのトシ子の……こやつの顔は誰に似ている」

 と云うなり、お父様は両手で私のお煙草盆にっている頭をガッシと掴んで、お母様の方へお向けになりました。

「エエッ……」

 というお母様の声だけは聞こえましたが、私の左の眼に、お父様のどの指かが這入りまして、ビクビクと痛みましたので私は眼をあけることが出来なくなって、お父様の手を掴まえて藻掻もがいておりました。そのうちにお父様の声は、なおも続きました。

「俺は今日がきょうまで知らなんだ。けれども最前あの櫛田神社の額を見ながら、人の噂をきいているうちに、あの犬塚信乃の押絵の顔が、中村半太夫の舞台に生き写しであることがわかった。そればかりでない。貴様の作った人形の顔が上物じょうものになればなる程、中村半太夫に似ていることも、そこに居った人の噂で初めて気が付いた。コヤツ(私)の眼鼻立ちが中村半太夫と瓜二つになっていることは近所の子守女まで知っていることもあの絵馬堂で初めてきいた。……この年月としつき貴様に子が生まれぬわけも今はじめてわかった。……キ……貴様は、よくもよくもこの永い間俺に恥をかかせおったナ」

 こうした声が響き渡るうちにお父様は片方の手を私の頭から離されましたので、私はやっと眼をくことが出来ました。

 お母様は畳の上に両袖を重ねて突伏つっぷしておられました。そうして声を押えて泣き続けておいでになりましたが、不思議と一言も云い訳をしようとはなさいませんでした。

 私は、いつもお父様がカンシャクをお起しになった時のようにお母様はすぐにお詫びになることとばかり思っておりましたけれども、お母様はこの時ばかりはどうしたわけか只お泣きになるばかりで、しまいには、その声さえ包まずに心ゆくばかり泣いておいでになったようです。

 その声をジッと聞いておいでになったらしいお父様は、やがて武士らしい威厳のある声でこう云われました。

「おれは覚悟した。貴様の返事一つでは、その場を立たせずにこの刀で成敗をしてくれる。先祖の位牌を汚した申訳にするつもりだ。サア、返事をせぬか」

 と云いながらお父様は私の頭から手を放して、又帯際をお掴まえになりました。

 その時にお母様はピッタリと泣き止んで静かに顔をお上げになりました。うつむいたまま紺飛白こんがすりの前垂れを静かに解いて、丁寧に畳んで横にお置きになって、それから鼻紙でお顔の乱れを直して、ほおけかかった髪を丸櫛で、掻き上げてから、やおら眼をあげてお父様を御覧になりましたが、その時のお母様の神々こうごうしかったこと……悲しみも、驚きも、何もかもなくなった、女神のような清浄なお方に見えました。

 お母様はそれから両手をチャンと、畳の上に揃えながらジッとお父様のお顔を見上げながら云われました。

「申訳御座いません……お疑いは御尤ごもっともで御座います」

 と云ううちに新しい涙がキラキラと光って長いまつげから白い頬に伝わり落ちましたが、お母様はそのまま言葉をお続けになりました。

「どうぞ、お心のままに遊ばしませ。私は不義を致しましたおぼえは……」

「何ッ……何ッ……」

「不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬが……この上のお宮仕えはいたしかねます」

「……………」

「お名残り惜しうは御座いますが、あなたのお手にかかりまして……」

「何ッ……何じゃと……」

 と云いつつお父様はグイグイと私を、おゆすぶりになりました。

 お母様はハフリ落つる涙を鼻紙でお押えになりました。

「ただ、そのトシ子だけは、おゆるし下さいますように……。それはまさしくあなた様の……」

「何をッ……又してもぬけぬけと……」

「イイえ……こればっかりはまさしく……」

「エエッ……まだ云うかッ……」

「イエ……こればかりは……」

「黙れッ……ならぬッ」

 とお父様が仰有る途端に私を、お突き放しになりましたので、私はバッタリと倒れて、お琴の上にひれ伏しました。それと一緒に琴柱ことじが二つか三つたおれてパチンパチンと烈しい音がしたように思います。

 私はこれから先の事を書くに忍びませぬ。

 けれどもこれから先の事を書きませぬと、何もかも疑問のままになると思いますから、記憶おぼえております通りに記し止めさして頂きます。

 私がようやっと、お琴の上から起き直りました時には、畳の上に正座して、両手を膝の上に置いたまま、うなだれておいでになるお母様と、それに向い合って、突立っておいでになるお父様のお姿が、暗いお庭を背景にして見えましたが、その時にお父様は、右手に刀をげておいでになった筈でしたけれども、その刀はお父様の身体からだの蔭になって、私の目には這入りませんでした。只、お母様のうしろの壁に、赤い花びらのようなしたたりが、五ツ六ツ、バラバラと飛びかかっているのが見えましたが、その時は何やらわかりませんでした。

 そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出しました。……と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い拡がって行きました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えましたけれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐っておいでになりました。

 私はその時に夢中になって、お母様に飛びついて行ったように思います。それをお母様はお抱き寄せになったようにも思いますがハッキリとは記憶致しませぬ。その時に、私の背中と胸へ、何か火のように熱いものが触ったように思いながら、お母様の上へ折り重なって倒れたようにも思いますが、これとても夢中になっておりましたのですから、どんな気もちだったかハッキリとは思い出し得ませぬ。どちらに致しましても私は、それ切り何もかもわからなくなりましたので、気がつきました時にはどこかの病院の寝台の上に寝かされて、白い着物を着た人達に取り巻かれておりました。

 お母様の肩を斬られたあとで、お母様と私とを一緒に突き刺されたお父様の刀は、私の肺を避けておりましたので助かったのだそうで御座います。けれどもお母様は心臓を貫かれておいでになりましたので、その場で絶息しておいでになったそうですが、それでも片手で、シッカリと私を抱き締めておいでになったということで御座います。

 又、お父様は、そのあとで、はかまをお召しになって、納戸なんどのお仏壇の前で見事に切腹しておいでになったそうですが詳しい事は存じません。

 あとあとの事は、何もかも柴忠さんが始末をして下すったそうですが、その時の事を誰が尋ねましても、柴忠さんは苦い顔をして返事をなさらぬとの事で御座いますから、私も気をつけまして、柴忠さんにだけは両親の事を尋ねないように致しておりました。


 私はお乳の下の傷が治りましてからのち、丸三年の間、博多大浜の芝忠さんのお宅にお厄介になっておりました。それから福岡の小学校へ通わして頂いたので御座いますが、その間の芝忠さん御夫婦の御親切というものは、それはそれは筆にも言葉にも尽されませんでした。わけても私のお母様が阿古屋の押絵人形を作ってお上げになったお嬢様には、もう御養子がお見えになっておりましたが、お二人とも私を親身の妹のように可愛がって下さいました。

 けれども私は十六の年の春に高等小学校を卒業致しますと間もなく、思い切って芝忠さんにおいとまを願って東京の音楽学校に入る決心を致しました。それは、ちょうどその頃に、大浜から程近い市小路いちこうじという町に在ります教会で、オルガンというものを弾き習いまして、西洋音楽というものが面白くて面白くてたまらなかったからで御座いましょうが、今一つには、もうこの上にどんなに辛棒しようと思いましても、生れ故郷の福岡には居られないような気持ちになったからでも御座いました。

 そのわけと申しますのは、ほかでも御座いませぬ。……あれは新聞に出た不義者の子よ……東京一の女形おやま俳優と、福岡一の別嬪べっぴん夫人の間に出来た謎の子よと、指さし眼ざしされておりますことが、成長いたしますにつれてわかって来たからで御座いました。

 学校の修身の時間なぞに、先生が何の気もなく貞女のお話なぞをしておられまするうちに、私の顔を御覧になるとフイと妙な顔になって、口をつぐまれました時の心苦しさ。切なさ。子供ながらに級全体のお友達の視線が、私の身体からだに焼きついているように思って、うつむいて泣いておりました時の情なさ。

「こちらには中村半太夫の舞台姿にソックリの娘さんが居るそうですが、チョット見たいものですネエ」

 というお客の声に対して柴忠さんが、

「ヘエ。それは今お茶を持って来ましょうから、その時によう御覧なさいませ。ハハハハハ」

 と力なく笑われる声を、障子の外で聞きまして、そのまま、お納戸なんどに隠れて泣き伏しました時の口惜しう御座いましたこと。

 それから又、私はすこし大きくなりますと、身体のきずを人に見られるのが恥かしくてたまらないようになりましたので、ソッと奥様にお願いしまして、わざと夜中過ぎに、奥のお湯に入れていただいておったので御座いますが、或る冬ののこと、切り戸の外で、

「見えようが……」

「ウン。見える見える。恐ろしい大きな疵ばい。ナルホド……」

 というような下男たちのささやきが聞こえましたので、そのまま浴槽ゆぶねのなかに首まで沈みながら、お湯が冷たくなるまで我慢しておりました時の情のう御座いましたこと……あとでふるえながら夜具の中にちぢこまって、夜通し寝もやらずに泣いて泣いて泣き明かした事でございました。私のお母様に限ってそんな事をなさる筈がない……と幾たび思い直そうとしましても、私の眼鼻立ちが中村珊玉様の舞台姿に似ているという事実ばかりは、どうにも致しようがないのでした。

 そればかりでは御座いません。私が東京に行こうと決心致しましたに就きましては、私自身にもわかりませぬ、もっともっと不思議なわけがあるので御座いました。

 私はそんな風にして泣かされているにはおりましたものの、それでも毎晩おしまい湯に這入りましてお掃除を済ましたあとで、お湯殿の姿見鏡すがたみをのぞいて見ないことは御座いませんでしたが、そのうちに、いつからともなく奇妙な事に気がつきはじめました。それは私の思いなしか、それともその日その日の気もちから来たことも御座いましたでしょうか。そんな風にして柴忠さんのお家中うちじゅうが寝静まられたあとに、たった一人でお湯殿の鏡に向い合っておりますと、その中に映っております私の顔が、だんだんとあなたのお父様に似て参りますばかりでなく、あの櫛田神社の絵馬堂の額になっております犬塚信乃の顔と、阿古屋の顔と二つのうち、どちらか一つに似て来ますので、それが又、日によりまして昨日きのうは信乃の顔……今夜は阿古屋の顔という風に、まるで感じが違っている事に気がついたので御座いました。

 それは何とも申しようのない……ただ私一人だけしか気づいておりませぬ不思議な出来事で私は毎晩毎晩それを見るのが、云うに云われぬ一つの秘密の楽しみにさえなって来たので御座いました。何だか存じませぬがそうした事が、みじめにも短かい一生をお送りになったお母様の、人間の世界に対する復讐ではないかとさえ思われて来まして、われと自分のやわらかい、あたたかい頬を押えながらゾーッと致しますことがよくありました。

 私は普通の女の子ではない。お母様のこの世に残された思いの固まりなのだ。……この上もなく美しく、又となくむごたらしい目にいながら、何も仰有らずにお果てになったお母様のお心が、そのままに私の姿にあらわれているのだ。私はこうしたお母様のうらみが尽きるまで生きておればそれでよいのだ。……ああお母様……私はこうして達者に生きております。……けれども……けれども私はこれからどうしたらいいのでしょうか。……ああお母さん……。というような気持ちを鏡の中の自分の顔に問いかけながら、涙を流したことも度々で御座いました。

 そうかと思いますと……お笑いになるかも知れませんけど……そんなにして泣きましたあとで、嬉しいのか悲しいのかわからぬからっぽのような気もちになりますと、鏡の中の自分の顔をあの唇を噛みしめて刀を振り上げている勇ましい信乃の表情にしてみたり、琴を弾いている阿古屋の悩ましい姿にしてみたりして遊んでは、たった一人で気持ちよくホホと笑うことさえありました。そうして、それがお母様の世間に対する腹癒はらいせであるかのように思われまして「不義者の子」という名前が、何ともいえず気持ちよくさえ思われて来るので御座いました。

 こんな事まで申上げて、失礼とは存じますけれどこれは私の十二の年から十四五歳になります間のことで、私が何となく、男の方の御親切を喜ばぬような性質になりましたのも、その頃の事ではなかったかと思われるので御座います。

 けれども、そのうちに十四五にもなりますと、私の気もちが又いくらかずつかわって来たように思います。

 今も申しましたようにその頃までは毎晩家中うちじゅう寝静まられましてから、たった一人でお湯殿の鏡台の前に坐るのが、私の秘密の楽しみのようになっておりました。そうして毎夜毎夜そのような物思いをくり返しては、泣いたり笑ったりしないことは御座いませんでしたが、そのうちにフト鏡の中の私の顔の輪廓が、どことなく亡くなられたお母様にも似て来たのに気が付いてビックリすることが度々あるようになりました。それは前とちっとも変らぬ眼鼻立ちでありながら、心持ち面長になって、あごや、襟すじに、ほの白い青味がかって参りますと、お白粉しろいなぞはちっともつけないままに、そのあたりがお母様と生きうつしの恰好に見えて来るので御座いました。毎日毎日見るたんびに、それがハッキリとわかって参りまして、しまいには、あの犬塚信乃と阿古屋の眼鼻や唇をつけたお母様が、チャンと鏡の中に、御坐りになって私を見ておいでになるとしか思えない位になって参りました。

 そのお母様のお姿は、又、奇妙にも、あのお父様からお斬られになるすこし前の、何ともいえない神々こうごうしい、清らかなお姿に見えて来てしようがないので御座いました。そうして、そのお姿を一心に見つめておりますと、そのうちに、その鏡の中のお母様の唇が、おのずと動き出しまして、その間際に仰有ったお言葉が凜々りんりんとすき透って、私の耳に響いて来るのでした。

「私は、不義を致しましたおぼえは毛頭御座いませぬ……けれども、この上のお宮仕えはいたしかねます」

 というように……。

 そのお声をきくたびに、私はいつもハッとして、うしろを振り返らずにはおられませんでした。そうして、そこいらに誰も居ないことをたしかめますと、今一度自分の口の中で、こうしたお母様の謎のようなお言葉をくり返しながら、あの時にお母様がお流しになった通りの涙を、ホロホロと流さずにはおられないのでございました。

 私はそれから、だんだんと鏡を見るのが怖くなって来ました。鏡の中に映っております私の顔が、世にも不思議な気味のわるいものに思えたり、そうかと思いますとこの上もなくなつかしいものに見えたりしますので、その都度つどに鏡というものが、世にも取り止めのない、馬鹿らしいような、恐ろしいような、又はたまらなく苛立たしい品物のように思われてならないので御座いました。しまいには学校の行き帰りに、よその店の硝子窓を見てさえも悲しくて気味わるくて、胸がドキドキするようになりました。そうしていつからともなく、

 ……もうどんな事があっても鏡というものを見まい。お化粧もしまい。髪も引き詰めてグルグル巻きにしておきましょう。そうして、あのお母様の謎のようなお言葉のホントウの意味がわかるまでは結婚というものをしまい。

 私は直ぐにも東京に上って「中村珊玉様」にお眼にかかって「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません……けれどもこの上のお宮仕えは致しかねます」とキッパリ仰有ったお母様のお言葉の意味を説き明かして頂きましょう……そうして私がお母様の不義の子でないことをハッキリとたしかめるまでは、死んでも男の方の御親切を身に受けまい……

 というような男のような、気もちになってしまいました。

 こうした決心を致しますと、私はある夕方ソッと柴忠さんのうちを脱け出しまして博多築港の石垣の上に参りました。そうしてたった一つ持っておりました粗末な懐中鏡を帯の間から取り出しまして自分の顔とお別れを致しますと、青々と満ちております汐水しおみずの中に投げ込みました。そうしてその鏡が一丈ばかり深く、丸いゆるやかな波に揺られて、キラキラと光りながら底の方に見えなくなるまで見送っておりました。

 それが私の十六の年の春で御座いました。


 柴忠さんは、このような私の勝手なお願いを快よく聞き入れて下さいました。

「それは結構なことと思います。ちょうど東京の音楽学校の講師で、帝大の教授をやっている岡沢というのが、私の幼友達おさなともだちですから、それに紹介状を書いて上げましょう。気心のいい夫婦者ですが子供がないのですから喜んでお引きうけするでしょう。中洲のおやしきを売ったお金は私がお預りしておりますから、御入用の時はいつでも云ってよこして下さい。それから、これは私の寸志ですが、これだけは盗まれぬようにして肌身につけておいでなさい。他国に旅行くと万一の事が多いものですから……それにあなたはもう只今では、井ノ口家の一粒種になっておられるのですからね……」

 というような何から何まで御親切なお言葉で、旅費のほかに、生れて初めて見ました百円のお札を一枚と紹介状を書いて下さいました。

 その紹介状は開き封になっておりまして、柴忠さんから是非一度読んでおくように云われました。それから別に岡沢先生に宛てて柴忠さんから出される郵便の中味も見せて頂きましたが、どちらにも私の事を死んだ友人の一人娘と書いてありまして、両親の事なぞはすこしも洩らしてありませんでしたので、ほっと安心したことで御座いました。


 女のつまりませぬくり言を長々と書きつけましてさぞかしおきになったことで御座いましょう。

 けれども、その時の私は一生けんめいの思いで御座いました。そうしてそのせいか、門司から備後びんごの尾ノ道まで乗りました汽船にも酔いもせずに、三日三夜かかって新橋に着きますと、岡沢先生御夫婦のお迎えを受けまして谷中やなかの閑静なお宅に御厄介になりましたが、それからのちというもの、今日は中村珊玉様をお訪ねしようか、明日あしたは歌舞伎座へ行こうかと思いながらも、これという手蔓は愚か方角さえもわかりませぬ情なさ……と申して岡沢先生に、このようなことをお打ち明けする訳にも参りませず、途方に暮るるばかりで御座いました。それに東京のめまぐるしさと賑やかさと、とりあえず這入っておりました上野の仏和女学校の学科の難かしさと、それからもう一つ、生れて初めて岡沢先生に教えて頂いたピアノの面白さに夢中になってしまいまして一年ばかりは夢のように過ごしてしまいました。

 そうして間もなく翌年の春になりますと、或るお夕飯時のことで御座いました。奥様のお酌で盃を重ねておられました岡沢先生が、思いもかけずこんな事を云い出されました。

「トシ子さんは、まだ歌舞伎座を見たことがなかったっけね」

 私はその時に思わずハッとしまして、そう仰言った岡沢先生のお顔を見上げながら真赤になってしまいました。私の心の奥の奥に隠しております秘密を云い当てられたような気もちが致しますと一緒に岡沢先生が何かしらそんな事について御存じで、それとない御親切からこんなことを仰言るのではないかと思いまして……。

 けれどもその横から何も御存じないらしい奥様が優しくお笑いになりました。

「マア。ホントニ。トシ子さんはもうすっかり東京通と思っていたら、大切だいじの大切の歌舞伎座を落っことしていたわね。ホホホホ。何なら明日あしたは日曜ですから連れてって下さいませんか。私もトシ子さんぐらい久し振りですから……」

 すると岡沢先生も、何も御存じないらしくニコニコして二人の顔を御覧になりました。

「ウン。俺もそう思うとったところだ。歌舞伎座は田舎者が見るもの位に思うておったのじゃからツイ、ウッカリして忘れておった。ハハハハハ。しかし何ぼ何でも、そんな引っこき詰めのグルグル巻の頭では不可いかんぞ。伊豆の大島に岡沢の親戚しんるい〈[#「親戚」は底本では「親威」]〉があるように思われては困るからの……」

「……まあ。あんな可哀想なことを……」

 そんな御冗談のうちに先生御夫婦はいろいろと私に歌舞伎芝居のお話をしてお聞かせになりました。音楽と劇の関係とか拍子木ひょうしぎの音楽的価値と舞台表現の関係とかいうような、興味深いお話が、それからそれへと尽きませんでしたが、私はただもううわの空で、ともすれば出かかる溜め息を押え押え御飯を口に運んでおりましたので、みんな忘れてしまいました。ただその中で耳に止まりましたのは奥様から聞きましたお話で、明日の芸題の中心になっておりますのが、それこそ不思議な因縁と申すもので御座いましょう、あなた様のお家の芸となっております阿古屋の琴責めにきまっておりますこと。その阿古屋をおつとめになるのが私と同じ年で今年十七におなりになったばかりの中村半次郎じょう……ほかならぬ貴方様で、そんなにお若くて立女形たておやまになられた俳優のお話は昔から一つも伝わっていないこと。そのお衣裳の重さが十三貫目もあるのを、そんなお若さで自由にお使いになるのが又、大変な評判になっていること。そうして此度こんどの歌舞伎座の興行は昨年の春お亡くなりになった貴方様のお父様、中村珊玉様のお追善ついぜんのためであったこと……なぞでございました。

 私はその時に御飯を何杯頂きましたか、それとも一杯しか頂きませんでしたか、すこしもおぼえていないので御座います。ただ夢心地で岡沢先生御夫婦のお給仕をしながら外の事ばかり考えておりましたようです。

 岡沢先生は「ウッカリして私に歌舞伎座を見せるのを忘れていた」と云われましたが、ホントウは私こそウッカリしておりましたので、何のために柴忠さんの処からおいとまを頂きましたか、そうして何の目的で東京に参りましたのか。その時までスッカリ忘れていたでは御座いませんか。そうしてウカウカと致しておりますうちに、お母様の大切な秘密を唯一人御存じの中村珊玉様がお亡くなりになった事さえも気付かずにいたでは御座いませんか。これが一年前でありましたならば、こんなよい折は願ってもない筈でしたのに……そうして井の口の娘と名乗って中村珊玉様にお眼にかかる機会が出来たかも知れないのに……私は、まあ何という不幸者であったろうと思いますと、思わず口惜し涙が出そうになりましたので、そのままお湯を取りに行くふりをしてお台所の方へ行きました。

 けれどもそのお夕飯後になりますと先生の御用で、二三町先の荒物屋の前まで郵便を出しに参りましたので、そのついでに私は大急ぎで遠まわりをしまして、裏町の小さな文具屋兼業の雑誌屋からその月の「歌舞伎時代」という雑誌を一冊買って参りました。そうしてお二階の私のへやに帰りますと夕明りのさす窓際に坐って、怖いものでも見るようにソッと開いて見ました。

 私は、それまでそのような雑誌に手を触れたことすらありませぬホントの田舎娘で御座いました。もっとも俳優の方のお名前は、ほかの方よりも沢山に存じておったかも知れませぬけれども、それはお母様の錦絵についておりました古い古いお方の名前ばかりで、近頃のお方のお名前は一人も存じませんでした。まして中村珊玉様に男のお子さんがおありになる事だの、それが私とおない年でおいでになる貴方様で、中村半次郎様と仰有る事なぞ夢にも存じませんでしたので、そうと知りますと、もう不思議なおなつかしさが一パイになりまして、まだ表紙を開きませぬうちから顔がつくなるように思いました。

 申すまでもなく、あなた様と、お父様の、お素顔の写真を拝見致しましたのはその時が初めてで御座いました。そうして、まことに失礼では御座いますけれど、最初に大きく出ておりました貴方様のお父様の、十徳を召したお顔をジイと見上げておりますうちに、柴忠さんの処のお湯殿の鏡の中で見ておりました私の顔が、マザマザと浮き出して参りました時の私の胸の轟きはどんなで御座いましたでしょう。今更に不思議なような、恐ろしいような……そうしてたまらなくおなつかしいような……それでもそう思ってはならぬと……いうような何ともいえませぬ思いにわななきながら、いつまでそのお写真を見入っておりましたことでしょうか。

 けれども、そうした私の思いは、その次のページを開きますと一緒にかき消されてしまいました。

 たとえ、ま昼に幽霊に出会いましたとても、私は、あの時ほどにるえわななきは致しませんでしょう。……その頁にやはり大きく七分身におうつりになっている貴方様のお洋服姿を拝見致しました時に、お母様の変装かと思うほどよくておいで遊ばすことが、ただ一眼でわかってしまったので御座いました。その時に私は畳の上に両手をついて、あなた様のお写真を見入ったまま……不思議の上にも重なる不思議に、すっかりおびやかされてしまったので御座いました。そうして何もかもがわからなくなりましたまま、今にも気絶しそうに息苦しくあえぎつづけていたように思います。しまいには両方の手首がしびれて来まして、髪の毛が顔の前に乱れかかって参りましてもやはり身動きすら出来ないままに次から次へと恐ろしい思いに迷いつづけていたように思います。

「私は不義を致したおぼえは毛頭御座いません」

 と仰有ったお母様のお言葉をハッキリと思い出しながら……。

 けれども、そのうちにへやの中が真暗まっくらになってしまったのに気がつきますと、私はやっと気を取り直しました。机の端に置きましたラムプに火をけまして、ふるえる指で目次にありましたあなた様の感想談のところを開いてみましたが、それを読んで行きますうちに私は、もう今にも声を立てて泣きたいようになりましたのを、袖を噛みしめ噛みしめしてやっと我慢し通したことで御座いました。

 それは今度の追善興行につきまして、あなた様が雑誌記者にお洩らしになった御感想のお話でしたが、その時にお写真と一緒に切り抜いて大切に仕舞っておりましたのをここに挟んでおきます。古い事で御座いますからもうお忘れになっているかも知れぬと存じまして……。


     初の大役「琴責め」

中村半次郎丈談

 ありがとう存じます。

 おかげで熱も出なくなりましたし、場合が場合ですから生命いのちがけで勉強しております。

 この阿古屋の琴責めというのは、当家の六代前の先祖で白井半之助というのから伝わっておりますので、父の代になってから方々で演じて、いつも当りを取ったものだと申します。着付はその代々の好みになっているのですが、父の代になりましてからは牡丹ぼたんに蝶々ということにめてしまいました。帯は黒地に金銀の唐草模様で、きまっていないのはえりだけですが、父のように黒とか黄とかいうようなった渋好みのものは僕みたいに未熟な者にはとても使えませんから、もっとほかの古代紫か水色か何かにしようと思っています。父親の追善ですから白襟にしようかとも思っていますが、どうも僕の力では、そんな気分が出せそうにもありませんので、どうしようかと考えているところです。

 十三貫目の衣裳の由来ですか……それは詳しい事は知りませんが、何でも僕が生れました年の正月(明治二十四年)から父は関西地方の興行に出かけまして、長崎から博多を打ち止めにして、三月のお芝居に間に合うように帰って来たそうです。その時にどこかで何かを見て感じたのでしょう。今度の旅行のお土産だといって、こんな衣裳を工夫し出しますと、これが一番いいというので一代改めなかったのだそうです。

 しかし御承知の通り父はとてもしょうでしたので、がなかなか八釜やかましくて職人は面喰い通しだったそうです。型の方も特にこの衣裳のために改めた箇所があります位で、初め「あずまや」と申しまして某家の御秘蔵品を模した唐織好みの草色の裲襠うちかけを着て出て来るのですが、琴にかかる前にうしろ向きになって、その裲襠を脱いで、正面に直るまでに衣裳の全体を皆様にお眼にかけるようになっております。

 ところで、その牡丹の花の中で開いている五ツと、その上に飛んでいる三ツの蝶々は、造り物で浮かしてありまして、シグサのたんびにユラユラと動くようにしてありますので、衣裳に台座を作っておいて、裲襠を脱ぐ時に一々手早く止めさせるという凝りようです。そのほか、隅々まで舞台えばかりを主眼にしてありまして、利き処利き処には無闇と針金や鯨鬚くじらひげ鉛玉なまりなんぞを使ってあるのですが、それでいてスッキリと、しなやかにという注文ですから職人もよっぽど屁古垂へこたれたことでしょう。

 父の方も元来が凝り性なのに、この衣裳ばかりは又特別で、うわごとにまで云う位だったそうで、スッカリ気に入るまでには一年もかかりまして、僕が生れると間もない翌年の春狂言にやっと間に合った位だそうです。その前に父は二度ばかりどこか(多分関西でしょう)へ行きまして、この衣裳のお手本を見て来ていろいろ細かい指図をし直しましたし、春芝居の間際になってから、着付けと身体からだきまり工合を今一度見に出かけたとのちになって僕に話しておりましたが、しかし、そのお手本の正体が錦絵だったか押絵だったか。又、それがどこに在ったものやら、そんな事は一度も話したことがありませんので、僕も今だに不思議に思っております。

 それに皆様も御承知か存じませぬが、父はよく女に化けて旅行する癖がありましたそうで、ジミな十徳を着て、お高祖頭巾こそずきんを冠って、養生ようじょう眼鏡をかけますとチョットしたお金持ちの後家ごけさん位に見えましたそうで、興行中でも何か気に入らぬ事がありますと、そんな風にして姿を隠して、太夫元たゆうもとが困っているのをすぐ傍から見ていて面白がったりしたそうです。ですからその時の旅行もキットそんな姿で汽車に乗って行ったのでしょう。父の姿を見かけたものは一人もなかったので、この衣裳のお手本の正体ばかりは、とうとうどこにあるのかわからず仕舞じまいになってしまいました。

 そのうちに、その春興行の前後から父は眼に見えて健康を損ねて来ましたので、仕立屋なぞは衣裳のたたりだなぞと蔭口を云っていたそうですが、もともとひよわな体質なのに無理な旅行なぞをしたせいでしょう。そんな秘密の旅行もフッツリと止めてしまいまして、舞台に立つ時のほかは静養ばかりしながらやっと昨年の春まで持ちこたえて来たのです。

 一方に僕もまた親ゆずりの病身者で、おまけに早くから母に別れた牛乳育ちの弱虫だったもんですから、父から伝えられました事は大抵口伝くでんばかりと云っていいのでした。本当の仕込みは伯父さん(芝猿丈しえんじょう)と築地つきじのお師匠さん(藤田勘十郎氏)のお蔭なのですが、それとても、身体からだが弱いために本当の勉強が出来ておりませんので、トテモお恥かしい訳なのです。

 そんなところへ今度のお芝居は父の追善のためというので、皆様の一方ならぬお引立てを受けまして、舞台に立たせて頂きますばかりか、夢にも思いがけなかった大役の御注文が出ておりますことを、まだ熱が出て寝ておりました僕の枕元に伯父が駈けつけて来て知らせてくれました時はスッカリきもつぶしてしまいました。初めのうちは、いつもの伯父の癖で、僕をカラカッているのだとばかり思って、いい加減な返事をしながら笑っておりましたが、そのうちに八丁堀の大旦那様(大沼氏)や平川町の先生(紫紅しこう氏)方がお見えになって、いよいよ本当だとわかりますと僕は思わず手放しで泣き出してしまいました。そうしてこのお芝居が済んだら、あとはどうなっても構わないつもりで稽古を初めたのですが、都合のいい事に父も僕も心もちヒョロ長い方で肩幅から何からよく合っていますので、衣裳の方はあまり手を入れずに済みました。

 しかし何しろこの扮装こしらえは総体で十三貫目もありましてシャグマだけでも一貫目近くあります。それをまだ芸も身体もコンマ以下の弱虫が着るのですから、平生ふだんだと立ち上るだけでも大変なのですが、それでも生命いのちがけの女の気もちになって舞台に出てみますと、不思議なくらい楽に動けますので、これは大方亡くなりました父の霊が衣裳に乗り移って軽くしてくれるのだろうと思っております。云々うんぬん


 私はこの時、この記事の上に突伏しまして、どんなにか泣きましたことでしょう。

 私のお母様の押絵を御覧になった貴方様のお父様が、それほどまでに牡丹と蝶々の着付けを大切にかけてお用いになりました、そのお心のウラをお察ししました時に、私はもう立っても居てもいられぬようになりました。

 中村半次郎様と私とは、お話にきいた事のある夫婦児めおとごだったに違いない。一人はお母様に似て、一人はお父様に似た双生児ふたごだったに違いない。そうしてお母様は私達二人をお生みになると間もなく、お父様に知れないように男の子の方を本当のお父様の処へお遣りになったので、そんな事を何もかも引き受けてお手伝いしたのは、あのオセキ婆さんだったに違いない。そうと考えるよりほかに考えようがないのをどうしましょう。

「ああ。中村珊玉様……あなたはそれほどまでに私のお母様を……そうして又私のお母様も……」

 と叫びかけて私はハッとしながら、自分の手で自分の口を押えました。

 今から考えますと私はどうしてこの時に発狂しなかったのでしょうと不思議に思われる位で御座います。

 いいえ。私はそれからのち暫くの間、発狂していたのかも知れませぬ。その遅くに岡沢先生のところのお湯殿で、もう二度と見ない決心をしておりました鏡の前に丸一年ぶりに坐りまして、その中に坐っておられるお母様の顔を見つめながらいつまでもいつまでも涙を流しておりました私の姿を、もしお兄様が御覧になりましたならば、きっと気が変になったものとお思いになったでしょう。

 お兄様……ああ……おなつかしいお兄さま……。そう申し上げてはわるいのかも知れませぬけれども、どうぞおゆるし下さいませ。私はそのから貴方様を私のタッタ一人のお兄さまときめてしまっていたのですから。そうしてもしホントのお兄さまでおいでにならないのでしたら、そのホントのお兄さまよりももっともっとおなつかしい大切の大切の秘密のお兄様と思って恋い焦れながら死んで行きたいと、そればかりを神様にお願いするようになりましたのは、そのからの事で御座いましたから……。

 そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラとたおれそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思い切り白くお化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。

 それを奥様が御覧になって、

「マア。トシ子さんたら。何て慌て方でしょう」

 とお笑いになりながら髪結かみゆいさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中はねむってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われました。

 それから故郷を出ますときに柴忠さんのお嬢さまから頂いた一張羅いっちょうらの着物と着かえまして、先生御夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしましたためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗っております間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりましたせいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。

 お兄様が阿古屋にふんして出てお出でになりましても、同じように睡くて睡くてボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼をみはっておりました苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだそうで、その悩ましいお姿が、琴責めの時にたいそうよくうつったとの事でしたが、私はただ、その白いお下着の襟に刺してありました銀糸ぎんしの波形の光りを不思議なくらいハッキリとおぼえておりますだけで、そのほかは白いお顔と、赤いお召物とが、ボーッとした水彩画のように眼に残っておりますばかり……筋なぞは一つもわからないままで御座いました。そうして、家に帰りましてから、

「面白かったか」

 と先生に聞かれましても、何一つお答えが出来なかった時の恥かしう御座いましたこと……。

 それでも私は、とうとう自分の病気を隠しおおせました。

 この胸のきずを、お医者様に見られる位なら死んだ方がいい。……イイエ。私はこの病気がだんだん非道ひどくなって死ぬ時が近づいて来るのを待ちましょう。そうしてあの世で待っておいでになるお母様の処へ行って、思い切り抱きついて泣きましょう。ほかの事はみんな違っていても私のお母様だけは私の本当のお母様に違いないのだから……と、そんな風に思い込みまして、ともすれば熱のために夢のような心地になりかけますのを、唇が痛くなるほど噛みしめて我慢しいしいそのあくる日も、その又あくる日も無理やりに学校へ行ったので御座いましたが、そのうちにいつからともなく不思議と病気がなおってしまったので御座います。これはおおかたお兄様に是非とも一度お目にかからなければなりませぬ運命を、私が持っておりましたせいでしょうと思いますけれども……。

 けれども、その時の私は何故この病気も癒ったのだろうと、つくづく天道様てんとうさまうらんだことで御座いました。

 それからのちの私は「不義者の子」という大きな札をホントに間違いなくピッタリと貼りつけられたように思って仕舞ったので御座います。日の目を見ることさえも恥かしく思いながらその日その日を送っていたので御座います。

「ああお母様。あなたは私を助けたいばっかりに、あんな嘘を仰言った」

 とそう思いながら涙にくれた事が幾度ありましたでしょう。中村とか、菱田とかいう文字を見かけますたんびに、私の弱い心はどんなにかハラハラと波打ちましたことでしょう。ほんとに失礼この上もない事ですけど、そのような文字が眼に這入りますたんびに私はすぐに「不義」という文字を思い出すので御座いました。時折りは、いつかしらず歌舞伎座の方を向いて歩いておりますのに心付きまして、何となく気がとがめますままにフイとほかの町すじへれて行きました。その気恥かしう御座いましたこと……。

 けれども、そのうちに暑中休暇が参りますと私は又、思いも寄りませぬことで、このような悲しい、浅ましい悩みから救われるようになりました。それはずっと前から岡沢先生の御書斎に置いてありました昔の八犬伝の御本を、何気なく引き出して開いて見てからの事で御座います。

 私はそれこそホントに何の気なしで御座いました。ただ、永い日のつれづれに二階の窓からお隣りの屋根を見ておりますうちにフト、芳流閣の押絵を思い出しまして、信乃と現八は何故あの高い屋根の上で闘わなければならぬのでしょうとチョット不思議に思いましたので、その絵の描いてある処を探し出して前へ前へと読み返して行きますうちに、いつの間にか、その話のおもしろさに釣り込まれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちに一番初めに立ち帰りまして、八犬伝の全体の女主人公になっておられる伏姫ふせひめ様が夫と立てておられるふさという犬に身を触れずにみごもられた……というお話の処まで読んでしまいました。

 そのお話につきましては作者の曲亭馬琴という方が昔からのいろいろな例を引いて、さもさも本当らしく書いておられるのでしたが、それを読みました時の私の驚きは、まあどんなで御座いましたでしょう。申すまでもなくその時まで私自身には、そのような事について何の知識も持たなかったので御座いましたが、それでもこの世にはキットそんな事があり得るに違いないという事をその時にどんなにか固く信じましたことでしょう。お母様のお言葉の秘密を解く鍵は、このお話のほかにないと思いまして、どんなにか夢中になって喜びました事でしょう。そうして、なおも先の方を読んで参りますと、その八つ房という犬の思い子となって生れた八犬士の身体からだには、その父の犬の身体についていた八ツの斑紋が一ツずつ大きなほくろとなってあらわれて、親子のしるしとなっていたという事まで詳しく書いてあるでは御座いませんか。

 それは私にとりまして、それこそ眼もくらむほどの奇蹟的な喜びで御座いました。われと胸をシッカリと抱きしめて、時々は涙を流してまで溜め息をしいしい読み続けたことでした。

 ――男と女とが、お互いに思い合っただけで、その相手によく似た子供を生んだり生ませたりすることが出来る――

 ……まあ、何というステキな子供らしい空想で御座いましょう。

 けれどもその時の私には、そのような事が本当にあり得なければならぬとしか思えないので御座いました。そうして、それからのちの私は、そんな事実が本当にあることかどうかを、たしかめようと思いまして、毎日のように上野の図書館に行きました。むずかしい産科の書物や心理学の書物を何十冊ほどめくら探りに読みましたことでしょう。図書館の人はおおかた私が産婆の試験を受けているとでも思われたのでしょう。そんな書物の名前を色々教えて下さいましたので私は心から感謝しておりましたが、今から考えますと可笑おかしいような気も致します。

 けれども、そのような不思議なことを書いた書物はなかなか見当りませんでした。そればかりでなく、生れて初めていろいろな事を知りますたんびにビックリする事ばかりで、人中ひとなかでそんな書物を読んでいるのが気恥かしさに、図書館行きを止めようかと思った位で御座いましたが、そのうちに遺伝の事を書いた書物を何気なく読んでおりますと、私は又、ビックリすることを発見致しました。

 それは「女のは男親に似易にやすく、男の児は女親に似易い」ということを例を挙げて証明した学理で御座いました。

 それを読みました時に私は身体からだ中が水をかけられたように汗ばんでしまいました。そうしてせっかく喜び勇んでおりました私の心は又も、石のように重たくなってしまいました。

「お兄様と私とはやっぱり不義の子だ。そうしてそれを知っているのはこの世に私一人だけ……」

 そう思いますにつれて、私の眼の前がズーと暗くなって行くので御座いました。

 それからのちの私の心は、もう図書館に行く力もない位よわりきってしまいました。御飯さえ咽喉のどを通りかねるようになりまして、ただ、岡沢先生御夫婦に御心配をかけないために無理からお膳についているような事でした。

「このごろトシ子さんの風付ふうつきのスッキリして来たこと……それでこの東京に来た甲斐かいがあるわ……ネエあなた……」

 と云ってお二人からめられたり、冷やかされたりしました時のつろう御座いましたこと……。

 けれども、それでもまだ私の心の底に、あきらめ切れない何かしらが残っておったので御座いましょう。時々思い出したように上野の図書館に参りましては、医学に関係しました不思議な出来事や、珍らしい事実を書いた書物を、あてどもなく読み散らしておりますうちに又も、思いもかけませぬ書物から大変なお話を見つけ出しまして、ビックリ致したので御座います。

 その書物を書かれましたのは、その頃もう亡くなっておられた医学博士の石神刀文いしがみとうぶんという方で、たしか明治二十年頃に西洋の書物から飜訳なすったものと、おぼえております。題名は「法医学夜話」と申しますので、その中には昔から今日までの間に、法医学上の問題になりました色々な不思議な出来事が昔風の文章で面白く書いてあるので御座いましたが、そのおしまいの方に次のようなお話が交っておりました。その書物はもうどこの本屋にもないとの事でしたから、私はそののち、今一度図書館に通いまして、そのお話のところだけを書き写して、お兄様のお写真やお話の記事と一緒に肌身離さず持っておりましたので、お読みにくいか存じませぬが、そのままここに挟んでおきます。


     法医学夜話(石神刀文氏著)


       第五章 人身の妖異 その一 姙娠奇談

 人身の妖異、その他に関する法医学上の興味ある挿話もまた決して珍らしからず。中にも最も人の意表にづるものあるは姙娠に関する奇談にして、到底コンモンセンスにては判断し得べからざるもの多し。

 その第一にかかぐべきは昔(西暦紀元前三百七十年前後)希臘ギリシャの国の一王妃の身の上に起りし奇蹟的現象なり。

◇訳者いわく=うらむらくはこの原文には、その王と王妃の名を明記しらず。当時希臘国内は雅典アテネ市を除くのほか、数個の専制的君主国が分立しおりしを以て、この事件の起りしもその中の一国なりと推測せらる。

 その王妃は冊立さくりつ後間もなく身ごもり給いて、明け暮れ一室に起臥しつつ紡績と静養とを事とせられしが、そのへや楣間びかんには、先王の身代りとなりて忠死せし黒奴こくどの肖像画がただ一個掲げあり。その状貌あたかも王妃の臥床を視下みおろしつつ微笑を含みおれるが如くしかり。王妃も亦床上に横たわりつつ、所在なき折々はその黒奴の肖像を熟視しおられしが、やがて月満ちて生れし孩児がいじを見れば、眉目清秀なる王のたねと思いきや、真っ黒々の黒ん坊なりしかば王妃の驚き一方ひとかたならず、そのまま悶絶して息絶えなむばかりなりしはもありなむ。

 然るにくと知りたる王の驚愕と憤激も亦一方ならず。直ちに兵士に命じて王妃を監禁すると同時に、当時召し使い給いし黒奴をことごとからめ取って獄舎に投じ、一々拷問にかけ給いけれども、もとより身に覚えなき者共の事とて白状する者一人もなく、つい由々ゆゆしき疑獄の姿とぞなりにける。

 然るに又、その当時、雅典アテネ市に、ヒポクラテスとなん呼べる老医師あり。その徳望と、学識と、手腕と、共に一世に冠絶せる人物なりしが、この事を伝え聞くや態々わざわざ王の御前ごぜんに出頭し、姙娠中の婦女子が或る人の姿を思い込み、又、或る一定の形状色彩のものを気長く思念し、又、凝視する時は、その人の姿、又は、その物品の形状色彩に似たる児の生まるべき事、必ずしも不合理にあらざるべきを、例を挙げ証を引いて説明せしかば、王のうたがいようやくにして解け、王妃と黒奴との冤罪えんざいも残りなく晴れて、唯、の黒奴の肖像画のみが廃棄焼却の刑に処せられきとなん。これ即ち法医学の濫觴らんしょうにして、律法の庭に医師の進言の採用せられし嚆矢こうしなりと聞けり。

◇訳者曰く=支那に伝われる胎教なるものも、このヒポクラテスの見地より見る時はあながちに荒唐無稽の迷信として一概に排斥すべきものに非ず。あるいは、最も高等なる科学的の研究手段によりてのみ理解され得べき、深遠微妙なる学理原則のそのかんに厳存せるものなしと云うべからず。心すべき事にこそ。

 又、次に掲ぐるは、今より約二十年前(西暦一八六六年)我英国の法曹界に於て深甚なる注意の焦点となり、海外の専門雑誌にも伝えられし事件なれば、或は記憶に新なる読者もあるべけれども、未知の人々のために抄録せむに、蘇格蘭スコットランドの片田舎(地名秘)に住める貴族にして赤髪富豪のきこえ高きコンラド(仮名)従男爵というがあり。年四十に及びて数マイルを隔てたる処に在る「鷹が宿」という由緒ある家柄に生れしアリナ(仮名)と呼べる若き女性を夫人として迎えけるが、この女性は元来絶世の美人なりしにも拘わらず、何故なにゆえか八方より申込み来る婚約を悉く謝絶しおり。尼となりて修道院に入らむと、志しおりしものなりしを、八方より手を尽して、辛うじて貰い受けしものなりければ、従男爵の満悦たとうべくもあらず。身方みかたの親戚知友はもとより新夫人の両親骨肉および「鷹の宿」の隣家に住める医師、兼、弁護士の免状所有者にして、篤学とくがくの聞え高きランドルフ・タリスマン氏迄も招待して、盛大なる華燭の典を挙げ、附近住民をして羨望渇仰の眼をみはらしめぬ。

 さる程にアリナ新夫人はやがて、従男爵のたねを宿しつ。月満ちて玉の如き男子を生み落しけるが、そのの顔貌一眼見るより従男爵の面色は忽然こつぜんとして一変し、声を荒らげて云いけるよう。

「吾家には代々かくの如き漆黒の毛髪を有せるもの一人も生れたる事なし。又汝が家の系統にもさる者なきは人の知るところにして、汝を吾が妻として迎えたる理由も亦、その点に懸って存するを知らざりしか。察するところ汝は、何人なんぴとか黒髪を有する男子と密通してこの子を宿せしものに相違なし。余はかくの如き児を吾が家の後嗣として披露するあたわず、く疾くこの児を抱きて親里に立ち去れ。しかして余の責罰の如何に寛大なるかを思い知れ」

 とぞののしりける。然るにこれに対してアリナ夫人は不思議にも一言の弁解をも試みんとせず。その深くくだんの黒髪の孩児がいじを抱きて秘かに産室をよろぼいで、跣足はだしのまま数マイルを歩行して、翌日の正午親里に帰り着きしが、家人のすきを窺いて玄関横の応接間に入り、その正面に掲げある黒髪の美青年の肖像画の前に来り、石甃いしだたみの上にたおれ伏したるまま息えぬ。程経ほどへてこれを発見せし実父母は驚駭きょうがいくところをらず。直ちに隣家のタリスマン氏を迎え来り、水よ薬よと立ち騒ぎけれどもその甲斐かいなく、唯、黒髪の孩児のみが乳を呼びつつ生き残りけるこそ哀れの中のあわれなりしか。

 その後、この事件は訴訟問題となり、アリナ夫人の実父とコンラド従男爵とは法廷に於てアリナの貞操に関し黒白こくびゃくを争うこととなりしが、従男爵は、その黒髪青年の肖像画と同じ人物の存在を固く主張せしに対し、アリナ夫人の実父の味方となりし医師、兼、弁護士ランドルフ・タリスマン氏は頑強なる抗弁を試みて一歩も退かず。結局同氏は態々わざわざ仏国に渡りて件の肖像画を描きし画工を伴い来り、その画像が元来英国に於て描かれしものにあらず、西班牙スペインの一闘牛士の死亡したるに依り、その愛人の好みに任せて狩猟服を着たる姿をがい画工が執筆せしものなるが、評判の傑作なりしためその製作の途中に於て盗難にかかり、転々して英国に渡りたるものなるを以て、細部に於て未完成なる部分が多々あるむねを一々その画工に指摘せしめつ。次いでタリスマン氏は、画面上に印せられたる新旧幾多の接吻頬ずりのあと、涙の痕跡、および画面に身を支えたる指のあとと、アリナ夫人の身長指紋その他が完全に一致するところより、アリナ夫人がかねてよりこの画像に叶わぬ恋心を捧げおりし事を立証し、同夫人がかつて尼寺にらむとせし心理の真相を明白にして、その貞操の肉体的に純潔不二なる事を各方面より詳細に亘りて論断し、更に進んで前掲、希臘ギリシャ国、某王妃の例を挙げて、かかる事例が存在の可能なる事を説破したるのち、一段と語気を強めて云いけるよう、

「近く、吾が英国に於ても遺伝学上、かかる現象の存在し得ることを証明し得べき実例あり。最近ラッドレー附近の一種馬場に於て飼育せられし一牝馬ひんばは、今より三年以前に見世物用の斑馬はんばと交尾して一匹の混血児あいのこを生み、飼主をして奇利を博せしめし事あり。然るにそれより二年後の昨年度に於てがい牝馬を普通の乗馬と交尾せしめたるに、奇怪にも、以前の配偶たりし斑馬と同様の斑紋を臀部より大腿部にかけてとどめし仔馬を生みたるを以て、現在斯界しかいの専門家、及び、遺伝学者間の論議の中心となりおり、しかも這般しゃはんの奇現象を説明し得べき学説のうち、最も権威あるものとして、他の諸説を圧倒しつつあるは目下のところ唯一つ、

 ――生物の親子の外貌性格の相似は、その親の心理に潜在せる深刻なる記憶力が、その精虫と卵子とに影響したるものにほかならず――直接の父母以外の、他人に酷似せる子が、姦通の事実なくして生るる事あるはこの道理に依るもの也――

 というに在り。故に、吾国の過去に於ける幾多の裁判が、その当時の最も有力なる学理学説によりて決定せられし先例に依る時は、この訴訟もまた、この説を真理と認めて断定せらるべきものなる事を、余は断乎として主張し得るもの也。すなわちこの事件は、前述の如き心理状態に在りて、結婚を忌避しつつありしアリナ嬢を、従男爵が追求して謝絶の辞に窮せしめ、強いて同棲を承諾せしめしより起りしものにして、この婦人のこの画像に対する精神的の貞操を破らしめし罪はむしろ従男爵側に在りと云うべし。アリナ嬢は、何事も云うあたわずしてし、何事も云う能わずして死せり。その貞操の高潔なる、その性情の純美なる、これをして疑うべくんば、天下いずれのところにか正義を求めん。これをしも同情せずんば、地上いずれのところにか人道を認めん」

 と涙をふるって痛論せしかば、満場せきとして云うところを知らず。唯、証人席に在りしアリナの実父母が歔欷きょきするあるのみ。遂にこの訴訟は従男爵コンラド氏の敗訴となり、アリナの霊と、従男爵の血によりて生まれたる孩児がいじの扶助料、及び、その実父に対する慰藉料として巨額の財産を分与して結着を見たりとなり。

 これをもってこれを見れば、古来貞操に関するうたがいを受けて弁疏べんそするあたわず、冤枉えんおうに死せし婦人の中にはかかる類例なしというべからず。つ、この判例と学説とを真理と認めて類推する時は、男子にても曾て恋着し、もしくは記憶せる女性に似たるを、現在の配偶に生ましむる事が、あり得べき道理となりきたるを以て、場合によりては男女間に於ける精神的の貞操の有無をも、形而下の諸現象、たとえばその児に現われたる特徴等によりて、具体的に証明され得るに到るべく従って、法律上に於ける貞操の字義が現在よりも遥かに狭少厳密となり、道徳上より見たる貞操の意義と一糸相容れざるに到ると同時に、一方には這般の学理を逆利悪用する姦通の隠蔽事実が、陸続りくぞくとして現出する時代の近き将来に於て来り得べきことも、予想するにかたからざる事となるべし。

◇訳者曰く=以上を要するに、生物界に於ける霊意識の作用の玄怪不可思議にして現代に於ける科学知識のく追随補捉し得べきものに非ざるは、単に姙娠に関する前記二三の特例に照すもかくの如く明瞭なる事然り。いわんや、かかる微妙なる事象を一片の法律の条文、又は浅薄なる常識の判断に任せて、深遠なる医学的の研究を全然度外視せること吾が国の法廷の如くなる時は、その危険、その不安果して幾何いくばくぞや。更に況んや、幾多の無辜むこを罰して顧みざる非人道に想倒する時は、烈日のもと寒毛樹立かんもうじゅりつせずんばあるべからず。欧米先進諸国に於ける法医学の発達と、その社会的権威の偉大なる、真に羨望に堪えたりと云うべし。

(以下を省く)


 それからちょうど夕方の事でした。ずっと遠くの駿河台の方からニコライ堂の鐘の音が聞こえますと間もなく、図書館の人が窓を閉め始めましたので私はやっと気が付きましたが、その時にはもう広いへやの中に私一人だけしか残っていないので御座いました。

 私はその書物を係の人にお返ししますとそのまま、うなだれて外へ出ましたが、寛永寺の御門の前の杉木立に近い人気の絶えた処まで参りまして、とある大きな木の根方に坐りますと、ありたけの涙を絞りながら泣いて泣いて泣きつづけました。

 その時の私の心持を、どう致しましたならばお兄さまにお伝えする事が出来ましょう……。

 もしこのような事があり得るものと致しましたならば、お兄様と私の身の上こそこの上もないよいお手本では御座いますまいか。

 あなたのお父様と、私のお母様とは唯一眼で恋に落ちられました。そうしてお互いにその恋しい人の姿を、胸の底に深く秘められたまま、寝ても醒めてもお忘れになりませんでした……その思いがお兄様と私の姿にあらわれて、お二人の思いを遂げるためにこの世に生き残っているのでは御座いますまいか。

 こう思い当りました時、私はこの小さな胸が押し潰されてしまって、眼の前が真っ暗になりました中に、二つの青白い鬼火がもつれ合って行くのがホンノリと見えたように思いました。

 けれども又気を取り直して、今一度よくよくあと先を考えまわして見たので御座いましたが、考えれば考えるほど思い当りますことばかりが、あとからあとから出て来るので御座いました。

 あなたのお父様に似ております私の姿を、朝に晩に見ておられました私のお母様はきっと、こうした不思議について何かしら、心の奥深くに思い当っておいでになったに違いないのでした。あの櫛田神社の絵馬堂に奉納されました額ぶちの外題げだいに「三国志」をと仰有った柴忠さんの御註文を避けて、わざと「芳流閣上の二犬士」の場面をお作りになった、お母様のお心の底には、ついこの間、私が伏姫ふせひめ様のお話を見ました時に思い当りましたのと同じような驚きと喜びが、云うに云われぬ母親の悲しみと一緒に、人知れず潜み隠れていなかったとどうして考えられましょう。その頃の福岡の士族の家庭にはオキマリのように一部ずつ備え附けてありました八犬伝のお話を、お母様だけが御存じなかったと、どうして思われましょう。……そうしてそのような恐ろしい、悩ましい不思議さを明け暮れ胸に秘めておいでになったればこそ、お母様はあのように思い切って、お父様の御成敗をお受けになったのではないでしょうか。私がまさしく、うちのお父様の血を引いた娘であることを御存じになりながらも、そうした不思議を思い当っておいでになったればこそ、あのように何一つ、お申し開きをなさらなかったのではないでしょうか……。

 ああ。思うも気高い……おそろしい、お母様の純真なお心の力……芸術の道と、人間の道と、そうして、のがれようもなく落ちておいでになった恋の道の三つに、霊と肉を捧げつくして、あえなくも世をお早めになった神聖なお母様……可哀そうなお母様……いじらしいお母様……むごい……悲しい……おなつかしい……。

 こう思いますと私は気がちがいそうにたまらなくなりまして、フイと顔を上げました。するともう日がトップリと暮れておりまして、沢山の落ち葉が、真白な塵と一緒に恐ろしい勢いでゴーゴーと渦巻きながら、私の方へ走って来るようでしたから、私はやっと立ち上りまして谷中の方へ帰りかけました。泣いて泣いて泣きつくしましたあとのからっぽのような気もちになりながら……。

 けれども、そうして星空の下を吹く烈しい秋風の中をフラフラと歩いて行きますうちに、私は又も世の中が次第と明るくなって来るように思い始めました。そうしてその夜は涙に濡れたまま、夢一つ見ませずに安々と眠りましたが、あくる朝は、いつもよりもずっと早く起きまして、先生のお宅の裏や表のお掃除を致しました。

「私はもう一生涯結婚しますまい。お兄様はまだ何も御存じないのですから……この秘密をこちらから進んでお打ち明けする訳には行かないのですから……。ほかの方と幸福な家庭をお作りになるのかも知れないのですから……。私はそのお邪魔をしないように……私というものがこの世に居りますことを、お兄さまに絶対にお知らせしないようにして、芸術のために身を捧げましょう。お母様にけないように清浄な一生を送りましょう」

 といく度か思い思いしては青い青い澄み渡った朝の空を仰いだことで御座いました。

 それからのちの私は、ほかから来るいろいろな誘惑や迫害とたたかいながら、心の中で、かような決心を固く固く守り続けて行くばかりで御座いました。

 音楽学校を卒業致しました時に、岡沢先生から洋行のおすすめを受けました時も、お気にさわらないようにしてお断り致しました。……本当を申しますと、飛び立つような思いがしないでは御座いませんでしたが、万一そのために私の写真が新聞に載りまして、お兄様のお眼に止まるようなことがありはしまいかと思いますと、何となく空恐ろしい気持ちがして躊躇されたので御座いました。もしか致しますと、これもお兄様と私とにまつわっておりました、不思議な運命のしわざかも知れませんでしたけれど……。又時たまには、先生を通じて申込んで参りました縁談にも同じようにしてお断り致しました。私のこの胸の疵痕きずあとを、お兄様以外のお方にどうしてお眼にかけることが出来ましょう……と思いまして……。

 私はそうして、ただ明けても暮れてもピアノばかり弾いているので御座いました。ちょうど日清戦争のあとで、西洋音楽が一時パッタリと流行はやらなくなりまして、軍楽隊と、唱歌だけしか残っていないような有様で御座いましたが、ちっとも構いませずに大学のケーベル先生のお宅や宮内省の山内先生のお宅へ日参致しておりました。新しい楽譜を写しては弾き、写しては弾く楽しみに、夢中になろうなろうとしておりました。

 けれども、そのピアノのキーの白いなめらかな手ざわりに触れるたんびに私は、ともするとお母様のなつかしい白い肌を思い出しまして、熱い涙を落すので御座いました。又はその黒いキーの光りを見る時、お母様がつけておいでになったオハグロの美しさをいつもいつも思い出しました。そうして又、岡沢先生のお庭に咲いているダリヤや、サルビアの赤い花の色を見ますと、あのお母様のうしろの白い壁についておりました血のしたたりを思い出しまして、ともすると私の心は物狂おしくなるので御座いました。

 そんな物思いをくり返しくり返し致しておりますうちに、あなたのお父様のお心がお兄様のお姿となって、あらわれておりますのと同じように、私のお母様の思いが私のミメカタチとなってこの世に残っておりますことは、もう疑うことが出来なくなりました。そうして、あなたのお父様と私のお母様が、死ぬまでお隠しになった恋が、お兄様と私とによって顔容かおかたちを入れ違えたままに遂げられなければならぬ運命が一刻一刻とさし迫って来ておりますことを、私は毎日毎日ハッキリと感ずるようになって参りました。


 ああ。私は、どう致したらよろしいので御座いましょう。

 世間では私をあなたのお父様のお血すじを引いたものと信じ切っているので御座います。もしお兄様と私とが御一緒になるような事になりましたならば、世間の人は何と云うで御座いましょう。キットあのいまわしい兄妹きょうだいの恋として、そのままには許さないで御座いましょう。

 お兄様と私とがホントの兄妹でないという証拠に、あの古い書物のお話を例に引きましても信じて下さる方が何人居られるでしょう。

 又は櫛田神社の絵馬堂にかかっております二つの押絵の人形が何の証拠になりましょう。かえってお兄様と私とを世にものろわれた男女にしてしまう役にしか立たないで御座いましょう。

 そればかりでなく、その時の私にはこんな事も考えられたので御座いました。

 お兄様はホントウはもうズット前から、お父様にこのお話をお聞きになっているのではないかしら……この事については私よりもずっと詳しく御存じなので、それを表向きには隠しておいでになりながら、お心のうちではやっぱり私と同じような思いに悩んでおいでになるのではないかしら。女嫌いという評判を平気で立て通しておいでになりますのも、そんなお心もちから出たことで、ホントウは人知れず、私の事を思っておいでになるのではないかしら……私の事をいろいろとお探りになっているのではないかしら……。

 そうして万に一つお兄様が私をお見つけになりました時に、殿方の気強いお心から、そんなことはちっとも構わぬと仰有って、直ぐにも只今の御名誉地位をお振り棄てになって私を救いにお出でになるようなことがありはしまいかしら……。

 もしそのような場合になりましたら、私はどう致しましょう。この背中から胸へ抜けとおっております恐ろしい疵痕を、私はどうしてお兄様にお眼にかけることが出来ましょう。そうして、それをしも御承知の上で、お構いにならぬとしましても、私はもうその頃から、一生涯治る見込みも御座いませぬ難病に取りつかれている事を、よく存じておりましたのをどう致しましょう。

 私はこの病気を隠しとう御座いましたばっかりに、何もかも忘れて、一心に勉強をつづけておりましたのです。ただ気もちばかりで生きておりましたのです。そうしてそんなような気もちを持ちつづけて行きますうちに、いつからともなく、亡くなられました私のお母様が今わのきわにお残しになったあの謎のお言葉の、あとの半分の意味をウッカリ悟ってしまっていたので御座います。

「私は不義を致しましたおぼえは毛頭御座いません。けれども……この上のお宮仕えは致しかねます」

 とキッパリお父様に仰有った、そのお母様のお言葉の中には、その時のお母様が、やはり私と同じような病気にかかって私と同じような気もちでお仕事に熱中しておいでになった、絶望的なお心持ちが堪えられぬ程痛々しく一パイにこもっていたに違いありませぬ事を、身にしみじみ悟っていたので御座います。

 何をお隠し致しましょう。私の家は代々こうした病気に呪われておりましたために縁組みをするものがないと云ってもよかったので御座います。ですからお母様は、ただ私一人が幸福になりますように……そうして私一人の幸福をお守りになりたいために、あのようなお言葉を残されて、世をお早めになったものとしか考えられないので御座います。

 そのお母様と同じ病毒で一パイになっておりますこの身体からだを、どうしてお若い御病身のお兄様に捧げることが出来ましょう。そのためにお兄様の御名誉と芸術とを捨てていただく事が、どうして出来ましょう。

 そう思います度に私の胸は、いつも張り裂けるようになりました。拭いても拭いても落ちる涙をピアノのキーの上から払いけながら、ソッと蓋をおろしまして、その冷たい板の上に、熱のある頬をシミジミと押しつけました事が幾度いくたびで御座いましたろう。


 けれどもお兄様。私はもう只今となりましては何もかもわからなくなってしまいました。

 ただ……お兄様がこの手紙を御覧になりましたならば、すべてがスッカリおわかりになりますことと……そればかりを心頼みに致しまして、ようようにここまでしたためて来たので御座います。

 それは何故かと申しますと、お兄様はもしや、お兄様の本当のお母様を御存じなのではないかと思われますからで御座います。そうして、それと一緒に、お父様の御病気のホントの原因も御存じになっていることと思われますからで御座います。

 そうして又、もしも、そんな事が御座いませんで、お兄様はそのような事についてホントウに何一つ御存じないものとしますれば、あなたのお父様は、やはり私のお母様とおんなじように、唯一つの恋をお胸に秘められたまま……お兄様にもお明かしにならないまま……この上もなく気高けだかい一生をお送りになったお方に違い御座いませぬことが、たやすくお察し出来るからで御座います。


 どうぞおゆるし下さいませ。

 御病気の折柄をも構いませず、女心のせつなさに、こんなに長々とした事を御眼にかけましてさぞかしお読みづらくてお疲れの事と存じます。

 けれどもこの事をお打ち明けして、ホントの事を判断して頂くお方はこの世にお兄様お一人しか、おいでにならないので御座います。私はもう、このような秘密を胸に秘めております力がなくなりましたので御座います。唯一人、お兄様のお心におすがりするよりほかに致し方がなくなったので御座います。

 お兄様、もしお兄様が、ホントウに私のお兄様でおいでになりますならば私はお兄様のただ一人の妹として、生命いのちにかえてもお願い致します。

 看護婦さんたちの、それとないお話しを聞きますと、お兄様は、その後大変にお工合がよろしいとの事で、それだけ承わりましただけでも自分の病気が薄らいで行くように心強う御座います。どうぞどうぞこの上にもよくおなり遊ばして、スッカリもとのようにおなり遊ばすまでは、私の事を出来るだけお忘れ下さいまして、お心静かに御養生なすって下さいませ。私はそればかりを心頼みに致しましてこの病院でお手当てを受けております。そうして生きておりますうちに、ただ一眼でも、お兄様のお丈夫なお姿を拝見したいとそればかりを神様にお祈り致しております。

 私はもうこの世の中で、お兄様の事を考えるよりほかには何の楽しみもなくなっているので御座いますから……。

 けれどももしかして、まだお兄様が御丈夫な御自由なお身体からだにおなりになりませぬうちに、私が亡くなりますようなことが御座いましたならば、済みませぬが唯一度でよろしう御座いますから私のお墓にお参り下さいまして、お出来になりますことなら多くの花よりも、あの花菖蒲をお手向たむけになって下さいませ。お母様がお斬られになった時に、お座敷の前に咲いておりました思い出の花で御座いますから……。

 どうぞどうぞお願い致します。決して御無理をなさいませぬように……そんな事を遊ばしたことがわかりましたならば、私は、その上の御無理をおさせ申しませんように覚悟致しているので御座いますから……。

 せめて、お兄様だけでも、御無事にこの世に生き残って頂きまして、お母様の芸術をこの世にあらわして下さいますようにと、そればかりをお祈りしているので御座いますから……。

 けれどももしそうで御座いませんでしたならば、お兄様と私とが、血を分けた兄妹きょうだいで御座いませんでしたならば……ホントウにあなたのお父様と、私のお母様の、せつないお心の形見で御座いましたならば……。

 ああ……私はどう致しましょう……。

 あなたのお父様と、私のお母様の恋は、世にも上なく清浄なもので御座いました。

 そうして永久に気高いもので御座いました。

 どうぞどうぞお兄さまと私の恋も、そのようにいつまでも気高く、清浄に、悲しくておわりますように……。

 今一度お眼にかかりたい……と思いますと、私は又しても狂おしい心地にせめられます。けれども、このような思いすらも、お二方ふたかたの恋の気高さに比べますと、お恥かしい、汚らわしいもののように思われまして……。

 思いが乱れまして、もう筆が進みませぬ。お名残なごり惜しう存じます。

あらあらかしこ

   明治三十五年三月二十九日

井の口トシ子より

     菱田新太郎様

           みもとに

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この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。